スマイスの認識についての反論
これもK−K氏からの反論です。またしても私の「人口論」を論破してしまったらしく勝利宣言付きの 投稿でした。(該当投稿はページの下の方に掲載してあります)。このページでは他のHPと重複する 部分もありますが、再度南京陥落時の人口に付随するスマイス調査の解説を行ないます。
スマイス調査の関連記述
日中戦争史資料集9 南京事件U 英文関係資料編P219 南京地区における戦争被害 1937年12月―1938年3月 都市および農村調査
1市部調査 T 人口 南京市の戦前の人口はちょうど100万であっ たが、爆撃が繰り返され、 後には南京攻撃 が近づいて中国政府機関が全部疎開したた めにかなり減少した。 市の陥落当時(12月 12日〜13日)の人口は20万から25万で あった。
我々が3月に行った抽出調査で報告された人 員を50倍すれば、 すぐさま市部調査 で表示 されている22万1150人という人口数が得られ る。 この数は当時の住民総数のおそらく80な いし90%を表したもの であろうし、住民の中 には調査員の手の届かぬところに暮らしてい たものもあった。 (人口についてさらにつっこ んで問題するには、第一表の注を見よ。)
| (第一表の注釈)
12月末から1月にかけて日本軍当局によって行われた不完全な登録に基づいて、 国際委員会のメンバーが推定したところでは、当時の南京の人口は約25万人であって、 数週間前に彼らが特に慎重に推定した数をはっきりと上回るもの である。 中国の半官半民筋はほぼ30万と推定していた。2月・3月には大した変化はなかったが、 市の近辺の秩序の乱れた地域から著しい人口の流入があったので、 恐らくそれは流出をわずかながら上回っていた。これも明らかに重要なことであった。 我々が推定してみたところでは、3月下旬の人口は25万ないし27万であって、 このうちには調査員の手の届かぬ人々もあり、また移動の途中の人々もあった。 調査した人員は22万1150人である。 。
|
K−K氏のレス(抜粋)
K−K氏の記述(反論)
この記述から解ることを挙げてみます。
a)日本軍の登録に基づいた委員会の推定では、1月の人口数は25万
b)この数字は、陥落時の予想である人口20万を上まわるものである
c)中国側の推定では、陥落時、人口30万であった | 」
ここでも問題点は(C)の部分です。「中国側の推定では、陥落時、人口30万であった」という 部分です。これは、厳密に言うと「陥落時の人口ではなく、一月中旬の人口推計」であると考えられ ます。その理由の一つが、半官半民という記述にあります。陥落直後12月13日には「中国の”半 官”半民筋」というものが存在しなかったと考えられるからです。中国側の自治委員会(半官に相当) が成立したのは1938年1月1日です。特務機関の後ろ盾のもとに成立したのですからこれが中国 側の”官”に相当するでしょう。
すると、「中国の半官半民筋」が30万と推計したのは、1月以降ということになり国際委員会のメン バーが日本軍の登録を元に25万と推定した時期と同時期と考えられます。ようするに安全区に収容 した人数について、国際委員会は25万と考え、中国側は30万と考えたということになるでしょう。こ の二つの推計の根拠となったのは「日本軍の不完全な住民登録です」。該当する史料を引用してみ ましょう。
第19号文書(Z―35) 南京安全区国際委員会 寧海路5号 1938年1月14日 南京日本帝国大使館 福田篤泰殿
〜前略〜 貴下が登記した市民は16万人と思いますが、それには10歳以下の子供は含まれて いないし、いくつかの地区では、年をとった婦人も含まれていません。 ですから当市の総人口は多分25万から30万だと思います。
日中戦争史資料集9 英文関係資料編 P143 |
このように、1月14日段階での国際委員会の推計内容は「(1)一月中旬の総人口として(2)「25 万〜30万」というものです。30万というのは中国側半官半民の見解だと思われます。しかしこの30 万と言う数字はどうやら過大見積りであると考えたらしく、20号文書以降は「25万」という表現に 落ち着きます。1月17日の第22号文書では≪この量が早急に一日米1000袋に増量されて、25 万の需要をもっとよく満たすことができるようになるものと信じてます≫とあり、1月19日の第24号 文書では≪あなた方は当市25万市民に食を与えるという問題について〜略〜≫とあります。(共に 英文関係資料編からの引用)
次に中国側、半官半民推計の30万の内容を考察する史料を引用します。
東京裁判、許伝音(紅卍字会副会長)証言
○サトン検察官 安全地帯内に居りました中国国民の数はどれほどでありましたか。
○許証人 勿論公式の数字はございませぬが、この安全区に居りました人たちは20万から略〜30万に及ぶほどでありました。※
※許伝音がみずから書いた宣誓口供書(検証1734=法廷証拠としては拒否)には、「大略29万ノ人ガ安全地区ニ集ツテ来マシタ」とある。
日中戦争史資料集8 東京裁判資料編P24 |
ここでも「30万は安全区に収容した人数」として扱われています。つまり、上記外国人史料の25万 に相当する中国側推計が30万と見て問題ないでしょう。
確 認
日本軍の住民登録16万からの推計が
(1)国際委員会 25万
(2)中国側半官半民 30万
両者は同一の根拠から求められた数字なので、共に1月中旬までに安全区に収容した人数を表す。安全区の外は基本的に含まない。(実際は日本軍の登録16万には城外も含まれるから、推計25万は城外人口を含むことになるが、外国人はそれを知らなかったようなので安全区限定と考えた)
中国側推計30万は多いと国際委員会は判断して、25万というのが外国人の一般認識となった。
|
国際委員会の25万は「当市の総人口は多分25万から30万だと思います。」と記述されている ところから、直接陥落時の人口を推計したものではなく、「1月中旬の人口数」を表したものあることが わかるでしょう。これは中国側推計の30万も同様です。
(注 実際は、国際委員会推計の25万(中国側推計30万)にも、城外の人口が含まれているので、1月中旬頃に安 全区に収容した人数はそれ以下であるということになります。)
12月13日(陥落)から、1月中旬までの間に「大規模な人口 減少がなかった(つまり大規模な市民虐殺はなかった)」という 前提であれば、1月中旬の生存人口数を、陥落時の人口と考 えることも可能です。(外国人らはそう考えたようです)
この場合25万は陥落時の人口を推計したということではなく、1月の登録数からの推計25万を、 そういう風に利用する事もできるという意味になるでしょう。ですから、国際委員会や中国側半官半 民が陥落時の人口を推計したというのは厳密には正しくありません。
なぜスマイスは20万〜25万と記述したか!?
再度スマイス調査の本文を引用
日中戦争史資料集9 南京事件U 英文関係資料編P219 南京地区における戦争被害 1937年12月―1938年3月 都市および農村調査
1市部調査 T 人口 南京市の戦前の人口はちょうど100万であったが、爆撃が繰り返され、 後には南京攻撃が近づいて中国政府機関が全部疎開したためにかなり減少した。 市の陥落当時(12月12日〜13日)の人口は20万から25万であった。
|
20万というのは「数週間前に彼らが特に慎重に推定した数」ということが注釈に明記してありま すから陥落直後(陥落は12月13日)の推計ということになるでしょう。25万は上記で説明したように 1月中旬の生存人口を表しているようです。つまり最小値として20万(陥落時推計)として、最大値と して25万(生存人口)であると考えたことになります。
1月の生存人口が陥落時人口の上限であると考えた理由は、戦争被害調査 において、大規模な人口減少が確認されなかったという理由があります。人口 が減っていないならば、現在の人口が陥落時の上限になるということで す。(当たり前ですね)
スマイス博士が「陥落時の人口=1月の生存人口」と考えたならば陥落時の人口を「25万だった」 としなければなりません。しかし実際には「20万から25万」だったとしています。これは何を意味する かというと「人口が増加した可能性」をスマイス博士が示唆したということになるでしょう。
つまり人口は増加したが、その詳細な増加数データがないので、22万とも24万とも提示することが できないわけですね。ですから「20万から25万であった」という記述になったものと考えられます。
K−Kさんの反論を抜粋(元レスは下記に掲載)
つまり、国際委員会「25万」は陥落時人口ではなく、1月中旬以降の人口数であると主張するのですね?この「ろむ」さんの主張は、以下の資料により否定されます。
(注 以下多数の史料が引用されましたが、その一つのみを引用)
ベイツ『南京におけるキリスト教徒の活動に関する予備報告』(38年2月28)
>南京攻撃が予想された週に、南京住民の膨大な脱出があったにも 関わらず、
>25万が安全区に入り込み、数千人が同区外に留まって さらに悲惨なめに
>あうことになった。
>『南京事件資料集 アメリカ関係資料編』P182
つまり、スマイスを含め残留外国人のほとんどが、陥落時人口を「20〜25万」と認識しているのではなく、「25万」と認識していることが解ります。この時の彼らの推計は、最大値、最小値など存在しません。
|
「スマイスが陥落時25万と認識していた」という史料は今回の引用にはなかったようです。K− K氏は英文史料を引用していますが訳が提示されていませんでしたので、どのように訳したのかが不 明です。私には陥落時という部分が発見できず、また、K−K氏の訳が明確ではないので今回は英 文史料は提示されなかったものとして扱いました。(3月8日のスマイスの手紙?のようですから、戦 争被害調査前の記述になるようです。すると、日時的にも内容的にも戦争被害調査報告のほうが正 確であるということになるでしょう)
≪この時の彼らの推計は、最大値、最小値など存在しません。≫としていますが、スマイス調 査には明確に「20万から25万であった」として最大値、最小値が記されています。一般的な認識とし て陥落時人口を記す場合、20万〜25万ではなく「25万」という表記をしたということはありえるでしょ う。詳細な人口数は不明なのですから特に問題はないと思われます。ですが、調査報告では厳密 な意味を記す必要があったので20万〜25万という記述になったものでしょう。手紙などと調査報告 では求められる記述の正確さが変わってくるということです。
K−Kさんの反論
つまり、「大規模な人口減少」などには関わりなく、スマイスが「20〜25万」という数字を挙げていることが証明されました。 |
これは既に説明していますが、大規模な人口減少がなかったから「1月の生存人口25万」がその まま「12月13日の人口を示す”可能性”」があるわけですね。大規模な市民殺害があったならば、生 存人口+殺害数が陥落時の人口ということになるでしょう。
現在、南京の人口は事実上四〇万人に及んでいます(難民区の時期は二五万人、戦争直前には一〇〇万人いた)。 『南京事件資料集 1 アメリカ関係資料編』P341 ---- 終わり ----
いうまでもありませんが、ベイツはスマイス調査の協力者であり、『スマイス調査』の「まえがき」を書いている人物です。調査内容については、スマイス同様熟知しているものと考えられ、その見解はスマイス調査を踏まえたものと考えるべきでしょう。
|
ベイツがスマイス”同様”調査内容を熟知しているかどうかは、なんとも言いようがありませんね。ス マイスが社会学の学者であるのに対して、ベイツは歴史学の教授です。専門の学者と同じ程度に調 査を理解していたかどうかは断言できないと思われます。大筋では理解していたということについて は異論がありませんが。
引用資料でベイツが述べているのは「陥落時」ではなく「難民区の時期」ですね。難民区の時期と いうのは12月13日〜翌年2月末頃までになるでしょう。この間の人口について「25万」と推計した のは、日本軍の行なった1月の登録を元にしたものであることはすでに説明しています。
それよりも興味深いのは。このベイツの記述をみると、大規模な市民虐殺を認識していないことが 判明するという部分です。均しく「南京」という枠組みで人口を比較しています。難民区の時期に2 5万ということは実質的には市民虐殺による大規模な人口の減少がなかったという事を示しているこ とになるでしょう。
「ろむ」さんへ 投稿者:K−K 投稿日:10月 7日(月)23時34分19秒
>共に一月中旬の見積もりであり、日本軍の登録を基にしたものでしょう。 >言い換えると、安全区の外側の住民数について言及したものではない >ということになります。
私の質問は、陥落時の人口であるかどうかです。
その「中国の半官半民筋」が、1月以降に、陥落時人口を30万と推計したのだと思われますが? よろしいですね?
>スマイスの記述は陥落時「20万〜25万」です。 >国際委員会推計の25万は、一月中旬の生存人口であり >その25万を陥落時人口の最大値と考えたものでしょう。
つまり、国際委員会「25万」は陥落時人口ではなく、1月中旬以降の人口数であると主張するのですね?
この「ろむ」さんの主張は、以下の資料により否定されます。
ラーベの報告書 ---- 引用 ---- ついに安全区がいっぱいになったとき、私たちはなんと二十五万の難民という「人間の蜂の巣」に住むことになりました。 ---- 終わり ----
ベイツ『南京におけるキリスト教徒の活動に関する予備報告』(38年2月28) ---- 引用 ---- 南京攻撃が予想された週に、南京住民の膨大な脱出があったにも 関わらず、25万が安全区に入り込み、数千人が同区外に留まって さらに悲惨なめにあうことになった。 『南京事件資料集 アメリカ関係資料編』P182 ---- 終わり ----
Lewis S.C. Smythe"Latter to Friends,March 8,1938" Then we faced the daily fear our rice would not hold out because if the whole population wer e dependent upon what we had hauled in so desparately during the defence of Nanking, it would only last the 250,000 people one week. [Zhang Kayyuan "Eyewitnesses To Massacre", An East Gate, 2001, p.302]
つまり、スマイスを含め残留外国人のほとんどが、陥落時人口を「20〜25万」と認識しているのではなく、「25万」と認識していることが解ります。この時の彼らの推計は、最大値、最小値など存在しません。
>スマイス調査では大規模な人口減少は確認されていませんから、 >これは当然と言えます。
つまり、「大規模な人口減少」などには関わりなく、スマイスが「20〜25万」という数字を挙げていることが証明されました。
>問題は最小値20万の意味です。 >他の外国人が「一月の人口=陥落時人口」25万と考えたのに対して >スマイスが厳密にはそう断定できなかったということです。
スマイスは、上記の資料の様に陥落時人口を25万と断定しています。また、この認識は、調査後も受け継がれたことは以下の資料により証明されます。 【ベイツ11月書簡】 ---- 引用 ---- 現在、南京の人口は事実上四〇万人に及んでいます(難民区の時期は二五万人、戦争直前には一〇〇万人いた)。 『南京事件資料集 1 アメリカ関係資料編』P341 ---- 終わり ----
いうまでもありませんが、ベイツはスマイス調査の協力者であり、『スマイス調査』の「まえがき」を書いている人物です。調査内容については、スマイス同様熟知しているものと考えられ、その見解はスマイス調査を踏まえたものと考えるべきでしょう。
>これは陥落後、南京城内の人口が増加した可能性を否定できなかった >という意味になると思われます。
上記の通り、「ろむ」さんの仮説は崩壊しました。
|
|