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■日本を操る赤い糸〜田中上奏文・ゾルゲ・ニューディーラー等2003.6.19/2006.4.7
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20世紀以降、日本は、共産主義の活動によって、大きく進路を狂わされました。実態は、まだ明らかになっていないことが多くあります。その真相を究明することなくして、日本の進路を軌道修正できない点があります。そこで、以下において、『田中上奏文』、ゾルゲらの共産主義者とそのシンパ、「ハル・ノート」、中国共産党による『日本解放綱領』等について考察したいと思います。 |
第1章 日本悪玉説のもと、『田中上奏文』
東京裁判において、日本は、国家指導者の共同謀議によって、昭和3年(1928)以来、計画的に侵略戦争を行ったとして、断罪されました。その裏付けの一つとされたのが、『田中上奏文』です。 中国語では「田中奏折」と記し、英語では「The Tanaka Memorandum」または「The Tanaka Memorial」と記します。「田中メモ」であれば個人的な覚書ですが、「田中メモリアル」となれば歴史的な価値のある文書という意味となります。この文書が偽書であることは、既に国際的に定説となっています。欧米でも『エンサイクロペディア・アメリカーナ』や『ブリタニカ』に、「偽造文書」と解説されています。しかし、今も中国のみはこれを本物として、対日外交に利用し、南京事件もこの文書に書かれた計画の一例としています。 『田中上奏文』の虚偽を徹底的に明らかにしなければ、日本の汚名をぬぐうことはできず、国際社会における正当な地位を回復し得ないのです。 この20世紀最大の謀略文書について、最近、ソ連が捏造しただという新説が出ています。また、中国では田中上奏文は存在しなかったという見方が主流になりつつあるといいます。もしそうだとすると、わが国は、共産主義の謀略に見事に嵌められたことになります。 ◆あり得ない文書が登場 『田中上奏文』には、世界制覇の野望に基づく計画が書いてあり天皇も承認した、それを実行に移したのが昭和3年の張作霖爆殺事件だ、その後の日本の行動はこの文書に書かれた計画に基づいている、と流布されています。 その一節には、「世界を征服しようと欲するなら、まず中国を征服せねばならない。中国を征服しようと思うなら、まず満州と蒙古を征服しなければならない。わが国は満州と蒙古の利権を手に入れ、そこを拠点に貿易などをよそおって全中国を服従させ、全中国の資源を奪うだろう。中国の資源をすべて征服すればインド、南洋諸島、中小アジア諸国そして欧州までがわが国の威風になびくだろう」とあるとされます。 『田中上奏文』の「田中」とは、昭和初期に首相を務めた陸軍大将・田中義一のことです。田中内閣が発足したのは、昭和2年(1927)4月20日。シナでは、軍閥、コミンテルン、共産党等が絡む事件が続き、わが国の対応が難しくなっていた時代です。 田中は組閣に当たり、昭和天皇より、外交には特に慎重熟慮するようにとの御言葉を賜りました。そこで、根本的な大陸政策を確立するために一大連絡会議を開きました。この東方会議の議決に基いて田中首相が天皇に上奏し、天皇が署名したとされるのが、『田中上奏文』です。そして、『上奏文』の計画の実行の第一歩として、昭和3年6月、関東軍は張作霖事件を起こしたとされるのです。 しかし、実際は、全く異なります。張作霖事件について陸軍は、真相を隠して事件の揉み消し工作をしたというのが通説です。田中義一首相は責任者を厳しく処分すると天皇に申し上げたのですが、真相究明に一年もの時間を掛けた挙げ句、白川陸軍大臣があれは陸軍が関与したのではないようだったので、行政処分にしましたと上奏したのです。すると天皇は、汝の今言っていることは前回に自分が総理に命じ、総理が約束したところと違っている、そんなことでは軍の規律を維持できない、と激しくお怒りになりました。田中首相は、お目通りもかなわない。そこで田中は非常な衝撃を受け、田中内閣は即日、総辞職。首相は謹慎して3ヶ月足らずの後に、狭心症で亡くなりました。 田中首相が上奏した文書を、天皇が承認して、計画を実行したなどということは、あり得ない話であるわけです。 昭和天皇は立憲君主であろうとされ、政府が決めたことは、ご自分の意思にかかわらず、そのまま承認することに徹しられました。天皇がそのように徹するようになったきっかけこそ、田中義一首相の辞職事件だったことが、『昭和天皇独白録』に記されています。昭和天皇は、「この事件あつて以来、私は内閣の上奏する所のものは仮令自分が反対の意見を持っていても裁可を与える事に決心した」「田中に対しては,辞表を出さぬかといったのは、ベトー(=天皇の拒否権)を行ったのではなく、忠告をしたのであるけれども、この時以来、閣議決定に対し、意見は云ふが、ベトーは云わぬ事にした」と『独白録』に記されています。例外は、2・26事件と終戦のご聖断の2回のみです。 今日『田中上奏文』または『田中メモランダム』『田中メモリアル』と呼ばれる文書の存在に、日本政府が気づいたのは、昭和4年(1929)の9月でした。その時点で、すでに中国語版と英語版の両方があったようです。そして12月に、初めて中国語版の全文が活字の形で公表されました。漢文では『田中奏折』といいます。文書は、南京で出版された月刊誌『時事月報』の誌上に掲載されました。翌5年2月、わが国の外務省は中国各地の領事館に対し、流布の実況を調査し、中国官憲に抗議、取締りを申し入れるよう訓令しました。 英語版の公刊は、昭和6年(1931)9月、上海の雑誌『China Critic』に出たものが最初とされます。1930年代、米国で英語版のパンフレットが作られ、世界各国に広く配布されました。ソ連に本部のあるコミンテルンは、昭和6年12月、雑誌『国際共産主義者』にロシア語版を発表しました。 英訳された『田中上奏文』は、米国で強い反発を呼び起こしました。「日本が世界制覇を達成するためには、まずシナ・蒙古を征服し、その過程で米国を倒さなければならない」という内容があり、米国との戦争が明確に打ち出されていたからです。ルーズベルト大統領もその内容に注目したことが記録されていると伝えられます。この文書は、米国の対日姿勢の硬化に一役買ったと言えましょう。(1) ◆反日宣伝の材料に 実は『田中上奏文』には、本来なら当然あるべき日本語の原典が、現れていないのです。また、内容には、文書内の日付などに矛盾や誤謬が多く、ことさらどぎつい表現が使われています。到底、日本の首相が天皇に上奏するために書いた文書とは考えられません。昭和5年2月、わが国の外務省は、文書を偽造と断じ、シナの国民党政府に抗議したのです。 ところがそうした文書が、シナでは絶好の「排日資料」として利用され、繰り返し宣伝されました。たとえば、昭和7年11月、国際連盟の第69回理事会で、満州事変が討議された際、中国の代表は『田中上奏文』に言及しました。日本代表・松岡洋右が、この文書を真実とみなす根拠を追求したところ、中国代表は「この問題の最善の証明は、実に今日の満州における全事態である」と答えました。ひどいこじつけの論法ですが、その後の東京裁判でも、中国は同じ論法を使っています。(2) 『田中上奏文』は10種類もの中国語版が出版され、大陸の津々浦々で流布されました。ロシア語版、英語版、ドイツ語版まで出されて、世界中に「世界征服を目指す日本」というイメージをばらまいたのです。ただし、「日本語訳」はありますが、日本語で書かれたはずの原典はいまだに発見されていません。最初から偽書であるから、原典が存在しないのです。 東京裁判では、米国・旧ソ連・中国などの連合国が日本を裁くうえで、『田中上奏文』を重要な根拠としたようです。 冒頭陳述において、キーナン主席検事は、日本は昭和3年以来、「世界征服」の共同謀議による侵略戦争を行ったとのべました。被告等が東アジア、太平洋、インド洋、あるいはこれと国境を接している、あらゆる諸国の軍事的、政治的、経済的支配の獲得、そして最後には、世界支配獲得の目的をもって宣戦をし、侵略戦争を行い、そのための共同謀議を組織し、実行したというのです。 なぜ昭和3年以来かというと、この年、張作霖爆殺事件が起こったからです。なぜその事件なのかは、『田中上奏文』が日本による計画的な中国侵略の始まりをこの事件としていることによります。 弁護団の中心となった清瀬一郎は、陳述の内容が、『田中上奏文』に基づいているのではないか、と気づきました。そして弁護団はこの文書が偽書であることを証明する戦術をとりました。 証言に立った蒋介石の部下、秦徳純に対して、林逸郎弁護人は「日本文の原文を見たことがあるのか」と質問しました。「見たことはない」と秦は答えました。ウェッブ裁判長の質問に対しても、「私は、それが真実のものであることを証明はできないし、同時に真実ではないことを証明することもできない。しかし、その後の日本の行動は、作者田中が、素晴らしい予言者であったように、私には見えるのである」と答えました。 結局、キーナン首席検事は、『田中上奏文』を証拠として提出しないことにしました。しかし、こうした偽書がもとになって作られていた裁判の筋書きは改められず、日本は、国家指導者の共同謀議によって、昭和3年以来、中国や英米等に対して、計画的な侵略戦争を行ったとして断罪されました。(3) その後、『田中上奏文』が偽書であることは、国際的に定説となっており、欧米でも、代表的な百科事典である『エンサイクロペディア・アメリカーナ』や『ブリタニカ』に偽造文書と書かれています。一例として『ブリタニカ』の1990年版には次のように記されています。 「彼(田中義一)が満洲国の指導者張作霖の暗殺に関与した陸軍将校を処罰しようとした時、陸軍は彼を支持することを拒み、彼の内閣は倒れた。その後まもなく、田中は死亡した。天皇に中国での拡張政策を採用するよう助言したとされる文書”田中メモリアル”は、偽造されたもの(forgery)であることが明らかになっている」と。 ◆中国人の手による偽造が濃厚 一体、誰が何の目的で、『田中上奏文』なる文書をつくり、世界にばらまいたのでしょうか。 中国で一般に流布されているのは、『田中上奏文』は昭和2(1927)年7月、昭和天皇に上奏された後、極秘文書として宮内庁の書庫深く納められていたのですが、翌3年6月、台湾人で満洲との間で貿易業をやっていた蔡智堪(さいちかん)という男が宮内省書庫に忍び込んで、二晩かかって書き写したものを中国語訳文にし、昭和4年12月に公表したものだとされています。 外国人が皇居の中にある宮内省に二晩も忍び込んで、訳文で25ページにもなる分量の文書を書き写したというのですから、荒唐無稽な話です。しかも、いまだにその日本語原文は発見さていないのです。 歴史家・秦郁彦氏は、『田中上奏文』が偽書である証拠として、9点を挙げています。そのうち主なものは以下のとおりです。 (1)田中が欧米旅行の帰途に上海で中国人刺客に襲われたというが、正確には「マニラ旅行の帰途、上海で朝鮮人の刺客に襲われた」ものである。田中本人が上奏した文書で、自分自身が襲われた事件を、このように書き間違えるはずがない。 (2)大正天皇は山県有朋らと9カ国条約の打開策を協議したというが、山県は9カ国条約調印の前に死去している。 (3)中国政府は吉海鉄道を敷設したというが、吉海鉄道の開設は昭和4年5月で、上奏したとされる昭和2年の2年後である。 (4)昭和2年に国際工業電気大会が東京で開かれる予定というが、昭和2年にこの種の大会はなかった。昭和4年10月の国際工業動力会議のことかと思われる。 秦氏は、このように記述の誤りを具体的に指摘し、偽作と断定しています。さらに、日本政府が『田中上奏文』の存在を知ったのが昭和4年9月であり、上記の(3)(4)と併せて、執筆時期を昭和4年6月から8月と見ています。 また、秦氏は、この時期に、張作霖の長男・張学良の日本担当秘書・王家驕iおうかてい)が、「10数回に分けて届いた」「機密文書」を中国語に訳させた上で、「整合性を持った文章」に直して印刷した、という手記を残していることから、王が偽造者だろうと推定しています。(4) ◆ソ連GPUが関与の疑い
「ソ連国家政治保安部(GPU、ゲーペーウー、KGBの前身)がその偽造に深く関与していた可能性が強いことが、米国のソ連関連文書専門家によって明らかにされた。亡命したソ連指導者の一人、トロツキーが上奏文作成時の2年も前にモスクワでその原文を目にしていたことを根拠にしており、日米対立を操作する目的で工作したと推測している」と。
この専門家とは、米下院情報特別委員会の専門職員として、ソ連の謀略活動を研究してきたハーバート・ロマーシュタインです。彼は、米国でのソ連KGB活動の実態を明らかにするため、元KGB工作員で米国に亡命したレフチェンコ中尉と共同で調査を行いました。その際に、『田中上奏文』の作成にはソ連の情報機関が関与していたのではないか、との疑惑が浮かんできたのです。そしてトロツキーが、『田中上奏文』について証言した文書を発見したと記事は伝えています。 「当初、トロツキーは『単なる文書だけで戦争は起こらない。天皇が直接、署名するとは考えられない』と否定的だったが、その内容が日本の好戦性と帝国主義的政策を説明するセンセーショナルなものだったためソ連共産党政治局の重要議題として取り扱いが協議され、結局、『ソ連で公表されると疑惑の目で見られるので、米国内のソ連の友人を通じて報道関係者に流し、公表すべきだ』とのトロツキーの意見が採用されたと証言している。 ロマーシュタイン氏はこうした経緯を検討した結果、GPUが25年(註 1925年=大正14年)に日本外務省内のスパイを通じてなんらかの部内文書を入手した可能性は強いが、田中上奏文は、盗み出した文書を土台に二七年に就任した田中義一首相署名の上奏文として仕立て上げたと断定している。 同氏によると、トロツキーが提案した『米国内の友人』を通しての公表計画は米国共産党が中心になって進めており、30年代に大量に配布された。しかも日本共産党の米国内での活動家を通じて日本語訳を出す準備をしていることを示す米共産党内部文書も見つかっており、実は田中上奏文の日本語版が存在しないことをも裏付けているという。」 ◆日本の孤立を狙って、謀略宣伝に利用 『田中上奏文』について、もしロマーシュタイン氏の説が正しければ、次のようになります。ソ連共産党が捏造した文書を、米国共産党が世界にばらまいた、中国共産党は捏造だと分かった後も、今なお反日宣伝に使用し続けているーーそれが『田中上奏文』だ、と。 このように考える秦氏は、ロマーシュタイン氏の説、つまり、『田中上奏文』はGPUが、大正14年(1925)に日本外務省内のスパイを通じて盗み出したという何らかの文書を土台に捏造を行い、その素案を昭和2年(1927)に就任した田中義一首相署名の上奏文に仕立て上げたという説を、年代が違うので誤りとして否定するわけです。
◆ロシアで、GPUの工作が明らかに
キリチェンコ氏の調査結果は、前述のロマーシュタイン氏の説とどう絡むのでしょうか。私にはまだわかりません。仮にGPUが捏造したという場合、誰の指示によるのか、捏造の時期、土台にした文書、それとトロツキーが見たという文書の関係、中国語で翻訳と出版を行った組織、中国におけるGPUの工作、英訳とアメリカ等での出版等々――これから明らかにされねばならないことが、多くあります。 ◆中国では「存在しなかった」が主流に?
平成3年(1991)に北京で発行された『民国史大事典』では次のように記載されています。 「田中義一首相兼外相が1927年7月、天皇に奏呈した文書。内容は支那を征服するためには、まず満蒙を征服しなければならず、世界を征服するためには、まず支那を征服しなければならないとし、そのためには鉄血手段を以て、中国領土を分裂させることを目標としたもので、日本帝国主義の意図と世界に対する野心を暴露したもの」 わが国の歴史教科書をめぐる問題においても、人民日報は、『田中奏折』(中国名)を引用して、日本の教科書の内容を批判しています。また、中国政府は、『田中上奏文』は、日本が「支那を征服」するために計画した文書で、その一例が南京事件だと位置づけ、「日本帝国主義の意図と世界に対する野心」を著したものとして、青少年に教育しています。教科書にも『田中上奏文』が掲載され、国民に教育されているのです。
昨年(平成17年)12月、当時「新しい歴史教科書をつくる会」の会長だった八木氏らのグループが、中国を訪問しました。その際、一行は中国政府直属の学術研究機関である中国社会科学院の日本研究所のスタッフと懇談しました。懇談の模様が、月刊『正論』平成18年4月号に掲載されました。(八木著『中国知識人との対話で分かった歴史問題の「急所」』) その記事によると、懇談において、同研究所の所長・蒋立峰氏は、次のように述べたといいます。
「実は今、中国では田中上奏文は存在しなかったという見方がだんだん主流になりつつあるのです。そうした中国の研究成果を日本側はほんとうに知っているのでしょうか」と。
蒋氏は、社会科学院の世界歴史研究所や日本研究所で、日本近現代政治史や中日関係の研究を長年続けてきた中国の日本研究の責任者だということです。 「田中上奏文に否定的な発言を引き出せたことは大きな収穫だった。私たちは訪問の翌日、盧溝橋の『中国人民抗日戦争記念館』を見学したが、そこには田中上奏文が、日本が世界征服を計画していたことを証明するものとして展示されていた。蒋立峰所長のいうように『田中上奏文が存在しなかったことが中国の主流になっている』のであれば、是非ともその撤去を申し入れていただきたい」と。
私がまず思うのは、問題発言として追及され、蒋氏が左遷または弾圧されるのではないか、ということです。他に蒋氏と似た主張をしている学者も、同様でしょう。中国人民抗日戦争記念館からの展示の撤去や、教科書への掲載の取りやめは、簡単に実現し得ることではありません。『田中上奏文』について誤謬を認めることは、共産党の権威にかかわることです。国民に与えている歴史観の全体に影響が出るでしょう。近年最も力を入れて誇張している南京事件も、『田中上奏文』の計画に基づくものだとしているくらいだからです。 だから、中国側に期待を寄せることは、ほとんど意味がないだろうと思います。私が、今なすべきだと思うことは、日本政府が、『田中上奏文』について、知らしめることです。これが偽書であり、ソ連や中国がわが国を貶めるために捏造し、利用してきたことを、世界に伝えることです。それによって、日本人は自ら日本国と日本民族の汚名をそそがねばならないと思います。
『田中上奏文』の虚偽を徹底的に明らかにしなければ、国際社会における正当な地位を回復し得ないのです。 我々の先祖・先人のために、我々自身のために、そしてこれからこの国に生まれ、この国を生きていく子どもたちのために。 ところで、『田中上奏文』が今日まで日本を貶めることになったのは、あるジャーナリストの存在があります。エドガー・スノーです。彼は早くも昭和6年ごろから書いた「極東戦線」の中で、『田中上奏文』について触れ、さらに昭和16年に刊行した『アジアの戦争』において、この疑惑の文書を全世界に知らしめました。 彼のこうした行動の背後には、ソ連・中国・アメリカを結ぶ国際共産主義の宣伝工作が浮かび上がってきます。この点は、後の項目で詳しく触れることにします。(6) (ページの頭へ) 註 (1)産経新聞平成11年9月7日号 (2)中村粲(あきら)著『大東亜戦争への道』(展転社) (3)東京裁判については、以下の拙稿をご参照ください。 (4) 秦郁彦著『昭和史の謎を追う(上)』(文春文庫) (5)ハル・ノートについては、第8章をお読み下さい。 (6)エドガー・スノーについては、第4章をお読み下さい。 |
第2章 嵌められた日本〜張作霖事件
張作霖事件は、なぞの多い事件です。東京裁判において、パル判事は、この事件について「神秘の幕に覆われたまま」と記しました。 この事件について述べるには、ユン・チアンとジョン・ハリディの共著『マオーー誰も知らなかった毛沢東』(講談社)に拠らなければならなりません。この本は、多くの点で衝撃的な本です。 ◆爆殺は、ソ連GRUの工作か? ◆スターリンの指令で日本の仕業に見せかける 『マオ』には、膨大な「注」と「参考文献」がついていますが、日本語版ではこれらが省かれています。希望者は、インターネット・サイトからダウンロードできるという方式になっています。
註 (1)ゾルゲについては、第6章をご参照下さい。 ◆ドミトリー・プロコロフは語る 張作霖事件の見直しは、ロシアからはじまっています。東京裁判で、パル判事が「神秘の幕に覆われたまま」と記した、なぞめいた事件の見直しが。 昭和2〜3年(1927-28)当時、GRUの中国における活動の中心は上海にありました。その組織には表の合法機関とは別に、非合法の諜報組織がありました。後者は昭和2年に着任したサルヌインが長をしていました。サルーニンの部下に、ヴィナロフがいたのです。
◆ゆらぐ定説、深まるなぞ 張作霖爆殺事件は日本軍の仕業というのが定説でした。その定説が揺らぎだしている。定説は東京裁判でつくられたものです。 そこで、藤岡氏は、「論理的には次のどれかが真実であるということになろう」と言います。 次に、私の考察を述べたいと思います。 プロコロフによって、ソ連のGRUが張作霖暗殺を計画していたことは明らかになりました。一度目の宮殿爆破は失敗しました。続いて、二回目が計画されていました。そして、張作霖は列車ごと爆殺されました。しかし、爆殺の実行については、プロコロフはGRUによることを論証し得ていません。 戦後の多くの日本人は、東京裁判が描いた歴史観を正しいものと思わされてきました。今も小泉首相をはじめ、多くの政治家・学者・有識者は、東京史観の呪縛を抜け出ていません。 東京裁判において、日本の計画的な世界侵略というストーリーが捏造されました。その過程で、『田中上奏文』が利用されたと前述しました。『田中上奏文』の捏造には、中国人が関わったことが明らかになっており、その背後で旧ソ連の共産党や国際的な共産主義組織が暗躍したと考えられます。 (ページの頭へ) 参考資料 ・
同上『崩れる「東京裁判」史観の根拠』(月刊『諸君!』平成18年4月号) ・ドミトリー・プロコロフ談『「張作霖爆殺はソ連の謀略」と断言するこれだけの根拠』(月刊『正論』平成18年4月号) ・藤岡信勝著『同 解説』(月刊『正論』平成18年4月号) |
第4章 スノー〜反日連共のデマゴーグ
昭和の日本は、共産主義に同調する外国人ジャーナリストの活動によって、大きく進路を狂わされました。そうしたジャーナリストの一人が、エドガー・スノーです。スノーは、偽書『田中上奏文』を世界に伝え、「南京事件」を捏造・誇張して報道し、米国の世論を対日戦争へと誘導しました。(1)(2) ◆「『虐殺論争』に終止符を打つ、衝撃の発見!」 田中上奏文をはじめ、南京事件、東京裁判、中国共産党とそのシンパの動向などについての研究が進んでします。なかでも鈴木明氏の『新・南京大虐殺のまぼろし』(飛鳥新社)は、重要な発見に満ちたものです。 本書の帯には、「『虐殺論争』に終止符を打つ、衝撃の発見!」とあり、鈴木氏の言葉として、次のような言葉が掲げられています。 「…僕が今回書いたことは、戦後半世紀以上を通して、世界中の誰もが書かなかったことであり、気づかなかったことでもあり、『南京大虐殺』の、本当の意味での核心にふれたものであるという点だけは、強い自信を持っている…」と。 鈴木氏は巻頭に、「日本、中国、アメリカという、東アジアだけではなく、21世紀の世界に最も大きな影響を与えるかもしれない重要な三つの国で、いまでも喉元に突き刺さったままでいるような大きな歴史的課題が、まだ未解決のままである。いわゆる南京大虐殺論争である。この不可解な事件の鍵を握っていた人物は一体誰なのか」と書いています。その人物こそ、エドガー・スノーです。 鈴木氏は本書の「最も大きなテーマ」は、次のようなことだと書いています。「僕がここで、『田中奏折』、つまり『田中上奏文』のことにここまでこだわるのは、実はエドガー・スノーがこの『田中上奏文』の実在を信じ、それが日本軍閥のバイブルである、ということを知ったことと、戦後の『東京裁判』、それに付随して一挙に全世界に知られるようになった『南京大虐殺』事件を結ぶ最も重要なキーワードは、この田中上奏文・田中奏折』であると、信じているからである。そのプロセスを追っていくことがこの本の最も大きなテーマなのだ」と。 鈴木氏の追求の過程は、ノンフィクションの迫力に満ちています。以下、私の特に関心をもったことをまとめながら、若干の考察を加えてみます。 ◆烈女・宋慶齢との出会い アメリカのジャーナリスト、エドガー・スノーは、昭和6年(1931)の冬に、中国・上海で、宋慶齢と知り合います。鈴木氏は、次のように書きます。「後にスノーは、『もしあのとき宋慶齢に会わなかったら、私の人生は変わっていたかも知れない』と書いているが、これを『世界情勢が変わっていたかも知れない』と書いても、決して過言ではなかったであろう」と。 宋慶齢は、近代シナを代表する大富豪・宋家の次女です。彼女は、シナ革命の父・孫文の夫人兼秘書となり、国民党左派の指導者として共産党と反日で共闘し、革命後は中華人民共和国の国家副主席にまでなりました。 ロシア革命後、孫文はソ連と接近しました。大正12年(1923)には、ソ連から孫文のもとに、レーニンの愛弟子・ボロディンが、国民党顧問として送り込まれました。宋慶齢はボロディンと親密となり、国民党で誰よりもよく、共産主義を理解しました。 翌年、孫文が死去すると、宋慶齢のソ連への思いはさらに強くなり、昭和2年(1927)4月に、モスクワに行きました。その後、彼女は、昭和6年8月までの約4年間を、ソ連で過ごしました。 鈴木氏によると、ソ連滞在中、宋慶齢は、「中国における民主・自由の実現のために、国民党に対する敵意を燃やしつづけ、『日本帝国主義』を憎悪しつづけ」ました。そして、帰国後は、蒋介石や日本と戦う決意をします。そして彼女は、中国共産党指導部と通じ、国民党内で反日・連共路線を推進しました。 20歳代だった若きスノーは、こうした宋慶齢と出会い、大きな影響を受けました。宋慶齢は、幼少から英語教育を受け、米国に留学もしており、英語に堪能でした。スノーは、宋慶齢から中国や、孫文や、中ソ関係などについて、多くの話を聞きます。 鈴木氏は書きます。その結果として「スノーはここで、宋慶齢を苦しめ、中国人民に被害を与えているのは、まぎれもなく、隣国の日本である、と確信するようになった。これはもう『信念』などという言葉を超えて、『信仰』という概念に近いものであった」と。「この二人は、日本のことを全く知ろうともしなかったし、日本の中にある恥部だけを強調することに熱中していた、という点でも共通している」と、鈴木氏は見ています。 昭和11年(1936)5月、スノーは、宋慶齢に、「共産地区に行き、毛沢東に会いたい」と言いました。当時、国共合作を進めようとしていた中国共産党指導部は宋慶齢に対し、アメリカ人の新聞記者を求めていたのです。中共と通じ合っていた宋慶齢は、スノーを、中国ソビエト地区にある延安へ行かせることにしました。 この時、もう一人の候補がいました。それは、やはり彼女と長くつきあっていたアグネス・スメドレーでした。スメドレーもまた日本の進路に重要な影響を与えた人物であり、別の項目に書くことにします。(3) 宋慶齢は、中国共産党への理解も少なく、党員との交わりもなく、色のついていないスノーの方を敢えて指名しました。彼がアメリカ人であり、『ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン』など、アメリカの広い読者層に読まれる背景を持っていたことも理由でした。この宋慶齢の選択は、親中反日の国際工作に、またとない効果を生み出すことになりました。 ◆米国民を親中に変えた『中国の赤い星』 スノーは、宋慶齢の力添えによって、中国共産党指導部のいる延安に取材に行きます。そこで、スノーは世界ではじめて、毛沢東らの中共指導者にインタビューをしました。その体験取材をもとに書いたのが、有名な『中国の赤い星』です。これは、米英で大ヒットとなりました。昭和12年(1937)に、この本が出版されると、アメリカのマスコミは口をそろえて称賛しました。そして、「アカ嫌い」のアメリカ人を、中国寄りに変えてしまったのです。 読者は、スノーを通じて、中国の共産主義者たちは、ロシアの革命家たちと違って、「血に飢えた権力主義者」ではないと理解しました。スノーの描く毛沢東は、日本帝国主義は「中国の敵であるだけではなく、太平洋に利害を持つ国、つまりアメリカ、イギリス、フランス、オランダ、ソビエトの敵でもある」と言い、「日本の脅威を恐れている国」を「友邦と考え、その協力を望んでいる」と語ります。そして、読者には、毛沢東は、蒋介石らの敵に対しても協力を呼びかける、穏健な「やせたリンカーン」として映ったのでした。 スノーは、共産主義者ではなく、ソ連や米国共産党とは距離があったと見られています。この点は、共産主義との関係が濃いスメドレーと違います。鈴木氏は『中国の赤い星』は、「非共産主義者が描いた共産主義世界の物語であればこそ、これほど多くの共感の賞賛をあびた」と書いています。 『中国の赤い星』の出版は、ちょうど南京攻防戦の前、日本がアメリカの砲艦を誤爆した「ペネー号事件」が起こって、アメリカ人の中国への関心と同情が高まっていた時期でした。このタイミングが、本書の効果をより大きなものとしました。アメリカの世論は、圧倒的に親中反日となってしまいました。日本にとっては、不幸な誤爆が、さらに大きな禍を生んでしまったのです。 ◆『アジアの戦争』が田中上奏文を広宣 スノーは昭和16年(1941)、日米開戦の年の春に、『アジアの戦争』をアメリカで刊行しました。そして本書は、実に強烈な反日宣伝効果をもたらしました。 本の扉、つまり表紙には、次の言葉が掲載されています。 「20世紀の中ごろ、日本はアジアの平原でヨーロッパと出会い、世界の覇権をもぎとるであろう(大隈伯爵、1915年)」と。 大隈とは、宰相・大隈重信です。また、第1篇第1章の最初の一行には、次の言葉が書かれています。 「世界を征服するには、まず中国を征服しなければならぬ(田中手記)」と。 「田中手記」とは、『田中上奏文』のことです。今日、ソ連による偽造という可能性が高いと見られている、かの謀略文書です。 田中上奏文が初めて世界に登場したのは、昭和4年(1929)、シナで、漢文版としてでしたが、スノーは早くからこの文書に言及しています。
昭和6年ごろから書いた『極東戦線』の中で、スノーは、田中上奏文の主旨を次のように書いています。 「日本の繁栄のためには、まず資源豊富な満州を手に入れなければならず、また将来中国を初めとするアジア諸国を征服するためには、過去に日露戦争でロシアと戦ったように、まずアメリカをつぶさなければならない」と。 スノーは、昭和16年に刊行した『アジアの戦争』において、この疑惑の文書を全世界に知らしめました。しかもスノーは、ここで一つの犯罪的な誇張を行っています。鈴木氏によると、前著『極東戦線』では、田中上奏文を「田中メモランダム」と呼んでいました。メモランダムは「個人的なメモ」を意味する言葉です。しかし新著『アジアの戦争』では、「田中メモリアル」という全く意味の違う言葉を使っています。メモリアルは、鈴木氏によると「ある歴史的な価値を持つ」ものにしか使わない言葉です。私は、スノーは、明確な目的意思をもって、この言葉を選び、親中反日の国際宣伝工作を行ったのだと思います。 また、ここでも反日・連共の烈女・宋慶齢が、スノーに重大な影響を与えたと考えられます。鈴木氏によると、宋慶齢は、昭和12年10月、日中の上海戦の中で、英語によるラジオ放送を行いました。この放送において、「宋慶齢は、『日本軍閥が行っている侵略行動は、日本軍閥が、そのバイブルともいうべき<田中奏折>(=上奏文のこと)に従って行動している、ということを示すだけで、それ以上、どのような説明をする必要があるでしょうか』と言ったのである。『田中奏折』という四つの漢字は、『それ以上何の説明もする必要はない』と断言できるほど、強いインパクトで外国人に訴える力がある、と宋慶齢は信じていたのである」と、鈴木氏は書いています。 私は、スノー自身は中国語・漢文はほとんどわからないでしょうから、そもそもスノーが田中上奏文の存在を知り、それに注目したのは、宋慶齢によるだろうと考えます。スノーは、田中上奏文に対する彼女の激しい反発を聞かされ、大いに共鳴したのだろうと思います。 鈴木氏は、「スノーがこの『田中上奏文』の実在を信じ、それが日本軍閥のバイブルである、ということを知ったこと」を重視しています。そして、「戦後の『東京裁判』、それに付随して一挙に全世界に知られるようになった『南京大虐殺』事件を結ぶ最も重要なキーワードは、この田中上奏文・田中奏折である」と、見ています。 ここで、田中上奏文について、私の認識を再整理しておくとーー田中上奏文は、おそらくソ連GPUによって偽造され、コミンテルンを通じて漢文版が中国で出版された。そして宋慶齢によってスノーが大いに注目するところとなり、「アジアの戦争』で全世界に報道された。アメリカ共産党による英語版の頒布が、相乗効果を上げた。そして、後に述べるように、この偽造文書が、東京裁判における日本断罪のシナリオのもととされた。スターリンの謀略は、こうしたルートでも貫徹していたのかも知れない。 ◆「南京大虐殺」を誇張・捏造 鈴木氏は、スノーの『アジアの戦争』(昭和16年春刊行)こそ、「南京大虐殺」を全世界に悪宣伝した本だったことを明らかにしました。 私の理解では、スノーが、昭和12年12月の南京事件を、田中上奏文に書かれた世界制覇計画の一環としてとらえていたことが、重要です。そして、彼は、反日・連共の推進のために、南京事件を敢えて「大虐殺」事件として誇張・捏造したのだろうと思います。これはジャーナリストのモラルを超えた、デマゴーグ(悪質な宣伝・扇動をする者)の仕業です。 『アジアの戦争』での、南京事件に関するスノーの記述は、大意、次のようになります。これは鈴木氏の訳をまとめたものです。 「南京虐殺の血なまぐさい物語は、今ではかなり世間に聞こえている。南京国際救済委員会の人たちが私に示した資料から、私が見積もった結果によれば、日本は南京だけで少なくとも4万2千人を虐殺した。しかもこの大部分は婦人、子供だったのである」 スノーはまた、「いやしくも女である限り、10歳から70歳までの者は、すべて強姦された」とも書いています。 ここで、スノーがこのように書くまでの経過を記します。昭和12年12月の日本軍の南京攻略について、最初に大規模な虐殺があった報道したのは、英国『ノースチャイナ・デイリーニュース』でした。その数は1万人でした。この数字を4万人にまで拡大したのが、南京大学教授で宣教師でもあるM・S・ベイツ教授でした。ベイツは「非武装の4万人近い人間が殺された。そのうち約3割は非戦闘員だった」と主張しました。ベイツの主張は、昭和13年7月に刊行された『戦争とは何か』という本に掲載されます。この本の編集を行ったのは、英マンチェスター・ガーディアン紙の中国特派員H・ティンパーリでした。ティンパーリは、中国国民党宣伝部に雇われたエージェントであったことが、立命館大学の北村稔教授によって明らかにされています。国民党国際宣伝部は、宣伝目的のために、ティンパーリに『戦争とは何か』の執筆を依頼したのでした。(4) そのうえ、4万人虐殺説を唱えたベイツ自身も、国民党中央情報部顧問でした。南京事件は、中国国民党による反日工作のために作り上げられたのです。 ところがその後、中華民国の公式記録は、どれもベイツの「4万人虐殺説」を削除し、公式に再三、その説を否認していました。亜細亜大学の東中野修道教授は、ティンパーリが報じた死者約4万人という数字が、その後数年間、現地の刊行物の再録記事のなかからことごとく削除されていたことを明らかにしています。(5) この否認されていた「虐殺説」を改めて持ち出した者がいます。その人物こそ、エドガー・スノーだったのです。 スノーは、日本軍は「少なくとも4万2千人を殺害した。その大部分は女子供だった」と書きました。ベイツの説では、約4万人のうち1万2千人ほどが市民だったのに、スノーは、4万2千人の大部分は女子供だったと、改ざんを加えたわけです。数字と割合を変え、しかも犠牲者は、単に市民ではなく、女子供、と言い換えたわけです。また、「10歳から70歳まで、すべて強姦」などと書くのは、ほとんど事実を確かめられるわけもない、無責任な表現です。 しかし、『アジアの戦争』における南京事件の表現は、インパクトが強く、アメリカを中心に、親中反日の国際世論をつくるうえで、絶大な効果を生んでいきます。これに便乗して、一気に桁を上げて「20万人虐殺」としたのが、アグネス・スメドレーです。(『シナの歌ごえ』昭和18年刊) スメドレーは、スノー以上に、中国共産党に深く関わり、ソ連共産党の影の濃い人物です。ここから、東京裁判の20数万、30万という数字のうそまでは、もう一声です。彼女については、別項目に譲ることにして、話を続けます。(6) ◆米国民を対日戦争に扇動 鈴木氏によると、昭和16年にスノーは『アジアの戦争』を刊行したころ、「日本が中国に対して行っている侵略行為の最終目標は、東アジアに新しい秩序を創ることにある。日本は中国に存在している一切の資本保有者を排除するのが目的である。つまり、最初の相手は中国だが、やがてその目標は必ずアメリカにも及ぶ」と、繰り返しアメリカ国民に訴えました。 そして、ナチス・ドイツの動向と、日本軍国主義は同じように危険である、と訴えたのです。そして、アメリカ人に対して、アジア問題において「中立、不干渉」はあり得ないことを説いて回りました。 鈴木氏は書いています。「『アジアの戦争』は…頭の先から爪先に至るまで、ひたすらに『軍国主義日本』を憎悪し、ただ憎悪するだけではなく、アメリカ政府がその『中立政策』を捨て、世界平和の敵・日本に対して、武力介入を余儀なくさせることを目的とした『政治的』な著作だった…ここで使われた形容詞、エピソード、結論などは、常識をこえた激しいものであり、特に日本に対しては、『日本という国を、この世から抹殺する』という目的がはっきりしている…アメリカ人が『アジアの戦争』を読めば、アメリカはすぐにでも日本に宣戦布告をし、中国を救わなければならないという気持ちにさせられる。その意味では『アジアの戦争』は、完璧といってもいい、見事な内容になっていた」と。 私は、『アジアの戦争』は反日プロパガンダ、対日戦争の扇動文書と見てよいと思います。ルーズベルトの周辺にはソ連のスパイがいました。その書が出された昭和16年には、スパイたちが暗躍していたのです。真珠湾攻撃より以前の対日先制攻撃計画を推進したカリーや、ソ連の指令を受けてハル・ノートを起草したホワイトらがそれです。彼らは大統領に対して対日戦争工作を行っていました。(7) スノーの著書は、スターリンがアメリカを対日戦争に引き込み、日米を戦わせようとした謀略と、基本的な方向において一致しています。それが単にスノー個人の考えなのか、それとも彼に巧みに働きかける宋慶齢や、あるいはその背後にいる共産勢力の意思を反映したものなのか、今後の研究が期待されます。 ◆ルーズベルトと個人的に面談 スノーについて重要なことは、スノーはルーズベルト大統領と会見し、彼の対中・対日政策にまで影響を及ぼしたほどの権威あるジャーナリストだったことです。 昭和12年に『中国の赤い星』が出版されると、大統領の情報秘書官ハロルド・イキスが徹夜でこの本を読み通し、早速ルーズベルトにその内容を報告したという話は、有名です。 そのことがもとで、日米戦争がはじまったすぐ後に、ルーズベルトは多くのアメリカ人ジャーナリストの中で、特にスノー個人を大統領執務室に招きました。スノーの言葉を借りれば、「私が大統領を取材するのではなく、大統領のほうが、私を取材した」のでした。 鈴木氏によると、ルーズベルトは「全面的にスノーに賛成の意向を表明」し、スノーはルーズベルトへの「個人的情報提供者の一人」となったということです。 興味深いことに、第2次大戦中、スノーは昭和17年(1942)10月から2度にわたって、延べ3年近くをモスクワで送っています。そして書いた本は、鈴木氏によると、「本音よりも美化されたソ連に関する本」でした。 スノーは、昭和19年5月に、ソ連から一度アメリカに帰ったときにも、ルーズベルトに会っています。そして、昭和20年2月、ルーズベルトはヤルタ会談から帰ったすぐあと、スノーを招いて、長い時間語り合いました。これが三度目で最後の会談となりました。 一体彼らは、何を語り合ったのでしょう。著書には書かれないこともあったでしょう。素人の気楽な推測を述べますと、スノーは、戦時中、ルーズベルトから依頼を受けて、米ソ関係にかかわる行動をした可能性があると思います。また、同時に中ソ間のパイプとなっていた可能性もあると思います。 ひとつの仮説を挙げるならば、スノーを中心として、 スターリン⇔毛沢東⇔宋慶齢⇔スノー⇔ルーズベルト⇔ソ連スパイ⇔スターリン という円環があったのかも知れません。 ◆日本における『わが闘争』!? さて、スノーの『アジアの戦争』は、東京裁判においても、重大な役割を果たしていたと見られます。鈴木氏は次のように書いています。「僕は東京で行われたこの軍事裁判は、スノーの1冊の本『アジアの戦争』の存在なくしては、あのような形で進行しなかったと確信している」と。これも氏による重大な発見です。 以下、鈴木氏の記述をまとめてみますとーーアメリカの首席検事キーナンが、東京裁判の冒頭陳述を作るに当たって、何を参考にしたのか、具体的な資料は残っていません。しかし、当時アメリカ人が日本を理解するに当たって、アメリカ国内にそれほど多くの参考書があったわけではありません。 スノーの著作は、その数少ないものの一部でした。しかも、そこには田中上奏文が引用されており、満州事変から真珠湾までが系統的に描かれていたのです。こうした本は、当時のアメリカでは、スノーの著作しかなかったのです。 鈴木氏は書きます。昭和20年、東京裁判の「日本にやってきたアメリカ検事団が、このとき既に進行していたドイツのニュルンベルグ裁判を参考にして日本という国が、『計画的且つ組織的』に『世界征服』という野望を持って『共同謀議』し、その結果が『真珠湾攻撃』に結びついた、というシナリオを描こうと思っていたことは、当然である」と。 ニュルンベルグ裁判では、ナチス・ドイツは、ヒトラーの著作『わが闘争』をバイブルとして「計画的且つ組織的」なヨーロッパへの侵攻、さらに千年も滅びることのない「第3帝国」の完成を夢見て、白人至上主義、民族の優位性、ユダヤ人の撲滅、民族浄化政策を「計画的且つ組織的」に行ったと見なされました。 『わが闘争』は、1925年に書かれており、1935年のベルサイユ条約破棄、1938年のオーストリア併合、さらにチェコスロバキアを保護領にし、1939年にはポーランドを手に入れるなど、ナチスの行動を、『わが闘争』をもとに裁くことは、筋が通っていました。しかし、アメリカ検事団は、日本の中には「わが闘争』のような、適当な本を探し出すことができませんでした。 鈴木氏によると、「この中で信頼できる1冊の本が『日米戦争』の数ヶ月前に発行された、エドガー・スノーの『アジアの戦争』である。このときスノーは既に『日米戦争』を予言(注:昭和16年の年内に、と)し、事態はまさに、その通りになったのである。その内容は、文字通り日本の『軍国主義政策』の根幹を描いたものであり、文章も内容も、簡潔で要を得ていた」というわけでした。 ◆日本断罪のシナリオを提供 鈴木氏によると、「スノーはアメリカ人にとって、神格化された地位にあったルーズベルトと三回も個人的な会談の時間を持った知識人であり、充分に信頼されている人物であった」のです。 それゆえ、スノーの著作は、米国人には信憑性が高く、東京裁判における日本断罪のシナリオの原本とまでされたようです。 キーナン首席検事の冒頭陳述を鈴木氏は、次のようにまとめています。 「日本の目的は世界征服であった。そのために、日本は侵略のための殺人教育を続けてきた。それは組織的、且つ計画的な共同謀議によって行われた。そして、そのターニングポイントとなった年月は、1927〜28年であった」と。 この筋書きは、スノーが構成した論理そのものです。「1927〜28年」とは、田中上奏文を暗示する年代です。私見を述べますと、キーナンは偽書の疑いのある田中上奏文の名前はあげずに、この文書をスノー、そして宋慶齢が広く宣伝したように理解し、日本の罪状をつくりだすタネ本としたのでしょう。 鈴木氏によると、スノーの『アジアの戦争』は、初めの部分は、日本では長年、「殺人教育」が行われ、その最初の成果が「南京虐殺事件」であるという構成になっています。これと同様に、東京裁判の検事側は、まず「日本の軍事教育」を最初に出しました。そして、「南京事件」は「日本人の度肝を抜く事件」として、裁判初期の段階で、とりあげられたのです。 南京事件について、『アジアの戦争』がどのように誇張・捏造したかは、既に述べた通りです。スノー=キーナンの筋書きの中で、「南京大虐殺」という稀代の大嘘は、実に効果的に日本の断罪に用いられたわけです。 ◆思い入れによる悪宣伝 東京裁判が終了した約1年後、昭和24年(1949)に、スノーが支援し続けた中国共産党は、「中華人民共和国」の成立を宣言しました。スノーはこの国に、限りない期待と希望をもっていました。そして、昭和35年(1960)に初めて、共産中国を訪れました。 2年前から推進されていた毛沢東の「大躍進」政策は、当時、中国の農工業を混乱させ、大量の餓死と破壊をもたらしていました。しかし、スノーは、現実を見ることなく、人民公社を肯定し、粛清のうわさを否定し、毛沢東の個人崇拝をも肯定しました。 昭和45年(1970)8月、スノーは戦後3回目の中国行きを行いました。全中国は、41年(1966)からの文化大革命の嵐におおわれ、国中が揺れ動いていました。毛沢東らは、最高の礼を以って、スノー夫妻を迎えました。そして建国21周年記念日に当たる10月1日、天安門前に作られた舞台の上で、スノー夫妻は、舞台の中心に、毛沢東と共に並び立ちました。 百万人にのぼる若者たちは、口々に「毛沢東主席万歳!」を叫び、赤いネッカチーフを風になびかせながら行進します。スノーは毛沢東と共に、熱狂的な紅衛兵たちに応えました。 毛沢東とスノーが天安門前で紅衛兵に手を振る写真は、11月19日、毛沢東の77歳の誕生日の人民日報に、大きく掲載されました。その写真説明には「中国に友好的なアメリカ人」と書かれていました。 こうしてスノーは、毛沢東の個人崇拝と強権政治に荷担し、文化大革命という権力闘争を美化することにも貢献したわけです。 今日、私たちは、中国の「大躍進」から「文化大革命」にいたる20年間とは、毛沢東の失政・暴虐による、混乱と破壊の時代に過ぎなかったことを知っています。 毛沢東は、スノーが描いた「やせたリンカーン」ではなく、「言葉巧みなスターリン」だったのです。 スノーの共産主義に対する思い入れが、全く誤ったものだったことは、明らかです。しかし、こうした根本的な誤りを犯していた人物が、戦前、わが国を、世界に向けて悪宣伝していたのです。 ◆超克のための新発見 スノーの悪宣伝は、清算された過去の逸話ではありません。冒頭に、鈴木明氏の言葉を引きました。「日本、中国、アメリカという、東アジアだけではなく、21世紀の世界に最も大きな影響を与えるかもしれない重要な三つの国で、いまでも喉元に突き刺さったままでいるような大きな歴史的課題が、まだ未解決のままである。いわゆる南京大虐殺論争である」と。この南京事件の虚構の鍵を握っていたのは、スノーでした。 南京事件だけではありません。現在も我が国の教育や歴史認識を支配している東京裁判史観もまた、少なからず、反日・連共のデマゴーグ、エドガー・スノーが生み出したものでした。 今日、南京での「大虐殺」という冤罪を晴らし、東京裁判とそれに基く戦後日本の歪みを克服するために、反日的な国際宣伝工作の実態を明らかにしていく必要があると思います。(ページの頭へ) 註 (1)『田中上奏文』については、第1章をお読み下さい。 (2)南京事件については、以下の拙稿をお読み下さい。 (3)スメドレーについては、第5章をお読み下さい。 (4)北村稔著『「南京事件」の探求』文春新書 (5)東中野修道著『『南京虐殺』の徹底検証』展転社 (6)(3)と同じ。 (7)カリーとホワイトについては、第10章をお読み下さい。 |
第5章 スメドレー〜女性記者の赤い疑惑
「南京事件」は、エドガー・スノーによって、女子供を含む4万2千人が虐殺されたと宣伝されました。さらにそれをもっと誇張したのが、アグネス・スメドレーです。彼女は「日本軍は20万人を虐殺した」と拡大宣伝しました。この女性ジャーナリストの行動には、背後にある組織の意図・目的がうかがわれます。 ◆「南京大虐殺」として虚報 南京事件について、4万人虐殺説を言い出したのは、M・S・ベイツ博士でした。ベイツは中国国民党中央情報部の顧問でした。彼の所説は、「非武装の4万人近い人間が殺された。そのうち約3割は非戦等員だった」というもの。国民党は宣伝部に雇ったエージェントのH・ティンパーリを使い、『戦争とは何か』にベイツの説を載せて宣伝しましたが、中華民国の公式記録では、どれもベイツの「4万人虐殺説」を削除し、公式に再三、その説を否認していました。 ところが、これを改めて反日宣伝に持ち出したのが、エドガー・スノーでした。スノーは、昭和16年(1941)刊行の『アジアの戦争』に、日本軍は「少なくとも4万2千人を殺害した。その大部分は女子供であった」と書きました。ベイツの説では、4万人のうち1万2千人ほどが市民だったのに、スノーは、4万2千人の大部分は女子供だったと、改ざんを加えたわけです。数字と割合を変え、しかも犠牲者は、単に市民ではなく女子供、と言い換えたのです。 さらに、そのうえを行ったのが、アメリカの女性ジャーナリスト、アグネス・スメドレーでした。スメドレーは、昭和18年(1943)に出した『シナの歌ごえ』で、「日本軍は、20万人を虐殺した」と、拡大宣伝しました。死者の数は、5倍に増やされました。東京裁判で出される数字に、一挙に跳ね上がったわけです。 スノーもスメドレーも、南京事件の現場を目撃・検証したわけではありませんから、全くジャーナリストのモラルが疑われます。むしろ、彼等は、客観的な第三者の立場を装って、シナの事情に疎い欧米の読者に対し、意図的に、悪質なデマ宣伝をしたと見るべきでしょう。スメドレーについては、スノー以上にその可能性が高いと思います。 ◆ソ連・インド・シナを結ぶ糸 アグネス・スメドレーは、アメリカ人でしたが、インド独立運動に関心を抱くようになりました。そして、ベルリンで勉強していた時、インド人のチャットパディアと出会い、結婚します。 チャットパディアは、単なる愛国的な独立運動家ではありませんでした。ロシア革命後、共産主義者となったからです。彼はインド共産党の創立に加わり、またドイツ共産党でも活動しました。そして、共産主義による国際的な民族解放運動を推進していました。 スメドレーは、そうした人物と数年間、共同生活をしているのです。チャットパディアはソ連=コミンテルン系の共産主義者ですから、スメドレーの方も、共産主義運動に献身あるいは協力していたと見るべきでしょう。仮に二人の目的は、インド人民の悲願、民族独立だったとしても。 スメドレーは、昭和3年(1928)に、ドイツの新聞『フランクフルター・ツァイトゥング』紙の記者となります。この新聞は、フランフルトに本社があります。その都市こそ、西欧マルクス主義の牙城・フランクフルト学派の本拠地でした。 スメドレーは、ドイツでは珍しかっただろうインド人の共産主義者と生活を共にしながら、よくこうした職を得られたものです。さらに彼女は、なぜかシナにも関心を持つようになり、昭和4年、特派員として、シナへ行きます。 その翌年、上海に、コミンテルンの大物スパイが現れます。その名は、リヒャルト・ゾルゲ。かのゾルゲ事件で名高い人物です。ゾルゲは、ドイツ人ジャーナリストの肩書で、ソ連からシナに派遣されたのです。そこでゾルゲは、スメドレーと会い、彼女から尾崎秀実を紹介されます。尾崎は、ゾルゲ事件に連座した新聞記者です。 昭和8年(1933)1月、ドイツにナチスのヒトラー政権が成立しました。すると、ゾルゲは、コミンテルンから日本行きの指令を受けます。彼はまずドイツに入って、偽装ナチ党員となり、同年9月には『フランクフルター・ツァイトゥング』紙の東京特派員の職を得ます。この新聞社は、スメドレーが勤めている新聞社です。 ゾルゲは来日すると、尾崎と共に、国際スパイ活動を展開します。一方、スメドレーはシナに残り、中共軍と行動を共にします。 どうも、どこかに筋書きが書かれているような気がします。素人の気楽さで、仮説を立てるとーーコミンテルンの支部組織がベルリンやフランクフルトにあり、『フランクフルター・ツァイトゥング』紙の幹部に共産主義者がいた。チャットパディア=スメドレー=ゾルゲは、同じ指示系統で活動した。スメドレーは使命を受けてシナに派遣され、現地のコミンテルンの指示を受けて、ゾルゲに協力し、尾崎秀実を紹介した。また彼女はチャットパディアと協力してインド・シナの共産化を画策したーー。 スメドレーは、実際、チャットパディアとともに、毛沢東・周恩来・朱徳と、ガンジー・ネルーをつなぐ役目をしています。しかし、インドの賢者たちは、チャットパディアと異なり、ソ連・中共の共産主義とは一線を画しました。これは、インドの運命にとって、賢明な判断だったと思います。チャットパディアの路線を行っていれば、インドは東欧と同じ悲惨を味わっただろうからです。 ◆「20万人虐殺説」を唱えた容疑者 昭和8年(1933)にドイツでナチスが政権を取ると、チャットパディアは、ソ連に亡命します。レニングラードの大学で教鞭をとっていたといいますから、相当な評価を受けていたのでしょう。しかし、最後は、スターリンに粛清されてしまいます。 一方、スメドレーは、シナで活動を続けました。彼女は日中戦争の間、中共軍に従軍して各地を転戦し、中国共産党の代弁者のようになって、欧米に著述を書き送りました。 彼女は、昭和16年(1941)に帰米しましたが、のちアメリカ政府からスパイという告発を受けます。彼女は抗弁して、逆に政府に謝罪させましたが、結局、国を追われ、昭和24年(1949)に渡英します。そして、困窮のうちに、ロンドンで客死。遺骨は、北京に葬られたのことです。彼女の思いは、シナにあったのでしょう。共産主義に骨まで献身したというわけでしょう。 冒頭に、「南京大虐殺」についてのスメドレーの記述を書きました。私は、スメドレーの「20万人虐殺説」は悪意あるデマ宣伝であり、その背後に、なんらかの組織の意図・目的があると考えます。 スメドレーの足跡には、赤い疑惑がつきまといます。専門家の方々のさらなる研究に期待しています。(ページの頭へ) |
第6章 ゾルゲ〜二つの祖国を持つスパイ
共産主義者は、日本でもスパイ活動を行いました。わが国でのソ連のスパイ活動は、昭和16年10月、大東亜戦争直前に発覚しました。これが有名なゾルゲ事件です。背後にいるのは、スターリンです。スターリンは、ソ連を盟主とした世界の共産化を目論み、世界各国に国際共産党の支部を設け、スパイや協力者を作り、ソ連の国益に奉仕させました。彼のために日本で暗躍したスパイが、リヒャルト・ゾルゲでした。 ◆二つの祖国を持つ男 リヒャルト・ゾルゲは、1895年、ロシアのバクーに生まれました。父アドルフはドイツ人の石油技師、母ニーナはロシア人でした。3才のおり、家族とドイツに転居し、少青年期をベルリンで過ごしました。 ゾルゲは、厳格でドイツ国家主義的な考え方の強い父親に反発しました。祖父は、ドイツ社会民主党の活動家で、マルクスやエンゲルスとは同僚のような関係でした。ゾルゲは子供のころから、そんな祖父への強いあこがれを抱いていました。第1次大戦に従軍した彼は、戦争の悲惨さを痛感し、社会の変革を強く願うようになったのでしょう。1917年に、母の国ロシアで起きた共産主義革命に感激したゾルゲは、1919年に、ベルリン大学を卒業すると直ちに、ドイツ共産党に入党しました。(1) ゾルゲは女性共産主義者ローザ・ルクセンブルグの著書の出版などで頭角を現しました。ゾルゲはまた、フランクフルト学派の一員でもありました。1924年、フランクフルト大学に西欧マルクス主義の牙城となる「社会研究所」が創立された時、彼はその所員となり、しばらく在籍したのです。そして同年、共産党の指令でモスクワへ派遣されました。ソビエト共産党に入ったゾルゲは、コミンテルン本部でも優れた才能を示し、赤軍第4本部(情報局)に引き抜かれました。彼の持つ強い信念、豊かな能力、冷徹な性格は、スパイに向いていると評価されたのです。 ゾルゲは生涯ドイツの国籍を保ちました。その一方、母の国ロシアを「革命の祖国」として尽くしました。父の国での革命を夢見て……しかし、その夢は無残に裏切られることになります。 ◆宿命の出会い、そして日本へ 昭和5年(1930)、シナの情勢は緊迫していました。満州をめぐる日ソの利害は鋭く対立しました。ゾルゲは、ドイツ人ジャーナリストの肩書で、ソ連から上海に派遣されました。ここでゾルゲは、赤い疑惑のジャーナリスト、アグネス・スメドレーと会いました。そして、彼女の紹介で、当時、朝日新聞上海特派員だった尾崎秀実(ほつみ)に近づきます。尾崎は、中国共産党や抗日組織と関係していました。ゾルゲは、尾崎にシナでの情報収集に協力を求めました。これが、彼等による日本でのスパイ活動につながります。 昭和8年(1933)1月、ドイツにナチスのヒトラー政権が成立しました。指令を受けたゾルゲはモスクワに戻り、ドイツに入って、偽装ナチ党員となりました。 ゾルゲは、独特の魅力を持つ人物だったようです。長身でエキゾチックな容貌、社会学博士という高い知性、東洋文化への深い造詣などは、ナチスの宣伝相ヨーゼフ・ゲッぺルスをも魅了しました。そして、同年9月には、ドイツで『フランクフルター・ツァイトング』紙の東京特派員の職を得ることに成功し、日本行きの指令を実行しました。盛大な送別会には、彼の正体を知らぬゲッペルスの姿もありました。 ゾルゲの来日の目的は、昭和6年の満州事変以降の日本の対ソ政策・対ソ攻撃計画を探知し、日本のソ連への侵攻を阻止することにありました。ゾルゲは、駐日ドイツ大使らに接近するとともに、大阪朝日本社に転勤していた尾崎と再会して、日本での協力を求めました。尾崎は「宿命的なもの」を感じました。彼等は、画家宮城与徳らを加えて情報組織を確立し、ソ連と国際共産主義に奉仕する活動を開始しました。 ◆「革命の祖国」ソ連への献身 ゾルゲと尾崎らの活動は、昭和11年(1936)の二・二六事件以降に本格化します。ゾルゲはドイツ大使館の信頼を得、オットー大使の私設情報官に就任し、重要な情報を手に入れられる立場となりました。オットー大使とは一心同体の仲となり、ゾルゲが大使名で本国向けの報告を書くことさえありました。 一方、尾崎は昭和12年4月に、近衛文麿のブレーンである昭和研究会に加わりました。翌年7月朝日新聞社を退社し、第1次近衛内閣の嘱託となり、14年1月満鉄東京支社に移りました。15年7月の第2次近衛内閣の成立前後には、国民再組織案を練るなど、国策に参与する機会をつかみました。こうして尾崎は高度の情報と正確な情報分析を提供して、ゾルゲのソ連防衛のための活動を助けました。こうしてゾルゲは大東亜戦争開戦に関する御前会議決定の機密情報などまでを入手して、ソ連に送っていました。 ゾルゲはオットー大使から、昭和16年6月のドイツ軍のソ連侵攻日時など機密情報を入手し、モスクワに通報しました。独ソ開戦後、オットー大使はヒトラーの意を受け、日本とドイツが共同でウラジオストクを攻撃し、ソ連を東西から挟撃する計画を松岡洋右外相らに持ち掛けました。しかし、日本は南進論や日米開戦方針などから難色を示しました。(2) ◆諜報発覚 ドイツの進攻を受け、苦戦するソ連を防衛する活動の最中、ゾルゲらの活動は、昭和16年10月15日、日本共産党員・伊藤律を通じて発覚し、終止符を打たれました。ゾルゲ、尾崎を始め、情報提供者、情報機関員らのグループは、スパイ行為の嫌疑で次々に逮捕されました。そして、治安維持法、国防保安法等の違反で起訴されました。ゾルゲのグループは、日本人32人のほか、ドイツ人4人、ユーゴスラヴィア人2人、英国市民1人が加わった巨大組織でした。 ゾルゲ事件は、日本国内に衝撃を与え、一大スキャンダルとして大々的に報じられました。日本政府は在京ドイツ大使館との対話を停止するなど、日独同盟関係は一時、冷え込みました。ヒトラーはオットー大使を更迭せざるをえませんでした。 日本はヒトラーが提案したソ連挟撃構想には、終に乗りませんでした。
しかしゾルゲ事件の翌月、11月26日、ルーズベルトからハル・ノートを突きつけられた日本は、対米決戦に突入しました。ハル・ノートの背後には、日米を戦わせようとするスターリンの謀略があることなど、わが国の指導層は知る由もありませんでした。 日米開戦後の昭和18年にゾルゲ、尾崎に死刑判決が下されました。処刑は19年11月7日に行われました。それは、日本の敗色が濃くなり、特攻作戦が開始されたころでした。苦境にあった日本は、ソ連に和平交渉の仲介を依頼していました。しかしそのソ連から、突然の侵攻を受けました。昭和20年8月9日のことです。日本が弱ったのを見たスターリンは、好機到来と、日ソ中立条約を一方的に破棄し、赤軍を進撃させたのです。背後から袈裟懸けに斬り付ける非道の行いでした。 ◆スパイたちの夢、まぼろし 共産主義に夢を抱き、命を捧げ、そして共産主義に裏切られた者は、多数、歴史の闇の中に眠っています。 大物スパイ・ゾルゲは、共産主義の首領スターリンに命をかけて尽くしました。しかし、猜疑心の強いスターリンは、ゾルゲに二重スパイの疑いをかけていました。 スターリンは、ゾルゲが日本で処刑されたあと、ロシアに残る妻と12歳の長男を強制収容所に送り、処刑しました。長男については、当時の国内法では年齢が低くて処刑の対象にならないことが分かると、法改正まで行って処刑しました。「革命の祖国」ソ連のために死んだゾルゲに、「同志スターリン」は、かくも冷酷だったのです。 ゾルゲは、祖国ドイツに革命の夢を抱いていました。彼が夢見た革命は第二次大戦後、ソ連による東ドイツの「解放」という形で、実現しました。しかし、共産主義による「解放」とは、欺瞞そのものでした。支配と搾取の別名でしかなかったのです。「解放」の45年後、ソ連の圧政に耐えかねた東ドイツは、共産主義を捨て、民族統一の道を選びました。続いてゾルゲが命を捧げたソ連自体も、内部から崩壊しました。 ゾルゲの共犯者・尾崎秀美には、今なお漠然としたロマンや共感を抱く知識人が多いようです。治安維持法による尾崎らの逮捕・処刑を、民主主義への弾圧、人権の侵害だとする意見さえあります。 実際はどうでしょうか。尾崎が死を賭して守ろうとしたソ連は、「労働者・農民の国」を自称していました。しかしその実態は、労働者・農民が共産党官僚に支配される国でした。ソルジェニーツインが明らかにしたように、ソ連は弾圧と虐待が横行する「収容所列島」の国でした。そして、他国を侵略して下部構造に組み込み、人民を搾取する「赤色帝国主義」「社会帝国主義」の国だったのです。終戦間近に参戦したソ連は、満州や樺太で、逃げ惑う日本人婦女子を暴行・虐殺し、男たちをシベリアに連行して強制労働させました。 そうした国のために、尾崎はスパイ行為を行いました。彼の行為は、祖国と同胞を裏切った、史上類例のない反逆罪として記憶されるべきものです。 今日の日本には、スパイ法はありません。日本は「スパイ天国」と呼ばれています。毛沢東や金日成・正日父子の国に幻想を抱き、諜報・協力している人間は少なくないようです。政治家・官僚・ジャーナリスト・大学教員の中にも。彼らの夢もまた、ゾルゲや尾崎らと同じように、まぼろしに終わるだけでしょう。 (ページの頭へ) 註 (1)『20世紀特派員〜暴走する大衆(23)』(産経新聞社) (2)産経新聞平成9年12月28日号『ゾルゲ事件、日独同盟に亀裂』 |
第7章 尾崎秀美と「敗戦革命」の謀略
田中上奏文、スノー、スメドレー、ゾルゲ等をたどっていくと、ソ連・中国・アメリカの共産主義者及びわが国の共産主義者の間の連携には、これまで知られている以上に、広く深いものがあるに違いないと感じられます。最も気になるのは、近衛文麿の上奏文の内容です。 尾崎の目的は「敗戦革命」による日本の共産化でした。戦後日本では、それは押し留めることができています。しかし、共産化の前段階としてのブルジョワ革命的な変革は、こうした形で遂行されてきたのです。 |
第8章 ハル・ノートにスターリンの謀略
日米戦争について、近年二つの重大な新事実が明らかになっています。一つは、米国は日本の真珠湾攻撃の前に日本本土爆撃計画を立てており、その計画を推進したロークリン・カリーは、ソ連のスパイだったこと。もう一つは、ハリー・デクスター・ホワイトも、ソ連の諜報組織と関係があり、ハル・ノートの原案はホワイトがソ連の指示に従って起草したものだったこと。これらの二つです。特に、ハル・ノートに関する関与は重大です。 ◆ハル・ノートに対する「不戦必勝」の道 カリーとホワイトは、時代を代表するエコノミストでした。共にケインズ主義者でした。カリーはニューディール第2期に、左派色の強い経済政策をデザインした「ケインズ革命」の立役者でした。ホワイトは戦後、ブレトンウッズ協定を立案し、英国代表のケインズと渡り合い、米国主導による戦後の世界通貨金融システムを構築した人物で、経済学の入門書にも載っているほどです。かくも優秀抜群なる米政府高官が、スターリンの世界共産化の謀略に関与していたとすれば、驚きです。 そこで、ハル・ノートとその背後のソ連の謀略、そして対米戦争を回避しえた道について、以下に書くことにします。 まず私は、日米開戦の引き金となったとされるハル・ノートに対しては、「即、交渉打ち切り、対米開戦」ではない「別の道」があったと考えています。昭和10年代の日本は「厳正中立・不戦必勝」の策 (注1)をとるべきだったという考えです。そして、それゆえ、私は大東亜戦争肯定論ではなく、いわば大東亜戦争本来不要論です。 日本側は、ハル・ノートをつきつけられた時、撤退すべしという中国には満州を含むと受け留めました。この受け留めによって、ハル・ノートは事実上の最終通告と理解され、日本の指導層は対米決戦へと決断しました。しかし、ハル・ノートは、満州を撤退の範囲に含むか否か明示していないのですから、この点を問いただして、外交交渉を続けるべきでした。 ハル・ノートに関して、私の知る限り、傾聴すべき意見を表明している方に、小室直樹氏、日下公人氏、片岡鉄哉氏がいます。 まず小室直樹氏、日下公人氏の共著『太平洋戦争、こうすれば勝てた』(講談社、1995)から要点を引用します。 小室: 戦争をしない方法の「一番簡単なのは、ハル・ノートを突き付けられた時に『はい、承知しました』って言ってしまえばよかった。そうすれば戦争をする必要は無かった」 日下: 「実行はズルズル将来へ伸ばせばいいんだから」 小室: 「ハル・ノートには日程はついていなかったんだから」。「国際法の無理解」のため「ハル・ノートを理解できなかったから日本は対米戦争に突入した」 日下: 「ハル・ノートの内容を世界に公開すべきでした」 大変、示唆に富んだ意見だと思います。これをさらに推し進めた意見が、片岡鉄哉氏の意見です。 片岡氏は、フーバー研究所員、元筑波大学教授。戦後日本外交史の国際的な権威です。上記産経新聞の報道を受けて書いた雑誌論文で片岡氏は、概略、次のように論じています。(『アメリカに真珠湾を非難する資格はない!』 月刊誌『正論』平成11年10月号) 大東亜戦争についてーー「クローゼビッツの戦争論に、戦争の第一原則というのがある。ひらったくいうと、戦争とは勝つためにはなんでもするものだというのである。しかし日本政府はそれを理解していなかったようである。日本にとって勝つとは、戦争を回避することだった。そのために政府は手段を選んではならなかった。名誉ある不戦を求めて手段を選んではならなかった。 日本政府が真珠湾への決定を下したのは、アメリカ政府が最後通牒で、理不尽な要求をしてきたからである。日本が受け入れるはずのない要求をしてきた。ただし、アメリカ政府はこれを最後通牒と呼ぶことを避けた。事実上の最後通牒を最後通牒と呼ぶのを避けることで、日本を先制攻撃に追い込んだのである。しかしそれだったら日本政府は、その最後通牒の内容を暴露すべきだった。ルーズベルトが、ハワイの司令官にも、誰にも知らせないで、最後通牒を出した事実を暴露すべきであった。… 夏から秋にかけて、共和党はルーズベルトが戦争を求めている理由の一つを薄々感じ取っていた。32年に当選して以来、彼はあらゆる手段で大恐慌と闘ってみたが、失敗していた。…あとは戦争しかない、という実感が空気としてあったのである。… 日本が名誉ある不戦をとるとすれば、彼らに頼る以外なかった。彼らに、FDRが最後通牒をだしたことを知らせるべきだった。それも単に知らせるだけでは足りない。ルーズベルトは真珠湾攻撃を両院議員総会で発表して、メディア・イヴェントにしたが、あれくらいの派手なことをやって、誰が戦争を求めているのかを、全世界に印象付けるべきだった。…」 小室・日下・片岡各氏が述べるような、極めて高度な外交を、果たして、当時の日本の政府が展開できたかどうかは、疑問を感じる方も多いでしょう。しかし、「ハル・ノート」への対応は、「即、交渉打ち切り、対米決戦」のみではなく、米ソの謀略に乗らない道が、一つの可能性としてあったことは、ご理解いただけるでしょう。実際、ハル・ノートを突きつけられてから開戦までの11日間、挑発に乗らず、あくまで戦争を避けるべきだという意見が、指導層の一部からは出されたのです。しかし、指導層の多くは、クラウゼヴィッツ流の西洋白人戦法を信奉していたため、東洋・孫子流の「戦わずして勝つ」最高の戦略があることを理解できなかったのでしょう。 ◆H・D・ホワイトに関する疑惑 日米戦争によって、戦後、漁夫の利を得たのが、スターリンでした。彼は、かなり早くから日米戦争謀略を構想していたようです。アメリカのW・ビュリット駐ソ大使は早くも昭和10年(1935)7月19日に「アメリカを日本との戦争に引き込むのがソ連政府の心からの願望」だと米国に知らせていたのです。昭和10年つまり1935年とは、ルーズベルトが大統領に当選した年です。スターリンは策謀の一環として、ルーズベルト政権の高官の中にスパイをつくり、彼等を使って、ルーズベルトを操り、日米を戦わせようとしたのだろうと思います。 そして、この線上に浮かび上がってくるソ連への重要な協力者の一人が、H・D・ホワイトだったのです。当時、彼は財務省のエリートでした。ルーズベルト大統領に強い影響力を持つ財界の大物・財務長官モーゲンソーの右腕であり、頭脳でした。ホワイトの書いたものは、そのままモーゲンソーが署名し、モーゲンソーの文書として大統領に提案されたといいます。 戦後、IMFの理事長という要職にあったホワイトに疑惑が起こりました。昭和23年(1948)7月です。共産党の女性スパイであることを告白したエリザベス・ベントレイが、下院の非米活動委員会で、「ホワイトはワシントンの共産党エリート分子の一人だ」と証言したのです。ホワイトは、自ら同委員会に出席し、委員の質問に逐一答え、自分は共産党員だったことはないし、いかなる反米活動に従事したこともないと誓いました。ところが、それから2週間もたたずに、ホワイトは自分の農場で死亡しました。死因は心臓発作とされています。当時、スパイの容疑をかけられた者たちが、次々に自殺したり、亡命したりしたので、ホワイトの死は謎を残しました。 彼の死後も疑惑は続き、以前に共産党員だったウイタカー・チェンバースが、ホワイトは、戦争中ソ連のスパイ網の一員であったと証言しました。しかし、ベントレイやチェンバースの証言以外に、ホワイトを安全保障違反に問える証拠は何も出ませんでした。 彼の死後、50年近くたって、元ソ連NKVD(内務人民委員部、KGBの前身)工作員であるビタリー・グリゴリエッチ・パブロフが、ホワイトに関する証言を行いました。彼は、ホワイトに接触し、ホワイトがハル・ノートの母体となる文書を書くに当たって参考にするようメモを見せたといいます。ホワイトを利用した作戦は、彼の名にちなんで「雪」作戦と呼ばれたことがわかりました。 平成9年(1997)、パブロフは、NHKのインタビューに応じて、当時の事情を明かしました。パブロフは、ホワイトに見せたメモには、「関東軍はソ連に一定の警戒心と脅威をもたらしていた。ですから、一部の警察力のみを残してこの軍隊を撤兵させることが、日本にとっても適切であると考えさせるような」内容があったことを示唆しています。「われわれの目的は、極東のソ連地域を日本の攻撃と侵攻の可能性から守り、安全にすることでした」とパブロフは語っています。この点こそ、尾崎秀美とゾルゲが、最も力を注いだところでした。ソ連からすれば、日本とアメリカの両方に働きかけて、日本軍の北進を阻止する工作を行っていたことになります。 パブロフは、日米を戦わせるという考えは「まったく考えになかった」と述べています。しかし、これは疑ってみる必要があります。最高指導者のスターリン、またはパブロフの上司であるベリヤが、工作員のパブロフに世界革命戦略の全体像を明らかにしていたとは、考えにくいからです。パブロフよりはるかに優秀な尾崎秀美は、日本を米英と戦争させ、「敗戦革命」を起こすという戦略の実行を自己の使命としていました。彼の行動と証言を見れば、スターリンが日米戦争を強く望み、日本と米国の両方の指導層に工作をしていた可能性は十分あるのです。 ◆スターリンが日米を戦わせようとした理由 ではスターリンは、なぜ日米を戦わせようとしたのでしょうか。この理由は、これから歴史家や戦略論の専門家によって本格的に分析されていくことでしょう。浅学を顧みず、私は、現時点で、主な理由として以下の4点が挙げられるだろうと考えています。 (1)スターリンは日本を米国の力をもって叩くことにより、満州・朝鮮を奪い、また中国の共産化を実現しようとした。中国共産党は、スターリンの指示を受けて、日本軍と国民党軍を戦わせ、両者の弱ったところで、共産化を成し遂げるという革命戦略を実行していた。(昭和12年〔1937〕のろ溝橋事件以後の一連の謀略など) 米国による対日戦争は、アジアにおける共産勢力を援護するものとなると謀ったのだろう。 (2)さらに対米・対中戦争で弱ったところで、日本を共産化することを目標とした。スターリンは、日本革命を、世界の共産化における最大の課題としていた。日本の「国際共産党日本支部」(=日本共産党)に対してのみ、他国の支部には見られないほど多数のテーゼ(運動方針)を指示していた。ソ連軍の「日本解放」の際には、日本共産党がスターリンの手先・傀儡となるよう育成したのだろう。(実際、米軍の日本占領の際に、その成果が現れた) (3)スターリンは、昭和15年9月に日独伊三国軍事同盟を結んだ、日本がドイツと協同して、対ソ攻撃を行うことをおそれた。日本軍部では、北進論(=対ソ)と南進論(=対米英)の両方面の作戦計画が拮抗していた。結局、昭和16年10月のゾルゲ事件によって、明るみに出たように、日本人スパイの尾崎秀美は、日本の「敗戦革命」をめざして、コミンテルンのドイツ人スパイ・ゾルゲに協力し、日本軍を北進から南進へと方針転換させた。これによってソ連は挟撃を免れ、ドイツの侵攻から九死に一生を得た。同時に、日本を南進させたことにより、スターリンは日本を米英と戦わせる道に誘導したのだろう。 (4)特に昭和16年6月からのヒトラーの侵攻に圧倒され、危機にあったスターリンは、米国を第2次大戦に参戦させ、米国をドイツと戦わせようと謀った。大統領選挙で、大戦に参加しないことを公約していたルーズベルトを、対独参戦させることは、スターリンにとって死活をかけた課題となった。そこで彼は、米国の対日開戦が対独参戦のきっかけとなるように画策したのだろう。ルーズベルト自身、対独参戦を行う口実を得るために、日本を挑発し、日本から仕掛けさせようとした。この点、スターリンとルーズベルトの目的は一致していた。スターリンは、ルーズベルトを刺激して対日工作を促進したとも見られる。 私は、昭和戦前期、1930年代〜40年代の世界において、最高の戦略家かつ最凶の謀略家は、スターリンだったと思います。 ◆独ソ戦の情勢を見て「別の道」へ さて、上記のような理由で、日米を戦わせようとするスターリンは、諜報員を用いて、アメリカ政府高官であるホワイトに、日本に対して強硬な要求をつきつける文書の起草を指示したと考えられます。ホワイトの書いた原案は、財務長官モーゲンソー案として提出され(1941年11月17日)、それをもとに検討がされました。この過程では、内容が段階的に変更され、最終的に成案なったのが、ハル・ノートです。その完成は、手交前日の昭和16年11月26日でした。 ハル・ノートの解釈で最大のポイントとなったのは、アメリカが日本に軍隊の撤退を求める範囲に満州国を含むのか否かでした。成案寸前の案では、中国と満州は別とされ、撤退範囲に満州は含まれていませんでした。しかし、最後の数日の間に、単に中国というだけで、満州を含むか否かが明示されない表現に変えられました。一体この変更がどういう理由で行われたのかは、まだ解明されていません。ハル自身の考えなのか、ルーズベルトの指示なのか、はたまたスターリンの意思を受けたソ連のスパイによる働きかけがあったのか、まだ真相はわかりません。 ホワイトの関与についていえば、彼の原案は幾度かの変更を加えられているので、成案なったハル・ノートは、ホワイトが書いたものとはいえません。しかし、ハル・ノートが、日本を対米開戦に追い込んだことを考えると、所期の目的は達成されたといえるでしょう。 いずれにせよ、日本側は、ハル・ノートをつきつけられた時、撤退すべしという中国には満州を含むと受け留めました。この受け留めによって、ハル・ノートは事実上の最終通告と理解され、日本の指導層は対米決戦へと決断しました。しかし、ハル・ノートは、満州を撤退の範囲に含むか否か明示していないのですから、この点を問いただして、外交交渉を続けるべきだったのです。 それと同時に、日本政府がこの時、独ソ戦について正確な情勢判断をしていれば、「不戦必勝」の道を受け入れることは可能だったと、私は考えます。 その説明に代えて、再び、小室+日下共著『太平洋戦争、こうすれば勝てた』から要点を引用します。 日下: 「昭和16年の11月26日にハル・ノートが出た頃、ソ連に攻め込んでいたドイツ軍の進撃が、モスクワの前面50キロというところで停止したんです。そのことは、大本営もわかっている。ただ、大本営は『この冬が明けて来年春になれば、また攻撃再開でモスクワは落ちる』と考えていた。 『本当に大本営はそう思っていたんですか』って瀬島さん(=龍三、元大本営参謀)に聞いたら、『思っていた』と。 その頃、『これでドイツはもうダメだ』という駐在記者レポートが各地から来ていた。イギリスにいた吉田茂(大使、のちの首相)も、ダメだと見ていた。それなのに、ベルリンからのだけ信用した。そりゃあ、ベルリンの大島浩(大使)はヒットラーに懐柔されちゃっているから、いいことしかいわない。それを信じたのです。… 瀬島さんに聞いたんです。『もしもドイツがこれでストップだと判断したら、それでも日本は12月8日の開戦をやりましたか』って。そうしたら『日下さん、絶対そんなことありません。私はあの時、大本営の参謀本部の作戦課にいたけれど、ドイツの勝利が前提でみんな浮き足立ったのであって、ドイツ・ストップと聞いたなら全員『やめ』です。それでも日本だけやると言う人なんかいません。その空気は、私はよく知っています』と」 再び、こうした歴史を繰り返さないように、歴史の検証を深め、その教訓を、今日に生かしたいものだと思います。(ページの頭へ) 参考資料 ・対米戦争を始めなければ、日本は全く別の道を行くことができました。 詳しくは以下をお読み下さい。 ・
須藤眞志著『ハル・ノートを書いた男〜日米開戦外交と「雪」作戦』 (文春新書) |
第9章 ヤルタ会談にソ連スパイが暗躍
第2次大戦によって、最も多くの果実を得たのは、どの国でしょうか。明らかにソ連です。開戦直後、スターリンは、ヒトラーとの合意のもとに、ポーランドをドイツと分割しました。さらに、フィンランドやバルト三国を掌中にしました。さらにヤルタ会談をきっかけに、欧州の東半分を分割支配し、大陸から日本を排除しました。ソ連の覇権の拡大は、同時に国際共産主義運動の拡大です。大戦後、中国が共産化し、また朝鮮半島の北半分が影響圏となり、ソ連はアジアにおいても一気に勢力を拡大しました。こうしたソ連の躍進を許したのは誰か。アメリカのルーズベルトでした。
日本を開戦に追い込んだハル・ノートは、ソ連の協力者の一人、ハリー・デクスター・ホワイトが起草したものでした。そして、日本にとどめをさすソ連の参戦を決めたヤルタ会談では、アルジャー・ヒスが暗躍しました。 ヒスは国務省の高官として、ルーズべルト政権に仕え、ヤルタに随行しました。彼は、国務省を代表して会談に出席し、重病のルーズベルトを補佐したのです。大統領は、ソ連の参戦と引き換えに、東欧と日本の領土の一部をソ連に渡すことにしました。そこには、スターリンの意思を汲んだヒスの働きがあったのです。 ヤルタ協定の草案は、ヒスが作成したものです。この密約には、ソ連の主張は日本の降伏後、異論なく完全に達成されることで合意した、と定めています。対日侵攻を行った後、日本の北方領土の略奪を許すというわけです。ルーズベルトは、会談の約2ヵ月後に死亡しています。会談の当時、健全な判断力を持っていたとは考えにくい状態です。スターリンは、彼の体調の悪さを見抜いていたのです。
国連とは、「連合国」のことであり、英語では同じ the United Nationsであす。わが国では戦後、これを「国際連合」と訳するようになりましたが、自己欺瞞というしかありません。中国では、一貫して「連合国」と訳しています。 ルーズベルトは、国連の件でもスターリンに大きく譲歩しました。ここでもヒスが暗躍しました。ヒスはヤルタ会談後、「国連=連合国」の機関としての創設に活躍し、国連憲章の起草にも参加したのです。その結果、「国連=連合国」は、アメリカの国益を実現する機関という以上に、ソ連をこそ利するものとなったのです。 共和党を中心とするアメリカの保守層、とりわけ保守系の知識人の中には、国連はソ連・中国の共産主義や、アメリカの左翼に利用されている機関であり、反米的な機構であるという見方があるのです。 平成7年(1995)7月、アメリカ政府は、非公開としてきたソ連の暗号電報を公開しました。暗号の解読は、1943年から陸軍の特殊部隊によって行われていました。最高機密活動で「ヴェノナ作戦」(Venona project)と呼ばれました。その資料公開によって、1940年代から50年代にかけて、米国政府内に、100人以上ものソ連のスパイが潜入していたことが確認されました。彼らは、ホワイトハウス・国務省・財務省・司法省や、CIAの前進である戦略情報局(OSS)、陸軍省等で暗躍していました。 アルジャー・ヒスこそ、そのうち最大級の大物スパイであったことは、疑いのないところです。(ページの頭へ) |
第10章 ニューディーラーが日本を改悪
日本は大東亜戦争に敗れました。戦後、日本を占領した連合国軍総司令部、GHQには、ニューディーラーと呼ばれる人間が多くいました。彼らは、日本の占領政策において、日本を弱体化させる政策を多く推し進めました。彼らは共産主義に親近感を持ち、その影響を強く受けていました。そして、日本弱体化政策には、ニューディーラーを通じて共産主義者の意図が入り込んでいたのです。 ◆ニューディーラーから出たスパイ 第1次世界大戦とそれに続く混乱によって、資本主義の矛盾が噴出しました。破壊、失業、飢餓……。当時は欧米の知識人の多くが、社会的正義に情熱を燃やし、マルクス、レーニンらによる社会主義が正しいと信じていました。彼等は共産主義国・ソ連への共感を抱いていたのです。1929年の経済大恐慌後、統制経済によってソ連が躍進すると、社会主義的な政策への評価も高まりました。 世界的大不況の中でアメリカは、ニューディール政策を断行しました。これは、かなり社会主義的な政策でした。このときの政策を立案・推進したリベラル派のグループを、ニューディーラーと呼びます。 ニューディーラーたちは、ルーズベルト大統領に大きな影響を与えました。彼らをブレインに持つルーズベルトは、ナチス・ドイツと戦うために、ソ連と手を結びます。また、日本を敵視し、戦争によって日本を叩く道を取りました。しかし、これは結果として、ソ連を飛躍的に強化せしめ、またシナをも共産化させてしまうという大失策でした。 近年、米国公文書が公開され、日本の真珠湾攻撃の前に、米国は、昭和16年9月に、日本爆撃計画を策定していたことが明らかになりました。真珠湾攻撃は、卑劣な「スニーク・アタック(奇襲攻撃)」と批判されていますが、なんとアメリカの方が先に先制攻撃を計画していたのです。この計画を推進したのが、ニューディーラーの一人、ロークリン・カリーでした。彼は、ルーズベルト大統領の補佐官でした。そして実はソ連のスパイだったことが明らかになっています。 カリーは、ニューディール政策の立案時に米国政権に参加し、ルーズベルトの大統領補佐官となりました。当時、米国は東アジアの覇権をめざしていました。そして、日本と対峙するために柱となる政策が、中華民国の蒋介石を支援する「援蒋政策」でした。米国は中立国の立場でありながら、「援蒋政策」として、国際法に反し、さまざまな軍事援助を進めており、事実上、対日戦争に参戦していました。このなかで、ソ連のスパイ・カリーは、蒋介石の政権顧問として、オーエン・ラティモアを推薦したのです。 ◆反日親中の旗手・ラティモア オーエン・ラティモアは、ジョンズ・ホプキンズ大学の教授で、著名なシナ史学者でした。彼の親中的な姿勢が、ルーズベルトにかなりの影響を与えることになります。 戦前のアメリカでは、国務省内などに対日非難の世論を形作る中心的役割を果たしたものに、「太平洋問題調査会(IPR=Institute of Pacific Relations)があります。IPRは戦前から戦争直後の時期まで、アジア・太平洋地或に関して非常に権威のある国際的な研究団体でした。太平洋地域やそれに接する地域に関心を持つ、多くの国々の学者・実業家・ジヤーナリストなどからなっていました。 米国のIPRは、米国がいうところの「太平洋戦争」において、積極的に米国政府の政策立案に協力しました。そのメンバーの中には、シナでの革命に理解を示す学者が多かったのです。なかでもラティモアは、当時の米知識人の親中・反日派のリーダーのような存在でした。彼はIPR機関誌の編集長として「中国を侵略する日本」を追及する論陣を張っていました。 ソ連のスパイ・カリーは、そんなラティモアを蒋介石政権の政治顧問に推薦し、ルーズベルト政権との直接のつながりを作りました。そこにはスターリンの意志が、なんらかの形で介在していた可能性があります。 ラティモアは、戦後の日本占領政策の策定では、非常に強硬な姿勢を示し、厳しい占領政策を提案しました。彼が「虎の巻」(片岡鉄哉氏)としていたのが、歴史学者ノーマンの著作でした。 ◆共産党員ノーマンがGHQに影響力 E・H・ノーマンは、日本に生まれ育ったカナダ人で、日本語に堪能でした。彼の著書『日本における近代国家の成立』(邦訳は岩波書店)は、昭和15年(1940)に発行されました。当時、ノーマンは欧米でただ一人の日本史研究者でしたから、米国指導部は彼の著書に注目しました。 片岡鉄哉氏の名著『日本永久占領』(講談社文庫)によると、ノーマンは「マルクス主義者」で、「れっきとしたカナダ共産党員」でした。彼の著書は、日本弱体化のための占領政策を推進する米国の官僚たちにとって、かけがえのない手引きになりました。それはノーマンの理論が、日本に制裁を加えるという初期占領目的を、イデオロギー的に正当化したからでした。それは、共産主義の日本革命の理論を、占領軍の絶対権力で実行するようなものでした。それを推し進めたニューディーラーは、共産主義に同調していましたから、共産主義の理論を、日本で実践したわけです。 片岡氏は言います。「なぜ彼がニューディーラーにそんなにもてたのか。それはノーマンが、日本共産党の理論である講座派の理論を、虎の巻にしていたからであった。彼の本は岩波の講座シリーズの綱要とみてよいであろう」と。 ルーズベルトの対日政策に影響を与えたラティモアがノーマンの著書を「虎の巻」にしていたと述べましたが、そのまたもとになる「虎の巻」が、日本共産党の理論だったということになるでしょう。日本共産党は、ソ連に本部を持つ国際共産党の日本支部として設立された団体です。それゆえ、日本共産党の理論は、スターリンのソ連共産党の理論に通じるものだったでしょう。 1932年にスターリンは、日本共産化の方針として、「天皇制」打倒のテーゼを出しました。いわゆる「32年テーゼ」です。このテーゼに従って、講座派の学者は、二段階革命論を打ち出しました。二段階革命論とは、最初にブルジョワ民主主義革命を行って、その次に社会主義革命を行うという、日本革命の運動方針のことです。 スターリンの指令に従う講座派は、明治維新はフランス革命にまで到達していないとみなしました。ブルジョワ民主主義革命の典型は、フランス革命だが、日本では、本物のブルジョワ民主主義革命にならないで、多くの「封建的残滓」が残された。天皇制と華族制度は、その残滓のさいたるものだ、とするのです。だから本当のブルジョワ民主主義革命を実行して、この残滓を取り除いてから、初めて日本は社会主義革命に進むことができるという理論です。日本共産党は、現在もこの理論を堅持しています。 さて、片岡氏によると、「ノーマンは、徹底的なブルジョワ民主主義革命、つまりフランス革命を売り物にしていたので、ニューディーラーにうけたのである。もっとはっきりいえば、ルイ16世のように天皇をギロチンにかける政策に、学術的な理論体系を提供したから、うけたのである」ということになります。 GHQは、日本に詳しいノーマンを高く評価し、カナダの外交官だった彼を、GHQに迎えました。ノーマンは、マッカーサーの右腕となり、日本占領政策に大きな影響を与えたのです。そのため、マッカーサーは奇妙な容共政策を行っています。 ノーマンは、マッカーサーの命を受けて、府中の刑務所から日本共産党員を釈放しました。また、彼は、「戦犯容疑者」の調査を担当した。彼の事務所には、日共の幹部たちが、日参して入り浸っていました。ノーマンは、彼らの供述を基礎に「A級戦犯」の起訴状を書いたのです。共産党員ノーマンが、東京裁判に一定の方向付けをしていたのです。 片岡氏によると、「日共幹部は府中を出るや否や『連合軍は解放軍である』というテーゼを打ち上げている。もちろん『天皇制打倒』と背中合わせになっている。そしてGHQが背後についているとおおっぴらに吹聴して歩いた。これは、ジョージ・アチソン(国務長官の政治顧問、親中・反日派)が本国への報告で認めている。つまりGHQは黙認していたのである」という状態でした。 ◆GHQにはニューディーラーが多かった GHQには、多数のニューディーラーがいました。彼らは米国で実現できなかったリベラルな理想を、日本の占領政策で実現しようとしたのです。特にGS(民政局)には、多くのニューディーラーが集まっていました。その民政局で次長となり、辣腕を振るったのが、チャールズ・ケーディス中佐です。 ケーディスは、GHQの官僚たちがそうだったように、ノーマンの本を「聖書」のように考えていました。共産主義者であり、スターリン=日本共産党=講座派の理論を「虎の巻」としていたノーマンの本を、です。 ケーディスは、GHQによる日本弱体化政策の重要な実務を掌握しました。「日本国憲法」の起草においても、彼は要の一人でした。第9条は、彼が起草したものです。「日本国憲法」は、GHQが極秘のうちに1週間ほどでつくった草案がもとになっています。この草案には若干の修正が加えられましたが、その過程で、日本の社会主義者・鈴木安蔵らの意見が取り入れられました。鈴木はスターリン憲法を模範とし、戦後憲法に社会主義的な条項を入れ込もうとしました。これに同調するニューディーラーによって、日本国憲法には「勤労の義務」など社会主義色の濃い内容が盛られることになったのです。 戦後間もない時期、GHQの経済政策は、その多くがニューディーラーによって起案されました。それはアメリカ国内から「左寄り」との批判を受けるほどに偏ったものでした。経済の集中力を排除する目的で、戦後日本を牽引すべき大企業が「民主化」の名の元に分割されました。いわゆる財閥解体です。また、公職追放においても、重要経済人をそのリストに入れていました。こうした政策は、アメリカ本国で「日本経済を破壊する」とまでいわれました。 こうしたルーズベルトとニューディーラーによる、容共・親ソ・反日の外交は、途方もない過ちであったことが、戦後数年のうちに、明らかになりました。わずかの間に、国際情勢は激変したからです。旧連合国のアメリカとソ連は、世界を資本主義と社会主義の両陣営に二分しました。ソ連は、東欧を侵略し、また日本からも北方諸島などの領土を奪取しました。シナでは、スターリンの指示を受けた毛沢東と中国共産党による共産革命が進展しました。そして1949年10月1日、中国に共産主義の人民共和国が成立しました。同年、ソ連は核実験に成功し、本格的な東西冷戦の時代に突入することになります。 こうした中で、日本の占領政策は大きく変化しました。GHQの内部では保守派が台頭して、ニューディーラー=リベラル派の影響力が弱まり、GS(民政局)から、反共的な軍人らが多いG2(参謀部諜報・保安担当)へと政策決定の重心が移動しました。
◆共産主義への幻想による誤導 中国革命や朝鮮戦争の激動への反作用として、1950年代のアメリカでは、マッカーシズムと呼ばれる反共運動が起こりました。国内の共産主義者への取り締まりを徹底するとともに、リベラルな学者や研究もことごとく「共産主義」というレッテルを貼られました。 米国の「太平洋問題調査会(IPR)」は、中国革命に理解を示す学者が多かったため、激しい批判の対象となり、1961年に解散に追いこまれました。そのグループの中で、特に厳しく追及されたのが、オーエン・ラティモアでした。ソ連スパイ、ロークリン・カリーによって蒋介石の政権顧問となっていた人物です。しかし、結局、ラティモアがスパイだという証拠はあがりませんでした。 もう一人のキーパーソン、E・H・ノーマンはどうだったでしょうか。ノーマンはGHQでの勤務を離れた後、カナダの駐日公使として、引き続き日本にあって、マッカーサーに影響を与えていました。しかし、アメリカでの「赤狩り」(レッド・パージ)は彼にも及びました。追い詰められたノーマンは、自殺します。自殺を選ぶということは、死を持って隠し通さねばならないことがあったということでしょう。 やがて、ソ連ではスターリンの恐怖政治が批判され、中国では毛沢東による破壊と殺戮が明らかになり、共産主義の矛盾と限界が暴露されていきます ニューディーラーは、共産主義への幻想によって、20世紀の日米関係、さらに世界の運命を大きく誤らせたと言えましょう。特にわが国にとっては、戦前は対日戦争を遂行したルーズベルトに対して、また戦後は占領政策を強行したマッカーサーに対して、ニューディーラーが相当の影響を与えていたのです。そして、戦前の日本の進路を誤らせ、戦後の日本の運命を左右したニューディーラーの背後に、ソ連の共産主義が存在したことを、深く認識する必要があります。 (ページの頭へ) 参考資料 ・ニューディーラーが関与した日本占領政策については、以下の拙稿をご参照下さい。 |
第11章 『日本解放綱領』の残影
昭和47年(1972)8月、中国共産党の秘密文書なるものが、出現しました。当時は、田中角栄内閣が成立し、マスコミが日中早期国交のキャンペーンを展開していました。三島由紀夫自決や70年安保収束の2年後のことです。
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