◎高岡園遊会 えにし深める「金沢の舞」
高岡市の開町四百年を記念して来春開催される「高岡園遊会」(仮称)で、金沢市の三
茶屋街の芸妓(げいこ)衆が、あでやかな祝いの舞を披露することになった。加賀藩からつながる「えにし」をさらに深める新たな文化交流として、両市を挙げて盛り上げていきたい。
高岡園遊会では、進取の気性に富む商業の町らしく、世界的なジャズ音楽家が、邦楽の
楽曲をジャズ風にアレンジした曲に合わせて、芸妓が踊りを披露するという刺激的なプログラムが盛り込まれている。伝統の三茶屋街の芸に、“異業種”が新たな息吹を吹き込む上でも注目を集めよう。
来年は、年明け早々にも、金沢市の前田家墓所と、高岡市の前田利長墓所が「加賀藩主
前田家墓所」として国史跡に指定される。両墓所が、前田家のいわば「聖地」として一括指定されることは、県境や行政区域の違いによる距離感を埋め、あらためて加賀藩の歴史エリアを浮かび上がらせるに違いない。
開町四百年の節目の年とも重なるだけに、国史跡指定は、これまで以上に両市の多方面
での交流を促す契機となる。金沢市も、多彩な記念行事に大いに協力したいところだ。
これまで両市の文化的な交流といえば、茶会や生け花などのほか、夏に金沢市中心部で
開かれる「金沢ゆめ街道」に、高岡御車山(みくるまやま)、伏木曳山祭の山車がお目見えし、大きな反響を呼んだ。
園遊会に来演する三茶屋街の芸妓衆の舞台は、加賀鳶(とび)はしご登りなどと合わせ
て、金沢の「見せる芸」の代表格である。毎年秋に金沢園遊会のメーン行事として開かれる「金沢おどり」では、ひがし、にし、主計(かずえ)町の芸妓衆が、垣根を乗り越えて、切磋琢磨して舞台を作り上げ、年を追うごとに評価を高めている。
今回はそうした実績をひっさげての来演となり、ジャズとの異色の共演がどんな舞台を
作り上げるか楽しみである。園遊会を含めて、一年に及ぶ高岡開町四百年行事のさまざまな場面に、金沢からの「応援団」を招き、金沢と高岡のきずなの深さを発信したい。
◎英語を英語で教える 落ちこぼれが多く出そう
二〇一三年度入学生から実施する高校の学習指導要領改定案で、初めて「英語での授業
は英語で」を基本とする方針が明記された。頭から否定もしないが、かといって積極的に賛成もできない。もっと論議が必要ではないか。今回の改定では、グローバル化で英語が普遍語となっている世界的な潮流に乗り遅れまいということから、韓国や中国などの英語教育を参考にし、会話や読み書きの力の育成を重視した。小学校から英語を取り入れたのも同じ趣旨からで、小中での延長として高校の英語教育も改める必要があるということだ。
まず、技術的なことだが、教える側からも教えられる側からも「落ちこぼれ」が大量に
出はしないか。英語を英語で教えている高校はまだ極めて少ない。圧倒的多数の高校では年配の教員ほど文法は詳しくても会話は苦手という一般的な傾向があり、指導法の改訂で戸惑うのではないかというのが現場の反応だ。教える側が戸惑うのでは教えられる生徒も戸惑い、双方からついて行かれない者が多く出る心配がぬぐいきれないし、日本語の授業の中身を濃くしないと、英語の圧力に負けて、日本語の優れた機能や陰影が維持できなくなるという問題もある。
折しもバイリンガルの作家、水村美苗さんがこれまでの英語教育をめぐる様々な論争や
、自らの体験を踏まえた近著「日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で」で、中途半端な国民総バイリンガルを求める傾向を根本的に批判した。英語だけでなく、他の言語に対しても少数精鋭の二重言語者を育成し、翻訳文化の伝統を維持する。日本文化の粋の凝縮である古典をたっぷり読ませ、密度の高い日本語を築く必要等々を訴えている。日本語が亡びていくかどうかの分かれ道が今だとさえ言うのだ。
戦後、ハングルだけにした韓国では近年「漢字」を見直し、学校で教えるようになった
。中国でも漢字を略字にしすぎた報いで自分の国の古典を知らない世代が増えるという深刻な悩みを抱えている。こうしたことも参考にしなければなるまい。