<「英語が使える日本人」の育成のための行動計画>を文部科学省が掲げたのは03年春だ。中学・高校を出たら英語でコミュニケーションができ、大学卒は仕事で英語が使える--を目標に、目安は中学で英語検定3級、高校は準2級以上と。ああ、その道はるか。そして今度は小学校に英語、続いて高校は英語の授業を英語で、となった。先生は困惑しているという。
<ユウウツの限りです。私には通訳も何も出来やしないのですからね。大恥をかくのは明白な事です>。敗戦の秋、疎開先で太宰治は手紙に書いた。中退であれ元帝大生、文筆で飯食っていれば、地元民に「先生、アメリカさん何言ってんだ」と頼られよう。彼はおびえた。
実際英語教師には災難だったらしい。戦時中は「敵性語」で授業はなく、米国人に接したこともない。すぐ通じなくて当然だが、周囲の目、とりわけ教え子の視線はつらかったろう。
それから60年以上、何が足りなかったのだろう。
戦後「カム・カム・エブリバディ」のテーマ曲でラジオ英会話の草分けとなった平川唯一氏は、特に専門教育を受けた人ではない。岡山の農家に生まれ、16歳で出稼ぎの父を追い渡米。鉄道工員などをし、生きるための英語を学ぶ。戦前帰国、NHKに入り、敗戦時は天皇の詔勅を英語で放送した。英語を巡る懸命、変転の半生。人々を引きつけた温かく軽妙な会話指南の裏地はその積み重ねた苦労だろう。生き方と結びついた語学の真骨頂がそこにあると思う。
単に(といっても大変なことだが)ペラペラになるだけが目標では、国の<行動計画>は絵に描いた餅になるほかない。
毎日新聞 2008年12月30日 0時02分