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対馬島は韓国の地-朝鮮王朝実録  |  伝統 問い合わせ 297|共感 1
番号1706448|作成者KOREAphpp0|作成時間 2008-07-12 12:41:56
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元々対馬島は韓国の地だったが, 日本の海賊が侵略をした.その後高麗時代にも継続的に服属,征伐をしたが,

まず, 日本は対馬島に対して別に関心がなかった.

そうするうちに朝鮮初期に朝鮮が 2万名の大軍で征伐をすると, 日本本土ではこの征伐を日本本土に対する征伐の始めに見て恐怖状態で対馬島に対する領有権を朝鮮政府に譲渡することに決めて日本 倭 寇の活動を禁止する..(当時朝鮮の国力と分裂された日本の国力を比べて見ろ)

当時日本本土では高麗,モンゴル連合軍の日本侵攻の記憶があったので恐怖状態だったことだ.

そして公式的に対馬島の領主は朝鮮で官職を受けるようになった./P>

廃バンチ県移転まで日本政府は対馬島に関心を置かなかったし対馬島の領主は朝鮮で官職をずっと受けていた明白な朝鮮の統治権の領域だった.

 

 

実録は 1級の史料だ.エンジョイジャパンの日本人たちの持って来る史料は実録に比べると本当につまらないのだ.

 

世宗元年(1418年)にある李宗務の対馬島征伐, すなわち己亥同情(己亥東征) 以後対馬島は続いて慶尚道東莱部の所属図書に編入されて朝鮮政府の統治に臨んだ.
ソックズファ(属州化)を要請した逃走使臣(島主使臣)の要請内容となると "外で帰国を護衛して, ....我が島にとって領土の中に主君のはいよって注意名称を決めてくれて人身(印信)をくださったら適切に臣下の道理を守ってさせるままによります. ([世宗実録] 2年磨き 1月 10日)
確固な国家観を持った世宗と学者ギムズングゴンは [奴婢文記(路婢文記)]に頭指(豆之 : 対馬島)インがいるに対して "対馬島はすなわち朝鮮の地でその所に倭人(朝鮮到来である)が暮していると言って何が係ろうか"と言ったことから世宗の時の対馬島認識官が分かる. ([世宗実録] 23年 11月 22日)
世宗の時政丞である黄喜も対馬島は昔から我が地なのに高麗末期に国家綱紀が崩れて盗賊の侵入を阻むことができなくてどうして謳歌雄拠するようになったというソックズウィシックを打ち明けた.このような対馬島ソックズウィシックは君臣と学者, 一般国民皆の頭と胸の中に深く刻まれていた.
行長(行壮), 年寄り(路引), 文人(文引), 図書(図書), 垂直倭人(受職倭 人), 通信部(通信符), 象牙部(象牙符) などの各種通行証を発給したことは大麻道民は私たちのソックミンだったというのと室町幕府下衣日本が自ら要請して通交許可を受けたことは日本が私たち調整に対して朝貢を捧げたという実証的内容だ. これら通行証の往来と検疫は巨済島ジセポ万戸が担当した. ([世宗実録] 圏 4,8,82 位)
世祖の時には大麻逃走宗姓職の垂直をお勧めした過程で大麻逃走に下げた教書では "敬意祖父が代代に私たちの南側変更を見詰めて国土を保護するようになったが, 今敬意先祖の意を引き継いでもっと敬って怠けではなくて重ねて人を送って名づけ(爵命)を受けることに請じたら, 私がその真心をよみして特別にスングゾングデブパンズングツワンサ大麻株病魔島節制社を除数する"と言った. ([世宗実録] 7年 8月 28日)
その後成宗と演算組の調整で大麻逃走に与える西界(書契)でも "大麻与える我が国の俗信なのにどんな理由で朝鮮と対馬島を両国と称するのか. お前の逃走が私たち調整に神さましなさい称したから対馬島は朝鮮のいちチュ・ヒョンに過ぎないだけだ.欄記事がたくさん見える. ([成宗実録] 25年 2月 7日, [燕山君日記] 8年正月 19日)
李滉は朝鮮と対馬島の関係を中国歴代王朝の隊伍ランケ政策を援用しながら金持ち関係で見た. ([ガブシンポヨックゾルウェソ(甲辰包勿絶倭疏)], [退渓前で] 圏6)
また彼は細砂米豆(歳賜米豆)の意味に対して "対馬島が忠誠をつくして海を心強く守る苦労な功績をよみして毎年下賜する."と言った. ([イェゾダブデマドズ] 圏8)
世宗 26年(1444年) 天気図チォムグァン強権船の報告書には "対馬島に対して日本国王の命令が及ぶことができない島"と言って日本本土とは確かに他地域(まさに朝鮮の島)で把握した. ([世宗実録] 26年 4月 30日)
キム・ソンイルが書状官虚星に送った答書の内容で "対馬島が我が国の朝廷の恩恵をこうむって私たちの東垣根を成しているから義理で言えば君臣の間です. 地で言えば私たちの属国だ."と言った. ([ダブホソザングで], [ヘサロック] 圏3)
成宗 18年に大麻逃走の西界内容を見れば "永遠になるように帰国(朝鮮)の臣下として忠節をつくすでしょう"とされている. ([成宗実録] 18年 2月 7日)
大麻逃走宗義誌に送った慶尚察使到の踏査内容となると "我が国と日本は兄弟と一緒に友好関係を結びながら信義と和睦を磨いて 200余年の間少しのひまもなかった.対馬島は私たちのソックズとして朝鮮の臣下に仕えたので国で甚だしく手厚くもてなした. 歳遣船の穀食で食べさせて車の呉服で加えたから, 島のすべての民が先祖代代にその徳を着て養育受けなさがなかった. 彼として生活したから皆が上国である我が国の恩恵だ." ([朝鮮実録] 2年 8月 7日)