古河市出身のハンセン病元患者で、国立療養所「多磨全生園」(東京都東村山市)に入所する平沢保治(やすじ)さん(81)が4日、約70年ぶりに実名で帰郷し、卒業した小学校を訪問した。その意味の重さを考えるうえで、象徴的な川柳がある。
もういいかい 骨になっても まあだだよ
死を迎えてなお古里に帰れないハンセン病元患者の愁嘆(しゅうたん)を詠んだものだ。昨年暮れに87歳で他界した作者の男性は、半世紀以上を過ごした岡山県内の療養所に眠る。今も多くの回復者が実名を名乗れず、親族もまた偏見を恐れて、息を潜めて暮らす。らい予防法が廃止されて10年以上がたち、国が謝罪しても、なお変わらない現実だ。取材をしながら、無力感に襲われることもある。
平沢さんは13歳でハンセン病と診断され、翌年のクリスマスに園に入った。元患者の人権回復運動の先頭に立ち続けて40年以上。著作も多く、講演先は国内にとどまらない。帰郷の決意は長い葛藤(かっとう)の末にあった。「私は生まれた所はあっても古里がない。血がつながった人はいても肉親はいない」。国が、社会が、古里への道を閉ざし、平沢さんもまた、親族への影響を案じ、望郷の思いを胸にしまってきた。
2年前に体調を崩し、心境に大きな変化が訪れた。「死ぬまでに堂々と帰りたい。自ら道を切り開き、何か問題が起きたら世論が解決しなければいけない」。今年2月、初めて古河市出身と公言した。
平沢さんの著書に「ぼくのおじさんは、ハンセン病」という元患者の半生を描いた創作童話がある。「ふるさとへの道」と題した最終章は、主人公の帰郷を示唆して終わる。社会に物語を紡いでほしいという願いを込め、あえて未完のまま出版した。
母校・古河二小での講演には、70年来連絡が途絶えていた幼なじみも姿を見せた。童話の共著者で、帰郷に尽力した笠間市の養護学校教諭、船橋秀彦さん(53)は「雪は必ず解けていく。ここに物語が完結した」と涙を流した。
帰郷を終えた平沢さんにもう一度、古里の意味を尋ねた。「やっぱり強がりを言っても心から離れない所です」。しばらく間を置き、返ってきた答えに救われた気がした。【八田浩輔】
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無差別殺傷事件や、景気後退、政治の混乱に揺れたこの1年。現場に立った記者たちが年の瀬にもう一度取材し、考え、報告する。
毎日新聞 2008年12月16日 地方版