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【群馬】『重監房』貴重な証言集まる 草津 ハンセン病療養所『栗生楽泉園』2008年12月22日
草津町の国立ハンセン病療養所「栗生(くりう)楽泉園」で進む回復者たちの証言集作りの過程で、戦前に患者たちを強制収容した「重監房」に関する貴重な証言が複数寄せられていることが、明らかになった。証言集作りは県の予算で埼玉大教養学部(さいたま市)の福岡安則教授(社会学)を中心にして大詰めを迎え、来春に過酷な強制労働なども含む約五十人の差別体験を三分冊程度で計一千ページ以上にまとめる見通し。 (菅原洋) 福岡教授は被差別部落などの聞き取り研究と差別問題の第一人者。二〇〇二年に設置された「ハンセン病問題に関する検証会議」で、検討会の委員に選ばれ、その後に全国十三カ所の国立療養所に足を運んだ。 検討会の委員だった〇三年、福岡教授が聞き取りの調査票を作成し、楽泉園を含む全国の回復者ら約一千人を調査。ただ、当時の調査結果は一部しか公開されず、その後に楽泉園の自治会役員たちが証言を生かそうと福岡教授に協力を呼び掛けていた。 福岡教授によると、全国の国立療養所で証言集を持つのは二、三カ所しかなく、楽泉園で出すのは初めて。証言集には、東京地裁などへ提出された国家賠償請求訴訟の陳述書も活用している。 証言集の編集には、県が本年度予算で約五百万円支給。県内有識者らで組織する編集委員会の委員長を福岡教授が務め、八月からほぼ毎月楽泉園で委員会を開いている。 掲載される約五十人のうち、多くが検討会での証言と陳述書を基に、委員会の開催に合わせて再度聞き取りの補充を重ねている。新たに聞き取り調査を始めたのも数人おり、一人当たり最低でも一時間で、長いと六時間に達する場合も。聞き取りはメモを取りながら録音し、録音内容を起こすなどの作業は大変な労力となる。 掲載されるのは入所した順。証言後に亡くなった人や在日コリアンもいる。写真を複数入れ、発行元は楽泉園の自治会。完成後は非売品として、図書館や全国の関連施設や自治体に配る予定。約二百ページのダイジェスト版も検討している。 福岡教授は「権力によって強制隔離された人々の体験をまとめて証言にしたところに意義がある。回復者たちは高齢者が多く、全国的にも早急に聞き取りや証言集作りを進める必要がある」と強調している。 ◆虐待や過酷な強制労働もハンセン病差別の象徴ともいえる重監房に関しては回復者たちが高齢化し、継続的に中に入って食事を運ぶなどの作業をした「生き証人」は二人しか確認できていない。栗生楽泉園の患者五十年史「風雪の紋」でも、重監房に触れた証言が少ないだけに、今回の証言集は意義深い。 証言集で注目されるのはまず、一度重監房で便所のくみ取り作業をした関一郎さんの言葉。「後で聞いたら、中へ入っていたのは十七歳の少年だったと。『裁判あるの』って聞いたら、『ない』と。これには一番の衝撃を受けた。少年法の適用もないと。患者虐待ではないか」 中原弘さんの証言も過酷だ。「氷点下二〇度近く下がる冬も、弁当の差し入れ口は開いたままで、冷たい風が容赦なく吹き込んだ」「食事を運んでいた者は『同室者の死を知らせずに二人分の食事を食べた収容者がいた』『死者はやせ衰えて軽く、くま手で布団と一緒にかき出せるほどだった』と言っていた」 故・畑中竹松さんも忌まわしい記憶をよみがえらせる。「私の友達が他人の長靴を履いて許可なしに外に出たという(だけの)罪で、重監房に入れられた。一時出された時に見たら、がい骨のようになっていたので、びっくりした」 畑中さんは多くの患者たちが体験した強制労働にも触れる。「薪(まき)を谷底から上まで患者が一列に並んで上へ上へと運び上げた。急斜面に立って下から受け取った薪を送るのは、重労働だった。手先の感覚を失っている者も多く、薪に血がにじんでいることはしょっちゅうだった」 (菅原洋)
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