日本に残る韓民族の足跡をたどる(中)
公州大のイ・ナムソク教授は「石舞台古墳は7世紀ごろ百済系の蘇我氏が作った大規模な墓として推定されている。蘇我氏は当時、天皇をしのぐほどの強い権力を持っていたことが分かっている」と語った。また、日本の戦後最大の発掘と評価されている高松塚古墳は、北斗七星などを描いた「星宿図」と「四神図」、そして華麗な服を身にまとった男女の姿が描かれ、完ぺきな高句麗彩色壁画だといわれている。しかし現場に行ってみると、本物の古墳は閉鎖され、工事の真っ最中だった。下の方に墓の内部を再現した展示館があるだけだった。鄭永鎬教授は「高松塚古墳の壁画は、誰が何と言おうと高句麗壁画に間違いないが、日本は初唐の影響を受けたものだと強弁している」と語った。
奈良の宝庫である法隆寺は、日本の3大偉人の一人、聖徳太子が創建した寺で、日本で初めて世界文化遺産に指定された。ここにも韓国の先祖の汗と魂があちこちに染み込んでいた。骨組みや屋根、上部をやや細くした柱など韓国固有の建築様式はもちろん、聖徳太子の師として丁重な扱いを受け今でも寺の中に安置されている慧慈法師像、百済観音像、高句麗あるいは百済で製作された仏龕(ぶつがん)の玉虫厨子、土壁、また現在は焼失してしまったが曇徴(生没年不詳。7世紀に高句麗から渡来した僧侶)が描いたと伝わる金堂壁画の痕跡など、高句麗あるいは百済と関係がある遺物が非常に多く残されている。
京都の古刹・広隆寺にある弥勒菩薩半跏思惟像(日本の国宝第1号)は、韓国の国立中央博物館に所蔵されている新羅の金銅弥勒菩薩半跏思惟像(韓国の国宝第38号)の姿とよく似ている。鄭永鎬教授は「京都大学の学生が仏像の微笑に見とれて抱きつき、仏像の指を折ってしまうというハプニングがあったが、折れた部分を調査してみたところ、日本にはなく慶尚北道奉化に育つ金剛松の材質であることが分かった。このことから、この半跏思惟像は新羅のものだとみることができる」と説明した。
飛鳥・奈良・京都=オ・ギョンファン記者
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