http://bbs.enjoyjapan.naver.com/tbbs/read.php?board_id=phistory&nid=64444&st=writer_id&sw=ibm1082
この前に引き続き討論を続きます.
wakatakeru = 獲加多支鹵大王 = 雄略が成り立つことができない理由
1. 一応 ISIWATARI SINICHIROが引用したInoueHideo (井上秀雄)の話を聞いて見るようにします.
以下引用 >
稲荷山鉄剣名門中には 獲加多支鹵大王の振込み者(異体字)も 辛亥年が 531年お正月を後押ししている. 稲荷山鉄剣の名門の中には 獲加多支鹵大王の 獲加の振込み者 獲( 実際では字頭の ++歯が抜けている. コンピューターになくてそのまま入力) 使われているがこの振込み者の使用も
辛亥年が 471年だと言うことを否定している.
InoueHideo (井上秀雄)によれば 草頭がない 獲の振込み者(異体字)は 東魏(534-550)と 北済(550-577) 二つの時代にだけ使われたので 倭にこの振込み者が伝わったことは 534年以後でそれでここでの 辛亥年は 591年以後に今日日と言う.InoueHideoが指摘するように 471年には中国でも 獲の振込み者(異体字)は使われなかった. この点で見ても通説で主張する 471年お正月はもちろん成り立たない.
引用終り >
中国の歴史記録どおり " 文字がなくて百済から仏経をオッオスであり初めて問題が起こった 倭"
で中国で使われなかった文字を先に書く理由はないです. これに対して合理的な
説明がなければ鉄剣名門の 辛亥年は 471年ではなく 531年になるので (456-479) 間に
在位した 雄略は 獲加多支鹵大王になれないです.
辛亥年に対して日本学者たちの間でもさまざまな意見があるのに無理して 471年を既定事実にして論理を展開することは非合理的です. この事項に対して反論があったら受け入れます.
2. 一度 宋書の 倭 5 王の記録を整理して見るようにします.
済が 倭王に封ざれたことは 443年
皇太子 興が 倭王に封ざれたことは 462年
武は 478年です.
日本書紀を基準にすれば 武の父親 済は 隣交優(允恭)になります.
隣交優(允恭)は 412-453年在位なので連帯が当たらなくて, 興は アンコウ(安康)に
無理やりに挟んで合わせなければなりませんか? 安康は 453年から 456年ですね.^^
これに対して合理的な反論を期待します.
万が一に前の Dennoとは当たらないが " Anyway " 雄略は 武が当たる.. こんなに
主張しようとしたら ibmが前の討論で話した " 不確実な日本書紀で
始めるのではなく 宋書 倭国伝で始めよう"は話もう一度じっくり考えて見てください
3. そうだから.. wakatakeru = 獲加多支鹵大王 = 雄略 これを主張する根拠が 雄略の
諡号である 幼武と 音が同じだ.. これのようなのに :)
日本武尊の日本書紀記録はこのようです. 景行 27年 12月を読んで見ると, 武が 16歳幼い (童,幼) 年に 能竜国に行って酋長を暗殺すると酋長が
" あなたのように勇ましい人は初めに見た. 名前が分かりたい. そのため
日本武尊が名前が私の名前は 日本童男だするから.. 酋長があなた名前これから 武 しなさい
( それなら 童寝る 幼者と通じるという話)
それで 武になったという..
比べて見ればこのようです.
雄略の諡号は 幼務 ジーマン " 年が幼いのに武功を立てた " storyが全然ないです.
諡号だけ 幼武
しかし日本 武尊の場合 童男で野蛮族酋長を直接殺して 武という名前を得たということは 幼武とストーリーが一致します. 何の話なのと言えば 幼務 = 雄略 = watakakeru 街根拠になったら 童男 武 = 幼武 = watakakeruも認定をしなければならないということ. それでは storyがない 雄略 よりは 日本武尊がもっと可能性が高いです.
ibmがこんな質問するが投げて見ます. 雄略の 幼武はただ名前だけ残しておいて, 実際 storyは
景行 27年の日本 武尊にオムギョドオッダならどうなさいますか?
これ以外にさまざまな反論をしたいが.. setunaさんと yonakiさんの反論を見て追加的な
反論をします.
そしてこの前討論で
setunaさんは ibmが " 日本書紀で見れば百済 聖王を 倭の臣下たちが 大王と称する." という主張に対して後世に 聖王が追尊された. と主張したが, 百済の記録を最大限低めて取って ( はい, 百済人が移住しながら文明の伝わったことを百済が朝貢したと記録 ) 倭王家が百済より優位にあるように 偽作一日本書紀編者たちの patternと反対なので理解しにくいです. ここに対して合理的な根拠提示をお願い致します.
yonakiさんは 宋書の 倭王の 氏が "倭"と言うことを聞いて見たことがないと言ったが,
一応 宋書 百済部分を一度見ましょう.
<義煕>十二年, 以<百済王><余映>為使持節・都督<百済>諸軍事・鎭東将軍・<百済王> <高祖>践 , 進号鎭東大将軍. <少帝><景平>二年, <映>遣長史<張威>詣闕貢献
映, 余映 2個だ使っているのに, 歴史を敍述する時には中華思想に即して 氏 + 名前を使わないでそのまま 暎.. しかし作為を授与する場合は Full name ( 氏+名前)を使いました.
それでは 倭国伝を一度見るようにしましょう.
永初>二年, 詔曰: [<倭讃>万里修貢, 遠誠宜甄, 可賜除授.] <太祖><元嘉>二年, <讃>又遣司馬<曹逹>奉表献方物. <讃>死, 弟<珍>立, 遣使貢献
似ている形式でしょう ? 讃も使われたし 倭讃も使われました. 歴史を敍述する時にはそのまま 讃
詔を引用するから Full name 使用. 自然でしょう?
認めにくいですか?
下の文章を見るようにします.
<珍>又求除正<倭隋>等十三人平西・征虜・冠軍・輔国将軍号, 詔 聴.二十年, <倭国王><済>遣使奉献, 復以為安東将軍・<倭国王>
"倭隋" という人物が登場します. 中国へ行って作為を受けたことは前の百済の慣例で見た時に王族という意味なのにあの人の 氏も "倭" に見えます.
Yonaki 氏に 宋書 倭 5 王の 氏が " 倭 " ではないと言う合理的な反論を期待します.
ここでこっそり ibmの " 倭武 = 日本 武尊 = 日十大王 = 斯麻 = 武寧王 " 仮説を検討して見ます. 武が武寧王なら武寧王の子孫の 氏は 倭にならなければなりません.
武烈 7年の記録です.
" 百済王が 斯我君を送ったが子を置いて 法師君といった. これがすなわち 倭君の先祖だ."
追加で 余さんである百済王族が 倭さんになったということに対して疑問を持つかも知れなくてこんな話を書き留めます.
中国で発見された 黒歯常之の墓碑記録には元々は 余さんだったが 黒歯国に封ざれて 氏を
黒歯にしたと言います. これを参考してください
Setuna さんには前で話したとおり
日本書紀で 倭の臣下たちが百済 聖王を 大王だから称したのが後世の追尊だと主張したことに対する根拠を聞きたいんです.追加で 人物画像鏡の 日十大王の ibmに主張に対して 日十が日付と主張したが, " X 月 X 日 " こんな常識と違い, " X 月 日 X " こんな方式になっている遺物があるのか. そして日本で発見された遺物たちはほとんど大部分 大王や 王の名前を記録するのにそのまま 大王だと記録した遺物があるのか可否を聞いて見たいです.
Yonaki 氏には " 倭王の 氏が 倭と言うことは聞いて見たことがない." という根拠以外に " 倭王の 氏が 倭ではない" と言う合理的な根拠を聞きたいです.