南京事件資料集HPにみる重大な誤訳史料


 K−K氏の理論を支える英文史料に重大な誤訳があることが
判明しました。(あえて捏造とは言いません。あまりにも杜撰な
ミスなので、おそらく不可抗力であると考えられますから…)



 とりあえずK−K氏の投稿を見て見ましょう。
■4■ 「ろむ」さんの議論手法(相手の論を勝手に規定し、それを否定する自家撞着論法) 投稿者:K−K  投稿日: 9月23日(月)12時33分17秒


>>■4■
>>【質問】 ウィルソン書簡により、残留外国人認識が軍民10万である
>>ことが【資料】により明らかになっていますが、この数字は紅卍字会埋
>>葬数を6万も上まわる数字です。埋葬記録が存在するかどうかの問題以
>>外にも、死体の存在の認識があることが明らかなのですが、なぜ、埋葬
>>統計【のみ】に拘泥するのでしょうか?説明をお願いします(ここでウ
>>ィルソン書簡の根拠の正確性を問うても意味はありません。この時の外
>>国人認識を知る上では、ベーツ書簡を除けばこれ以外ありません。ちな
>>みに、ベーツ書簡について論じているのですから、ベーツ書簡を根拠に
>>出来ないことは言うまでもないでしょう)。

>○この点はそうではないことを説明しましたが、K−K氏が回答を拒否しました。

 いつの間にかに私が回答を拒否したことになってしまっているようですが、私が回答を拒否したという事実が存在しませんので、おそらく「ろむ」さんの勘違いか、事実の捏造だと思われます。

 さて、「ろむ」さんにとって、よほどこのウィルソン書簡の存在が脅威となっているようです。しかし、ウィルソン書簡が存在し、死亡者総数を10万(以上)と認識していることも明白な事実です。

【ウィルソンの家族への手紙 1938年5月7日】
---- 引用 ----
原文:
The Red Swastika Society has for the last month been feverishly burying bodies from all parts of the city outside the zone and from the surrounding countryside.
The conservative estimation of the numbers of people slaughted in cold blood is somewhere about 100,000, including of course thousand of soldiers that had thrown down thir arms.
["Documents On The Rape Of Nanking", Timothy Brook,Ann Arbor Paperbacks, 2002, P254]

[渡辺訳]
紅卍字会は、ここ1ヶ月間、安全区外や周辺農村部からの遺体を ものすごい勢いで埋葬しています。冷酷に虐殺された人々の控えめな推定数は、およそ10万人程度です。もちろん、武器を放棄した多数の兵士達もその数に含まれています。
---- 終わり ----
『南京事件資料集』埋葬関係資料

 ここに記されている数字は、軍民10万というものです。ベーツが書簡において利用している紅卍字会の埋葬数は、軍民合わせて4・2万であることがボートリン・スマイス等の記録によって明らかになっています。

 つまり、これらの事実から考えると、紅卍字会の埋葬数4・2万(4月中旬時点の認識)という数字を遙かに上まわる「死体数」の認識を、残留外国人は5月初旬に持っていたことが解ります。

 「ろむ」さんは、ベーツ証言における「確かに知っている範囲」以外の認識を得るものとして、埋葬統計資料を挙げていますが、上記の通り、資料を突き合わせてみることにより、埋葬統計資料に限定する根拠はないことがわかります。

 そもそも、「埋葬統計資料」なるもので判断するということは、まるで資料に示されていません。なぜ、「ろむ」さんに掛かると、「確かに知っている範囲」以外とは「埋葬統計資料」となり、その様な「埋葬統計資料」は残留外国人に認識されていない、だからベーツ証言は偽証である、ということになってしまうようです。

 つまり、論点は「紅卍字会の埋葬に含まれない、別の統計の埋葬があった」かどうかが問題などではなく、「ろむ」さんが勝手に定義しただけのことでした。そして、それを否定して見せて、だからベーツ証言は偽証である、と言いたかったのでしょう。

 これが、「ろむ」さんの議論のトリックです。

 後半戦でK−K氏の理論を支えた柱がこのウィルソン日記でした。ログは現在編集中ですが、該当
史料であるウィルソン日記の誤訳が判明した為に、すでに意味がないかもしれません。




 誤訳の説明に入る前に、K−K氏の構築した理論を検証してみます。

(1)紅卍字会の埋葬数4・2万(4月中旬時点の認識)という数字を遙かに上まわる「死体数」の認識を、残留外国人は5月初旬に持っていた。
 
 ここでのポイントは、5月初旬の死体数の認識という部分です。戦争被害調査は4月末頃で概ね終了しています。その時の死体数の認識は軍民合わせて約4万というものでした。K−K氏jは、戦争被害調査以降に10万という認識があるという部分を強調したいようです。


(2)戦争被害調査以降に外国人の被害者数の認識を表す史料は、11月のベイツ文書と、5月のウィルソン日記しかない。というのがK−K氏の主張です。

 11月のベイツ文書では、被害認識としては軍民合わせて約4万というものに留まっていますから、厳密にいうと、戦争被害調査以降(1938年4月末以降)、約4万を大きく越える被害数を提示している外国人史料は、この5月のウィルソン日記だけ、ということになります。


 この史料が使えなくなれば、K−K氏の論を支える史料がなくなるということになるでしょう。





 つまり、このウィルソン日記は1938年4月末以降(戦争
被害調査終了以降)の史料であるという点が重要なわけで
すね。これが戦争被害調査の前の資料であれば、10万と
見積もられていた被害者数が、調査の結果約4万だったと
いうことになります。(死体数として、4万しか認識できない
から当然ですね)

 
重要な部分は5月7日の文書で

戦争被害調査の後の文書である

ということ





 根拠の無い憶測は、調査された数字によって見解が修正されるわけです。つまり、戦争被害調査
で死体数の認識が軍民合わせて約4万に落ち着いた時点で、それより古い認識は修正されることに
なるでしょう。つまり、ウィルソン日記の日付けが、5月以前のものであれば、K−K氏の論を支えるこ
とはできなくなり、しかも、軍民約4万という外国人認識を修正するような事実はなかったということに
なるでしょう。








誤訳の証明

 K−K氏が引用先として指定した書籍はこれです。["Documents On The Rape Of Nanking
", Timothy Brook,Ann Arbor Paperbacks, 2002, P254]同書籍を入手して該当ページを開
いてみました。その書籍の該当ページが以下に表示したものです。K−K氏が引用した部分
は正確にいうと、P253〜254ということになります。
 

【ウィルソンの家族への手紙 1938年5月7日
---- 引用 ----
原文:
The Red Swastika Society has for the last month been feverishly burying bodies from all parts of the city outside the zone and from the surrounding countryside.
The conservative estimation of the numbers of people slaughted in cold blood is somewhere about 100,000, including of course thousand of soldiers that had thrown down thir arms.
["Documents On The Rape Of Nanking", Timothy Brook,Ann Arbor Paperbacks, 2002, P254]

 K−K氏の引用文の冒頭箇所The Red Swastika Society has for the last month been 
という部分が下記原稿の一番下の行で確認できると思います。





 K−K氏の引用「The Red Swastika Society has for the last month been 
が一番最後の行にあります。ついでに原稿の上部を見ていただくと中学生でも理解できると
思いますが、日記の日付けが入っています。




MARCH7 つまり3月7日です。

5月7日ではありません…



 ウィルソン日記の10万という見積もりの記述日時が、スマイス博士の戦争被
害調査よりも前の数字であるということが判明しました。すると、当初は10万
という被害見積もりもあったが、調査した結果約4万の埋葬しか確認できなか
ったということになるでしょう。つまり外国人の認識は軍民4万でそれは東京
裁判まで続いていたと考えられます。(南京陥落から概ね一年後の、1938年
11月のベイツ書簡でも約4万という記述)。東京裁判でベイツが行なった証
言、調査できなかった虐殺があったという意味の認識を、当時の史料から
証明するのは困難なようです。(そういう史料が今のところ無い)



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