人生、さび抜きで
24 . December
なんか

はてな匿名ダイアリー:勉強が出来る=頭がいい?
勉強が出来る=何がいい?
「勉強ができる」という蔑称

あたりをよんで。
とりあえずダンコガイは「おれは中三の時には高校の勉強全部で来てたぞえっへん東大がなんだ東大ごときで偉そうにするな」というスタンスなんだから,いまさら「いや,自分勉強できませんから」とかいうのはどーなのよ。ダブルスタンダード(笑)


追記:
追記というか補記というかもにょった理由みたいなのは次のエントリにあります
こちら


僕自身は勉強自体は楽しかったです。



できないことができるようになる,一個ずつ問題をクリアしていくという感覚が学校の勉強だと思ってて,そのやり方を教わるのは好きじゃなかったけど問題を解くのはすごく好きだった。悩んでるのが好きだったのだと思う。


それとは別にこれはどうしてこうなってるんだろう,これがどうなったらこうなるんだろうということを考えるのも好きで,道路の舗装ブロックを延々と眺めてたりとか,単純作業してる人の手元をずっと見てるとか,折り紙とかあやとりとか大好きだったし,ずっと考えてた。たぶん今,あの頃の自分のも前で折り紙を折ったら何も言わずにじーっと観察されると思う。じーっと観察してもう一回って不愛想に言われるんだろうなぁ。わかるまでずっと繰り返せと命令し続けるんだぜw自分がそういう性質を持っていることはわかってるので,同じような性質を持ってる子には何度もやって見せてしまいますけどね。余計な説明なしに。

説明されたいわけじゃないとは知ってる。自分でやり始めても口も手も出さない。もっかいやって見せろと言われればやるけど,なんで?なんで?と言いながら試行錯誤をしてる子をみるとこういう才能は大事にしたいよなーと思う。


多くの学校から与えられる勉強というのは小学生の間はそういうものだったし,高校を卒業するまではその要素が多かれ少なかれある。必要ない部分もある。大人から見るとつまらないかもしんないんだけど,知らない人から見ると魔法のように見えるっていうあれ。

同じような感覚は大人になってからコーディングしてる人を後ろから見てる時に思った。なにしてんの!このひと!みたいな。なんか指がすげー勢いで動いてて,画面の方も時々刻々と変化してて両方を追いきることはできないし理解もその場ではできない,ただなんかすごいぞおもしろそうだぞ,ということだけわかるというあの感覚。子供のころはいつもだったなーと思った。そのころにはある程度のコーディングは本を見ながら何とか出来ていたはずなのになぁ…最近は思わないけど。


勉強=つまらないってひとはそういう感覚を追体験したりとかしてないのかなーと思ったりする。あるいは,あの時の感覚と同じだとして思いだせないか。だってただファイル入出力するだけのコーディングしかしてなくてもなんかすげーと思えるんだぜ。初心者って楽しいよね。


少なくともダンコガイは未知の分野を体験してみるとよいと思う。あのおっさんはね。音楽なんていいんじゃないかしら。ひたすら型を与えられるだけなんだけどちょっとうまい人のをみると何であんな動きできるの?どうやって指動いてるの?とか思うし,それをマネしようといろいろと試すのはとても知的好奇心を満たしてくれるはずだ。僕はもうおなかいっぱいなのでいいですが。



で,「勉強できる=頭いい」なのか



結論からいうとも何とも言えないかな,とは思います。ただ勉強ができるという結果が出せるということは,その結果に応じた能力を持っていると考えてよいのでは,とは思う。逆がしかりではないと思いますが。


勉強というのは内部で処理してる時の状態が本当は大切なはずなのに外部に出てきたものしか評価できないというシステムになってる。今のところ。いやこれからもずっとかもしれないけど。

で,中にはこの内部で処理してる状態というのはほぼ適切なんだけど出力する速度が遅かったり,もしくは微妙に処理が終わってないのに出力してしまう人というのもいる。そういう人というのは現行の評価制度では「勉強ができない」とみなされてしまうのだ。これはとても不幸なことで,そのせいで考えること自体が嫌いになってしまう場合もあって,僕は常々本当にもったいないことだと思ってる。

もし,まだ完成してない出力でも処理が半分しかできてないところで出力してしまっても,中の内部処理の過程が正しければ評価できるようになればよいのになぁっていう。学んでる途中は未完成だし,はじめから最後まで処理して出せるわけがないのだし。


大学受験くらいになってくると計算過程が重要視されてくるのでいいんだけれども,小学生のうちにそういうことはできないものかなーとは思う。国立大の付属小学校では実験的にそういうことやってるところもあるみたいなんだけど,少人数にならないと先生の負担が増加するだけなので厳しい部分があるから公立で実現することはほとんどないだろうなぁ。

あとたぶん勉強ができる人が蔑視されてしまう理由の一つとして,処理系がパターンを参照してるだけのタイプがいるからだと思うんだよね。そういう人は,ちゃんと考えて処理してるけど途中で間違っちゃったりうまいこと最後までたどり着けなかった人よりは,早く正確に望まれる出力を出してくる。僕はそれも賢さの一つだと思うし,膨大なパターンを記憶していることも常人にはできないことなのでいいんじゃないかと思う。

だけど,今の日本では「頭を使う」ということはとても重要視されているわりに暗記は軽視されてる傾向がある。確かにパターンとしてはいってない場合には対処できないことがあるので,それが軽視されてしまう原因なんじゃないかとは思うんだけれども,しかしちゃんと考えてる人でもうまくいかない場合はよくあるしね。どっちのシステムが最適かとは言えないと思います。両方持ってることが理想だとは思うけれども(暗記も大変なんだけどなぁ。僕は音楽やってたので暗記容量は非常に大きい方だが暗記をするのだって一定量の努力が必要なのにね)。


あと途中の処理がうまくできないから勉強できない(けど頭はいい)って人はいるけど,同じように処理系はブラックボックスで大量のパターンを参照するタイプなんだけど勉強ができない(単純にパターンの数が少ない)人から見ると,「勉強=暗記→軽視してよい」というロジックになってしまう気はする。話がめちゃくちゃずれてるけど,「勉強ができる」ってことが軽視される根本的な原因は,「暗記は軽視してよい能力・技術である」というところにあるような気はする。



個人的には公立に行くといろんな人がいるよね!ということで別に否定はしていない[#2]。私立なら良いかといわれると高校は一応私立だったけど公立みたいな学校だったしなーという感じだし,公立か私立か国立かではなく,その学校の雰囲気とか方向性みたいのもあるだろうしなぁと思うし。結局自分の価値観と会うかどうか,子どもが楽しんで通えるかどうかじゃないかなーとか。多少の負荷もかけつつ。それで足りないフォロー(どうしても足りなくなるはず)はお金を出して他人に頼むか,可能なら自分で見るかをすることで勉強が好きだし楽しい,考えるの面白いという能力はつぶさずに済むようになるんじゃないかなー。



強引な結論



結局いいたいことは「勉強楽しいよ!」「勉強ができるってことを軽視するのはどうなのよ!」ってことなんですけど本文が長くなった。勉強っていうのはすなわち成長なので「勉強できませんが何か?そんなものいらないでしょ,大人の都合なんだから」とかいってるのはそのまま「成長してませんが何か?しなくてもいいでしょ,他人に使われるだけなんだから」といってるだけのような気がします。大人になっても勉強することってたくさんあるし,どこにでもその種は転がってると思うんだよな。自分が勉強するということも大事にしたいし,それを楽しめる種を持ってる人は大切にしてまっすぐに芽を出してほしいなぁと思います。だって面白いし楽しいもの。楽しいことはみんなに勧めたい。


#2.)命の危険や犯罪的な意味での危険,風紀的な問題は存在するのでそのあたりは地域によると思うけれども


たたんだところで自分の話


「勉強できる」が蔑称だったかというとそうだったかなーという気がする。確かに嫌な思いをすることもあったけど,悪いことばかりではなかったような。
なんかアレですけども,僕は言葉をしゃべるのは遅かったが言葉を覚えるのは早かったし勉強はよくできた。小三くらいまでは運動もできる方だったしね。走るの速かったし。絵も得意でよく展覧会出していただいたし(個人的には放課後に残っていいのが楽しかっただけだが,絵は小さいころから好きだ。まぁいまじゃ小学生のころから進歩してないですが),音楽も3歳から始めてるのでできるほうだった。いかんせんピアノではないので学校生活で目立つことはそんなになかったけど,自分の記憶容量のキャパシティに関しては小学校に上がるまでの暗譜の量で広がったと思っている。まぁ要するに割とオールマイティだったわけだ。全然成長しなかったが。


んでやな思いをしたエピソードがあったかなぁということを考える。とりあえず勉強ができるということでいじめられた記憶はない。方言でからかわれたというのはあるし,その前年に姉を担当していた教師にいじめられたけれども,あれは姉のせいだったし。あの教師には国語のテストで20点/100点中とか付けられたけど,算数理科だけはそういうことができなくて悔しそうな顔をさせることができたという意味では勉強ができることに対して自分は確固たる何かを当時から持っていたのだろうとは思う。それ以外の先生には,体育教師にはあまり気にいられなかったが,おおむね高い専門性をもってる先生になればなるほど気に入られた記憶があるので,「勉強ができる」ということでひねくれたことはない。



対して同級生ではどうだったか。なのだが,同性の場合,これも「勉強ができるから」でつまはじきにされたことは特にない。「いいよねー勉強できてー。私できないからwww無理だからwwwやるだけ無駄だからwwww」とか言うのにはいらっとしたし「できるんだから教えてよー」「もう宿題終わってるんでしょー見せてよー」「頭いいんだからやってよー」というのにはむっとしたことはあるけれども,まぁ利用されてるだけましかという開き直りを小学生のころにはすでに身につけているので,いらっとするだけで蔑視されてるという感情をもったことはない,と思う。昔のことは曖昧だからよくわからない。大学受験前に勉強できることも才能なんだからいーじゃんという境地に達していたが,あれはなんだったのかなぁ。特に何か言われた記憶がないんだよな。あれか。テレビとかで「勉強ができたって人の気持ちが…」とかそういうことをいってたからだろうなぁ。あとうちの親。まぁいろいろとちまちま今卑屈の芽を潰している(親の(何で僕がそんなことをしなきゃならんのかと…


とりあえず中学校上がって最初の定期テストの後に「もっと馬鹿だと思ってた…」と別の小学校から来た友達に口ぐちに言われた記憶はあるけれども,その後も普通に仲良かったしなぁ。つうかどんだけ馬鹿だと思われてたんだw



よく出てくるのが好きな男の子に女扱いされなかったとかそういう話を聞くんだけど,もともと成績が良いとわかる前から女扱いされてなかったし(何ででしょうね,粗雑だからかしら),「勝負だ!」とされることは多かったが線を引かれることはなかったような気がする。魅力がないっつうか男と思われてるとしか思えん。しかしその返事も
   ∩___∩       
   |ノ      ヽ     
  /  (゚)   (゚) |    
  |    ( _●_)  ミ   勝てるもんなら
 彡、   |∪|  、` ̄ ̄ヽ    かってみればー
/ __  ヽノ   Y ̄)  |     あばばばばば
(___)       Y_ノ  
     \      |   
      |  /\ \   
      | /    )  ) 
      ∪    (  \ 
            \_) 

というかんじだったしなー。こういう態度だからいけないのかもしれない。だいたい好きな男子とかあんまいなかったしなぁ。



絵をかけることに関しては特に何も思ったことがない。もっとうまい子もいたし。マンガをあまり読まなかったので漫画絵は描けなかったし,そこら辺で評価は高くなかったというのはある。
音楽に関してはちょっともにょもにょした。個人的に。何か言われたりとか言うことはなかったと思った。
運動は小4から全くできなくなりましたがそれくらいでできなくなる子はいっぱいいるので特にコンプレックスでもないです。



最初に「勉強」に触れたのが姉が小学校いきはじめてからなので三歳くらいからだと思うけれども,小学生の半ばくらいまでは単純に知らないことが毎日提供されることが楽しかった記憶がある。できるようになるのも楽しかったしなぁ。小学校上がる前から姉が新学期に教科書もらってくると全部読んでたし,自分のもらった時は机の上に積んであるやつを早く広げたくてしょうがなかった[#1]。本当に読めるのかと聞かれたことはたぶんないし聞かれたとしてもきっと覚えてないだろう。そういうこと言われるのはずっとだったしなぁ。幼稚園生の時にかいた蟹の話を時々しますが,あのカニは「親がかいたんだろう」って散々言われてたし。なんかそこら辺は気にしないっぽい。いや,自分がかいたし何を言ってるんだろうこの人たちくらいしか思わないらしい。悔しがらないんだよなー。今そこがウィークポイントなわけですけれども。競争あんましないんだけどコンクールとかで落選した時に「もっと頑張らないからだ」とか言われるとめったくそ切れますけれども。というか切れたね。努力に対して正当な評価をされないと怒るかもしれない。結果が伴わなかったとしても伴わなかったならそれ相応のねぎらい方はあるだろうと思うし,終わった後にもっとやってればというのは反則以外の何物でもないと僕は思う。あれほど腹立つことはない。


あと残念ながら姉は勉強ができない・運動ができない・絵が描けない・音楽だけできる子だったので対して期待されなかったのもあると思います。きょうだいだしどうせこいつもだめなやつなんだろうっていう思い込みをいつも持たれていた気はする。ので気にしなかった。できるといわれても,だから何?というか。うわーひたすらマイペースだったんだな,今書いてわかった。
低学年のころはそんな感じ。四年生の時に担任にいじめられて性格ががらりとかわって,子供らしくない子供にはなった。まぁでもベースは低学年のままなんだろうと思います。いまでも。んーだから気にしなかったのかなぁ,と思ったりする。


勉強できるということで差別されてきた人がいるんだなーということを知ったのは大学入ってからだった気もするな。そういえば。名もない三流高校出身なので思いっきり馬鹿にされてなんだぁぁ?と思ってたけど,どうやらあれって反射的に出る防御反応なのかも,と今は思う。大学の知り合いもポリアンナさんもかえるさんもそうだけど,小学校のころ勉強ができるからっていじめられた!っていうような発言をする人が大学内にはめちゃくちゃ多い気がする(そういえばお二人の思春期の感覚があまりにもそっくりなのでさっき正直びっくりした。なんかへーと他人事に思ってる自分は何か鈍感だったんじゃないか?これw)。自分はそういう経験がほとんどないので(勉強ができることでなんか言われたことがあんまない。大学名で言われることが増えて最初のころはだいぶ面食らったけど)そう世界もあるんだなーくらいにしか思ってなかったんだけどさ。「女が云々」というのは親戚や身内によく言われているので,そこら辺はうむうむよくわかるそうだそうだとは思うんだけど。


ただ,あの防御反応は正直(どうせお前も馬鹿にするんだろ!だったらこっちが先に!という)敵を増やすだけなのでやめた方が良いと思うんだけどなぁ。どうなんだろうか。時々シャドーボクシングに見えなくもないが,でもたぶんきっとそういう世界があるんだろうと思っている(片鱗は知ってるので存在自体を疑うわけではない)。


#1.)広げてちょっとがっかりした。まぁすでに4年生の教科書を読んでたらがっかりするのは当り前なのだが
NAME
TITLE
TEXT COLOR
MAIL
URL
COMMENT
PASS   Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字
この記事にトラックバックする:
カレンダー
11 2008/12 01
S M T W T F S
1 2 5
7 13
15 16 18
21 22 23 27
28 29 30 31
最新コメント
[12/20 b_say_so]
[12/20 fjb1976]
[12/20 fjb1976]
[12/19 b_say_so]
[12/19 774]
最新トラックバック
プロフィール
HN:
b_say_so
HP:
性別:
非公開
自己紹介:
最近カメラ馬鹿。
ブログ内検索
アクセス解析
カウンター
人気の記事
最新記事のフィルム
フリーエリア
Powered by NINJA BLOG  Designed by PLP
占い / 忍者ブログ