2008/12/24(Tue)
Midnight present of Christmas 「煙が目にしみる」
一昨年の「ホワイトクリスマス」に続く気まぐれプレゼント。
ちょっと風邪気味。
一度歌が流れるとまた聴くにはホームページを開き直す必要があるようだ。
何日かでこの項目は消滅します。
悪しからず。
追加
Midnight present of Christmas 「煙が目にしみる」のCDを購入したいと思うが誰が歌っているのか、というメールが複数寄せられていますが、この歌は藤原本人が歌っております。録音の不備もあり音そのものは良くありません。(ホームページ事務・戸澤)
2008/12/22(Mon)
ついにできた英語版「メメント・モリ」


英語版「メメント・モリ」が書店に並びはじめた。
「メメント・モリ」の英語版は自分と出会った外国の人が写真に目をとめ、この本に一体何が書かれているのかということにしばしば興味を抱いたというところから、いつか出せればと思っていた。
だが先のブログでも書いたように、昨今の非常に厳しい出版事情の中では多く売れる見込みのないこのような特種な本を出すのが難しかった。
やっと長年の思いがかなっての出版の運びとなったわけである。
とは言ってもこの本の外国での販路は未定でとりあえず少部数刷ったものを日本の書店に並べるというところからのスタートである。といってもおそらく大きな書店だけに置いているということだろう。アマゾンでも扱うようだ。
体裁は日本語版「メメント・モリ」とは異なって一回り大きい版となっている。
一回り大きくしたことで写真はノートリミングとなり、写真の横への広がりが確保され、思ったよりイメージが異なる。日本語版の方は46版ということで裁ち落としの場合どうしても横を切らずを得ないである。
良いことばかりではなく、版を大きくしたことと、部数が限られているため定価が2、500円と高くなった。この値段でも聞くところによると初版の90%がはけてやっと赤字がないトントンのところらしい。
もうひとつ英語版は日本語版の異なるところは中の何点かをモノクロにしたということだ。
この効果が大変よく。すべてモノクロにしても良かったと思われるくらいだ。
私の友人でクリスマスに子供にこの本を送りたいという人がいた。
クリスマスに死を想えというのも何か違和感がないでもないが、思うにクリスマスとは黄泉とも関係のあることなのであながちずれているとも言えない。
私はこのアジア人の世界観、死生観の色濃いこの本が西洋やアラブやイスラムの人々にどのように読まれるかが大変興味深くいまからわくわくしている。
また短い言葉を英語になおした場合、ウエット感が消えドライな感じになるところも面白かった。このことは何十年も前にインドにいたころ松尾芭蕉の俳句を英訳したペーパーバッグを読んだときにも感じたことだった。この芭蕉の乾いた感じが妙に心に刺さったことを覚えている。
先のブログでも触れたように写真集というのは再版時に文字本より多く刷らねば出すことが出来ないので、これまでの私の写真集と同様、初版でこの本は終了し、希少本となる可能性もなきにしもあらずである。そうならないことを祈るばかりだが。
2008/12/19(Fri)
正月特番
2008/12/18(Thu)
トーク情報の追加
ジュンク堂書店のトークイベントがたちまち定員いっぱいになり、51名に定員を増やしたらしいが以降は断っている状況とのこと。
したがってこちらからの要望で以下の案を追加することとした。
立ち見席、20名の追加(立ち見でカップを持つのは大変なためドリンクなし500円)。
受付開始22日11時から。
昨日のトークで記した電話番号へ。
2008/12/17(Wed)
年末トーク
今月の27日にトークをすることになった。
講演の類はあまりやらないが、今回は久しぶりだ。
以下、ジュンク堂書店のホームページより抜粋。
『メメント・モリ』21世紀エディション(三五館)刊行記念
藤原新也トークイベント
■2008年12月27日(土)18:00〜(開場17:30)
ロングセラー「メメント・モリ」の衝撃の刊行から25年。
カバーデザインを一新、20点以上の新たな写真とコピーが加わり、
この度「21世紀エディション」として生まれ変わりました。
発売を記念し、写真家の藤原新也さんをお招きしてお話を伺います。
会場:新宿三越アルコット8F「ジュンク堂書店 喫茶コーナー」
参加費:1000円(1ドリンクつき)
定員:40名(定員になり次第〆切になります)
お申込みは、ジュンク堂書店 新宿店7Fカウンターにて
またはお電話でのご予約も承ります。(TEL03−5363−1300)
2008/11/24(Mon)
私たちは彼、小泉毅に自らの願望を託してはならない。
厚生労働省元事務次官殺害事件について、こういった人命にかかわる出来事に関し、軽々にものを言うことは慎まなければならないので様子を見ていた。
だが小泉容疑者出頭後も世間の論調が迷走しており、判断不能に陥っている中でひとつの視点が欠け落ちていることをこのブログで書いておきたい。
私は当初、小泉の風貌を見た時、その坊主頭や服装や物腰から右翼的色彩を持った組織の者との第一印象を抱いていた。一介の素人があそこまで完璧な”仕事”をするのは難しいとも思っていたからだ。
反面この事件は当初から秋葉原の事件とひきあいに出されることも多かった。
私も秋葉原事件に関しては朝日新聞に寄稿しているが、そのときに書いたことのひとつが、加藤智大が秋葉原を選んだ理由のひとつが携帯やデジカメやネットのスキルに長けた人々の多い秋葉原で事件を起こすことで、自分の存在をメディアで大きくアピールできるということだった。
そしてそのもくろみは成功し、ほとんど同時進行的に彼はメディア化されたわけだが、私は彼がそのモンスターとなった自分の姿を最も誰にアピールしたかったかというと自身の親ではなかったかと思っている。
彼は自身のネットの書き込みで親への恨みを切々とつづっていたわけだが、英才教育に失敗した親は彼をのちに見捨て、加藤が派遣社員工としてトヨタの子会社に勤めるようになってからは家族の恥でもあるかのように、その存在に触れぬようにしていた。
この事件に関しては多くの論調が加藤智大の起こしたことは現在の過酷な雇用制度に対するテロ行為であると、なかば暗黙の肯定感とカタルシスをそこに求めたわけだ。とうぜん彼がそういった労働環境にストレスをためていたことは確かだが、私は彼は社会的メッセージとしてあの事件を起こしたのではないと思っている。
ここ数年、若年層の殺傷事件によく見られることだが、加藤智大の事件は親に対する間接的復讐の様相が濃いと私は思っている。
人間とはそういうものだ。
それがかつてのような政治の季節であるなら話は別だが、若者が主義や政治的目的のために命を賭すような時代ではない。
そういう意味では加藤智大の事件はスタイルを変えた、メディア氾濫の時代における劇場型とも言える家族崩壊事件なのである。奈良の幼児殺害事件の小林薫が携帯メールに殺害シーンの画像を添付して親に送りつけたように。メディア時代の青年は金属バットより有効なメディアという巨大な武器を身に付けたのである。
●
ひるがえって今回の厚生労働省元事務次官殺害事件に目を移してみよう。
厚生省元事務次官殺害事件が起きたとき、世間のとくにネット情報では、秋葉原事件の時とまったく同じようにそれが労働厚生省の不正に対するテロ行為であるとの肯定感とカタルシスをそこに求めたわけだ。
だが出頭してきた彼はあさっての方向を向いていた。
つまり犬である。
それも三十数年まえの彼が小学生であったころに溺愛していた犬が保健所に持っていかれたことの恨みを述べている。世間論調はこの荒唐無稽な供述についていけない。
単純に犬と保健所、そしてその管轄である厚生労働省に視点を当てているからだ。
視点を当てるべきは加藤智弘と父親の関係なのだ。
父親は小泉毅がかわいがっていた犬が人にほえたりして行儀が悪かったから保健所に持って行ってもらったとテレビのインタビューで答えている。
つまり保健所が勝手に人様の家の飼い犬を捕獲し薬殺することはありえない。ということは犬を殺したのは父親なのである。
おそらく泣き叫ぶ子供の目の前で愛犬は連れ去られたのだろう。
あるいは彼が学校に行っている間に処分されたのかも知れない。
たかが犬、されど犬。
それは幼少の小泉の分身であったはずだ。
分身を親の強引な支配のもとに殺された子供に強力なトラウマが植えつけられないわけはない。
小泉とその家族の間にその後どのような確執があったかはまだわからない。
ただ、彼は10年ほど前に家業を手伝う目的で一時帰郷している。
だがすぐに郷里(家族)を離れ、以降10年間音信不通の状態が続く。
このことは何を意味するかというと小泉は家族(おそらく父)と一度和解を試みている。
だがその時点で破綻をきたしている。
それが破綻であったということは10年もの長きに渡って音信不通という異常な状況が物語っている。
そして今回の事件である。
彼は出頭の前に10年ぶりに父に「手紙を送る」との数十秒の電話をしている。
その手紙の内容は2通り考えられるだろう。
1)なぜこのようなことを起こしたのかという父への恨み。
2)あるいは和解と謝罪(すでに彼は父に身に余る間接的復讐を終えているからだ)。
さてでは彼の刃がなぜ2件の厚生労働省元事務次官殺害に向かったかということになる。
それは保健所の管轄が厚生労働省となっているからではない。
小泉は風体に見合わず頭脳は明晰なようだ。
おそらく彼は今この時代、この時点にあってどのような事件を起こせばもっとも世間を騒がせ、愛犬薬殺以降30数年間葛藤のつづいた親への間接的復讐を果たすことができるのかというシュミレーションを行ったのではないか。
そのシュミレーションの中で選んだひとつの方法が厚生労働省元事務次官殺害を2つ重ねて行うということだった。とうぜん彼の中には他のいくつかの方法も浮上していたはずだ。
●
小泉毅容疑者の面相を見ると、顔は強持てで体躯はしっかりしている。だが私はそこに幼態のまま成熟した幼さを見る。
それは彼の精神の磁場が幼児期の被害妄想のトラウマに占拠されたままだからだろう。
彼が大人になっても周囲に対して理由のない激しい怒りをぶつけていたのもその被害妄想というトラウマが彼を突き動かしていたと想像できる。
あくまで今のべたことは現段階における情報をもとにした私の想像である。
秋葉原事件のおりもそうであったが、素面(しらふ)の人々というのは得てして自分の納得する、あるいは願望する論理の中に人間の行動を封じ込めたがるものだ。
だが人間というものはそうではないのではないか。
人間はもっと心というものに縛られ、支配された悲しい存在なのだ。
そして、その心の核には必ず肉親の影が色濃く落ちているものだ。
その意味において今回の事件の小泉毅は秋葉原の事件の加藤智大より、大阪の小学校で起きた児童殺害事件の宅間守死刑囚に酷似していると思う。
年齢的にも小泉は1962年生まれ、宅間は1963年生まれと、ほぼ同年齢と言ってよい。
父親から縁を切られていた宅間とその父親との間に激しい葛藤があったことは周知の事実であり、宅間の犯行は父との遺恨関係を抜きに考えられない。
今回の事件の小泉の父親のインタビューではその点において気になる言葉を吐いている。
すでに老境に入った小泉の父親の物腰は柔らかいが記者から感想を求められた彼は「あいつを八つ裂きにして自分も腹を切りたい気持ちだ」と思わぬ言葉を吐露している。
「八つ裂き」とは”他者”に対し最大限の憎しみを表現するときの言葉であり、かりに世間に対して申し訳ないという気持ちがそのような施罰的な言葉になったとしても、それは少なくとも自分の子供に対して発する言葉ではない。
言葉とはどこかに無意識を宿しているものだ。
2008/11/11(Tue)
筑紫哲也さんの死を悼む
緒形拳さん、筑紫哲也さんとここのところ一期一会、袖振り合わせた人の死に直面し、痛い。
筑紫さんとは80年代に『東京漂流』を出した前後に2回ほど対談している。元新聞記者らしく、よくバランスの取れた人だった。
そのバランス感覚と言えば『朝日ジャーナル』で彼がホストになってインタビューを受けた時のことが思い出される。
体制批判の急先鋒であった学生運動に参加していた糸井重里さんがのちにコピーライターとなり、見事に変節を遂げ、企業の片棒を担いでいることに違和感を覚えていたらしい筑紫さんが私の口から糸井批判を引き出そうと何度か水を向けてきたのである。
そこまで水を向けてくるならと冗談まぎれにずいぶん過激なことを言ったらあわてて修正の言葉を加えて私の勇み足をいさめた。それも朝日新聞に勤める編集者ならではのバランス感覚だろうと感心したものである。
そういう意味ではテレビメディアには合っていた人ではないのかと思う。
テレビでは過剰は許されない。
筑紫さんはその限界の中で相当果断な綱渡りをした人だと思うが、テレビ業界で10年20年生きのびることができたということは降板しなければならないような本当に危ないことは言ってはいないということでもある。これは横車を押すことが芸になっているビートたけしなどにも言えることだが、テレビにはそういうバランス感覚が必要ということだろう。そしてそういうバランス感覚を長年維持していると “良識”くささが匂うようになるものだが、彼はその良識にも陥ることがなかった。
●
筑紫さんがやっていたころの『筑紫哲也NEWS23』といえば次のような思い出もある。オーム真理教問題が世間を騒がせていたころ、インタビューをさせてもらいたいので会えないかというスタッフからの電話があった。
六本木のとある喫茶店で二人のスタッフが待っていた。
ひとりは『紫哲也NEWS23』のデスクらしい。私はテレビにはあまりこの件で出る気持ちはかったがインタビューであるから自分の話すことがそのまま放映されるなら出てもよいかなという思いもあった。
デスクは現在TBSアメリカ総局長で時折テレビでアメリカ報告をしている金平茂紀さんという人だった。
私はそこで当時『週刊プレイボーイ』で連載をはじめていた「世紀末航海録」に書きつつあったオームの麻原と水俣病に関する私の推測を述べた。あくまでこれは私個人が突き当たった事実をもとにした推量であると断ってのことである。
この推論は拙著『黄泉の犬』の冒頭に書かれていることだが、ある意味で公にするには非常に危険な推論であり、日ごろタブーに挑戦しているかに見える『筑紫哲也NEWS23』であっても放映は無理だろうとの腹があった。
案の定、私がその推論の一部始終を話し終えると彼らはなぜかあいまいな態度で口を濁していた。私としては放映が無理なら無理、その推論が放映に値するものでないなら、ないとはっきり言ってほしかったのである。
彼らのそのあいまいな態度を見て多少ふがいなさを感じた私は「やはり民放の番組というのはニュースのあとに企業のコマーシャルなんかが絡んでいますからね」と暗にテレビメディアの限界に言及した。
その言葉を聞いた金原さんはとつぜん「それはマクルーハン理論でしょ」という予想だにしない言葉を吐いた。
つまり彼は「メディアはメッセージである」との標語のもとに「メディアの中ではあらゆる情報やイメージが等価に干渉しあう」というあの古臭いマクルーハン理論を私が持ち出しているかのように述べたのである。まさかここでマクルーハンが出て来るとはと、そのいささか頭でっかちな発言でこちらの方が驚いてしまった。
私はスポンサーというものが最大の権限を持つ民放では今私が話したような話は出来ないのではないかときわめて単純なことを述べたまでのことなのだ。
結局私たちは後味の悪い雰囲気のまま別れたのだが、その後インタビューのオファーが来なかったことは言うまでもない。
それは当然のこととして私にはひとつ気がかりなことがあった。私のあの時の話は筑紫さんの耳に入っていただろうか、入ってはいなかったのだろうかということである。
そしてもし入っていたら彼はその話をどのように処理しただろうかと思うのである。
今となってはその答えを知るよしもない。
そんなこもごもの思いとともに民放テレビという限界の中で果断に戦って尽きた筑紫さんに、心からご苦労様と申し上げたい。
2008/11/09(Sun)
写真集をめぐる絶望と希望
毎年木村伊兵衛賞の選考が近づくと写真集が送られて来るが、昨今どの写真集の奥付を見ても自費出版に近いものか、弱小出版社の発行となっている。
この傾向はここ10年、いや20年顕著なことで、昨今大手の出版社が写真集を手がけることはほとんどなくなったと言ってよい。かつて7、80年代さまざまな形の写真集が大手から出されていた時代を思うと、想像もできないほど写真集受難の時代がやってきているわけだ。
とは言っても7、80年代においても写真集というものはもともとタレントのヌードや今でも中堅の出版社からコンスタントに出ているグラビアアイドルの写真集は売れるが、それ以外の写真集は採算をあわせるのが精一杯で売れるものではなかった。ひとつには日本人は欧米人と異なってにもともとビジュアルなものを楽しみそれに金をはたくという精神的余裕がないということ。そして基本的には日本人は文字の好きな民族ということがある。
それからもう一点あげなければならないのは大判で多色刷りで高価な紙を使わなければならない写真集はどうしても価格が高くなってしまうというネックがある。そしてかりに価格が高くとも初版のすべてがはけたとしても再版が非常に困難だ。
印刷費や紙代の高い写真集は採算ベースにあわせるには重版時に最低でも3000部は刷らなければならない。文字の本であれば1000部の刷り増しでも十分採算が取れるのだ。初版が多くて5000部の世界の写真集の状況ではぞれが全部売れたとしても再版は不可能なのである。写真集が初版止まりが多いというのはそんな単純なところに理由がある。
そういう難しい写真集の出版環境がある上に昨今の出版不況が追い討ちをかけているということだろう。この状況は拙著『メメント・モリ』であっても例外ではない。
26年前『メメント・モリ』は写真集としては異例の50000部を刷ったわけだが、当時の情報センター出版局の局長はこの本をどうしても1000円以内におさめ、広く見読してもらいたいという強い気持ちがあった。初版の980円を維持するぎりぎりの線が50000部だったのだ。社も非常に勢いのある時代であり、そのようなきわどい勝負もすることが出来た。それでも彼は再版が怖いと漏らしていた。980円の定価では10000部を刷らなければ採算が取れないからである。
だがこの『メメント・モリ』は採算ラインに合うよう定価を徐々に上げつつ長年にわたって再版を維持してきたのだ。近年は年に2回、それぞれ3000部の刷り増しという数字が多いがそれが儲けも損もない採算ラインの数字だったのである。
そういったボランティアに近い地道な出版を重ね何とか『メメント・モリ』を維持してきた情報センター出版局には感謝している。
だがこういったぎりぎりの再版活動もここのところの資材の高騰で難しい局面に立たされつつあった。このまま行けば『メメント・モリ』はやがて廃刊に追い込まれるに違いないという私なりの読みがあった。
『メメント・モリ』のリニューアルの理由はメンタル面においては先のブログで書いているが、もうひとつの理由としては刷新によって新しく息を吹き返さなければならないところまで来ていたのである。
『メメント・モリ』が写真集かどうかというのは異論のあるところだろうが、ロングセラーであるこの本にしてそのようなひっ迫した台所事情があるわけだ。
このような時代にあって写真集を大手が敬遠し、自費出版かそれに近いものしか形にならないということはある意味で残念ながらいたし方のないところだろう。
そのような写真集をめぐる状況の中で『メメント・モリ』を維持することは若い写真家にも希望を与えることにもなるわけであり、悲観的な材料だけでなく、写真というものが今後どのような方法論によって新たな可能性を持ちえるのか、私としても探って行きたいと思っている。
2008/11/02(Sun)
魚の釣り方さえ知らないのだから教えようがないのかも知れない、釣り名人の化けの皮。
小泉、安部、福田と首相が変わるたびに辛口の言葉を吐かなければならない一国民として、いつか誉めるような首相や内閣が生まれてほしいというのが本音だ。
今回の麻生首相に関しても総裁選に参画したおりに先のブログでキャバクラの店長がお似合いだと多少ふざけた評価を下した。そんなおり一時期通っていた歯医者に麻生さんも通っていて、どうやら医者のkさんはそのことを笑い話として麻生さんに伝えた様子だった。
いやあれは評価の言葉なんですよと伝えてほしいと弁明したわけだが、まんざらそれはウソでもなかった。
プレスリー狂いでアメリカの言いなりになった小泉やひ弱なお坊ちゃまクンの安部、一企業の経理担当くらいがお似合いの福田より土建屋のオヤジが似合う田中元首相のような泥臭さがよいと思っている者としてはキャバクラの店長がお似合いというのはある意味でひとつの評価なのである。
それから麻生さんは私と同じ県の出身ということもあり、件のように同じ歯医者に通っていたこともあり、この4代続く二世首相の鬱陶しさを帳消しにしてもがんばってもらいたい、どこか評価したい、との思いがあったわけだ。ところが今回の景気浮揚のための緊急対策を見てみると、ひょっとしたらこの人、歴代の首相の中でも稀代の無能首相なのではないかとの思いをぬぐえない。
100年に一度の経済危機という言葉を吐きながら、採った政策が国民一人当たりに一律1万2千円の給付金を配る。日曜祭日はどこまで行っても高速道路1000円。
わが耳を疑った。ナニそれ?
まるで小学生が考えるような場当たり的政策、いや政策というより”思いつき”。
政局より政策と口癖のように言いながら政策を政局にすりかえるという姑息さはあのねじれ飴のような人相にぴったり。これは公の元で大っぴらにできる税金を使った全国規模の選挙対策の贈収賄以外のなにものでもない。百歩ゆずって政策であったとしても貧困、無能、さらに言えば財務金融担当大臣の中川を含め2バカ閣僚のご乱心であり、アホなトップをいただく国民の不幸はまだ続くのかと思うとうんざりだ。同じく無能であった小渕内閣の時のばらまき政策時のように金を与えても使うとは限らないとわかっているわけだから2ヶ月間有効の「時限金券」のようなものを発行するくらいの芸はやってほしいのだが、そういう学習能力もないらしい。
中国の故事に優れた政治家を言う次のような逸話がある。
釣り初心者の子供が川辺で釣りをしている。
そこを通りかかったすでにビクいっぱいに魚を釣っている釣りの名人が、一向に釣れないその子供の様子を見ていた。
そして彼は子供に自分が釣っている魚を与えるのではなく、そこで釣りのやり方を教えるのである。釣りのやり方を習った子供は生涯に渡って食料を確保できる。
それが政治であり、優れた政治家のやることだと故事は伝えている。
今回の2バカ閣僚のとった行動は一時しのぎにその子供に魚を与えただけのことで、それは食ってしまえば一夕にして消えてしまうあぶくのようなものだ。しかもその魚代は我々国民のポケット(税金)から抜いてこれ見よがしにくれるわけだから一風変わった種類のスリのようなものである。
この100年に一度(麻生の言)の経済危機のなさか、どうやら100年に一度の無能内閣が誕生したようである。
2008/10/30(Thu)
君、生き急ぐことなかれ、死にたもうことなかれ
本の寿命が短い。
むかしは情報の移り変わりがゆるやかで書店に数ヶ月間くらい単行本が置かれるのは普通のことだった。その寿命が年々短くなり、昨今はまるで雑誌扱いのように一週間あるいは数日で本が撤去されることすら珍しくない。ときには本屋に送られて梱包も解かずそのまま送り返されることさえある。
誰もが本を書くようになって書籍の出版点数が増えたことと、人々の情報の消費が加速していることの現れだと思うが、時には数年もかけて書いた本が一週間で人々の目の前から消え去るわけだ。
そんな書籍短命化の時代にあって拙著「メメント・モリ(死を想え)」が二十六年もの長きに渡って読み継がれていることは稀有としか言いようがないし、ありがたいことだ。
●
「メメント・モリ」は私が長年アジアから日本にかけて旅した折に撮った写真に人間の生死に関する詩を添えたものだが, この本が出来る過程の隠された経緯を話すならきっと読者は驚くはずだ。公にするのはこれがはじめてだが、この本に収められた七十二編の詩は、実は一日で書かれたのである。
製作の過程は次のようなものだ。
まずそれまで長年の間に撮った写真を私なりの基準でセレクトする。200点はあったと思う。その写真を1メートル四方の大きなビュアーに並べる。そして心を落ち着かせる。心身の集中度が高まった時点で写真に目を移す。数多くある写真の中のどの写真に目をとめるかという法則はない。目に飛び込んできた写真がその時点で選んだ写真ということになる。
私が写真を選ぶのではなく写真が私を選ぶのだ。目に飛び込んできた写真を見てそのときに脳裏にひらめいた言葉をさっと口唱する。かたわらに居る編集者がその言葉を即座に書きとめる。
作詞をあえて二十四時間内に行うということを自分にかせたのにはひとつの理由がある。長い文章は物理的にそれに応じた執筆の時間が必要だ。だがひらめきによって生まれる一行詩のようなものは長い時間をかけて考えるものではないと思っている。思考によって生まれるのではなく、言葉そのものが生き物のように身体からほとばしる。それが理想だと思っている。
そして詩が次々と生まれた。
夜明けから、次の日の夜明けまで、窓の外に朝の青い光が満ちはじめ、最後の詩「あの景色を見てから瞼を閉じる」が口から出たとき、それを書き取る編集者の目にうっすらと光るものを見た。ずっと詩の生まれる瞬間に立会い、そして詩を聞き続けたことによって彼の中に気持ちの高まりが生じたのかも知れないと思った。
詩は何篇作らなければならないという決まりはなく、時間のリミットが来たら終わりということだったから、最後の時計の秒針が二十四時間目の終わりを指したとき、緊張が一気に解けた。そして私は昏倒するかのように仰向けになり、そのまま深い眠りについた。
「メメント・モリ」の誕生である。
当然この「メメント・モリ」が二十六年もの間読まれ続ける本になることなど本の制作に関わった誰もが想像だにしていなかった。
今では写真に詩を付した作りの本がずいぶん出回っているが、当時写真にこのような詩をつけて書籍化するというような試みはなかったから読者は今までに見たこともないものを手に取ったということだろう。
以降、この本は多くの人々の生き方や人生に関わってきた。
そして二十六年目の今年、時代に応じた新しい息吹を吹き込むため「メメント・モリ」は改編されることになる。版元も「情報センター出版局」から「三五館」に変え、装丁も初版の装丁者である坪内祝義さんの手によって一新し、二十編あまりの新しい詩と写真を入れ替えた。文字はすべて贅沢なシルバーとなった。白抜きでは写真の邪魔になっていたからだ。シルバーというのは角度によって薄くなったりはっきり見えたりする。この効果が大変いい。
この本が長きに渡って生きながらえたのは「情報センター出版局」の地道な出版活動も無視できない。初版の刷りが案外多く、5万部のスタートだったから、1年にそれぞれ3千部で2回程度増し刷りをして合計おそらく20万部くらい(詳細は把握していない)出ているはずだが、大手の出版社であったとしたらそこまで地道な再版をしただろうかというとどうも怪しい。
その意味において版元には感謝している。版元を変えた理由は別にトラブルがあったわけではなく、これまで海外の人がこの本を手にしても言葉がわからず歯がゆい思いをしていたので、私としては採算は取れないにしてもぜひ英語版を作りたかった(十一月下旬に出版予定)ということと、当初この本の編集に当たった情報センター出版局の編集者が三五館を興した人ということがあった。情報センターで十分役割を果たしたので彼のもとに返したいという思いは前からあったのだ。というのは私はいかなる出版活動にあっても対出版社と仕事をしているという意識はなく、編集者個人と仕事をしていると常々考えて来ているからである。
その私の考えを情報センター出版局では快く受けてくれて、三五館へ移譲となったわけだ。そしてこれから将来に向けての情報センター出版局での本作りの話も進んでいる。いかなる遺恨も残すことなく、大人の解決ができてよかったと思っている。
さてその新「メメント・モリ」の帯文には次のようなコメントが記されている。
●
さよなら「メメント・モリ」そして、こんにちは「メメント・モリ」
日替わりで情報が消えていくこの時代に二十五年の長きに渡って読み継がれている本書は稀有の書だと思う。その二十五年にいろいろなことが起こった。最愛の肉親の死を受け止められない人が本書を読み、気持ちの落ち着き所を見つけられたという例は多い。重荷を背負った自分から解放されたという人もたくさんおられた。悩みあればことあるごとに本書を開くという人。あるいは本書を片手に命を絶ったというメールがその女子高生の友人から来た時、私自身がなぜかと悩まざるを得なかった。またあるアーティストたちは本書にきっかけに歌や映画や演劇をつくった。
こうして長きに渡りさまざまな人々の人生に関わってきた「メメント・モリ」はすでに私の手から離れ、それのみで光を発している。そういった自立した書を改編するというのは不遜ではないかとの思いもあった。
だがこの二十五年さらに悪化の一途をたどっている世の中に生きるための座右の書として、より研ぎ澄ました強固なものにしたいという思いが私にはある。そして心を鬼にしてある写真や言葉を葬り、ある写真や言葉を産んだ。賛否はあるだろう。それは甘んじて受けたい。そして読者と切磋琢磨しながら、本書はこの地点にとどまることなく、さらに進化して行くはずである。
●
帯にそのように書いているようにこの本はさまざまな人に影響を及ぼして来た。
表現の分野でもこの本にインスパイアされてさまざまな表現が生み落とされている。先般のブログでも記した緒方拳さんとの関わり。またミスターチルドレンの桜井和寿さんがこの本をもとに「花」を作曲したことはよく知られる。あるいは最近話題になっている映画「おくりびと」の主演の本木雅弘さんは二十代の後半で「メメント・モリ」を読みインドを旅したらしい。そしていつか死をテーマにした映画を作りたいとの思いを温めていて実現したのが「おくりびと」とのことである。
そのように書物が人の生き方や表現に影響を及ぼすというのは著者にとってこの上ない喜びだが、逆に言えばこんなに恐ろしいこともない。
その思いを身を持って知ったのが新「メメント・モリ」の帯にも触れている、ひとりの女子高生の死であった。
三年前のある秋、ある女子高生が私のホームページにメールを送って来た。その文面を読み、私の思考は一瞬止まった。彼女の友達が「メメント・モリ」を枕元にこの世を去ったと書いてあったからだ。私は少なからぬショックを受けた。この本は死を想い、よりよく生きようという思いで書かれた本でもあっただからだ。そんな思いで書かれた本が人の死を誘発したとするなら本末転倒である。
……一体なぜ彼女は死んだのだろう。考えつづけたがわかるわけはなかった。ちくしょう、と思った。あるいはひょっとしたらこの本はそのとき彼女の死に際しての枕経のような役割を果たし彼女の死を和らげたのかも知れないとも思った。
そんなさまざまな思いを抱きながら私は、メールをくれた女子高生にメールを打ち返した。彼女の死が何だったか知りたいと。だがついにメールに返事は来なかった。
今回の「メメント・モリ」の改編は先にも述べたように時代に即した新しい息吹を吹き込むためということもある。
だがここで本音を言えば、ひとりの女子高生の死が私の中にいつまでも解決不能のわだかまりをもたらしていたということが幾つかの改変の動機の中のひとつであることは間違いない。
「メメント・モリ」が彼女の死にどのように関与したかは不明だ。
だが亡くなったことは確かなことであり、その事実は重い。
……この本はまだ力不足じゃないのか。
そんなひそかな思いが私の中に生じていてずっと消えなかった。
ヒトさまを救うといううぬぼれたことを考えているわけではない。少なくともまだ人生がはじまったばかりの未熟な者にとりついた死神と渡り合うくらい、もうちょっとパワーアップしなけりゃな。そう思った。
この二十五年間、人々、とりわけ若者をとりまく時代環境は苛酷になっている。そんな時代の中で、もう一度自分の分身であるこの本を鍛え直したいと思ったのである。
掲載した新版の「メメント・モリ」にある次の新しい言葉は、一人の若者の死がきっかけとなっている。
2008/10/20(Mon)
改訂版「メメント・モリ」
改訂版「メメント・モリ」はいつ出るのかという問い合わせが多く、ホームページで先駆けてお知らせするのがスジだと思うので、つい先ほど出来上がって来た本をアップしておく。カバーは銀である。
2008/10/14(Tue)
雅子さんバッシング報道には妙な情報操作が隠れているような気がしてならない
ところで以前、雅子さんのことにこのブログで触れて少なからぬ反響があって以降、マスコミに見られる雅子イジメとも言うべき現象をひそかにフォローしていた。
週刊誌では定期便のように雅子さんバッシングの記事が現れるが、今週もまたバッシングをうかがわせる「週刊文春」の見出しがある。
「雅子さま運動会観戦に”とんでもないことだ”朝日名物記者がかみついた」
拾い読みしてみるとその”かみついた”人物というのは朝日の編集委員(すでに定年退職しているらしいが編集委員として残っているとのこと)宮内庁担当記者の岩井克己とある。
ああ、またこの人物かと少なからず合点した。
これまで時系列を追ってさまざまな雅子バッシングの記事に目を通して来たのだが、なぜか雅子バッシングの記事には必ずこの人物が急先鋒となって登場するのである。
以前この人はどういう人かと朝日の幹部の人に尋ねたことがあるが、皇太子と美智子さんのご成婚をスクープした記者ということらしい。
それにしても、なぜこの人物はことあるごとに雅子バッシングに精を出すのだろう。
不思議なことに雅子さんの病状に回復の兆しが現れはじめると、彼のバッシングが始まるのだ。
なんらかの意図があるのだろうか。
今後もフォローしてみたい。
2008/10/12(Sun)
アカプリで負のオーラを放っていた彼、そして世界に向かって「ノー!」と叫ぶあの帽子をかぶる男の孤独とは一体何。
ある意味で壮絶と言える人生であった。
ロスで自殺した三浦和義氏は一度赤坂プリンスホテルのロビーで見かけたことがある。階段わきのポールに寄りかかって携帯で話し込んでいた。
アカプリのロビーというのは相当の広さで多くの人が居たのだが、入り口からロビーに入った瞬間、遠くの人物に妙な存在感を感じたのだ。そこだけがブラックホールのように負の空気が漂っていたからだ。背の高いすらりとした男で色黒だった、
昨日、ロスに護送する飛行機の映像を見ながら妙なきな臭さを感じてもいた。
えらく派手なロゴの入った帽子のことが気になったのだ。
その全部の文字が見えたわけではないが、PEACEとPOT言う文字が読めたように思ったとき、おいおいずいぶん物騒な帽子をかぶっているなと思った。
PEACEとは幻覚剤、POTとは大麻のスラングだからだ。その横にMIの文字が見えたとき、それはMICRODOT(マイクロドット)であろうとの想像がつく。
MICRODOTはLSDのスラング。
この三つのドラッグに関するスラングは私がインドに居たころよく使われていて、ヒッピー連中の間ではその頭文字が別れのあいさつ用語にもなっていた。
敷衍してそのあいさつはあのなつかしき反体制スラングである。
それにしてもあんなアナクロな帽子どこで見つけてきたんだろう。
アメリカという国はかつてのようにドラッグに寛容ではない。というよりタバコすら排除しょうとするほどクリーンシンドロームの吹き荒れる国だ。その傾向は9・11以降さらに過剰になった。したがってサイパンにあのような物騒な帽子が売っているとも思えない。
ひょっとすると獄中にいる間、彼がデザインして注文したのだろうか。
三浦氏はいっさいのコメントを拒否し、体制、あるいは世界そのものに向かって「ノー!」と叫ぶがごときその帽子をかぶって、おそらく死地となるであろうロスに向かった。しかし誰もその物騒な帽子を取り上げなかった。それは誰もがそれに気づかなかったということだろうか。
あるいは9・11以降もまだこの国に辛うじて言論の自由が保障されていることの証だろうか。
いずれにしても彼には覚悟は出来ていたということだろう。
それにしても他者を信じず、自死するほどの底なしの彼の孤独とは一体何だったのだ。
合掌
ここのところ合掌続きだが、死すれば善も悪もみなほとけ様。
2008/10/08(Wed)
骨にはりついた空しい肉片でニヤリと微笑んで死ぬ演技を残して逝ったような気がする
俳優の緒形拳さんがお亡くなりになられた。
私は緒形さんとは面識があるわけではない。
4年くらい前、彼の方から連絡があった。
私の著書「メメント・モリ」の中に収めれれている詩のひとつを書にしたためたいのだが許諾してほしいということだった。緒形さんが書をたしなみ、優れた書をかくことは何かの雑誌で知っていた。そのように使われるのは私としてもうれしいことなので快く承諾した。
しばらくして彼の立派な装丁の墨跡集が送られて来た。ページをめくるとそこには紙に刻み込むような力のこもった書がしたためられていた。
彼が「メメント・モリ」の中で選んだのはこの詩だ。
「その景色を見て、わたしの髑髏(シャレコウベ)がほほえむのを感じました」
一昨日と昨日、京都の印刷所にいた。
新しい「メメント・モリ」の本刷り立会いのためである。
普通、写真家は校正刷りを見て意見を言い、本刷りに立ち会うことは少ないが、私は実際の刷りである本機構成にも必ず立会う。そしてすべての色出しに考え方を伝える。緒形さんが亡くなられたとの報に接したのは偶然にも彼が選んだページを含む版に目を通したあとだった。
その後の報で彼は5年前に肝臓ガンを患ったとある。
緒形さんが「メメント・モリ」を手にしたのはひょっとしたらその時かも知れないという思いが走る。少なくとも「その景色を見て、わたしの髑髏がほほえむのを感じました」という詩を選んだのはガンを宣告されたあとということになる。
彼らしいな、と思う。
この詩は「メメント・モリ」の中にある死に関する言葉の中でも挑戦的で諧謔(かいぎゃく)をはらんだ言葉だからだ。
人は皆それぞれの肉の内側に髑髏を擁している。
人がほほえむ時、髑髏、つまり骨がほほえむのではなく、その骨の表面に張りついた皮や肉がほほえむに過ぎない。そのように人間の喜怒哀楽とは肉の動きにゆだねられる儚(はかな)く消えやすい現世における時限的現象だ。
私の脳の映像の中では「その景色を見て髑髏がほほえんでいる」とき、その骨に纏(まと)いつく皮や肉は死んだように微動だにしていない。だが内部の骨はほほえんでいる。現世とは真逆なのだ。現世に生きながら意識は死の世界の普遍を見つめ、その世界で遊んでいる。
「骨格」という言葉がある。
人はみなその死の世界に等しい骨格を所有している。その骨格を見失い、それを被う肉のみがぶくぶくに肥大化し、肉に発生するたくさんの煩悩によって人は右往左往する。自らの身体を形作る骨格という普遍を見つめ、意識することで肉の氾濫は制御できるはずである。
だが「メメント・モリ」には「人間は肉でしょ。気持ちいっぱいあるでしょ」というそれとは矛盾し、相反する詩もある。
緒形さんは肉の詩ではなく、髑髏の詩をお選びになった。
ひょっとしたら彼はそのとき、覚悟しょうとした、あるいは出来ていたのかも知れない。
ふと、そのように思う。
ご臨終のとき、緒形さんの髑髏にまとわりついていた肉はどのように動いただろう。
……あるいは髑髏は微笑んだか。
それは知るよしもない。
合掌
2008/10/04(Sat)
蟹工船、燃ゆ。
大阪のビデオルーム火災で一人の介護ヘルパーの男性が死んだ。
ニュースの中で足早やに通りすぎるように流れたコメントだったが、この現実の痛さに一瞬時間が凍てついた。
彼は1泊1500円のビデオルームから老人介護の仕事に通っていたということなのだろうか。介護ヘルパーの労働賃金が安く、食っていけないということは巷間ささやかれるところのものだが、大都会の場末の業火によって図らずも「日本の現実」というものが炙り絵のように浮かび上がった恰好だ。
合掌
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