お粗末だった研究発表
昨日、東京・駿河台の明治大学で行われた「日本マス・コミュニケーション学会」の秋季大会を聴講してきた。私は一応マス・コミ学会の会員であるし、今回は「みんなの滋賀新聞」関係の研究発表が行われたからだ。
会員宛に事前配布された開催要項では、当該発表は「コミュニタリアニズム思想が提起するジャーナリズムの可能性」と題するもので、発表者は東京大学の院生。滋賀新聞の経営陣・元記者・創刊にかかわったコンサルタントらに聞き取りを行った結果をまとめたとある。
これだけでも元社員の立場としては聞き取りや発表の内容に危惧の念を抱かざるを得ないのだが、当日会場でレジュメを受け取って目が丸くなった。発表者は東大の院生であることは間違いないのだが、なんと現職の「共同通信社編集局デジタル編集部長」でもあったのだ。この肩書きを見て、研究内容についての危惧をさらに強めたのだが、20分弱の発表を聞いているうちに危惧は「確信」へと変わった。
研究は「民主主義や自由をめぐる政治思想をジャーナリズムの理論と実践に架橋する必要」を感じてなされたもので、1980年代以降のリベラル派対コミュニタリアンの論争や、コミュニタリアズム思想が駆動した米国のパブリック・ジャーナリズム運動を参照軸とし、「神奈川新聞のカナロコ」「鹿児島新報(廃刊)のOBらが立ち上げたサイト」「みんなの滋賀新聞(廃刊)」の3事例について関係者に聞き取りを行い、米国の事例などとの比較を行い、「ジャーナリズムを政治思想に架橋することで、リベラリズム一辺倒ではない別なジャーナリズムの可能性を見出せること」を結論付けている。
研究発表を聞いていた私は、どうしても「なぜ3事例が検討対象になったのか」「3事例の検討を無理やりに結論と紐付けしている」という疑問が拭えないままだった。鹿児島新報の例では、「ネットをベースに紙媒体の復刊を目指す」という同紙元編集局長のコメントが繰り返し引用されていた。滋賀新聞の事例検討でも、小林徹社長(当時)の経営目論見書通りの「お題目」をそのまま引用しているだけである。
鹿児島新報と滋賀新聞は、双方とも「失敗事例」である。こういうケースで当事者は、基本的に「自分にとって都合の悪いこと」は話そうとしない。また、この種の事例では利害や見解が異なったり相反したりする人物や団体が必ず存在するわけで、一方の言い分だけを丸呑みにして論理を組み立てることは、誤った結論を導き出しやすい。
しかも、発表者は社会経験の乏しい若い大学生ではなく、もうすぐ50歳になろうかという共同通信編集局の現職部長である。こういう手法の危険性は熟知しているはずだ。にもかかわらず、こうした手法を取ること自体、何か特段の事情があるのではと勘繰られても仕方がない。
滋賀新聞関係では休刊理由として「公選法の規定で選挙報道ができなかった」「記者クラブの加盟や配信ができなかった」ことで創刊から半年足らずで廃刊のやむなきに至ったことが発表された。
この点について私は「地方紙出身者など一部社員では公選法の規定を当初から危惧しており、実際に私は同様事例を経験している日本海新聞の関係者と会い、助言を受けている。公選法が事実上の拠り所としている第三種郵便認可の取得に関し、経営陣がその重さを認識していなかったこと」「記者クラブ加盟については、共同通信が主力メンバーである十社会が難色を示し、一部全国紙は滋賀新聞創刊が小林氏の政界進出の道具に使われる危惧を抱いていた」ことを挙げて説明を求めたが、発表者は返答する姿勢を見せなかった。
また、「滋賀新聞において、市民記者発信の原稿は質や内容の点で問題になるものが少なくなかった」と、商業新聞の紙面の質確保の観点からは問題があることについて意見を求めたが、「最初のうちは仕方ありません」とせせら笑って答えるのみだった。
どうも、各事例について検討をきちんと行ったわけではなさそうである。
実はここで質問をやめるように司会者から指示があったのだが、2人の司会者は頭を抱え込んだりしかめっ面をしたりしていた。私の質問の内容が、事例研究を無理やり結論と紐付けしている点を突いていることに気づいたからだろう。
ちなみに、滋賀新聞の「市民記者」制度はパブリック・ジャーナリズムとは直接関係がなく、経営的な事情から採用されたもので、これを経営陣に入れ知恵したのは、今年初めに雇用保険助成金の不正受給が週刊誌ダネになった、龍谷大学の築地達郎准教授である。
思わず失笑しそうになったのが、持ち時間切れの直前に発表者がこの研究内容をまとめた書物を出版することをPRするように促したことだった。
この本のタイトルは『新聞再生 コミュニティからの挑戦』。平凡社新書として12月に発売されるそうだ。
この本が出版され次第、内容について検討を行い本ブログにて必要な批判・反論を行うつもりである。
「滋賀新聞」の誤ったイメージが一人歩きするのを、何とか食い止めたい。