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2008-12-29

「動物化」はいつまで続くか --メディアミックスの創造性

 秋葉原リナカフェなう。暇だ。誰も相手にしてくれない。だから文章を書く。家に帰ってもう一回検討する(俺の宿題)。aあと、ルーマンっぽい言葉を使っていますが、ルーマンの理論での使い方とは全く別です。

 2000年代は東浩紀を表す年代であった、といっても良い。彼の著作である「動物化するポストモダン」は一部の若手評論からはバイブル的な扱いを受けており、その影響力は2009年を目前に控えた今でも絶えることがない。

 しかしここで、私は改めて彼に問いたい。「本当にオタク達は動物化しているのか」と。今私はこの文章をリナックスカフェで書いており、従って彼の文章に直接触れることが出来ない。よって、彼の理論を詳細に巡ることは出来ないのであるが、「草稿」として、この文章を残しておく。

 東浩紀の議論はこうであった(と思う):「人々は<大きな物語>が失われたことで作品の背後にその物語の意味を見つけることが出来なくなり、その結果表層にあるキャラクターの要素を組み合わせて消費することで欲求を満たそうとしている(小さな物語への欲求)。これこそが、ポストモダンにおける『(シミュラークル的な小さな物語への<欲求>と(データーベース的な)大きな非物語への<欲望>、そして二者の乖離』というオタクの姿である。」しかし東の議論には重要な点が抜けている。それは、彼が「動物化」というのが現代に特有のものであったのかという観点、そして作品の「意味性」は失われてしまったのか、ということである。その点について考察していこう。

1. 動物化前期

人々は動物化する前、物語消費、つまり作品を一つの統一を有した物語として理解していた、という。その点について彼に異論はない。しかし、その物語はどのような物語(本稿では、であったのか、我々はそこから出発する必要がある。

 いわゆる「オタク第一世代」「オタク第二世代」といった「動物化前」の世代のオタク達が接した作品というのは、現代の作品とは大きく異なっている。そこではスターシステムが意味を持って受け入れられており、また「ガンダム」のように続編が永遠に続くものが愛されていた。全てのメディアにおいて、「続編系」と「スターシステム」が意味を持ち得ていたからこそ(そこに作家性をいれてもいいだろう。彼らは「手塚治虫」について語り、「富野由悠季」に関して議論した)彼らは作品についての多大な情報を与えられることになる。そして、情報は多大に与えられてこそ我々は作品に関して語ることを許される。要約すれば、この世代の人間が「動物化」せずにすんだのは、単に「大きな物語」が存在したからではない。作品と作品の連携がシステム/複雑性によって結びつけられており、その複雑性を「理解」するのには、適切な「解釈」が必要であったからである。

2. 精神分析の時代

第二世代が成熟し、第三世代が「エヴァンゲリオン」に熱中し始めた頃、「俗流精神分析」によって作品を語り出す人間が増えた。ここは既にスターシステムも続編系も存在しない時代ではあるが、物語を読み解くキイとして「精神分析」というツールや、「スノミズム」的な態度が多大に用いられた。オタク達は「俗流精神分析家」の語りを内面化することによって、受動的に作品を(意味を持ったものとして)解釈する受容することが出来る。確かに、アニメや漫画の世界に学術システムに属す「精神分析論」が持ち込まれたことは、オタク達に「俺たちをそのままにしてくれ」という感情をも引き起こした。しかしその行為自体が「精神分析」というツールによって作品が一つの結節点へと導かれるものであり、第三世代はそのおかげで「作品の持つ無意識」から「作品の意味」を描出するのに必要な全てを手に入れることが出来たのである。結果として、彼らは動物化しない道を選ぶことが出来た。

 しかし「俗流精神分析」は、90年代後半から急速に衰えていく。「精神分析」の流行は、一面では「作品の無意識」に重点を置くことで、我々に多大な情報を与えたが、その一方、「オタク内部」の「外部」に対する積極性は、この精神分析の衰えとともに途絶えていった。いや、衰えたのではなく、そのような「物語の観察方法」が内面化、一般化されてしまったといったほうが良いかもしれない。そしてそのことによって、彼らは作品を社会性に結びつけたり、作品に隠された内面を語ることができるようにはなったが、もはや「外部」から輸入すべき要素は何もなくなってしまった。「大きな物語」は、ここにおいてはもはや「大きな物語」は「幻影」としてその位置をとどめているに過ぎない状態に至る。

3. オタク第三・第四世代―動物化の世代

 オタク第三世代以降になると、「動物化」の傾向は強くなる。それは、「大きな物語」が失効したからではなく、学術システムから持ち込まれた分析手法が「陳腐」なものとなり、一方でキャラクタ性を強調したゲーム・アニメ・漫画が増え、作家性は失われ、またそれぞれの構造が複雑になりすぎた、という素朴な理由によるのではないか、というのが私の議論である。例えば「CLANNAD」というゲームについていえば、それは「分岐」を持ち、複数の結末が一つの世界に含まれているという、大変な複雑性を備えているものの、結局その複雑性は「各キャラクタの性格」という単純性に縮減されるしか、人間が理解する複雑性にまで縮減する方法がない。そしてまた、作品も「ストーリー性」よりも「キャラクタ性」を重視するようになる。物語はもはや重要ではなく、重要なのは登場人物である。これによって、登場人物がシミュラークル的消費に消費され、それがデーターベースに反映される、という事態が引き起こるのである。

 問題は「大きな物語」が失効したことにあるのではない。作品が「単純」になりすぎたこと、「キャラクタ性」が強調されたこと、学術システムとオタクが乖離したこと、作家性やスターシステムが終焉したこと、である。ここにいたって、彼らは「動物」的な消費しかすることができなくなってしまったのだ。彼らはその複雑性を縮減し、人間の手を離れた物語を再び手のうちに別の形で取り戻すために、「シミュラークル的な小さな物語の消費」の道を歩むことになったのである。

4. ポスト動物化世代―メディアミックスとオタク

 2000年半ばから後半にかけて、状況は一変する。「メディアミックス」が一つの流行となるのである。90年代から角川が先駆けて行っていたメディアミックス戦略は、ここにきて全盛期を迎える。

メディアミックスとは、一般的には「商業システム」、つまり一つの作品でより莫大な利益を生むために商業界によって作り出されたシステムだと思われがちである。しかし我々は今、この「メディアミックス」という展開そのものについて新たな定義を加えることにしたい。

 先に指摘したとおり、2000年代に入ると作品は「意味性」の問題から下り、キャラクタ重視の姿勢に転換した。その状態を指摘し、「存在しているのはキャラクターをデータベース的に消費する『動物的人間』である」、と指摘したのが東浩紀であった。しかし、私は今一度作品を物語概念に戻し、錯綜する複雑性を複数のメディア媒体を用いることで限りなく作品現実の世界観に近づける試み、としてメディアミックスを再定義したい。作品世界も我々の世界と同様、ある一定の定義、ある一定の叙述方法によって描写することは不可能である。キャラクタ性が重視される物語は、その情報が単純すぎるが故にそこから何らかの意味を見いだすことが出来ない。まさにそれが「データーベース的消費」を生むのであり、「大きな物語の失墜」が生むものではない。

我々はまだ「物語の意味性」、何らかの意味性に対する欲求を人間として捨てきることは出来ない。我々の人生にせよ、歴史にせよ、全ては「物語」であり、そこには何らかの「意味」がある。我々は意味を語ることなしに生活することが出来ない。まさに<欲求>として、人間の中に「意味を語る」ということが深く刻まれている。意味を語ること、すなわち大きな物語を求めることは、我々が日常的に用いている概念であり、それを完全に捨て去ることなど出来やしないのではないか。

単純化しすぎた作品世界について複雑性を取り戻し、その複雑性を縮減することが「理解」(そして「意味」)に結びつく。2000年代に失われてしまったのは、作品の「適用可能な複雑性」である。メディアミックスは、我々をその「複雑性が人間というフィルタを通すことで作り出す単純性」から解放する。例えば「涼宮ハルヒの憂鬱」シリーズはアニメ、ゲーム、小説、と様々な媒体により表現されたが、全ての媒体が全く同様の内容を描写しているわけではない。それぞれは互いに違いながら、しかしそれでいて「ある作品」という場所に固定されている。これは<間テクスト性>といっても良いだろう。あるメディアによって創られた作品が、別のメディアで書かれた同一の作品とリンクする。この<間テクスト性>は、形は異なるが、かつて失われた「スターシステム」を思い起こさせるものである。また、我々は今、メディアミックスの時代において、失われた「作家性」の代替として、「作品」を手にしている。「作品」は作者とは全く別の存在であり、「メディアミックス」の源泉においてその存在の保証者である。メディアミックスにおける作品は人間に理解可能な複雑性を含んでいる。それは、展開される作品は「小さい物語」でありながら、その奥には確固とした「大きな物語」(=作品世界)が潜んでいることを、たとえそれが幻想だとしても認識しないわけにはいかないからである。その縮減によって意味ないし価値が生まれるとするならば、我々はその点において「動物化」から再度物語とその意味の世界へと回帰することができるのである。メディアミックスが全盛期となった今、我々は「動物化」から脱出し、古いがしかし慣れ親しんだ「物語」「意味」という概念に戻ることが出来る。現に今、我々は「ハルヒ」のノベル版とアニメ版を「同一の作品でありながら別の存在」として扱い、そのように論じている。また、CLANNADはメディアミックス戦略が行われることで背景にある「世界観」が物語として理解可能なものとなっている。作品として意味を持たないと思われがちな「らき☆すた」にさえも、我々はそれがメディアミックス展開されることで、その奥にある「作品世界」を感じ、理解しなければならない状況に陥るのである。

 動物化とは、永遠に続く状態を描写したものではない。ある特定の「空白の時代」に、人々が物語を作れなかったにすぎない。人々は物語と意味を通じて生きる主体である以上、物語とその意味を忘れることは出来ない。相対的に存在する様々なシステムには意味があり、物語がある、ということを私たちは古くから前提とし、それを目的としている。それは「作品世界」においても同様である。我々は今、「メディアミックス」によって新しい「物語」「意味」を創造するきっかけを与えられた。それは過度に複雑でもなく、過度に単純なわけでもない。だからこそ、背景に「大きな物語とその意味が幻影となって現れた姿」があるような感覚を我々に与えるのである。これからの時代、「ポスト動物化時代」は、メディアミックスが作り出す複雑な作品世界をそれぞれが固有の仕方で意味化することであり、ポストモダン的な考察がもたらした最大の貢献は、そこに「絶対的な解釈はない、だからあなたは物語について語って良い」とするすばらしきメディア自由主義であろう。この二者が前提となった今、「動物化」の時代は必然的に終焉を迎え、我々は再び「物語」に向けて走り出すことになる。そしてそのとき、我々は東のいう「大きな物語」の幻影を再び、メディアミックス的に展開されたある一つの作品が作り出す様々な表現と、その背後にある作品世界に見いだすだろう。ただし、回帰するのは「大きな物語」そのものではなく、その幻影である。その先にあるのが「大きな物語」の復権なのか、それとも再び「データーベース的消費」になるのかは、未だわからない。

追記

ニコニコ動画などについては次回。あと、Twitter上で渡辺静(@shizuka_w,@famine)さんに指摘された

実際にはわれわれはキャラクターそのものだとかゲームシステムだとかいう非物語的なものからも「意味」を汲み取ることができるし、実際そうしている。

という部分ですが、私は「キャラクターは物語を持つことで初めて意味を持つことが出来る」と考えています。キャラクターの個性は作品内の「物語」を通じて作られる物であり、キャラクタの内部から出てくる物ではない、ということです。ゲームに関しては、(エロゲやRPGに限れば)私はそこに「物語」があると考えています。ただそれがあまりに複雑過ぎるために人間にはとても処理できず、結果としてキャラクタの表層のみを消費してしまうようになる、ということです。

コミケの宣伝

時代錯誤

明日30日(火)に私が大学で所属しているサークルが出店するようです。場所は西"し" ブロック 35bです。詳細は下の画像から察してください。

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この東大生とホンネとタテマエ」号は5月ごろ行った中規模なアンケートの結果です。回答総数は1000人くらいですので、AERAやSPA!が行っている同様のアンケートとは比べものにならないほどの精度があるとおもいます。が、「そもそもアイツら英語サボってアンケート書いてるんだからその点の方が問題じゃね?」とか「そもそもアンケート内容がアレじゃあ」とか言われちゃいそうな感じなので、この辺で。

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この「殴り込み東大模試」号では、一年生を河合塾四谷大塚(←小学生用)に突撃させ、受験産業界に殴り込むことを目的としていたわけですが、結果は(以下略

まあ所詮受験の知識なんて一年間で全て吹き飛ぶんだから高校時代はもっと有意義に使わないとね、ということが実感できる本です。

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最後に、「東京学(For all people, University of Tokyo)予想問題集」は、来年度の東京学の予想問題です。毎年受験当日にばらまいている物を再度製版しました。数学から社会にわたって、歯ごたえのある問題を是非ともかみしめてください。なお、本誌はいつだかの東大入試において制作した予想問題集で「円周率が3.1以上であることを証明せよ」という問題についてなんと的中させてしまった経験もあります。こちらの本は一冊100円ですので、是非とも僕に会わないで冊子だけ買っていただければと思います。ちなみに今回僕が絡んでいるのは「予想問題集」とその他雑多に売るものの中に紛れ込んでいるか、それくらいでしかありません。

ゆとり世代部

はてな出身の「ゆとり世代部」が、コミケの3日目、西え-35bにてゆと部報の販売を行っています。詳細は「ゆと部報vol.5レビュー - sjs7のブログ@12/30西え-35bにてゆと部報頒布。僕も寄稿してます」をどうぞ。

それでは。

それでは、宣伝記事でした。コミケが終了し次第消します。

2008-12-21

桜場コハル「みなみけ」「今日の5の2」は女性恐怖に対する処方箋

このエントリは誰のために書かれたというものではなく、開かれているものでもなく、自分のために書いてみたエントリです。個人的な感想として、みなみけ」「今日の5の2」はレキソタンやデパスといった精神安定剤以上の精神安定をもたらすというネタ的な何かがあるのですが、まあその肉付けということで、ある種自分のための言い訳的な要素が強いです。はい。

女性恐怖とは何か

wikipediaによれば、女性恐怖症とは、次のように定義されている。

女性恐怖症(じょせいきょうふしょう)とは、恐怖症の一つであり、女性との交流を極度に恐れたり、女性と話すとひどく赤面したり、女性と一緒にいると不快感を覚えるといった病的な心理のことである。ただし男性の中には思春期に、これに似た症状を一時的に経験することがある。

女性恐怖症 - Wikipedia

女性恐怖は、近年の男性、とくに思春期から青年期の男性にかけて増えている、と言われている(参考:http://www.asahi.com/national/update/0105/013.html )。これらの原因が女性側にあるか、と問われると、私はそうは思わない。私は、女性恐怖の原因はむしろ男性の持つ原暴力性にあるのではないか、と考える。

男性は、男女の関係において、必然的に原暴力を持ち得てしまう存在である。それは交際から性関係に至る男女関係が「男性主導のもとで」行われなければならないとする社会習慣、最終的な性交渉という「決断」が男性によって行われる(たとえそれが儀礼的なものであっても)ことが一般的であり、そこでは一種の「暴力」をを行使しなくてはならないこと、私はこれが女性恐怖の源泉であると考えている。つまり、彼らが忌避しているのは、女性ではなく、自らの中に内在する、理解可能でありながらどこにあるのかわからない、男性の原暴力性なのである。これは、近年多くの若者が「中性」的(「フェミニン」というスタイルがモードとなる)であろうとすること、女性恐怖の最終形態としての「性転換願望」(「女性に生まれたかった」)が一定数存在することからも類推することができる。女性恐怖症の人間は、女性との対話が存在しない空間を生きる中で、対話のない自らの「原暴力性」のみを本能的に自覚してしまう。しかしそこには、対話相手となる「女性」が存在しないがために、いまや「原暴力」が儀礼的な存在にまで転落していることを感覚的に認知することが出来ない。「非モテ」と言われる人々のメンタリティーも、多くがこの「自らの男性性への拒絶」が含まれていると私は考えている。なお、この反対として、「女性の性欲は隠されている(認識することができない以上、神秘的な何か、という対象に落ち着いている)」ことも意識しておくべきだろう。そういえば、「今日の5の2」「みなみけ」「苺ましまろ」といった、「男性の原暴力」が存在しない世界をあつかった作品がここ数年で脚光を浴びていることは、逆に「女性恐怖」(非モテ)に陥る男性の増加を示す一つの事例ととらえることも出来よう。

桜場コハルの描く「男性性のいない世界」

桜場コハルの描く作品には、「男性性」が存在しない(女性というのは、女性恐怖に陥る人間にとって、先もあげたとおり、男性とは別種の存在として、性欲があるのか無いのかもわからない、全く未知で神秘的な存在として映る)。「今日の5の2」において、桜場コハルは、「小学生」という、原暴力に目覚めるか目覚めないかという難しいラインを扱っているが、彼は巧妙に「男性のもつ原暴力性」を回避している。この作品において、「性」の問題は幾度となくあげられるが、しかしそれは(読めばわかるように)通常の大人が所持している「原暴力」には近づかない、純粋な「性という魅惑の領域への憧憬」である。例えば「体育館の中で男性キャラと女性キャラが閉じ込められてしまう」という章では、主人公自身は男性性、「原暴力」を認識しておらず、あくまでもその「原暴力」を位置づけるのは、その体育館倉庫を開ける「教師」(=大人)によってである。この巧妙な作品への視聴者の移入は、我々が「原暴力」を持つことを忘れさせてくれる。精神分析学的にいえば、我々はこの作品を見ることによって、複雑性の世界、象徴界から逃避し、母子融合的で原暴力の認識が存在しない、擬似的な鏡像段階へと舞い戻ることが出来るのである。

「みなみけ」においても、やはりこの「原暴力の不在」は決定づけられている。ストーリーは三姉妹を中心に構成されるが、たとえば「マコちゃん」という男性キャラは「女装」をされることでその「原暴力性」を限りなくはぎ取られ、女装したマコちゃんが三姉妹、とくに長女であるハルカに対する性的葛藤に揺れるのも、「原暴力」によるものというよりかは、むしろ「純粋な性に対する興味」からに近い(これは、幼年期の子供が「お姉さん」的な存在に抱く憧れの感情ににている。恋愛感情というよりかは、そこにあるのは「憧れ」の感情である)。次女であるカナの友人として出てくる「フジオカ」は、フジオカはカナに対して恋愛意識を抱いておりながら、ストーリーが描かれる場所となる三姉妹の中では、もはや家族同然の存在でり、三姉妹は巧妙に彼の持つ「原暴力性」を「家族」的なものに置き換えることで封印している。「みなみけ」のファンは、この「原暴力の不在」に魅了されているのである。これは、みなみけ〜おかわり〜にて「フユキ」という男性キャラクタが登場した際の困惑によって証明することが出来る。「フユキ」は、みなみけの作品世界において、唯一「純粋な男性」として、誰からも「原暴力の剥奪」を受けることがなかった。これは、将来的に彼が「原暴力」に目覚めた際、何が起こるかを我々に予期されてしまう。先に示したとおり、女性恐怖を抱く人間は、自らに内在する「原暴力」と、それを目覚めさせる様々な事態を忌避する。彼らにとって、「フユキ」の存在は、彼らが成長した後に姿を現すであろう「原暴力」の萌芽を匂わせるものであり、その点で作品世界の根本を揺るがす存在となってしまったのである。

男性の暴力性を極度に恐れること、これが女性恐怖の正体であり、その男性の原暴力が極度に押さえられた作品、それが「みなみけ」であり「今日の5の2」である。桜場コハルの描く巧妙な「原暴力の不在」は、女性恐怖に陥る全ての男性を、その中で癒す存在である。しかし、我々は、それは一種の「精神安定剤」であり、男性は常に自らの持つ「暴力性」と向き合わなくてはならないことを、忘れてはいけないのである。