ピア二ストの崔善愛さんが『父とショパン』を出版した。その父とは崔昌華(チォェチャンホァ)さん。北九州で在日韓国・朝鮮人のための教会を開き、参政権獲得運動に活躍し、NHKに正しい発音で名前を呼ぶよう求める裁判も起こした。善愛さんは「意識はしなかったが、音楽でいう『思想を持つ喜び』を教わった」と父の影響を語った。
影書房から出版された『父とショパン』の著者・崔善愛(チェ・ソンエ)さんにお話を伺いました。
■プロフィール
崔善愛(チェ・ソンエ) ピアニスト
北九州出身。愛知県立芸術大学、および大学院修士課程修了。後に米国インディアナ大学大学院に3年間留学。現在、ピアニストとしての演奏活動のかたわら、全国各地で「平和と人権」をテーマに講演をおこなっている。
著書:『自分の国を問いつづけて―ある指紋押捺拒否の波紋』(岩波ブックレット)
崔昌華さんのこと
――一番最初に、崔善愛さんのお父様でいらっしゃる崔昌華(チォェチャンホァ)さんのことについてお聞きしたいと思います。
崔:父は、1930年に朝鮮半島の(当時はまだ北と南に分断されていませんから)、北の方で生まれました。日本には1954年に来ました。それは、朝鮮戦争の真只中で、動乱から半ば逃れて来たわけです。当時父は24歳ですから、もっと勉強をしたいという思いもありましたし、朝鮮半島に残れば戦争に巻き込まれる。自分は武器を持ちたくないという思いもありました。
北からどんどん南下して済州島まで渡って、そこで山奥でひっそりと動乱が治まるのを待ったんですけど、ますます悪化するばかりで、このまま行くと徴兵されるということがわかって日本に行けば勉強ができるんじゃないかと思って日本に渡って来たという人です。
日本に来て牧師になって北九州の方で在日韓国・朝鮮人のための教会を開いて、そして64歳(1994年)で亡くなるまで牧師として生きた人でした。父の個性としては牧師でありながら、特に在日朝鮮人の人権を回復するために1975年ぐらいから活動をしていました。
主な活動としては参政権を獲得するということがありました。それは未だに実現できていないわけですけれども、当時、「参政権を在日にも」と(北九州市長へ)公開質問状を提出したというニュースの中で、NHKのアナウンサーが、父の名前を「さいしょうか」と日本語読みしたんですね。それに対して父は、訂正してほしいという申し入れをしたんですが、できないと言わました。それではということで裁判を始めたのがNHKを相手取った“人格権訴訟”という風に言われるものです。
“1円訴訟”という別名もあって、損害賠償として1円を要求したからそう呼ばれています。それは、私たち人間にとって名前というものは基本である、お金で言えば1円に当たるということで、父は1円を請求しました。結果的には最高裁で負けたんですけれども、マスコミの中で、その闘いを通して原語読み・民族語読みすべきではないかと、良く言えば自発的な意識が高まった。裁判では負けながらも、それ以降、朝鮮人の名前は今に至って民族語読みされることになったのは、大変大きな変革だったと思っています。
『父とショパン』
著者:崔善愛
出版社:影書房
定価:2000円+税
発行日:2008年12月15日
――お父様が牧師さんになられるというのは、何か使命を感じたということがあったんでしょうか。
崔:父は確か4代目のクリスチャンで、生まれたときから家庭的には親戚一同みんな教会に行っているような状態でした。ですから、朝鮮半島の中でもマイノリティーだったらしくて、今でこそキリスト教徒がかなり増えているようですけれども、当時はかなり少なかったそうです。ただ、朝鮮半島の中のエルサレムと呼ばれたような、大変キリスト教が盛んな所で生まれ育ったようです。
日本のキリシタンほどではないですけれども、かなり儒教が強い国でキリスト教徒になるということは、最下層として蔑まれるという状態の中で、キリスト教を選んだという親の世代がありました。
ところが1945年、日本が敗戦して(朝鮮が)独立するわけですけれども、その後中国・ソ連(当時)から共産主義が入ってきたときに、キリスト教徒が迫害されます。その中で、父は16歳で刑務所に入れられて随分ひどい目に遭うんです。そのことを少し本の中に書きました。でも、それがやはり父のキリスト教への信仰をより強固なものにしたと言えると思います。
キリスト教に限らず、自分の思想信条を迫害されればされるほど、逆にどうしてここまで迫害されるんだろうかと考えさせられますよね。ですから、そんな中でまた思想というものが生まれていくんでしょうし、(父にとっては)民族同士が争う朝鮮戦争という時代の中にあって、いろんな意味で人間像が作られていったのだろうなと思います。
名前の民族読みについて
――先ほどお話がありました、お名前の読み方について訴訟を起こされたということですが、チャンホァさんがなぜそれほどまでに拘るのかという声も強かったんじゃないかと思います。名前・その読み方ということについて、お父様から聞かれたことや、ソンエさん自身のお考えを聞かせていただけたらと思います。
崔:日本の方は、例えばアメリカに移住されたり仕事で行っても、アメリカで生まれたご自分の子どもにアメリカ的な名前をつけることが多いですね。韓国の人もそうかもしれませんけれども。私が感じるのは、なぜ韓国の名前に拘るのかっていうのは、それはやはりかつて奪われたからでしょうね。もし奪われたことがなければさほど執着も生まれないでしょうけれども。特に父たちの世代の場合、日本名を朝鮮半島で付けられて、そうしなければ学校にも行かせてもらえないという自分の人生の中で、なぜ日本の名前を名乗らなければならなかったのかということを大人になってから考えるようになったのだと思います。
ですから、1945年以降朝鮮半島では当たり前に朝鮮半島の文化を取り戻して行ったわけですが、しかし父の場合、取り戻さなければいけなかった時代に日本に来てしまったわけですね。在日っていうのはそうだと思うんですけれども。ですから、自分の民族性を取り戻すことをしないまま日本に住んでいたわけなんです。で、結局言葉も私のように日本語をしゃべっていますし、名前もやはり(民族名のままでは)大変生きにくいということがありますね。
ただ、やはり自分は自分らしく生きていたいという思いが、父の場合は大変強くて、名前を奪われるということは言葉を奪われた、言葉を奪われたということは自分を否定されたことになるという自意識と言いますか、そういうものを考えた人ですね。ですから、まずは名前を取り戻すことから始めなければ自分自身を取り戻すことはできないという、そんな思いだったと思います。
本の中でも書きましたけど、父の場合は元々あったものを奪われたという感覚ですけれども、私のような日本しか知らない在日っていうのは、奪われたという感覚がなかなか持てないんですねえ。そこら辺に、父たちと私たちの大きな壁っていうのがありまして、“在日”という風にひと言で言ってもずいぶん違います。
韓流ブーム以降は(韓国・朝鮮人名は)大体カタカナ表記に変わってきていますね。父は、いわゆるハングルをご存知の方はおわかりになると思うんですが、(崔の発音には)“オ”という音が入っているのに、それをどかして“チェ”というのは正しくないっていう信念がありまして、一般的に日本では、“チ”に小さい“エ”って書きますけれども、(チォェと表記するのは)父だけだと思いますね。カタカナにするとチョエとなっちゃうので却って遠ざかってしまうんじゃないのかということで父と私はずい分議論したんです。
お互いに譲らなくて、私自身は“チェ”と“ェ”を書いて父はずっと“ォ”を書いていて、よく間違ってますよって指摘されるんですけれどね。ま、父はそこら辺に拘っていましたね。
亡くなる数年前からは郵便貯金の名前を(カタカナ表記ではなく)ハングルで登録したんですよ。受け付けられたんですね。それから、(マスコミでは)金大中=きんだいちゅうと言われていたのが、キムデジュンに変わっていきました。
人権についての闘い
――もう1つ、崔昌華さんが闘っていらしたことというと、「人権」がありますね。お父様が闘って来られた中で特に印象的なエピソードがあったらお聞かせください。
崔:子どもたちが学校や社会で本名を名乗れないということは一番この社会をよく表わしていると思っていたと思います。自分を隠さなければ(隠すということは否定しているということなので)、この社会で生きていけない。父は国連の人権委員会に5回ほど行きましたけど、そこでロビーイングして働きかけするわけですよね。その時に人権委員会の方が、日本では人権を獲得するための闘いで、どれほど多くの人が死んでいますか。数を教えてほしいと言われたらしいです。
アジアのいろんな国では命をかけて闘っている人たちがいっぱいいる、日本はどうなんだという風に言われた時に大変困ったと。在日自身が命がけで闘えているのかといえば、闘えていない。ただ、当時中学生など在日の学生たちが自殺したり、精神的にはもう死んでいるという風にその人に説明したらしいんです。
特に日本の社会というのは、闘いにくいですよね。闘っている人がすごく白い目で見られて、ちょっとでも政府を批判すると、アカとか色々言われてバッシングされて。大して批判している訳でもないのに。そういう中で在日が意見を言うということがどんなに自分を犠牲にすることになるかということがありますね。
父が参政権を求めたり、名前のことを言う時に過激だという風に人は言うんです。教会の中でもそうでしたし、在日社会の中でもそうでした。ましてや日本の中では、人が近寄らない姿、どんどん人が離れていく姿を見てきて、平和とか人権ていうのは、何だか大変美しくてみんなが求めていることのようだけれども、果たして本当にそうなんだろうか?本当にみんな平和とか人権とかを求めているんだろうかと思わされましたね。
最近のニュースで一番ショックだったのは、元ハンセン病の患者の方がたしか68年ぶりに療養所を出られて、68年間ずっと思い続けていたご自分の町に行った。それを決断するのにも親戚一同に迷惑がかかるんじゃないかとずいぶん悩まれて、漸く決断して母校に行くわけですよね。60年以上恋い焦がれていた故郷というのは、たった車で1時間半の所にあった。それなのに彼は、60年以上療養所に閉じ込められてそこに行くことができなかった。同じ日本の中で。
この現実というのが、そうさせているのは何なのか考えると、それはハンセン病だからということ以上の、そういうことに対する私自身を含めて何も知ろうとしない人間の罪。私たちがそれをおかしいんじゃないですか、変えた方が良いんじゃないですか?と言えば変わったでしょうことが、何でこんなにできないんだろうって思いました。閉じ込められた人のそういう姿には色々考えさせられました。
「在日」って聞いたりとか「アイヌ」って聞いたりしただけで、触れてはいけないものみたいになってしまって、(被差別部落の問題も)近寄ろうとしないのが一番寂しいことだし怖いことだと思います。
CD『ZAL』
演奏:崔善愛(ピアノ)/三宅 進(チェロ)
企画:音楽芸術家協会
発売元:若林工房
崔善愛さんのこと
――崔善愛さんご自身のことについてお聞きします。お父様の影響を一番受けていると思われるのはどんなところですか?
崔:自分では良く分からないんですよね。人は、私が父の意志を継いで立派にやっていると思ってもらってるんですよ。もちろん、父がいなければ私の考え方とか、(それは反面教師もありますし)いろんな意味で父を抜きには考えられないですが。
一番影響を受けているというのは、音楽で言えば、“思想をもつ”ということの喜びでしょうか。時に日本では思想であったり考えや思うことを表現すると却ってひどい目に遭うということもあり得るわけですけれども、私は音楽家なので、自分の思想を表現するということを抜きには表現活動ができません。思想をきちんと持つ、そしてそれを相手に伝えるということが人間にとってどんなに欠かせないことなのかということを父から教えてもらいました。
本の中で触れましたけど、父は音楽のこと(特にクラシック音楽のこと)はわかりませんけれども、音楽家も最終的には思想表現者として生きていくんじゃないかということを私に言ったことがあって、それがショパンが亡くなる時に、「音楽は思想だ」というふうな言葉を残していることと私の中で繋がったということで、この本のタイトルを『父とショパン』と付けました。
読んでいただく方がどういうふうに繋がるかはわかりませんが、私の中で父とショパンの思想というものが切り離せないものとして今自分の中にはあるので、こんなタイトルになりました。
――崔さんの演奏会はタイトル(テーマ)があって、それに即した曲を選んでなさっていますよね。そこに崔善愛さんや演奏していらっしゃる方の思いが込められているし、そういう演奏を聴くと曲の意味であったり作曲家が込めたものも非常に感じるような気がしています。
崔:音楽というのは、オペラであれば言葉がありますけれども、ピアノとか弦楽器の場合言葉がないので、それを言葉で表現することは、(しないからこそできることがあるんですけれども、)そのことにある意味委ねてしまっていると、思想が深まらないということがあり得るんですね。
私が一番抽象的なというか音楽の中にテーマ性を出したのは、「冬の時代を生きた作曲家たち」というのから始まったと思うんですけれども、実はラフマニノフとかいろんな作曲家は、冬の時代の中でああいう音楽を作った。ショスタコービッチもそうですけれども。そのことを抜きに音楽を語れないということがあって、そこから段々、(テーマだけですけれど)そんな思いを具体的に伝えようかなと思いました。
“ショパン”というと何か甘いロマンチックな音楽だと思われているからこそ愛されているのかも知れませんが、でも果たして本当にそうなのかということも私はみなさんに考えていただきたかったので、ポーランドという国の歴史を抜きにはショパンを弾けないしそういうところをこれからも伝えていきたいと思います。
――お父様がいろいろなさっていたり影響を少なからず受けていらっしゃることがある中で、ソンエさん自身で、そのやってきたことや意志を引き継ごうかなと思っていらっしゃることがあったら聞かせてください。
崔:引き継ぐって難しいですね。意識的に引き継いでいるということは、考えたことがなくて、私が引き継ぐと言うよりも、あの時代を生きた人たちの思いというのが、私はわかっていないんですね。
例えば、ショパンがいろんな曲を作曲した時にどんな状況に置かれていたのかということを自分なりに一生懸命いろんなことを想像したり勉強したりしながら音楽に表現していくわけですけれど、それと同じように自分とは違う時代を生きたり境遇に置かれた人たちがそこでどういう感情を持たされていたのかということを自分なりに表現していくといこと。それが引き継ぐことになるかどうかはわからないんですが。
父は、亡くなる時にいっぱい資料を残したので、本当だったら子どもたちに向って、「この資料を頼む。委ねる」と言おうと思えば言えたと思うんです。でも、言わなかったんですね。私はそういうことによって私たちがそれに縛られてそのままを引き継がなきゃいけないというようなプレッシャーになることを考えてのことだったと思うんですね。
ですから、自由に生きてほしいと父は思った。自分なりに表せるものは全部表した。あとは、自分たちで賛成するところはやったら良いという気持ちだったんじゃないかなあと思います。自分がやっていることを、例えば自分の娘たちに引き継いでほしいとは、深層心理では思っているかもしれないけれども、私たちは自分がやるべきことを一生懸命やればそれで良いのかなあと。
人はそれを引き継いでいると見てくれることもあるんですけれど、そう言われるとつらいんですよねえ。つらいと言うよりできているかどうかわからないですし。
みなさんそうかもしれないんですけれど、自分の父親が生きている時は、血気盛んな活動をワーッとやってたから、父が頑張ってくれてる。頑張ってねという感じだったんです。人権とか平和とか在日とか、すべて父がやってくれているからという感じで、ある意味安心していたというか。
でも、そういう人が倒れてしまうと、自分がやらなければダメじゃないかっていう思いが出てきました。そういう意味で変わったかもしれないです。父が生きていた時の方が受け身だったような気がします。
今回出版社から父親のことを書きませんか?と言われて、ええっ、書けないなあと思って実は迷ったんですね。父親のことって難しいですよね。個人的な思い入れみたいなことは、小説じゃないのでそれもできないし。編集者の人が私に書いてほしいと思ったのは、日本の歴史認識みたいなものを在日の視点から、父の生き方を通して書いてほしいということだったと思うんですが、それは本当に難しいことでした。
ショパンを書くより、父を書くことの方が難しいです。ただ、そういう機会を与えられなければ自ら進んでこういうことを書き残そうというところまでなかなか行けないので、良い機会をいただいたなと思っています。
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