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わが沖縄県には、「蘇鉄地獄」と称される飢餓の時代があった。それは、大正末期から昭和6、7年頃までで、蘇鉄を食べて飢餓を凌いだからである。当時の押し寄せる不況の波はいよいよ深刻となり、竹富島でもこの生活苦を切り抜けるために、台湾出稼ぎについて頻りに話し合われた。
竹富島で台湾出稼ぎの先陣を切った人々は、大浦正亮、三盛尚徳、竹島馨、前三盛芳、高野キヨさん等で、それは大正8年のことであった。以後、小学校を卒業した少年少女たちは、次々と台湾出稼ぎを希望して、出発準備に取り掛かった。子供の初旅を見送る母親たちは、
ヨーヨー、モーキリヨー。ジンヤ一番、キンコーヤ二番、ティガミヤ三番ドー(いいかい、うんと儲けろよ。お金が1番、健康は2番、便りは3番だぞ)
と、強く言い聞かせたものだった。
台湾に着いた少女たちの多くは、ヤマト人の子守りや女中となり、ネーヤと呼ばれた。また、少年たちは、ヤマト人の商店の丁稚となった。
しかし、大正15年に発表された広津和郎の『さまよへる琉球人』にも描かれているように、台湾においても、ヤマト人は琉球人を差別していた。その差別から逃れようと、琉球的な苗字を棄ててヤマト人的な名前に改めたり、本籍をヤマトの他府県に移したりする人も出てきたりしたのである。
ヤマト人に差別された台湾生活ではあったが、竹富の若者たちは、それにもめげず台湾を目指したのである。昭和5年の先島朝日新聞は、台湾で生活する八重山出身者は1,200人で、その内の500人が竹富出身者であると報じているが、それには台湾生まれの竹富二世の数も合まれている。
昭和10年10月から40日間にわたって、始政40周年記念台湾大博覧会が開催された。「内台一如」つまり、台湾は内地の延長であるという博覧会であった。大博覧会は空前の盛況を極め、大成功裏に閉幕したが、それを機に台湾への出稼ぎ熱はますます高まり、昭和12年の在台竹富出身者は1,200人に達していた。
ふるさとを後にして台湾で働く竹富娘たちは、大衆食堂「来々軒」に集まり、テードゥンヤマト口(竹富式の共通語)で、上品に島のニュースをはじめ、苦労談や失敗談を声高に話し合って、心の憂さの捨て所にしていた。彼女たちが共通して心に深くあるのは、50銭でも1円でも多く両親に送金したいという純真な乙女心であった。
台湾帰りのオバー(おばさん)たちは、「あの頃台湾で話したテードゥンヤマト口(竹富式共通語)の思い出は忘れられない。あれほど楽しく、懐かしい言葉はない」と今でも話している。
また、あるオバーは、「台湾で、3年間女中奉公したので、家政女学校生と同等の社会性と教養を身に付けた」と、誇らしく話してくれた。因みに、当時の台湾行きの運賃は、大人6円20銭だった。
当時の八重山の人々は、出稼ぎ先の台湾で、新しい文化を経験した。竹富島の人々も、台湾から伝わってくる電気や水道や電話や汽車やラジオの話を聞いて、明治以来の近代化を知った。それと同時に、台湾出稼ぎは、竹富島の経済を支えていたのである。
要するに、植民地台湾から学び取った文化や教訓は、竹富島の生活史に大きな役割を果たしていたのであり、竹富の人々にとって、台湾は忘れられない心のふるさとである。