K−K氏の理論を支える英文史料に重大な誤訳があることが 判明しました。(あえて捏造とは言いません。あまりにも杜撰な ミスなので、おそらく不可抗力であると考えられますから…)
後半戦でK−K氏の理論を支えた柱がこのウィルソン日記でした。ログは現在編集中ですが、該当 史料であるウィルソン日記の誤訳が判明した為に、すでに意味がないかもしれません。
つまり、このウィルソン日記は1938年4月末以降(戦争 被害調査終了以降)の史料であるという点が重要なわけで すね。これが戦争被害調査の前の資料であれば、10万と 見積もられていた被害者数が、調査の結果約4万だったと いうことになります。(死体数として、4万しか認識できない から当然ですね) 根拠の無い憶測は、調査された数字によって見解が修正されるわけです。つまり、戦争被害調査 で死体数の認識が軍民合わせて約4万に落ち着いた時点で、それより古い認識は修正されることに なるでしょう。つまり、ウィルソン日記の日付けが、5月以前のものであれば、K−K氏の論を支えるこ とはできなくなり、しかも、軍民約4万という外国人認識を修正するような事実はなかったということに なるでしょう。 K−K氏が引用先として指定した書籍はこれです。["Documents On The Rape Of Nanking ", Timothy Brook,Ann Arbor Paperbacks, 2002, P254]同書籍を入手して該当ページを開 いてみました。その書籍の該当ページが以下に表示したものです。K−K氏が引用した部分 は正確にいうと、P253〜254ということになります。
K−K氏の引用文の冒頭箇所The Red Swastika Society has for the last month been という部分が下記原稿の一番下の行で確認できると思います。 K−K氏の引用「The Red Swastika Society has for the last month been 」 が一番最後の行にあります。ついでに原稿の上部を見ていただくと中学生でも理解できると 思いますが、日記の日付けが入っています。 ウィルソン日記の10万という見積もりの記述日時が、スマイス博士の戦争被 害調査よりも前の数字であるということが判明しました。すると、当初は10万 という被害見積もりもあったが、調査した結果約4万の埋葬しか確認できなか ったということになるでしょう。つまり外国人の認識は軍民4万でそれは東京 裁判まで続いていたと考えられます。(南京陥落から概ね一年後の、1938年 11月のベイツ書簡でも約4万という記述)。東京裁判でベイツが行なった証 言、調査できなかった虐殺があったという意味の認識を、当時の史料から 証明するのは困難なようです。(そういう史料が今のところ無い)
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