歴史を捻じ曲げる日本の司法
原田 実

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※はじめに


本論考は、現代の裁判において、その審理の動向を恣意的に操作し、あからさまな虚偽を正当化する論法をまかりとおらせることで、社会を欺こうとする者(それは司法関係者に限らず原告・被告・証人などの中にさえありうる)がいることを明らかにし、世に警鐘を鳴らさんとするものである。また、今後、裁判官が、保身のため、面子のために虚言を弄することを辞さない者の無責任な証言に騙されることのなきようにとの願いを込めての執筆でもある。

 

 『東日流外三郡誌』裁判

 

最近、テレビでは弁護士などの法律家を招き、法廷や法律相談所を模して進行するといった態のバラエティ番組が多い。その原因としてはもちろん訴訟大国たるアメリカの娯楽番組に学んだということもあるだろうが、もう一つ、隠れた要因として、日本の国民もそろそろ実際の法廷が、本来は厳粛な場であるぺきにもかかわらず、一歩間違えば茶番劇にもなりかねないことに気づきつつあるということもあるのではないだろうか。

さて、実際にはその手のバラエティ番組と現実の法廷には大きな違いがある。なぜならテレビで筋が通らない判断を示した法律家はタレントや観客のブーイングにさらされるが、裁判所ではいかに非常識・没論理な判決を下したとしても、裁判官はその権威を失うことはないからである。

法曹界はそのような現状になんらの反省も示さず、その結果、法曹界の自己認識と国民意識との乖離はますます広がっていくような感がある。

読者は『東日流外三郡誌』という本をご存知であろうか。記紀において、神武天皇の東征軍と闘ったとされるナガスネヒコが実は敗死することなく東北・津軽の地に逃れ、そこに一大王国を築いた。そしてナガスネヒコ一族の子孫の血統は古代末期の安倍氏、中世の安東氏、近世の秋田氏(三春藩主)と脈々と受け継がれ、朝廷や時の幕府に抵抗し続けていたと主張する文書群である。

文体は稚拙で、前後の矛盾も多く、これが現代人の創作として発表されていたならおそらく見向きもされなかっただろう。

しかし、その文書群が江戸時代、寛政年間ごろに書かれたものという体裁をとっていた上に、それが1975年、市浦村(青森県)の村史資料編という、れっきとした自治体発行の史料として世に出たために過大な社会的影響力を持つようになる。

この文書群は反中央・反体制・反天皇の史書として、オカルトライターや、共産党・新左翼などのアジテイターにもてはやされただけではなく、一般の歴史ファンの耳目をも集め、さらには一部マスコミ(NHK、朝日新聞、共同通信など含む)にも、真正の古文献として受け入れられるにいたったのである。

特にNHKはテレビで『東日流外三郡誌』に好意的、かつ内容的にはデタラメな番組を制作・放映しており、その普及に大きな役割を果たした。

『東日流外三郡誌』がマスコミに受けた理由としては、まず、この文書群のキャッチフレーズ「縄文の怨念が甦る」「何故に東北は差別の長い歴史をつづらねばならなかったのか?」(佐治芳彦『謎の東日流外三郡誌』徳間書店、1980、表紙カバーより)などが、70年代後半〜80年代前半の風潮に合っていたからということがあるだろう。一口に言えば、全共闘運動挫折後の左翼の敗北感が、爆弾闘争などの暴走を招く一方、左翼運動の限界を感じた一部活動家が「革命」への新たな指針を求めて、オカルトや『古史古伝」と呼ばれる異端の歴史書に関心を示し始めた時代である。

さて、この文書群を所蔵していた和田喜八郎氏(1999年9月没)はそれが昭和20年代、自宅の天井を突き破って落ちてきた長持の中に隠されていたものと主張していた。

だが、『東日流外三郡誌』には江戸時代にはありえないような用語や学説の引用があるため、80年代において、すでにその信憑性を疑う声もあがっていた。

そして、1993年、複数の研究者の間から『東日流外三郡誌』の筆跡が和田氏のものと一致したとの鑑定結果が発表され、その偽作はほぼ確定的となったのである。

また、和田氏の親族や知人の間からも、和田氏の自宅そのものが江戸時代の文献が隠されているような古いものではない、という証言も出されていた。そもそもその家は1941年に建てられたもので、しかも古いものを隠して置けるような空間がその家には存在しない、というのである。

ちなみに和田喜八郎氏の没後、この家は競売にかけられ、親族の和田キヨエ氏が落札された。私は和田キヨエ氏の許可を得て、家を調査し、大量の文書群を長年隠しておくことなど構造上不可能なことを確認するにいたった。

また、キヨエ氏は、喜八郎氏が天井裏の長持が落ちてきたと称していた時期、この家に住んでいたことがあるが、そのような事件は実際にはなかった、と証言しておられる。

ちなみに『東日流外三郡誌』に見られる語で、江戸時代にありえないものの中には、「民活」(民間活力・民間活性の略、第二次中曽根内閣時代の流行語)のような世相を反映したもの、「冥王星」(1930年、アメリカの天文学者トンポーが発見した惑星の名「プルートー」の訳語)、「準星」(1964年、電波天文学の発達で発見された新しいタイプの天体に対し、天文学者ホンイェ・チューが行った命名「クエーサー」の訳語)のような現代科学用語などが見受けられる。
また、「仕掛人」(作家・池波正太郎の造語、TV時代劇のタイトルに用いられて以来普及)、「闘魂」(プロレスラー・アントニオ猪木氏のキャッチフレーズ、猪木氏はこれを登録商標にまでしている)、さらには「ふるさとには歌がある…」というかつてのTV人気番組『ふるさとの歌祭り』(NHK総合)オープニングナレーションのほぼ全文引用などからは真の作者(すなわち和田氏)がTVの見過ぎであったことがうかがえる。

そもそも、現代科学用語をその初出時に頓着することなく、歴史的文書の偽作に用いてしまうということ自体、その真の作者の科学知識が、深い学識と言えるものではなく、せいぜいTVの科学番組の聞きかじりに基づいていたことを示しているのではないか。

さて、1976年頃、在野の古代史研究家・野村孝彦氏は『東日流外三郡誌』の存在を知り、その古文献には自らの調査テーマと関連する記述があるのではないか、と考えた。

和歌山県那智勝浦町や奈良県生駒市などには、通称「猪垣」という長大で古い石垣が見られる。野村氏はそれが古代の遺跡かも知れない、として新聞発表の論文などで調査の必要性を唱えていたのである。野村氏は『東日流外三郡誌』所蔵者すなわち和田氏に連絡をとり、和田氏の希望に応じて、その新聞掲載の論文とともに、猪垣の写真を送った。

ところがその後、和田氏の著書『知られざる東日流日下王国』にその猪垣の写真が無断で掲載された。しかも、本来の所在地ではなく、青森県山中の「耶馬台城」の写真である、との説明が付されていたのである。さらに1980年代以降に増補された『東日流外三郡誌』には、明らかに野村氏の論文を下敷きにした文書が含まれていた。和田氏の主張通り、『東日流外三郡誌』が古くから伝わっていた文書だとすれぱこのようなことはありえない。

野村氏はその事実を知って以来、数ヶ月の間、和田氏に事実をただしたが埒が開かず、1992年、写真盗用および新聞記事の著作権侵害に対して民事訴訟を起こしたのである。

だが、『東日流外三郡誌』についてはそのころすでに、熱烈なシンパができていた。その中にはマスコミ関係者や流行作家まで含まれていたが、中でも筆頭にあげられるのは1970年代に朝日新聞社から『「邪馬台国」はなかった』『失われた九州王朝』のベストセラーを出した異色の古代史研究家・古田武彦昭和薬科大学教授(当時)である。

古田氏は『東日流外三郡誌』擁護の論陣を張るだけではなく、そのカルト的人気で形成した自らの支援組織を動員し、さらにマスコミをも操作してこの裁判を被告側、すなわち和田氏の有利に導こうとした。しかし、実際には古田氏の主張は、事実の捻じ曲げと詭弁・強弁の積み重ねにすぎなかった。和田氏はその偽書『東日流外三郡誌』などを小道具にさまざまな詐欺行為を重ねており、古田氏は結果としてその共犯者となっていたのである。

以上の経緯について、くわしくは拙著『幻想の津軽王国』『幻想の荒覇吐秘史』(いずれも批評杜)および共著『津軽発「東日流外三郡誌」騒動』(批評杜)『日本史が危ない!』(全貌杜)をご高覧いただきたい。

ちなみに古田氏については、その論争と法廷闘争の最中、真作説の裏付けとなる「古文書」の偽造を業者に依頼したという疑惑が浮上し、その学問的・社会的信用は大きく失墜するにいたった。とはいえ、古田氏はいまなお支援組織内部では支配力を維持しており、また、事情を知らない人々の間では元大学教授の肩書きと知名度がいまだにモノをいうのも確かである。

それはさておき、裁判の動向だが、青森地裁での一審判決は写真盗用について野村氏の主張を認め、被告側に損害賠償金20万円を課したが、論文盗用については、似てはいるが著作権侵害とまではいえないとした。仙台高裁での二審では論文盗用の主張については一審を踏襲したものの、写真盗用については一審の損害賠償金20万円がさらに倍増され、この種の著作権裁判としては異例の高額40万円が課せられることになった。これは原告すなわち野村氏側の実質勝訴である。

なお、野村氏の論文と、和田氏が古文書と称して活字化したものの関係だが、実際には、地名や登場人物、文体を変えただけで、両者の内容・表現は共通している。最近の盗作事件として、ある歴史作家が2002年に発表した小説に司馬遼太郎の作品と類似した個所があることが問題となり、さらに同じ作家が翌2003年に発表した小説でまたもや別の司馬作品との類似が指摘され、2年続けて出版杜が自主回収する羽目に陥ったという騒動があったが、その基準を当てはめるなら、野村氏の論文が和田氏によって盗作されたということは否定のしようがない。したがって、それを翻案・盗用とまではいえないとした青森地裁・仙台高裁の判断にはやはり問題があるといえよう。

また、仙台高裁の判決文には「(『東日流外三郡誌』の)偽書説にはそれなりの根拠がある事が窺われる」とあり、随所に「前記(『東日流外三郡誌』)の記述が本件論文(野村氏の新聞寄稿)にヒントを得たという余地はあるにしても、これを翻案したものであるとまでは直ちに認めることはできない」という表現がある。これはこの法廷での審理が実質、偽書説に立ったものであったことを示している。『東日流外三郡誌』が古くから伝わっていた文書だとすれば、後代の論文に「ヒントを得たという余地」を認めること自体、ナンセンスだからだ。

なお、野村氏は、後述の15里と60キロの対応という社会慣習を問うとともに、歴史的文書の偽作という行為そのものが、民法の基本理念である公序良俗に反するものであり、それを著作権法で保護されること自体の是非が問われるべきではないか、また昭和の新聞に掲載された論文を副窃して、江戸時代の文書なるものを偽造することに現行の著作権法が適応できるか否か、などの観点から、それらの問題に踏み込まなかった青森地裁・仙台高裁判決は不十分であるとの立場であるとの立場をとり、仙台高裁が偽造文書の場合の著作権法の解釈の運用について、踏み入ることなく何らの判断も示さなかったことについて、最高裁に上告したが棄却された。

ただし、民事裁判の場合、最高裁では新たな事実に基づく審理ではなく、二審までの判決の妥当性を問うものであるから、すでに勝訴した側からの上告が軽んじられることはありうるのである。

和田氏側の弁護士は二審判決直後、高裁が明確に翻案と断定しなかったことをもって、マスコミに勝訴宣言を行い、古田氏も支援組織内部に真作説の勝利を宣言する一方、1997年10月17日付・朝日新聞青森版で「真偽論争に終止符(真作説の勝利)」という内容の記事を掲載させたが、これはいわゆる大本営発表の類にすぎなかった(朝日新聞青森版は98年3月10目付の紙面で訂正記事を掲載)。

ところが法曹界では権威ある文献とされる『判例タイムズ』、その976号(1998年9月1日号)でこの判示事項は次のように記されているのである。

「一、       学者でも職業的写真家でもない古代史研究家が山中で古代遺跡と信じる石垣を撮影した写真が、著作物として保護された事例

二、ある書物の全部がある者の偽造にかかるという前提の下に、その書物の一部分がその者による他の文書からの剰窃・盗用・翻案であるという主張がなされている場合でも、結論を導くのに不可欠でない限り、全部が偽造であるという前提の当否につき判断する必要はない。

三、アマチュア古代史研究家が熊野地方の古代遺跡と信じる石垣の現状をその写真とともに新聞に発表した文章が、東日流外三郡誌及ぴ東日流六郡誌なる出版物の一部に瓢窃・盗用・翻案されたとする著作権侵害の主張が斥けられた事例」

私は証人として、実際にこの裁判に関わった者の一人だが、その立場からするとこの判示事項記述にはすでに事実誤認や原告側への偏見が含まれているように思われる。そもそも野村氏は猪垣を「古代遺跡と信じる」と主張したわけではなく、古代遺跡である可能性をも踏まえて調査の必要がある、と提言したのである。

また、判示事項一の「学者でも職業的写真家でもない古代史研究家」というくだりは、二審判決で著作権侵害に対する賠償額を原告の請求よりも軽減した理由の一つ、「控訴人はいわゆるアマチュアの古代史研究家であって、その撮影にかかる写真も学問的ないし芸術上の高い評価を得ているとはいえないこと」に対応している。つまり、アマチュア研究者の写真は学問的、芸術的に重要なものではないから、その著作権侵害に対する賠償もたかが知れているというわけだ。

『判例タイムズ』の判示事項記述は、仙台高裁判決におけるアマチュアヘの偏見を引き継ぎ、さらにそれを強調するものである。

それはさておき、『判例タイムズ』では具体的な判例提示の前に、無記名の「解説」が付されている。この「解説」そのものがやはり、偏見と事実誤認に満ちたシロモノなのである。ちなみに古田氏の支援組織の機関誌はこの「解説」を引用し、「専門家による第三者としての解説だけに、同裁判の性格を知る上で貴重なものである。同時に、偽作論者(原田実氏ら)の判決評価が虚勢であったこともうかがえよう」「専門家による客観的な解説であるだけに、偽作論者の“勝利”キャンペーンはその声高な主張とは裏腹に、一層空しく響いている」と評している(「『東日流外三郡誌』裁判の判決解説・判例タイムズが紹介」『古田史学会報』第28号、1998年10月18日、署名は編集部)。

以下、その「解説」から問題の個所を引用してみよう。

 

※破綻した諭理

 

「この事件が上告審判決で決着が付いた時、X,Y双方はそれぞれ勝利宣言をした旨報じた新聞記事があった由である。Xは判示事項一の通り写真関係では終始勝ったのだし、控訴審で賠償額も倍加したのだから、Xの勝利宣言はある意味では当然であろうが、他方五○○万円ほか謝罪広告・訂正広告・指摘部分削除等の請求中、認容されたのは四○万円だけである。訴訟費用の負担も一・二審を通じ四分の三がX負担とされた。それを不満としての上告棄却も例文却下となったのであるから、Y側の実質勝利宣言も無理ないところがある。

この事件の甲号証は二百号証を超えたという。判決文から窺われる事案の寸法からはちょっと考えられない数字であるが、結局本件訴訟におけるX側の狙いは“写真’’“論文”を手掛かりにして裁判所に『東日流外三郡誌』の偽書性を肯認させようとすることにあったことからの現象であろう。裁判所が判示事項二のように述べてその判断を回避した段階でその狙いの大半は失われた筈であるが、もし、判示事項三が全部排斥でなく、七項目中一つでも瓢窃・盗用の判断が出ていたら、判示事項二にもかかわらず、X側は実質上狙いを一論理法則上“偽書でない”という全部否定は一部肯定で崩せるから一達することもできた。その意味では、控訴し上告しても偽書説への手掛かりを全然残せなかった点で、実質的敗訴感はXの方が大きかったであろうと思われる」(文中、Xは原告―野村氏側、Yは被告―和田氏側)

まず、野村氏が最高裁に上告した理由が、賠償額や訴訟費用負担を不満としてのものでないことは先述の通りだ。そして、そのことは野村氏の上告理由書に明記されている。この無記名の解説者は、野村氏の上告理由書をよく読んでいないか、意図的に読者をミスリードしようとしているかのどちらかである(ちなみに野村氏の上告理由書は拙著『幻想の荒覇吐秘史』および『日本史が危ない!』に全文掲載されている)。さらに言えば、この無記名の解説者が自分では裁判記録を読みこむことさえなく、他者の受け売り、あるいは依頼によってこの「解説」を書いた、という可能性さえ想定できるのである。

また、判示事項二の扱いについても、論理が破綻している。歴史的文書を称するある書物の一部にその自称する年代よりも後世の著作からの剰窃・盗用があるとしても、その全体が偽作であるとは限らない、ということは一般論としてはなりたつかも知れない。しかし、そのような場合においても、少なくとも、その剽窃された個所だけは後世の偽作なのは明らかなのである。

また、そのような書物に現代人の著書からの剽窃・盗用が含まれていることを証明するには少なくともその個所だけは現代人の偽作であることを前提としなくてはならない。そして、その書物の全体が現代人の偽作であることが証明できれば、その前提も満たされるのである。なお、『東日流外三郡誌』現代人たる和田氏の偽作であるということは先述の筆跡の一致という一事をもっても明らかであろう。

そもそも野村氏側で提示した証拠が200号証を越えたということ自体、『東日流外三都誌』の偽作性を示す根拠がいかに多いか、ということである(なお、提出する証拠が多くなった理由については他にも理由があるが、それについては後に譲りたい)。

そして、論文の剽窃・盗用についての審理が偽作説の方の妥当性を認める形で行なわれたのは先述の通りだ。

現代人の論文からの剽窃・盗用を証明するには、歴史的文書と称する物の(少なくともその該当個所に関しての)偽作性を示さなければならないが、その文書が偽作だからといって必ずしも剽窃・盗用と言い切れるとは限らない。

したがって、裁判所が剽窃・盗用とまではいえない、と判断したことは、それだけでは決して偽作の否定にはならないのである。『判例タイムズ』の『解説」はその点で論理的に破綻している、もしくは、法廷での審理そのものの矛盾(真贋論争に立ちいらない、としながら偽作説の妥当性を認めている)を逆手にとって意図的に諭理を混乱させている。

また、この裁判を通じて、野村氏側が裁判所に提示した事実はことごとく『東日流外三郡誌』の偽作性を裏付けるもの、もしくは和田氏や古田氏の証言の虚偽を明らかにするものばかりである。したがって「偽書説への手掛かりを全然残せなかった」というのは明らかに事実に反しているのである。

こうなると古田氏の支援組織が主張するように、この無記名の解説が本当に「専門家による第三者としての解説」「専門家による客観的な解説」といいうるものかさえ疑わしくなってくる。

そもそも『判例タイムズ』という権威あるとされる出版物に、被告側の一方的な言い分に近い内容の解説が掲載されたということ自体、そこに被告側に近い立場の人物の意思が介在しているとみなすぺきではないか。


 ※三内丸山遺跡と『東日流外三郡誌』


この無記名の解説者の実際の立場は、まずその「解説」冒頭の記述からうかがうことができる。

「東日流外三郡誌という、ふりがながなければ読めぬ奇妙な名前の大部の文書が青森県の旧家和田家に伝えられ、各種伝承の外、従来の日本史に知られぬ古代東北文化が記されているとして活字化されたが、間もなく現当主であるY(被告・被控訴人・被上告人)が先祖の筆跡と称して偽作したに過ぎないという偽書説も説かれ、古代日本における畿内政権一元観を排して多元史観を取る古代史家の支持もあれば、その批判者からの攻撃も鋭く、知る人ぞ知る論争がたけなわである。平成六年青森市三内丸山から思いがけず発掘された大規模な縄文集落遺跡が右文書の裏付けとなるかどうかも、関心を惹いた」 

そもそも和田喜八郎氏の家が「旧家」などではなかったことは親族の方や近所の人が皆知るところである。旧家だと言い張っていたのは、和田氏自身とその言い分を真に受けた『東日流外三郡誌』の信者のみであり、事実関係を確かめもせずにこのように書くこと自体、この無記名の解説者の立場を疑わしくするものである。

文中、「古代日本における畿内政権一元観を排して多元史観を取る古代史家」とあるのは古田武彦氏のことである。どうしてここで、古田氏の学説の内容がくわしく語られているのだろう。問題の文書を支持する「古代史家」の学説がどのようなものであろうと裁判そのものとは関係はないはずである。

さらにこの一見余計な記述のために「批判者」が「攻撃」(この表現も学術的な議論にそぐわないが)しているのが、その「多元史観」なるものなのか、『東日流外三郡誌』への支持なのかまぎらわしくなっている。

 また、なぜ、裁判とは関係ないはずの三内丸山遺跡に関する記述が唐突に出てこなくてはならないのか。そもそも真作説の裏づけにしようにも、三内丸山遺跡がある現青森市三内方面に関する記述は『東日流外三郡誌』には一切存在しない。

実は、三内丸山遺跡が発見された時、その遺跡が『東日流外三郡誌』と関係があるといって騒いだのは、古田武彦氏だったのである。古田氏は、三内丸山遺跡と関連付けるために『東日流外三郡誌』の片言隻句にこじつけの解釈をつけては支援組織の機関誌に発表した。

それはマスコミや学界から相手にされなかったが、古田氏とその支援者たちはその黙殺について、「国民の知る権利の侵害だ」と憤っていたものである。当時はまだ健在だった和田氏は、家伝の古文書の中から三内丸山遺跡の縄文集落を描いた絵が後から出てきたといって、古田氏の支援組織などを通してその写真を公表したが、それはあまりにも当時、マスコミに流布していた想像図に似ていたため、失笑を買ったのみであった。

つまり、この冒頭の文章は無記名の解説者が古田氏の支持者の一人であることを疑わせるものなのである。この『判例タイムズ』の記事が古田氏の支援組織の機関誌にいち早くとりあげられた理由もよくわかる。

さらにそう考えると、この「解説」において、この訴訟に、原告側の表向きの理由(著作権侵害に対する賠償請求)とは別の目的があったとして、「結局本件訴訟におけるX側の狙いは“写真”‘‘論文”を手掛かりにして裁判所に『東日流外三郡誌』の偽書性を肯認させようとすることにあった」と決め付けている理由もよくわかる。というのは、古田氏は「畿内政権一元観」に立つ歴史学界が、陰謀によって「多元史観」をつぶそうとしているという被害妄想にかられており、さらにその妄想は支援組織内部にも蔓延しているのである。

彼らの発想からすれば、本件の訴訟は「偽書キャンペーン」の一環であり、その真の目的は古田氏の社会的信用の失墜、ひいては「多元史観」つぶしにあるというわけである。

実際には、多元的な視点というのは現代の古代史学界に広く受け入れられており、古田氏の専売特許でもなければ、学界で古田氏一人が目の仇にされるような必然性もない。最近の古田氏の社会的信用が失墜しているのは事実だが、それはもちろん古田氏がありもしない陰謀の犠牲になったからではなく、もはや誰の目にも明らかな偽書を後生大事に支持し続けているからである。

また、野村氏は裁判における争点は、『東日流外三郡誌』全体ではなく、その一部(「東日流耶馬台城」など)における著作権侵害であることは明言しておられる。それを真の目的は古田つぶし、「多元史観」つぶしにあると邪推するのは古田氏とその支援者の被害妄想であり、その妄想を共有している以上、無記名の解説者のこの裁判における立場は明らかであるし、さらにはその解説者が原告側の文書に本当に目を通したのか、裁判の全体像を理解しようとしたのか、さえ疑わしむるものである。

しかし、古田氏は無記名の解説者を通して、法曹界では権威ある業界誌に、自らに有利な解説を掲載させることに成功した。この判例がその解説込みで、今後の司法界で影響力を持ち続けるであろうことを思えば、この顛末は古田氏の方こそが陰謀家としての才を示したものといえようか。『判例タイムズ』としては、今からでも、この『東日流外三郡誌』裁判の解説が書かれた経緯について、責任をもって調査すべきではないか。

余談だが、古田氏の支援組織にはいわゆる「学者」は含まれておらず、古代史の世界においてはみなアマチュアの愛好者ばかりである(古田氏自身はその組織の正規の会員・役員ではなく、組織を実質的に主宰しながらその運営への責任を負わない、という立場をとっている)。その機関誌で、この『判例タイムズ』の記事を賞賛するということは、彼ら自身(アマチュア)の著作権を軽視する判例とその解釈を容認するということなのだが、彼らはその矛盾に気づいてはいないらしい。

また、一般論として、ある特定の文書について、法律上の著作権侵害がたとえ生じていなかったとしても、そのこと自体は、その文書が偽書ではない、という証拠たりえないことは、法律知識以前の常識であろう。『判例タイムズ』の無記名の解説者や、古田氏の支援組織の人々は、それが分かっているのだろうか。それを百も承知の上での強弁なら、ひどい話だし、気づきもしないのなら単なる非常識である。

古田氏とその支援組織の陰謀論への傾斜については前掲拙著『幻想の津軽王国』『幻想の荒覇吐秘史』、古田氏の三内丸山遺跡論と和田喜八郎氏提出の三内丸山遺跡の絵、及び、それへの批判については拙著『幻想の多元的古代』および共著『と学会年鑑BLUE』(太田出版)を参照されたい。

 

※15里は60キロにあらず?


この「解説」にはまた、二審判決について、特にこの問題が特記されている。

「なお、二審裁判長小林啓二判事は、最近の本誌九六九号(六月一五日号)巻頭に“証拠排斥根拠としての『不自然・不合理』について”と題して、事実認定上の“流れ”に留意する必要性を述べ、“裁判官にとって唯一のといってよい表現手段”である判決の“文章と用語に”“もっと神経を行き届かせるようにしたい’’と語っている。判文中、東日流外三郡誌の指摘箇所と“論文”との著作物としての同一性を判断する記述(例えば、二・7での六○キロメートルと一五里の問題)などを読む上での参考になるであろう」

ここは一種滑稽な記述である。なぜなら、この六○キロメートルと一五里の問題」は二審判決での事実認定状の「流れ」が捻じ曲げられ、証拠排斥根拠そのものが「不自然・不合理」に陥っている典型的な個所だからである。つまり、判事がこの引用文中で示した建前上の理想と、彼白身の現実との乖離がもっとも如実に現れている個所なのだ。だからこそ、この解説でも、ことさらにその個所に言及し、あたかも判決は判事の建前通りに進んだかのように強弁しているのである。

ここで取り上げられているのは、野村氏の論文に現れる猪垣の長さが「およそ60キロ」であるのに対し、和田氏が古文書と称して活字化した文書の中に、「熊野山中十五里之石垣」などといった記述が見られることである(なお、これは野村氏の論文と『東日流外三郡誌』等の間に多数ある内容の一致の一例にすぎない)。

ちなみに、野村氏の論文には『私が五万分の一の地図に記した石垣の総延長は、現在までの段階でおよそ60キロメートルにおよんでいる。徹底的に調べれば、まだ延びるかも知れない」と記しており、「熊野山中十五里之石垣」とはあくまで論文執筆時の暫定的数値であるものを、確定値と誤解した和田氏による粗雑な盗用に他ならない。

本当に江戸時代の人物が独自に猪垣を測量したのなら「十五里」という数値は出てこないだろう。現に野村氏自身、その後の調査で猪垣の長さが100キロ以上あることを確認している。もし、野村氏の調査より前、たとえば江戸時代に猪垣の全長を測った者がいれば、その人は「二十五里」以上の長さ書くだろうし、偶然、この時点での野村氏の調査結果と同じ長さを記すとは考えにくい。

そもそも、和田氏が古文書と称するものの内容は元の論文で野村氏の行動として記されたものを架空の江戸時代人の行動に置き換えただけでストーリーが一致しており、その依拠性は明らかである。

ところが、これについて仙台高裁の二審判決は次の論法を展開した。

「『熊野山中十五里の石垣』との記述については、本件論文の六○キロメートルに及ぶ石垣という記述と、石垣の長さの点において、一里を三・九二七メートルとして換算すると約五八・九キロメートルとなり極めて類似するものということができるが、熊野山中の長大な石垣の長さを江戸時代に書かれたとされる文献において表現するとすれば、自ずと限られた範囲内での一定の数値を採用するほかはないのであるから、その中で一五里という数値が採られたからといって、これが控訴人の本件論文の記述に依拠しているものと直ちに推論することは困難である」

回りくどい悪文だが(小林判事のいう、用語・文章に「神経を行き届かせる」とは意味を韜晦し、解釈を難渋させるということか?)、簡潔に言い直せば、「十五里」は約五八・九キロメートルだから、六○キロそのものではない、それが近似した数値なのは偶然の一致かも知れない、ということである。

この論法が判断回避のための詭弁であり、数宇の遊びにすぎないことはすでに拙著『幻想の荒覇吐秘史』で指摘した。戦後生まれの人にとって、「里」という距離の単位には実感がともなわれず、メートル法の方が身近なものとなっているが、もともとそれは生活に密着した度量衡の一部だった。

「足で歩いた昔の旅は、一里というのが基準で、これが日本人の旅の感覚を支配してきた。ふつうの足どりで小一時間、一休みしたくなる距離だし、一里塚などの休み場もそろっていた」(小泉袈裟勝『歴史の中の単位』総合科学出版社、1974)。

この感覚は遠足の道のりを里で換算した戦前・戦中の「小国民」にまでは残っていたものである(野村氏も和田氏も「小国民」世代)。この世代にとっては、メートル法の方が実感をともなわない度量衡であり、それをうけいれるためには一里=4キロという概算を覚える必要があった。一里=3・927キロのはずだというのは、メートル法を基準とする立場からの発想であり、この裁判に関していえば、原告・被告双方の実感から遊離した思考と言わざるを得ない。

試しに戦前の教育を受けた世代の方に「60キロは何里か」と聞いてみるとよい。十人が十人とも「15里」と答えるだろう。一里=3・927キロという数字を持ち出すのは、裁判官の常識の欠如を示すものか、判断を回避するための詭弁か、あるいはその両方によるものだろう。

そして、この詭弁が論文盗用に対する原告側の主張を斥ける根拠の一つとされ、さらに古田氏の支援者と思しき『判例タイムズ』の無記名の解説者によって肯われているわけである。この点については、もはや仙台高裁そのものが古田氏の支持勢力として、ひいては和田氏の詐欺行為の共犯者として取り込まれていたといっても否定できないのではないか。

さて、学間の世界ではしばしば同じ問題について、ジャンルごとでの「定説」が異なる、という現象が起こりうる。

日本での最近の顕著な事例としては、日本列島では60万年前から高度な技法による石製刃物やヘラ状石器が用いられていたとする考古学界と、原人の脳や手の構造上、そのようなことはありえないとする人類学界との対立があった。2000年11月、前期旧石器遺跡捏造の発覚によってこの対立は一応の終止符を打つ。それまで捏造遺跡を支持し続けてきた考古学界が大打撃をこうむったのは周知の通りだ。

『東日流外三郡誌』は明白な偽書として、もはや歴史学界をはじめとするほとんどの学界やマスコミから相手にされなくなっている。しかし、『判例タイムズ』のように「権威」ある文献での解説となると、それ自体がいかに非常識・非論理的な内容であろうと、法曹界における「定説」として機能する。

つまり、法曹界でだけは、『東日流外三郡誌』を偽作とみなす証拠はない、という主張が「定説」として踏襲され続けるわけだ。

古田氏とその支援組織としては、法廷戦術上、一定の成果を納めたといえるのだろうが、後世に嘲笑されるのはその成果を容認した法曹界そのものである。

※古田武彦氏の情報操作について

 

古田武彦氏によるマスコミ等への情報操作、およびその古田氏が擁護する『東日流外三郡誌』の危険性に関しては、すでに多くの書籍・雑誌記事・論考などにおいて指弾されてきたところである。しかし、社会がその問題を十分に認識するにはいまだ至っていない感があるのも否定できない。

『東日流外三郡誌』がすでに偽書であることは明らかにも関わらず、今もなお信奉者が絶えないのは、古田氏の情報操作の手腕によるところが大きい。

さて、ここでたとえ話をしよう。あなたがある人物から勝負を挑まれたとする。その人物は挑戦すると同時に、自分を中心にぐるりと円を描いた。そして、「この円は相撲の土俵だ。あなたは土俵の外にいるからすでに私の勝ちは決した」と言い出したらどう思うだろうか。その上、その人物が取り巻きを集め、一方的に勝利宣言してはしゃぎ始めたら

子供の世界でも通りそうにない屁理屈だが、実に古田氏はこの種の勝利宣言を繰り返すことで古代史ファンの人気を集めてきたのである。古田氏にはそれを可能にするだけのレトリックとカリスマ性とが備わっていた。

たとえば、1970年代に古田氏の名を高からしめた「邪馬壹国」説。現存刊本の『三国志』魏志倭人伝では、3世紀の倭国の都の名は「邪馬壹(壱、一)国」とある。

しかし、同じ国名が『後漢書』倭伝では「邪馬臺国」、『梁書』倭伝では「祁馬臺国」とあり、さらに『隋書』倭国伝ではわざわざ「魏志にいう、邪馬臺」と明記されている。したがって、中国正史全体の中での史料批判を行うなら、この国名は本来「邪馬臺国」と表記されており、現存『三国史』刊本の「邪馬壹(壱、一)国」や現存『梁書』刊本の「祁馬臺国」は書写時の誤写か、版刻時の誤刻が定着したものと考えるのが妥当である。

ところが古田氏は『三国史』に「邪馬壹(壱、一)国」とある以上、本来の形も「邪馬壹(壱、一)国」だったはずだと言い続けた。そして、史料事実に基づいてその説に反論した研究者に対し、真実に目をふさぐ者との罵言を浴びせ続けたのである。

つまり、関連の中国正史全体の中で考えるべき問題について、古田氏は『三国史』の記述を絶対視することで土俵を作り、さらには行司気取りで軍配を自分に上げ続けた、というわけだ。このようなことが古代史上の多くのテーマで繰り返されたのだから、まともな古代史研究者の多くが次第に古田氏を遠ざけることになったのも止むを得ないところだろう。

その具体的事例については次の書籍を参照されたい。

 

高木彬光『邪馬壹国の陰謀』日本文華杜、1978。

安本美典『邪馬壹国はなかった』新人物往来社、1980(徳間文庫、1988)。

久保田穣『古代史のディベート』大和書房、1994。

安本美典『虚妄の九州王朝』梓書院、1995。

原田実『幻想の荒覇吐秘史』批評杜、1999。

原田実・『幻想の多元的古代』批評杜、2000。

 

さて、文献史料について、自説に有利になるように恣意的な読みや解釈をほどこしても、それを読む側が原典にあたって調べれば、その手口は次第に理解できるようになる。

したがって、20年前ならともかく、現代のように情報環境が整った状況下で、古田氏を支持し続けるのは、自分で文献を調べる手間を惜しむ人か、その欺瞞を承知で古田氏の名声を利用しようというさもしい輩ばかりである。

古田氏はさらに現存する人の発言についても、文脈を捻じ曲げ、あるいは本人が言ってもいないことをも捏造して、利用することがある。たとえ、そのことが本人の耳に入ったにしても、名誉や利害に大きく関わることでない限り、なかなか抗議されることはない(面倒な上に誰しも些細なことで角を立てたくはないものだ)。

さらに社会的信用のある人や有名人(大学教授、TVタレントなど)を相手にあらかじめ不正確な情報を与え、あるいは誘導尋問めいた質問を行なうことで、自説に有利な発言を引き出し、それを利用することもある。もっともこの場合、古田氏に利用されるのを承知でわざと調子を合わせてご機嫌取りの発言を行なう人物もいるので、そうなるとどっちもどっちである。

また、古田氏はマスコミを利用するのにも長けている。マスコミ各社で特に古田氏に協力的だったのは朝日新聞で、同紙が『東日流外三郡誌』裁判の最中に、和田氏を援護するような虚報を掲載したのも、古田氏の関与あってのことと思われる。

古田氏は70年代から80年代初頭にかけて朝日新聞社から幾冊もの著書を出しており、その中にはベストセラーになったものもある。さらにそれらの著書は朝日文庫にも収められ、いまなお同社から発売されているというわけである。また、古田氏はかつて同社主催の古代史シンポジウムにも、パネラーとして何度も招かれている。言うなれば朝日新聞社こそ、古田氏に「古代史の大家」としての箔をつけ、世に送り出したメディアだったのである。

さて、週刊誌などで朝日の捏造記事を取り上げる際には、十年一目のように伊藤律会見記と沖縄のサンゴ写真ばかりが引き合いに出されるが、それではまるでこの2例以外に対した捏造はなかったかのようである。実際にはあの程度の捏造は朝日では珍しいことではないし、それが発覚してもなかなか訂正しようとせず、頬かむりしてしまうことも多い。

あの2例はたまたま発覚した際の騒ぎが大きかったというだけのことなのだ(拙稿「朝日新聞に頻発する考古学を巡る大誤報」『正論』2000年10月号、参照)。

戦時中の朝日が、あらゆるメディアの中で最も戦意高揚と情報統制に積極的だったのは偶然ではない。世間には、正確な事実の報道よりも耳触りの良いウソを好む人は多い。そうした人々が朝日のシェアを支え続けてきたのである。

むろん、朝日の中にも良心的な社員はいて社内改革に努めているのだが、同社はいまだにそうした個々の社員の努力を無に帰しかねないような体質を保ち続けており、そこに古田氏のような人物のつけいるスキも生じるのだ。

さて、『東日流外三郡誌』裁判に関して出された朝日の恣意的な記事に対しては原告の野村氏側からの抗議があり、朝日側も結局は非を認めて訂正記事が出されることになった。

その際、野村氏は朝日側に、古田氏による情報操作の手法を説明し、さらにその記事を転用禁止処分にすることを約束させた。さらに、真の訂正は朝日自身により、『東日流外三郡誌』の実態を調査し、それを社会に明らかにすることであるとの要望を伝えた。

しかし、朝日側と野村氏側とで何を取り決めたにしても、古田氏がこのような取り決めに耳を貸そうとする人物ではない、との予測もなされてはいた。

案の定、この取り決めの後も、古田氏およびその支援者の著書には、この朝日の虚報が引用され、あるいは若干の表現を変えるだけでその要旨が掲載され続けたのである。その中には現職の朝日新聞記者、U氏の著書まであった。つまり、古田氏とその支援組織はその訂正記事が出てもなお、自らに有利な虚報を利用し続け、さらに朝日は自社と市民との取り決めを無視する社員に対してさえ、何ら有効な手が打てなかったのである。最初からモラルのない人物に対しては、ルールやマナーにもとづく取り決めなど効力を持ちようはずはなかった。

なお、新聞記事を議論の根拠にすえる場合、後に訂正記事が出ているなら、その前の記事だけを根拠とするのは不当、というのが常識的判断というものだが、自らに都合のよい報道を一方的に流布することで、自分たちに有利な方向に議論を誘導しようとするのは、古田氏およびその支援組織がしばしば行なう情報操作の手法である。

余談だが、このU記者は和田氏と古田氏にとってきわめて重宝な人物であった。なにしろ、U記者は和田氏と古田氏のいうことなら、それがいかに奇怪な内容であろうと、裏をとろうともせずに信じ込み、特ダネにしようと邁進したのである。

1993〜94年ごろに、和田氏はこのU記者を介して、朝日新聞社から大金を騙し取ろうとしたことがある。すなわち、和田氏は「和田家には聖徳太子が編纂した「天皇記・国記」という史書の現物が伝わっている、それを朝日で買い取って記事にしてはどうか」とU記者に持ちかけたのである。

U記者は証拠文書のコピーなるものを手に、朝日新聞大阪本社でその話を伝え、実際に金銭も支払われたが、当時、同社の編集委員には古代史・考古学に造詣の深い高橋徹氏がいた。高橋氏はその話に呆れて、断るように上申し、結局、「天皇記・国記」買い取りという話は御破算になった。これは和田氏が朝日新聞社相手に金銭詐取目的で仕掛けたれっきとした詐欺事件ではなかったか。和田氏に支払った金銭を取り戻すことができたにしても、詐欺未遂には違いない。

この椿事は朝日の社内だけで処理されたが、その事件以降も和田氏の偽古物詐欺の被害者や、偽書の信奉者が新たに生じ続けたことを思えば、これを公表するだけでも、和田氏と古田氏および『東日流外三郡誌』の胡散臭さが世に明らかになり、引いては多くの人をその毒牙にかかる危険から守ることができたはずである。この点については、朝日は自社の面目を守るために、社会の公器としての責任を自ら放棄したといわざるを得ない。
朝日新聞の青森支局はこの裁判の最高裁判決が出た直後にも、本文で和田氏側に有利な内容を書き、和田氏側の弁護士のコメントを付するという一方的な記事を掲載(後に訂正記事を掲載)しており、裁判終結まで古田氏寄りの姿勢を保ち続けた。

ここで朝日が示したある意味での無責任さが、野村氏も含め、多くの人の人権を脅かしたわけだが、その後も朝日はこの問題を追及する様子はない。日頃、紙面で人権擁護を唱えている朝日だが、同社にとって、守るべき人権を持つ者は、朝日の暗黙の方針によって選ばれた者だけということだろうか。「権威」とは何かについて、その主張するルールに自らは従わなくとも許される立場を意味する、という皮肉があるが、その意味では朝日新聞はれっきとした「権威」である。

古田氏の議論にもまた、自ら設定して人に押し付けたルールを自らは守ろうとしない傾向がある。古田氏もまたその意味において立派な「権威」である。古田氏の、自らの誤りを認めない、その名誉を傷つけるものは(たとえ非が古田氏側にあったとしても)決して許さないという傾向は常人の想像を超えるものがある。そのためには、虚偽を述べることも、人を貶めることも辞さないところがあり、そのために古田氏に関わった多くの人が傷つけられてきた。

その古田氏の名誉欲、独りよがりの「真実」への執着心、「正義」をきどるポーズ、自らの支持者に向ける巧みな甘言などは、古田氏自身と同様「権威」を気取るもののプライドをたくみにくすぐるものがある。そこに朝目新聞も『判例タイムズ』も魅せられたとみることができよう。

自業自得の面があるとはいえ、彼らもまた古田氏に関わったために名誉を傷つけられた被害者である(もっともその周囲には朝日新聞や『判例タイムズ』の記事に傷つけられたさらに多くの被害者がいるわけだが)。

今後の彼らに課せられた義務は自ら古田氏や和田氏に関する事実関係を調査・確認し、さらにそれを社会に公表していくことだろう。それが公器としての良心というものである。

さて、古田氏の謀略好きと偽証癖については、先述の出版物にすでに指摘されたところだが、それが昂じると、自説の裏付けとなる偽の「証拠」を握造するまでになる。

『東日流外三郡誌』裁判の最中には、古田氏は当時広島在住の古物商に依頼し、江戸時代のものに見えるような「古文書」を偽造しようとさえした。その古物商は古田氏の目的を怪しんで、古田氏の筆跡の依頼状と古田氏が支払った200万円の受取コピーを週刊誌に持ち込んだため、ことが公になったのである(「昭和薬科大学“有名教授”に噴き出した“古代史偽造スキャンダル”」『アサヒ芸能』1994年9月29日号、他)。

古田氏は自らが一度主張した説は、たとえ史料事実に反することが明らかになっても、その誤りを決して認めない(認められない)という性癖を有する。しかし、その個性ゆえに、カルト的な支持者は、古田氏に対し、決して誤らない人との信頼感が抱けるのである(実際には「誤らない人」ではなく、「謝らない人」にすぎないのだが)。そして、その支持者の前では、古田氏は常に勝ち続けなくてはならない。

古田氏はその強烈な名声欲から、大学教授やベストセラー作家などの有名人に好んで論戦を仕掛けてきた。そして、相手がその頑迷さに呆れて論争を止めると、古田氏は一方的に勝利宣言をする、それを読んで支持者は喝采する、という図式が成立していた。

『東日流外三郡誌』裁判が始まったあたりからは、支持者の中からも呆れ果てて去る者が続出したため、かえって今残っている支持者の熱烈さはもはや信仰の域に達している。少なくとも彼らと古田氏との間には合理的精神が介在する余地はない。

  さて、普通の人は古田氏のこのようなキャラクターを説明されても、すぐには信じ難いかも知れない。

しかし、目的は手段を正当化するという思考は多くのイデオロギーにみられるものであり、特に、古田氏に類似した言動は、戦後日本の進歩的文化人、極左活動家、急進派の労働組合指導者などの間にはむしろ普遍的にみられるといってよい。

たとえぱ、つい最近まで、北朝鮮は地上の楽園だ、とか、日本人拉致の話は公安のでっち上げだ、とか宣伝していた輩である。ただ、古田氏の議論はその対象が古代史の領域に集中しているため、なかなかウソがぱれにくいというだけのことである。

古田氏が『東日流外三郡誌』について始めて明確な支持を表明した著書は『真実の東北王朝』(1990)だった。また、古田氏の著書(共著)には『古代史の「ゆがみ」を正す』(1994)というものがある。古田氏には、現在流布している、歪んだ(と古田氏が思い込んでいる)古代史像を正し、「真実」を広める、という目的意識はあるのだろう。その目的(古代史界の革命!)のためには敗北は許されないし、いかなる詐術・策略を用い、偽証や史料握造、その他の不正行為に走り、さらには他人の人格や信念を蔑るにしても、その目的の正当性ゆえに許される、という思考に陥っているようである。

ただし、その古田氏の目的意識は卑小な(またある意味では肥大した)自己顕示欲とないまぜになっている上に、根本的な矛盾をはらんでいる。そもそも虚偽の主柱なくして支えられないような「真実」など、ただ滑稽なだけではないか。偽書に基づいた「真実」を維持するには、無理の上にも無理を重ねなければならない。

ウソはよくない。特に「真実」を装ったウソはよくない。それは発覚した場合にその主唱者自身(たとえば古田氏)の信用が失われるという理由だけではない。そのウソが、信じ込んだ人々、あるいはさらに利用しようとする人々の間で一人歩きして、主唱者自身も思いも付かない結果を招くことになるからだ。たとえば麻原彰晃はオウム真理教開教当時、すでに世間に流布していた「古史古伝」と呼ばれる偽書や、「予言」を称するデマの類を教義に取り込み、そのクーデター思想を正当化していたが、「古史古伝」や「予言」の偽作者たちは、将来、自分のウソが、地下鉄にサリンをまくような殺人集団に利用されるとは思っていなかっただろう。

『東日流外三郡誌』裁判は単に原告・野村氏と被告・和田氏の間での民事訴訟というよりも、野村氏と、被告代理・古田武彦氏との法廷闘争としての側面もあった。違いといえば、野村氏がウソはいけないというルールを自らにも課し、その一つ一つの主張に事実に基づく明確な根拠を示そうとしたのに対し、古田氏側は審理を自らの有利に導くためには、いかなるウソも辞さないという態度を貫いたことだろう。そのため、古田氏が一つウソをつくと、野村氏側はそれを否定するために証人を探し、資料を集めて書面にまとめるということを繰り返さなくてはならない。古田氏のほんの数行のウソに対抗するには膨大な労力と紙数を費やすことになるのである。

一見、バカバカしい話のようだが、少しでも放置した論点があると、古田氏はそれを持ち出し、嵩にかかってくるのだから、結局は古田氏のぺ一スに付き合わざるをえない。結局、古田氏のウソはことごとく暴かれているのだが、それは後世に虚偽を残すまい、とする野村氏の努力と熱意の賜物であった。その野村氏も、裁判後には古田氏に関わったおかげで人生の計画を狂わされた、と述懐しておられる。原告側の提出した証拠が200点を超えた理由の一つには、この古田氏の偽証に対する反証の必要性があったわけだが、『判例タイムズ』の無記名の解説はそうした実情を伏せて、読者に原告側への邪推をかりたてさせるような表現を用いたことになる。解説者の人間性までも疑わせる行為だが、それはこの無記名の解説者の立場を推測させる一つの傍証にはなるだろう。

古田氏の詐術には、他人の言葉を引用する時にその発言の意図や内容を自らに有利なようにすりかえる、という手法があり、その事実関係を確認できない(もしくは確認しようとしない)人はあっさり騙されてしまう。

さらに『東日流外三郡誌』裁判では、古田氏は和田氏という職業的詐欺師を支援したまま一歩も引こうとしなかったため、和田氏のウソにさらに輪をかけたウソを際限なくつかなけれぱならなくなった。

この裁判では、『東日流外三郡誌』が世に出た経緯を追及するため、発見者を称する和田氏の、その発見時点までの経歴が問題とされたことがあった。

和田氏は1927年1月生まれであるに関わらず、陸軍中野学校で小野田少尉と同期だった、とか戦時中はビルマで国王の影武者を務め、終戦直後はフィリピンのモンテンルパに抑留されていた、さらに戦後は皇宮警察に所属した、故郷に帰って警官となった、などと称していた。和田氏は晩年、東北各地で、それらの「体験」に関する講演を行っていただけではなく、その「手記」を掲載した軍事情報誌が白衛隊の売店で堂々と売られていたのである。もちろん内容はデタラメで、少しでも現代史に関心がある人なら、おかしいと思ってしかるべきなのだが、「終戦秘話」などといわれると意外と信じてしまう人も多いのだ。

さて、裁判当時、読売新聞青森支局にいた南原務記者は、この証言を不審に思い、和田氏に会見して真相を追究、結局、和田氏自身、中野学校にいたことはない、と認めたことがあった。

ところが古田氏は和田氏自身がその虚偽を認めた後も、なおも和田氏が中野学校にいた可能性を裁判所に認めさせようと、詭弁を弄し続けたのである。すでに本人が否定しているものを法廷で「真実」と「証明」しようというのだからもともと無理があるのだが、それを否定しておかなけれぱ、またぞろ和田氏が中野学校出身だったということが既定の「事実」にされてしまいかねない。かくして、野村氏は古田氏の詭弁への膨大な反証を集め、法廷に提出される証拠の書面はまたふくれあがることになった。

また、和田氏は一時、警友会(元警察関係者の親睦会)の理事をしていたことがある。ところが、実際には和田氏は警察官だったことはなかった。むしろ詐欺の常習者として、別の意味で警察の世話になっていたのである。

しかし、古田氏は和田氏自身が警友会理事だったのだから、詐欺師のはずはないと主張し、その証拠の名簿なるものを提出した。
 実際、和田氏が理事として記録された警友会名簿なるものは実在する。しかし、その名簿作成の後、和田氏を逮捕したことのある警察官が定年退職して、警友会に入ることで、和田氏の経歴詐称が発覚、即刻除名処分となっていたのである。

和田氏の手口は大胆にして粗雑、しかしガードが甘い上に詐欺にひっかかったことを表沙汰にするには気位が高すぎる相手を選んで食い込んでいくのがその特徴だった。

古田氏はすでに和田氏が元警察官だった、というのがウソなのは判明しているにも関わらず、その警友会名簿を振りかざし、さらに終戦後に東京で皇宮警察に所属していたから青森県警では知られていなかっただけだと言いつのった。これは単に荒唐無稽なだけではなく、先述のモンテンルパ云々の話とも矛盾しているわけだが、古田氏も和田氏もその場さえしのげさえすればよいとでも思っていたのか、この新たなウソを押し通そうとした。

そのウソを否定するためにはまた膨大な書面が必要になる。野村氏側の石岡恒久弁護士の努力で、警友会でもこの事態を重く見、幹部会員を集めた上、現職の県警本部長を招いての臨時の会合を行い、和田氏の詐欺行為を改めて確認した。その結果は文書としてこの裁判における原告側の証拠に加えられている。

弁護士の中には、自分の仕事は黒を白と言いかえてでも依頼人の権利を守ることにある、と思い込んでいる人も一握りながらいるようだ。そのような弁護士が横行する司法界では古田氏のようなキャラクターは、水を得た魚のようにその才能を発揮することができる。それに対抗するには確かな事実の積み重ねしかない、という原告側の姿勢が200通以上の書面を生んだのである。

というわけで、『東日流外三郡誌』裁判の原告仰の証拠が膨れ上がったのは被告側の人々、特に古田氏の態度に大きな問題があったからなのである。ところが『判例タイムズ』解説にはそのことは指摘されていない。この解説は被告側(和田氏、さらにひいては古田氏)の立場に立って原告側(野村氏)を論難するものである。朝日新聞と同様、『判例タイムズ』も古田氏の口車に乗せられたか、この無記名の解説者が実は古田氏の支持者だったか、どちらにしてもその公正さに疑問が持たれるところである。

ちなみに大きな詐欺が成功するには、「善意の第三者」としてのメディアを巻き込んで、その社会的認知度、信頼性を高めておく必要がある。NHK、朝目新聞、共同通信、そして『判例タイムズ』などは和田氏の側に立つ報道を行うことで、結果的にその詐欺行為に加担したことを認めるべきだろう。過去の誤りを糺し、改めてその事実を検証・報道しない限り、これらのメディアは結果として和田氏の詐欺の共犯者であり続けるとともに、『東日流外三郡誌』裁判の原告・野村氏の人格を不当に貶め続けていることになるのである。

この件に限らず、司法界とメディアに改めて間われているのは、モラルの問題である。ウソが横行する現実に対して、社会の自浄作用を高めるには、まずこの両者が率先して、真実追及という本来の使命に目覚めることである。ウソの常習者はいつの世にもいるが、その被害拡大を防ぐのは、そのウソに進んで加担するまい、とする人々のモラルなのではないか。

さて、古田氏は古代史ファンの間では論争好きということで知られている。また、特に支持者の間では、古田氏は論争で負けたことはない、と信じられている。しかし、実際には古田氏が乱発した新説のほとんどは論争の過程で論破されており、学界で受け入れられた説はほんの少数にすぎない。ただ、古田氏は執拗な粘りと、詭弁・強弁のくりかえしで論争を挑み続け、相手が呆れて降りた時点で勝利宣言するだけである。この粘りと詭弁・強弁が基礎知識のない人に向けられるなら、古田氏の一方的なペ一スで話が進むのはやむをえない。

たとえば、古田氏は共同通信の新人記者の経験不足と功名心とにつけこみ、ある神社の奉納額の鑑定結果から『東日流外三郡誌』の真作が裏付けられたという記事を書くように巧みに誘導したことがある。その記事は『東日流外三郡誌』問題への関心が薄かった(したがってチェックの甘い)名古屋支局から配信され、複数の新聞に掲載された。その直後、共同通信名古屋支局は、掲載した各紙に先の報道を事実上否定する内容の記事を掲載するよう依頼連絡を行わなければならなくなった。

また、やはり裁判の最中、TBSのある番組が『東日流外三郡誌』に好意的な内容を放送、その直後に事実を知って、今度は同じ番組で『東日流外三郡誌』が偽書である旨、報じたことがある。古田氏はTBSに執拗に抗議したあげく、TBSがそれに応じないとなると放送の許認可権を持つ通産大臣に手紙を書き、TBSを屈服させようとした。その手紙には『東日流外三郡誌』偽書説がもとで和田家の子供がイジメにあっている、と記されていた。その当時は学校でのイジメが原因となっての子供の自殺が相次いでおり、社会問題に敏感なところを見せたわけだ。

しかし、子供のイジメを引き合いにだして真相の追究をやめろというのは、問題のすり替えであるとともに、子供を人質にとるも同様の卑劣な行為なのだが、それだけ古田氏は自らの面子を守るために追い詰められていた、ということなのであろう。さらに和田家の親族も含めた関係者への聞き取り調査では、この時期、和田家の子供に関してはイジメの問題はなかったことが判明している。古田氏のこのウソはその同じ時期に本当に深刻な状況下に短い命を絶たなければならなかった子供たちへの冒涜である。

なお、この裁判では仙台高裁判決に対する上告から異例の速さで最高裁判決が出されたが、それについても古田氏が、裁判官に手紙を書き、ありもしない子供のイジメを持ち出して、ことを有耶無耶にしようとした結果ではないか、との疑惑がある。

なお、『東日流外三郡誌』裁判が始まるまでは、古田氏は自らの鑑定眼を信じており、『東日流外三郡誌』は真正の古文献の可能性が高いと信じていたようだ。古田氏も、職業的・常習的詐欺師の和田氏にとっては、ガードが甘い上に詐欺にひっかかったことを表沙汰にするには気位が高すぎるという格好のカモの一人だったのである。だから、古田氏は和田氏のいわば代理人として、すすんでその偽書との「冤罪」を晴らす役を買って出た。多少は怪しいところはあるにしても、いつもの論争のやり方で引き分けに持ち込める程度のものとたかをくくっていたのかも知れない。

しかし、裁判が始まるとともに、『東日流外三郡誌』があまりに杜撰な偽書であること、和田氏が詐欺師にすぎないことがたちまち明らかになり、その上、古田氏は自らの社会的な面子や支持組織内での権威を守るためには、もはや引き下がりようのないところまで深入りしていた。そこで、古田氏は被害者もしくは無意識の共犯者の立場から、意図的な共犯者、さらには和田氏以上に積極的な詐欺行為の加害者の立場に転じることになった。その結果、古田氏の詭弁・強弁、さらに偽証は従来の議論よりも露骨なものとなり、筋の通らない屁理屈やあからさまな虚言をくりかえすことになったのである。

それがかえって、理性ある人に古田氏の過去の言動にまで疑惑を抱かせることになり、過去の論争でも同様の行為を行っていたことは白目の下にさらされるようになったのは、この裁判におけるささやかな成果の一つだったかも知れない(拙著『幻想の多元的古代』前掲、参照)。

なお、この裁判において、原告側は『東日流外三郡誌』などについて、活字化し、書籍として流通する以前の底本、すなわち「写本」と称するもの(実際には和田氏の書いた「原本」そのものと思われる)を一度も法廷に提出しようとしなかった。その「写本」を鑑定して、それが昭和初期なり大正、明治時代のものであると証明できれば被告側の勝訴は確実だったにも関わらず、である。

真正の古文献との確信があれば、その「写本」を裁判所で鑑定してもらえばよさそうなものだが、彼らはそれができなかった。やはり偽書であることを承知していたと考えざるをえない。

しかし、裁判所の方でも、その被告側の態度を重視してもよさそうなものだが、高裁判決でそのことがまったく触れられていないところをみると、やはり裁判官の側にも真贋の判定には関わりたくない、との判断が働いていたのだろう。

さて、野村氏が最高裁判所への上告で訴えたことは、野村氏、和田氏、そして古田氏の世代に共通する4キロ1里という社会慣習を最高裁がどう判断するのかということとともに、江戸時代のものと称する偽造の「歴史的文書」における著作権侵害は現在の(対象が同時代の著作であることを前提とする)著作権法で司法判断ができるのか、そもそも「歴史的文書」の偽作という行為に対して現行法の運用の範囲内で対処できるのか、司法としての判断を具体的な訴訟を通して示して欲しいということであった。

仙台高裁は前者の問題について判断の責任を回避するため、1里を3,927キロとする机上の数字を用いて、15里と60キロは完全に一致しないという論法を用いた。仙台高裁は「歴史的文書」の真贋判断という煩わしいことから逃げたかったわけで、その責任回避はまさに良心の欠如を示すものである。

さらに最高裁はその愚行を容認した上、カット&ぺ一スト(後述)の判決で事足れり、とした。その内容には事実誤認さえあり、文書の作成者が裁判記録や野村氏の上告理由書を読んでいること自体、疑わしめる代物である。この怠惰さ、無能さはまさに最高裁の存在意義そのものを自ら否定しかねないものであった。また、その判決文で判断の経緯や具体的な根拠について何ら触れるところなく、一市民としての上告人への説明責任をも果たそうとしない最高裁の姿勢はまさに「官」の横暴そのものである。この最高裁の判断は偽書を延命し、さらなる詐欺事件の発生を招くとともに、原告の名誉と人権をも傷つけることになったのである。

後者について、歴史的文書を称する偽書に著作権侵害の可能性がある場合、その文章のストーリー、表現や内容の共通性・依拠性がどの程度確認されたら著作権侵害と判断できるのか、また、写盗用における著作権侵害がすでに認められる場合はその盗用写真を見なければ書けないと判断できる文書については、著作権侵害は発生しているのか、たとえ写真と文書の間では著作権侵害が発生しないとしても、その共通性・依拠性が顕著なら文章間での著作権侵害の傍証にしてもよいのではないか、などさまざまな論点がなりたちうるはずである。

たとえ「歴史的文書」を称していても現代人の偽作と確認され、しかもそれが先行する文献との間に共通性・依拠性があるとすれば、著作権侵害が問題となるのは法律以前の常識のようにも思える。

本来、著作権法は文化の保護・育成のために制定されたものである。「歴史的文書」を称する偽書は、その存在そのものが公序良俗に反したもののはずだから、その著作権が法律によって保護されるというのは本来の法の精神と矛盾する。しかし、著作権侵害の裁判では、原告・被告の双方ともその著作権が法で保護されることが前提となっている。

さらに、「歴史的文書」を称する偽書の場合、その真の作者は著作権を自ずと放棄せざるをえない立場に自らを追い込んでいる。この場合、著作権侵害の法的判断はいかにあるべきか。

あるいは、著作権法を含む現行法には大きな盲点があったのではないか。「歴史的文書」の偽作という行為そのものが現行法の体系を根底からゆすぶるような行為だったのではないか。そこには『東日流外三郡誌』以前に誰も予想していなかったような法的テーマが横たわっているのである。

しかし、最高裁判所はそれについても一顧だにしなかった。これは法的判断という裁判所の職務を放棄したものといえよう。一最高裁はこの上告が棄却にいたった経緯と根拠、そして判決内容そのものの当否について、あらためて調査・検討していただきたいところである。

さらに『判例タイムズ』のような機関は、現行法の盲点が潜んでいそうな判例があれば、すすんで指摘するべきにも関わらず、一方の立場に偏した解説掲載を許すことでその機会を逸してしまった。

この裁判の原告・野村氏は、古田氏や朝日新聞などによってその人格を不当に貶められ、さらに『判例タイムズ』で理不尽にも論難された。

しかし、野村氏は自らの著作権が被告・和田氏に侵害されたと判断し、訴えただけである。それは一市民として、そして日本国民としての正当な権利の行使にすぎなかったはずだ。そして、その訴訟を維持するために証拠を法廷に提出するのは当然のことである。そのこと自体をも非難するなら、それは国民の権利そのものへの抑圧である。『判例タイムズ』は無記名の解説者がその許されざる行為を行うのを許すことで、自らが拠るべき公正さという基盤を否定してしまったのである。

また、前にも述べたが、たとえ裁判所が『東日流外三郡誌』の記述は著作権侵害とまではいえないと判断したとしても、それは偽書ではないという根拠にはならない。むしろ、原告の論文との共通性・依拠性などが認められれば、著作権侵害には至らないにしても偽書である、と判断する根拠となりうる、というのが法律知識以前の常識であろう。

ところが『判例タイムズ』の無記名の解説者は古田氏側に肩入れするあまり、その常識も捨て去ったか、法律用語として辻棲があっていれば実際の裁判の内容と矛盾していようが、世間の常識や論理といかにほど遠い論旨であろうとかまわない、という立場らしい。

この雑誌は法律を学ぶ学生の間で広く資料として用いられているものである。その誌面が一部の者の面子や利益を守るために恣意的に利用されているとすれぱ、それは司法界全体の大間題なのではないか。

 

※トンデモ判決はなぜ生まれる


しかし、この『東日流外三郡誌』盗作事件の判決とその『判例タイムズ』での扱いは、裁判所で民事・刑事を問わず、頻出しているトンデモない判例のほんの一例にすぎない。従来、この問題がマスコミに扱われるのは、いわゆる人権派ジャーナリストによる冤罪事件の追及に限られていた観があった(たとえば江川紹子『冤罪の構図』社会思想杜・現代教養文庫、1994)。

だが、長引く不況や社会不安でふつうに生活している人が裁判所に接する機会が多くなるにつれ、ようやくトンデモ判例の頻出が身近な問題として、マスコミからも注目されるようになってきた。

たとえば、『「困った」裁判官』(別冊宝島REAL6号、2001年1月)における柳原三佳氏のレポートには、建物の賃借人が家主に敷金返済を求めるだけの単純な訴訟の判決文の中で「原告」と「被告」を何度も間違えて記された上に、原告が被告の養子であったという根も葉もないことが書かれていた事例、裁判官が「家財道具差し押さえ」の意味を知らず、差し押さえ競売当日にテレビやタンスが家にあったという原告の証言を虚偽と決め付けた事例、証券会社の背任を訴えた原告に裁判長が第一声「株なんかに手を出すのがおかしい、もともと株なんてバクチじゃないか!」と言い放った事例、離婚訴訟の控訴審で親権を求める原告に裁判長が「親はなくとも子は育つ!」と言い放った事例などが報告されている。

また、『週刊新潮』も、2002年の秋、40〜42,47〜49号の6回にわたって「『裁判官』がおかしい!」を連載、常識はずれの異常判決が続く現実を追求した。その中には車線オーバーしたバスが衝突したオートバイの操縦者を死亡させた事件で、バス会社側の主張が全面的に採用されたため、路上のブレーキ痕でバスの方が車線を越えたように見えるのはオートバイ衝突の衝撃でバスが動いたからだ、との判決が出された例もある。つまり、10トンものバスが180キロのオートバイに押し切られだというわけだ。

なお、『週刊新潮』で取り上げた判決の一部は、門田隆将氏の『裁判官が日本を滅ぼす』(新潮杜、2003)でも改めて取り上げられている。現代目木の裁判所の荒廃ぶりを克明に暴いた好著である。
 さて、このような判決を見ると、裁判官に本来求められるもの、すなわち社会常識、論理的・具体的な思考能力、事実認定能力、そしてなにより真実と正義を追求しようとする熱意などがいずれも欠如した人物が法曹界に多数棲息しているとしか思えなくなる。

なぜ、このようなことが許されるのか。一つには、法曹界というものが言語的に閉ざされた世界だ、ということがあるだろう。

判決文には、法曹界内部でしか通用しないような用語・言い回し・論法などが多用されている。日垣隆氏は判決文の文体の特徴として、カット&ぺ一スト(先行する判例の切り貼りだけでだらだらした文を作る)、没論理(判決理由の根拠を示さずに唐突に結論を書く)、浪花節(事件そのものの性格を考慮せず情実に基づいて刑を軽減する)、一人称の欠如(判断の主体を消し、判決文が天の声ででもあるかのように装うことで権威付けようとする)などの特徴があることを指摘する(「日垣「判決文は悪文の見木市」『文藝春秋』2003年3月号)。

日垣氏は川端康成『雪国』の冒頭が、裁判官の手になれば次のようになるとして、その国語能力の低さを巧みな比喩で示した。
「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」(原文)

「北緯三七度二七分五二秒、東経一三八度四二分五六秒に位置する全長一二八七・三メートルのトンネルを抜け出ると、平均一二八・ニセンチ・メートルの積雪があった」(判決文バージョン)

この日垣氏のパロディと、あの仙台高裁判決文における一里=3.9273キロメートルの屁理屈がそっくりなのは偶然ではないだろう。

また、最高裁判決文による上告棄却の理由は次の通りである。

「所論の点に関する原審の認定判断は、原判決挙事の証拠関係に照らし、正当として是認することができ、その過程に所論の違法はない。論旨は、原審の専権に属する証拠の取捨判断、事実の認定を非難するか、又は独自の見解に立って原判決を論難するものであって、採用することができない」

ここには慣例句が羅列されているだけで、上告趣意書の問いかけに対する具体的な回答はなく、裁判官が上告の趣意そのものを理解しているかさえ疑わしめるものである。まさにカット&ぺ一スト、使い古しの判決文を固有名詞だけパソコンかワープロで打ち変えて、文字通り機械的に作ったような代物だ。そもそも担当裁判官も、判決文を作る事務官も本当に上告趣意書を読んだ上で判断・作文しているのだろうか。

これは判決当時も被告側が続けていた詐欺的行為への弁明を容認するものであり、ひいては新たな犯罪的行為を重ねることへの暗黙の了承ともいうべきものであった。

上告趣意書に示された法的問題について、判断を示そうとさえせずに門前払いとは、法治国家の司法に携わる公僕として、国民への礼をあまりにも失する行為ではなかったか。

しかし、判決文の悪文ぶりは、法曹界に蔓延する病の症状の一つであって原因ではない。その根底には、裁判所そのものの権威主義的体質がある。

裁判所における裁判官の尊大ぶりは、日弁連によるアンケートにも示されていたという。前掲の柳原三佳氏のレポートによると、そのアンケート回答で「裁判官の問題行動」に関するものとして次のようなものがあった。

 

「横柄かつ高圧的」

「法廷ではまるで皇帝のごとく振舞う」

「被告人のことを“お前”と呼ぶ」

「勝ち筋の事件でも、弁護士や当事者から批判的な言動が出ると、敗訴判決でお返しされる」

「巨大企業、権力への盲従」

「社会経験の不足」

「和解に従わなければ不利になりますよと脅かして、強引に和解を勧める」

「証拠調べもせずに、いきなり判決を出すのはやめてほしい」

「尋問中、要領をえない答弁をすると、怒鳴りつける」

「当事者の前での暴言はやめてほしい」

 

これが本当だとすると、裁判官の中には最低の社会常識も持ち合わせない人物が多数紛れ込んでいることになる。

青山学院大学名誉教授の清水英雄氏は『週刊新潮』の取材に次のように答えた。

「今の裁判官は誇りといっても、別の誇りを持っています。それは、俺たちは偉いんだ、という思い上がりです。本来、裁判官が持つべき誇りとは、権力から独立し、自分の良心に従って、司法の判断を下すこと。それがいつの頃からか慢心だけになってしまった」(2002年第42号、前掲連載記事)。

このような裁判官は自らの「誇り」を支えているのが、裁判所を含む現代日本の権力構造にあることを内心悟っている。

しかも、最近の裁判では適正な審理を行うのに、特殊な知識をともなうものが多い(そもそも『東日流外三郡誌』盗作裁判においても、その審理には歴史学や書誌学などの知識がある程度は要求されたはずである)。一般論として、慢心だけあって知識も常識も持ち合わせていない裁判官が判断の根拠にするのは、「専門家」の意見であり、ひいてはその「専門家」と称する人々の肩書きだけである。しかし、その「専門家」が自らの利害に関わる裁判で保身に走れば、裁判官の判断もまた彼らに有利な方に誘導されることになる。

また、権力構造そのものに依存することによってしか「誇り」を維持できないような裁判官の判断は時の権力(それは時に反体制の仮面を被ることもある)の動向とも同調しやすく、さらにはその動向になびくことが「正義」であると誤認しかねない傾向がある。

かくして彼らは、専門家集団、権力者集団の意見を判断の基準とし、結果として彼らの既得権を守る方向に審理を進めようとする。

法曹界もまた一つの専門家集団、権力者集団として現在の権力構造に組み込まれている以上、その構造全体に有利な判断を示すことがひいては彼ら自身の権力・権威維持につながるというわけである。

このような傾向が端的に見られる最近の判例としては薬害エイズ事件が挙げられる。この事件でHIVウイルスを含む非加熱血清製剤を販売した旧ミドリ十字杜の歴代社長3人は全員実刑判決を受けたにも関わらず、「専門家」の立場から販売へのゴーサインを出し続けた安部英元帝京大学副学長に対し、東京地裁は2000年3月28日、無罪判決を下したのである(控訴後の2004年2月23日、東京高裁は安部被告の心神喪失を理由に公判停止を宣告)。

人が論文などの形で自分の判断を述べる時には、必ずその判断に関する責任が問われるわけだが、判決文についてはそれが判例として後世への影響力を持つにも関わらず、責任の所在が明確ではない。先に、判決文は天の声を装う傾向があるという日垣隆氏の説を紹介したが、このような傾向が生まれる理由としては、権威付けのためとともに、裁判官に個人としての責任を回避する傾向があるということもあるだろう。

『東日流外三都誌』盗作裁判の判決文で、文書の真贋の判断を避けるという、実際の審理とは矛盾した文面を入れたのはつまるところ裁判官の責任回避に他ならない。

しかし、判断を避けるということ自体もまた、結局は一つの判断には違いない。『判例タイムズ』の無記名の解説者はそれを利用し、その判決文全体が真作説に有利なものだったと強弁しようとしたのである。その強弁ぶりには、古田氏の影響があるように思われる(少なくとも、この解説を古田氏の支援組織が利用しようとしたのは先述の通りである)。

『東日流外三郡誌』盗作事件において、古田氏は法廷に提出する書類で「大学教授」の肩書きを活用し、さらに法務大臣に意見書を提出するなどして、からめ手での裁判介入も試みた。これは現代日本の裁判官が肩書きや権力に弱く、しかも自らの判断に関する責任を回避する傾向がある、ということをよく理解しての行動である。

この工作により、仙台高裁は実際の審理は偽作説を前提に進めながら、表面上は真偽の判定を回避するという玉虫色の判決を下し、しかも『判例タイムズ』の解説で真作説を支持したかのように書かれる羽目に陥ったのである。

ただし、法曹界に、権力におもねる傾向があるからといって、その判断が必ずしも日本の現政権を支持するものになるとは限らない。なぜなら、現代日本にあっては一見、反体制的なものでもマスコミや圧力団体、外国の政府などの支持を得ることで、一つの権力として機能しうるからである。さらに判例の中には、政府や検察にあえて逆らうことで裁判官が自らの権力を確認しているのではないか、と思えるようなへそ曲がりなものもある。

刑事裁判でそのような傾向が現れるとき、犯行の悪質さとつりあわないような軽い量刑の判決や、明白な証拠や犯意の存在を無視しての無罪判決が下されたりする。それは一見、冤罪と正反対のもののようだが、共に裁判官の社会常識・論理的思考の欠如および傲慢さから生じる現象ということで根は一つなのである。

先述のごとく『東日流外三郡誌』は一部マスコミにより反中央・反体制・反天皇の史書として宣伝された。また、その支持者である古田氏は、ことあるごとに反日的、反体制的なポーズを取りたがる人物である。反日的でなおかつ権力志向、この傾向を法曹界と共有する古田氏が裁判の動向や判例の扱いの操作に長けていたのも当然なのかも知れない。

 

※恣意的な歴史解釈の横行

 

さらに、最近ではこの裁判官たちの傲慢さが歴史解釈にまで波及し、結果として日本の将来に禍根を残すような判例も見受けられるようになった。たとえば―


◎1999年9月22目・東京地裁・伊藤猛裁判長。「731部隊」の人体実験や「南京大屠殺」による被害をこうむったという中国人十名を原告とし、日本政府に約一億円の損害賠償を求める訴訟で、判決は「本件当時における国際法及ぴ我が国の法制上、原告らが我が国に直接倍賞を求める法的根拠は認められない」として。請求棄却。ただし判決文では歴史的背景などについて「我が国が中国大陸で行なった軍事行動は…中国及ぴ中国国民に対する弁解の余地のない帝国主義的、植民地主義的意図に基づく侵略行為」「我が国が真摯に中国国民に対して謝罪すべきことは明らかである」「この『南京虐殺』の内容、規模等を厳密に確定することはできないが、事象があったことはほぽ間違いない」「731部隊の存在と人体実験等は、疑う余地がない」と断定。


◎2002年8月27日・東京地裁・岩田好二裁判長。731部隊による細菌戦の被害をこうむったという中国人180人を原告とし、日本政府に総額18億円の損害賠償と謝罪を求める訴訟で判決は「被害者個人は加害国家に対し、直接、損害賠償請求権を持たない」として請求棄却。ただし、判決文では「731部隊などが中国各地で細菌兵器を使用し、多数の死者が出たと認められる」「細菌戦の被害は悲惨かつ甚大で、旧日本軍の行為は非人道的だったとの評価を免れえない」と断定。

 

しかし、彼らの「断定」を裏付けるような決定的な証拠が実際どこにあるのだろうか。日支事変以降の旧日本軍のシナ大陸での戦闘行為は侵略戦争だったのか、731部隊が実際に人体実験や細菌戦を行なっていたのか、「南京虐殺」は本当に起こったのか、これらの問題はいずれも歴史学的には論争が続いており、決着のついていない問題である。

司法の場でも通用するような決定的な証拠がこれらの論争にそのどちらか一方の結論を支持しているとすれば、そもそも論争が続くことさえありえないだろう。

ところがこれらの判例では、その根拠も示すことなく、原告側の主張をあっさり事実と認定してしまった。

『東日流外三郡誌』盗作事件の判例にしてもそうだが、学問的に議論が続いている問題について、判決文で安易な断定を行なってしまうと、将来、その判例がいかにその専門分野にたずさわっている人の認識とずれていったにしても、司法はその判例を自主的に訂正していくためのシステムを持たない。

もちろん、裁判官も言論の自由の許すところ、自らの歴史観を発表する権利はあるだろう。しかし、それを論じるなら、自由な議論のなりたつ場で堂々と論文として示すべきであろう。外部からの批判でくつがえることが事実上ありえない判例として残すというのは、歴史論争の手法として単にアンフェアーであるのみならず、裁判官という立場を悪用しての公私混同というものである。

あるいは、権力・権威になびくという裁判官の体質が、この場合は中国へのおもねりという形で露呈してしまったのであろうか。これらの判決文は勇気ある断定として、マスコミには賞賛されたが、それは現代目本のマスコミにいかに中国へのおもねりが蔓延しているかを示すものでしかない。そして、権力・権威になぴくということは、結局は責任回避の一形態にすぎないのである。

伊藤・岩田両裁判長は請求棄却とすることで被告側の日本政府の立場を守ったつもりなのだろうが、安易な事実認定が日本及ぴ日本国民に、過去の残虐行為という罪を刻印してしまったことは否めない。さらに残虐行為の存在を認めながら賠償請求を棄却することで、我が国はいっそう無責任で卑劣な国家という印象を国際社会に与えてしまったかも知れないのである。

国家間の関係には駆け引きがつきものである。相手国の一時的な対日政策に迎合することは、長期的にはかえって友好関係を損なうことになりかねない。しかし、この2例に限らず、外国人や海外の企業が関係する裁判での判例を見ていると、日本の法曹界にそうした配慮は絶無なのだ、と思わずにいられない。

また、2002年8月判決の方の法廷では、731部隊の少年隊所属だったと自称する人物(判決当時78歳)が、ペスト菌・コレラ菌を培養した、生体解剖にも参加したなどと証言しているが、その年齢は細菌戦が行なわれたという1940〜42年当時、16〜18歳である。エリート集団だったはずの731部隊で医学・細菌学についての正規の教育をまだ受けていないはずの少年兵がそのような専門的な作業を行なうことがありうるかどうか、常識的にはまず疑われるべきであろう。実はその人物は各地の反戦集会に招かれては、731部隊について「証言」し、その謝礼を受け取るという、いわゆる「証言屋」の一人なのである。

その種の人物による、うさんくさい「証言」までが法廷での事実認定のために採用されてしまっているのだ(ちなみに和田喜八郎氏も戦時中の自らの履歴について、陸軍中野学校卒業、海軍航空隊所属、通信研究所勤務などと矛盾した証言をくりかえしており、しかもそのすべてが虚偽だったことが判明している)。

そもそもこの裁判長たちは、旧日本軍の残虐行為に関する日本軍人側の証言がどのようにして集められたかご存知なのであろうか。中国帰還者連絡会会長の富永正三氏は、日本軍の華北での残虐行為に関する証言集『三光』が編纂された状況について、論文で次のように述べている。

「〈中国抑留中〉1954年中ごろから進歩分子による自分の犯した犯罪行為の告白―これを坦白といった―が始まった。それは死刑を覚悟する、勇気の要る行動であった。やがて中央から派遣された検察官―私たちの犯罪に対する豊富な資料を準備していた―の前で、お互いにその行動を知っている同じ部隊、同じ職場の者、十数名ずつの組を作り、一人ずつ立って自白を行なった。仲間から“まだかくしている”“お前の態度には被害者に対して相すまない、という心からの謝罪の気持ちが現れていない”‘‘殺される被害者の無念の思いがわかっていない”等々の声が上がった。何回もやり直し、食事もノドを通らぬ状況もあり、自殺者も出た。内容が検察官の資料と一致し、悔俊の情が認められてやっとパスする。この深刻な、命がけの自己批判と相互批判の学習が数ヶ月続いた。佐官、将官クラスはさらに長く続いた。憲兵、警察、高級将校の中には海千、山千の頑固者もすくなくなかったが、最後には脆いて謝るようになった。この苦難の学習を経て私たちの顔つきが変った。鬼畜の状態から人間的良心を取り戻した。つまり鬼から人間に立ち帰った、ということである。こうして1955年から56年にかけて、個人的差はどうあれ、ぽぽ全員が、これではどのような刑罰を受けても止むを得ない、むしろ当然である、といった心境になった。この時期に自分の過去の行動、犯罪行為を反省をこめて書き綴ったのが『三光』に出ている手記である」(富永「岡辺敏雄氏、藤岡信勝教授の挑戦に応える」『正論』1997年6月号)

もしも、現代目本の警察がこれと同じ方法を用いて、容疑者が「人間的良心を取り戻した」ところで自白調書を作ったとしたら、冤罪の山が築き上げられることになるだろうし、発覚すれば大きな社会問題ともなるだろう。

表題が示すように、富永氏は、『三光』の内容の信憑性を否定する岡辺、藤岡両氏に反論するつもりでこの論文を書いている。しかし、図らずもそれは岡辺、藤岡両氏の疑義が正当なものであることを裏付けてしまったのである。ちなみに田辺氏は富永氏に対する再反論の中で、この坦白の結果、抑留者の中に、物理的に関わっているはずのない行為まですすんで自白した者がいることまで指摘している(田辺「歴史観を左右する『加害証言』のいい加減さ」『正論』1997年12月号)。

伊藤・岩田両裁判長は同本軍人による残虐行為の「自白」がこのような状況で得られたものであることをご存知なのだろうか。それを知らないというのなら、その不勉強と事実認定の安易さを責められるべきだろうし、知っていたというのなら、その人権意識の欠如こそが間われなければならないのであろう。どちらにしても、裁判官のこのような態度は刑事事件における冤罪の温床となりうるものである。あるいは、中国としては日本国民が今後とも富永氏のように「人間的良心を取り戻し」続けることを望んでいるのかも知れない。伊藤・岩田両裁判長は、中国側の主張をうべなう事実認定を判例に残すことで、その中国側の期待に大いに応えたといえよう。

ちなみに日本の法学界にいわゆる東京裁判史観の影響が根強く浸透していることについては富岡徹郎氏の指摘がある(富岡「東京裁判史観という妖怪と横岡喜三郎」『正論』2000年7月号)。

これらの判決における中国よりの歴史観と、『東日流外三郡誌』盗作裁判の判例の扱いは直接、関連するものではない。

しかし、双方に共通しているのは安易な事実認定で歴史を弄ぶ態度であり、また反日的なものへの心情的な肩入れである。司法が事実を捻じ曲げ、思想上・政治上の目的や一部の人の私利私欲に利するような状況を放置すれば、社会にどれほど禍根を残すことだろうか。『東日流外三郡誌』裁判は、偽証がどのように生まれ、さらにそれが検証されることなく、法廷やさらに広く法曹界にまかり通っていくかを示す、貴重なテストケースたりうる。

日本でも近く設置される法科大学院において、具体的な証拠の検討に関する教材として、用いられてもよいくらいである。

人間がどこまでウソをつこうとするものか、それに多くの人がいかにあっけなく騙されるものか、おそらく自らはそのような事態に出会う経験がない(あるいは出会っていても気づいていない)学生諸氏にこのような事例を学ばせることは、その将来のために大いに参考となるところであろう。

日本の法曹界がこれ以上、自国の将来を損なうような判例を乱発しないように、私たち国民一人一人がしっかりと監視していく必要があるのではないだろうか。

私はかつて青森県警に、「歴史的文書」の偽作について、その扱いを間い合わせたことがあるが、現行法の枠内では適切な対処法はない、との返答を得たことがある(拙著『幻想の荒覇吐秘史』前掲)。

しかし、『東日流外三郡誌』の流布による、日本、特に東北地方のおける文化・伝承の侵食や破壊には眼に余るものがあり、歯がゆい思いをしたものである。

また、テロ組織や反社会的カルトが自らの立場を正当化するために偽作の「歴史的文書」を積極的に利用した例もあり、社会がそうした危険に対してあまりにも無関心なことも気にかかるところだった(その典型は先述のオウム真理教)。

偽造の「歴史的文書」という問題は今後ますます深刻になるだろう。CGの発達はその気になれば墨の濃淡や紙の古色まで鮮明な古文書の「写真」をネット上に公開することをも可能にした。いわゆる「南京大虐殺」について、その証拠写真と称するものがメディアに流布しているが、現在のところ、それらはいずれも偽作や出典隠しによるトリック(たとえば映画のスナップを報道写真と言い換える)が指摘できる稚拙なものばかりである。だが、今後はより鮮明な「証拠写真」が出てくることがありうる。それどころか松井石根大将直筆の「南京市民無差別殺害命令」さえ、その気になれば画面上で作ることも可能だろう。

このような偽作文書が出現した場合、それに現行法で対処できないとなれぱ、それこそ日本の国際的信用は失墜の一途をたどるのではないか。『東日流外三郡誌』裁判はそうした観点からも研究していく必要があるだろう。

本論考を読む方の中には、将来、法曹界に志そうという方もあるかも知れない。その方々のために、資料として、『東日流外三郡誌』裁判の原告・野村氏が裁判の関係者各位に送った「『東日流外三郡誌』と私の立場」を添付しよう。野村氏の「出帥の表」ともいうべきこの決意の書を読み、来るべき司法改革に心して当っていただきたいと望む者である。

 

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『東日流外三郡誌』と私の立場

平成4年8月8日

野村孝彦

昭和50年、日本経済新聞に寄稿した私の小論が、剽窃され、『東日流外三郡誌』などに、寛政年間、秋田孝季によって書かれた古文書として出てきます。

また、その古文書に書かれた東日流耶馬台城が、津軽の中山に実在した証拠として、和田喜八郎氏は、著書『知られざる東日流日下王国…東日流中山古代中世遺跡振興会版』に、6枚の写真を掲載されていますが、その全てが、私の撮影したもので盗用されているのです。

その写真は昭和50年頃に撮ったもので、実際の所在地は、奈良県の生駒市、和歌山県の新宮市、那智勝浦町で、青森県のものではありません。

その写真の解説のために書かれた和田氏の記述が、当然のことながら、真っ赤な嘘であることは言うまでもありません。

それに関し、和田氏に、書面で説明を求めて居りますが、ご返事が戴けません。

和田氏が、どの様なお考えであれ、ご意見を持たれ、自由にそれを述べられる、そのこと自体に異を唱える積りはありません。

しかし、如何に、言論の自由な社会であるとはいえ、架空の江戸時代の古文書を作り、「江戸時代の人によって、調査され、書かれ、密かに守り伝えられた」という嘘によって、その信憑性を高め、自らの主張の展開を有利に図ろうとすることは許されないことに思います。

また、その様な意図で偽造された古文書が、世間に広く伝わり、事実とされ、遺って行くことに、不快な念を持つのは私だけでしょうか。
私には、ライフワークとして志した研究テーマがあり、限られた時間をそのために使いたいと思って居ります。本来であれば、『東日流外三郡誌』の真偽論争に深く関わる余裕はなく、従って、私自身が、和田氏に依り直接巻き込まれなけれぱ、傍観者的な立場でしか居なかったでしょう。

しかし、世間には、仕組まれた虚構の歴史を、本当の様に過って信じて居られる方が多くおいでになり、更に、その影響が国外にまで及ぶ状況さえあります。このまま素知らぬ顔をして、後世に嘘を遺すことがあってはならないとの思いにも駆られます。

殊に、私の場合は、『東日流外三郡誌』の中に、「これなる城造りは、吾が東日流及び紀州のみに実在なして他類なき城祉なり。…吾ら去るる日、紀州にまかりて、山に分け入り順見したると瓜ふたつにも似て、驚くぱかりなり」と書かれて居り、もし、現状のまま放置すると、50年、100年の後に、何方かが、『東日流外三郡誌』を読み、その事実関係の調査に紀州に行かれれば、和田氏の主張する東日流耶馬台城の写真と瓜ふたつのものを発見することになる訳です。・・・元々紀州の写真を盗用したものだから当然でしょう。

その場合、発見者はどう考えられるのでしょうか。そして、『東日流外三郡誌』の評価はどうなるのでしょうか。こんな酷い話はないのです。

知って見過ごせば、古文書の偽造者に加担するのと同じ結果になりかねません。

どなたか適切な方が、再見直しされることを望みますが、そうならない状況では、真相を明らかにするため、自らが動くことも、やむを得ないと覚悟しています。

せめて、私自身に関する部分だけでも、事実を明確にし、確実な記録として遺すことをしなければならないと考えて居ります。

 

以上