乗峯栄一の「今日も大バテ」

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今日も大バテ:第46回 青春の門ガエル

 競馬というのは例えば競艇のように急ターンもないし、オートレースのように何十メートルも下がってスタートすることもない。コースは広くて長いし、最も紛れる要素の少ない競技のはずだが、いろいろ波乱が起こるのはつまり馬に原因がある。こいつらが何を考えているかつかめないというのが競馬の最大不確定要素だ。

「何でゲートに入るのにイヤイヤするんだスイープトウショウ」、「向こう正面で急に猛発進するのはなぜだコスモバルク」、「調教師から“コースは曲がっている所もあるんだよ”って教わってるんじゃないのかブラックパワー」と何度そんな同じフレーズを吐き捨てたか分からない。ほんとに馬は分からん。でも万が一この“馬の気持ち”さえつかめれば競馬ほど単純明快な競技はないはずなのだ。

 自分の部屋で素っ裸になり、トレセンの厩舎でもらった蹄鉄の上に手足を置きフトン叩きで自分のケツ叩いてヒヒーンと鳴いてみたこともある。何か分かるかもしれないと思ったからだ。でもダメだ。青クサ食いたいとか、ニンジン丸かじりしたいとか、そんな気持ちは全然湧いて来ない。

 ここ数年来のわが最大の関心「動物セックス探求」のきっかけはここだった。人間も思考の八割はセックスだ。これはもちろん自分の頭の中を冷静に分析してみての結果だが、でも人間そんなに大差ないはずだという思いこみもある。知性がある言われる人間ですらそうなんだから、馬の頭の占めるセックス比率はもっと高いはずだと、これも冷静に判断した。馬を分かる(あるいは自分を分かる)というのはつまり馬のセックスを分かる事だと確信を持ったわけである。

      *

 ちょくちょく書いているが、家の近所に出掛けるときはだいたいママチャリを使う。多少なりともダイエットの助けになればという悲しい思いからだ。夏の暑い時期なら30分も漕げば1キロは痩せられる。

 うちの周りは大阪北部、豊中と箕面の境あたりだから、まだ国道の間に田んぼが広がり、車に怯えることなくあぜ道を漕いで行ける。競馬映像保存用のDVDやプリンターのインクなど、そこそこ文明の利器を買いに電器店に向かう訳だが、麦わら帽子に手ぬぐい首に巻いたおっさんがあぜ道をママチャリで進むのだから、まあのどかなものだ。

 用は割合簡単に済んで、このままじゃまだ200グラムぐらいしか体重が落ちてない。どこか寄る?

 うちの近所には「萱野(かやの)三平邸跡」という表示がよくあって「いっぺん三平ちゃんとこ行ってみるか」と思い立つ。

 赤穂藩士・萱野三平は藩主浅野内匠頭の急を早カゴで赤穂城代家老・大石内蔵助に知らせるほどの重要人物だったが、父親の義理によって四十七士に加われず、この北摂箕面の地の実家で切腹した悲劇の武士だ。

 暑い中“三平宅”を探してうろうろするが、どこか分からない。人に聞くと、直前に通り過ぎていたようだ。ちゃんと大きな表札出しとけよ。

 古めかしいが、それでもごく普通の家だった。門の中に入ると番のおばあさんがいて「うん?」と言って受付窓から耳を近づける。耳が遠いようだ。

「普通に見ていいんですか?」

「あ?うん?」

「普通に見ていいんですか?」とさらに顔を近づけて大声を出す。

「あ?ああ。普通に見ていい」的確な返答だ。

「切腹の部屋」というのがあり、三平の肖像が置かれていた。

 受付に引き返して「あの、ほかには?」と聞くと、今度はおばあさん「はあ?」と言って丁寧にも外へ出てこようとした。でもそこには自転車や傘立てがあって出られず、おばあさん、フウと溜息をつく。

 全く関係ないのだが、ぼくの耳にはそのとき「なお老婆は十分な進路がなく自ら控えたものでありました」というあの競馬場アナウンスが聞こえてきた。

         *

「まだ三十分経たない」とチンタラチンタラ自転車漕いでいると、用水路の苔石の上でカエルが二匹重なって鳴いている。何ということのない風景だ。しかしのどかな“タオル巻きおじさん”はここで立ち止まった。

 先日『青春の門』テレビリメイク版を見た。映画の『青春の門』第一作はちょうど早稲田入学時期に見たような気がする。田中健演じる主人公信介が筑豊ボタ山を臨む田舎町でデビュー間もない大竹しのぶ演じる織江とセックスして、早稲田入学のために上京する。多分そこで映画は終わっていた。いや細かいところは違うかもしれないが、とにかくぼくには信介は筑豊でセックスしたあと早稲田入学するという、そこしか記憶に残っていない。「オレは姫路の高校で初体験未遂のまま上京している」と映画見ながら全然関係ないところで切歯扼腕していた記憶だけ鮮明に覚えている。

 大竹しのぶも、ごめんなさい、「不細工やなあ、この新人女優」という印象しかなかった。「不細工だけど頑張るなあ」という感じだった。

 あれから約三十年、今回は信介も織江も知らない新人の俳優がやっていて印象は全然違ったけど、一つだけどうにも気になることがあった。信介との初体験が済んだあと、織江が「うち、まるでカエルになったごとある気持ちがしたとよ」と言うのだ。

「カエル?」と信介が問い返し、「うん。男はよかばってん、してるときの女の恰好はざまなかね。うちは好かん」と織江が言う。

 一見何ということのないセリフだ。しかしぼくは大いにひっかかった。ぼくの知識ではカエルはセックス(交尾)しないはずだからだ。

 ぼくは慌てて五木寛之の原作本「青春の門・筑豊編」を買いに行ってチェックした。ある。確かに講談社文庫519ページにこのセリフがある。たぶん三十年前の大竹しのぶも言ってたんだろう。言ってたのに、当時の未熟なぼくが「ふんふん、なるほど」と聞き逃していたのだ。悔しい。

 確かにカエルは相手の背中に乗ってよくペアになる。「あれはいわゆる後背位、あんなに見境いなく、あ、ミッちゃんは見ちゃダメよ」と用水路通りがかった母親が慌てて娘の目を覆ったりするのが通例だ。ぼくもそういうものだろうと思っていた。しかし「動物セックス探求」を志してはや五年、いまはそんな“青春の蹉跌”は踏まない。

 魚類はもちろんそうだが、カエル、サンショウウオ、イモリなどの両生類は基本的にセックス(交尾・体内受精)しない。水の中で生活しているからだ。

 動物というのは水の中にいれば基本的にセックスしないでいい。オスは繁殖期のメスに排卵を促し、排卵が果たされればメスの方に向かってではなく、卵に向かって射精する。人間も一億年前のように水の中にさえいれば、「“あなたってすっごい”と言われたい」とか、「あいつの方がよかったのか?そうだろ、あいつの方がそりゃ強そうだもんな、そんなによかったのか?この淫乱女が静かにうなずきやがってクッソー!」とか、そういうもろもろの精神的葛藤をせずに済んだ。今の世の愛憎劇の八割はなくなっていた。

 カサゴやバラタナゴなど卵胎生といって魚類なのに交尾する不届き者もいるにはいるが(そんなこと言ってたらきりがないので)、基本的に水中生活者はセックスしないと覚えておいてもらいたい。「下等だからセックスしない」んじゃない。トンボでもトコジラミでもフンコロガシでもミミズでもカタツムリでも、両生類よりずっと下等と思われている虫類でも、陸上で生活する者はほぼ全体がセックスする。しないとしょうがないんだ、水がないから。セックスとはそういうものだ。

 いや、でも正確を期さないといけない。「青春の門」原作をチェックしたあと、ぼくは図書館行って調べてみた。我ながら動物セックスには無類のファイトが沸く。

“カエル後背位”は「包接」と言ってセックスではなく、通常は下のメスの排卵を促す行為と言われている。でも『カエルの鼻』(石居進著)という研究書によればメスの排卵よりもむしろオスの放精を促進させる行為らしい。この時期のオスというのはオス・メス見境いなく飛び乗るが、下になったのがオスの場合は「クク」という鳴き声を発するので、上のオスは「あ、おれオスに乗ってしまったのか」と諦めて離れる。逆に下がメスの場合は上にオスに乗られてもじっと耐えているということだ。ここが大事だ。

 人間の女はいきなり後ろから見ず知らずの男に抱きつかれると「キャッ、何すんのよ」と悲鳴を上げるが、カエルのメスは「どう?出そう?」と静かに問いかける。

 馬のメスは自分が発情していないのにオスが近づいてくると蹴り上げて大事な種馬を傷つける、だからアテ馬を使うと言われているが、そういうとき利口な種馬になればバシッと一発メスの尻を叩いて「カエルの後背位見習ってこい」と説諭するべきなのだ。

 とにかく織江の「カエルになったごとある」は間違いだ。カエルはセックスしない。カエルのオスは包接(“包んで接する”何とたよやかな愛情表現じゃないか!)によってメスから排出された無数の卵に向かって射精するだけだ。

 織江は一体カエルのどんな痴態を見て「カエルになったごとある」と言ったのか。あるいは道路で股開いた恰好でトラックなんかにひかれているあの“カエル日干し”の図のことを言ったのだろうか?だとすればカエルが「こんなところでオレは死にたくない!」と断末魔の叫びを上げている図と自分のセックスの図が似ているということで、これはカエルに対して失礼じゃないのか?やっぱり織江は「“わたしのセックスはカエルのセックスのような恰好だった、人間の女としてジクジたる思いがある”と言った」と解釈するのが順当だろう。だとしたらやっぱり間違いじゃないか。カエルはセックスしないんだから。

 もしかして織江は「下等生物になったみたい」ということが言いたかったのかもしれない。だとすれば、そのときは「ミミズあるいはカタツムリになったごとある」と言わねばならなかった。そしてもし自分の背中に抱きつきながら、こっちの体内に射精するのではなく、ゴシゴシ擦ってズボンの中にお漏らしする男を発見したら「うーん、立派なオスガエル」と、そのとき初めてそう言ってあげるべきなのだ。

 信介はこの織江のセリフのあと「お前も妙なおなごばい。はじめて男としたときは、処女なら泣いたりするとが普通じゃろうが」と言う。まったく甘いと言わねばならない。バシバジバシッと織江の横っ面をはたき、「“カエルのごとある”って、バカか、お前は。カエルはセックスしないんじゃ。生物の教科書見てこい!」と言わねばならなかったのだ。

         *

 そんなことで、今回の動物生態研究も予想にはなかなか結びつかなかったが、札幌記念はコンゴウリキシオーの一発逃げに期待する。マンハッタンスカイやメイショウレガーロなど同型もいるが、藤田とリキシが目を剥いて行けば控えるはずだ。

2008年8月22日

乗峯栄一(のりみね・えいいち)
1955年岡山県生まれ。文筆業。
早稲田大学第一文学部卒。「小説新潮」新人賞佳作受賞。朝日新人文学賞受賞。1992年よりスポニチ(関西版)で競馬予想コラム「乗峯栄一の賭け」連載中。
著書「なにわ忠臣蔵伝説」(朝日新聞社)「いつかバラの花咲く馬券を」(アールズ出版)等。

乗峯栄一のトレセンレポート
http://norimine.blog25.fc2.com/

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