昔、NHKの「ものしり博士」という番組で、「ケペル先生」というのが登場した。そこでは次の言葉が流れた。
「 ♪ 何でも考え 何でも知って 何でもかんでもやってみよう 」
ここから科学的な教訓が得られる。
──
この番組は、子供向けの教養番組。
ケペル先生は、そこに登場して、あれこれと知識を教えてくれる。
詳しくは、下記。
→ ケペル先生の紹介サイト
顔は、前期と後期がある。上記は、後期タイプだが、前期タイプもある。
→ 画像 ,説明
後期だけなら、動画を見ることもできる。
→ YouTube
ここで耳に残る印象的な言葉は、次の言葉。
「 ♪ 何でも考え 何でも知って 何でもかんでもやってみよう 」
→ http://jo.at.webry.info/200601/article_16.html
──
さて。本項は別に、「懐かしのテレビ番組」の話をしたいわけではない。上記の印象的な言葉を、取り上げたい。
私はこの言葉が大好きだった。興味津々になって、本当に「何でも考え 何でも知って」というのをめざすようになった。図鑑や科学事典などをたくさん読むようになった。のちには百科事典をたくさん読むようになった。
とにかく、「なぜ?」と考えて、物事を知ってみたくなった。幼児のころの体験というものは、大きく影響するものだ。
ただ、子供なので、「何でもかんでもやってみよう」というわけには行かなかった。それでも、学研の「科学」という雑誌を買ったりして、いろいろと実験みたいな工作をやってみようとしたものだ。
──
以上は、前フリ。このあとで、本題に入る。
いまの大人は、どうだろうか? 一番多い見解は、次の見解だ。
「専門家の意見を尊重する」
これは、逆に言えば、次のことを意味する。
「偉い人が言ったなら、それをそのまま信じる。人の言うことを、そのまま鵜呑みにする」
つまり、こうだ。
「偉い人が言ったなら、それを真実だと思い込んで、知ったつもりになる。それに反することを、信じない。自分では何も検証しないで、単に偉い人が言ったから、という理由で、それを信じる」
これは結局、こういうことだ。
「自分では考えない。自分の頭を使わない。他人の言ったことだけを信じる。それで、知ったつもりになる」
しかし、これでは、知ったつもりにはなっても、知ってはいないことになる。「自分は知っているぞ」と自惚れるが、実は、何も知っていないのだ。言葉を知っているだけで、事実を知っていないのだ。
こういう態度は、次のように言える。
「他人に考えてもらい、他人に知ってもらい、他人にやってもらう。その結論としての言葉だけを知る」
「(自分では)何にも考えず、何にも知らず、何もかもやってみない」
つまり、ケペル先生の教えと反対だ。そして、それが、多くの大人のやる態度だ。
常識的な大人というのは、そういうものである。未知の真実を探ろうというより、既存の知識を頭に詰め込んで、それを真実だと思い込むだけだ。
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具体的な例は、次のことだ。
「アリストテレスが、『天は Earth のまわりを回転する』と言った。だから、天動説を否定する地動説など、正しくない」
「量子力学の偉い人が、『宇宙は対称的だ』と言った。だから、『対称性の破れ』など、ありえない」
「常温核融合は、学界の主流派に認知されていない。だから、『常温核融合の現象』など、ありえない」
「ナノバブル水なんて、学界の主流派に認知されていない。だから、『ナノバブル水に殺菌効果がある』ということは、ありえない」
これらの例では、常識的は大人は、頭のなかの知識にこだわるせいで、事実そのものを否定するようになる。「頭のなかの知識が正しいのだ。ゆえに事実が間違っているのだ!」と。
──
ひるがえって、ケペル先生みたいなことをやった人々もいた。
・ ガリレオは自分の望遠鏡で天体を観察した。何でもやって、何でも知ろうとした。
・ 南部陽一郎や、小林・益川は、「対称性の破れ」が起こるという可能性を考えて、従来の枠組みの外に踏み出した。
・ 常温核融合の現象を探る人々は、ごく微量ながら、常温核融合の現象を実験的に見出した。
・ ナノバブル水を調べる人々は、とにかく実験してみて、その殺菌効果(癌の抑制効果)を確認した。
これらの例では、頭のなかの知識にこだわらないので、事実そのものを虚心坦懐に直視するようになる。
──
結論。
科学の進歩とは、未知の領域に踏み出すことだ。そのためには、従来の知の枠組みから踏み出すことが必要になる。
しかし、たいていの人々は、自分では考えず、他人の考えを学ぼうとするだけだ。そういう人々は、自分の知識とは異なる知識を呈示されると、「トンデモだ」と騒ぐのだ。
どんな分野であれ、フロンティア(最前線)の領域では、真偽は判明していない。真偽が判明していないときに、真偽を判明させようとするのが、研究者の仕事だ。
一方、たいていの人々は、「研究とは何か」ということを理解しない。彼らは単に「役立つ知識を教わりたい」と思うだけだ。
だが、そこで知るのは、真の「知識」ではない。知識という名の言葉だけだ。言葉の上で情報を知っているだけで、実際には事実を知っていないのだ。
そして、そういう人々が、自分の知っている言語情報とは異なる事実を突きつけられると、矛盾に直面して、あわてふためいて、事実の方を「間違いだ」「トンデモだ」と非難するのである。
※ 以下は、誤読する人についての解説。特に読まなくてもよい。
[ 付記 ]
世の中には、「ナノバブル水とは何か」「常温核融合とは何か」も知らないまま、それを「トンデモだ」と決めつける人々が多い。彼らはたぶん、子供のころ、ケペル先生の教えを聞かなかったのだろう。
教科書の知識を言葉として覚えることだけに熱中して、現実の事実を知ろうとしない。そういう受験勉強みたいなことばかりを、彼らはやっていたのだろう。秀才というタイプには、そういう人々が多い。事実を知るよりは、テストの点数だけを上げたがるタイプ。
こういう人々は、やたらと攻撃的になる。自分よりも劣る人を見出して、しきりに攻撃しようとする。優秀な人間ならば、無知な人々に「教えてあげよう」と思うものだが、半分だけ優秀な人間ならば、無知な人々を見てやたらと攻撃的になる。
( ※ こういうふうに攻撃的な人々は、おそらく、傷ついた幼児体験があって、トラウマになっているのだろう。かわいそうに。やたらと攻撃的な人々には、同情してあげてください。)
( ※ 自分がそういう攻撃的な人間だと自覚した人は、心理的なカウンセラーにでも行って、セラピーを受けるといいでしょう。……ただし、ケペル先生のところじゃありません。 (^^); )
【 追記 】
本項にリンクした人で、あまりにもひどい誤読が散見されるので、解説しておこう。( ※ 特に読まなくてもよい。)
本項の趣旨は、次のことである。
「学界の主流派の意見を、天下り的に鵜呑みにするのではなく、自分の頭で考えよう」
一方、これを誤読すると、次のようになる。
「学界の主流派の意見を否定して、傍流の意見(反主流派の意見)を信じよう」
つまり、本項は、「AかBかを自分の頭で考えよう」と述べている。ここでは、「Aではない」というふうに語っているのではなく、「自分の頭で考えよう」と語っているのだ。
なのに、これを誤読して、「Aが駄目だからBだ」と述べている、と解釈する人がいる。つまり、「頭ごなしにAを信じるかわりに、頭ごなしにBを信じよう」と述べているのだ、と解釈するわけだ。
ひどい誤読だ。何たる国語力。日本人の言語力の低下は、麻生首相だけではないようだ。けっこうまともな人でさえ、ここまでひどい誤読をするようだ。
( ※ 実は、こういう誤読があるということは、「ナノバブル水」のところでも説明しておいた。しかし、説明しても、理解できないようだ。どうしても誤読しないと、気が済まないらしい。……これはもう、国語力の低下というよりは、知性ないし痴性の問題であるようだ。あるいは、自分の妄想に執着する神経症。日本にはこういう人が、けっこういるんですね。)
【 後日記 】
※ 以下も、特に読まなくてもよい。
あちこちからリンクを受け、また、メールももらったのだが、大別して、次の二つに分かれると判明した。
(1) 「こいつはトンデモだ」という批判。ただし、内容は次のいずれか。
・ 誤読
・ 無知
つまり、論じている対象については、素人同然の無知。物理化学的な知識は「少ない」どころか「皆無」の人が多い。うろ覚えの知識のまま、最先端分野の知識を「トンデモだ」と批判するわけ。
(2) 「同意」という賛同。その経歴は、同じ分野における最先端を歩む研究者。業界の研究職など。
こういう人は、業界にあふれている凡庸な見解に日ごろ辟易しているので、同意できるらしい。また、業界にある凡庸な見解の難点も、常に理解しているらしい。そこで、私のサイトの内容も、ちゃんと理解できるようだ。
──
としたら、素人の喚く批判には、いちいち耳を傾けない方がいいようだ。どうせ素人には何もわからないのだから。というか、自分で調べることもしないで、何を論じているかも理解しないで、単に頭ごなしに批判するだけの人が多いようだ。
つまり、ケペル先生とは正反対の「石頭」が世間には多い、ということですね。とすれば、やはり、ケペル先生の教えは、大切であるようだ。
【 関連項目 】
→ 常温核融合
→ ナノバブル水 (コメント欄)
→ 間違える勇気 (本項の続編。重要。)
2008年12月11日
◆ ケペル先生の教え
posted by 管理人 at 23:04
| Comment(6)
| 科学
覚えている人、いませんか?
「学びて思わざれば則ち罔(くら)し」
つまり、学ぶだけじゃ駄目で、自分の頭で考えよ、と言っているわけだ。
ただし、これを誤読して、次のように解釈する人もいる。
「思うだけで学ばないのは、全然ダメでしょ」
何言っているんだか。誰もそんなことは言っていないでしょ。むしろ孔子は、こう言っている。
「思いて学ばざれば則ち殆(あや)うし。」
ただ、これは、当り前のことだから、普通は人々の口に上らない。最初の言葉だけが口に上る。
とはいえ、半可通の人々は、最初の言葉を見ても、変に曲解して、「学ぶことは大切だ!」と大騒ぎするわけだ。それが反論になっていない、と理解しないまま。
自分の頭で考える能力がない人々は、他人の意見を聞いても、誤読することしかできないものだ。
(そう言う人々は、誰でも知っている常識を主張して、それをあたかも自分の独自の主張であるかのように語る。……そんな常識、誰だって知っているのだ、ということがわからないようだ。「わかりきったことは書かない」というポリシーを理解せず、「わかっていないから書いていない」と曲解するわけ。……2ちゃんねらーふう。文句を言うのが趣味。)
http://d.hatena.ne.jp/lets_skeptic/20080516/p1
別に、今さら言わなくても、わかっています。昔から、次の言葉があります。
「下手な考え休むに似たり」
本人が「自分の独自の考え方だ、すごい発見だ」と思って、大々的に主張してみたのだが、実は、その考え方は、とっくの昔に諺で示されていたことにすぎなかった。……そういうことかな。 (^^);
一般に、考えてみること自体は、別に、悪いことではありません。少なくとも、他人の言うことを盲目的に信じるよりは、ずっといい。世間の大多数はそうですから。
とはいえ、考えた結果が、「下手な考え休みに似たり」となる人も多いでしょう。しかし、それは、別に有害でも何でもない。たとえその結果が、トンデモな結論になって、世間から受け入れられないとしても、そのこと自体は特に有害ではないでしょう。
有害だとしたら、トンデモな主張をする人自身がいるではなく、トンデモであることを盲目的に信じる人がいるからです。たとえば、アガリクスなどが問題なのは、それを主張する人がいるからではなくて、それを盲目的に信じる人がいるからです。
世間には変な考え方をする人はいっぱいいます。そういう人たちを撲滅するために、「言論の自由を廃止せよ」と主張するよりは、「変な考え方に惑わされないように注意しよう」と啓蒙する方が妥当でしょう。
また、世間には迷信がたくさん出回っていますが、その迷信をもつ日本人という民族を撲滅するとか、過去の歴史を撲滅するとか、迷信を信じる老人や素人を虐殺するとか、そういうことをするよりは、「迷信を信じるな」というふうに、人々を啓蒙する方が妥当でしょう。
問題は、トンデモな主張自体にあるのではなく、それを盲目的に信じる人々の無知にあるのです。
以上のことからわかるはずです。
「下手な考えをする人がいくらかいるから、自分の頭で考えるのをやめよう」
という主張は、それ自体がトンデモです。あまりにも風変わりな異端の説であり、かつ、世間にとって有害です。
そういう変人に対して、罵声を浴びせて攻撃するべきか? 「イエス」と答える人もいるでしょう。
しかしながら、そういうことは、私はしません。私は、その人を攻撃するかわりに、世間を啓蒙します。「そういう変人の言葉にだまされるな」と。
その点で、ギャーギャーと噛みつく人々と、私とは、まったく立場を異にします。
「下手な考え休むに似たり」
ということは、確かにあります。しかしながらそれへの対処は
「何も考えるな」
ではなくて、
「上手に考えよ」
ということなのです。
「自分の頭で考えよ」
という主張に対して、
「『自分の頭で考えさえすれば、それだけで万事オーケーだ』ということはないぞ。だから、自分の頭で考えてはならない」
と反論するのは、曲解のあげくの、トンデモな見解でしょう。そもそも、相手の話を、まるきり理解していないことになる。論点が食い違いすぎる。トンチンカン。
( ※ 物事の核心を理解しようとしないで、揚げ足取りをしようとすると、そういう陥穽に陥る。……小林秀雄を学んで、「物事の核心を知ろう」としてみて下さい。「他人を攻撃しよう」「欠点を突こう」「揚げ足取りをしよう」とばかり考えると、核心から逸れていくばかりです。人生の無駄遣いになります。おまけに、恥をさらすだけ。)
そういうコメントが来るんじゃないかと、ビクビクしていた。 (^^);
だけど、書き直すのが面倒で、ほったらかしておきました。 (^^ゞ
下手な → 下手の
にすると、全体の意味が通らなくなっちゃくんですよね。だから、わざと、間違えた方を書いています。
諺とは別の意味で別の言葉を使っている、と解釈して下さい。俗用の言葉(誤用)の方が役立つこともある、というわけ。