どうしてなのだろうかと。そういった風潮が顕著になったのは、ネットが出てきてからだと思います。ネットというのは、誰が発言しているのかが分からなくても、もっともらしいことが書いてあると、わりあい簡単に、皆が「そうだよな」と納得したり飲み込んでくれるメディアなので。
―― そうなんですか?
ネットだと、ある種、集合体のように見えるんです。集合体に見えるから、「これがみんなの総意なんだ」と思いやすい。
―― 確かに匿名の場では、たくさんの書き込みがあっても、もしかしたら“声が大きい”一人が何回も書いているかもしれないですよね。その可能性があるかもしれないのに、ひとつのまとまった“世論”のように見えると。
「理屈さえあれば勝てる」、だから空虚な正論が力を持つ
ネットの登場によって、匿名の意見が、ある種の説得力を持ち始めたという感じはします。匿名なのに効力がある状態というのは、ネットが登場するまではあまりなかったことだと思っています。
普通の紙媒体、たとえばビラなどは受け取られ方がまた違いますよね。「これは特定の個人の意見なんだ」と思うから、同じ悪口でも説得力を持ちにくい。
また、発信者が匿名の場合、批判されにくいという側面もあるんです。たとえば新聞に載っている主張だったら、批判ができます。発言が「その新聞社による主張である」という形になって、○×新聞社というバックボーンが見えてくるから。会社が背負っている背景が見えると、「この新聞社は過去にこういう事件を起こしているから、こんな意見を述べる正当性はない」といった理由で、批判する人が出てきますから。
意見だけでも「正義」になれる
ネットにおける「匿名」の人物というのは、当人の立ち位置がわからないから「対象」として批判することができない。だからネットで強いのは、「匿名」の「正論」なんですね。
裏付けや背景といったバックボーンがなくてもいいもの、頭の中のバーチャルな理屈だけで完結するもの、誰しもが正義として寄り添えるもの、そういった「正論としか言い様がないもの」が一番の武器になっている。
だから、匿名でいられない有名人や組織は、失言に対して抗弁しようのない「正論」で突っ込まれたらかなわないと、皆、戦々恐々としているのかなと。
―― 「正論を言えば、相手が屈服する」、という図式がネットの中では成り立ちやすいのでしょうか。見えないネット市民が怖いという状況ですね。
どのような人間であるかというのはまったく隠された状態で、意見だけが正義として現れるというのが、わりと今の時代の象徴なのかな、と。そちらの企画のタイトルに合わせて言えば「時代は“正義”を欲望している」んじゃないでしょうか。
(次回に続く)