2008-12-24 続・学校で学ぶべきこと 
前回のエントリーが思ったよりも多くの人に読まれたようで、私としては嬉しく思っています。
さらには「まなめはうす」様(http://homepage1.nifty.com/maname/)にて紹介していただき、ありがとうございます。
そこで、「16歳の教科書」を読んでみてはどうかと勧められたので早速買って来て読んだ次第。
結果から言うと、これまでの自分の中で捏ね、作ってきた"勉強"への向かい方とこの本の著者らの言っていることとで重なる部分が多く、自分の考えてきたことにある程度の支持が得られた。各科目とも、比較的具体的にどのような視点で学習すればよいかについて書かれているので「勉強なんて…」と思っている方は是非どうぞ。
さて、私が言っていた記憶力、論理力、創造力のうちの論理力は社会の藤原さんの言う情報編集力に結びついていると思う。
正解がひとつではない問題を前にしたときに、いったいどんな力が必要とされると思う?
まず、自分の知識、技術、経験を総動員して、それらを組み合わせ、自分なりの答えを導いていく力が必要になってくる。ここで導き出すのは、すべての人にとっての「正解」ではなく、あくまでも自分なりの「納得解」。
この力のことを僕は「情報を編集する力」、つまり「情報編集力」と呼んでいます。
「16歳の教科書」(講談社)168ページ
折角記憶した知識をそのまま孤立させておいたのでは生かせない。そしていくらその知識を自分なりに結び付けようとしたって、自己流すぎたのでは他の人に理解されない。
今ある知識を有機的に結びつけ、かつ説得力を持たせて説明するのにはやはり論理力が必要。それを訓練させるのが学問の、とりわけ数学だと思う。数学ほど主観抜きの完全な理論で立ち向かう学問もない。
というわけで、数学嫌いの人はこういう趣旨があるのだと思った上で数学に向かうと少しは見方も変わるんじゃないかと思って見たりして。
次に、通りすがりさんからの書き込みでいくつか私が感じたことを書いておこうと思う。
管理人さんの書かれた1〜3のプロセスももちろんなのですが、私はまず「こういう考え方があるんだ」というところに気付くために進学に必要な科目だけではない色々な授業が必要だと思っています。rinsanさんがおっしゃっている「裾野拡大」もそうですね。
ただ学校がそういう風にやってくれないところにとてももどかしさを感じます。これはムダ、あれはムダ、と思わせているのは学校ではないでしょうか。ほとんどの授業が受験のための指導になっていく中で、興味を持って挑むのはとても難しいです。
まず、学校の授業が入試対策にのみ特化しているとすれば、それは問題だと思う。そんなものは、塾でなど、必要な生徒だけが受けていれば良い。だけれど、過剰な課外活動を行うのはどうなんだろうかと悩んだりもする。
なぜ学校で学問を学ぶかと言えば、それは「学校でしか学べないものであった」からではないか。家や社会で普通に生活していたのでは身に着かない、けれども生きるのには必要あるいは有利、そんな学問が学校教育で選ばれたのだと思う。つまり、逆に言えば学校で教えられないことは、本来ならば家や地域社会などで学ぶべきことなのだ。近年家庭でしつけをせず、学校にそれを押し付ける親がいるというが、その典型だと思う。
そういったことを考えると、その教育の場を学校に押し付けるのではなく、社会のあり方の方を見直すべきなんじゃないかと。そう思います。
また、生徒自身から積極的に社会とかかわりを持とうとするだけでも見え方は変わってくるはず。学校と言う狭い空間に閉じこもっていたがる生徒は結構いるんじゃないだろうか。その殻から抜けるだけでも立派な課外活動になるのでは*1。
授業で扱うこと以外は無駄だと指導したがる先生のいる学校なら、それはちょっと可哀想だなと考えてしまう。幸いなことにうちの学校は定期考査直前ですら、ふと思いついた思考実験の検証に付き合ってくれる先生がいたりしたので。その場合はさっさと先生に諦めをつけて自分で"勉強"するしかないんだろうな。
ただ、学校のせいにするだけではなく、生徒のほうがどうやってこの授業を身に着けてやろうか考えるべきだと思いますね。
というのもその通りで、結局生徒の自発性。受身の姿勢でいるから面白いものも面白く感じられないのだと。積極的になればなるほど学問が実生活と密接に結びついていることを知るんだと思います。
美大志望だった人さんの「大学でその知識を主として使う学科へ進まない限りは必要ないし」という言葉、そういわれると、進んだ先の大学での知識はいったい何に必要なんだろう、と考えてしまいます。私は文学部のそれも国文学を志しています。いったい何の役に立つんでしょう(笑)
何かの役に立たせようとして学問を学ぶ人は、きっと文学部や理学部には行かないんじゃないかなと思っています。いい意味でも悪い意味でも。
大学で天文学を学んでいる私からすれば「どうして役に立つものしか学ぼうとしないの」という感覚。人間はロボットではない。無駄なものこそ美しい。そう思っているんですけどね(笑)
*1:ここらへんの話は藤原さんの言う「バランス感覚」と関連していると思う。少し長くなるのでここでは説明は割愛。
今の学校ってシステマティックになってる
気がするんですよ。与えられたものをやって
現実に目の前の問題を解決していって
学校では与えられたものをやるだけというか
そういう人が多い気がします
「生徒は教授されることと学習することを混同するようになり、同じように、進級することはそれだけで教育をうけたこと、免状をもらえばそれだけで能力があること、よどみなく話せば何か新しいことを言う能力があることだと、取り違えるようになる。」(I.イリイチ 1978)
試験があるからそのために勉強して
受験があるからそのために勉強して
でも、それは、間違えではないのかもしれない
学校で勉強する・学ぶ目的の違いなのかもしれません
ある観点からみたら、
学校の勉強なんて役に立たないのかもしれない
というのは間違いではないと思うんですけどね。
あんまりまとまってなくてすみません。
で,一般的に教育の世界でどういう議論がされているかと言うと「ごまかし勉強」でググってみれば分かると思います。