【29歳のシロクマから、三十路へ】(2005.2/1)
遂に、私の二十代が今終わりを告げようとしている。29歳のシロクマが
いなくなるだけではない。二十代のシロクマもいなくなり、それぞ30歳の
シロクマと三十代のシロクマが誕生するのだ。10年に一度の節目の
誕生日(転生)を、今年は体験している。思春期が終わる予感を感じながら。
29歳の一年は、シロクマ人格改造五カ年計画の四年目〜五年目に
あたる。去年鬱病を発病した名残と、去年あのひとが残した様々な文化・
風習・美徳を継承する為の修得に力を削がれたため、この一年で
新しく獲得したものはあまり多くはない。SNSや2chは過去からある程度
引きずってきたものと関連が深いし、ラグナロクオンラインは獲得した
ものというよりは、寧ろ背負ってしまった重荷と表現するのが正解の
ような気がする。他は全て、鬱病を警戒しながらの仕事・活動であり、
あのひとの残してくれた音楽や文化の復興と修復に力が割り振られた。
こんな中、人格改造五カ年計画が推進されるわけもなく、コミュニ
ケーションに関する理論と実践はむしろ衰退してしまたかもしれない。
ただ、28歳の自分の過ちから、私はひとつのことを新たに学んだ――
つまり、仮にコミュニケーションスキルと呼称されうる技術を伸ばした所で、
それを統御し節制出来る心が無ければ意味はないし、むしろ有害かも
しれないということを。確かに今年、私のコミュニケーションスキル(特に
対異性)は全く伸びなかったし、むしろ衰退した部分さえあるだろうけど、
それは私にはお似合いのことなのかも、と感じるようになったのだ。
コミュニケーションに関する力と技を手に入れたとて、私の心が十分に
節制の効いた、思いやりのあるものでなければ、望ましい結果は生み
出すことが出来ない筈だ。ここでも技術の悪用と誤用が起こり、結果
として自分を苦しめるだけの技術となりかねない。私はサイコパシーでは
ないので、好きになった同性や異性を無条件で蹂躙する事は出来ない
性質らしく、我利我利亡者の果てに知己に迷惑かけそうな行動は慎まな
ければならないし、それが思いとどまれないなら余計な力を持つべきでは
ないのだろう。丁度、思慮の浅い独裁者に核兵器や権力などを持たせては
いけないのと同様、今の私には強いコミュニケーションスキルは持たせては
いけない。
こうなると、三十歳になって達成すべき最優先の課題は決まってくる。
それは、強い力や新しい技術に溺れて欲得の亡者にならないだけの、
節制だろう。また、自分の為なら何でもやっていいと考えたり、他人を
モルモットにして実験を平然と企画することの禁止(もっと言えば、禁止
なんぞしなくても自然にやらないだけの倫理性)だろう。今後、様々な
形で新しく力をつけていくんであっても、私はその力の奴隷に成り下が
らないようにしなければならない。もちろん、コミュニケーションスキルや、
それを利用して構築した人的ネットは今後も拡張すべきだが、それと
平行して、シロクマレギュレーターとも呼ぶべき節制を身につける事が
今後の大きな課題だ。例えば『三十代の恋は肉欲だ』などという意見に、
私は断固挑戦し、欲得に振り回されない傾向を構築していきたいもの
である。大変難しいことだとは知っている。だが、これを克服しない限り
新しい技術の導入や拡張はリスクが高いだろうし、28歳の頃と同じ
過ちで恩人達を傷つけるかもしれないし、何より自分を不幸にしやすい
だろうと懸念する。汎用適応技術は、全て個人の幸福の為に貢献する
よう注意すべきものであり、不幸を招くような使い方は認められない。
それにしても、実際に心に節制が宿ったとて、私にどこまで新しい
技術(特にコミュニケーションスキル)をインストール出来るのだろう?
これも大きな心配の一つだ。29歳の私は、技術をあまりインストール
できなかったばかりか、変な手癖がついてしまったような気がする。
また、鬱が改善したとはいえ、発病前に比べると遙かに目が弱くなって
しまったため、目を長時間会話の武器として用いるのも困難になって
しまっている。目を使いすぎるとあっという間に疲弊する現状では、
目を使ったコミュニケーション(これこそが私の技術の中核なのだが)
を多用させる事ができない。こういった問題を克服していくのは、かなり
大変な事だろう。そろそろ私の脳も老化しはじめているので、今まで
以上に困難が伴うと推測される。もう、二十代ではない。学習や改革は
一層困難になるだろうが、それでも前に進むしかないと信じて、やって
いこう。今はまだ28歳前後のテクノロジーを再獲得している段階だが、
ある程度落ち着いたら、次の段階を展望したい。まだ、それが出来る
段階ではないけれど、三十路というものにも幾らかの期待を持って
生きていきたいと思う。