企画探訪:セヨングサンバックムルグァンショールームに行く>E
連合ニュース|記事入力 2005-08-22 11:44 |最終修正2005-08-22 11:44
'新しい竜山博物館に行く'
黄南大塚で捜した漆紙(七支) ファンドデも
打つかも(七支刀)が今韓半島にもあったら? それも新羅ゾックソックモックグァックブンで出土になったら? 何の菊芋みたいな音かという聞き返すかも知れない.
しかし新羅墓で確かに漆紙島は出土された. それも出土されてから 30年も経った. そんな漆紙島は 30年の間各種特別展や, 図緑を通じて倦まず弛まず紹介された. 問題は誰もそれを漆紙島という観点で近付くことができなかったという点だ.
1973-75年大大的に発掘された黄南大塚濫分とブックブン. この中濫分が先に発掘された. 後でブックブンまで調査した結果ブックブンが封墳を逐造する過程で濫分封墳一部を削って食べたことで現われた. これを通じて濫分が先に築造されてブックブンが後で築造されたことで確認された.
二つの古墳は出土遺物でも明らかな差を見せた. 先に築造された濫分が男性的特徴が濃厚に現われたのに比べてブックブンは女性という色彩が濃かった. ブックブンが女性という決定的書き入れ時はこちらで '奥さん台(夫人帯)'という名門の書かれた遺物が出土されたからだ.奥さん台と言う(のは)文字のとおりは奥さんが (腰に) 着したという意味だ.
それだけではなくブックブンでは濫分と違い男性が専用したことが明らかなファンドデも(環頭大刀)のような武器類がほとんど見えなかった. 一方濫分では大刀(大刀)類だけ死体が安置された木管(木棺) 中で一点, 副葬品首長空間で九点や大量出土した.
が中でも断然関心は出土当時状況で見て売場された人が左側にチァックザングしたのに明らかな金銅(金銅)私のファンドデも. これに見て皮匠者は右利きだったことに違いない.
ファンドデドと言う(のは)文字のとおりは取っ手終り掛けがね飾りが為替も(環頭), すなわち丸いの中でもとても長い刀を言う. この濫分出土ファンドデドは出土当時遺物基準で全体長さが 77.4cmもなった. 実際に使うことができない品物なのが明らかだ.
同時にこの濫分ファンドデドはこんなファンドが三つという点が独特だ. すなわち, 丸い掛けがね一つを中心にその両側にまた他の丸い掛けがね二つを配置することで結果的に丸い掛けがねには穴が三つやあるわけになる.
一所にこのファンドデドは逃身(刀身), すなわち刀胴両側面によって '小さな切れ目'を三つずつだけたちでその中に小さな刀を一つずつ入れた状態に出土された.したがってこのファンドデドは刃両方を皆合わせ六個である小さな刀を従えていたわけだ.
もっと気を付けることは刃両方にこれら小さな刀が配置された様相だ. 小さな刀は皆行き違った状態に付いていた. これら六犬小刀に胴格であるファンドデドを合すればこれこそ漆紙島ではなくて何だのか.
が黄南大塚濫分出土品が漆紙島なのを証明するために日本天理の時(天理市) 李ソノ加美神宮(石上神宮)に保管されている打つかも(七支刀)をよく見る必要がある. この漆紙島は材料が鉄だ.
長さ 74.8pであるこの漆紙島は木の枝みたいな '小さな日'がそれぞれ三つずつ両方へ行き違うように伸びている. 全長は 77.4cmである黄南大塚濫分のファンドデドと比べる時ほとんど同じだ. ひいてはその胴を中心に両側面に小さな刀六個を, それもお互いに行き違うように配置したことも宛然に同じだ.
漆紙島はまず独特の顔付にその胴先後に金賞感した総 60余者に達する名門で有名だ. この名門を取り囲んでこのスェッカルが百済が倭王室に献上したとか, 下賜したとか, ではなければ単純贈り物だとか言う論争が今も続いている. 韓国でこのスェッカルに対する関心のこの上なく大きいわけがここにある.
が漆紙島を取り囲んだ多くの疑点の中で最大悩みがこれに似ている遺物を捜すことができないというのだった. しかし, ほとんどまったく同じなモチーブを活用した打つかも遺物が外でない新羅黄南大塚で出土されたのだ.
もう新羅山(産) 漆紙島に会いにセヨングサングックリブズングアングバックムルグァン考古官の中で新羅室を尋ねることができる日も遠くなかった. 10月 28日がその日だ.