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わが町にも歴史あり・知られざる大阪:/104 川口居留地 大阪市西区 /大阪

 ◇メリヤス・自転車・ビールにホテル、数々の「大阪初」が誕生

 毎日新聞社刊「大阪百年」の「川口居留地」の項は、ラムネ水の話から説き起こしている。1887(明治20)年末、いまの本田小学校の東隣にあった「華商十八番館」が売り出したラムネ水は、瓶の赤い証紙に「十八番」と書いてあったから、十八番がラムネの代名詞になったという。

 「センを抜くと『ポーン』とすさまじい音がして『シュー』とあふれ出し、ぐずぐずしているとビンの中身が半分くらいになってしまう強力ラムネだから、ピストルの音と間違えて大さわぎになったりした」

 「ざん切り頭をたたいてみれば文明開化の音がする」と言われたものだが、ポン、シューでポン水と呼ばれたラムネ水の音こそが、大阪の文明開化の音だったのかもしれない。ポン水はおおはやりし、明治半ばには大阪市内に42軒もあった。

 1886(明治19)年に36区画に拡張された居留地とその周辺の雑居地から、メリヤス、自転車、人力車、ビールにクリーニング……。数々の「大阪初」が生まれた。

 ホテルは、雑居地に1868(明治元)年にできた「外国人止宿所」(自由亭ホテル)が始まりで、のちに中之島に出て大阪ホテルとなる。これとは別に、「オーサカ・ホテル」も明治初期に開業している。

 牛肉屋も川口発で、これには大阪天満宮と絡んだ逸話が残る。「近来年代記」の明治2年の項に「大成りっぱ成料理屋、異国人を入る所にして牛の身などつりて」とある。このりっぱな料理屋が自由亭ホテル。当時、天満宮の御旅所が雑居地となった梅本町にあった。牛は天神さんのお使い。それを料理する店が目と鼻の先にあるのは具合が悪い。というわけで、1872(明治5)年に松島に移転する。天神さんには災難だったようで……。

    ◇

 カフェは1911(明治44)年、木津川橋の西詰めにできた「キサラギ」が最初。「大阪史蹟辞典」によると、「ガラス戸を押して入ると靴脱ぎのタタキがあり、スリッパにはきかえ板敷きの室内に入るありさまだった。現在なら田舎工場の食堂といった様相だった」と記す。東京の「プランタン」に次ぐ日本で2番目のカフェには、「モダンボーイを気取る若者が集まり、木卓を叩(たた)いて虹のような気焔(きえん)を吐き」と、にぎわったようだ。この中には劇作家の食満(けま)南北や洋画家の小出楢重、鍋井克之らがいた。

 「そこから川をへだてて江之子島の府庁舎を望むと、正面の菊の紋章が、キラキラ夕日に光って見えた」。「大阪百年」は、当時の情景を記している。

    ◇

 居留地の西の安治川には1873(明治6)年、安治川橋が架けられた。大阪案内人の西俣稔さんいわく「安治川は船が入ってくるので、川を渡るのは渡し船。けど、そこは大阪人。船が通る時だけ、中央部がクルッと回る橋を架けたんです」。

 西欧から輸入した鉄橋で、中央の橋げたが旋回する仕組み。「磁石橋」の愛称で大阪名物となった。しかし、12年後の大洪水で上流から橋が流され、安治川橋がせき止める形になって市内にさらなる洪水が生じる恐れが出たため、爆破撤去されてしまった。

 川口2の通りの角に建っている「安治川橋之碑」には、上方浮世絵師、長谷川貞信の筆になる錦絵「浪花安治川 新橋之景」のレプリカがはめ込まれている。それを見ると、橋の上には馬にまたがった洋装の外国人と、着物姿の日本人がたたずんでいる。まさに大阪と西洋の架け橋だったわけだ。【松井宏員】

毎日新聞 2008年12月19日 地方版

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