ここ数年、戦時中の忘れられた爆撃ともいえる中国の重慶爆撃を追っている。重慶爆撃をご存じの方はどの程度いるのだろうか。東京大空襲、広島、長崎への原爆投下は米軍による無差別爆撃として知られるが、重慶爆撃は日本軍による重慶市を中心にした一連の無差別爆撃、多くの非戦闘員が死傷した爆撃だった。現在、重慶爆撃をめぐる戦後補償裁判「重慶大爆撃訴訟」が法廷で争われている。日本の被害者同様に、中国人被害者も無差別爆撃で深い傷を負って戦後を生きてきた。その声を現地から届けたい。歴史健忘症は将来に禍根を残すと考えるからである。
日中戦争当時、日本軍が蒋介石の率いる抗日勢力の拠点だった臨時首都・重慶を中心として行った爆撃で、中国人被害者や遺族40人が、日本政府に1人当たり1000万円の損害賠償と謝罪を求め、東京地裁に提訴したのは一昨年3月。計3次までの提訴で原告は総勢107人、請求総額は10億7000万円となる。
訴状によると、日本軍は1938年から43年の5年半にわたり、重慶市を中心に200回を超える爆撃を繰り返し、推定約6万人の市民を死傷させた。一連の爆撃は軍事目標を対象としない無差別爆撃で、国際法に違反する、としている。
提訴以来の原告らの主張に対し、国は請求棄却を求め、事実の認否をせず、全面的に対立している。
重慶爆撃が忘れられた理由の一つに、極東国際軍事裁判(東京裁判)で重慶爆撃が裁かれなかったことが挙げられる。東京裁判の起訴状に日本軍の爆撃への言及はなく、その付属文書に、南京や広東が爆撃され多数の一般人が殺害されたという指摘はあるが、最大規模だった重慶爆撃はそこでも言及されていない。連合国が日本国内の無差別爆撃への反論を恐れたからと考えられている。
これまで3回現地を訪ね、十数人の原告らの訴えを聞いて回った。
趙茂蓉さん(79)=重慶市磁器口=が爆撃を受けたのは41年8月。6人家族で趙さんは当時12歳。家は貧しく、趙さんは地元の紡績工場で働いていて爆撃を受けた。爆弾の破片の一部が右ほおに突き刺さり、あごの骨まで砕ける重傷だった。爆撃で自宅は全焼。家族はバラバラになった。趙さんは爆撃時のショックで左耳が聞こえなくなった。しかし、趙さんを苦しめたのは爆撃以後の人生だった。
「元の職場に復帰しましたが、顔の右半分に大きな傷があるため、同僚から『半面美人』とからかわれるのがつらかった。日本軍の爆撃にはいまでも激しい怒りを覚えます」
爆撃は一家の貧困にさらに拍車をかけ、趙さんの就学の機会をも奪った。趙さんはいまでも中国語の読み書きができない。
呉紹武さん(76)=四川省峨眉山市=が爆撃を受けたのは39年8月、当時7歳。重慶市から西に約260キロの楽山市に住み、5人家族だった。爆撃で母と兄を失った。
「母の遺体は下半身だけ。母がはいていた黄色い靴下が母の決め手になりました。肉親らの無念を晴らすために、闘い抜きたい」
呉さんはその黄色い靴下を思い出したのか、目に涙をためていた。爆撃後、呉さんは商店での奉公人生活を強いられ、学校も満足に行けなくなったと語った。
東京大空襲を自ら体験し、大空襲をライフワークにしてきた作家、早乙女勝元さん(76)は「我が身に受けた空襲による傷の深さに目を奪われてきましたが、私たちが受けたのと同じような爆撃をかつて日本軍が重慶の人たちに行っていたことを、20年前にある本を通じて知り衝撃を受けました。被害者体験だけでは戦争を語り継いでいくことにはならないと痛感したものです」と振り返っている。
重慶爆撃の訴訟に続いて東京大空襲訴訟が昨年3月に東京地裁に提訴された。空襲被害者が国に損害賠償などを求める初の集団訴訟だ。原告団は、東京大空襲が日本軍の重慶爆撃などの先行行為の結果として受けた被害である点からも国の責任を指摘している。
法廷では無差別爆撃による被害と加害が問われ、両訴訟の法廷に足を運ぶたびに、歴史の奇妙な巡り合わせに立ち会っているのではと思えてくる。
いまや日中は「戦略的互恵」が両国から強調される時代に入る一方、日中間の戦後補償の解決策が司法の場では次々閉ざされてきたという厳しい現実がある。しかし、不幸な過去のトゲに向き合ってこそ、本当の日中友好の前進につながるのではないのか。重慶爆撃もまたしかり。被害者たちの声からそう思うのだ。
毎日新聞 2008年12月26日 0時22分