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久保田 芳 雄 (25期)
新潤滑油の開発
 私は昭和15年暮から昭和17年暮迄、海軍燃料廠研究部長兼実験部長として約2カ年奉職した。今次大戦の始まる前からの時期である。その間、当時航空本部々員だった愛甲文雄中佐から、航空魚雷用新潤滑油の開発・調達の依頼をうけ、かのハワイ空襲に間に合わせて、新潤滑油を供給することが出来た。彼は1978年12月号の「東郷」誌に当時の苦心談を次のように述べている。全く彼の熱意に動かされて完成したと言って良い。

  ◎航空魚雷用新潤滑油の難航

 昭和15年11月私(愛甲中佐)は航本に着任早々、軍需局の担当者に航空魚雷用新潤滑油の開発促進について相談した。その結果は艦本2部の答えと同じように、日本の現在の技術では実現不可能ということであった。
 私の考えはその逆であった。今までの艦本2部、軍需局の考え方では出来なかった。否、寧ろ開発する意志がないから出来なかったといった方がよい。金をかけて開発するよりもアメリカから買った方が早いし、安上がりであったから輸入していたのだ。今まではそれでもよかった。しかし今日からはそんなことは許されない。戦争になれば沢山の潤滑油がいるのみならず、質的にも今までの潤滑油は役にたたない。
 もし、国産が本当に不可能ならば、移動性を本命とする飛行機の魚雷としては使用出来ない。艦艇の場合は北から南へ、南から北へ移動する場合、移動の途中で潤滑油の入れ替えが出来る。
 山本聯合艦隊長官は戦争になったら、航空魚雷を航空攻撃兵器の主兵器にするとはっきりいっておられる。航空魚雷そのものは、いつでも戦争に使える立派なものにすることが出来た。これも横空と空技廠雷撃科、長崎兵器の大努力の結果である。
 艦本2部、軍需局が真剣になって新潤滑油を開発しなければならない。
 中央で生産行政にたずさわるものは、戦争中は勿論、戦争前の戦争準備が、第一線部隊の戦闘にも劣らない戦争である。
 新潤滑油の開発も戦場にあるの覚悟で真剣に取り組めば必ず成功するというのが、私の信念であった。私は戦中アメリカと戦った覚えはない。専ら銃後に向っての戦争であった。艦本と戦い、軍令部と戦い、軍務局、人事局との戦い、部内の工廠、560社の会員を擁する雷撃兵器工業会の皆さんとの戦いでもあった。
 新潤滑油の開発の件について軍需局の担当官にあっさり断わられ、次の対策を考えている或日、コレスポンドの海機32期の鈴木俊郎中佐と海軍省の廊下でばったり会った。
 「やあ、しばらく。今日は貴様はなんの用だ」 鈴木は燃料屋だ。燃料屋に会えば潤滑油の話が出て来る。
 「今度、軍需局に来たのだ」
 「担当は何だ。潤滑油に関係はないか」
 「潤滑油も担当している」
 「万歳」という言葉が口から出かかった。どこの部屋だったか忘れたが、私は真剣になって航空魚雷のこと、大臣訓令による浅海面魚雷の状況、従来の潤滑油の状況等を詳細に説明して、至急大臣訓令によって新潤滑油の研究開発を促進してくれるように頼んだ。
 頭脳明晰、温厚篤実、熟慮断行型で、しかも紳土の模範のような鈴木は、じいっと聞いていたが、
 「むずかしそうだが、大船燃料廠長に大臣訓令を出すことにしよう、俺が訓令の説明に大船燃料廠へ行く時貴様も一緒に行って提案理由を説明してくれよ」
 「分かった。有難う」
 訓令が発令され、訓令説明のため、鈴木について大船燃料廠に行った。
 伯爵海軍中将柳原博光廠長自ら司会の委員会兼研究会に出席して、鈴木の挨拶の後を受けて、新潤滑油開発、量産に関する提案理由の説明をした訳である。
 勿論、研究部長の久保田芳雄大佐、潤滑油担当の景平一雄技師(後技大佐)外多数の技術者が一堂に集まって一日中熱心に新潤滑油開発について研究してくれた。

 ◎遂に新潤滑油完成(「東郷」より引用)

 しかし、結論は不可能ということになった。夕刻になって、柳原廠長が立ち上がって「愛甲君、君の目の前で、こと潤滑油に関しては、日本一流の優秀な技術者が研究したが、見込みがないということになった。鈴木君とよく相談して、この大臣訓令をとり下げてくれないか」という宣告であった。
 この瞬間部屋全体がシーンとなった。しばらくして久保田研究部長が立ち上がって、「廠長しばらく待って下さい。廠長の只今の言葉は、この研究は本日限りで中止するということのようですが、航空本部の担当者が作戦上の必要から大臣にお願いして訓令がでたのたと思います。
 僅か1日研究しただけで訓令を取り消してもらうことは誠に申し訳ないと思います。今少し時間をかけて研究して見度いと思います」と言った。
 廠長「全く研究部長の言う通りだ。少し時間をかけて研究することにしょう」ということになってその日の研究会ほ終了した。
 この潤滑油の研究会の柳原廠長の宣告の時の私の心情は、浅海面魚雷の実験委員会の時、田中副委員長にお叱りを受けた時と同じであった。しかし、この度は久保田研究部長の決心と決断による研究続行のお蔭で、見事に成功することが出来た。
 真珠湾攻撃成功の吉報があるまでは、浅海面魚雷の実験にしろ、新潤滑油の開発にしろ、空母の雷撃兵装の改装にしろ、最後の真珠湾攻撃にしろ不眠の連続であった。もし、その中のどれが失敗しても私の責任であった。本当に戦闘の連続であった。
 それから約2週間して景平技師から新潤滑油の開発に成功したという電話があった。量産した新潤滑油は機動部隊が単冠湾出港の直前各空母に渡したのである。この新潤滑油開発の功によって景平技師は技術者の最高章、技術有功賞を授与された。

 この新潤滑油の完成は、全く景平技術少佐(当時)下の研究員の昼夜を分たぬ努力の結果である。ところが、このような重大な成果は一朝一夕に出来るものでない。彼は10年余りもこの道の基礎研究の結果、大体の腹案をもっていたので、短期間に完成した事があとで判った。これには10数年前の研究部長だった河瀬少将の指導があったのである。

  河瀬少将の指導

 河瀬さんは明治三十九年海軍機関学校を卒業し爾来海軍大学卒業、聯合艦隊司令部附(其後は機関参謀と改称された)、機関学校教官等を歴任し、かの関東大震災の時は機関学校訓育主任として、焼失した白浜の校舎を後にして、江田島の兵学校に合流し、色々の苦労を体験せられた。その間、海軍機関科将校問題等については、海軍兵学校長谷山中将と熱烈なる議論をし意見具申もされて、機関科問題解決の第一人者として有名であった。
 其後中佐で海軍燃料廠研究部長に補せられ、少将までの8年間同職にあり、その熱列なる指導と創意工夫により、海軍燃料廠研究部の異常なる前進の基礎を作った方である。即ち当時不景気で予算上研究員を得ることが頗る困難だったので、判任官でもなく高等官でもない技生名義で、京都大学の小松茂教授と相談し、当時不景気で卒業生の就職困難の時、頗る優秀なる卒業生を大量に採用し、それ等に研究課題を与え主として燃料及び潤滑油の基礎研究に従事せしめ、将来の人材を養成した。
 その結果多数の博士号を獲得した研究員が生れた。当時海軍部内では、海軍燃料廠では徒らに博士を製造しているのかと、侮蔑の批評もあった程である。
 所が、それ等の研究員の力によって石炭液化の研究が完成し、又後には石灰石より高級航空燃料「イソオクタン」の製造が出来、また独得な「メタノール」の合成が可能という成果も生れ、その結果河瀬研究部長に勲二等の叙勲が行われた。
 河瀬さんは海軍少将の中途で海軍を去り、貴族院議員となり、燃料問題の国策に対ししばしば大演説を行って居られた。
 その間、自費を以って自宅に研究施設を持ち、いろいろと国策的研究をされた。
 河瀬さんは子爵で相当な財力を持っておられ、現役中は自費で欧米の視察をなし、海軍を去ってから自費で研究所を持ち、大半の財産を投じて了った。
 景平君も河瀬さんの指導により大成した1人であり後段述べる山口理学博士の「ブローム」の研究、江口博士の「イソオクタン」の合成及び「メタノール」の合成、石炭液化に対する三井博士・横田大佐・鈴木大佐等の研究成果、実用化等殆んど河瀬少将の養成による人々である。
 即ち技術は人にあり、技術は1日にして成るものでない事を示していると思う。
 余談になるが、ハワイ空襲の時の司令長官だった南雲中将は、有名な口の悪い方だったが、ハワイ空襲を終えて呉軍港に入港した際、流石に口の悪い長官が、呉工廠長の渋谷中将を訪れ、海軍燃料廠で間に合わせて呉れた航空魚雷用新潤滑油の効能をほめたたえ、その技術の優秀さに敬意を表されたというエピソードも残っている。

  高オクタン価航空燃料

 さて航空燃料には「オクタン」価の高いことが必要であり、その「オクタン」価を高めるためには「四エチル鉛」を添加する必要があり、戦前から燃料廠を通じその研究製造を始めていた。その「四エチル鉛」に添加すべき「ブローム」が、それまで独逸より供給されていたが、独ソ戦のためシベリヤ鉄道の利用が出来なくなり、重大問題となった。
 当時米国にあっては、海水に含まれている微量(100万分の55)「ブローム」を、ダウ化学KKをして、8年に亘る歳月を費して採取させていたことは、文献により判っていたが、何分にも急なことであり、かつその設備は大げさなもので、取敢えずこの方面の権威者である別府少将の推薦で、東洋曹達の社長岩瀬徳三郎に命じ6カ月で完成せしむることにした。
 然してその技術指導を山口博士担当とし、電気関係の配電盤及び200馬力モーター20台等は、日立担当で3カ月以内に完成せしむる等、突貫工事で進めることにした。
 当時、これら200馬力のモーター及び喞筒20台を3カ月に纏めることは不可能に近かったので、都内劇場の冷房用モーター及び喞筒を徴用して充当する案を考えていたが、どうやら日立の重広君(後の専務)の努力で電機関係は間に合い、一方東洋曹達の岩瀬君の方は、何しろ1日海水10万トンを使用し日産2トンの「ブローム」を採取するためには、反応用耐酸「ラッシュ・リング」を製造すること等は到底間に合わず、新たな構想として、直径2吋の孟宗竹を山口県九州方面から数万本集めて、「ラッシュ・リング」の代用とする等の非常手段を講じ、とにもかくにも昭和17年2月に装置完成(場所は徳山の東洋曹達の敷地内)し、成品が出て来て万歳を三唱した等のこともあった。技術及び人力も、基礎があれば成せば成るものである。
 又高オクタン価航空用燃料として「オクタン価」100の「イソオクタン」の製造が必要であり、海軍燃料廠研究部では、河瀬少将指導の下に江口孝博士が、「カーバイト」を原料とし「アセチレン」「アセトアルデーヒド」「ブタノール」を経て「イソオクタン」を合成する方法を研究し、これが工業化にふみ切った。
 即ち朝鮮窒素の野口社長の英断により、「イソオクタン」20,000トンの装置を朝鮮興南工場の隣の竜興工場に急速建造し、昭和17年5月成品を出荷することが出来た。
 これが完成するには、関係者の血の出るような努力があったことを忘れてはならない。
 石炭液化関係は、河瀬研究部長が本腰を入れてやられたので、そのため勲二等も貰われたのであるが、燃料廠研究部の担当は横田大佐が、工業化の満鉄撫順工場・朝鮮阿吾地工場は鈴木中佐が、それぞれ指導に当たり、触媒関係等は三井博士其他が関係していた。

  米軍の評価

 終戦後、米国の技術調査団が詳細に亘り海軍の燃料及び潤滑油等の研究及び成果を調査した。団長C・G・GRIMES海軍大佐は「大船第一海軍燃料廠は、世界最大でしかも最も完備した燃料研究所で、その研究成果はアメリカと同一水準にある。これを工業化する手段についてはアメリカや独逸の実状から一歩遅れている。しかしながら研究者は敗戦の最後の日迄一歩も研究の手を緩めなかった」と激賞し、戦前アメリカ人の日本科学技術に関する評価がアンダ・エステメートしていたことに対し警告し「何年かの後には日本は世界第一流の工業国になる」と予言していた。
 日本海軍の燃料潤滑油関係の仕事は、海軍機関学校出身者が中核となって推進して来たもので、今次大戦に破れたりといえども、その成果ほ栄光に輝くものと思う。

(注) 「海軍燃料史」・機24期榎本中将の「回想八十年」、機26期渡辺伊三郎少将の「思ひ出の記」参照。
「鎮魂と苦心の記録」から転載

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