2008年11月 3日
koike_1.jpg カフェとお寺の融合体として話題となった iede cafe 。昨年の冬に惜しまれつつもいったんクローズ、小池さんは仏教を学びに単身タイへ。短期間の勉強を修めて帰国後は、自宅アパートを月読寺として一般向けに仏道の指導を行う。

 今年三月に出版された著書『「自分」から自由になる沈黙入門』(幻冬舎)は10万部を超えるベストセラーとなり、大きな反響を呼んでいる。多方面で活躍中の小池さんに、「家出と出家」をテーマにお話を伺った。

家出カフェという試み

 家出という言葉を使い始めた頃はまだ私自身、仏教の言葉で言えば貪瞋痴というか、私なりに言えば「生活臭」にまみれていたんですね。おそらく誰もが日常の生活の中で、生活臭に対するストレスを覚えています。そして、たまにはそこから離れて小綺麗なところに行きたいと思っている。だから、たとえば遊園地やカフェや映画館など、生活臭をなきものにしてごまかすためのツールが世の中にはいっぱいあるわけです。かく言う私も以前はカフェに入り浸っておりましたが、お寺っていうのは生活臭をごまかすツールとして最も特化したものであると考えていたので、日常から離れさせてくれるというカフェ的要素と、何もせずにホッとできる場所であるお寺的要素との隣接領域として、両者をくっつけたわけです。それが家出カフェでした。

 ほとんどの人にとって、家とは生活臭にあふれたところ。それに対してお寺は本来、生活臭のない場所であったはずです。しかし、現代ではお寺もずいぶん生活臭にまみれてきて、お寺は単なる住職の家となってしまった。今では厳密な意味で、家出の場所が存在しなくなっているんですね。もちろん現代のお寺も擬似的に家出的な場所として、皆がその生活臭を見てみないふりをすることによって成り立っていますが、それをファーストステップの家出空間だとしたら、私はそれよりももう少し本来の意味で生活臭をカットするような空間としての家出先を用意したかった。

 家出カフェはいったんクローズして、今はただ生活臭を排したお寺というか、この空間に住んでいますが、もはやカフェに行かなきゃ、という衝動はないですね。自分の心や、住んでいる場所が本来の意味でのお寺というか、生活臭がほとんどしない場所になったことによって、家出をする必要がそもそもなくなってしまった。

 今でも「出家」と言わず「家出」と言い続けるのは、やはりいきなり出家っていうのは現代には向いていない言葉のような気がするからです。家出は一時的に家から出るものですが、出家は戻りません。でも家出と思って行った先が意外に神聖なものだったら、それがひょっとしたら出家に転化するかもしれない。出家と家出、ひっくり返りうるものとして、日常性のぎりぎりの範囲内にころがっている、ドアのかすがいのようなものとしてあるのかなと。

 純度の高い家出をすると、家自体が変えられてしまうんですよ。自分の日常性や、「自分」という名前の家に溜まりに溜まった生活臭そのものが一掃されてしまったり、欲や怒りのエネルギーが転換されて、美しいものにちょっと変わったりする。社会の性質にアクションをかけてより良いものに変えていくためには、一時的なごまかしとしての家出ではなくて、社会の構成員一人一人が持っている生活臭とか欲とか怒りとか、その人を突き動かしている汚れたエネルギーが変換されるような場が必要なんです。

「仏教」ブームは「日本教」ブーム

 今、世は「仏教ブーム」だと言われますが、それは完全に嘘です。仏教ブームではなくて、日本文化ブームですよ。日本の伝統文化としてのお寺の建築財、仏像も含めて、なんとなく穏やかで神聖な気持ちになる。しかし、それは仏教プロパーのものではありません。タイ仏教は落ち着かない金ピカの空間だし、インドもまた全然違う。タイのお寺はタイ文化であって、インドのお寺はインド文化です。日本でああいう伝統建築みたいなものがもてはやされたり、そこに行って落ち着こうという動きが出てきているのは、日本文化を見直そうとかグローバリゼーションの中で日本の伝統は良いものだと再発見したいとか、そういう感情からでしょう。仏教というよりは、日本教が流行っている。そういう意味では今、仏教は全然流行っていないし、そこで流行っていると思い込んで消費されてしまうと、何の本質もまた伝えられないままにしばらくしたら終わってしまうのだろうなと思います。

テクニックとしての禅

 その点、ボロアパートメントの二部屋にすぎないこの月読寺は伝統寺院と違って文化財などの付加価値がないから、伝えられるコンテンツのみが問われます。ですから、純粋に教えを求めてやって来る人が多いです。 

 一般に座禅というと「はい、ただひたすら座って無になりなさい」「びっしー」といった具合に方法やテクニックを欠いた、漠然としたイメージなのではないでしょうか。

 直感的な言い方になりますが、そういう座禅をしても、何となくぼーっとするということで終わってしまっているような気がします。谷崎潤一郎が小説を書く前にトイレに座って瞑想をするとか、そういうときに言われる瞑想というのは、目を閉じて、いかにも「深遠」で「立派」そうな考え事をする、というイメージですね。

 多少ふだんとは違う気持ちになれるから、ふだんと違うことをちょっと考えるかもしれないけど、それは本来の仏教的な意味での瞑想ではありません。

 仏教的に言えば、瞑想というより「瞑不想」のほうがふさわしいかもしれません。瞑想という言葉には「想う」という字が使われています。でも、むしろ「想わない」状態をシステマティックに作って行く、その手練手管が座禅の瞑想法であって、そういう意味では瞑想という言葉はあまりふさわしくない。

 というのは、あれこれと「想う」ことにかまけすぎることこそが、私たち人間という生き物の能力を限定する諸悪の根源だからです。

 目・耳・鼻・舌・身体・意識の六つの門から外から入ってくる生の情報インプットを、「想い」によって作り替え、自分の都合で編集してしまうせいで、脳内で欲望のストーリーが始まったり、イライラの怒りのストーリーが暴走したりして、自らや周囲にダメージを与え続けているのです。言い換えると、「想う」ことによって欲や怒りといった生活臭を次から次に量産することで、まさに自らを窒息させようとしているのです。

 脳内に勝手に居座っている、いわばこの脳内編集部が勝手に編集作業を続けている、そのストーリーの原稿をボツにしてスッキリするためのテクニックが、座禅のエッセンスと言えるでしょう。心が勝手に情報を編集しない状態を作りだして初めて、ありのままの現実を目の当たりにすることになります。そこで諸行無常や無我といった真理が体得できたら、融通無碍、すなわち無敵になれるのです。完全な無常や無我が体得できなかったとしても、無常や無我を味見程度にだけでも体感することができれば生活臭がパカーンと弾け飛んで、人生がものすごく良い方向に変化します。

 あれこれと「想う」ことによって、目の前の現実に集中できなくなることによって、私たちの能力は著しく限定されてしまっています。本来的な禅によってその元凶になっている脳内編集部員をクビにすることに成功したら、「今この瞬間」にやるべきことに全ての能力を注ぎ込むことができるようになり、作業の能率や完成度が高まるのです。

 ですから禅とは非常に実用的なものであり、稽古を続けてゆけば仕事にせよ人間関係にせよ、雑念に流されることなく集中かつ充実して乗りこなしてゆくことができるのです。

【特集:ヒト】小池龍之介さん「出家と家出(下)」へ続く。(15日更新予定)

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