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ジャーマネの小部屋から scene21

●日本全国秘境駅巡り No.04 〜田面沢駅〜

1.田面沢駅とは

今回ご紹介する田面沢(たのもざわ)駅は、かつて埼玉県入間郡田面沢村
(現在の埼玉県川越市小ヶ谷近辺)に存在していた、
東上鉄道(現在の東武東上本線)の鉄道駅です。
首都圏の通勤路線における廃止駅という比較的珍しい存在であるため、
しばしば鉄道ファンの話題になりますが、現地に駅の位置を特定出来る
痕跡らしきものが全く見当たらず、しかも文献の記述必ずしも詳細ならずで、
田面沢駅の存在は小さな謎として知られるようなりました。


2.東上鉄道(現東武鉄道東上本線)

関東を代表する大手私鉄、東武鉄道の中にあって独自の路線を行く東上線。
正式名称は「東上本線」、またその運用も「東上業務部」という他の線とは
一線を画した組織で行なわれているなど特殊ですが、元々は東上鉄道という
東京と上州を結ぶ計画を持って生まれた別会社がルーツだと知れば、
それも頷けるものがあります。

その東上鉄道の第一期開業区間が池袋駅〜田面沢駅とされています。
田面沢駅は1914年5月1日の東上鉄道開通と同時に、
同鉄道の終着駅として開業しました。
入間川の東岸に位置しており、入間川を渡る橋梁が完成するまでの
暫定駅だったとする説が有力です。
1916年10月27日入間川橋梁が完成し、坂戸町駅(現坂戸駅)まで
路線が延長されると同時に、川越町駅(現川越市駅)〜田面沢駅間が
廃止されました。
わずか2年半ほどの営業期間でした。

「東武鉄道百年史」によれば、1916年11月2日に川越町−田面沢間が
免許失効、正史によれば同区間は廃止となっています。
詳細に差異はあるものの、田面沢駅がこの時をもって消滅したことは確実です。

その後、東上鉄道は1920年に東武鉄道に合併され、
1925年までに寄居まで全通しています。
否、現在の路線網に照らす限りの全通であって、実際のところは
計画意図の半ばで挫折した中途半端な路線にとどまってしまったのです。

東上の上とは「上州」の上。

壮大な構想を蔵していたにもかかわらず、東武鉄道東上本線は
上州のはるか手前で止まってしまいました。

のち1931年、八王子−東飯能間と児玉−倉賀野間の開業を皮切りとして、
1934年小川町−寄居間の開業をもって全通した八高線と競合するため、
それ以上の延伸がかなわなかったといわれています。
そのため、東上鉄道は地域間を結ぶ幹線鉄道というよりもむしろ、
埼玉県内のローカルな鉄道となり、後年には首都圏への通勤輸送を担う
大動脈へと変貌しました。
今日の盛況からすれば、東上鉄道に廃止された駅・区間があるとは
にわかに信じがたいところです。


3.田面沢駅の謎 〜 田面沢駅はどこだ? 〜

JR川越線は東上鉄道よりずっと後から出来た路線(1940年開通)
ですが、こちらには現在西川越という小駅があり、
街道沿いという事もあって周囲は多少民家が立て込んでいます。

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<写真>JR西川越駅

その線路を踏切で越えて北の方へ進んで行くと、
あたりは一転して一面の田園地帯となり、東上線がそのど真ん中を貫いて
入間川橋梁に向かって築堤を駆け上がって行くのが見えます。
そしてこの築堤の途中こそが、地図上では田面沢駅のあった場所なのです。

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<写真>一面の田園地帯を貫く東上線

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<写真>周囲はのどかな田園風景が展開している。この畦道の突き当たるあたりが駅跡か。

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<写真>ここが田面沢駅であったとされる築堤


ここで疑問その?...
■仮駅とは言え、何故こんな街外れの場所に駅を設けたのか?

田面沢駅の南側には、村落が当時から若干はあったようですが、
それにしても駅を置くような場所だったでしょうか?
線路は開通していたとはいえ、旅客列車は川越市駅(当時は川越町駅)で
折り返しでも充分だったのでは?
あるいは入間川橋梁工事の為の資材や、作業員運搬の為に開設された
という可能性もありますが、それにしても寂しい場所です。

この区間は、複線化の目的で架橋された新橋梁と共に線路が切り替えられた為、
現在は路盤が南側に移動しています。
その為に、線路が途中でググっと川上へカーブを描いてから
鉄橋へと進入しているのが良くわかります。

tanomo08.jpg
<写真>複線化に伴い新橋梁が上流に移った為、進入部の線路がクランクしている。

そのカーブの始まるあたりを目指し、
田んぼの中の農道を進んで旧線跡に近づくと、
付け替え前に使われていた跨道橋の煉瓦積みが、
遺構としてまだ2箇所程残されているのを発見出来ます。

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<写真>跨道橋跡その?・・・川越市駅側に一番近い跨道橋跡の煉瓦積み。

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<写真>跨道橋跡その?・・・入間川寄り跨道橋(小ヶ谷橋梁)跡の煉瓦積み。


さて疑問その?...
■仮駅は本当にこの築堤上に設けられたのか?

当時は非電化だったため、走っていたのは蒸気列車です。
終点では機関車の付け替えを行なわなければならず、
その為には当然ながら機廻線が必要になります。
単線の築堤上にそれを作る余地は無いし、
ここは入間川に向かって勾配になっているので、
駅としては条件がよろしくありません。

勾配は跨道橋の桁下高を制限する交通標識から判断すると、
片方が 2.7m、もう一方が 3.5m、地図上の距離で
その間120m程なので、ざっと7‰(パーミル)弱という感じです。
という訳で、ここはやはり勾配を避けた築堤脇の地平、
もしくは勾配区間の手前に駅が設けられていたと考えるのが
自然ではないでしょうか。

いや待てよ...
何れ廃止してしまう仮駅にそんなにお金をかける訳が無いから、
ひょっとすると築堤上の線路一本ホーム一面で、到着した列車は
そのまま推進運転で折り返して行ったのかも知れないぞ...ムニャムニャ。

ここで下記のマップをご覧下さい。

<マップA>
tanomo01.jpg
<マップB>
tanomo02.jpg

マップAは、国土地理院(当時は大日本帝國陸地測量部)が
大正4年に発行した1/5万の地形図「川越」。
マップBは同じく大正13年の「川越」。
これを見る限りでは、現在の東上線ルートと重なる線路上に
田面沢駅の位置が記されています。

そこから類推出来る実際の駅の位置は、
多少の誤差及び省略記法を考慮すると、
以下の5パターン程度になるのではないかと考えられます。

1.現在線(厳密には旧橋梁への取付部)の築堤上
2.築堤南西側の地表
3.築堤北東側の地表
4.築堤の開始点付近地表
5.築堤の直下部

<図解>
tanomo05.gif

しかし、この5パターンだと矛盾が生じてしまいます。
件の「東武鉄道百年史」に、次の件があります。

『終点田面沢は明治22年小室、今成、小ケ谷各村に野田新田、
および野田村の一部が合併して田面沢村(現川越市)となったもので、
〜(中略)〜
駅舎は入間川右岸の小ケ谷にあり、一応、第一拠点の川越市に達したため、
当地を仮の終点として、前述のとおり大正3年5月1日、
池袋〜田面沢間の営業を開始した。
その後、鋭意延長線工事を継続し、(大正)5年2月には
川越町〜田面沢間の旅客輸送を廃止して貨物輸送に限る、としたが、
同年10月27日川越町から方向をやや南西に変え、
坂戸町まで9.2kmが開通したため、川越町〜田面沢間を廃止した。』

注視すべきは、「方向をやや南西に変え」、と
「川越町〜田面沢間を廃止」の2箇所の記述。
これは既設の路線に対して「方向をやや南西に変え」た事を
意味しているものと思われます。
さらに単なる延長なら、既に出来ている部分を一旦廃止するのは誠に不自然です。
工事による一時休止ならまだわかりますが、戸籍上廃止しているのです。

例えば図解で示した 3.の位置に駅があったとして、
そこからの変更で延伸した場合は「南西に変え」たとも言えますが、
既存路線を廃止する理由の説明がつきません。
やはり一旦廃止するからには、
それなりに現路線から離れている必然性があるでしょう。
それとも、一旦貨物線化してしまったために便宜上廃止し、
新線扱いにして再開したのでしょうか。

謎が謎を呼びます。


4.田面沢駅の謎 〜 田面沢駅はここだ! 〜

そこで、この「東武鉄道百年史」も思慮に入れると、
もう少し大胆な仮説が立てられます。
ただし、この仮説が正しければ、当時の地図が大間違いであるという
事実へと結びついてしまいます。
さて、どっちが正しいのでしょうか?

そもそも、東上鉄道の川越から先は、当初は坂戸へは向かわずに
東松山へ直進する計画でした。
当初の計画では経由地が川越、小坂、松山となっており、
現在の不自然に屈曲した経路とは違っています。
東松山を目指すとすると、当然ながら現在線よりは北東を向く事になり、
これと駅のあった住所として記録されている「小ヶ谷」を加味すると、
田面沢駅が所在した場所としては、下図の可能性が高そうです。

tanomo03.jpg

地図上でちょうど『河越館』の対岸となり、少し民家の固まっている一帯です。

この辺の話はおそらく昔から何度も論議されて来たのでしょう。
そういう故あっての、謎多き駅:田面沢なのです。


4.その後の田面沢駅

1916年10月27日に川越町〜坂戸町が開通すると
田面沢駅は廃止され、入間川を渡った所に新たに「的場駅」が開設されます。
この的場駅は1930年に「霞ヶ関駅」に改称され現在に至っています。
的場駅の名前はそれから10年後の1940年に国鉄川越線が開通すると、
その駅名として復活します。
一方、田面沢駅の名前はそのまま忘れ去られてしまいました。

さて、忘れ去られた田面沢駅ですが、
実は同じ場所に季節駅が置かれたことがあります。
戦前の一時期、東上線の入間川橋梁付近の河原が水泳場として賑わいました。
その為、夏季の水泳シーズンに限って入間川橋梁手前に
水泳客のための臨時停車場を設けたのです。
当時、この水泳場は「小ヶ谷の河原」と一般に呼ばれていたようですが、
臨時停車場は「東武鉄道百年史」によると「入間川水泳場駅」と呼ばれていたようです。


謎多く、ロマン溢れる田面沢駅。
目をつぶれば当時の情景が浮かび上がってきます。


ロマン度:☆☆☆☆☆
住  所:埼玉県川越市小ヶ谷

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2008年07月07日 11:22に投稿されたエントリーのページです。

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