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toremokoの日記 このページをアンテナに追加

2008-12-19 寒い

フランスからの手紙―ある哲学研究者の東浩紀批判

 フランスに留学中のサルトル研究者に東の劣化がひどいよと話してみたところ、メールが届いたので転載する。東批判は一通りなされた感があり、また、先日の常野さんの活躍によって東の小物振りが明らかになって、東の言説自体を取り上げることも少なくなってきていると思うけれど、サルトル研究者からみた東及び「ポストモダン」というのはこれで面白いと思う。


最初に断っておきたいが、知っての通り日本語文献が揃えにくい状況にあるので、どっかの本から引用する場合は、邦訳が存在する場合でも原書から俺が直接訳している。そのため、細心の注意は払うが、特にデリダのついては誤訳の可能性を否定しきれない。いずれにせよ、翻訳の責任は完全に俺に帰する。

東の発言について参照したブログの類は、お前から教えてもらったものがほとんど。

以下の通り。

http://d.hatena.ne.jp/toled/20081128

http://watashinim.exblog.jp/8879908/

http://d.hatena.ne.jp/Apeman/

http://d.hatena.ne.jp/kmiura/20081126

http://www.hirokiazuma.com/archives/000465.html

http://d.hatena.ne.jp/nitar/20081114#p1

http://d.hatena.ne.jp/nitar/20081205/p1

http://d.hatena.ne.jp/naoya_fujita/20081208/1228726052

さて、本題に入る前にひとつ確認。東は「ポストモダン系リベラル」であると同時に「デリディアン」であると自らをアイデンティファイしているが、デリダはそんな自己規定をしない。東自身はたしかに「渦状言論」12月1日のエントリーの中で、自己の言説とデリダの言説とを区別するよう促している。ただ他方で、「デリダを通ってしまうと、歴史的真実とか言えなくなる」とその影響関係を表明しているので、あたかもデリダというのが「ポストモダニズム」なるものの源泉であるかのように理解される可能性もある。この点で、デリダがそんなレッテルを拒否しているってのをはっきりさせておくことは、それなりに意味があるだろう。

「私はまた、『マルクスの亡霊』や私の仕事全般について、それが「ポストモダニズム」や「ポスト構造主義」といった《ジャンル》の一種、一例、一類型であるかのように、いささか性急に語られることにショックを受けている。これらは、極めて情報に乏しい世論(とりわけ多くの場合、大手メディア)が、《脱構築》をはじめとして、彼らの気に入らなかったり理解できないあらゆるものを、大雑把に整理するごちゃ混ぜの概念である。私は自らを、ポストモダニストともポスト構造主義者とも見なしていない。」

Jacques Derrida, Marx & sons, PUF/Galilée, 2002(以下MSと略), p.36.

東が「ポストモダン」をどう定義するかは本人に聞いてみるしかないが、デリダを経由したポストモダニストだから歴史的真実とか言えない、という主張は、思考停止のためのプレテクストとしか思えない。

じゃあ本論。

まず東の主張(の一部)を要約すればこんな感じだろうか。

順不同で、

1.歴史的真実など決定的には知りえないのだから、「何もわからない」というところに停止するしかない。→例:南京大虐殺

2.いろんな意見の奴がいて当然。討議は無限に開かれていなければならない。厳密にリベラルな公共性を構想するなら、「リベラル」でない立場も容認し、場所を与えねばならない。→例:在日差別容認

一義的な真実など知りようがないとか、この世にはいろんな意見の奴がいるとか、これって要するに常識よね。

一般論として、思考の構え方はたしかにそこからスタートすべきだろう。でも例えば南京大虐殺について、自分は専門家じゃないからって逃げて、そこで止まっちゃったらダメだろ。一般的な前提に過ぎない事柄の確認が、あたかも結論であるかのように転倒されてしまう。

大体そんなことは、ポストモダンであろうがなかろうが、それこそずっと前から言われてたこと。

一例に、ポストモダンとはまったく関係のないサルトルを挙げてみる。

「出来事の諸側面。〔……〕2゜多次元性。出来事は同時に数限りない諸意識において進展する。それらの諸意識は、多かれ少なかれ一般性から隔たっている。したがって、歴史は数限りない異なった仕方で屈折することになる。しかし、問題なのは反映ではない。出来事を生きる仕方は、出来事そのものの一部をなす。ある政令に際しての大衆の憤慨は、出来事としての政令の一部である。それが実行される流儀(すなわち政令に対しての人々の振舞い)もまた同様である。すなわち、政令の意味作用はその政令の一部をなし、多次元的であり、理論的には無限でさえあるということだ。実際のところは、宇宙(世界〔l'univers〕)繊維質の構造は、そこに有限性を与える。しかし、まさにこの活動する意味作用が多次元的であるからには、出来事は不安定である。それは脱中心的増殖なのだ。」

Jean-Paul Sartre, Cahiers pour une morale, Gallimard, 1983(以下CMと略), p.40.

「運動という表現で物事を捉えるなら、歴史的現象は、同時に複数の回転軸を持つような運動として、果てしない脱中心化である。」

CM, p.144.

言うまでもなくサルトルは「アンガジュマン」の哲学者。あんだけ政治に社会に文化に積極的に発言し、コミットしていった人間でも、一枚岩の真実なんてないという認識は前提としている。決定不能だからその決定不能性に安住するという発想は、少なくともサルトルにはさらさらない。

そもそも、わかんないなんてことは前提以前の前提なわけで、わかんないからこそ人間はそのわかんない事柄をどうにか合理的に把握しようとして、例えば歴史学という営みを進めてきた。(歴史学自体、様々な党派性に浸透されているとしても。) 南京についても、多くの研究の蓄積があるはずで、それを一切無視してただ決定不能というのは、要するに知的怠慢だろう。

さらに、今度はデリダについて言うと、デリダはたしかに「決定不能性」の哲学者ではあるだろう。(俺はデリダについて大して詳しくないが。)ただ、東がただ単に決定しないのに引き比べ、デリダはもう少し複雑。ちょっと長いが引用。

「社会的諸力の(単純化して《階級》と呼ばれてきたものの)差異と対立を通じて、単純に問題となるのは、分析や政治的アンガジュマンの、もうひとつ別の次元である。私は、そのような次元(例えば、社会的、国民的、国際的階級の次元、国民国家内部での政治的闘争の次元、国籍市民権の諸問題の次元、党派戦略の次元などなど)が、上位にあるとか下位にあるとか、優先的であるとか二次的であるとか、根本的であるとかないとか、そんなことは言わないであろう。こういったことはすべて、それぞれの瞬間において、切迫性や構造的関わり、そして何よりまず独自的状況に左右される。そのような評価にとっては、定義からして、いかなる先行的基準も、いかなる絶対的計算[予測]可能性も存在しない。分析は、先行的な知によって保証されることなど決してなく、それぞれの場所で、日毎に再開されねばならない。こうした条件において、こうした命令条件においてこそ、行動、決定、政治的責任――再政治化――は、そうしたものがあるとして、あるのである。《決定不能なもの》は、私にとって、決定の反対物であったことは一度もない。それは、決定が計算機においてなされるような具合には知から演繹されない場合の、決定の条件なのである。

MS, p.54. (太字強調はデリダ(原文イタリック)、赤字は俺)

決定不能性は、わからないと言って立ち止まるためのプレテクストではなく、「決定の条件」なわけだ。東が、例えば南京大虐殺をめぐる「独自的状況」に対する評価を、「日毎に再開」しているとはとても思われない。何度でも繰り返すが、彼は決定のための条件に過ぎない段階にとどまっているだけだ。

もちろん、デリダの真実ないし真理に対するスタンスは、簡単に測定できるようなものではない。デリダは、何らかの既成の価値にコミットしつつ、「これが真理だ」などと断言するようなことはしない。認識と対象の一致という、近代の単純な真理概念は斥けられる。物事は、「おそらくpeut-être」という形でしか語れない。だがこの「おそらく」は、あらかじめ真理を排除するようなものではなく、真理の新たな地位と密接に結びついている。

「我々の途方もないおそらくは、不明瞭さや変わりやすさ、知に先立つ、あるいはあらゆる真理を断念する当惑といったことを意味しているのではない。仮にそれが決定不能で、その固有の瞬間において(しかしそれにある固有の瞬間を割りふることはまさに困難である)真理を欠いているにしても、これは、決定の、中断の、革命の、責任[応答可能性]の、真理の条件であるためである。おそらくの友は、真理の友なのだ。しかし、真理の友は、定義からして、真理の中にはいない。彼らは、ドグマの閉鎖された安心感や意見の安定した信頼性の中にいるような具合に、真理の中に身を落ち着けているのではない。」

Jacques Derrida, Politiques de l'amitié, Galilée, 1994, pp.63-64.

デリダには真理への希求がある。「歴史的真実とか言えなくなる」と言って傍観者の立場に閉じこもることは、「あらゆる真理を断念する当惑」ではないだろうか。デリダはただ「わからない」とは言わない。少なくとも、「おそらく」と言う。この「おそらく」には最大限の負荷がかかっている。ア・プリオリな真理など担保されることのない世界で、それでもいかに真理を語りうるか、という命題。東との隔たりは言うまでもない。

話は変わるが、ひとつ確実なのは、デリダを多少読みかじった程度の俺とは違って、東はデリダをほとんど読んで、ここで俺が指摘したような事情もわかっているはずだということ。

デリダはたしかに、物事をスパッとぶった切るように論じてくれる哲学者じゃないし、現在の状況の中でどう行動すべきかという処方箋を与えもしない。(むしろそんなもん安直に与える方が危険だろう。)

それでもデリダには、「正義」「真理」「民主主義」といった、これらの非常に危うい言葉を、別の仕方で考えねばならないという、切迫した認識がある。「わかんねーよ」という非−知の領域は、そこに避難できるような世界の安全な隔離された片隅じゃあない。東がおそらくそれを理解していながら、わからない振りをするのはどうしてなんだろうか、と俺には非常に不思議。それとも彼は本当にデリダを、ただ単に誤読しているのだろうか。

ところで、ある状況の中で態度表明をはっきりしろ、と要求されれば、東はきっとそんな要求を暴力だと受け止めるだろう。それはある点までは正しいと思える。ではあらゆる暴力を回避できる理想郷は、現にあるのだろうか。あるわけない。東自身、大塚との対談の中で「ぼくという人格は個別にあるものではなくて、時代性とか、さまざまなものによってつくられているわけです」と発言しているようだが、こういった被規定性はあらかじめの暴力じゃあないのだろうか。

俺は、東が自称するような「へたれ」のあり方は、決して悪くないと思っている。なぜなら俺もへたれだから。でも他方で、どこまで本当にへたれでいられるのかというのはすごい問題。そこで考えなきゃいけないのは、「暴力」という問題系だと思う。いずれにしたって、俺たちは、あるいはこの世界は、隅から隅まで暴力によって構造化されている。へたれでいることで、暴力を行使することからも暴力を被ることからも無縁でありうる、などというのは幻想に過ぎない。

東に欠けているのは、こうした暴力への感受性だと思う。

言うまでもなく暴力の問題は難しい。植民地人種差別から、大学だの雇用形態だの社会的制度に関わるものまで、暴力の行使に立ち向かう術は対抗暴力であっていいのか、という問題。バイオレンスとカウンター・バイオレンスのジレンマ。

手元にないので引用できないのが残念だが、デリダはこの点についてあるインタビューの中で触れている。「対抗暴力というのは素直に認められる手段ではないが、私に言えるのは、暴力状況は許しがたいということだ」というような主旨だったと記憶しているが、正確である自信はないので、興味があれば原文を確認してほしい。『現代思想』の1987年7月号、特集「サルトル以後のサルトル」。

それにしても、東の言うように、例えば在日朝鮮人に対する差別の言動にも場所を与えよってのはどうなのか。何よりまず、多くのブロガーや論者も既に指摘していることだろうが、現に彼らは場所を持っているわけだ。そしてその暴力的な言動に対して口を噤むことは、どういう意味を持つのか。サルトルならば、こんな風に言うだろう。暴力状況に対して沈黙を守ることは、客観的にはその暴力に加担することである、と。差別を個人の内心では一応糾弾するそぶりを見せながら、実質的に沈黙することで生み出されるのは、暴力との共犯関係である。

「客観的な従属と内的な拒否というアランの解決(それはまたエピクテトスの解決でもある)は、端的に幻想的である。というのも、拒否が志向的主観性の中で純粋かつ全面的であるためには、また、拒否が純粋な志向であるためには、その活動は熱意を持ってなされねばならない。もしその活動が無気力になされるなら、拒否はもはや純粋な自由の肯定ではなく、活動の無気力によって損なわれたものとなり、無気力、怠惰、恐れによって拒否しているのか、一歩も譲らない純粋さによって拒否しているのか、もはやわからなくなる。それゆえ、この拒否は支配者との協定の上に消え去るものであり、砲兵アランは敵の軍隊めがけて撃つ、したがって虐殺の共犯となるのだ。(……)実際には、人間は受動的ではありえないゆえに、受動的服従というものは存在しない。服従か反抗しかないのである。」

CM, p.274.

あらゆる言説に場所を与えるとうそぶいて、自らはそれらの言動の外部に身を持していられるなどと思うのは幻想である。あらゆる発話に場所が与えられるのが公共性だとするならば、公共性はあらゆる暴力が分節される空間である。すべての主張に存在を認めたときに、いわゆる言論の自由に対する抑圧が終わって暴力が回避されるのではなく、その時にこそ剥き出しの暴力状況が顕在化するだろう。現に今、かなりの程度でそうなっているというのが俺の認識。公共性は、ニュートラルな言論の自由市場じゃない。理念的にはそうあるべきだとしても。

当然、服従か反抗か、というこの二元論は一方では危険だろうし、デリダがそのような方向性を避けようと思考していることも俺は理解しているつもりだ。だが、二元論をただ回避しようとして、選択を行なわない思考停止に陥ることは、はるかに危ういものじゃなかろうか。

それにサルトルは、安易な二元論に逢着してしまっているわけじゃない。暴力の浸透した現実世界の状況においては、問題が二元論的な構図をもってしか提示されないという構造を分析し、指摘しているわけだ。

デリダとサルトルそれぞれの、この状況に対処する戦略は、まったく異なっているけれど。(ただ、相互に響き合ってる部分は確実にあると俺は思っている。)

デリダが単なる「へたれ」ではなく、人間同士のつながり方として、どんなあり方を構想しているのか、いつも通り明瞭ではないけれど、ここに一例がある。マルクスについて論じた著作(もともとは講演)の中から引用。

「《新しいインターナショナル》、それは単に、これらの犯罪を通じて [原文では犯罪を意味するcrimesとなっているのだが、文脈からしてcrisesの誤植じゃないかと思う。だとすると訳は、「これらの危機を通じて」となる] 、新しい国際法を模索するということではない。それは、親和性の、苦しみの、希望のつながり、1848年のころと同様にいまだ目立たない、ほとんど隠された、しかしますます目に見えるようになってきている――そのことの兆しは一つならずある――つながりなのだ。それは、時ならぬ(intempestif)、地位も資格も名前もなく、地下のものではないにしてもほとんど明るみに出ていない、関節の外れた(out of joint)、連携も党派も祖国も国民的[国家的]共同性(あらゆる国民的[国家的]規定以前の、それを通じての、その彼方のインターナショナル)共同−市民権(co-citoyenneté)も階級への共通の帰属もない、つながりである。ここで、新たなインターナショナルの名の下に呼ばれているもの、それは、たとえ彼らがもはや今後は、あるいはこれまでも決して、社会主義的−マルクス主義的インターナショナルや、プロレタリア独裁、万国のプロレタリアの普遍的団結のメシア的−終末論的役割などを信じないにしても、少なくともマルクスの、あるいはマルクス主義の諸精神(彼らは、これからはそれが一つ以上あることを知っている)の一つから息吹を吹き込まれ続けている人々の間の、そして新しく具体的で現実的な形態の上で結びつくために、たとえこのような結びつきがもはや党や労働インターナショナルといった形をとらず、国際法の地位や、国家や国民などなどの諸概念についての(理論的かつ実践的)批判の中で対抗−共謀(contre-conjuration)の形をとるにしても、そのように結びつくために、すなわち、このような批判を更新し、とりわけ根本化[過激化]させるために、制度なき結びつきの友情(amitié)へと促すものである。」

Jacques Derrida, Spectres de Marx, Galilée, 1993, pp.141-142.

これが実質的に、実体的にどういうものであるのか、そんなことはデリダ自身もわかってないんだろうと思う。わかんない。でも、わかんないというのは、それが問題であるということ。問いに付されているということ。それについて考え続けないといけない。わかんないとだけ言って立ち止まるのは、問題が問題であること自体を拒否するような姿勢じゃないか。でも問題を拒否したからって問題がなくなるわけじゃあない。東の内心だけは平静を取り戻すのかもしれないが。

長くなった。最後にサルトルをもう一回引用して終わりにします。

頼るべきア・プリオリな規範も価値もないときに、俺らはどうしよっかなー、というお話。

「〈倫理〉のジレンマ。もし目標が既に与えられているのなら、それは価値ではなく事実に、存在になる。もし目標が与えられないのなら、それは無償のものとなる。それは気まぐれの対象である。これは、次のことがよく理解されていなかったということだ。目標は、存在するためには望まれねばならない。そこに第一の特徴がある。目標というものがあるのは、自らが自由であることを望む自由に対してのみである。しかし他方で、自由で超越的な投企としての人間の実存そのものが、その実存がその存在において世界を問題とするものであるという意味で、必然的に目標の問題を提出する。他方で自由は、その出現それ自体によって自らを問題とするものである。あるいはむしろ、自由は《問いに付されて》いる[《問いのうちに置かれて》いる]。したがってここに、目標ではなく、問題の根源的な出現があるのだ。回答は与えられていない。回答というものはまったくないのだ。それを見つけるのではなく、発明し、望まなければならない。」

CM, p.464.

さて、東は何を「発明」してくれるんだろうか。

というより、俺たちは何を発明していけんのか、そいつを考えんとね。

そうそう、サルトルのCahiersは未訳だが、ここで使ったデリダのは全部邦訳がある。

Marx & Sons=ジャック・デリダ『マルクスと息子たち』國分功一郎訳、岩波書店、2004年

Spectres de Marx=ジャック・デリダ『マルクスの亡霊たち』増田一夫訳、藤原書店、2007年

Politiques de l'amitié=ジャック・デリダ『友愛のポリティックス?・?』鵜飼哲/大西雅一郎訳、みすず書房、2003年

気が向けば参考にしてみてくれ。

以上、ほぼ全文転載した。

僕はデリダもサルトルもほとんど知らないから、細かい内容に関して発言は出来ない。よく知りもしないことをさも訳知り顔で語ろうとすると、とんでもない醜態を晒してしまうことになるということは、東が既に身をもって実証してくれているから。今回の一連の出来事の中で、最も恥ずべき東の行為は、自らの発言への批判に対して真摯に向き合おうとせず(実際「読んでいない」と宣言している)、批判者を「はてサ」と一まとめにしてdisってることだろう。一連の批判を「読んでいない」にもかかわらず、「最低の人たち」などと断言してしまう東の態度は「知的怠慢」以外の何者でもない。批判者が自分の言っていることを「理解しようともしない」と批判している自分自身は、彼らの言っていることを理解しようとしているのだろうか。

石川石川 2008/12/19 21:26 自分自身の暴力がわかっていないと思う。知識人は、他者の心を傷つけていることにまるで気がついていない。ネットを通じて、傷つけまくっていることが多い。知力は、ずっと暴力に打ち勝ってきた歴史がある。それだけ、強いってことなのに。自己の存在は小さくて声も細いつもりかもしれないけど、強大な力を背負っていて、これ鉈のように振り下ろしているんだよね。追い詰めているのは知識人の方。

通りすがった通りすがった 2008/12/20 00:04 ていうかデリダもサルトルも知らないけど、東は「よく」知ってるんだね。東の言葉を誤読したがった有象無象が意外といっぱいいたという印象。「サルトル」の「研究者」とかじゃなくて、あなたの印象を書けばよかったのでは?

iflancyiflancy 2008/12/20 04:10 わたしは哲学者ではありませんし、
デリダもサルトルも原典をあたったことがないので何とも言いかねるのですが。
下記の部分に違和感を覚えました。

>でも例えば南京大虐殺について、自分は専門家じゃないからって逃げて、そこで止まっちゃったらダメだろ。一般的な前提に過ぎない事柄の確認が、あたかも結論であるかのように転倒されてしまう。
と言いながらその後に、
>さらに、今度はデリダについて言うと、デリダはたしかに「決定不能性」の哲学者ではあるだろう。(俺はデリダについて大して詳しくないが。)
と言って自分だって逃げているのでは?

toledtoled 2008/12/20 05:51 >iflancyさん

>自分だって逃げているのでは?

僕も今回のは難しかったので、6%くらいしか理解できませんでしたが、「俺」さんにとってそれが謙遜であることくらいは理解しましたよ。デリダ読んでないけど。デリダの入門書は読んでます(←入門書ならハードル高くないです)。その上で言いますが、デリダってたしかにそんな感じって気はします。ただ、デリダってのは「デリダが〜〜と言ってるから」とかいうのは正当化にならない、って人だと思いますが。

で、僕から見ると、その二カ所はすごーくスムーズにつながってるような気がします。6%しか理解してない僕が言うのもなんなんですが。。。

iflancyiflancy 2008/12/20 07:05 >toledさま

何というか上手く表現できているかわからないのですが、
わたしも謙遜と言うかその部類であることは理解できるのです。
でもこの手紙の筆者の方は前者の発言のほうで、
東浩紀が「自分が専門家じゃないからって逃げて」とおっしゃって批判されているように見えるので、
別に正しいとか誤読とかそういうことは関係なく、
はっきりと「僕はデリダはこういう哲学者だと思う」と意見を述べられたほうがよかったのではないかなと思いました。

自らが批判した(?)ロジックに乗っかるのはやはりわたしには不自然に感じられますが。
デリダがどう、東浩紀がどうという内容以前に、です。

でもそれだけのことです。
特に内容に深く言及しているわけではないのでここら辺で失礼させていただきます。
(実際足りないわたしの頭ではがんばってもすべてを理解するには重すぎる文章でした。おもしろかったのですが。)
お目汚し失礼致しました。

tari-Gtari-G 2008/12/20 08:33 toremokoさんはじめまして。このエントリー、とても興味深く読ませていただきました。ご紹介いただき本当にありがたく思います。

なにより、こういうまともな知性にであえると本当にほっとします。このほっとする感覚に最近触れることがすごく少なくなった気がするので、とってもオアシスな気分です(笑)

以下、いくつかのポイントについての感想。(勿論私の理解の程度についての留保はいうまでもないw)

●『一義的な真実など知りようがないとか、この世にはいろんな意見の奴がいるとか、これって要するに常識よね。

一般論として、思考の構え方はたしかにそこからスタートすべきだろう。でも例えば南京大虐殺について、自分は専門家じゃないからって逃げて、そこで止まっちゃったらダメだろ。一般的な前提に過ぎない事柄の確認が、あたかも結論であるかのように転倒されてしまう。

大体そんなことは、ポストモダンであろうがなかろうが、それこそずっと前から言われてたこと。』

そうそう。まさにその通り。

●『デリダに(よれば)決定不能性は、わからないと言って立ち止まるためのプレテクストではなく、「決定の条件」なわけだ。
・・・・・・
デリダには真理への希求がある。「歴史的真実とか言えなくなる」と言って傍観者の立場に閉じこもることは、「あらゆる真理を断念する当惑」ではないだろうか。デリダはただ「わからない」とは言わない。少なくとも、「おそらく」と言う。この「おそらく」には最大限の負荷がかかっている。ア・プリオリな真理など担保されることのない世界で、それでもいかに真理を語りうるか、という命題。』

ここまでは、ああー、なるほどなるほど、という感じ。こりゃわかりやすいな。

●『話は変わるが、ひとつ確実なのは、デリダを多少読みかじった程度の俺とは違って、東はデリダをほとんど読んで、ここで俺が指摘したような事情もわかっているはずだということ。
・・・・・
東がおそらくそれを理解していながら、わからない振りをするのはどうしてなんだろうか、と俺には非常に不思議。それとも彼は本当にデリダを、ただ単に誤読しているのだろうか。』

結局、「論語読みの論語知らず」、「ヘーゲル読みのヘーゲル知らず」と同様の「デリダ知らずのデリディアン」なんじゃないかな。あくまで、東本来の精神のあり方にとって使いやすい範囲でデリダを利用しているにすぎない、という印象をとてもつよく受ける。今の日本ではデリダはとても利用価値が高く、しかも難解だから使い勝手がいいということじゃないかな。

nsoderlandnsoderland 2008/12/20 09:57 石川氏の発言にて、知識が他者の心を傷つけている事について、分かりません。知識によって説得されたらよいのではありませんか。又は反論してその知識人を説得したら良いでしょう。

yk-tsu1184yk-tsu1184 2008/12/20 13:30 ちょっとした疑問があります。

東自身は、ドイツと中国の両方に実際に足を運び、
ドイツには虐殺の足跡を感じられるが、中国には
そういったものを感じなかったということをブログ
で書いていますよね?

以下は東のブログの引用http://www.hirokiazuma.com/archives/000465.html
  
  「きわめて私的な印象として、ガス室の有無はぼくとしては疑いえない。そりゃむろん、ポーランドのクラコフ郊外にあるあの膨大な敷地がすべて偽物でトゥルーマン・ショーだったといわれればどうしようもないけれど、そうでないかぎりで疑いえない。けれど、南京大虐殺の有無についてはそのような強い実感がない。」

これは、東自身の立場(決定)を表明していると考えてよいと思うのですが?

fractionfraction 2008/12/20 22:11 >yk-tsu1184様。一連の騒動ざっと見た感じでは東氏は
友情の関係上そう言わねばならない立場みたいです。
本人は南京で恐ろしい不法行為があったことは信じて
るみたいですが。で、友情も重要なのでそのあたりを
つつくのは野暮かと。問題は戦線を広げすぎた事です
ね、東氏が。

わがひとに与ふる哀歌わがひとに与ふる哀歌 2008/12/20 22:58 たんに政治的でないと言っているに過ぎず、デリダ理解、またポストモダン的人文知の東的習熟自体については異議がないわけですね。
なぜ政治的であらねばならないのか、なぜ政治というパワーゲームに参加せねばならないのか、それを説かなければ意味がない。的を射ることができていない。ナンセンス。
まあサルトルの研究者じゃ無理でしょうけど。

ちなみに、中国の「南京大屠殺記念館」は基本的にデマゴギーであり、プロパガンダのための施設であるという点に関しては、学術的にも十二分に理解されている状況ですよね。

ああああああああ 2008/12/20 23:51 あずまんが「決定不能性に安住」してるなんてどうして分かるんだよ。
あずまんだって真理を求めて<問いに付して>るのかもしれないじゃんか。

わがひとに与ふる哀歌わがひとに与ふる哀歌 2008/12/21 00:22 >ああああさん
だから決定不可能性を超克しなければならない理由が示されていないから、そんな反論も意味がない。
それに決定不可能性の超克が必要であるとしても、その方法がまた問題になるでしょうが、そこまで思慮深い「手紙」ではもちろんありません。

真理や正義といった無謬的価値/観が存在し得ない以上、判断・決定・決断はある意味においては至極単純なロマンであり、マルクス的に言えば命がけの飛躍です。
無根拠と可謬性を一顧だにしないロマンチスト、すなわちバカである必要がどこにあるのか、説明が必要なんですよね。

ああああああああ 2008/12/21 00:57 >わがひとに与ふる哀歌さん
「決定不可能性を超克しなければならない理由」は示されてるんじゃないか?
『暴力状況に対して沈黙を守ることは、客観的にはその暴力に加担することである』
要するに、「決定しないという態度も、ひとつの決定である」ってことだろう。紋切型で悪いけど。
この説明だと、「暴力状況」が存在しないなら決定不可能性を超克する必要は無いな。

わがひとに与ふる哀歌わがひとに与ふる哀歌 2008/12/21 01:15 「暴力」が悪であるということが自明になっているんですよ。
これを短絡といわずして何を短絡というんですか。
そもそも暴力とはなんなのか(今回の事態に関してはとくに重要)。
ベンヤミンを引用して事足りる問題であるのかどうか。
などなど。

決定しないのではなく、根拠がないから決定できない、なのではないですか。
「根拠がない」のは、コンスタティブなレベルの話です。

あらゆる価値の「絶対的相対性」については、可謬主義関連を。
ゲーデルもヒントになるでしょう。

ああああああああ 2008/12/21 02:12 何が暴力で何が悪なのかは重要な問題だと思うが、この手紙の人は「不正が行われていると思うなら然るべく対応しなきゃ食い物にされちまう」っていうレベルの話がしたくて(そしてそれがサルトル&デリダ的に正しいことを証明したくて)ダラダラ長文を書いたんだと思う。

>決定しないのではなく、根拠がないから決定できない、なのではないですか。
>「根拠がない」のは、コンスタティブなレベルの話です。
俺もそう思う。異論は無いよ。

tikani_nemuru_Mtikani_nemuru_M 2008/12/21 14:04 >わがひとに与ふる哀歌
>決定しないのではなく、根拠がないから決定できない、なのではないですか

はあ?
価値が相対的だと、事実認定ができないの?
この問題、単純に事実認定の話だろ。
「水にコトバが理解できるかどうか、根拠がないから決定できない」わけ?

わがひとに与ふる哀歌わがひとに与ふる哀歌 2008/12/21 17:05 >tikani_nemuru_M
バカとは言わない。
コンスタティブ/パフォーマティブという概念は東においても重要な鍵概念。
多少調べるくらいのことはしても損はないだろう。

それに南京事件も結局は東の言う通り「解釈ゲーム」に過ぎない。
期間や範囲の問題、捕虜の処刑をめぐる合法性・非合法性の議論、埋葬記録の扱い、戦闘による戦闘員
の死者の扱い、などなど。

「定説」にしても、これはコンスタティブに認定されるのではなく、パフォーマティブに、つまり政治的に、具体的いえば多数決的に、最も支持されたものが選択されるだけのこと。

そもそも、果たしてサヨク連中がヒステリックに戦う相手であるところの「否定論」とはなんなのか。
まずその辺をはっきりさせた方がいいだろうな。

tari-Gtari-G 2008/12/21 20:36 別にこれは南京事件に限ったことではないが、いくら「解釈ゲームだ」と叫んだところで、自らの政治的選択からは逃げられない。だからいくら隠そうとしても、それは滲み出てきてしまう(笑)

哀れとしか言いようがない。

「無知の知」気取り?「無知の知」気取り? 2008/12/21 21:03 >わがひとに与ふる哀歌 2008/12/21 17:05
>そもそも、果たしてサヨク連中がヒステリックに戦う相手であるところの「否定論」とはなんなのか。

それ何てカマトト?
東自身の発言を離れてアンタが「そもそも」に踏み込むことの是非ってどうなのか? という点はさておき、「否定論」がどのようなものかは昔っから何度も何度も蒸し返されてるでしょうが。加えて、それら「否定論」がどのような理由で否定されるのかという点まで史料批判は進んでいて、さらにそれに対する「再批判」は登場していない。
こうした経緯を全て無視して議論を保留するor新たにゼロから再開する、という選択肢はありえない。仮にそうするだけの理由があるというなら、印象論に留まらず、キッチリ論理的な批判を準備してからもそてもらわなきゃいけない。

わがひとに与ふる哀歌わがひとに与ふる哀歌 2008/12/21 21:35 >tari-G
わかってるじゃないか。その通り。
政治=パワーゲームの帰結としての強弱、優劣があるだけ。
たとえばマサクルなのかコンフュージョンなのか。
これは「真偽」ではなく解釈の問題。

>「無知の知」気取り?
じゃあ具体的に説明してみろよ(笑)。
何/誰と戦っているんだ?
秦郁彦は否定論者か?「南京大屠殺記念館」は虚偽で満ちているという者は否定論者か?

tari-Gtari-G 2008/12/21 22:15 やれやれ。
東君がまさにそれじゃないか(笑)
しかも、その解釈ゲームであることは前提条件の一つに過ぎないと、このメールの筆者は言っておるだろうに・・・。あほくさいのぉ。
だいたい、解釈の争いをストレートに政治性に還元し、しかもそれが多数決だなんて・・・高校生までにしておいてくれ(笑)
てか、秦郁彦なんかをもちだしてるし・・・

なんでこうアホはアホを呼び込むのだ。

わがひとに与ふる哀歌わがひとに与ふる哀歌 2008/12/21 22:30 >tari-G
誰を「信じる」のでもかまわない。笠原十九司でも誰の説でもいいだろう。
しかしそれは所詮、信念、党派的史観に過ぎず、可謬的、相対的なものなんだよ。
君にも俺にも東にも、正義はない。

tikani_nemuru_Mtikani_nemuru_M 2008/12/21 22:41 >わがひとに与ふる哀歌

チミはつくづく馬鹿だなあ
で、「水は人間の言葉がわかる」という解釈ゲームをしたり、あるいはそういう解釈ゲームが可能だとか、水が人間の言葉がわかるかどうかはパワーゲームの帰結だとか、そういう妄言を言い出したら馬鹿にされるということは理解しているかい?
チミが弄しているのは、その程度の中二の戯れ言さ。

正義の有無? ぶわっはっはっはっはー
チミや東が馬鹿で卑劣というだけだろ?
明らかな間違いは存在するのさ。
繰り返す、チミはただの馬鹿だよ。哀れな馬鹿。卑劣な馬鹿。

わがひとに与ふる哀歌わがひとに与ふる哀歌 2008/12/21 22:46 >tikani_nemuru_M
わかった。「真理」は存在する。君のために整理しよう。

12+21=33である ━━━ 真理・普遍・絶対・無謬・コンスタティブ・科学
殺人は悪である ━━━ 常識・一般・相対・有謬・パフォーマティブ・政治

これがわからなければ、君はバカということになる。

tari-Gtari-G 2008/12/21 22:57 え・・・・・
科学って真理なんだ(笑)
絶対で、普遍で、無謬なんだ(笑)

すっげー(笑)(笑)(笑)

わがひとに与ふる哀歌わがひとに与ふる哀歌 2008/12/21 23:01 >tari-G
まあ、よく考えることだ。

tari-Gtari-G 2008/12/21 23:13 ぶはw

そうか?(笑)
とりあえず、君の方はサイエンスの中身についてどっかで勉強し直した方がいいと思うよー。

しかし、このうっちゃりだけは完全に予想外だったな。やられたなー(笑)

わがひとに与ふる哀歌わがひとに与ふる哀歌 2008/12/21 23:23 バカは怖い。東もそう思っただろうなぁ。

tari-Gtari-G 2008/12/21 23:28 えー、明らかに勉強不足じゃん。
てか、東君もそんなこと言ってるの?
すごーーーw

tikani_nemuru_Mtikani_nemuru_M 2008/12/22 09:01 >わがひとに与ふる哀歌

チミの整理はまったくダメ、0点。顔洗って出直しな。
科学論の入門書くらい読んだら?
というか、ネットで入手できる程度の科学についての基本知識がまったくなってない。
東擁護の馬鹿が、なんか深遠なことをいってそうでまるで勉強不足だということがはっきりとした典型例だね。

「無知の知」気取り?「無知の知」気取り? 2008/12/22 12:12 >わがひとに与ふる哀歌 2008/12/21 23:23
君の垂れ流す妄言は東氏にとって「後ろ弾」にしかなってないですね。
「ポモ」というお題目だけで満足してると、かくも自滅的な知的退廃にさえ警戒心が働かないのか。本当に気の毒だなあ。いやはや勉強になりました。

わがひとに与ふる哀歌わがひとに与ふる哀歌 2008/12/22 17:16 だめだこいつ……

そういえば東はこんなことを言っていたな。

>ポパーとかファイアーアーベント(引用者註 : ファイヤアーベント)とかクーンとか、読んでみたらいいと思う。
>ちなみにぼくはもともと科学史・科学哲学出身でね。

どれだけの人間がこのやりとりに目を通しているかわからないが、
どちらに理があるか、分があるかは彼らが彼らなりに考えるだろう。
バカサヨクのバカサヨクたる所以を彼らにプレゼンできたと思う。

tikani_nemuru_Mtikani_nemuru_M 2008/12/22 17:34 >わがひとに与ふる哀歌

ばーか
ポパーなりファイヤアーベントなりクーンが、チミのような馬鹿丸出しの整理をしていたとでもいうのなら文献をあげてみろ。
自然科学の理論は仮説なんだにゃ。そもそも、帰納的方法で真理にはたどり着けるわけにゃーだろ? ホントになんにもわかってにゃーんだね。
気が向いたらチミの妄言をブログでとりあげて晒しあげ、あざわらってあげるから感謝しろ。自分の馬鹿と無知を勉強不足を恥じるほうがいいぜ。

いっとくけど、チミにとってベストの選択は、このまま黙って遁走することだよ。
忠告はしたぜ(げらげら

わがひとに与ふる哀歌わがひとに与ふる哀歌 2008/12/22 17:40 「12+21=33である」、「殺人は悪である」という命題間の質的差異について理解できず、
感想も持ち得ないから本質的な議論から逃げるのか?

せめて一言くらいなにか書いてみてはどうかな。

tikani_nemuru_Mtikani_nemuru_M 2008/12/22 19:07 >わがひとに与ふる哀歌
自分の馬鹿を宣伝してそんなにたのしいの?
「12+21=33である」
これは数の定義にかかわる問題。よって真理にきまってるだろ。

「殺人は悪である」
これは価値命題。倫理哲学なんかで問題になる命題にゃんね。

ところが、自然科学仮説はチミのあげた2つの命題と直接は関係にゃーんだよ。
チミはまったくもって何もわかってにゃーの。チミが一方的に馬鹿をさらしてるの。

わがひとに与ふる哀歌わがひとに与ふる哀歌 2008/12/22 19:16 で、コンスタティブであることとパフォーマティブであることの違いはわかったか?
コンスタティブに正義を語り得ないこと、君自身の相対性、可謬性について自覚できたか?
君の判断が単に党派的なものに過ぎず、その限りにおいて君にとっての反対者とまさに等価であることについて。

tari-Gtari-G 2008/12/22 20:32 Feyerabendの名前までだして科学は真理だといっちゃうんだ・・・。
すごいなぁ・・・。

そうなると、私も是非勉強したいので、私としてもまずは君と同様の主張を展開している文献を是非提示してほしいなぁ。
簡単だよね(笑)

でもさ、「12+21=33である」は、本当に解釈とは無縁だと思うの?

>で、コンスタティブであることとパフォーマティブであることの違いはわかったか?<

あのさ、非常に基本的質問で申し訳ないんだが、これさ、ディスクリプティブ/ノーマティブとは、どう違うの?

あ、あとさ、一番基本的なことかもしれないけど、君のここでの主張は、東君のものと全く同一と考えて良いの?(笑)

tikani_nemuru_Mtikani_nemuru_M 2008/12/22 20:53 >わがひとに与ふる哀歌
ねえねえ、なんでそんなに馬鹿なの?
僕がいつ「正義」を問題にしたわけ? 僕は事実認定のことしかここでは言ってにゃーのだが。
で、
「君自身の相対性、可謬性について自覚できたか?」という質問なんだけど、僕は正義について話してにゃーので、その質問の意味なんてにゃーことがわけだ。

さて、これでチミからのくだらにゃー質問には答え終わったかにゃ?
質問すればするほど、チミの馬鹿がはっきりするね。

チミの整理がまったく見当外れであることは理解できた?
匿名とは言え、自分の馬鹿を宣伝して楽しかった?

わがひとに与ふる哀歌わがひとに与ふる哀歌 2008/12/22 22:04 to : tari-G , tikani_nemuru_M

基本的な姿勢について。
なぜ枝葉に逃げたがる?
本質から逃げずに上の問いに真摯に向き合えよ。
なによりもまず、俺以外の人間の視線も意識するべきだろう。別に高尚なことではない。もっとカッコつけろ。ええカッコしいであれ。
俺しか見ず、俺から逃げ仰せることができればそれでいい、この場をやり過ごせればそれでいいとしか考えていないじゃないか。
易々とこれほどまでの不様を晒すことができるのは、他者の視線を意識できていないことの証左だ。
君(たち)はまともな反論ができない自分に苛立っているだろう。しかし粘り強く考えることだよ。
自分の相対性、無根拠性に耐えるためにも必要な試練だ。

to : tikani_nemuru_M

>僕がいつ「正義」を問題にしたわけ?

東の言動が正義に悖ると考えたからこそ首を突っ込んで来たんだろう?
高橋哲哉に指導を受け、博士号ももらったのにサヨクでない、決断しない、ヘタレだ、気に入らない、云々。

で、東の言動のどこに事実誤認=間違いがあったんだ?

コンスタティブなレベルの問題とパフォーマティブなレベルの問題を無知故に混同していたことについて反省したなら、
「水にコトバが理解できるかどうか、根拠がないから決定できない」わけ?
などと口走ってしまった自分が恥ずかしくなっただろう。しかしそれが成長なんだよ。

「無知の知」気取り?「無知の知」気取り? 2008/12/22 22:50 >わがひとに与ふる哀歌 2008/12/22 22:04
>なによりもまず、俺以外の人間の視線も意識するべきだろう。別に高尚なことではない。もっとカッコつけろ。ええカッコしいであれ。
とりあえずいまの君は、全く空気を読めてなくて、猛烈にカッコ悪いですね。

>で、東の言動のどこに事実誤認=間違いがあったんだ?
南京大虐殺をわざわざ引き合いに出して、「言論の自由があるから、虐殺否定論者の発言も場を与えられてしかるべき」とのたまったことですね。
南京大虐殺が「あったかなかったか」は、既に研究者の間では決着のついてる議論。この点に関して、いまさら「否定論者」の出る幕なんかない。だから「事実誤認」なんですよ。
ていうか、「虐殺否定論者に発言の場を与えるべき」なんて発言は歴史修正主義と紙一重の言説であって、まともな人文系の学究なら当然、それが「人前で言うべきじゃないこと」だと、理解してなきゃいけない。そういうことを敢えて言うのであれば、何らかの根拠なり主張なりがあるべきだし、またそうした発言が世にどう受け止められるかということも予期していてしかるべきなのに(それが予期できないなら発言なんてするんじゃねえよ!)、東氏は小物ぶりを曝け出した幼児的な対応を見せたために、大きく株を下げたわけですね。

で、これ以上「後ろ弾」を連射することは、君にとっても東氏にとってもプラスにはならないと思うんですが。

tikani_nemuru_Mtikani_nemuru_M 2008/12/22 22:57 >わがひとに与ふる哀歌
そうかそうか、自分の馬鹿を宣伝するのは楽しいか(げらげら
年末で忙しいのですぐには書けにゃーのだが、3〜4日中にこの件についてエントリをたててあげよう。
僕のブログはコメ欄を開放しているので逃げにゃーようにね。

ああ、いっとくけど、僕が問題にしているのは一貫して事実認定の部分だよ。
動機については何も言ってにゃーんだがね。僕が何も言ってにゃー僕の動機についてチミが何を妄想しようが何の意味もにゃーのさ。

>東の言動のどこに事実誤認=間違いがあったんだ?

それを指摘しているのが、「水からの伝言」との絡みだけど、チミが馬鹿すぎてわかってにゃーようだ。
ここのやりとりでの「本質」って、チミが無知で馬鹿で何もわかってにゃーというだけのことだよ。チミさ、この件について自分にまるで分がにゃーことが本当にわかんにゃーのであれば、人前で発言することは以降はつつしんだほうがいいと思うぜ。

僕がここでチミに対して発言したことは、すべて訂正の必要はにゃー。

で、チミは自分の発言を好きなように訂正しておきな。ハンデがありすぎる(げらげら

わがひとに与ふる哀歌わがひとに与ふる哀歌 2008/12/22 23:11 to 「無知の知」気取り?

だから何度も言うように、それは「真偽」の問題ではないので、「間違い」などそもそも生じません。
あなた自身の党派的価値観にそぐわないから気に入らない、というだけのことであり、
あなたが無謬で東が有謬、あるいはその逆、という事態はあり得ないのです。
あなたにできるのは、(すでに実践しているのであろうところの)党派抗争だけです。勝てるといいですね。

12+21=33である ━━━ 真理・普遍・絶対・無謬・コンスタティブ・科学
殺人は悪である ━━━ 常識・一般・相対・有謬・パフォーマティブ・政治

↑についてよく考えてください。

しかしバカは怖い。ほんとうに。


to tikani_nemuru_M

結局東の言動の何が事実誤認なのかも指摘できないのか……。呆れるより他ないな……。

ほとぼりが冷めれば俺が矛を収めて消えると思うなよ。

tari-Gtari-G 2008/12/22 23:55 いやあのさ、もしも枝葉に見えてるとしてもそれは君とかだけで、こっちは大事なことを聞いてるんだもの。
つまりこれも解釈の話でしょうに・・・。そんなこともわからんのかなぁ。
解釈ってもの自体がわかってないのかな・・・

で、さっさと質問への回答よろしく(笑)
分かってれば数秒でできる筈の簡単な答じゃないか。
逃げる必要なかろ?(笑)

わがひとに与ふる哀歌わがひとに与ふる哀歌 2008/12/23 00:17 12+21はいくつかという問いに対する答えは、解釈の仕方によって、時と場合によって、政治的立場によって異なるのか。
なるほど。



バカは怖い。本当に怖い。

tari-Gtari-G 2008/12/23 00:32 ぶw 
記数法だけでも違うものになるのに(笑)

頭イタイよ・・・

わがひとに与ふる哀歌わがひとに与ふる哀歌 2008/12/23 00:37 to tari-G

君はもうネタ持ってないようだな。
まぁ、最初から内容のあることは言っていないが。

tari-Gtari-G 2008/12/23 00:49 何進法と解釈するかだけで、全く違うものになるんですけど(笑)

てか、そんなに逃げないといられないの?
いいから早く答えたら?(笑)

tari-Gtari-G 2008/12/23 01:11 1+1=2
1+1=10

例えばこれらなんか、同じなの?違うの?(笑)
正しいの?間違ってるの?(笑)

1111+111

ってのは、いったいいくつなの?

それは全て解釈次第ってこと、わかる?(笑)


で、君は、「いや、おれが言ってる解釈というのはそういう意味の解釈じゃないんだよ。違う意味の解釈なんだよ。」って言うのかな?w

でもそうなると、「解釈」を巡って、「俺の解釈」、「おまえの解釈」という異なる解釈があって、正しさを競うことになるよね?
この意味分かる?(笑)

わがひとに与ふる哀歌わがひとに与ふる哀歌 2008/12/23 01:12 バカは怖い。本当に怖い。

tari-Gtari-G 2008/12/23 01:29 結局全質問から逃げただけー♪
かわいそうにー(笑)

tikani_nemuru_Mtikani_nemuru_M 2008/12/23 11:20 >わがひとに与ふる哀歌
>ほとぼりが冷めれば俺が矛を収めて消えると思うなよ。

きゃー、すてきー
遅くとも年が明けるまでにはエントリあげるから、ぜひぜひ逃げずにおいでくださいませですにゃー
僕は弱いものいじめが、だいだいだーいすき♪

tari-Gtari-G 2008/12/23 12:10 たぶんもう出てこないんじゃないかな。
この手のタイプって粘りがないし、自己完結が好きだから。

わがひとに与ふる哀歌わがひとに与ふる哀歌 2008/12/23 18:26 >tari-G

ヘリクツに逃げた時点でおまえはアウト。もういいよ。

tikani_nemuru_Mtikani_nemuru_M 2008/12/23 19:02 ぶわっはっはっはっはー
反論できない馬鹿の典型的な負け捨て台詞「ヘリクツに逃げた」
みっともねえええええええ

ヘリクツで逃げてみろよ>馬鹿
チミにはそれすらできにゃーだろ?>馬鹿
なんつったって、「科学は真理」だからよー

まあ、とにかくエントリあげて弄ってやるからさ、絶対に逃げるなよ>馬鹿

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