浦和レッズがAFCチャンピオンズリーグ(ACL)で優勝を飾った。
1週間前に行われたアウェーの第1戦(イスファハン=イラン)で1−1の引き分けにもちこんだ後の第2戦、11月14日、地元埼玉スタジアムにセパハンを迎えた浦和は2−0で勝ち、2試合合計3−1で優勝を決めた。
「日本サッカーリーグ」時代(〜1992)には古河電工(1986年)と読売サッカークラブ(1987年)が、そしてJリーグ時代になってからも1999年にジュビロ磐田がACLの前身にあたる「アジアクラブ選手権」で優勝して「アジア王者」の座についているが、2002年にスタートしたACLでは日本チームの優勝は初めてのこと。この優勝で、浦和は「FIFAクラブワールドカップ」(12月7日〜16日、東京、豊田、横浜)に出場することが決まった。
●危なげのない勝利
セパハンの激しいプレスにずるずるとラインが下がり、かろうじて1−1の引き分けにもち込んだ第1戦とはうって変わり、埼玉スタジアムでの浦和の戦いぶりは万全だった。DF闘莉王を中心とした守備で相手の攻撃をはね返し、攻めては前半22分にMFポンテのパスを受けたFW永井雄一郎が抜け出して強烈なシュートを叩き込み先制。後半26分には、右CKが左に流れるところを追った闘莉王が長谷部とのパス交換からタイミングよくクロスを入れると、走り込んだFWワシントンがワンタッチでボールを落とし永井がシュート、GKにはじかれてゴール前に上がったボールをMF阿部勇樹がヘディングで決めて2−0とした。
シュート数では11対12と互角だったが、セパハンに許したシュートの大半はペナルティーエリア外からのもの。浦和の守備組織がしっかりと機能して、危なげのない勝利だった。
●日本のクラブには厳しいACLの日程
2002年にスタートし、翌年に第1回の決勝戦が行われて、2004年の第2回以後は年内に完結する大会として定着したACL。アジアサッカー連盟(AFC)傘下のすべての国のチャンピオンに出場権が与えられていた「アジアクラブ選手権」との違いは、出場チームを約15の「エリート国」に限り(他国のクラブには別の大会=AFCカップ=がある)、チャンピオンだけでなく、カップ戦優勝チームにも出場権が与えられるようになった点だ。
しかしどこか1カ国に集まって集中的に試合を行っていた「アジアクラブ選手権」と異なり、完全な「ホームアンドアウェー」方式となったACLは、日本のクラブにとっては日程的に非常に厳しい戦いとなった。週末のJリーグの合間の水曜日に他国に遠征して戦わなければならないというシステムは、アジアのいちばん東に位置する日本のクラブには過酷だったのだ。
●クラブにも多額の負担を強いる大会
そのうえ、ACLへの認識不足と相手チームに関する情報不足で、水曜日に行われるホームゲームには観客が集まらなかった。AFC出場は、過密日程というリスクをチームに負わせるだけでなく、多額の財政的負担をクラブに強いるものだった。
2003年と2004年にJリーグで連覇を飾った横浜F・マリノスは、当時の岡田武史監督がACLで勝つことの意義を強調し、この大会に全力を注いだ。しかしクラブは、観客動員が見込めない大会と判断、通常のホームスタジアムである横浜国際総合競技場(日産スタジアム=収容7万人)ではなく、1万5000人収容の三ツ沢球技場で開催した。運営費節約のためだった。
日本サッカー協会とJリーグがそれぞれ5000万円を出し合ってACLに出場する2クラブに「損失補填金」を出してきたが、このような状況では、出場クラブのモチベーションが上がらないのは当然だった。
●1年間にわたる入念な準備
浦和は2005年度の天皇杯(決勝戦は2006年元日)で優勝を飾り、2007年のACLへの出場権を得た。クラブにとっては念願の出場決定だった。
浦和が2004年のJリーグ第2ステージで優勝を飾り、「年間チャンピオン」の座をかけて横浜FMと「チャンピオンシップ」を戦ったとき、クラブとサポーターは「これに勝てば2005年のACLに出場できる」と盛り上がった。しかしチャンピオンシップは2戦合計1−1、PK戦で涙をのんだ。
浦和にとって幸いだったのは、出場決定から1年間以上の準備期間があったことだ。浦和は2006年、ガンバ大阪と東京ヴェルディが参加したACLに視察を出し、アウェーの状況や試合運営を研究した。その成果を集め、ことし、万全の態勢で初出場したのだ。
ことし、日本サッカー協会も「ACL出場チーム支援プロジェクト」を立ち上げ、損失補填だけでなく、いろいろな方面でサポートするようになった。しかし浦和独自のしっかりとした準備と取り組みがなければ、それも実を結ばなかっただろう。
●堅固な守備
今季からホルガー・オジェック監督が率いている浦和は、2003年にクラブがプロ化してから初のタイトル、ナビスコ杯を獲得したのを皮切りに、2004年以来、ほとんどすべての国内大会で優勝争いにからみ、2004年Jリーグ第2ステージ、2005年度天皇杯、2006年Jリーグ、2006年度天皇杯とタイトルを積み重ねてきた。そしてことしは、ACLだけでなく、Jリーグでも2回目の優勝を濃厚にしている。
攻撃陣にブラジル人選手2人(MFポンテ、FWワシントン)を置き、残り主力選手の大半はオシム監督の下活躍している日本代表選手、あるいはかつて日本代表で活躍した経歴をもつ選手たちで占められている。
G大阪のような華麗なパスワークや川崎フロンターレのような破壊力があるわけではないが、しっかりとした守備組織はライバルたちにはないものだ。
●サポーターとホームタウンの支え
そして忘れてならないのは、地元のファン、サポーターの存在である。
ことしのACLで、浦和は6つのアウェーゲームを戦った。シドニー(オーストラリア)、上海(中国)、ソロ(インドネシア)、全州、城南(ともに韓国)、そしてイスファハン(イラン)。そのどのスタジアムでも、浦和のサポーターが何百人、ときには何千人も同行し、アウェーとは思えない力強い声援を送った。浦和のサポーターの到来が、各地でニュースになったほどだった。
そして全試合を埼玉スタジアム(収容6万3000人)で戦ったホームゲームには、総計24万8712人、1試合平均4万2452人もの観客が集まった。水曜日のナイター。学校や仕事を終えてから観戦にこられるように、浦和は全試合を通常のナイターより30分遅らせた7時半に設定した。そうした熱意にサポーターとホームタウンの人びとが応え、浦和はACLを事業としても成功させたのだ。
●「クラブの総合力」で勝った
浦和の優勝の背景には、「クラブ」、「チーム」、そして「サポーター」という3つの要素があったことがわかる。
すなわち、浦和は永井のゴールで勝ったのではなく、「クラブの総合力」でアジアチャンピオンの座についたのだ。
横浜FMの岡田監督も、G大阪の西野朗監督も、そしてことしのACLで準々決勝に進出し、セパハンにPK戦で涙をのんだ川崎の関塚監督も、なんとかアジアのタイトルを取ろうとチームを準備し、総力を挙げた戦いを見せた。しかしそれは浦和のような「総合力の戦い」にはなりえなかった。
実力的には、アジアのトップにあると見られているJリーグのクラブがACLで昨年までいちどもグループステージを突破できなかったのは、そうした理由によるものだった。
●浦和の優勝が日本のクラブサッカーを変える
2001年に予定されていたFIFAのクラブ世界選手権(現在のFIFAクラブワールドカップ=FCWC)が直前に中止され、2005年まで開催されなかったことで、2001年大会に出場する予定だったジュビロ磐田がJリーグのレベルを世界に問うことはできなかった。
しかし浦和が今季このような取り組みでACLを初制覇したことで、Jリーグのクラブがようやく世界に挑戦する機会がやってきた。
1993年にスタートして15シーズン、Jリーグはいったどのレベルまできているのか、世界のトップクラブと対戦したときに何ができ、どういう点が通じないのか、私たちは12月のFCWCで見ることになる。
それはJリーグ、すなわち日本のクラブサッカーに、新しい時代をもたらす大いなるきっかけになるだろう。そして、これまで国内での成功にしか目が向いていなかった日本のクラブサッカーの国際化を促進する力になるに違いない。