外務省は22日付で、1945~76年の外交文書225冊、約11万2000ページを公開する。21回目となる今回は佐藤栄作首相の就任後初の訪米(65年)や、田中角栄首相の訪米(73年)記録などが対象。キューバ危機(62年)での日本政府の対応をまとめた文書も公開される。東西冷戦時代に高度経済成長を遂げる日本が、西側陣営の有力な一員として国際社会での地歩を固めようと奮闘する姿が浮かび上がる。(肩書はすべて当時)
佐藤栄作首相の初訪米で、米国の核艦船寄港容認の密約をうかがわせる発言以外にも、核と冷戦下の日本との関係を示す外交文書があった。密約と非核三原則の「二枚舌」が、米国の「核の傘」による安全保障と、核武装を放棄する日本の路線を決めた。
佐藤首相は初めての訪米で、日本独自の核保有を否定したうえで、米国に「核の傘」による安全保障の確約を求めた。今回の公開史料では、後年に首相が非核三原則を打ち出す兆しも読み取れる。
首相は訪米前の64年12月29日、ライシャワー駐日米大使と会談し、「仏大使は、中共(中華人民共和国)が核武装を行っているのだから、日本も核武装すべきだと言ったので、日本はそのような問題でフランスの指図は受けないと言っておいた」と、思わせぶりに語った。
訪米中の1月13日に行われたマクナマラ国防長官との会談でも、「日本は技術的にはもちろん核爆弾を作れないことはないが、ドゴールのような考え方は採らない」と、独自の核兵器を持つ仏を引き合いに出しつつ、核武装を否定した。
首脳会談などで首相は「中共の核実験に拘(かか)わらず、日本国民の間には、日本は核兵器を保有せず、核兵器を使用するような事態の発生に対しても反対する空気が支配的である」と、繰り返し国内事情を強調。「日本は核武装は行わず、米国との安全保障条約に依存するほかない。米国があくまで日本を守るとの保障を得たい」と訴えた。
ジョンソン大統領は「You have my assurance」(あなたには私が保証します)と断言した。
米国の確約を得た佐藤首相は、67年12月の衆院予算委員会で「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」の非核三原則を言明。68年1月には同本会議で、非核三原則を守る▽核軍縮に力を注ぐ▽アメリカの核抑止力に依存する▽核の平和利用--からなる核4政策を表明し、日本の核政策は一応の形を整えた。
ただ、米国で公開済みの会議録では、この時の訪米で首相はラスク国務長官らに「個人的には、中国が核兵器を持つならば、日本も核兵器を持つべきであると考える」とも主張している。
佐藤栄作までの戦後の首相は、大半が「核を持って当然」と思っていた節がある。他方で政治家の意思とは別に政府の現実的立場は整理されてきた。それを加速したのは中国の核開発だ。佐藤首相は核抑止力の必要性を強く感じたが、反核世論は無視できず、日米首脳会談で非核を明確にした。核拡散を危惧(きぐ)する米国も「核の傘」の提供を再確認した。こうした動きが非核三原則と核4政策へとつながった。
61年6月の池田勇人首相の訪米時にケネディ大統領が、当時自粛していた核実験を再開する意思を首相に伝え、首相は再開に至る理由を国際社会へ「PRに努める必要がある」と語った。後日、核実験が再開された際に日本は「遺憾である」と米国に抗議したが、舞台裏では既に実験を了解していた。
当時は、58年に始まったジュネーブ核実験停止会議が継続中で、米ソともに核実験を控えていた。協議は難航しており、大統領は、6月20日の首相との会談で「ソ連が実験を行っているか否かを確かめる方法がない」「米国が後れをとる可能性もある」と危機感を表明。「本年夏頃(ごろ)には米国としての方針を決定しなければならない」と述べ、首相に「再開せざるを得ない立場に追込まれた点をいかにして説明したらよいか」と尋ねた。
首相は「実験再開は極力行わないことを強く希望する」としつつ、「再開を避けたい米国の気持を強くソ連に迫って欲しい、それにもかかわらずソ側が受入れない事実を広く世界に示すことが必要」と進言。「日本は核爆発の被害の経験もあり本件PRにつき国連等を通じ積極的に実施することも考えられる」と協力を申し出た。
23日の会談でも首相は「再開決定に追込まれた立場は了解する。いずれにせよPRに努める必要がある」と述べた。
会談から2カ月後、ソ連は核実験を再開し、米国も9月に再開を発表した。翌年のキューバ危機で、両国は核戦争の危機に直面した。
田中角栄首相とニクソン米大統領の会談(73年)で日本は、核拡散防止条約(NPT)批准に関する記述を共同声明から削除するよう求めた。公開史料は「我が国が米国に一本取られたかのごとき印象を国内に与えることも懸念され」と、その理由を説明。68年に国民総生産(GNP)世界第2位の経済力となった日本が、ベトナム戦争の失敗で揺らぐ米国との対等な関係を求める様子がうかがえる。
日本はNPTを70年に調印し、76年批准。73年は自民党保守派や社会党の間にNPTを差別的な不平等条約と考える空気があった。
日米首脳会談後の8月13日には、NPT批准について共同声明の作成段階で「当初米側は『首相は、グローバルな前進に貢献することを希望すると説明した』と挿入しようと提案した」と記したが日本は「NPT批准問題への言及は絶対に避けたい」と拒否。日米首脳会談で批准に前向きな姿勢を示すと「かえって逆効果を生む」と、米国主導のNPT批准を避けようとした。
首相の発言より、われわれ役人の作った文書の方が正しい--。日本の核武装の可能性をめぐって行われた日ソ外交当局者の会談で、外務省の山田久就(ひさなり)事務次官は、このような理屈で核武装の意思はないとソ連側に伝えた。
岸信介首相は57年5月7日の参院内閣委員会で「核兵器の保持は今後の発達を見なければ一概に憲法違反とは言えない」と発言。59年3月2日の衆院予算委員会でも「核兵器合憲論」を展開した。ソ連は58年から59年にかけて計3回、日本側に文書で真意をただした。併せて在日米軍の日本への核兵器持ち込み疑惑も指摘。日本は双方ともないと文書で回答し続けた。
公開された会談録によると、山田次官は59年5月15日、ソ連のフェドレンコ駐日大使を外務省に呼び、3回目の質問への回答を口上書で示した。大使は首相発言の説明がないと反発。「岸総理の発言と本日の口上書とは、いずれが正しいと解してよいや」と食い下がった。次官は「本日の日本側回答の方が正しい」と言い切った。
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●62年・キューバ危機
59年の革命政権成立で冷戦の最前線となったキューバ。核戦争寸前まで緊張が高まったキューバ危機(62年)で、池田勇人首相はケネディ米大統領の対応を支持した。だが60年代初頭の外務省内部文書や電信には、米ケネディ政権の指導力への疑念や、同盟国と協議せずに対処した米国への不満が記録されている。
米国は61年1月、キューバとの国交を断絶。同年4月15日、米国の支援を受けた亡命キューバ人部隊がカストロ政権転覆を目指してキューバに侵攻し、撃退される「ピッグズ湾事件」が発生した。
外務省中南米課は4月21日付の「極秘」文書で失敗の原因を「米国の情勢判断の甘さと決断のタイミングの悪さ」と分析。5月11日付文書で「米国政府の言動には、国際政治上の指導力に不安を感じさせる点があり、わが国を含め自由諸国が国際政治上のパートナーとして米国の評価において、影響するところがあろう」とケネディ政権の指導力に疑問を呈している。
62年10月14日、ソ連によるキューバへのミサイル搬入を米偵察機が確認。大統領は海上封鎖を決め、10月22日夜、テレビ演説で「キューバ危機」発生を公表した。
朝海浩一郎駐米大使から大平正芳外相あての10月22日付公電によると、米国が危機発生を日本に説明したのは大統領演説の45分前。日本はその2年前に安保条約を改正して米国との同盟を強化したが、何も知らされなかった。
危機回避直後の10月30日、朝海大使から大平外相への公電には「同盟国がこぞって支持の態度を示したことは米国を力づけ、ソ連にある程度の印象を与えた」と判断の正しさを強調した。その一方で「一歩進めば核戦争となる措置を採用するについて、全く同盟国と協議しなかった」「最も近い英国にさえ、(中略)ゴア(英国)大使が『自分は数時間前に知らされていた』と述べていたにすぎず(中略)、日本も考えざるを得ない点かと思われる」と記した。
●65年・佐藤訪米
佐藤栄作首相の初訪米(65年)では、アメリカ統治下の沖縄、泥沼化する直前のベトナム情勢などでも意見交換がなされた。
佐藤首相とジョンソン大統領の初会談では、米軍基地を残したままの沖縄返還という方向性が形成された。首相は在沖縄米軍の重要性を確認したうえで沖縄の施政権返還を訴えた。これを受け共同声明には「大統領は施政権返還に対する日本政府及び国民の願望に理解を示し」と、これまでで最も踏み込んだ文言が入った。
65年1月12日の会談要旨によると、首相は「沖縄における米軍基地保持が極東の安全のため重要であると十分理解」と断言。そのうえで「施政権の返還は沖縄住民のみならず、全日本国民の強い願望」と強調した。「住民の協力を得ることが大局的には米国の利益とも合致」とたたみかけた。
佐藤首相は首脳会談後の65年8月、沖縄を訪問して「沖縄の祖国復帰が実現しない限り、わが国にとって戦後は終わらない」と改めてアピール。67年の首脳会談の共同声明には返還時期を「両3年内に合意するよう検討」との文言も盛り込まれた。69年11月21日、佐藤・ニクソン両首脳は沖縄返還協定に調印した。
我部政明・琉球大教授(国際政治学)は「米国にとり、沖縄基地の重要性で日本側の言質を取るのは返還議論の大前提だった。65年1月の会談で両国はようやく返還への話し合いの入り口に立った」と解説する。
佐藤首相は、ベトナム戦争で米国側に忠告していた。直後に米国は忠告を振り切ってベトナム戦争を泥沼化させていった。
訪米前のライシャワー駐日米大使との会談で首相は「これは東洋と西洋の心理の相違であって、西洋の合理主義に基づいて『これ位は簡単だ』と言って一発やると危険なのである」と安易な戦争拡大論を批判。「あの辺りには、前国民党軍人であった華僑もいることだから、彼らを第一戦(ママ)に使うでもして、アメリカはゆっくり後に構えてやる位(ぐら)いがいいのではないか」などとアドバイスした。
さらに「大東亜戦争」まで引き合いに出し、「日本が満州だけで満足していれば、あのような結果にはならなかったであろう。早く解決しようとあせったのが失敗であった」と自戒を込めて米国の自制を促した。
これらの発言は、米側にも強い印象を与えたらしい。首相の訪米中には、マクナマラ国防長官が意見を改めて聞いた。首相は「ベトコンの方はその土地に住んでいるのに、米軍はよそから入って行くのであるからそこに非常な困難がある」と改めて指摘。だがマクナマラ長官は東南アジア共産化の危機を強調した。
会談の翌月、米国は北爆を開始して戦争は泥沼化し、10年後に北ベトナムが勝利した。
佐藤首相の初訪米から約半年後の6月22日、日韓基本条約が調印され、日韓は国交正常化を果たした。訪米前の公電には、首相と米大統領の共同声明で日韓条約に言及しないよう求めたくだりがあった。
65年1月8日付の武内龍次・駐米大使の椎名悦三郎外相あて極秘電報によると、大使はこの日、ラスク米国務長官に「韓国問題はコミュニケでは言及せざることが日韓両国政府の希望である」と語った。ところが米側史料によると、韓国は、日米首脳会談の共同声明で国交正常化に言及するよう米国に求めていた。
当時、日本では社会党などが日韓条約に反対。日本は、米国の圧力で日韓条約を結ぶような形になると国内の反発が広がるとみていた。韓国は逆に、米国の威を借りて日韓条約に正当性を与えたがっていた。結局、共同声明は日韓に言及しなかった。
●73年・田中訪米
73年の田中角栄首相とニクソン米大統領の会談前に、朝鮮半島の緊張緩和を目指して中国とソ連が韓国、米国と日本が北朝鮮をそれぞれ承認する「package deal(一括取引)」案を日本政府は想定していた。キッシンジャー米国務長官が75年の国連総会で提唱したのと同内容で、日本は2年前から構想を練っていたことになる。
会談前に作成された「総理発言要領案」で、米国から「『ソ連、中国の韓国承認』を問われた場合の回答」としてまとめられた。「北朝鮮の態度から見て当面はあまり期待できない」としながらも「長期的な方向」として、北朝鮮と韓国の承認に関する「一括取引」案のほか「朝鮮半島に関する何らかの国際的な枠組み作りを考えるべきかもしれない」と提案した。
李(リー)鍾元(ジョンウォン)・立教大教授(国際政治学)は「キッシンジャー氏が国務長官になった73年後半から、クロス承認と似たような議論が表面化し始めた」という。
田中首相訪米に際し、日本政府は米国メディア対応に細心の注意を払った。日本の対米貿易黒字は72年は30億ドルを超える勢いとなった。芽生えつつある反日感情を収めようとする過剰なまでの姿勢がうかがえる。
「シカゴには米国屈指の有力紙があり、首相は訪問日に必ず記者会見を開くように」「サンフランシスコ到着日にも、PR効果を一層高めるため記者会見を行うべきだ」。7月29日からの訪米を前に、在米日本大使館から指南電信が次々と届いた。
米国人記者一人一人の性格や、どのテレビ番組に出演するのが効果的か、といった記述もある。ワシントンでの懇談会に出席する記者は、名前の横に「大物コラムニスト」「熱心だが小物」「近く訪日予定」など注意書きや、どの記者を優先するかも記されている。
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この特集は川上克己、白戸圭一、大谷麻由美(以上政治部)、篠原成行(社会部)、鈴木英生(学芸部)が担当しました。
毎日新聞 2008年12月22日 東京朝刊