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本資料は、百済寺創建当時の概歴補遺版として作成したものです。
住職 濱中亮明 - 1) 湖東の地
- この地域は、有史以前の弥生時代から開かれていたといわれております。
とくに百済(BC18〜AD660)系の多くの渡来人が韓(朝鮮)半島先端から日本海流に乗り若狭に漂着し、冬場の豪雪を避けて近江へと南下し、当時の先端技術(製鉄、潅概、土木、建築 etc)や先進文化(千字文などの漢字、仏教文化 etc)を近江にもたらし定着させていきました。 - 中でも5世紀末に、中国・百済・日本へと渡来した依智秦公(エチノハタギミ)の功績は大きく、愛知川一帯の原生林を切開き水田地帯としての愛知郡を開拓していきました。
したがって、湖東の一帯には、百済系の渡来人の集落が連綿と点在していたと推察されます。 - 2) 百済国について
- 百済は、BC18年に高句麗から分離独立し、現在のソウル近辺に成立し、当初は『伯済』と書いて 『ハクサイ』と呼ばれていました。
- 5世紀代の国王が、『伯』の文字は左右非対称で弱弱しいため、『イ(にんべん)』を跳ね上げて左右対称の安定した『百』の文宇にすることで国家も安定するだろうとの願いを込めて『百済』に改名したといわれております。(発音は同じく『ハクサイ』)
- 実は、朝鮮の長い歴史の中で、『百済』の発音として『くだら』と呼ばれたことは一度もありません。『ハクサイ』でした。
日本人のみが『くだら』と発音していたのです。(但し13世紀以降の李朝時代にハングル語が作られて以来『ペクチェ』と発音されています) - 3) 聖徳太子と慧慈の劇的な出会い
- 6世紀の韓半島には高句麗、百済、新羅の3国があり、その西方に強大な隋が勃興してからは、国家間の均衡が不安定となり国境での軍事的衝突が恒常化していました。
- 百済は、産業・経済・技術・文化面では第一級の国家でしたが、政治・軍事的には弱い面があり、首都も建国以来、慰礼城(現ソウル)→漢山城(371)→熊津(ユウシン475)→扶余(プヨ538)へと数回にわたって遷都・南下しました
- このような状況下で、百済国王は真剣に悩み、万一の有事事態(亡国)に備えて、国民を安全な場所に避難させる必要があると考え、その受入れ国として日本(飛鳥斑鳩)が妥当であるかを調査するために、百済博士「慧慈」(百済へ亡命した高句麗僧)を派遣しました。
慧慈が斑鳩に到着して目にしたものは、聖徳太子(厩戸皇子、上宮王ともいう)の元服式でした。 - 慧慈は、「この怜悧な皇子が将来天子(天皇)になるならば、亡国時に難民となった百済人を温かく招き入れて呉れるであろう」と本国の国王に返信したと言われております。
国王は、「それは有難いことだが、念には念を入れて確実ならしめるため、慧慈の持っている仏教をはじめとする全知識を惜しみなく太子に教える家庭教師としての教育係を申し出てみよ」との指令があり、慧慈と太子の間には緊密な師弟関係が生まれました。 - 4) 飛鳥〜若狭への旅路
- 古来より「可愛い子には旅をさせよ」と言いますが、自立心と生きた知識を身に着ける上で旅は不可欠のことです。
- 慧慈は、斑鳩・奈良・宇治・紫香楽・湖東・湖北・若狭のルートで太子を旅案内して知識・教養・人格の高揚に努めました。
- 「何故、若狭であったのか?」…これは韓半島の先端から文物を乗せた筏を浮かべて日本海流に乗せれば寝ていても数日で若狭に漂着します。
この事実は、百済の先進技術・文化の漂着ターミナルが若狭であることを知った上で慧慈は若狭を選んだと考えられます。
この斑鳩〜紫香楽〜湖東〜若狭ルートを私は名付けて『太子の道』(Dr-Prince Road)と呼ぶことに致しました。
この「太子の道」の街道筋には、渡来系とくに百済系の人々の集落が連綿と点在していたと言われており、今日でも渡来系を意味する地名が多く残っております。 - ところで、一部の郷土史家によると聖徳太子のようなVIPが蘇我氏と物部氏の確執の狭間で危険を冒して近江の僻地まで来る筈がないと主張されていますが、法隆寺の大野玄妙管長によると、連綿と続く百済系渡来人の集落を渡り歩くほど安全なルートはなく、斑鳩・奈良に居るよりもはるかに安全であったと推察されております。
- なお、余談ですがこの「太子の道」ルートの一部は、東大寺二月堂で有名な「お水取り」の儀式に残っております。
松本清張氏は、若狭から通じる地下水脈の「清水」を奈良で汲み上げれば大和(日本)に愈々春が来ると言うことは、若狭に漂着した半島・百済からの先進文物(清水で象徴化)を汲み上げれば、日本が近代化(春)するという意味だと推理しています。 - 5) 百済寺の創建
- 百済寺の縁起書によると、慧慈とともに湖東の地に来られた太子が八日市の町で投宿されていると東の山中に毎夜、瑞光(目出度い兆の不思議な光)が見られたので、傍らの慧慈に尋ねたところ、翌朝、慧慈は太子を案内して東方の深山(現在の百済寺の位置)に分け入られると、上二半分の幹が切られて光明を放つ杉の巨木が立ち、その周りに一群の猿が木の実をお供えしている光景に出会われました。
- 太子が不思議に思って慧慈に尋ねたところ、この杉の上半分の幹は百済に運ばれて「龍雲寺」の本尊十一面観世音菩薩像になっていることが判りました。
そこで太子は、これは願ってもない素晴らしい「御衣木(みそぎ)」を得たとばかりに根の付いたままの下半分の幹に十一面観世音菩薩像を彫り始められました。
その第一刀の入刀日が推古天皇14年(606年)10月21日だったと縁起書には記されております。
従って、本年の平成18年(2006年)10月21日は、まさに創建1400年なのです。
従って、龍雲寺と百済寺の御本尊は、同木から彫られた観音さまと言うことになります。
ここに日韓交流の原点があります。 - 6) 植木の観音さまの意味
- 百済寺のご本尊は、別名『植木観音さま』と呼ばれます。
これは、太子が根の付いたままの幹に十一面観音を彫られたことに由来します。 - また、もう一つの大切な意味が込められております。それは当時の先進技術・文化が百済から日本に移植・定着されたということです。
- この十一面観音は、全高3.2メートルもある大きな像です。
法隆寺さんの有名な「百済観音さま」は、身の丈2.2メートルで、それよりも一回り大きな像です。 - 7) 「ひゃくさい寺?」か「くだら寺?」
- 百済寺の縁起書によれば、慧慈と太子が湖東の地に来られた時、当時の先進技術・文化で拓かれた大地と家屋や衣装・風俗の異なる人々に接して、「あなた達はどこから来たのか?」と尋ねられた。彼らは「百済」から来たと答えたといわれている(発音は残っていない)。
- 太子は、「遠く離れた異国の地で日夜母国を偲んでいるであろう。あなた達の国名を付けてここに寺を建立しよう」と言われた。
一方、2)百済国についてへで述べたように渡来系の人々は、『百済』の発音として一度も『くだら』と呼んだことはなく『ハクサイ』 と呼んでいたことから百済寺は創建当初以来「ひゃくさい寺」と呼ばれていたことになります。 - なお、百済が「くだら」と発音されるようになったのは、多分白村江の戦(663年)後に天智天皇が大量の百済人を近江に受入れて蒲生野が開かれ奈良時代が始まった頃からだと推定されます。
- 8) 北緯35度線上の奇跡的配置
百済寺は、推古14年(606年)10月21日に創建された近江の最古級寺院であり、その位徴は北緯35.1度線上に存在します。
- この線上には、西に向かって、太郎坊(八日市)…比叡山…次郎坊(鞍馬山)…百済(光州)があり、東に向かっては荒子観音寺…熱田神宮がほぼ同一線上に並びます。
- この偶然とも思える配置は、実は必然的・意識的な配置であることが最近明らかになって参りました。
つまり、日本に暦・天文・地理・遁甲(兵術)・方術(仙人術)を伝えた百済僧「観勒」(日本最初の僧正)は、推古10年(602年)に来日し、百済寺創建のための選地・方位決定等に大きく関与した様子が伺われ、百済寺開闢法要後の供養僧としても長く滞留しています。 - 従って、百済人が若狭ルートで湖東地域に渡来・定着してゆく過程で、母国百済の光州と同一線上の近江に太郎坊を、山城に次郎坊を、鈴鹿山麓に百済寺を意識して設定した可能性が高いといえます。
- 私はこの北緯35度線上の配置を名付けて『百済望郷線』(Pecche Nostalgia Line)と呼ぶことに致しております。
- 9) 御衣木と木棺の巨木曳航(搬送)技術
- 先に龍雲寺(白村江の戦で百済滅亡とともに廃寺となり所在不明)と百済寺の御本尊は同木から彫られた観音さまと言うことを述べましたが、杉の巨木の上半分の幹が何故、どうして百済まで運ばれたのか?疑問が残ります。
- 私は百済寺縁起書の記述のこの部分に始めて触れた時、巨木を日本海流に逆らって運ぶことは極めて困難と常識的に判断しておりました。
しかしながら韓半島、とくに高句麗、百済では製鉄技術の発達と生産量の増大で、加熱源としての木炭を大量消費したため、仏像彫刻用の大木がなくなり、森林国の日本に原木を求めたといえます。 - このことは、百済・新羅の古墳の木棺(L3.3×WO.8×TO.4m)に坊虫効果の高いクスノキが用いられていることからも類推できます。
このクスノキは韓半島では生育しないため日本から鉄の代価としてバーター交易し、巨木曳航・搬送技術も確立していたと言えるようです。 - 御衣木も木棺材も宗教的情熱を以って願望するもので、日本海流や玄海の荒波も、ものともせずに乗り越えて曳航して行ったと考えられます。
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