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実は水伝はニセ科学以外の部分が多いのではないか だからあ~、一面しか捉えないからそんな話になるのでないの? 批判に名を借りた罵倒や中傷などを許す素地が見え隠れする。 ばかやろうといえば人が気分を害するという教訓部分は認めないのかなあ~。 >実は水伝はニセ科学以外の部分が多いのではないか [疑似科学・ニセ科学] 「本当に「なぜいつまでも水伝?」なんです」を読んで。 水伝(とりあえず代表としてこれを選んでみる)は、ニセ科学として批判しなければならない部分はごく一部でしかなくて、それよりもニセ科学を利用して人の間の意思疎通を阻害するという効果が甚だ大きいことが問題だという部分が、他のニセ科学とは異なっている。だから、ニセ科学の代表例として水伝を選ぶのはあまり適切ではないかもしれない。 「ニセ科学の代表例として水伝を選ぶのはあまり適切ではないかもしれない。」 ここまではわかっているじゃない?何が問題なのかを見つけ出すのにわかっていそうでわからなくなるのは大きな見落としがあるからだと思うね。 人を安易に批判してはならないといっているように思うよ、「水伝」は。 >しかし、水からの伝言をいい話だと思う人というのは、「アガリクスでガンが治る」を信じる人とは根本的に違っている。水結晶が言葉に影響されるとか、それが実験操作により顕微鏡写真で見える、といったあたりについては、科学を装うが科学ではないので明白にニセ科学である。問題は、「水に言葉の使い方(や音楽の良さなど)を教えてもらってそれで良しとする」態度の方にある。 「問題は、「水に言葉の使い方(や音楽の良さなど)を教えてもらってそれで良しとする」態度の方にある。」 何時までも江本勝と喧嘩してても仕方がない。江本勝と喧嘩していたいならしていてもいいけど「水伝批判」を一般の人のところへ降ろさないでほしい。私はそのことこそ社会に害を及ぼすことにならないかと懸念している。「水からの伝言」などというものはそもそも科学的な観点から否定するほど重要なものではないだろう。一笑に付すだけで終わりの話ではないのですか? 「水に言葉の使い方(や音楽の良さなど)を教えてもらってそれで良しとする」 いいではないか、「ばっかじゃないの?」で済む話なのでしょ?。何故、日本中の人に「水伝は間違っています」と知らせる必要があるのかわからないよ、私には。 「『水からの伝言』を信じないでください」って言われなくとも信じてないよ。「科学を装うが科学ではないので明白にニセ科学である。」からね。 > もし、水からの伝言をいい話だと思う人が、「面倒な人付き合いなんかもううんざりだ。人に対して何を言うかを決めるのに、いちいち相手のことなんかかまっていられないし気にするつもりもない。水が教えてくれるなら楽だし面倒もないから、私はこれからあなたたちに対して発する言葉にについては全部水に訊くことにする」と主張し、各自が自分の手持ちの水に向かってひたすら語り続け、自分以外の他人の方は一切頓着しないという、コミュニケーション不在の荒野をひたすら作り続けるというのであれば、事の善し悪しはともかく筋は通っている。 「水が教えてくれるなら楽だし面倒もないから、私はこれからあなたたちに対して発する言葉にについては全部水に訊くことにする」と主張し、」 誰がそんなこと言っているの?ま、この広い日本には馬鹿なことを言ってる人もあるだろうさ、でもこれを言われると「水伝批判」の論拠が崩れるわけでもないのならほっとけばいいのじゃないのかなあ~。 「各自が自分の手持ちの水に向かってひたすら語り続け、自分以外の他人の方は一切頓着しないという、コミュニケーション不在の荒野をひたすら作り続けるというのであれば、事の善し悪しはともかく筋は通っている」 「・・・であれば、事の善し悪しはともかく筋は通っている」なんてわざわざ皮肉めいた言い方をする必要もないぐらいバカ扱いで十分です。 >ところが、水伝をいい話だと思う人達に限って、「他人にどういう言葉を使うか私は気にしているのだ」と思い込んでいる。これは凄まじい自己欺瞞である。その上、この欺瞞性についてその本人はまるで無頓着であるという特徴がある。他人の方を全く見ないで水に向かってせっせと話しかけておいて、「私はあなたとお話ししていますよ」と主張するような人とは、普通に考えればコミュニケーションは不可能である。「いや、あなたが話しかけてるそれ、人じゃなくてただの水だし」としか言いようがない。 「ところが、水伝をいい話だと思う人達に限って、「他人にどういう言葉を使うか私は気にしているのだ」と思い込んでいる。これは凄まじい自己欺瞞である。」 「水伝をいい話だと思う人達に限って」などと水伝ビリーバーに対して「これは凄まじい自己欺瞞である。」言いたくなるところがわからない。 「その上、この欺瞞性についてその本人はまるで無頓着であるという特徴がある。」 このように水伝ビリーバーの考え方などを批評してなんになるの?私はこういうことこそが人々の間で水伝騒動へと発展する社会に害を与える行為ではないかと逆に思ったりするのです。 「他人の方を全く見ないで水に向かってせっせと話しかけておいて、「私はあなたとお話ししていますよ」と主張するような人とは、普通に考えればコミュニケーションは不可能である。「いや、あなたが話しかけてるそれ、人じゃなくてただの水だし」としか言いようがない。」 水であろうが海であろうが山であろうが石であろうが、話しかけたい人には話しかけさせていてはいけないと言うのですか? 「普通に考えればコミュニケーションは不可能である。」 どうして自分がとてもコミュニケーションが不可能だと思う相手のことをわざわざ言及するのかなあ~。この相手とは「話にならん!」で終わりではないのかなあ~。 こういうコミュニケーションが不可能な人間の存在が不満なのですか?日本国中で全ての人と良好なコミュニケーションをとりたい願望があるのですか? > ニセ科学の中でも、効果の射程が自然現象に留まる種類のものは、人のコミュニケーションそのものまで破壊はしない。効果の射程が「他人を正面から見ない」ものである場合は、人と人との関わりそのものを破壊することになる。 この一文は私には勉強不足でわからないところもあるので具体的に語ってほしいのですが、今まで私が書いてきたことから結論的に言うなら「「他人を正面から見ない」とか人を批判することにこそ「人と人との関わりそのものを破壊することになる。」と思いますがね。「水伝批判」の行き過ぎとでも言おうか「水伝批判」の4文字の間などに「水伝(を信じる奴らは、くそみそに)批判(してもよい)」と入れて、批判に名を借りたさまざまな人格批判的なことを行ってしまうのではないかと懸念しています。 > このような見方をするならば、「アガリクスでガンが治る」「○○水でアトピーが治る」という主張と、「ありがとうと叫べば琵琶湖がきれいになる」という主張は、規模が違うだけで同種のものであるといえる。いずれも間違っているしそもそも科学ではないし、まともな医学の手柄を横取りするとか、計画を立てて湖の浄化に努力した住民の手柄を横取りするといった弊害はあるが、言及の範囲は自然現象に限られているからである。 「このような見方をするならば、」というのはどのような見方で、どのように違っているのかがわからないままですが、わざわざ「このような見方をするならば、」といわれなくとも「いずれも間違っているしそもそも科学ではないし」ということには変わりありません。どう転んでも「ニセ科学」です。 「まともな医学の手柄を横取りするとか、計画を立てて湖の浄化に努力した住民の手柄を横取りするといった弊害はあるが、言及の範囲は自然現象に限られているからである。」 あれっ!?私は頭が悪いものですから「言及の範囲は自然現象に限られてい」れば大したことでない、若干の「弊害はあるが」・・・と読んではいけないのでしょうね。 う~~~ん、どう読み解くべきなのかなあ~。文章を区切るところがいけないのかなあ~。ま、わからないままで次に進もう。 > 「道徳のあり方を水に決めてもらう」と「血液型性格診断(A型の人はこんな性格、と分類しようとする)」は、他人をきちんと見ないようにし向けるという点で、同種のものになる。ニセ科学を手段として使い、その結論が他人と正面から向き合うことを避けるものになっている言説は、むしろカルトが使用する言説に近い。人間関係に何らかのフィクションや妄想を導入するからである。 「「道徳のあり方を水に決めてもらう」と「血液型性格診断(A型の人はこんな性格、と分類しようとする)」は、他人をきちんと見ないようにし向けるという点で、同種のものになる。」 ご説は拝聴しておきます。私も自分の考えをこうしてブログに書いているのだし、どのような考え方が世の中にあろうと抗議したり批判したりすることが許されないということもないのだから「他人をきちんと見ないようにし向けるという」ものと、次の「ニセ科学を手段として使い、その結論が他人と正面から向き合うことを避けるものになっている言説は、むしろカルトが使用する言説に近い。人間関係に何らかのフィクションや妄想を導入するからである。」がつながっていくのは仕方がない話ではあります。 ただ読んでいてなかなか分離が出来ないのことは「水伝の提唱者」と「水伝ビリーバー」をどこで分けて考えていられるのかがわからない。まるで「水伝ビリーバー」は水伝を信じた段階で敵扱いして攻撃せよといっているように感じます。信じた途端に悪魔の仲間入りしたかのような・・・。 「信じないでください」といっているのに信じる人は、ありとあらゆるバッシングを受けてもいいとお考えなのでしょうか? それって逆に「何とか教」と見られても不思議ではなくなるように思うのですが・・・。orz
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