2008-12-24
■うるさいおばさん
うるさいおばさん。
今、世の中に火急に必要なのは「うるさいおばさん」である。
良識と常識を備えた「うるさいおじさん」も必要だが、
「うるさいおばさん」はもっと必要というか、かなり世の中に不足している。
誰かが言った。
「黒木瞳って女性にとって毒なんだよ」と。
ほぅ〜〜?
どういう意味か詳しく聞いていると
彼女の友達で40代子持ちの主婦が、常にアンチエイジングと戦っているという。
それはもう痛々しいほどに、と。
その彼女の40代女性のあるべき姿の標準というか基準というのが「黒木瞳」なんだそうだ。
・・・・・・。
若い頃からいつまでも自分の容姿に自信のある人がそういう傾向に陥るのはわからないでもない。
そうでなくても現代女性にとって40代ってぶっちゃけ「あがきの季節」なんだろう。
(更年期障害などが始まる時期として昔もそうだったろうけど、今はもっと)
酒井順子が何かの媒体に書いていたが、昔の40代女性というのは、おおかたが結婚して子持ちになっていたし、そのまま流れでおばさんにシフトできたものだが、女性が社会進出して結婚しなくても一人で食っていけるようになり、適齢期もあがり(私の若い頃は24を過ぎたら売れ残り、女はクリスマスケーキ、いつまでも一人でぶらぶらしていると体裁が悪いと親や親族に婚期をせかされたりしたものだったが、現代の風潮では、そのようなおせっかいは、まず考えられない)仕事や恋愛の自由を謳歌し、今の40代は40代でも20代のファッションを着こなしていたりすることが「イケてる女性」として高い評価を受けるそうだ。(そうか?40代が20代ファッションのボア付きショート・パンツとかはいているの見たら「イタい」だけだが、酒井順子の感覚ではそうらしい。)
それにしても素人の40代女性がロールモデルとして目指すのが「黒木瞳」とは。
単に「見た目だけの指標」といっても、芸能タレントや女優が生業でもあるまいし、そこまで設定基準を高くする必要があるのかね。
昔と違って、女性のファッション雑誌や生き方指南誌(とでもいうのか?)は豊かになり、10代、20代、30代、40代、50代向けと、ご丁寧に世代別に細分化されて出版発行されている。
桃井かおりが60代になったら、きっと60代向けのファッション誌が出るとわたしはにらんでいる。
60代からの恋愛!とかデートスポット特集(温泉特集か^^;)とか組んでたりしてね。
これ以降の雑誌好き世代の方は定期購読で「いきいき」とか「ふくふく」を年間で読むことになるらしい。
(でも私の親友は40代にして、すでに「いきいき」と「ふくふく」を好んで読んでるらしいが!^^;)
話が脱線した。
昔、新聞や雑誌・TVを見ることは、世の中の流れにおいてきぼりにされないために、また世論や知識や流行に敏感であるための日常的なほぼ無意識的な行為だった。
今や雑誌やTVを無頓着に垂れ流しに見るということは、電通や博報堂が仕掛けた消費の煽動に単にのせられるだけでなく、ほとんど仕掛けられた「こうあるべき」=「これ買え」というマインド・コントロールを自主的に意欲的に積極的に受ける「信者」になりさがるようなものだ。
だからか私はある時期からファッション雑誌というものをとんと買っていないし見ていない。
(実は単純に子育てにいそがしかっただけだが)
せいぜい銀行や歯医者の待ち合い時間にめくる程度にしか今は知らない。
いつまでもTVや雑誌が好きな女性は、黒木瞳や鈴木保奈美(←3人の子育て中で女優に復帰らしい)が既婚で子持ちでも、独身女性に負けず劣らずこんなに現役で女性として輝いていることに刺激を受け意欲を燃やすらしい。
だけど地に足つけて生きてると、見た目のきれいさ若さはどうでもいいから、なりふりかまわす年齢相応に精神的に成熟して社会的役割を果たす昔は地域に一人か二人は必ずいたはずの「こわいおばちゃん」「うるさいおばちゃん」が不足しているとひしと感じる。
芸能という特別な世界でなく、シャバで普通に生きてる私たちは普通におばちゃんであることを受け入れて生きようよ、と世の女性に思う。
これはなにも子持ちの女性に限って向けたメッセージではない。
むしろ独身や既婚だけど子のいない、だけどいつまでも「おねえさん」のつもりでいたい女性にもしっかりと向けて送っている。
子持ちの女性はたとえ20代で夏はへそだしルックで子を迎えにくるヤンママでも、彼女らは子どもの幼稚園や保育園で「○○ちゃんのおばちゃん」「□くんのおばちゃん」とか呼ばれ慣れているから、よその子にむかって自分を「おばちゃんにかしてみ〜」とか普通に話かけることができている。つまり、年相応、立場相応に社会的な「自覚」ができているし備わっている。
だけど今や30代の独身女性は自分たちのことを「女子」と平然と呼ぶし(私は最初ギャグとして使っていると思っていたが、どうやら割とそうでないらしい)、実際、以前あるところで私の隣に座っていた30代中盤独身女性が私と同じく某男性から「おばさん」扱いというか「おばさんよばわり」されて、非常に憤慨していた。
そのときの彼女の振る舞いと言ったら
「えぇ〜〜っ あなたはいいけど(←コレ私に対してだよ!)、私はおばさんじゃないのに〜っ!」と。
(これはこれで別件として失礼なやつだな。ま、いっけど)
そりゃ確かにあなたは「私よりは」若いですよ。
だけどせいぜい「その程度」の若さデスよ。
私の子どもがそこにいたら間違いなくあなたのことを「おばさん世代」として認識しているでしょう。
(もちろんこちらは気をつかってまず子どもに「おばさん」とは呼ばせないけど)
しかし現実にはあなたのこと「おばさん」だと思ってみてますよ。
それが「あなたの現実」なんだから受容してくださいとワタシハイイタイのデス。
こちらはあえて気遣って子どもに即席におばさんと呼ばせないように仕向けているだけで。(あんまり無駄な暗黙の気遣いを強要されたくないのがこちらの本心なのだが)
「あの”おねぇさん”にこれ渡して来て」とか気を使って目の前で喋っていることにまで彼女らは気づかないのだろうなぁ・・・。(当然として受け止めていたりして!? 笑)
30代から40代の子どもがいない女性は子ども世代から見た自分、客観的事実というものを脊髄反射的にとらえたくないみたいだけど現実は現実としてしゃーない。
30代女性にはわるいけど女性は20代後半から、<子どもの世界からみたら>立派に「おばさん」カテゴリーですよ。
自分の担任の先生以外はそういう目で見ているでしょう。
で雑誌を熟読し、「各世代別おしゃれ指南」や「人生のロールモデル」や「ハイセンスなライフスタイル」なるものを心捧してそれに沿って生きている女性たちのこれらを読む一番の目的・根幹は、「どんな自分になりたいか」のではなく、ようするに「とにかくおばさんにはなりたくない」という否定・拒否感が発露なのだ。所帯じみたおばさんには死んでもなりたくないので物腰も物言いも「子どもたちにも妙にものわかりがよい」態度が優先的に選択され(いつまでも男目線に耐えうる私?)本来そこで諭し注意すべきことを敢行する「おばさん的態度」を極力回避するようになってきている。
「あ〜いいのよ、いいのよ、子どもだから仕方ないしねぇ〜」なぁんて実は心でかちんときておきながら、社会的責任を果たさずにいる。
ただ「おばちゃん」とか彼らが自分の感性に正直に彼女を呼んだときにだけ
「おばちゃんじゃなくて『おねえさん』でしょ!」と目を吊り上げるのだ。(まったく個人的な自己利益の追求だけは敢行されるのだ)
アンチエイジングに励んだあげく、単なる「地域のおばちゃん」にも「地域の口うるさいおばさん」にもなりこそねている。
アンチエイジングに励んだあげく、自分の成長成熟も棚上げにいまだに「未成熟さ」だけを売りに生きている。
これって、イタいかも。
若さを取り戻すのはいいことだし、いつまでも若々しいのは全くいいことだ。
けど、未熟な、大人になりきれない「子どものおばさん」が世の中に増えてきているのはこわい。
昨日の町内のクリスマス会で子供会の副の役割をもっている私はお手伝いに行った。
まぁイマドキの子どもといったら!
無秩序そのもの。
だけどこれが私の鏡なのね、とつとめて自戒する。
これが私が今まで地域で果たしてきたこと、いや果たさなかったことの
つまり「うるさいおばさん」になりきらなかったことのツケなのだ。
私が小学生の頃の町内のクリスマス会では、始まりくらいもっとお行儀よくちんと座っていたものだけど。
6年生女子がする最初の挨拶や終わりの挨拶もまともに聞き取れないし座っていない。
いったいいつ始まったのかもわからない仕切り仕切られ方。
子どもとはサル。
そう思った。
そう、子どもは人間未満というか人間以前だととらえたほうがよいことがままある。
あまりに個人を尊重し、自由を謳歌させ、野放した民主主義がいきわたりすぎると、子どもは単なる「暴虐無人な帝王」になるだけであり、つまりは手のつけられないほどにつけあがるだけ。
子どもは最初から人間だったのではない。
(お、ちょっとボーヴォワール風?^^)
やっぱり大人が手綱をしめないとだめなのだ。
私は大人の義務責任を果たすことにした。
もう今までのようにニコニコしているだけの愛想のよいおばちゃんじゃないのよ。
あんたたちサルを人間にするために私はいま此処に存在するのよ。
ストーブやポットがそこにがあろうがなかろうが座布団をブーメラン化する子どもたちに
町内会館の和室の中心で声をあらげる。
「寝転がっていないで、座布団ほうりなげていないで、長机をいっしょに運ぼう!座布団はならべなさい!」
お菓子を手渡しても無言の子には「ありがとうは?」とちゃんと周りにも聞こえるように教育。
すると次に並んでいる子から必ず「ありがとう」というようになる。
自分ちの子はまだしも、よその子にそんなこと言うなんて。
そういう遠慮心というか美徳?のようなものは、
私は少年野球という共同体の疑似家族体験おかげで、すっかり払拭されていた。
今までは「ありがとうと言いなさい」 なんて ありがとうの強要なんて自分の美学(?)に反することだった。
他の人がやっていても自分がそれをするのは嫌だった。
だけど今日、この場にいるおばさんは私ともうひとりの相方二人だけ。
(町内子ども会の正・副の役員)
叫びながらこれは強要なんじゃない、教育なんだとはっきり覚ったら、ラクになった。
「6年生の挨拶をちゃんと座って聞きなさい!」
後片付けの時に何もせずに帰ろうとする子らには「みんなでするんやで!」
長机の折り畳み方、つみ重ね方(天板部分を痛めないよう)まで、一年生まで容赦せずに参加させ教えまくった。
教えたらちゃんとみんな出来る子である。
挨拶も出来る。
ただ単に教育されていないだけのことだった。
で、覚った。
世の中、みんなものわかりのよい大人になりすぎている。
子どもを守りすぎて守れていない。
子どもを育てるとは、子どもが世間に出て、社会の荒波という大海に出て、困らぬように育てること、
必要最低限、ただそれだけではないか。
それが親や地域の大人の義務と責任。
子どものいる女性も子どものいない女性も大人になったら大人になれ!
大人になったら大人の権利権限ばかり使わず、それに見合う義務と責任も果たせ!
おばちゃんになれ!
子どもに常識を教えてやれるような大人になれ!
今、世の中に必要なのは、きれいな「うそ〜〜っ○歳代に見えない〜〜っ」ていう「きれわか」のおばさんではない。
(「いきいき」や「ふくふく」は「きれわか」おばさん世代向けの啓蒙誌も出してはどうか?)
子どもにきっちり当たり前の良識と常識を教えられる「うるさいこわいおばちゃん」なんだーーーーーっ!!!
たとえば、30代40代の女性には自分のことを「おばさん」と呼ぶ替わりに「私、オヤジですから」とか「私、もうすっかりおじさんです。」と言う人もいる。この心理も何かいやらしいと思う。いっけんおもしろい言い回しの影に隠れている潜在意識の種。
これはこの女性の中に男性的価値観の女性蔑視が強く内面化されている気がする。
いずれトシくう女性である自分が、実は自分より年輩の女性に対して敬意を示さず差別しているのだ。
「おばさん」はあきらかに「おじさん」よりも地位が低くみっともない生き物だと
自分も女でありながら、(とりあえず今は期間限定的に)その外部の者として蔑視しているのだ。
だから彼女らは自分のことを「おばさん」と呼べないし呼ばれるのも嫌なのだ。
(周囲にそう認識されれているにも関わらず)
男は年齢が高くなればなるほど味や価値が出るけど
女は年齢が高くなればなるほど賞味期限がきれたかのように価値がなくなる
という忌むべき風潮や社会構造や価値観を
男性といっしょになって加担しているのだ
女であるくせに。
女の敵は女。
いやな言葉だ。
上野千鶴子は昔の著書で「自分のことをおばさんと言った日から、おばさんなんです。」と書いていたが、
私が思うに「おばさん」呼ばわりに自己決定権はない。
それは他人の自己に対する評価と同じで、自分をおばさんかどうかと決めるのは自分ではなく他者に他ならない。
だからこそアラフォー世代(←40前後を指すというが要するに本来おばさんの世代に対するおばさん呼ばわりしないための「気遣わせ」呼称)をはじめ「おばさん未満」(@酒井順子著)とか無駄なあがきをしてないで(上野千鶴子が編集長の「おひとりさま」という雑誌で上野、酒井、香山リカの3人の鼎談記事と写真を立ち見したが、彼女らの写真はどうあがいてもおばさんにしか見えなかった)、おばさんとは呼ばれたくない彼女たちには、おばさんという呼称から「蔑称」の響きを感じられなくするくらい、自分たちがお手本の「つよくただしい素敵なおばさん」になってみせる気概が欲しいもんだが・・・。
そういう意味でもせめて「子ども世代」や「自分の親世代」に対しては、社会人として大人として「あがくな」という美学を提唱したいのだ。
女性の生き方の多様化は私も認めたいし認めている。
子どもは生んでも生まなくても生めなくてもいい。
だけど少子高齢といわれる時代だからこそ、
子どもがいる人もいない人も
地域で子育てに参加したほうがよいし、
と、同時にお金では解決してはいけない社会問題があると思う。
人との信頼関係を構築する力を養うことや絆でしか解決できないことがある。
しかし根っこのところは、
ほんとうはそういったことが最も難しくなってきている現代に思う。
そんな綻びが、今、病理となって社会を糜爛させている気がするのだ。
濃い、濃ぉ〜い地域社会と共同体の中で常識的に伝統的に生きざるえない立場の者として、女性としてそこで学んだ「現実に即応した知恵」を書くとしたら、こんなことなのだった。