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MF橋本のガンバ流『哲学』 <中>主役生かす能力磨く

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横浜M時代の中村俊輔(右)と競り合うプロ4年目の橋本。2001年は、出場試合数がようやく2けたに達した

 橋本の祖父は、戦後間もない時期に存在したプロ野球・金星スターズを経営した橋本三郎。ただ、橋本自身は6歳年上の兄、紀郎がサッカーに夢中になると、幼稚園児のころからその輪に加わった。地元の大阪市阿倍野区で、小学生の間は点取り屋の俊足FWとしてならした。

 しかし、「プロ入りの夢は中学で消えた」と言う。G大阪のジュニアユースに入ると、周りは関西、大阪府選抜の選手ばかり。そんな世界と縁のなかった橋本の自信は吹っ飛んだ。練習よりも、学習塾へ通う方を優先した。

 G大阪はJリーグでいち早く選手育成の重要性に着目した。「Jリーグバブル」がはじけ、迷走期に入った1990年代半ば。十数人いた部長級以上を大幅に削るなど、大なたを振るう中、ユースなど下部組織だけは“聖域”とし、環境整備への投資を惜しまなかった。

 効果は目に見えて表れた。個性を伸ばす指導法と相まって、稲本潤一(独フランクフルト)、新井場徹(鹿島)、大黒将志(東京V)ら有望な若手が続々と集まった。

 ただ、橋本にとっては過酷な環境だった。ミスすれば、レベルの高い仲間から容赦なく罵声(ばせい)を浴びた。大阪府有数の進学校、天王寺高に通い、学業にも追われた。そんな中、目指したのは「周りは僕よりうまい。彼らを生かそう」とするスタイル。誰もが主役を目指す中、脇役の道を探った。

 その感性に驚いたのが、当時、ユース監督を務めた上野山信行(現育成普及部長)だった。「『僕がこうすれば、周りはどうなりますか』と尋ねてきた。常に2、3手先を考えていた」。いつしか、周囲と同調して動ける橋本独自の能力が芽生え、大阪市立大に進学した1998年、プロへの扉は開かれた。

 橋本をはじめ、今のG大阪を支える二川孝広、安田理大(みちひろ)も決して、その世代で断トツの評価ではなかった。共通するのは、下部組織の厳しい生存競争の中で、知恵とたくましさを身につけたことだ。いずれも、日本代表へ羽ばたいたことと無縁ではない。

 プロ1年目。フランス人のアントネッティ監督は、練習で足をけいれんさせた姿を見て、線の細さを嘲笑(ちょうしょう)した。しかし、翌年、考えを改めプロ初出場の機会を与えたのも、アントネッティだった。「君はまじめに練習し、あいさつをする」。橋本のスタイルが認められ始めた。

(平野和彦)

2008年12月20日  読売新聞)

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