(cache) 沖縄タイムス 特集 沖縄の海図・メッセージ復帰30年

沖縄の海図メッセージ復帰30年


<2002年9月24日 朝刊 6面>

沖縄の海図(64)

メッセージ復帰30年

特別編

李登輝(上)
台湾
「尖閣諸島は日本領土」

 本企画は「アジアからの視点」を求めて、十六日に台湾前総統の李登輝へインタビューを試みた。前総統の沖縄に対する関心は予想していたより強く、総統を退いた今も経済協力への意欲を示していた。また、尖閣諸島の領土問題にも言及。初めて「沖縄・日本の領土」と明言した。以下は、インタビューの主な内容である。

よかった「日本帰属」

 琉球の帰属問題について、私の考えは非常にたん白である。結論は「日本に帰属してよかった」と思う。小学生のときに学んだ記憶だと、たしか琉球処分は一八七二(明治五)年から始まる。歴史的に複雑な経緯はあるが、現実的な側面から見ると、中国文化の多少の影響はあったとしても、やはり、沖縄独特の地方的色彩が残っているように感じる。

 沖縄の人々のオリジナリティーを考えた場合、「招け」(受け入れること)にある。中国の冊封支配とも関係しているように思う。また、本土復帰後の沖縄について言えば、沖縄の人々が「琉球民族」を主張しても、少しもおかしくない。一つの国が、単一民族から構成されるということは大変難しい。一国家が、単一民族である理由は何一つない。異なったオリジナリティーで、異なったことを実行することが、また国を豊かにする。

 台湾でも「台湾人意識」が、日増しに目立ってきている。これも構わない。重要なことは、沖縄の帰属・復帰した日本が「民主主義の国」であることにつきる。普遍的な意味を問えば、共産主義には「人民の考え」がない。自由・民主主義と共産主義を区別して考えなければならない。

根拠欠く中国の主張

 尖閣諸島の領土は、沖縄に所属しており、結局日本の領土である。中国が、いくら領土権を主張しても証拠がない。国際法的にみて、何に依拠するのかが明確でない。国際法的な根拠「中国の領土権」があって、第二に「兵隊が駐屯した事実」がないと、領土権をうんぬんする資格はない。

 過去の、いわゆる「国共合作」の事実も知っている。香港の工作員が蘇澳(スオウ)の漁民を扇動していた。漁民が騒ぎ立てたとき、私は軍艦を出動させ阻止した。

 それよりも、台湾の漁民にとって、もっと重要な問題に漁業権がある。戦前の日本の国会は、尖閣諸島と与那国、基隆(キールン)の漁業権を台湾に譲っている。戦後になって、日本政府は何も言ってこない。真剣に考えてほしい。

台湾を大切にしたい

 台湾の歴史は、中国との関係をどのぐらい持っているかと言えば、案外と短い。国民党政府が、さかんに中国との歴史の共通性を強調してきたが、私からみれば、そんなに長くない。台湾は「主のいない国」であった。沖縄もそうではなかったのかな(?)。明朝時代(康熙帝)は「禁海政策」をとっていたから、大陸から渡ってきた人は男ばかりだった。

 その当時、先住民が十族いた。タイアル、アミ、カクラン、平埔(ヘイホ)などである。その前はもっと多く、詳しく記憶していないが、二十族近くいたのではないかと思う。最も多かったのは平埔族だった。いまはすべて姿を消している。結局、混血化してしまった。だが、先住民族の文化は残されており、その文化はウソをつかない。

 私の先祖は福建省永定県の客家出身だが、出自についてはあまり興味を持っていない。いま住んでいる、この台湾を大切にしている。中華思想や中国文化に対して、私は批判的である。それは「反省しない文化」であるからだ。司馬遷は『史記』を記しているが、「皇帝の歴史」を編さんしたにすぎない。

 孫文の「三民主義」の理念は評価しているが、実践がなかった。共産主義になっても「人民の歴史」になっていない。台湾に国民党がやってきたとき、大陸同様に選挙は行われなかった。蒋経国の亡き後、総統に就任した。最終的に「動員戡乱時期臨時条款」(戒厳令)を捨て、「中国は中国」「台湾は台湾」を宣言した。

=敬称略=(多和田真助 編集委員)

 り とうき 台湾総合研究所名誉会長。1923年台北県生まれ。43年京都帝国大学農業経済学科入学。46年台湾に帰台、台湾大学に編入学。49年同大学卒業。53年米アイオワ州立大学・大学院修士課程修了。65年米コーネル大学・大学院博士課程入学。68年同大学・博士号取得。翌年帰台、台湾大学助教授兼農復会顧問。78年台北市長。88年蒋経国総統死去により総統昇任。90年第8期総統。96年第9期総統(初代民選)。2000年総統退任。主著『李登輝 台湾の主張』。ほか論文多数。

独自モデルを提示/白色テロから民主化

 著書『李登輝 台湾の主張』には、少なからぬ衝撃を覚えた。大陸の「文攻武嚇」にさらされていた、李登輝が敢然と「台湾経験」と「台湾モデル」を提示。

「台湾の自信」を、明確に宣言していると思えたからだ。大胆にも「単に台湾のものではない。中国人すべてのものであり、将来、統一された中国のモデルにほかならない」ことを強調していた。

 一九四九年、中華民国(国民党)は首都を台北に移した。台湾で国民党が行った政治は強権的、かつ独裁的だったという。「白色テロ」が横行。国民党と、ともに大陸から渡ってきた外省人が、台湾に居住していた本省人を弾圧。民主主義とは、ほど遠い時期がしばらく続く。

 蒋経国総統死去(八八年)によって、本省人の李登輝が総統の座に就く。さらに九六年、国民投票で勝利した。白色テロから民主化への過程、経済発展を振り返ると、まず彼の存在なくしては、現在も将来の台湾も語れない。台湾モデル・台湾経験の持つ意味の重さが、この著書からは読み取れる。

 同著は、米政治学者のサミュエル・ハンチントンの言葉を引用している。

 「台湾のデモクラシーは、李登輝が死んでも継続するだろうが、リー・クワンユーの政治体制は、彼が死ぬと同時に墓場に葬りさられるだろう」

 これに、李登輝は「台湾に生まれた悲哀」から「台湾に生まれた幸福」—という言葉で答えている。

 本連載・特別編は火・水曜日に掲載します。


李登輝



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