過去の哲学者が書いたものを読みながら、そこに自分の考えを忍び込ませる
その昔、流行ったポストモダン批評のやりかた
柄谷行人が得意だった
ルーツはハイデガーあたり
それが、だんだんエスカレートしてきた
どこにも書かれていないのに、本当はこう言いたかったのだ、とか好き勝手なことを哲学者に語らせるようになった
ほとんどイタコ状態
話が一気に胡散臭くなる
そんなに無理して他人の言葉を読み替えなくても、自分の考えなんだから自分の言葉で語ればいい
でもそうしないのは、過去の哲学者の権威を盾にしないと自分の意見を正当化できないから
こうやってポストモダン批評は廃れてきている
それなのに、あいかわらず同じことをやっているのが東浩紀
東浩紀の講義録から引用
>ポール・ド・マンは確か自分が発行してた学生新聞か何かにナチ万歳とか書いていた
>そういうレヴェルのスキャンダル
>記憶の不可能性、決断の不可能性とかそういう話
>ドマンが正しかった、反省していたとかは絶対に書かない
>記憶は不可能
なぜ、デリダはド・マンについてそんな文章を書いたか
決定的な事実
ナチを擁護していたと叩かれている人物に触れながら「記憶なんて不可能だ、決断なんて不可能だ」と言う
普通なら「おまえもナチ擁護か」と叩かれる
でも、そうならない
本来なら真っ先に叩く側のはずなのに、叩くことなどできないというような態度をとる
周りは困惑する
デリダはそれを計算してやった
したたかな戦略
しかし、もしこれが逆の立場だったらどうか
晩年のサイード
自分がパレスチナ人であることを前面に出して論戦を張った
態度がはっきりしないデリダに対する批難もあった
サイードのナイーヴなパレスチナ擁護は、普通なら恰好の脱構築の餌食
もちろんしなかった
ユダヤ人である自分がパレスチナ人の言うことを脱構築すれば、「親イスラエルのシオニスト」のレッテルを貼られるだけだから
デリダの脱構築は、決して自らの社会的な位置づけから切り離されたものではなかった
それは誰よりもデリダ自身が自覚していたこと
では、デリディアンを標榜している東浩紀はどうか
「南京大虐殺はあった」と前置きしてこういっている
>あったと考えている人と、なかったと考えている人がいる
>いる以上、自分がどう思っていようと発言の場を与えるしかない
>あったかなかったかを本当に中立的公共的に言えば、
>どちらも居るとしかいいようがない
客観的にいるかいないか、という話だけならば、べつに間違いじゃない
でも、話はここで終わっていない
>政治的には同じ態度だけど、野家や上野では弱い
>相対的であることを認めることが正義だったら、
>南京虐殺はなかったという奴にも場を与えていることになる
>それでいいのか
>はてなサヨクと言われている人たちが僕に噛み付いているのと同じ構図
>そこで正しさを高橋さんは持ち出す
>デリダの正しさは本当にそうだったのか
結局、東の言っていることはこういうこと
「南京大虐殺否定派を排除するのではなく、南京大虐殺否定派もいるというところから議論を始めないといけない」
これが正しいかどうかはひとまずおく
でも、この考え方はデリダとは全然関係がない
デリダの脱構築は「ナチを排除するのではなく、ナチもいるというところから議論を始めないといけない」とか
「シオニストを排除するのではなく、シオニストもいるというところから議論を始めないといけない」とかいわない
そもそも、そう主張してしまったら脱構築にならない
脱構築においてはそのような主張すら不可能
することができない
そこには、自分の振る舞いの社会的な意味に対して慎重なデリダの不可能な決断がある
日本人である東浩紀が「南京大虐殺否定派もいるというところから議論を始める」と主張する
そこまではいい
どう考えようと勝手
その後が問題
その言葉が加害者側の発言として歴史修正主義擁護ととられても仕方ないのではないかと指摘される
とたんにデリダを引用して、自分はデリディアンだとか称しはじめる
自分の主張を脱構築に結び付けようとする
デリダの逡巡は完璧に無視
自分は日本人からみた南京大虐殺
被害者側と加害者側
そういう根本的な違いにぜんぜん無頓着
都合のいい言葉だけ引き抜いてきて、それを使って自分の意見を語る
確かにこれはポストモダン批評の典型的なやり方
でも、この講義で東浩紀がやっていることは、デリダの権威を借りた自己弁護
もし本気で「南京大虐殺否定派もいるというところから議論を始める」と主張するなら、デリダなんか引用せず、自分の
言葉で語ればいい
どのような非難を受けようと、自分のものとして受け止め、自分の言葉で反論すべき
匿名の言論など無視する、というなら自身が自分の言葉で語らなくてはならない
虎の威を借りた自己弁護についての感想など、匿名による批判で十分