→【特集:ヒト】小池龍之介さん「出家と家出(上)」より続く。
神を立てない考え方

私は意図的に仏教という言葉を使わないで、仏道と言っています。いずれ仏道という言葉がもっと世の中に認知されるようになったら、もはや仏道という言葉を使わずに、シンプルに「道」とか「法」とかそういうふうに言いたいですね。ブッダが作った法ではなくて、ブッダが見つけた法ですから。パーリ語で書かれたいくつかの経典なんかを見ると、やっぱり出てくる言葉は道とか法とか、そういう表現が多い。ブッダのダンマ、仏法とは出て来ずに、ただダンマ、ダンマという感じ。そのダンマという言葉も、仏教の私有物ではなくて、もっとインド的文脈なんですよ。ジャイナ教もダンマと言う。自然の法則や宇宙の真理を、ブッダのダンマとか言い出したら争いになってしまうし、何よりブッダが一番それを避けようとしていた。
仏道は生きるための方法のようなものなので、別にイスラム教徒が使おうとキリスト教徒が使おうとジャイナ教徒が使おうと、勝手にしてくださいというのが基本的にブッダの立場です。バラモン教の司祭がブッダに帰依したときに、「私はブッダに帰依して弟子となるためバラモン教の司祭を辞めるから、出家させてください」って言ったら、ブッダは「いや、あなたは世俗の職業として宗教家である。司祭の役目もあるのにそれを投げ出したら信者の皆さんが非常に迷惑を受けるから、職業としてバラモン教の司祭を務めながら、在家信者として私のもとへ通いなさい」というような回答をしています。
私がタイにいたとき、キリスト教の人が仏道の修行をしていたこともありました。本来、仏道というのは「宗教」と横並びにならない。大乗仏教ではない仏教国、たとえばタイでは仏道のことを「神を立てない考え方」というような意味の言葉で表します。ブッダの教えという言い方もするんですが、真剣に実践をして仏教が分かっている人ほど、仏道のことを宗教と呼ばない傾向がありますね。
ヨーロッパ的に「存在しないもの、存在しているかしていないか実証出来ない超越的存在に対して信仰をする」ということを宗教の定義とするなら、日本の宗派仏教はたいてい宗教になるけど、東南アジア各国の仏教は「道」であって宗教にならないという差が出てきます。しかし、宗教の定義をもう少し変えて、日常性を超えたものを扱うものを宗教というふうに漠然と考えると、仏教も宗教ということになるでしょう。ただ、宗教っていうのはやっぱりもともとはヨーロッパの言葉です。超越的な、実証不可能なよく分からないものを信仰するという意味ですから、仏道を宗教と呼ぶのは無理があります。
ブッダや師匠がそうであると言っていたからといって「じゃぁそうか、なるほどそうに違いない」と信じこむのも、仏道では間違いです。実際に、自分で試して確かめてみるまでは、鵜呑みにしてはならないのです。
ブッダ自身が、「私が言っているからといって、正しいと思っては絶対にだめだ」ということをしつこいくらいに言っていますし、「私の言葉は覚りのためのいかだに過ぎないから、覚りを開いたら捨てなさい。悟った後もそのいかだを背負って行くなんて間抜けなことだ」と言い、弟子が自分に依存しないよう注意している。
ふつうの宗教者は信者を依存させようとするんですよ、利益を巻き上げる対象にしようとして。しかしブッダは執拗に、そうならないよう気を払うんですね。ある有力な異教徒の信者が仏教徒へ改宗しようとするときにも、ブッダは早計な行動を諌めます。「ふつうの宗教家だったらこの有名な誰々は自分の信者になったって言いふらそうとするのに」と、信者のほうが驚くほどです。
仏道を役立つツールとして取り出す
日本仏教の停滞ということが言われますが、一番の問題は、仏教がキリスト教の親戚になってしまっていることなんですよ。神の代わりに信仰する対象として「○○仏」を置いているからなんです。それで、神の代わりに仏を置くくらいなら、神のほうがかっこいいじゃん、ということになってしまう。私も昔、教会の醸し出す神聖で厳かな感じ、あるいはちょっと不気味だけど天までつながっていて圧倒的な感じとか、そういうものに憧れを覚えた気がします。そうではなくて、やはり仏道においては、道の実践が重要だと思います。
大学時代に悩み多き青年だった私は当時、自分自身の苦悩を解決したくて「いかに生きるか」という道徳のことに延々と興味を持ってきましたが、大学で学んだヨーロッパ哲学では、頭でグルグルいくら考えましても、道徳の問題が結局解決せず余計に苦しくなるばかりでした。でも、頭でグルグル考える哲学を離れて仏道の実践を始めたときに、道徳はこう捉えればすべて答えが出るというような感覚に触れて、嬉しい気持ちになりましたね。
一般の人に仏教を伝えようというとき、今多くの人が何によって情報を得るかというと、ウェブサイトと本でしょう。はじめは文字なんです。文字を通じて伝えられるものは、修行の方法とかではなくて、もっと実生活で役立つ感情コントロール法だと思っています。「ああ、こうやって心をコントロールして生きればより良く生きられる」とか、「家族仲が良くなる」とか「友だちと仲良くなれる」とか「恋人とうまくいく」とか、あるいは「仕事が成功する」とか「企業運営がうまくいく」とか、そういうことですね。
こういった役立つツールとしての仏道のテクニックを、学校や企業といった公共性の高いところなどにも、伝えていきたいと思っています。感情コントロールが自分でできなくなっている子供たちや、企業で勤めながら強いストレス状況下にある人々にとって、特効薬になるはずですから。
私の本では、仏道を実用的なツールとして取り出しています。こうしたほうが得ですよ、こうしたらこれがこう良くなりますよ、といった乾いたことしか言ってない。出家修行をして悟りを目指せなんて、そんなことを言ってもしょうがないですし。悟りを100%としたら、それを5%なり1%なりとも噛み砕いて実践しやすいかたちで提示できれば、実践した分に応じて5%なり1%分なりといった分だけ人生が良くなって、悪いものを引き寄せなくなる。
神の代わりに仏を置いて、最初から楽をして信仰だけすればいいっていうことになると、信仰しようとしても信仰できないか、死んだ後天国に行きたいとか願い事が叶うとかの欲望に基づいて信仰することになるから、結局は悪い方向に行ってしまう。そして、それすら成り立たないのが現代です。現代人はいちおう科学的知識をある程度持っているので、そういうものを信仰するという発想にはならないような気がします。最近流行っている新興宗教は、どっちかというと神を信仰するというよりは、何かの行に打ち込むとか、人に対して優しくすることを実践するとか、皆で集まって活動するとか、そういう要素によって成り立っているんでしょう。超越的存在を信仰するというのは、だんだん単なる時代遅れになっているのではないでしょうか。実際、キリスト教への信仰も善かれ悪しかれヨーロッパ人の間で廃れて行っている。
私の文脈で言えば、これからしばらくの間やらなければいけないことは、日本において「仏教」という宗教的な名前で流通しているものの、中身をゆっくり「法」や「道」といった本来的なものへと入れ替えてゆく、換骨奪胎だと思っています。「仏教」という単語は恐ろしく重層的で、いろんな人が好き勝手にいろんなイメージを読み込んでいるわけですが、その単語のイメージを内側から書き換えていきたく思っております。
プロフィール
小池龍之介 山口県出身。東京大学教養学部卒。現在、月読寺住職、「家出空間」主宰。
著書紹介
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