街づくりといえば、高層ビル群や大規模な市街地再開発などに目が向きがちになるが、街の主人公は、一人一人の市民である。市民が「住みよい」と感じてこその街づくりだ。市民には高齢者も子どもも、病気や障害のある人もさまざまいる。そうした誰もが暮らしやすい「福祉の街づくり」の実践は、実は関西で長く根付いている。その地域が持つ独自の価値観に直結する「街づくり」について報告する。
「たくさんの人がエレベーターを利用されていますね。ベビーカーのお母さんやお年寄りも使われているのを見ると、うれしいです」。先月中旬、大阪市営地下鉄谷町線の喜連瓜破(きれうりわり)駅(同市平野区)。元「誰でも乗れる地下鉄をつくる会」代表でグラフィックデザイナーの牧口一二(いちじ)さん(71)=同市城東区=は、改札ホームとつながるプラットホームのエレベーター前で、顔をほころばせた。
東京メトロや名古屋の地下鉄、そして大阪の地下鉄など今では、「普通の光景」になった駅のエレベーター。28年前の1980年11月27日、地下鉄として全国初のエレベーターが設置されたのが、この喜連瓜破駅である。設置には、牧口さんら「つくる会」の障害者たちの4年にわたる地道な取り組みがあった。
幼少時にポリオ(小児まひ)にかかり足に障害がある牧口さんは、松葉づえで長く生活してきた。75年、京都であった「車いす市民全国集会」に参加した。当時は「バリアフリー(障壁の除去)」という考え方も社会に浸透していない時代。車椅子で街を移動するのは困難を極めていた。
大阪に戻った牧口さんは、仲間と一緒に「つくる会」を76年に結成。地下鉄の駅にエレベーターを設置するよう、市交通局と話し合いを重ねた。交通局の幹部に車椅子に試乗してもらうデモンストレーションもした。
78年1月7日付の毎日新聞の「読者の広場」欄に、牧口さんは投稿している。「障害者の一人として、街づくりについて意見を書きたい」と始め、「街づくりの基盤は、人と人との対話に始まると思います。都市交通は本来、だれもが安全に利用できなければなりません。障害者や心臓病など内部疾患のある人、老人など階段の昇降が不可能だったり、昇降による疲労が限度を超えている人への配慮がないままに地下鉄を走らせてはならない」。エレベーター設置を強く訴えた。
「つくる会」の運動は実った。喜連瓜破駅のエレベーターの入り口には現在、「“ひとにやさしいまちづくり”を推進しています 大阪市」と書かれた縦横20センチのプレートが張られている。
ともすれば街の隅に、社会の隅に追いやられる障害や病気を持つ人たちへの優しい目線に立った街づくりは、超高齢社会に入り、多くの人が何らかのハンディを持って年を重ねる21世紀の日本に欠かせない視点だ。
関西は歴史的にも先駆的な取り組みをしてきた。福祉先進地として知られる滋賀県。終戦間もない46年11月、大津市に設立された知的障害児施設「近江学園」(現在の所在地は滋賀県湖南市)は、その原点の一つといえる。
知的障害のある子どもが社会から振り向きもされなかった時代に、初代園長の糸賀一雄氏(14~68年)は「この子らを世の光に」と唱えた。
学園には現在、98人が暮らし、近くの小中学校の障害児学級などに通っている。子どもたちの生活は、70人のスタッフが支えている。卒園生は1200人に上る。
障害児に限らず、児童虐待や育児放棄など子どもをめぐる悲しい事件が相次ぐ。現園長の前田建治さん(60)は「約半世紀前に糸賀先生が出されたメッセージは今、すべての子どもたちに当てはまるのではないでしょうか」と語る。糸賀氏の精神は学園を超えて、湖国・滋賀の福祉の街づくりのバックボーンになっている。
関西ではこの他、神戸市が「ユニバーサルデザインのまち」として、高齢者や障害者ら誰もが住み慣れた地域で安心して暮らせるよう、ユニバーサルデザインの街づくりを掲げている。
地域福祉に詳しい大阪国際大人間科学部の橋本義郎教授は「特に大阪は良い意味で、ちょっとはみ出した人に対しても『おってもいいやん』と許容する空気がある。在日コリアンや沖縄出身者も多く、異文化を普段から体験していることも大きい。高齢者や障害者に対しても優しい福祉の街づくりに良い方向でつながっているのだろうし、そうした地域の風土を大切にすべきだ」と話している。【遠藤哲也】
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◆社会と歩む、大毎の歩み
視覚障害のある人の大きな情報源である日本唯一の週刊点字新聞「点字毎日」は1922(大正11)年、大阪毎日新聞の堂島新社屋落成記念事業として発刊した。創刊号には一般ニュースや障害関係のニュースの他、菊池寛の小説「恩讐の彼方に」の連載が掲載された。視覚障害者の権利獲得運動とも連動し、25年、普通選挙法が成立した際の点字投票実現にも寄与した。63年には日本文学振興会から菊池寛賞、68年には朝日新聞社から朝日賞(現・朝日社会福祉賞)を受けた。
時代をさかのぼり、1911(明治44)年、新聞社として初の福祉団体「大阪毎日新聞慈善団」(現・毎日新聞大阪社会事業団)が毎日新聞1万号発行の記念事業として設立された。27年には、150トンの病院船「慈愛丸」を建造して、診療に取り組んだ。
身体障害のある人を助ける介助犬の認知を広げるため、98年から展開した「介助犬シンシア」キャンペーンは、身体障害者補助犬法の成立に大きな役割を果たした。車椅子を使って兵庫県宝塚市で暮らす木村佳友さんとシンシアの日常の姿を描いた連載などによって、宝塚市は「シンシアのまち」を宣言、街づくりのキーワードになった。
毎日新聞 2008年11月23日 大阪朝刊