2008年12月13日

◆ 間違える勇気

 独創的な業績をなすためには、「間違える勇気」が必要だ。間違いを恐れていては、独創的な業績はなせない。

 ──

 前項(ケペル先生の教え)では、次の言葉を引用した。
 「何でも考え 何でも知って 何でもかんでもやってみよう 」

 その趣旨は、次のことだった。
 「自分の頭で考えよう」


 ここまでは、当り前のことだと思えるだろう。ところが、これに対して、「トンデモだ」という批判が多く来た。その趣旨は、
 「主流派の考えを捨てて、傍流の考えを採るというのは、トンデモの発想だ」というもの。
 つまり、
 「AかBか、どちらが正しいかを、自分の頭で考えよう」
 という趣旨を、
 「Aでなく、Bを取るべし」
 というふうに誤読して、勝手に批判するわけだ。
 ( → 前項最後の  【 追記 】 で述べたとおり。)

 ──

 さて。このような「誤読」「曲解」は、なぜ起こるのか? 麻生首相並みの愚かな国語力や知性しかないからか? 一見、そう見える。だが、よく考えると、その底には別のものがあるとわかる。

 「自縄自縛」
 という言葉がある。(この言葉も知らない人は、辞書で調べてください。)
 この言葉に似た現象が起こっているのだ。

 ──

 では、何か? それは、こうだ。
 「間違いを極端に恐れること」

 このことは、別に、不思議ではない。たいていの人は、このことを自分の仕事の基本としているはずだ。次のように。
  ・ 荷物の配送車は、配達先を間違えない。
  ・ 会計の店員は、レジを押し間違えない。(値引きシールも)
  ・ 公務員は、仕事でミスをしない。
  ・ タクシーの運転手は、交通違反や経路ミスをしない。


 このようなことは、多くの人々が常に注意しているはずだ。「ミスをなくそう」と。そして、その意識が特に強いのは、医者だ。
  ・ 医者は手術や処方を、間違えない。


 医者は人命を預かる。医者がミスをすると、人命に関わる。だから、医者は決してミスをするまい、と意識する。その意識は特別、強烈だろう。
 そして、ここでは、「自分の独自の発想」というものが入り込む余地などはない。医者の独自の発想で勝手にやるとしたら、それは人体実験のようなものだ。そういうことをすると、多くの人々や世論から指弾される。
  ・ 初めての心臓移植
  ・ 初めての病気腎移植

 これらの例では、世論から圧倒的に指弾された。そこでは、「心臓移植の良し悪し」とか、「病気腎移植の良し悪し」ということは、論議されなかった。単に「人体実験のようなことはけしからん」という意見が世間を渦巻いた。

 というわけで、医学の分野では、「独自の主張」などが入り込む余地はない。少なくとも、(大学の研究のレベルでなくて)実務医のレベルでは、「独自の主張」などが入り込む余地はない。

 以上からわかるだろう。研究でなく実務のレベルでは、「独自の主張」などをするべきではないのだ。それが世間一般の常識である。

 ──

 しかし、である。研究の世界では、まったく別だ。なぜか? 研究というものは、本質的に、間違いだらけであるからだ。
 「 99.9%の間違いと、0.1%の成功 」

 これが研究レベルの実状だ。そこでは、間違いを恐れてはならない。間違いを恐れれば、研究そのものが消滅してしまう。となると、学問の進歩も消えてしまう。
 学問や研究の世界では、「間違える勇気」こそが大切なのだ。(実務とは違って。)

 ──

 このことは、ノーベル賞の例からもわかる。

 (1) 田中耕一

 田中耕一は、あるとき、実験を間違えてしまった。実験材料に、グリセリンとコバルトを混ぜてしまったのだ。そんなことをしてはいけないのに、材料を間違えて、そういう「間違いの実験」をしてしまった。
 ところが、その「間違いの実験」から、目標となることが達成された。これまではいくら努力しても成功しなかったのに、「間違いの実験」のおかげで、目標が成功したのだ。
 では、これは、どういうことなのか? その理由はわからなかった。そこで、「理由を探れ」というリーダーの掛け声のものと、「間違いの実験」がうまく行く原理を探ろうとした。そのことはチーム全体でなされた。チームの研究成果のおかげで、「質量分析計」というものができて、これがノーベル賞に結びついた。
 ただし、ノーベル賞をもらったのは、原理を解明して装置を作り出したチーム全員ではなくて、最初の「間違いの実験」をした田中耕一だけだった。彼はたまたま間違えたおかげで、ノーベル賞をもらえたのだ。
 ただし、彼にも、功績はある。それは「間違いの実験」を握りつぶさなかったことだ。凡庸な研究者ならば、「間違いの実験」を握りつぶしただろう。しかし彼は、「間違いの実験」を認める勇気があった。その勇気ゆえに、その後の展開があったのだ。

 (2) 白川英樹

 白川英樹も、同様のことがあった。本人の言葉を引用しよう。
 《 失敗が新しい技術を生んだ 》
 ノーベル賞を頂いた研究は、簡単に言えば「電気を通すプラスチックの開発」です。それ以前は、プラスチックは電気を通さない物質とされ、電気を通す物質や電気を通すための方法が世界中で研究されていました。私はこれとは全く関係のない研究をしていたのですが、偶然の失敗から研究の糸口をつかんだのです。
 私が31歳、東京工業大で助手をしていたときのことです。研究生が「ポリアセチレンができません」と言うので実験室に行くと、確かに反応は起きていません。しかし、フラスコをよく見ると黒い膜が表面にできていました。
 なぜ実験は失敗したのか、なぜ粉末の代わりに黒い膜ができたのかを調べるために、条件を変えて実験を繰り返した結果、いつもより 1000も濃い触媒を使っていたことを突き止めました。常識外れに濃い触媒を使ったために、これまで粉末でしか得られなかったポリアセチレンが、銀色の光沢をもったフィルムとしてできたのです。
 失敗実験だからといって捨ててしまわず、なぜ失敗したかを追究したことがきっかけで、新しい物質やプラスチックに電気を通す方法を、自分自身の手で作り出すことができました。
( → ベネッセ
 ※ なお、ここでは「失敗」という言葉使われているが、これは従来の価値基準から見ての「失敗」であって、新たな価値基準から見れば「成功の端緒」のことである。

 (3) 小林・益川

 小林・益川の「 CP対称性の破れ」も、いくらか似た事情にある。
 その当時は、「三つのクォーク」というのが学界の主流派の考え方だった。それに反する見解は、異端の説として、認められなかった。
 ただし、「四つめのクォーク」は、日本の丹生潔によって(宇宙線から)発見されていた。( → 朝日・朝刊 2008-12-13 に詳しい。ネット上の情報もある。)
 そこで、小林・益川は「四つのクォーク」によるモデルを作成したが、どうしてもうまく行かない。理論構築の試みは失敗に終わった。そこで「四つのクォークのモデルは成立しない」という失敗報告の論文を書こうとした。そのとき、益川の頭にひらめいた。「四つで駄目なら、六つのクォークにすればいい」と。そのあとの計算は、あまりにも簡単だった。「四つのクォーク」のモデルの計算を使えば、あとはお茶の子さいさいで、「六つのクォーク」のモデルはできた。成功!
 つまり、「失敗」があったからこそ、「成功」があった。というより、失敗をしたとき、単に諦めるだけでなく、失敗を「失敗」と認める勇気が湧いたときに、初めて新たな道を取ることが可能になったのだ。
 そのときまでは、失敗を「失敗」と認める勇気がなかった。「四つのクォークのモデルは成立するはずだ」という常識的な発想にこだわっていた。その常識を捨てることができなかった。しかし、常識を捨てる勇気ができたとき、未知の領域に踏み込むことが可能となった。……そして、そのとき、未知の領域に踏み込むためには、何ら新しい知識や努力は必要なかった。必要なのはただ、未知の領域に踏み込もうという勇気だけだったのだ。「そんなことはとうていありえそうにない」と思った領域に踏み込もうする、その勇気が生じたときに、真実の世界は急に明るく見通せるようになったのだ。

 ──

 以上から、わかるだろう。
 独創的な業績を上げるためには、「間違いを恐れる」ことがあってはならない。「間違えてはならない」「失敗してはならない」と思っている限り、決して新たな領域を開拓することはできない。
 独創的な業績を上げるためには、「間違いを恐れない」ことが必要なのだ。「新たな領域に踏み込もう」という勇気が必要なのだ。

 ただし、それは、世間の人々には理解されない。なぜなら、世間の人々の価値基準は、「間違えないこと」であるからだ。「プラスを生み出すこと」ではなくて、「マイナスを生み出さないこと」であるからだ。あるいはせいぜい、「プラスとマイナスの差し引きで、ちょっとプラスになるようにすること」だろう。

 しかし、研究者というものは、決してそうであってはならない。むしろ、多大な「失敗」をするべきだ。多大な「マイナス」を積み重ねるべきだ。なぜなら、多大な「マイナス」をして初めて、新たな「プラス」を生み出せるからだ。……独創的な業績というのは、そういうものだ。

 ただし、多大なマイナスをするのは、あくまで実験レベルのことだ。現実の世界でマイナスをやらかしたら、世間の迷惑である。

 研究の価値基準と、実務の価値基準は、まったく異なる。
── このことを理解しよう。世間の実務家は、研究者が多大な失敗や間違いをするのを見て、「トンデモだ」と批判したりする。しかし、研究者というものは、間違いを恐れてはならない。頭のなかでの思考実験や、実験室レベルの実験なら、いくらでも間違いをしていいのだ。
 間違いこそ、成功の一里塚である。ノーベル賞の学者を見てもわかる。間違いの必要性は、実務家には決して理解されないし、実務家には批判されるだろう。しかし、研究者というものは、間違いを恐れてはならない。実務家や素人はやたらと批判するだろうが、それを乗り越える勇気が必要だ。



 [ 付記1 ]
 ここ数日、新聞ではノーベル賞特集がたくさん組まれている。そこでは、
 「どうすれば成功できますか?」
 というような質問が多くなされる。その質問に、私なりに答えよう。こうだ。
 「成功するためには、失敗しようとすればいい」
 これは一種のレトリックである。あえて失敗することを狙えばいいのではない。正確には、「失敗を恐れないこと」が大切だ。つまり、「成功しようとしないこと」が大切だ。
 人々は、やたらと「成功したい」と思う。だからこそ、失敗を恐れて、「失敗を経ての成功」ができなくなる。その愚を知らしめるための言葉が、
 「成功するためには、失敗しようとすればいい」
 という逆説だ。似たところで言うと、次の言葉がある。
 「 ♪ 勝つと思うな〜 思えば負け よ〜」
 勝とう勝とうと思えば、かえって負けてしまう。成功しよう成功しようとすれば、かえって成功できなくなる。そういうものなのだ。その極意(?)を、本項は示している。
( ※ とはいえ、実務家にとっては、「馬の耳に念仏」であろう。)

 [ 付記2 ]
 一般に、実務家というものは、「成功した結果」を知りたがる。彼らにとって大切なのは、「他人から与えられる知識」であって、「自ら何かを発見すること」ではないのだ。
 物をもらいたがる人と、物を創造する人とは、まったく価値基準が異なる。役立つ情報を与えてもらいたがるだけの人々には、創造者の精神は理解できないのだ。
 ケペル先生の教えは、「自ら創造しよう」とする人だけに有益だ。
 一方、真砂のような一般大衆には、「他人の知識を整理する方法」だけが重要だろう。そういう人々は、「超整理法」のような整理術でも読んでいればいいのだ。彼らにとって役立つのは、知識を生み出す方法ではなく、与えられた知識を整理する方法だけだ。
 「 自分を Google 化して 知的生産が 10倍」
 というような著書でも読んで、せっせと整理整頓に励むといいだろう。Google であれ、Google 化した人間であれ、どっちみち、自分では何も生み出さないで、情報整理をするだけなのに、世間では結構「利口だ」と見なされるものだ。

 [ 付記3 ]
 「間違える勇気」とは、「間違いを真実だと強弁すること」ではない。「間違える勇気」とは、「間違いである可能性があっても未知の領域に突き進む勇気」のことである。
 例を示そう。

 (1)
 トンデモ学説として、次のものがある。
 「紅茶キノコやアガリクスで 癌が治る」
 これは明らかな間違いである。このような間違いを「真実だ」と強弁することは、「間違える勇気」でも何でもない。(ただの「トンデモ」だ。)

 (2)
 宇宙論における新たな学説として、次のものがあった。
 「宇宙にはブラックホールがある」
 「宇宙はビッグバンから始まった」
 これらの学説は、初めて主張されたときには、異端の説であった。従来の学説との整合性はないし、証拠は皆無であった。とはいえ、否定する根拠もなかった。白黒の不明な仮説だった。
 そこで、「白黒の判明していない仮説をたくさん出そう」というのが、本項の趣旨だ。一方、「白黒の判定していない仮説はみんなトンデモだ」と考えて、仮説の存在をつぶしたがる実務家もいる。
 しかし仮説は、当初は未検証のまま灰色だったとしても、やがて真偽(白黒)が判定する。上記の「ブラックホール」「ビッグバン」の場合は、いずれも「真実だ」という証拠が挙がった。つまり、「灰色」から「白」に格上げされた。
 仮に、「白黒不明だからそんな仮説はつぶしてしまえ」という立場を取ると、人類が「ブラックホール」「ビッグバン」という真実に到達することもなかっただろう。だからこそ、間違いを恐れず、仮説を出すべきなのだ。
 仮説を出すときには、誰もそれを「真実」として教えてくれない。仮説については、自分の頭で考える必要がある。

( ※ とはいえ、仮説というものを見ると、「これは真実ではないからトンデモだ」と大騒ぎする人もいる。誤読する人は、たいていそうだ。反・科学。)

 [ 付記4 ]
 世の中には「トンデモ」と「仮説」の区別ができない人が、けっこう多い。「トンデモ」を否定しているつもりで、「仮説」を否定してしまうのだ。

 こういう勘違いは、「常識」にとらわれすぎることから起こる。このことについて、面白い解説がある。下記。
  → http://oshiete1.goo.ne.jp/qa1047129.html
 これは小林秀雄の文章(「徒然草」)についての話。しかし、読解力の低い人には、理解できないかも。

 世間には「小林秀雄は馬鹿だ」と批判する人々がいる。本当は「自分は小林秀雄を理解できない」と告白するべきなのだが、そのかわりに、小林秀雄を馬鹿扱いする。これはまあ、幼稚園児が大学教授を「馬鹿だ」と呼ぶのと同じ。

 仮に、小林秀雄を批判している人に、「あなたは利口ですか?」と聞いてみるといい。「自分はものすごく頭がいいぞ」という返事が返ってくるはずだ。
 自惚れている人々には、何を言っても無駄、ということなのだろう。しかも、世間の大多数は、トンデモと仮説の区別がつかない。「紅茶キノコ」と「ブラックホール」の区別がつかない。
 そして、そういう人々(常識に凝り固まった自惚れ屋)の批判に臆さずに、前に進むためには、かなりの勇気を必要とする。「ブラックホール」「ビッグバン」「クォーク」などの仮説を主張した人々には、そういう勇気があった。彼らの勇気が、未知の領域を開拓した。

( ※ なぜ「勇気」かと言えば、その時点では真偽が判明していなかったからだ。そこを進むには、リスクを負う勇気が必要となる。その勇気は、成功が保証された道だけを進みたがる人々には、決して持てないものだ。)


 [ 余談 ]
 実務家 or 凡人の発想というのは、次のようなものだ。
 「独創的な業績を上げるには、間違えることが必要? へえ。そうですか。それじゃ、間違えば独創的な業績を上げられるんですね? どんどん間違えば、どんどん独創的な業績が上がるわけだ。……ふん。馬鹿も休み休みにしてくれ。こんなことを言う奴は、トンデモだ」

 こういうふうに、あえて曲解する。ネット上には、こういう人々がたくさんいるものだ。2ちゃんねらーみたいなものですね。



 【 参考 】

 本項で述べたこと(間違いの必要性)に関連して、次の概念がある。
  → セレンディピティ ( Wikipedia
 
posted by 管理人 at 12:23 | Comment(4) | 科学
この記事へのコメント
後半の [ 付記3 ] を加筆しました。
タイムスタンプは下記 ↓
Posted by 管理人 at 2008年12月14日 15:26
 《 おまけ 》

 実は、世の中で「あれはトンデモだ」と批判する人々は、実は、自分自身がトンデモなのである。彼らは「仮説は仮説だ」「灰色は灰色だ」と理解することができない。灰色を黒だと思い込んで、「これは白ではないから黒だ」と大騒ぎしている。
 灰色を「白だ」と主張する人はトンデモだが、灰色を「黒だ」と主張する人もまた、逆の意味でトンデモなのである。
( ※ ま、こういうトンデモは、相手にしない方がいいようだ。やたらと狂犬みたいに噛みつくから。)
Posted by 管理人 at 2008年12月14日 15:33
後半の [ 付記4 ] を加筆しました。
タイムスタンプは下記 ↓
Posted by 管理人 at 2008年12月14日 22:57
おまけの最後がすごいよくわかります。
内容にズレのあることなのですが、
グレーの内容について要求された色にならないって答えるだけでひどい怒る人が自分の人生に多くて悩んでました。
そもそも条件がグレーな事柄でのことです。
親にそういう人がいるって愚痴こぼしたら、世の中には必ずそういう人がいて、必ず人の足をひっぱることに今頃気付いたのかいってあきれられてしまいました。
ここで改めて読んだことで智恵が付いたきがしてます。
ありがとうございました。
Posted by 初めてコメントするものです at 2008年12月15日 07:21
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