4月に千葉県市原の「非破壊検査」から放射性物質イリジウムが盗まれるという事件があった。5月になって非破壊検査の下請け会社に勤めていた40歳の男が逮捕され、横浜市内の川でイリジウムも無事発見された。男は千葉県警に対し「非破壊検査の待遇に不満があり、迷惑かけたかった」と動機を供述した。
この事件、放射性物質の管理の問題とか、遺棄された川の放射能汚染の問題とか、非破壊検査の待遇とか、40歳男は盗むだけでなぜ会社を脅迫しなかったのか(別に脅迫すべきだと言っている訳じゃないが)とか、色々問題がある。でもそういう大きな問題を全部飛び越えて、ぼくには「迷惑かけたかった」の一言がどうもひっかかる。これちょっと変じゃないか?「非破壊検査に恨みがあったのでイリジウム盗んで“迷惑かけよう”と思った」というコメントはどうも違和感がある。
「迷惑かける」というのは「この度は迷惑をかけました」「いえいえ迷惑だなんて、大丈夫ですよ、ははは」というような受け答えを基本とする。辞書にそう出ている訳ではないが、日本語用法としてはいわば謙遜の言葉だ。「あなたに迷惑かけたかった」と言われると謙遜されてんのか、挑発されてんのか訳が分からなくなる。こういう場合は「(非破壊検査に)嫌がらせしたかった」とか「(非破壊検査を)困らせたかった」と挑発一本で行かないといけない。それが容疑者供述の基本だ。
スポーツやイベント中継でも放送終了時に実況アナウンサーが解説者に「ありがとうございました」と言い、これに対し解説者が「失礼しました」などと解説者が答えるのが基本だ。「失礼した?何で失礼なことしたんだ?」と詰問するアナウンサーはいない。「失礼しました」が謙遜語だからだ。「“失礼しました”とあなたは言うけど、別に失礼じゃなかったですよ」という意がアナウンサーの方に了解事項としてあるからだ。
でもこのときもし「失礼したかったです」と解説者が言ったらどうだ。「ありがとうごさいました」「失礼したかったです」は変だろう。「失礼しました」なら許されるが、「失礼したかっです」だと謙遜しているのか、挑発しているのか訳が分からなくなる。
よその家から帰る時には「よく来てくれました」「お邪魔しました」と言うが、これも「お邪魔したかったです」では変だ。
何か手続きして貰ったときにも「これでいいですか?」「お手数かけました」はいいが、「お手数かけたかったです」は変だ。
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古い話だが、ちょっと自慢話をさせてもらうと、ぼくが初めて10万馬券を取ったのは92年ダイタクヘリオスがマイルCSを二連覇した日の8Rだった。マルブツフォード(11番人気)グラーダムリンダ(14番人気)という馬で決まり、馬連(当時はまだ馬連開始して間のない頃だった)11万4880円付いたのを300円取った。オッズも見ずに馬券買っていたので、薄暗い曇り空に浮かぶ6ケタの配当金額をただ呆然と見上げたのを覚えている。
マルブツフォードから総流しして取ったものだが、なぜ休養明け8ヶ月ぶり出走のマルブツを軸にしたかについては理由がある。ちゃんとした理由がある。
当時大阪スポニチには出走表の末尾に三文字の寸評がついていた。ほんとに小さなスペースで、どんなに書きたくても三文字が精一杯だ。そこに担当デスクが各馬の状態評価を三文字で入れる。これがなかなか含蓄があった。
同じ“一叩き”のことを書くにしても「叩いて」「叩けば」「叩いた」とか、よく分からないが、微妙なニュアンスの違いがあるようで、まるで判じ物のように「これを読み取ってみろ」と課題が与えられている雰囲気だった。「今回は」「今回も」「今回だ」などという違いもあり、「豊だ」「河内だ」「田原だ」とそんなこと言われんでも分かっとるがなという寸評もあった。とにかく究極の短詩型文学のようで、言外を読み取ればそこに宇宙が見えるという趣きだった。
で、その92年マイルCSの日の8Rだが、マルブツフォードの欄には「侮れる」とあった。
92年ダービーで大本命ミホノブルボンの2着に入り、馬連3万馬券を現出した16番人気ライスシャワー(後年の名ステイヤー)には「つらい」とあった。このマイルCSの前週、エリザベス女王杯を勝ち、馬連7万馬券を現出した17番人気タケノベルベットには「侮れず」とあった。そうなのだ。「侮れず」は寸評欄にもよく出ていたし、まあ日常会話でも使うからごく普通の感じなのだ。でも「侮れる」というマルブツフォードの評価はどうだ?
「侮れる」は「侮る」の可能型だ。五段活用動詞を下一段活用させて可能の意味を持たせる、「書ける」とか「読める」とかいうのと同じ類いの動詞で、それ自体はおかしな単語ではない。しかし「きみは侮れる」とか「鈴木は侮れないが、山田は侮れるなあ」とかそんな使い方するか?
単なるミスプリントだったかもしれない。その可能性が高いだろう。でもぼくはその8Rの出走表を見ながら、どうにもそのマルブツフォードの「侮れる」から目を離すことが出来なかった。
10万馬券を取ったからじゃないし、イリジウム犯がいかに重要かと思っている訳ではないが、ぼくはこの微妙なズレがけっこう大事なんじゃないかと思っている。
例えば素粒子に対する反素粒子とか、重力に対する反重力とか、あるいはフロイトがエロス(生への衝動)に対してタナトス(死への衝動)という概念を出して自説を説明したような、そういう真反対の概念を持ってきて物事が説明されることはよくある。しかし行き詰まりはいつもその「正」に対して「反」を持ってくるところから生じる。
例えばヘーゲルの作り出した弁証法は「正」「反」「合」とか、「即自」「対自」「即時かつ対自」などという言われ方をする。しかし少し注意深く読むと、正と反は真反対に対立するものではない。例えば「家族」「市民社会」「国家」というのはヘーゲルの国家弁証法だが、市民社会は家族に対して出てくるものでありながら家族を包含している。国家は家族と市民社会の対立を止揚するものとしてあると言われながら、家族を含む市民社会をさらに含んでいる。そういうプラスに対するマイナスのように言われながら、実はマイナスはプラスを含んでいるというような、そういう一元的でない、ある意味われが分からないというところがヘーゲル弁証法の優れたところだ。
「非破壊検査に迷惑かけたかった」とか「マルブツフォードは侮れる」と、そう言うときのほんのちょっとした“すわりの悪さ”、うん?ちょっと何か変?という違和感、何か対称性の破れ目みたいなものが大事なんだと思う。
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最近ムササビの生殖の話を読んだ。そう言うと何だか偶然目にしたようだが、ごめんなさい、偶然ではありません。正直言うと、最近ぼくは「競馬週刊誌」以外は動物のセックスの本しか読んでいない。
「さっさと脱ぎなさいよ」と唐突に命令され、「それでも何か誉めないといけない、コミュニケーションの基本だから」と思い直し、「きれいな脚ですね」と言うと、その革のボディスーツに網タイツの女がダダダと走り寄ってきて「何を言うか、奴隷の分際で」とムチで叩かれた。その上、その革ムチの柄で「ダメだ、あんたのチンチンは」とグリグリやられた。2万円も払っているのにだ。
2万円払い、ムチの柄でグリグリやられても、男は雄々しいスリコギであらねばならない、そんなセックスがほんとに正しいのかと、最近本読んで勉強しているのだ。動物たち、ほんとに真の意味で“ワイルド”なやつらはどんなセックスをしているんだと、涙にくれながら勉強している。
問題はムササビだ。ムササビのメスは繁殖期になっても決してオスを自分の巣に入れない。しかしある晩メスは突然巣を飛び出して木の先端に上る。下の梢には「何とか一つ」とオスたちが手を擦りながら群がる。
ここまでならムササビのメスは高潔のようだが、そうではない。この晩メスは5、6匹のオスと一気にやりまくる。「ふう」と額に手をやり、満足そうに夜明けを迎えるメスを見送りながら、あぶれたオスたちは「なんだよう、貞淑そうに振る舞ってたくせに結局アバズレじゃないか」とうなだれる。
しかしオスの方も浮気メスを漫然と許している訳ではない。ムササビのオスは精子と共に交尾栓という半個体をメスの体内に注入する。ゼラチン質の固まりで、次のオスの精子が自分の精子より先に子宮に到達するのを妨ぐ。
オスというのはどの動物でも工夫を凝らして浮気女に対処している。しかし人間のオスのように「一人の女は終生一人の男に尽くすものだ、それが自然の摂理、つまり愛だ」などと倫理観を植え付けてメスを閉じこめようとはしない。
ムササビのオスは遙か高木の先端にいるメスを見あげながら、「あいつはやるんだよ、一晩にうちに何人もの男と。やる女なんだ、あいつは」と溜息をつく。しかしムササビのオスは、そう思っていても「このアバズレ女、お前には貞淑観念というやつはないのかあ!」と負け犬の遠吠えのような空しいことはしない。惚れた女がアバズレだと分かっているから、せっせと自分の体内に交尾栓を作る。そして自分の精子を入れたあと、その念を入れて作り上げた渾身の交尾栓をグイッとお見舞いする。そうすれば、惚れた女がほかの男とやってもそいつの精子はなかなか中に入らない。ざまあ見ろだと、先攻オスはほくそ笑む。
アバズレ女に「倫理と愛」ではなく、アバズレ女に「交尾栓」という、このちょっとしたズレが新たな展開を呼ぶと、そういうことを言いたい。いやぼくより先にムササビのオスがそう言っている。
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そんなことでCBC賞はワイルドシャウト。関東馬ながらとにかく中京得意だ。キェーィ、キェーィと野性の叫びを上げながら、大外突っこむ。
2008年6月12日