20081219
■[雑文]水商売の女の人は「男の欲望」を着ている
深夜にコンビニで仕事をしていると、水商売の女の人がよく来る。俺は、正直に言ってこうした仕事の女の人たちがあまり得意ではない。とはいえ、やっている仕事の種類によって人格が決定するなんてことはないわけで、人間個人としてその人たちのことをどうこう言うつもりはない。大蔵省の高級官僚も、マタギの人も、水商売の女の人も、結局コンビニでの客と店員だけの関係なのだから、本当はどういう人かなんてわからない。俺には判断できない。
にもかかわらず、俺はいま「水商売の女の人が苦手だ」と書いた。その人の人間性みたいなものを判断できない以上、俺は別の尺度で彼女たちを嫌っていることになる。それはすなわち、「職業に応じた共通の特徴がある」と断言しているも同じだ。
もちろん、ある。あるからこそ、こうやって文章を書いている。派手なメイクはもちろん苦手だ。なにより俺は体質的に揮発性のものにアレルギーがあるらしく、香水の香りが苦手というより、クシャミが連発して受け付けない。
それだけなら、別に水商売の人に限ったことではない。
決定的に苦手なのは、あの独特の距離のとりかただ。なれなれしいのになにも見せていない、あの対人の技術のことだ。
ここで少し補足説明が必要かもしれない。俺が店を営んでいる場所は、かつては漁業で栄え、現在は漁業を含めた地場産業が衰退し、人口は年々減少、若者は都会に出て、地元に残るのは、高齢者と都会の企業に就職できなかった低学歴の若者だけ、という言ってみれば典型的な「田舎」だ。ただ、もともとの人口が少なくなかったので、かろうじて日常生活を送るための公共サービス、商業施設などのセットは残存しており、なんといったらよいのか、緩やかに限界集落への過程を歩んでいる途上というところだと思う。
ちなみに、俺自身は首都圏の都市部の出身で、ここに店を開くためにわざわざ引っ越してきた。つまり、地元の人間ではない。
桜庭一樹の「少女には向かない職業」にもあったが、陸に上がった漁師というのは、本当になにもできないらしい。そしてここは漁師町だ。ここには、昭和の遺物のような「海の男」がごろごろいて、男のプライドとやらいう俺には理解できないものを捨てられず、かといって「もうあの輝かしい時代は戻ってこないのだ」という現実も受け入れられず、日々酒を飲んでクダを巻いている。
旅行好き、かつ街歩き好きな方なら気がつくことがあるかもしれないが、漁師町にはやたらに小さな飲み屋が多い。長い漁を終えて陸に戻ったときに、思うぞんぶん酒を飲んで憂さを晴らしたいというのはまあ人情としてわからないではない。しかし、その街で漁業が衰退したらどうなるか。衰えた経済力でそれほどの数の飲み屋が維持できるのか。
意外にも飲み屋の数はさほど減らない。男たちのあいだには、「夜は外で酒を飲む」という習慣が抜きがたく固定している。この段階では飲み屋は単に「酒を提供し、男にひとときの癒しを与える場所」という機能を逸脱しはじめている。飲み屋というものが、そしてそこで働く女の人たちが、人間関係のハブとして機能しはじめるのだ。
この街には働き口がない。しかし人はいる。男は外で現場仕事をする。持ち帰った金を飲み屋で消費する。もともと早婚でかつ離婚率の高い街で、女たちは働き口がない。いや、あるじゃないか。たくさんある飲み屋だ。
こうして、水商売という仕事は、技能職というよりは、子供ができてしまった若い女性、あるいは離婚した若い女性の就職口にもなる。そこで新たな出会いを見つけて再婚する人もいるだろう。
そして、こうした構造は、年輩の男たちが「若いもん」を引き連れて飲み屋に行くことにより、そのまま次の世代にまで温存されることになる。
俺はこうした構造には巻き込まれていない。外部から観察しているだけだから、誇張や、逆に足りない部分もあるかもしれない。しかし、実態から大きく外れていることはないと思う。
付け加えるなら、高学歴の人はこうした状況にはなじめず、さっさと都会に出てしまう。残された人たちが親となる。その人たちにとって教育というのはさほど重要なことでない。地元の公立小学校、中学校の学力のレベルも低い。なにより、この街の本屋には、大学受験の参考書がない。
長々と脱線してまで説明したかったことは、つまり飲み屋というものが、いろいろなもののハブとなっているということ。そして地元の男であるからには、基本的には行きつけの飲み屋がある「はず」だ、という常識があることだ。つまり、地元の飲み屋で働く女性にとっては、地元の男性はすべて「顧客になる可能性のあるもの」として把握される。そしてそのなかには、コンビニの経営者という一定の社会的認知度がある仕事をしている俺も含まれる。
こうして俺は彼女らの「客」として扱われる。
彼女らは、声帯の開いた抑揚のない発音と、少し鼻にかかった発声でこう言う。
「こんな時間までお仕事大変じゃないですかー?」
「私らもこういう仕事してるからわかるけどー」
「店長さんはお酒とか好きなんですか?」
「えーうそー飲めないんだー」
彼女らは、まず総じて物理的な距離を縮める。胸元の大きくあいた服で、この寒い季節に膝上何センチかの短いスカートで。もちろん漂う香水の香りも制服の一部だ。
彼女らは俺の個人情報に興味を持つ。これは「あなたに関心がある」という意味だ。そして俺をすごいもの、強いもののように扱う。そしてそうしたものに魅力を感じているのだ、ということを極めて隠微なかたちで示す。こうしたものは、媚びの様式化と呼ぶことができる。あなたのものになりたいのです、私は商品です。それが彼女らの主張だ。
もちろん、これは彼女らの仕事だ。そのための技術だ。しかし、同時に仕事だと男に思ってもらっても困る。出来レースであろうとも、ほんの一瞬でも男を騙せなければならない。そうした矛盾を隠すためにかの彼女たちが駆使する技術を俺は素直に賞賛する。
彼女たちの技術は、男の「こうしたい」という欲望に最適化されている。また「こうありたい」という理想に近いものとして男をまつり立てることに最適化している。
それがたまらなく「気持ち悪い」。俺は二次好きでロリコンで被虐妄想のある変態であり、彼女たちにそうした欲望を持てるはずもない。このような人間が彼女たちを見ると、男の欲望の形式をまとった怪物のように見える。俺は女を「顔と胸と尻」、もっと露骨に言うならば、女という生物を「性器」として把握する世界観からの敗残者だ。俺自身はそれを敗北とは思っていないにせよ、多数派でなければ敗北者として見なされる。
そうだ。彼女たちが職業的に衣服のようにまとったあの媚態は、俺に「おまえも男なのだ」と言うことを強要している。とうの昔に克服したはずの「まともな男ではない」というコンプレックスを刺激する。
ましてやこの街では、教室での人間関係が、そのまま何十年も結晶化されて生き続ける。彼女たちの媚態は「強いもの」、つまり教室での勝者に最適化されている。スクールカーストとやらいう構造に組み込まれることすらなかった不可触賤民を出自に持つ俺にどう対応できるというのだ。
なるほど、俺は現在では強者といってもいいだろう。日常的に「ちんちん踏まれたい」とか「顔面に騎乗してくれる年下のわがままな姉募集chu☆」などと日記で書いていても、リアルでの利害が絡む局面で負けることはそうはない。しかし、だからといって、あの日、すべての人間が俺を苛もうとしている、俺の味方はこの世界には存在しない、と心の底から思い知った自分が消えるわけではない。それはたぶん、死ぬまで消えることはない。
最後に、念のため書いておく。俺がこの文章で糾弾しているものは、もちろん水商売の女性たちではない。しいていえば、男性の欲望の形式というものには、深刻な嫌悪を感じるが、それですらも「俺はこのようであるが、彼らはそのようではない」という程度のものだ。
俺は重度の中二病患者なので、常に見えない敵と戦っているようだ。あなたには見えるだろうか。人間を不自由にするものが。人間を見えない鎖で縛り、その人の見る世界を矮小化させるものが。
見えないのならば、それはおそらく幸いなことだ。あなたの敵は目に見えるものだ。そしてあなたは大人なのだろう。しかし俺には見える。見えてもクソの得にもならない敵が。
ああ、ひとつだけいいことがあった。
そうだな、空が今日も鮮やかに青い。25年前に、中学校の帰宅途中にあった神社から見たあの青空と同じように、空が鮮烈に青い。
ま、どっちにしろ幻かもしんないけどさ。