工藤学長・平山専任講師 対談
「テレビが生まれたとき、君はどこにいた?」

本学の目的は、様々な分野で活躍するプロデューサーを育成することです。 その為にこれまでにないカリキュラム構成となっています。 そして何よりも素晴らしい教員陣に講義を行なっていただいております。
このシリーズは、本学ではどんな講義が進められているかを、教員陣に語っていただくことで皆様にご理解いただくことを願って始まりました。 幸い、多くの好意的な反響をいただけたのは望外の喜びです。
対談はさらに充実、白熱化してまいります。是非ご愛読ください。

日本におけるテレビの黎明期。皆さんはどこにおいでになりましたか。 どんな想い出がありますか。まだ生まれていなかった方々もおいでになるでしょう。想像もつかない…。 映画専門大学院大学ならではの視点から見た、そんな時代についての貴重な対談です。

プロデューサーは生きがいを持てる職業。
僕たちは、それを目指す人たちの
サクセスストーリーを作ってあげなくては。

映画専門大学院大学 学長/教授

工藤 英博
工藤 英博
 ●プロフィール
  (社)全日本テレビ番組製作社連盟理事長。(株)PDS代表取締役。早稲田大学教育学部卒。
  日本のドラマ・プロデューサーの草分け的存在。
  主な作品は、『傷だらけの天使』、『前略おふくろ様』(芸術選奨文部大臣賞)、『生きて行く私』(ATP最優秀賞)、
  『もう頬づえはつかない』(ATG映画)、『奇蹟のピアニスト フジ子・ヘミング』(ATP優秀賞)他。

平山 勉
時代の先だけでなく、
永遠に変わることのない人間社会の根幹を
この映画専門大学院大学は見つめている。

映画専門大学院大学 専任講師

平山 勉
 ●プロフィール
  慶應義塾大学経済学部卒業、同大学大学院経済学研究科後期博士課程単位取得退学。
  98年同大学経済学部研究助手、02年同大学グローバル・セキュリティー・リサーチセンター研究員を経て現職。



昭和30年代、日本は活気に満ち、輝いていた…。テレビの黎明期、芸能界をはじめ、 まだ業界そのものが“若かった”日々。当時の数々のエピソードや舞台裏を、本学の工藤学長が、 自身の若き日の姿と重ね合わせつつ熱く語る。

学長から興味深いエピソードを引き出すのは、世代も大きく隔たる満鉄史の若き俊英にして、本学の講師でもある平山勉氏。話題は映画やテレビドラマから、研究者とプロデューサーの比較、さらにプロデューサーが持つべき資質、そのあるべき姿へと及んだ。


外国のミュージカル映画に魅せられて。(工藤)

工藤 英博

平山 工藤学長はいつ業界にお入りになられたのですか?

工藤
 昭和36年(1961年)3月に大学を卒業して、4月に渡辺プロに入社しました。僕は中学・高校時代から映画が好きでよく見てたんです。特に外国映画がどんどん入ってきた頃で、知的な楽しみとしての映画、自分の青春期の心情にぴったりと合った映画、人生を考える時の鏡となるような映画はすべて外国の映画だったんです。
 とりわけ、高校から大学にかけて僕が魅了されたのは、ミュージカル映画なんですよ。素晴らしい作品が目白押しでした。『バンドワゴン』『略奪された七人の花嫁』だとか『南太平洋』『巴里のアメリカ人』『パジャマゲーム』…。音楽もジャズが好きだったんですよ。それで、ミュージカルが日本のテレビや映画でもやれないものかなと考えるようになったんです。
 早稲田の卒業論文も、「日本におけるミュージカルの可能性についての洞察」というものでした。教授も思い切りやってごらんという変わった教授で(笑)、ですから僕の卒業論文には、『野郎どもと女たち』だとかスタンリー・ドーネンやジーン・ケリー、中村八大、永六輔だとかの文字が並んで……優はもらったんですけどね。それとちょうどその頃日劇のウエスタンカーニバルが脚光を浴びていて、渡辺プロダクションあたりが日本のミュージカルを作る拠点になるかなと思って受けたんです。

平山 昨日、学長の母校である早稲田大学でいろいろ調べてきて、大学の周りを歩いてみたのですが、最近すごくきれいに変わってしまって、先生の頃とずいぶん雰囲気が違うのではないかと思ったんですけれども。

工藤 大学のそばは角帽の店、学生服の店、書店、それから喫茶店や麻雀荘がひしめき合って並んでいたのですが、今はきれいになってしまいましたね。唯一、立派なビルになって高田牧舎が生き延びていますが。大隈講堂の左側に学生食堂があり、その向いの映画研究会の汚い部室に、僕は入り浸っていました。
 映画のいちばんいい時代ですから、いろんな人がいましたね。監督志望の人、批評家になりたいとか、シナリオライターになりたいとか、プロデュースをしたいという人もいたし…。すぐ上の先輩に映画評論家になった白井佳夫氏、岡本喜八監督夫人でプロデューサーの岡本みね子さん、「ウルトラマン」などの監督の実相寺昭雄氏とか、同期には、カメラマンになった浅井慎平とか、いろいろな個性がごちゃまぜなんです。

平山 錚々たる人たち…まさに梁山泊ですね。

工藤 昭和30年代というのはすごく面白いエキサイティングな10年間でした。
 ヒットした映画『ALWAYS 三丁目の夕日』は、ちょうど昭和33年ぐらいが時代背景ですが、その前後、日本は活気に満ちてキラキラ輝いていた、濃密な時代だったんですね。学生生活も面白くなり始めた2年生の頃で、とても印象に残っています。

平山 僕は昭和46年(1971年)生まれですから、テレビの世界の話で言えば、白黒テレビを実はよく知らない世代です。リモコンのテレビが来たときは、わが家も大騒ぎだった記憶があります。

工藤 昭和33年はエポックメイキングな年です。例えば東京タワーが完工し、長島茂雄が立教大学からジャイアンツに入団して、新人王を取りました。一方では、川上哲治が引退宣言をしたんです。また、皇太子妃に正田美智子さんが決まって、フルシチョフがソ連の首相になり、日本では売春防止法が成立した年なんですよ。鍋底景気なんて言われて、チキンラーメンや缶ビールが発売された年でもあります。
 あの頃、僕たち学生の下宿は和室の畳一畳分がだいたい1,000円。学生食堂ではカレーライスが45円、A定食は55円でした。

平山 食うや食わずの時代が終わって…

工藤 貧しかったですよ。物は無かったけど、みんな希望に燃えて、今みたいに殺伐としたところはなくて、人間と人間との心豊かな信頼関係が構築されていた良き時代でした。

平山 ちなみにその頃は、1本の映画がいくらぐらいでしたか。

工藤 ロードショーが150円で、いわゆる名画座が40円か55円ぐらい。お金が無くて映画を見るか、そのお金で夕食を食べるかっていう岐路に立たされるわけです(笑)。普通は食事を我慢して映画館に行っちゃうんです。

平山 「合理的選択」ですね(笑)。

工藤 33年でもう一つ見逃せないのは、映画がいちばんピークの年だということ。11億2700万人もの観客が入りました。これは邦画の観客動員の最高記録なんです。

平山 その頃はテレビ局もいっぱいできて、全国的にも放送網ができてきたようですね。

(左)平山 勉・(右)工藤 英博

『私は貝になりたい』は、
日本のテレビドラマを一変させた
不朽の名作。(工藤)

工藤 それまでは、NHKと日本テレビとKRテレビ(現東京放送)だったところに、34年にフジテレビとNET(日本教育テレビ、現テレビ朝日)が加わって5社体制になったんです。
 昭和33年には画期的なテレビドラマが誕生したんですよ。『私は貝になりたい』が大きな反響を巻き起こして、芸術祭のテレビ部門の大賞を獲ったんです。フランキー堺が演じる小市民の平凡な床屋さんが、召集され、終戦を迎えて再びもとの平凡な暮らしに戻る。しかし、米軍から戦犯容疑者として召喚され、裁判にかけられる。それで死刑になってしまうんですよ。そして、死刑に臨むときに処刑台でつぶやくんです。「今度生まれてきたときに私は貝になりたい」と。それは流行語にもなり、戦争の持つ恐怖をあらためて浮き彫りにした代表的な社会派の反戦映画と言われました。それまでは、しょせん“電気紙芝居”などと言われていたテレビドラマを、『私は貝になりたい』が変えていったのですね。
 さらに、このドラマでもう一つ画期的だったのは、始めてVTRで撮ったことです。それまではドラマも全部生だったんですから。これは90分の作品なんですが、前半の45分がVTR、後半の45分が生なんです。 30年代に入って、テレビに対して邦画5社が危機感を持つようになり、自分のところの専属俳優をテレビに出すのはまかりならんと言い出した。さらに、小津安二郎監督や黒澤明監督などの作品提供を拒否したんです。ですから、揺籃期のテレビは、制作コストの問題もあって、しかたなく外国のテレビ映画を輸入してきて、放映しました。『スーパーマン』とか『アイラブルーシー』『名犬ラッシー』『アニーよ銃をとれ』、それから『ヒッチコック劇場』…。

平山 『市民ケーン』も日本ではテレビで最初に放映されたとうかがいました。

工藤 しかし、外国映画を輸入しているだけじゃだめだという人も出てきて、TBSのその後社長になった今道潤三常務(当時)は、日本人の手で、国産のテレビ映画を作らなきゃいけないという危機感を持っていた。
 そこへ広告代理店の宣弘社、ここは屋外のネオン広告が得意だった会社ですが、社長の小林氏が考えたのが『月光仮面』。映画5社はスターを貸してくれないから、でっかいサングラスに白いターバンを巻いた月光仮面のおじさんが、疾風のように現れて悪者を退治して去っていくんですよ。『月光仮面』の作家は今、森進一の『おふくろさん』の歌詞で話題になっている川内康範さん。放送するやものすごい反響で投書が殺到し10分の番組は30分になり、この日本版「スーパーマン」は子供たちに支持されて、視聴率は40%以上の歴史に残る大ヒットになりました。

 それから当時、ホームドラマの草分け時代の極めつけの作品が誕生しました。それは『バス通り裏』。パーマ屋さんの一家と高校教師の一家が、バス通り裏の路地を挟んだ向かい同士で、善良な庶民を描いたほのぼのとしたホームドラマです。その両家からそれぞれ二人の女優がデビューしたんです。一人は十朱幸代さん、もう一人は岩下志麻さん。これもすごい視聴率だった。

平山 当時、映画会社が俳優を提供してくれないから、テレビ界では若い人たちがスターとして誕生していったわけですね。
 ところで、この大学院大学の実務家の先生におうかがいすると、業界ではなんでもやらなきゃだめだとみなさんおっしゃって、できないことがあるとだめだと。それは厳しいなと思うのですが、学長が昭和36年に渡辺プロの一期生として業界にお入りになった当時はいかがでしたか。

工藤 ザ・ピーナッツの司会で、当時の人気番組だった『ザ・ヒットパレード』。僕はいきなりそのアシスタントプロデューサーですよ。そして、兼務でザ・ピーナッツの担当も。
 僕の入社当時のことを言いますと、渡辺プロは、3名募集のところへ900人ぐらい来たんです。あんまり来たから6人採用したんです。最終面接のときに、渡辺晋社長に映画やテレビの企画制作、将来ミュージカルをやりたいというと、それは結構な志しだと励まされて。

平山 芸能プロダクションは渡辺プロが最初だとか。番組の企画制作も行うということで始まった会社だとうかがっていますが。

工藤 僕に関して言えば、フジテレビの「ザ・ヒットパレード」の他に、日本テレビの「シャボン玉ホリディ」や「ホイホイミュージックスクール」の担当も加わってきたので、すごく忙しかったですね。とても辛い日々でしたけど、いろいろなことを早く覚えることが出来たと感謝しているんです。

平山 制作会社ということで、どの局の仕事も取ってこられるということなんでしょうか。

工藤 そうなんです。だから僕は音楽番組、バラエティ、ドキュメンタリー、それからドラマ、コマーシャルの制作までいろんなジャンルの仕事をやってきましたし、その間にタレントや歌手の育成などいろんなことをやりましたよ。
 その当時の面白い話があって、あのジャニーズは、もともと少年野球チームだったんです。ある日、ジャニー喜多川さんが、みんなを連れて『ウエストサイド・ストーリー』を見に行ったんです。そしたらもう、しびれたんですね。こんな風に歌って踊って芝居をして、アクションがあって、これじゃもう野球やってる場合じゃない(笑)。これこそ俺たちが取り組むべきものじゃないかってね。ミュージカルをやるために、野球から歌と踊りに切り替えたんです。
 また、渡辺プロでは、タレントの養成機関として、全国の主要都市で東京音楽学院を経営していて、タレント志望者を教えていました。スクールメイツというのは、その卵の連中なんですね。布施明や森進一、キャンディーズや高橋真梨子など、スクールメイツ出身の歌手やタレントはとても多いんですよ。

平山 学長が、そうした芸能系のお仕事から社会派のドラマというか、『傷だらけの天使』や『前略おふくろ様』などの方へいくには、それこそ“ドラマ”があったかと思うのですが。

工藤 高校、大学と、ずっと僕の青春は映画に影響され続けてきましたから、そりゃあもういつかはドラマのプロデュースに専念したいと。入社4年目に渡辺プログループにドラマ・CMの企画制作をする外部資本の入った関連会社が設立されたんで、迷わず社長に志願して出向させてもらったんです。それが「渡辺企画」だったんですよ。

平山 渡辺プロからは制作会社の方などはたくさん育っているのでしょうか。

工藤 ザ・ワークスの前原雅勝社長、アミューズの会長の大里洋吉氏、ソニーミュージックの副社長を経てエイベックスの役員をやっている稲垣博司氏、スペースシャワーの社長の中井猛氏とか多士済々ですね。

平山 するとやはり、最初にできたプロダクションということで、渡辺プロは業界の裾野を広げていく役割も果たしたんですね。

工藤 そうですね。自分で自由にいろんなことにチャレンジしてやっていきたいという人が多かったですから。当時は音楽番組やドラマのプロデューサー、タレントのマネージメントに携わる素晴らしい才能がひしめていましたね。みんな怖いくらい、真剣に仕事に取り組んでいて、僕も随分いろんなことを学びましたよ。テレビのディレクターとかプロデューサーというのは、今よりも圧倒的に花形の職業でみんな誇りをもっていましたね。

プロデューサーの仕事は、それはもうすべて、
覚悟した判断と決断の連続です。(工藤)

(左)平山 勉・(右)工藤 英博

平山 ところで、テレビのディレクター(監督)とプロデューサーとは全く違うのですか。入り口から違うのか、途中から分かれていく感じなのか…。

工藤 ドラマの場合のディレクターは、俳優さんからいい演技を引き出すために、演技プランを練り、カメラや照明や美術などの専門職に技術スタッフを指揮しながら、プロデューサーの企画や方向性に沿って作品をカタチにしていく。番組制作そのものの責任者です。これに対し、プロデューサーというのはそれを全部トータルした番組の統括責任者として番組の企画を立ち上げ、予算管理やスタッフ編成の責任をもちます。だから、会社に例えると、ディレクターというのは工場長で、プロデューサーは社長みたいなものです。
 プロデューサーが仕事をする上では、いちばん最初に、ものすごく苦労するのは企画を立案し成立させることです。一概にドラマといっても、喜劇なのか、ホームドラマなのか、アクションものなのか、社会派なのか、サスペンスなのか、全部違う。それによって、プロデューサーは企画に適した監督を決めて、起用するわけです。さらに、脚本家を選定し、一緒に企画を練り上げていきます。
 主役をはじめとするキャスティングもプロデューサーの重要な仕事です。時に「意表をついた」、「大胆な」キャスティングの妙味を発揮することは、プロデューサーの腕の見せどころなのです。やっぱり作品のすべての責任というのは監督じゃなく、プロデューサーにありますから、それはもうすべて、これが最善手だという判断と決断の連続ですよ。

平山 テレビマンユニオンというのが、日本の制作プロダクションの草分けであり、その成功がいろんな形の独立を刺激しているといった記述をよく目にするのですが。

工藤 1970年に局内での制作に限界を感じたクリエーターたちが、TBSを退職し、彼らを中心に結成された日本のテレビ制作プロダクション第1号といってもいいですね。「遠くへ行きたい」や「世界ふしぎ発見!」など、本当に良質の音楽番組やドラマ、ドキュメンタリーを作り始めましたからね。テレビ局にいると、自分の意に添わないさまざまな拘束やローテーションがあり、それによって自分の企画が通らないといったこともあります。
 「テレビマンユニオン」は数ある制作会社の中で、常にオピニオンリーダー的な存在で、まさに“プロダクション時代”の牽引車の役割を果たしています。しっかりとしたビジョンを持った個性あるクリエーターを輩出してますが、初代社長萩元晴彦氏の「あらゆる新しいこと、あらゆる美しいこと、あらゆる素晴らしいことは一人の人間の熱狂から始まる」というプロデュースの原点を表わした言葉が僕は大好きです。 僕たちは学生が持っている個性とか感性とか、今まで大切にしながら生きてきたものを、いかに磨いて伸ばしていくか、そういう手助けをしたいと思っているんですよ。プロデューサーを目指す人たちのサクセスストーリーを作ってやらなくてはいけない。プロデューサーは本当に生きがいの持てる職業です。もちろん、そのかわり人並み以上の努力もしなくてはいけない。

平山 勉

プロデューサーの方というのは、
バランスを追求し、調整をしながらも
決断する力がある。(平山)

平山 この大学院大学に着任してから、プロデューサーとは何なのだろうと、いろいろな先生のお話をうかがっていると、人を見抜く眼も大事でしょうし、育てることも大切なことがわかります。研究者の場合は批判的な精神が大事ですから、基本的に喧嘩しているわけですよ。ある意味、喧嘩中毒でして…(笑)。でも、プロデューサー自身は喧嘩をしちゃいけないのかなということも含め、プロデューサーという仕事は人間のつながりというか、ヒューマンインターフェイスみたいなところで、それぞれの批判的な精神というかキャラクターをやはり大事にしていかなくてはならないように感じています。

工藤 例えばプロデューサーには、もめごとやトラブルをちゃんと処理する能力がいちばん要求されるんですよ。制作の現場では本当に臨機応変の処置や柔軟な対応を求められるケースが頻繁にありますからね。

平山 おそらく経験のあるプロデューサーの方は、そういう修羅場をたくさん乗り越えていらっしゃる。

工藤 その解決方法のお手本とかマニュアルがあるわけではありませんからね。すがるところは結局、いろいろな局面で実体験した経験則が物差しになりますね。基本は小細工やテクニックなどに頼らずに、あくまでも誠実に対応することにつきると思います。

平山 最近の日本では小泉さんが登場して以来、リストラを断行する上でも調整型の人はだめだ、みたいなことを言われていたように思いますが、プロデューサーの方というのは、調整をしながらも決断する力がある。バランスを追求しつつも、切るべきところは切っていらっしゃるなと思うんですね。

工藤 その通りですね。監督というのは奇人変人であったり、個性のすごく強い、そういう人でも成功しますけれども、プロデューサーは違いますね。平山さんのおっしゃるバランス感覚があって、調整能力があって、そういう能力がなければ組織を作っていったり、まとめてあげていったり、調和を導いていったりすることはできませんからね。

プロデューサーから伝わるのは、
信用や信頼によって、
いかにものは作られるかということ。
(平山)

平山 勉

平山 古き良き時代のノブレス・オブリージュというか、教養人としてのあり方が、改めてプロデューサーという仕事を通して問われているのかなと思います。もちろん、求められる教養は時代とともに変わると思うのですが、何と言うか、時代の先だけでなく、人間社会の永遠に変わることのない根幹を、この大学院大学は見つめているんだなと感じます。そういう意味では、プロデューサーをされている先生方の話は、とても示唆に富んでいます。

工藤 結局は、企画力や交渉力、管理能力などとともに、いつの場合も思い通りのキャスティングなどを可能にする人間関係の広さや信用をどのくらい持っているかが、優秀なプロデューサーの条件とも言えるのです。

平山 最近は、会計士、税理士、宅建など、資格がブームですね。今の若い人たちは資格を求めていますし、資格を取るとお金になるという発想をよくします。しかし、プロデューサーという仕事は資格ではないばかりか、全くその対極にあります。資格とは関係のないところで、いかに信用とか信頼といったものによって、ものが作られるのかということが、今の若い人たちにはイメージしにくくなっています。プロデューサーという仕事は、本当に人間臭く、だけどそれがものを作っていくときには一番大切だということを、先生方は身をもって伝えたいのではと考えています。

工藤 英博

心が豊かになり、
人間が成長していくために、
テレビは必要不可欠な存在。(工藤)




--テレビはこれからどうなりますか?

工藤 テレビジョンというのは、ラテン語で「遠くを見る」ということですね。常に今の情報を伝え、今に生きる人間や社会の動きなどを刻み込んでいる。それを土台にして、先を見つめる者へ糧を提供するものだと思うんですよ。そういう視点がある以上、テレビはなくならないし、先輩たちから受け継いできた映像文化をみんなで守り続けなければ。そのためにも、今後はもっともっと大胆な試みや斬新な発想が若いクリエーターから出てきてほしいですね。
 ちなみに、テレビでも映画でも音楽でもそうですが、僕の体験では企画会議で10人のうち8人か9人いいといったらだいたい当たりません。これはいけるという人が2、3人くらいの方が得てしてヒットするものですよ。

平山 なかなか科学的にいかないという感じでしょうか(笑)。

工藤 スポーツでいえば、イチロー選手は、オリックス時代に、当時の監督はこんな大振りのスイング、フォームじゃ使えないといって、二軍へ行って直して来いとと言われたそうですね。ところが、後任の仰木監督は、絶対こいつの振り子打法はいけると見てとった。そういうイチローの個性、可能性を見抜く眼力があったんでしょうね。

平山 人を見抜くことは難しいですね。最後に、先生がお仕事をされていて、初めて人を見るときに、必ずここを見るというのを教えていただけたら。

工藤 やっぱりネアカ、陽性人間であった方がいい。また声が大きい方がいい。人と話すときは顔を、目を見て話すこと。初対面では、その人の生き方やセンスなど咄嗟に判断する材料になるので服装も大事ですね。特にプロデューサーの仕事をしていると、常にさまざまな分野の人との出会いが多く、信頼関係を構築していく上で、人を見る眼を養うというのはとても重要になりますね。

“仕事、夢、未来についてのディアローグ” バックナンバー

↑ページトップ