
序論
先日、私は日本大学哲学会に出席してきた。
会の最後に坂本百代先生の特別講演があった。周知の通り、坂本先生は去年、定年を迎えられ、その記念として講演の機会を持たれたというわけである。講演の内容はおおかた次のようなものであった。
「近年の目覚しい科学の発展、特に分子生物学や遺伝子工学におけるそれによれば、生命というものは遺伝子が生き残るためのシステムである、と定義される。我々の倫理もそれに合わせて変化していかなければならない。カントに代表されるような人格論や、人間中心主義を今こそ考え直すべきである」
坂本先生の提言はある意味真である。確かに倫理というのは現実に対応して変わっていかなければならないものである。例えば、同じ高度な科学理論といえども、ニュートリノの測定技術の研究は日本においても許されているけれど、核爆弾を作るための技術の研究は許されてはいない。前者の情報は広く世界に公表されるべきだが、後者の情報は公開されてはまずいものを含んでいる。科学の力があまりにも強くなり過ぎた感のある現代では、科学技術というものも完全なる価値中立ではいられないというのが実状であろう。
しかし、この提言を「科学技術の生命定義に合わせて、倫理の生命定義を変えるべきである」という意味に採るならば、それは大きな間違いである。なぜならそれは、ヒュームが立てた「事実から当為を導き出すことはできない」というテーゼを犯すことになるからである。
今まで、私は「事実から当為を導き出すことはできない」という事を前提として論を進めた。18世紀に語られたこの命題は、もはや倫理を語る際の常識であろうと思っていたからである。しかし勉強を続けていく過程で段々これが常識ではなく、むしろ多くの哲学者がこの二つを混同したり、あるいはあいまいで誤解を招くような言い方をしているということに気づいた。私が最近読んだ加藤尚武氏『現代倫理学入門』という本でもサールの言語行為論をヒュームの理論に対する反論として取り上げ、批判的解釈を加えた後「この論理によって、ヒュームの理論は反駁されされたとも反駁されなかったとも言える」とコメントしてあった。しかし私に言わせればサールの理論は規範的な言語使用を取り決めただけのもので、これをもって、ヒュームに対する反論とは言えないものである。加藤氏のような比較的有名な倫理学者までが、この様な誤解をしてしまうとなると、この問題は意外に奥が深いということになろう。また、「科学は進歩するか」ということをめぐってクーン、ラカトシュ、ファイアーベントなどの間に行なわれた議論も、明らかに進歩という価値観の問題を扱いながら、当人達はまるでそれが科学理論の問題であるかのように論じていた。
この様なことをふまえた上で、私は今回「事実から当為は導き出せるか」という問題について論じたい。
1.事実から当為は導き出せるか
どの思想も、それを表現するための語彙の内に、ある基本的前提を滑り込ませており、その意味で、無前提ではありえず、まずもってこの前提そのものが問われなければならない。
リチャード・ローティ
最初に「事実から当為を導き出してはいけない」ということの最も分かりやすい例を見てみよう。
P1:「地球は太陽の周りを回っている」 P2:「ゆえに、日本国内においては、人を殺すべきではない」
上記の推論は見ての通り(P1)の事実命題から(P2)の当為命題を導き出している。しかしながら、誰もこの推論を見て「うむ、なるほど」と、納得しはしないだろう。この推論はナンセンスであり、明らかに間違っている。ところが次のような推論の場合はどうだろうか。
P1:「日本国民全員にアンケートを取ったところ、全ての人が、人を殺すべきではない、ということに同意した」
P2:「ゆえに、人を殺すべきではない」 一見するとこの推論は正しいように思える。しかし、やはりこの推論も間違っているのである。
そんなばかな、日本国民全員が賛成しているというのに、それが間違っているなんて、それこそナンセンスじゃあないのか、と言う人がいるかもしれない。そう、正にその通りなのだ、そしてその一文を加えることで、この推論は正しいものになるのである。つまり、「日本国民全体が同意するような命題は正当性を認められるべきである」という文を命題P1’とすると、
P1:「日本国民全員にアンケートを取ったところ、全ての人が、人を殺すべきではない、ということに同意した」
P1’:「日本国民全体が同意するような命題は正当性を認められるべきである」
P2:「ゆえに、日本国内においては、人を殺すべきではない」
となる。こうして補完された推論が、前のものとどう違うのかというと、前の推論の場合、単に事実命題のみから当為命題の結論に達していたのに対し、この推論は、事実命題に当為命題を加えて当為命題の結論に至っているのである。少し冷静に考えみれば誰でも分かると思うが、単に「日本国民全員にアンケートを取ったところ、全ての人が、人を殺すべきではない、ということに同意した」というだけでは正にただその事実を記述しているに過ぎないのであって、ここから(P2)の結論に飛躍することはできないのである。(P1’)を通して始めて、(P2)の結論に達することができる。換言すれば、単に事実命題だけから、当為命題を導き出すことは不可能であり、いかなる事実命題もそれだけではいかなる当為命題を含意しないということである。
もう一つ例を見ておこう。 1 スミスはジョーンズに「100ドル払うと約束する」と言った。
2 スミスはジョーンズに100ドル払うことを約束した。
3 ジョーンズはスミスに100ドル払う義務がある。 4
ジョーンズはスミスに100ドル払うべきである。 以上は加藤氏がサールを解釈したものである。ここまでくれば、もう騙される人はいないと思うが、これは誤謬推理である。我々が1から3の命題をいくら分析しても、4のような結論が出てくることはない。ところが一見すると正しいように思えてしまうのである。その秘密は約束とか義務といった言葉にある。私達はこの推論を読む時、暗黙のうちに「約束は守るべきである」とか「義務は果たすべきである」といった命題を(書かれていないにもかかわらず)、勝手に補って読んでしまうのである。もし我々が心の中でこれらの補いをしないとすれば、この推論は成り立たないであろうし、明示的に補うとすれば4を証明するのに、約束や義務は果たすべきであるということを前提としてしまうことになるのだから、言うまでもなく論点先取の誤謬を犯してしまうことになる。つまりこの推理は成り立たない。
加藤氏もさすがにここまでは気付いていて、上記の推論の意味は「生の事実」と「制度的事実」とを区別した時、制度的事実からなら当為命題の推論が可能であるということを証明したのだとコメントしているのだが、そもそも論点先取の誤謬を犯している推論が何かを証明しているというのは変な話であるし、「制度的事実」を無批判に正しいものとして受け入れるとすれば、それは道徳実定主義(現在ある道徳や法律が絶対的に正しいとする立場)に陥ることになるであろう。
以上で「事実から当為を導くことはできない」ということについては十分に論じたと思う。私は論理的な誤謬を指摘することによって論を進めてきたわけであるが、ここで注意しなければならないのは、論理的に正しい(形式が整っている)からといって倫理的に正しいとは限らないということである(私たちは論理的に正しくとも、内容的にとても同意できないような推論を立てることができる)。倫理学と論理学は違う学問なのである。
今までの論旨をまとめてみよう。
1 事実命題から当為命題を導き出すことはできない。 2
一見、事実命題から当為命題を導き出しているような推論も、実は暗黙のうちに前提部分に、当為命題を滑り込ませている。
3 推論形式の正しさは、内容の正さまで保証するものではない。

2.倫理と事実の関係
さて、上記のことを踏まえた上で、今度は「事実」と倫理がどう関係があるかということは当然問題となってくると思います。つまり、
「もし事実命題から当為命題の正当性を導出することができないのであれば、事実は倫理と関係無いことになる。しかしこの帰結は馬鹿げている。なぜならたとえ全人類がある倫理命題a(例えば「愛する人を不幸にしてはならない」)に同意したときでさえ、それとまったく正反対の命題a’とaは同じような正当性しか持たないということになるからである」
という反論が当然だされるでしょう。これに対する私の答えは、事実命題のみから当為命題を導くことはできないが、事実命題と我々の理想や願望を表した広い意味での当為命題の2つからならば、当為命題を導くことができ、しかも場合によってはそれを経験的にテスト可能(反証可能)である、というものです。具体例を挙げると、
P1:「日本国民全員にアンケートを取ったところ、全ての人が、人を殺すべきではない、ということに同意した」
P2:「ゆえに、人を殺すべきではない」 という推論は不当ですが、これにもう一つ当為命題を加えて、
P1:「日本国民全員にアンケートを取ったところ、全ての人が、人を殺すべきではない、ということに同意した」
P1':「日本国民全体が同意するような命題は正当性を認められるべきである」
P2:「ゆえに、人を殺すべきではない」 とすれば、我々はこの推論の妥当性をP2がP1’をどれだけ実現してるか、という基準で判定することができます。
この方法を使えば、 P1:「下高井戸駅のホームは列車との間が広く開いている」
P2:「公共の施設は利用者が怪我をしないようにすべきである」
という前提があるとき、P3として 「ゆえに列車とホームの間を狭めるべきである」
という命題をおくのと、 「ゆえに列車とホームの間を広めるべきである」
という命題をおくことは、もはや、どちらも同じような正当性をもつとはいえません。実施した場合に怪我人が増える命題は明らかに前提P2に矛盾するからです。
しかしこの方法は無限後退に陥る可能性があります。この方法では上記の例におけるP2の正当性が問題となった場合に対応できないからです。上記の場合はP2が誰もが同意するような命題でしたが例えば次のような場合はそうではありません。
P1:上北沢駅には自動改札がないし、点字ブロックもない。 P2:上北沢駅の予算ではこの2つのうちどちらか一方しか導入できない。
P3:上北沢駅の利用者のうち、点字ブロックを必要とする人は全体の3%である。
P4:公共の予算はなるべく多くの人が恩恵を受けるように使われるべきである。
P5:ゆえに上北沢駅の予算は自動改札の導入のために使われるべきである。
このような推論において問題となるのは、おそらくP4でしょう。すなわち、判断の基準それ自体が問題とされるわけです。ロールズならば「とんでもない。公共の予算は平等性を重視すべきであり、弱者の福祉を考えるべきだ」というでしょう。これは幾何学でいえば、公理の変更を求めているわけで、ユークリッド幾何学と非ユークリッド幾何学のどちらが正しいかという設問と同様に、解決不可能であります。もし解決できるとすれば、もう一つ位階の高い公理を導入する必要が出てきます。しかし、そうして導入された公理にも同意できない場合、同じことを無限に繰り返す必要がでてくるので、無限後退に陥るわけです。
しかし、無限後退ということについて言えば、それは事実命題の正当性と自体は同じなので、結局は「同意」ということが必要になるのは変わりません。ただ倫理の場合公理自体が問題になる場合の方が多いということと、統一的な判断の基準(科学の場合は事実をどれだけ上手く説明できているかということが暗黙の基準となっています)が無いことが事実命題の場合とは違うところですね。

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