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 <知を楽しむ人のためのオピニオン誌・「正論」>




どうして朝日新聞で不祥事が多発するのか(5)


ジャーナリスト・元朝日新聞常務 青山昌史
聞き手/本誌編集長 大島信三

広岡イズムのくびきから早く脱せよ

 −−「不祥事の朝日」、いや失礼「左翼体質の朝日」にした張本人ですか。

 青山 責任は重いと思います。中江君は六月の株主総会で特別顧問からはずれましたが、これまでずっと院政を敷いてきたといわれても仕方ない。現在も東京OB会の会長で隠然たる力をもっている。最近も朝日の社内報で中江君の名前を見ましたよ。憲法を守ろうと。

 −−知っています。OBの有志の皆さんが、お金を出し合って意見広告を出す準備をしているんですね。

  《呼び掛け人は、「『9条を守ろう』の意見広告を掲載する朝日新聞OB有志の会」。九条を守ることが戦後を生き通したものの務めであるとして、朝日新聞(十一月三日付)に意見広告を出すことを決断したという。六十年前、戦後の再出発にあたり朝日が国民と共に立たんと誓った、その姿にならったとか。呼び掛け人は二百二十五人。協力金は一口一万円》

   相当の数を集めるんでしょう。朝日の広告は高いですから。

 青山 思想の自由、言論の自由だから何を主張しようと構わないけれど、憲法九条をただまるまる守ろうというのはちょっと時流からはずれている。いままさにその憲法改正が次の小泉(純一郎)首相の目標じゃないですか。

 今度、選出された民主党代表の前原(誠司)氏も九条一項の平和主義はよいが、二項の戦力不保持は削って自衛隊、自衛権の問題は別に規定するといっている。すると朝日は国会ではごく少数の共産党、社民党の線になってしまう。野党の前原氏は、「九条堅持が平和主義という考え方は護憲論者のうぬぼれ。非武装、日米同盟破棄で日本の安全が守れるか」といっている。

 朝日新聞は東大の蒲島(郁夫)教授と共同研究で総選挙の候補者アンケートの回答をもとに、新議員の意識や政策、選挙結果の持つ意味を分析したんですね(九月十三日付朝刊に詳報)。

 そのアンケートによれば、「改正すべきだ」「どちらかといえば改正すべきだ」と答えた改憲派が衆議院議員全体の八七%を占めているという。改憲派が自民党で九割を上回り、民主党も七割余りが改憲志向という現状のなかで無条件で「九条を守ろう」というのは、いかにも古色蒼然という印象を与えていますよ。古くても、いいものはいいと言い張るのは自由だが。

 −−広岡・中江路線が朝日をダメにしたという声は朝日社内でも聞かれるそうですが、いまだに広岡・中江イズムが社内で健在だとは知りませんでした。六十年前の「国民と共に立たん」が出てきていますが、朝日の体質というのは、戦後六十年、ちっとも変わっていないのですね。

 青山 その通りですよ。「国民と共に立たん」を起草したのは、広岡社長の顧問格の森恭三氏ですね。ああいう戦争があって、国民と共に立たんというその文句は結構だけれども、そのなかを見ると、階級闘争至上主義であって、決して議会制民主主義をいっているんじゃないんです。いまだにそれを引用しているんですね。

 朝日の左翼体質というのは、さかのぼれば戦前の近衛(文麿)首相の昭和研究会まで行くんです。そこに関口泰や前田多門、佐々弘雄、細川隆元などの進歩的真ん中から左の田中慎次郎がいて、笠信太郎や森恭三がいた。左の連中が戦後の朝日の全面講和、非武装中立論をリードしたんです。笠は福岡で緒方竹虎ともからみ、国士とマルキシズムという左右の二元的な面もありますがね。

 もう一つ忘れてならないのは、戦前のゾルゲ・スパイ事件。ゾルゲに日本軍は「北守南進」の情報を出したのが元朝日記者で当時、満鉄調査部の尾崎秀実です。その尾崎に情報を提供したというので、かつての上司である田中が検挙されてもいます。

 −−田中慎次郎は昭和三十四年(一九五九年)、「朝日ジャーナル」を創刊した人ですね。

 青山 そうです。笠信太郎、森恭三はのちに論説主幹をつとめました。田中、森っていうのは政経部の時はどちらかというと、経済寄りですわね。経済系統だった。で、それを実際使ったのが広岡さん。田中慎次郎は広岡さんより先輩ですね。森恭三氏も二年先輩だけれど、後輩みたいだった。それで、朝日騒動というのが戦後ありました。村山家を向こうに回して。

 −−ありました。

 青山 村山騒動のとき、株式受託委員会というのをつくる知恵を出したのが森恭三なんです。で、広岡という人は非常に野望をたくましゅうして、いっちゃ悪いけど、要するに“皇位簒奪”をたくらむような野心家だったんです。村山家、何するものぞと。これはこれで一理ある。OBと社員が株をもっていましたから株式受託委員会をつくって、それで五〇%をわずかですが超える株をもった。村山家は四五%、上野家が八%ぐらいもっている時代がずっと続いている。で、当時、働きかけているんですよ、池田勇人なんかにね。

 ところが、毎日の上田常隆氏などから反対されたんですよ。新聞協会の会長をやった人が一企業のために少数株主保護みたいなのをつくっちゃいかんと。結局、商法改正は頓挫して、朝日騒動が起こって、すったもんだした。

 そういう難局のなかで森恭三は広岡体制を支えて、論説主幹になった。田中慎次郎も役員になる。そういう持ちつ持たれつの関係にあったんですよ。

 で、広岡さんは昭和四十五年(一九七〇年)に松村謙三自民党訪中団に友人として参加して中国へ行って周恩来と会っているわけです。以来、非常な親中論者になっている。新聞協会でも広岡氏はおかしいじゃないかと。文化大革命で各紙の特派員が全部引き揚げさせられたわけですよ。それなのに朝日だけが存在自体に意義があるという広岡さんの意向で残ったんですよ。秋岡(家栄)特派員だけが。

 −−一九七一年(昭和四十六年)九月十二日、毛沢東と権力闘争の結果、林彪は国外に逃亡、モンゴルで飛行機が墜落して死亡しました。産経新聞は林彪失脚説を載せていますが、秋岡特派員はそれを否定する記事を送ったんですね。

 青山 そうそう。のちに編集担当専務の秦正流氏は、「社論のために事実を載せない広岡氏は間違っていた」と総括しています。

 −−この年の九月三十日から朝日の後藤基夫・東京編集局長、中江・経済部次長らは一か月近く中国に滞在しているんですね。そして周恩来首相と会見している。それでいて朝日が林彪死亡説を報じたのは翌年の七月です。

 青山 広岡イズムのくびきですよ。秋山体制は、この際、早くそういうものから抜け出して再生してもらいたいね。ジャーナリズムの再興とか、解体的出直しと抽象的にいうが、それももちろん大事だ。とにかく謝るべきは謝り、実証的に、中正公平に行かなきゃあいかん。いまどき実質的なマルキシズム、左翼の強調は古い。議会制民主主義で行かなきゃあ。

 反米親中といっても、日本の置かれた立場を考えねばいかん。中国とは体制がちがうのが問題だが、親しくするのに異論はない。しかし、それで反米になっては、日本の安全を一体、どう保証するのか。前原氏のいう通りだ。米国との同盟を保つのがあくまで第一義で、中韓にとどまらず東南アジア諸国やインド、大洋州の国とも仲良くするのは当然だ。

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 【略歴】青山昌史氏 昭和四年(一九二九年)、岡山県生まれ。東京大学法学部卒。同二十七年(五二年)、朝日新聞入社。社会部、政治部記者を経て政治部長、西部本社編集局長、取締役広報担当、常務東京本社代表を歴任する。現在、政治評論のジャーナリストとして活躍中。

 「正論」平成17年11月号 論文





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