城南町はどんな子を

高校の頃からの親しい友達が、熊本で中学の教員をやっています。
彼がテープ起こしをして、冊子にまとめた講演記録、読んだらおもしろかったので、講演者にも了解を得て、掲載しました。

城南町はどんな子を 〜 9年の重み
                      岡部 健さん
 1997年2月26日
城南町学同研における講演記録

 こんにちは。福岡の岡部です。
 一昨年の夏、松橋高校の体育館で話をしろと言われて、いろんなむずかしい解放原論とか理論は誰でも話せるし、私は、自分が出会った子どもとやりとりしてきた、ある時は身を刻むようなやりとり、ある時は真綿でほんとうに守られるような優しいやりとり、そんなことをしか話せませんので、保育園の先生から高校の先生まで共通する中身で話せるか、それでずいぶんとお断りしたんですけれど、前に私の話を聞いた先生方が何人かおられて、子どもの話だったら保育園の先生にも高校の先生にもわかる、て、いうことで。あのときの私の話と重複するかもしれませんけど、一部しか重複しないと思います。

 この子のことを話したいな、という子が19人おるんです。20年間で19人のそんな矛盾を持った子どもたちと出会ったわけですね。「障害」を持った子ども、あるいは不登校で小学校は3年間しか行ってない子。あるいは家庭が破壊してしもうて、そして、じいちゃんがわずかな野菜と米、麦をつくりながら、孫2人を育てていく。父母は借金がかさんで蒸発して行方不明になってる、そんな子ども。そんな子を受け持ってきて、そして、私の進路は決まったんです。
 私は40歳を過ぎて自分の進路を確立してきたんです。それまでむちゃくちゃな進路でした。例えば、陸上競技を鍛ってたけど、あの代々木の国立競技場で走れる、跳べる、投げれる選手を育てる。これが私の体育の教師としての進路だったんです。
 そして、バレーボールも受け持っとったけど、あの頃バレーボールは全国大会には1県1校しか行けませんでしたから、その代表になること。だから、千丁中学に練習試合に行く。あすこがすごく強くてですね、土曜日から泊まりがけで行ったら、土曜日は全然歯が立たないんです。めっためたにやられる。日曜日の午前中、少しずつ点数がとれるようになって、日曜日の午後は何セットかとれるようになる。千丁中学から鍛われて。で、夕方帰る。親たちもみんな弁当持って応援に来てくれて。
 それは学校の教師としての進路じゃありませんね。大事なこと忘れてる。40歳頃から私の教師としてどう生きるかということを、あの抑圧された子どもたち、びびって生きている、びびって学校に来て生きている子どもたちから教えられました。そして、その後ろにおる親たち、じいちゃんばあちゃんたちにまた学びながら、何か歩いてきたような気がします。

 この前、教え子から年賀状が来ました。年賀状がこんなに来る中で、一枚一枚見てて、全部には返事を出し切りませんので、決めとるんです。教え子からの年賀状が、例えば、200枚来るとするでしょう。選り分けるんです。20歳以上の教え子には書くんです。現役なんか「何で俺に年賀状出すとか。」と言うて叱るぐらいです。もう1月4日には部活やらで会うわけですよ。1月1日に会う子も多いんですよ。山登りするから。「ご来光を見に行こうや。そして、1年間健康に暮らせますように。母さんが病気しとるなら、母さんの病気なおして下さい。てお祈りに行こうや。」て言うて、1月1日の朝早くから宮路岳という山に登るんです。そのときにもう大部分の生徒と会うんです。だったら、年賀状は必要ない。20歳過ぎの子どもに返事を出すようにしてます。

 その中の一人、Y子という子から年賀状が来た。Y子という子はあいさつが逆じゃったんです。学校に着いたときに自転車小屋で「ただいま。」と言うんです。みんなもそう受けよるんです。「お帰んなさい。」て言いよるんです。私がそれを知ったのは、Y子が私の学級になって4ヶ月も経ってから。図書室で職員会があってて、そして終わったから出て、自転車置き場のところ通りよったら、ちょうどY子がヘルメットをつけて、「行って来ます。」ちゅうて行きよるんです。もう下校時間でしょう。5時半頃。それに「行って来ます。」て言いよるから、びっくりして「今から何をとぼけたところに行きよるのか。帰るっちゃろうもん。」と言うつもりで、「Y子、待てえ。」ちゅうたら待った。それで「今ののあいさつは何や。」ちゅうたら、「帰りよるとです。」「それに行って来ますちゅうのか。」「はい。先生、そのわけは今日は話さん。後で話す。」ちゅうて、つっと帰る。で近所の友だちがみんなおるでしょう。それで聞いたんです。「何であんなあいさつしよるの。」て聞いたら、「もうY子は前からです。」
 「私の家は教室なんよ。私がいまから出かけて行くところは、先生がよく使う言葉、私の修羅場。」命をかける場所。昔武士が命をかけた場所のことを修羅場と言うそうですね。だから、家が2年3組の教室で、そこから修羅場に出かけていく。そして、朝戻ってくるから、あいさつが友だちとは逆だ。友だちは家は自分の生活の場所。だから、「行って来ます。」ちゅうて学校に来て、そして帰る。「ただいま。」ちゅうて帰ってくる。それ逆なんですね。
 Y子という子は、一口で言うなら、アル中のお父さんを励まし、叱りながら、よそのお父さんを奪った母さんに蒸発されて、それにもだえ苦しみながら、そして、寝たっきりのばあちゃんの重湯、お粥、牛乳を暖めて飲ませながら、下の世話まで全部してる、そして、学校に通ってくる子どもでしたね。でもあの子のいいところはね、もうそれがたまらん、それがきらい、それがいやだ、て学級で泣いてましたね。仏様みたいな子だったら、神様の子だったら、泣き言一つ言わんはずですよ。
 だから、「私があの家へ帰るのは、」当時小学校の5年生の弟が。「弟がおるからうちは帰りよるとよ。あの家は捨てたい。」て言いよった。「じゃあ、ばあちゃんはそれでいいんか。」ちゅうたらね、「ばあちゃんはお父さんが見るくさ。自分の母親じゃろうもん。」ちゅうて泣き叫ぶ。
 でも、下の世話をしてきれいにお湯でお尻をふいて、またおしめつけて、そして、ばけつみたいなのを持ってふすまを閉めようとするときに、ばあちゃんが後ろ姿でY子を拝んでいるんです。「ありがとう。汚なかろう。つらかろう。」ちゅうて拝んどるんです。それをわれわれは目の前で見て。

 Y子は高校を卒業したら京都に行って、あるホテルで勤め始める。ホテルで勤めることにはかなり私も反対したけれど、しかし、給料がいい。何しろ、地元、地場産業に就職したらお金がいくらも残らん。「ああ、そうだったな。ほんとにお前が自立するためには1年目から貯金していく。」私もそうさせたい。そしたら、ふるさとを離れた方が貯金ができる。「弟は大丈夫なのか。」て聞いたら、「『姉ちゃん、心配せんでいい。俺ががんばる。』て言うてくれよる。」言うて京都に行ったんです。
 何年かして京都から電話がかかってきた。「先生、結婚します。6月30日です。」「そうか、いい人見つかったか。」ちゅうたら、「はい、ぜひ、私の晴れ姿見てください。」「うん。ぜひ来るぞ。」いろいろ頭では描くんですね。いい子だから。ほんとにY子の人間の裏側まで私は知ってるつもり。ほんとにいい子だから。そんな男性を見つけたであろうと思うし。そしたら、2日後にまた電話がかかってきた。「先生、あんなに言いよったけど、今、彼もここにおるけど、先生の飛行機代も新幹線代も出してやれんと。」ちゅうて泣く。「何を言いよるか。おまえさんに旅費やら飛行機代まで出してもらおうて思わん。私が見たいのはお前の晴れ姿なんだ。お前が選んだ男性だ。」「先生、ありがとう。」うれしくて、そして電話を切った。連れ合いも「ぜひ行きたい。」て言うから連れ合いと2人で飛行機で行ったんです。
 その時まで知りませんでした。男性が韓国人であることを。まず、Y子のところに行くでしょう。新婦が控え室にいるでしょう。たくさんおじさんおばさんが来てあるだろうと思って行った。そしたらぱらっとしかおらん。結婚式の席順を見たら、おじさんおばさんの名前がずっと書いてある。その時、もう何かびしっと差別を感じたような感じだったけれども、わけがわからんから、来とられた3組のおじさんおばさんに「おめでとうございます。」ちゅうて、そして、今度は新郎側にあいさつに行ったら、びっくりしたんです。婦人は全部チョゴリ、民族衣装。そのとき初めてわかったんです。

 Y子は私が非常に浅いところで教えていった、ほんとにいいかげんな部落問題、2年間の「同和」教育をほんとうにがっちり自分の生き方にしていった。でも、彼と職場で愛し合うようになって、結婚の申し込みを今受けるか明日受けるかというくらい待つようになったときに、初めて彼から「自分は実は日本人じゃない。韓国人だ。」て打ち明けられる。その時、ほんとにしっかりもんだと思いよったY子がぐらーっと揺らぐんですよ。心から愛してる青年、日本人と思ってたから愛してたのか。もう自問自答。そして、ある時、ふるさとに帰って来るんですよ。福岡の杷木に。いちばんの目的は何かちゅうたら、岡部を訪ねるために。「先生、愛してる青年が実は朝鮮国籍なんです。それを先生はどう考えますか。」て言いたいために帰った。
 親父さんは相変わらず。焼酎をもう薄めもしないで飲む。胃もやられてる。肝臓もやられてる。ところが、高校卒業したばっかりの弟が「姉ちゃん、ぼくは姉ちゃん見そこのうた。姉ちゃんがもう学校に全然行かんようになったときに、ぼくは小学校の4年生じゃった。そして、お母さんが逃げてしもうた。その時はぼくも学校に行きたくなかった。でも岡部先生の担任になって、ほんとに姉ちゃんは変わっていった。生徒会の副会長までなった。あの学級がやってたことは杷木中学500人のみんな目印だった。その姉ちゃんが、あれだけ実践持っとって、愛してる男性は朝鮮国籍の人ちゅうたら、迷うて九州に帰ってくるとね。『私が見つけた人はこの人。』どうして言うてくれんとね。」言うて弟が泣く。もうそれでうちには全然寄らんだったんです。次の日の飛行機で帰ったんです。そして、結婚の承諾をしたんです。

 年賀状の話でしたね。年賀状にY子夫婦とその間に2人女の子と男の子がいるんです。もううれしくて、すぐ電話をかけました。そしたら、こんなに言うんです。「先生、あの2人、アリランの歌を子守歌にしたのよ。アリランの歌を歌いながらあの子たちを寝せつけたと。そして、今、うちのがね、『お前のキムチは朝鮮で食べるキムチよりおいしい。』て、言ってくれる。キムチが上手になったとよ。」
 今年の年賀状でいちばんうれしい年賀状でしたね。おそらくあの子はきっちり立派な朝鮮の子どもたちを育てていくでしょうね。

 「同和」教育て、生涯の生き方なんです。特に、分かれ道の生き方なんです。どちらに進むか。

 私はY子の弟を駅伝部で3年間鍛えたけれど、いちばんチームメイトが嫌がる区間を「走らせてください。」て言いよった。いちばん嫌がる区間はだいたいもうご存じでしょう。1区かラストなんです。あるいは、長い距離なんです。1区というのはみんな嫌うんです。「先生、誰でもいやなんじゃろう。ぼくが走る。」て言いよりました。

 さて、テロが起こってるのはペルーかと思いよったら、そうじゃありませんね。日本で去年だけで40何ヶ所テロが起こっている。そしてそれはテロと書いてない。別の名前で書いてある。お気づきでしょうけれど学校テロです。文部省が握ってるだけで40何ヶ所ですよ。どういうことかと言うたら、福岡県でもいくつもの学校が行事をやめました。「今度の中間テストを実施するなら、私は自殺します。」これはテロなんですよ。学校の行事、年間計画のいくつかを人質を取ってやめさせるか、変えさせる。人質は誰かちゅうたら、自分の生命を見せびらかして。死ぬぞという電話、ハガキ。
 ひょっとしたら、その40何人の中に、ほんとに生命をかけてた子がいるかもしれない。その場合にはテロとは言えない。それはむしろ「個人告発」と言うべきでしょう。これだったら、ずっとわれわれは耳を傾けにゃいかんし、ほんとに中間テストを強行することがその子にとって痛みだったら、1週間延期してもいいし、中間テストは何のためにあるかという全校討論を各学級で開いてもいいし、生徒総会してもいいし。
 しかし、私は大多数はね、人間性の喪失のおどしだと思う。人間性を喪失してるから、ほんとに苦しみ、痛み、自殺して行きよる人の悲しみを、利用していやなことをやめさせていく。だから、学校テロと私は言うんです。
 実は、こんな人間性を喪失した子どもを育ててるのも私たちなんですよ。
 保育園の先生方。保育園の先生方は暴走族に関係ないと思っておられるかもしれない。だいたい族のグループに入るのは16歳くらいからだから。とんでもないですよ。保育園の時から、着実にゆがんだ芽は育っていってる。そこに9年て書いてるけれど、もし就学前が2年か3年かあるとしたら、11年か12年の子育てなんですよ。

 熊日新聞に、こういう記事が載ってたのを読まれたでしょう。「高校中退者、去年の1年間で1800人。」熊本県だけでこれだけの高校生がやめていっとるんですよ。そして、理由まで小さく書いてある。進路の誤り。そう書いてある。果たしてそうであろうか。
 そして、今日は子どもが何を理由にやめたかよりも、いちばんここで大事にしなければいけないのは、私が地元に帰ってもうちの若い教師たちと学習会をやってるけど、その中でも同じようなことを言うのは、これは立派に義務教育までの教育のあやまりですよ。そこが責任感じんかったら、これは減りゃあせん。

 私が、50歳のときに自分の母校の三輪中学校に転勤した。3年生と1年生に自分の息子がいた。彼らは2人で結束して私の転勤に反抗した。もう最後は2人とも私と話しもせんようになった。でも、連れ合いには言いよったそうです。
 「ほんとうにお父さんが『三輪中学校を建て直す。』て、その願いで周囲の説得に負けて、」周囲の説得ちゅうのは、教育委員とかPTA会長さんとか、私の家に押し掛けて来て、「もう三輪中、これ以上見とかれん。毎日毎日、事件・問題が起こりよる。健ちゃん、よその学校のためばかりじゃいかん。地元に帰ってきてくれ。」て、そういう働きかけをうちの子どもたち3人が知っとったんです。それで、「学校変わるなら、三輪中に来ていいけど、どれくらいぼくたち2人がつらいか、お母さんは知っちょって。」て、そんなに言いよったそうです。それはわかっとるつもりでしたしね。
 で、ほんとにもう、むちゃくちゃな学校でしたからね。今、授業を見に行かれた先生方、おられるかもしれない。必ず11月頃か12月の始めにあそこの公開授業するから。うそみたいに今子どもたちが落ち着いている。
 例えば、この前、この事務局に電話して打ち合わせをする中で、下益城城南中学校は進路の公開をぜひやりたいと思ってやってきてます、と言われた。
 これはおぼえとってくださいね、小学校の先生も、保育園の先生も。一人一人の子どもが、例えば、A高校の普通科に行くと決めたら、その決めた経過と、父母の意見とか担任の意見とかを一人一人学級に発表するんです。
 もちろんそれだけじゃ進路の公開じゃない。それは進路の発表です。公開というのはもっと奥行きがある。

 ところが、三輪中のその時の3年生が、進路の公開の時になんて書いたかちゅうたら、自分の第一志望の行き先「あの世」て書いたんですよ。自分の進路はあの世て。そして、ほんとに2年後に交通事故で死んだんですよ。予言しているかのように。
 そのときの、3年生と2年生、私は2年生を受け持っていたけれど、その学年が20歳になるまで、成人式を迎えるまでに5人も死んだんですよ。ひょっとしたら、熊本でもあることじゃないか。高校生として死んだ子もおる。高校を中退して死んだ子もおる。けれどね、20歳までに5人死んだという、これは小中学校の責任ですよ。
 なぜなら、あの子が死んだ、ちゅうたら、告別式とか通夜を聞いて、必ず参列します。全然、授業も1時間も行ったことない子どもでも、あの世に行ったちゅうたら、必ず教育課題がある。通夜の中にある、あの部屋に。そして、告別式の時はもうたくさんの課題が見える。絶対この150人おる卒業生を死なせちゃいかんと思うから、その課題を見つけに行くんです。
 そして、その次の次の年から、5年間で三輪町で20歳までに死んだ子を「同和」教育推進教員2人、役場に行ってもらって調べたんですよ。いわゆる学校が落ち着いて来始めての5年間、何人死んだか?0ですよ。おわかりですか、この現実。9年間で殺しちょるっちゃろうが、というそのことが現実の言葉になったんですよ。同推が住民課に行って調べて、びっくりして帰ってきたんですよ。「先生が言われた通りやった。5年間で1人も死んどらん。」て。「ほうら、見てんない。義務教育のいちばん最後に落ち着いて、確かな考え方持ちながら、価値観を育てられて出ていった子どもたちは、高校中退をええ加減でするね。やめやせんめが。ましてや、死ぬような車のとばし方、バイクの単車の使い方しやせんやろうが。」

 その時大事なことが進路の公開なんですよ。小1の時から、城南町のいくつかの小学校と一つの中学校、保育園は就学前教育の時から、命の大事さとか、友だちと仲良くするとか、ひとの嫌がることをすまいとか、たくさんの目標を決められて、「同和」教育をやっておられる。「狭山」を勉強する。被差別部落ができたときの、あの権力者たちの政治的な意図を勉強する。水平社が結成されたあの大正11年の3月3日の岡崎公会堂のことを勉強する。教科書無償化は高知県の長浜の被差別部落から起こり始める。そして、とうとう全国、文部省にその予算の裏付けをとってしもうた。すばらしい運動であった。そんなことを勉強する。そして、子どもたちは、うなずいて聞く。涙流して聞く。
 ところが、中学3年の夏休みくらいからバラバラになっていく。自分さえよければいいという行動しか見せんようになる。家庭はそれに輪をかけたようなことを言う。父も母もひょっとしたら、祖父も祖母も言うかもしれない。
 ある小学校の教師は、自分の子が中学3年からどこかの高校に受けるというときに、「何ね、あんたそげな高校受けようて思うちょると。あすこはね、不良が行くところよ。」小学校の先生が自分の息子に言う。親たちもバラバラ。
 そして、自分たちが5人でつくっている班の中の2人は、その不良と言われた高校に行くちゅうてがんばりよる。それを小学校の教師の息子は母親からそんな言葉を聞く。これが現実なんですよ。「友だちを踏んづけても、友だちを競り落としても、お前は高校に合格せろ。」直接的に言葉で言う親と、言葉では言わんけど目でそれを勧めていく親たち、教師たち。教師もひどいのがおりますからね。
 私が現役の時に三輪中学校で、朝8時20分からの職員朝礼がが10時半まで続いたことがあるんです。ものすごく私が怒って。途中でもちろん「1時間目の授業は、先生たちが大事な話し合いで来られませんから、自分たちで授業をしていてください。」3年生は自分たちでばっちり授業できよりましたからね、教科班が出て授業をどんどん進める。
 それは何かちゅうたら、あれだけ、石川青年が部落差別によって、小学校4年生の時から教育を奪われていく、学校に行くことを奪われていく、授業を奪われていく。それを勉強して、それがいかん、て、言い続けて「狭山」を勉強していったのに、まったくそれを切り刻むような進路指導を当時の3年生の担任がやってる。
 いかにね、狭山を教え、「部落差別はいかん。」てそして、「仲間と連帯しながら、手をつないで歩いていこう。」て言うたことがいかに建前か、ここではっきりわかる。自分の学級の35人の願書書くとき。
 筑紫野市からMという女教師が私を訪ねてきたことがある。「先生、教えてください。私わかりません。」ちゅうて、泣いて。「何がわからんとね。」ちゅうたら、「今まで私はほんとに立派なことを教えてきた。」自分の学級の子に、数学の教師だから、数学の時間に。そして生徒もうなずいて聞いてくれた。ところがいちばん最後に、11月ころから、三者面談のころから、「私自身が『同和』教育を否定してるんです。先生だったら、一致させよんなるかもしれんけど、どうして一致させていきますか。」ちゅうて苦しんでる。
 M先生に言うた。「私はごまかしてないつもりだけど、ときどき妥協せにゃいかんことがある。でも、少なくとも進学の時に生じる差別性、それは差別性の毒素だけは抜こうと思ってやってる。それが何かちゅうたら、進路の公開だ。」て。

 一つだけ具体的に言うたら、私どもが住んでるところに、朝倉農業高校という農業高校があるんです。朝倉農業高校の体験入学が言ってきてる。ここあたりも体験入学というのが始まっているはずです。1日体験してくる。「希望者は申し込んでください。」その朝倉農業高校の担当の先生から放送がある。何と申し込んだのは160人の3年生の中からたった2人。専業農家は160人の中に45人もおる。兼業農家は110人もおる。そして2人ですよ。
 そして、教育がだめになっていきよる、教室がだめになっていきよるというののいちばんいい例。5クラスのうちに、朝倉農業高校の体験入学にたった2人しか行かない、て、いうのをおかしいと、それでいいのかと問うた担任は、5人のうち1人しかおらん。私だけ。あとの4人は知らんふり。だから2人集合してその担当の先生が連れていこうとしとる。だから私が待ったをかけた。
 「3年3組はすぐ教室に入れ。」て。そしたら、理科の授業で理科室に行っとったのが全部教室にまた入った。理科の先生には前もって、「ちょっと20分貸して。」ちゅうとったから、20分間借りた。そしてね、「農業だけで収入を上げてそれで生活をしている、専業農家手を挙げてみろ。」ちゅうたら、6人手を挙げる。「その長男長女そのまま手を挙げとけ。」ちゅうたら5人上げとる。1人しかまだ、おろしてない。次男坊が1人おっただけ。そして朝倉農業高校の体験入学には見向きもしない。
 それはどういうことか。父母、ずっとひいじいちゃんの時代から続けてきた畑を開墾して梨を作って育てて、ぶどうを育てて、子牛から買うてきて、そして、子牛から育てて、今40頭まで増やした父の仕事、振り向きもせん。
 それを義務教育がいちばん最後の年を迎えたときに、さらにみんな知らんふり。親も。子どもたちは朝倉農業高校の体験入学があるて、家で言ってもいない。わかりますか、この人間性の喪失。あたりまえじゃないですよ。これをあたりまえと思うとるなら、教師がぼけにぼけとる。教育が死んどる。

 ほんとうに進路の公開を始めていったら、あのはぜ畑の上の田んぼは、じいちゃんばあちゃんがお金を貯めてようやく買った。お金を貯めよるときは、魚一切れ食べんじゃったげな。なすびの浅漬けを朝のうちにつけとくと夕方食べられる。だから、浅漬けのお茶漬けでお金を貯めていって、あの田んぼを買うたと、て。こんな田んぼの歴史を、ほんとうにこの中学3年の9月10月にしきらにゃ。
 運送業をうちの父ちゃんがしよるけどね、実はその前にこんな仕事をしよったと。そして、体を痛めてふるさとに帰ってきたと。そして今、運送業をしよると。そして、今収支決算がどうなっているか。「殿、ご決断を。」という運送業の宣伝があるでしょう。あれにヒントを得て運送業を始めた。その時の夫婦のつらかったことを父さん母さんが一緒のこたつに入って息子に話して聞かせる。これをやらんで進路の公開はありゃあせん。これが教育ですよ。これが中3の教室ですよ。
 子どもたちは友だちの進路に涙流すごとなる。

 もう一つだけ例を出しますとね、A男という子が私の教え子にいて、これは運悪く私の学級に3年間もおったんです。同窓会の時にまだ言います。「ぼくはこの中で3、4人とともにいちばん運の悪い子です。なぜなら、岡部先生の学級に3年間も入れられました。まるで牢獄でした。」なんてすっと言うんです。と、これはお寺の跡取りなんです。その子が、ほんのそばにA高校という普通高校があるんです。ここに受験しないで、20キロ離れた進学校のB高校に受験すると言うた時に、学級が全部怒ったんです。
 特に、同じ班の鉄工所の息子のT男なんかは、ものすごう怒ったんです。「A男、お前、ぼけとりゃせんか。」「何でや。」「お前の200m先には、A高校があるんじゃろ。普通科があるんじゃろ。何でそこ受けんのか。」その高校は程度が低いと思ってるからA男は受けてない。受けようと思ってない。どうしても遠い方の普通科に受けようと思ってる。T男は大事なとこをつきよるんです。これが鉄工所の息子のすばらしさ。
 今もT男の連れ合いが自慢します。「先生、原鶴の旅館から、水道がどっかおかしい、ちゅうたら、夜中でも飛んで行くんですよ。温泉に遊びに来てるお客さんに迷惑かけちゃいかん、ちゅうて。そして、あの下水の中に腰まで浸かって修理をするんですよ。私はT男さんのそこが好き。」て言う。そんな子なんです。
 それが何て言うて同じ班のA男を追求しよるかちゅうたら、「仏壇もないごたるようなそげなとこにお前は上がり銭が少ないちゅうて、お経あげに行かんめえが。」そこを追求しよる。町営住宅に住んであったり、やっと家別れしてアパートに住んであるようなところは、仏壇がない。そして、誰か年老いた親が死んだとしたら、そこにでも、寺の跡取りとして、ほんとに心から霊を慰めるお経を上げるのか。そんな進学の仕方をしよって。
 もう私は震えるようにうれしかった。とうとうA男はT男たちと高校を訪ねる。そして、仏教系の大学に行くのに受験しやすい学校を選ぶ、言うて調べに行きます。そして、圧倒的に国語系英語系が多いB高校を選ぶようにする。そしたらみんな納得してる。T男が「ようし、がんばれ。お前がB高校に行く理由がわかった。」最初はまちごうてしもうとったのにね。
 そんな討論を聞きよって、あとの三十何人かは自分の考え方を確立していくんです。これが集団づくり。反差別の集団づくり。

 例えば、たばこのにおいがすっとした。理科の実験の時に額を寄せてビーカーの前に集まる。となりの友だちからたばこのにおいがすっとする。ほんとの集団づくりはそれを許すはずがない。いつもたばこを飲むことならんと言うのは先生の仕事。ちがいます。子どもたちの仕事です。子どもたちの課題です。
 理科の授業が終わったときに、「ちょっとうちの班は残っちょって。」て言うて、そして、他の班は次が国語だから教室に帰る。「誰々くん、正直に言うて。あんたは前の休み時間にたばこ吸うてきちょろうが。私たちはたばこ飲まんから、たばこのにおい、すぐわかる。あんたの息のにおいからたばこがわかる。ぜひ言うて。ほんとうのことを言うて。そして、たばこを飲まにゃいかん理由があるとやったら、説明して。」そして、問題解決するのが集団づくり。

 テスト用紙が返ってきた。数学なら数学のテスト用紙が返ってきた。1人だけこっちで後ろ向きで点数を見ている友だちがいる。それをあとの4人が見て、「ああ、自分たちの実践が足らない。」て思いきらにゃいかん。それが集団づくり。
 なぜ、日頃「数学がわからん。数学がわからん。」ていうことを言ってくれんのか。やっぱし自分たちに「勉強のできないのは、人間的に劣っていることだ、恥ずかしいことだ。」と思ってる考え方が、その友だちにいつも伝わりよるから、だから、1人だけ教室の隅で点数を見る。
 なぜなら、あの班はいつもつまずき学習会しよる。昼休みでも遊びに行かんでしよるときがある。だから、あすこの班は全部で、例え100点満点で10点しかとってないそんな答案用紙でもみんな広げてどんどん話し合いをしよる。次の日はまた、部活を全部許可受けて朝早く来てつまずき学習会をしよる。 そのつまずきの友だちに学ぶのが集団づくり。
 だからもう広島大学の委託校なんかは、小学校の3年生4年生からそんなことをしますよ。つまずいていることは、人間的に恥ずかしいことと思ってない。

 さて、犬鳴峠事件というのが、12、3年前に福岡県で起こりました。このときの子どもたちの様子を話します。人間性を喪失していくときに、と言うよりも、人間性喪失するちゅうたら、ずいぶんと責任があいまいになる。人間性を塗りつぶされるという言い方の方がふさわしいかもしれない。
 それはどういうことかというたらね、1人の母子家庭の同級生が工業高校を卒業して、そして、お母さんは、病院に勤めながら、病院の雑役を受け持って、掃除とか、お茶わかしとかそんなことをしながら、やっとのことで、工業高校を一人息子を卒業させた。そして、「おめでとう。」ちゅうて、ある小さい会社に決まったから、自分のへそくりを車の頭金に出してやって、「あんたが給料もらったら返して。」ちゅうて、買うてやった。少年はもう「今から母さんを助ける、母さんを楽させる。」ちゅうて働き始める。そして、スーパーの前で同級生と会うた。同級生が4人おった。「おお、ええ車に乗っちょるね。ちょっと俺に貸せ。」ずっと4人乗っていく。スーパーの前で買い物が終わってずっと待っとった。帰って来もなんもせん。それっきり2日間行方不明。
 ほんとに警察に届けて捜索願出そうかと思うたけど、少年はもうあきらめて帰ってお母さんに相談した。「きっと持ってきてくれるが。」て言うて、バス通勤を2日間した。そして、また、2日後にぱったりその自分の車に乗ってる同級生4人と会うた。
 車に押し込められる。そして、連れて行かれたところが犬鳴峠。福岡から直方に行くときのあの険しい山の峠のことを犬鳴峠と言う。そこに連れて行かれる。
 そして、「警察にちくったな。」て。途中で検問におうて、いろいろ事情を聞かれてる。「俺たちから車を盗まれたて、それで届け出たろ。」「いいや、届けとらん。ぼくは知らん。母も『届けんでいい。友だちだったらきっと返してくれる。』そげん言うた。ぼくじゃない。」「嘘言え。警官が言うのが、えらんきつかった。お前が言うとるに違いない。」そして、「車を返して。まだ、ぼくの車にもなっとらん。母からお金を出してもろうて、返していかにゃいかん。」て、そんなに言いながら、最後にはとうとう許してもらえんてわかったから、踏んだり蹴ったりされたあげく、「どうしても返してもらえんなら、体だけは帰してほしい。うちには母が待ってる。自分を育ててくれた母が。」それもならん。手足をがんじがらめに縛られて、灯油をかけられて、火をつけられる。焼殺。

 こんなむごたらしい事件があったんです。そして、その中学校というのは、「同和」教育推進校。同級生が母子家庭と言うことは知ってる。そして、親子で苦労しながらその少年はずっと新聞配りして、修学旅行は自分のお金で行くちゅうて、新聞配りをしてる。そして、車を買った。勤め始めた。その車を取り上げて、そして、警察にちくったちゅうて、泣き叫んで命乞いをする友だちに灯油をぶっかけて焼殺した。
 ご存じでしょう。福岡地裁、高裁、判決は主犯のB少年に対して死刑です。19歳の少年に対して。東京では18歳の少年に死刑の判決を下した事例があっとります。福岡県ではなかったんですよ。20歳を過ぎないと死刑の判決は出ないのがほんとですよ。それに死刑。「人間性を喪失してる。」て、判決文の中に書いてある。
 あなたの学級で育った子が、「いえ、あの子は小学校3年生の時ですもん。もう昔のことですもん。」て、果たして言えるか。

 熊本県のある1つの郡市で60何人の不登校生がいる。各学校の同推が連絡取り合って調べたら60何名も不登校生がいる。そして、実は小学校は10人足らず。全部中学校に集中してる。50何名。その郡の小中学校の教師たちが小学校での基盤の弱さをどれだけ、自分のものにしきるか、自分の課題にしきるか。もちろん中学校もええ加減ですよ。けれどね、いつもそこにあるのは、小学校がどんな子を6年間で育てようとしてきたのか。「こんな子です。」て、言えるのか。A小学校は。B小学校は。

 宝塚の「障害」児というのは、これも殺人事件として立件しようとしましたけど、結局作為の殺意は認められんということで、殺人事件にはなりませんでした。これも新聞に2日間くらい載ったからおぼえてある先生おられるでしょう。兵庫県の宝塚の一中学校であったダウン症の「障害」児、女の子を毎日毎日いじめて、最後に救急車で運んだときにはもう死んどったというあの事件です。
 ダウン症という「障害」を持った子は、歩き方や体の動作を見てたらわかりますね。それをその中学校で、毎日毎日髪の毛を引っ張ったり、蹴ったり、しよった子どもたちは、「むかつく」という「障害」児の見方しかできない。最後には蹴倒して花壇のコンクリートブロックで頭を打って死んだ。
 「障害」児をこんな言葉でしか見きらん、こんな見方をする学校の教育て何ですか。まったく教師たちがその「障害」児を殺してる。
 父さんも母さんもじいちゃんもばあちゃんも、1キロ500か2キロぐらいで生まれてくる。そして、何かおかしい、て気づき始めたとき、あっちこっちの病院におんぶしていく。そして、ダウン症てわかったときのショック。
 父さんは仕事を辞めて、瀬戸内海の離れ小島でこの子といっしょに生きていくて、決心するくらい、親は思い詰める。それが学校の願いになぜならんのか、日本の学校は。その父親の願いが。

 そんな矛盾持った子と学校の間、いつも距離がありすぎるんです。見方が冷たいんです。それで、「あれもう見よったらむかつく。もう不格好でみっともない。」という見方しかしきらん子どもたちしか育てきらん。そんな学校は10年おいとったって育てきらん。
 よくありますね。世の中の父や母が愛し合うて結婚した。妊娠した。とっても喜んだ。帯祝いもする。赤飯炊いて喜ぶ。そして、誕生。そしたら、「障害」児だった。もうがっくり。もういわゆるトンネルの中に2人とも入り込んだように、出口もわからん。そして、日本で一番多いんですね、わが子が「障害」児てわかったときに、親がわが子を殺す。これくらい人権無視の国はありませんよ。
 どんな「障害」を持っとっても、生きていく権利がある。たとえ、一度も畳の上をはいはいしきらん子であっても、一言も言いきらん子であっても生きていく権利がある。何で親にその生命を抹殺する権利があるか。思い上がりも甚だしい。
 学校が根強くそれを教えていかにゃいかん。それが学校に当然あるべき「障害」児教育です。そして、その土台には、「同和」教育、部落を解放していく教育がもっと下に大きくある。それくらい「同和」教育というのは、すべての価値観の中心です。

 東京の下町の話はよくしますから、聞いたことがあられるでしょう。あの50年に1人、100年に1人の天才て言われたあの少年が、最後は父と母から絞殺されますね。そして、裁判長は判決を父親に言うときに、自分のわが子を殺した父親に判決を言う時、泣くんですよ。「日本国中でこの問題の本質は繰り広げられてる。その被害者がお父さん。がんばれ。絶対自殺しちゃいけない。」なぜならその1年前にお母さんは自殺してるから。
 わが子の首を絞めるのに、向こう側を母親、こちら側を父親が持って、2人で絞殺したんです。そして、自首したのは父親。それを警察から見抜かれて2人とも逮捕された。けれど、逃亡のおそれがない、しかも高校生の姉ちゃんがまだ家におるということで、母親は釈放される。そして、また次の日取り調べるから来てください、て言われて、お母さんは帰ったまんま、荒れ果てた息子の部屋で首吊り自殺。それくらい悲惨な事件が東京の下町であった。
 その理由というのは何かちゅうたら、ある小学校で1人の天才少年と言われる、中学校の教科書を見てもわからんところはあんまりないという小学校6年生が現れた。担任も校長先生もびっくりする。校長先生と担任がおいでになって、もう「地元の都立中学校にやったらもったいないから、進学校にやりなさい。めったにこんな子は育つもんじゃない。」お父さんとお母さんは、有頂天になってそれ喜ぶ。そして、名門と言われる私立の進学校の中学部に入れる。
 ところが、順調にいったのは中学部の3年間だけ。高1になるころからだんだん学校に行かなくなる。家で荒れる。そして、その子が育ってる価値観というのは何か。その子に育っている価値観というのは、「てめえたちみたいな低能に天才のオレの気持ちがわかってたまるか。」
 「てめえたちみたいな低能に」というのは、自分の父と母のこと。泣き叫んで荒れたあげくに言った言葉。
 全然学校に行かなくなる。担任の先生は心配してときどきは来てくれる。そしたら、涙を流してほんとに素直な1人の青年になって、畳に頭すりつけて先生に謝る。「明日から行きます。先生ありがとう。」ちゅうて見送る。そしたら、次の日はもっとひどくなる。
 母親をぶん殴って蹴倒して、うっ叩いて、ものを投げつけてお母さんは傷だらけ。その荒れたときに言った言葉がこれ。
 校長先生と担任は何を、何をその夫婦のところに伝えに来たんだろうか。担任の先生は天才少年が自分の学級にいる、そのことで何の教育課題を毎日自分で整理しながら教室で授業をしたんだろうか。

 私が担任やったらこんなことだけはさせますね。「お父さん、今日は忙しいもんな。」食堂を経営してて、ビルディングを建てよるような東北やら北陸の労働者たちが夕御飯を食べに来る。「今日は20人分夕食をつくらにゃいかんから忙しいもんな。配達ができんからお前は勉強があろうけど、配達してくれ。電話のそばにおってくれ。」2時間か3時間おらんといかん。夕方の5時頃から電話がなり始めて、8時くらいまで電話が鳴り続ける。そして、ビルディングの都営アパートの13階とか5階とかにチャンポンとか親子どんぶり持って行かにゃいかん。「それを今日はお前がやってくれ。」私はそんな育て方しか親に勧めん。それでもし、勉強の理解力が落ちるとしたら、その子の寿命はそこにしかない。
 自分の人間性を閉じてしもうて、大事な感性豊かな青年時代を迎えるべきじゃない。ひとの痛みがわかる子に育てにゃ。父さんが雨の中を合羽を着て、そして、バイクで配達に行きよる、チャンポン一杯から200円しか儲けん。これを毎日毎日やりよる。その痛みを息子がいつも感じながら、「父さん、ご苦労さん。ぼくにできることがあったら、言って。」というような息子にせんといかん。それが教室の課題じゃ。その息子と担任の大事な絆の中に育っていく約束やん。

 城南の子どもはそう育てんといかんよ。そして、たとえ、私立の進学校に行っきらんで都立高校に行っても、東大行って厚生省に入らんでよかろうが。あそこはろくなことはせん。他の大学やったっちゃいいやん。人間性をふさいでまで、そんなトップを目指すという日本国中にある今の大事と思うちょる学校と親たちの価値観。それはいかん。
 いわばその立身出世主義教育が、実は不登校生をたくさん生んでいきよる。これが表裏一体で同じことであるということに気づかにゃいかん。

 私どもが、そのことに気づき始めたのが正確に言うたら22年前ですね。毎晩毎晩むらに入って、そして、むらの父ちゃん母ちゃんやら、じいちゃんばあちゃんと話すわけでしょう。もう、「今日はちょっと話があるけん行くもんな。」て、言うちょくやろ。そしたら、もうホルモン焼いて待ってくれちょるわけですよ。私が飲みきらんてわかっちょったら、「先生はなら飲みものなにがいい。キリンレモンでもとっちょけ。」て言われるわけですよ。母親はキリンレモンちゃんと冷やして待ってる。そして、話を聞くでしょう。当時の読んだらこんなノート2冊分くらいいろいろ書いてる。
 それをじゃあ学校で自分の学級の子に、あるいは自分の受け持ってる生徒会の子に、どうそれを話していこうか、広めていこうか、になると、ぱったり力ない。どこまで言うていいかわからん。言うたとたんに次の日差別事件が起こるかもしれん。それをいつもびびってる。自信がないときはいつもそうです。これは親と子のプライバシーに関わることだから言っちゃいけないような気がする、と、止めてしまう。「でも、どの親子にもある大事な親子の問題じゃんなあ、これ考えさせにゃいかんもんなあ。」とわかっとってもそれを教材化しきれない。

 それで結局、「どんな子が10年後、20年後に『部落差別はいかん。』て、ずっと考え続けながら生きていく子じゃろうか。」それを私どもの平田サークルという15人くらいで何時間かかけて徹底討論したんです。そして、15、6人の結論は、結局、「ひとの痛みのわかる子」に育てにゃいかんのじゃないか。ここにだいたい集中したんです。
 部落差別の間違いがわかる。そして、それに泣ける子。心が震える子。それは、今すぐそばの子のきつさ、苦しさに気づく子。それに怒れる子。それに「あんたきつかろう、いいよ、ぼくがついとるよ。」て言える子。そんな子を育てにゃいかんのやないか。これは最終的にあの12月の半ばころ、サークル15人くらいそろって結論を出したんです。「やっぱそうばい。」て。
 これはしかし学校の結論がそうならにゃいかんとじゃないですか。どの学校も。熊本市のど真ん中の学校も。あるいは、離れ小島の学校も。まだ、天草よりもずっと離れたところにある小さな分教場みたいな学校も、ひとの痛みがわかる子を育てる。そして、それは義務教育のあの15歳の修了するまでに育てとかんといかんことじゃないですか。何も年齢でそこで区切るわけじゃないけれど。

 真っ白な本の中に大事なことを書き入れていく。その真っ白な本というのが小学生ですよ。その真っ白な本の中から、教師はその子の願いを、その子が生きていこうとする息吹を読みとらにゃいかん。子どもたちが一冊の本であるというのはそこです。そのころ書き入れていったことというのは、子どもたちは心の本として大事にしまっている。

 例えば、今年も私どもが卒業させた子が成人式迎えましたけどね、実は1人の同級生の出所祝いしたんです。Y男という子が少年院から出てきたから。Y男は幸せというものはすべて奪われた子。もうこれくらい、少年時代薄幸な子はいない。R男というリーダー格の子がはY男をいつも励ましてきた。で、R男と私と相談して、今度の成人式の前に、卒業祝いて言うてしよう。実際は出所祝いなんですが、出所祝いちゅうたらいちばん世の中で嫌うようなところから出てきたような印象受けるから、卒業祝いにしよう、て、言うてしたんです。あの子たちが、餃子をつつきながら、みんなでビールを飲んで、そして、わあわあ言うて話した。
 その中に、Y男が言うた言葉。「先生、おれがいつも思いよるとはな。今日は背広着て来ちょるけん持って来とらんばってん、いつも手帳の中に書いてる言葉はな、『本人の責任でない重荷はみんなで背負う。』こればい。」て。
 これは当時の生徒会が生徒会事務室に大きな字で書いてる、生徒会議案にいちばん先にそれ書いてる、その言葉。それをY男は自分のいわゆる少年院に入っとった1年半の間、その言葉を自分の手帳に書いて。そして、母さんをしわだらけにして、母さんをまだ50前なのにばあちゃんみたいにしてきたのが自分だというて泣く。このことをずっと自分の価値観にしてる。それで自分を責めよる。
 「M男くんが言うたことがある。田んぼの中で。」その場面は私も田んぼのこっち側から、車の中から見ましたから、おぼえとりますけどね。田植えの終わったばかりの田んぼの中に荒れ狂うようにY男が、走って逃げたんです。そしたら、M男という同じサッカー部の子が、追いかけていってつかめた。つかめたとたんに2人とも、その田んぼの中に倒れたんです。田植えが終わったばっかりです。もう学生服は泥だらけ。そして、もういさめよるんです。「Y男、お前が逃げちゃいくまいや。お前がそんな気持ちになって荒れ狂うのは、お前の責任じゃなか。お父さんは、お前が小学校に入るころからずっと外国に行っとってお母さんが子どもたち2人に食べさせるだけに働いて。中学校で勉強しだして初めてわかった。『本人の責任でない重荷はみんなで背負う。』てわかった。だから、みんなで考えよう。帰って来てくれ。」ちゅうて、連れて来るわけですよ。Y男はそのことを言いよる。

 保育園の先生。小学校の1年生に入るときに祝電うちますね、あるいは保育園の先生も入学式に招待される。来賓席におるかもしれない。その時、5歳の子は、5歳の子で、何を価値判断するものさしではかる子にしたのか。
 小学校に入ったら9年間もある。9年間でどういう子に育てようという大事な個々のつながりが同じ城南町のこの研究会じゃないのか。小学校は中学校の悪口を言い、中学校は小学校の悪口を言う、「今年の1年生見たな。話も聞ききらんばい。」「もう小学校がずんだれちょるけんな。」そんなことをね、各学校で悪口言い合うたからといって何が育ちますか。そうでしょうが。
 やがて、この町を旅立っていく子、あるいはこの町にとどまる子、その子どもたちが青年になっていく。ほんとにひとの痛みがわかる、家族を愛する、自分の仕事に惚れ込んでいく、周りの友だちと手を握って生きていく。そんな「同和」教育の基盤を持った子どもたちで城南にとどまるのか、ここから巣立っていくのか。

 漠然と言うたってわからんときが多いですから、いくつか言いますとね、例えばね、テストの時のことは言いましたね。私が1年生を受け持ったときには、5月の中間テストが一つ目の勝負です。もう中間テストの答案が返ってくるあの1週間というのは、ほんとに子どもたちをよく見ます。私は体育の教員ですけど、体育はテストしませんから、実技のテストをしますから、陸上競技だったら、例えば、ハードルとか、幅跳びとか、あるいは、助走合わせとかそんなのでテストをする。だから必ず何教科かは、数学やら理科やら社会やらテストがあって返ってくるですね。「私に返させて下さい。」ちゅうて、理科の先生のところに答案もらいに行って、そして、学級で、自分の学級は自分が配る。
 そして、ほんとうに中1であの子たちが4月の10日に入学してきて、5月の30日までにどれだけその2ヶ月間で育っているかを見る。もし、点数のところだけびりびりっと破って、そして、机の中にがしゃがしゃと入れよる子がおったら、明らかに岡部は何もしとらんと。岡部は大事な、集団の中で子どもを育てるという、そのことについてほとんど具体的な指導はしとらん。

 体育の授業で言うたらね、鉄棒の向こうに全部整列させて、「足かけ上がりを3回できたら、こっち来なさい。」「やったあー。」ちゅうてぴょんぴょん飛びつく、みんな。3回するする終えるものは、もう10秒くらいでもう3回やってしまう。そすとどんどん自慢そうにこっちに来る。もうつまらん小学校から来た子どもほど、自分が3回終えたらどんどんこっち来てにこにこしてる。
 私は冷たい気持ちになる。もっとひどい小学校から来た子どもは、できないで苦労しよる友だちが不格好ちゅうて笑う。指さして笑う。肩たたきおうて喜ぶ。その一生懸命苦労してるへたな友だちの姿を。これでもうはっきりわかる。
 小学校でそうであっても中学校ですばらしい取り組みをして来よる学級の子どもちゅうのは、自分がやったらその場にすっと降りて、班の友だちをさがして、あすこに自分の班のTくんがおったら、Tくんのところに行く。そして、Tくんの肩たたいて、「やってごらん。」ちゅうて、そして、尻を持ったり、手を支えてやったり。聞きに来る子もおる。「先生、しきらん友だちの所に補助に行っていいんですか。」「はあ、いいところに気づいたね。先生、うれしい。」ちゅうて、私が肩たたいてやったら、さあーっとにこにこして行って支えてやる。
 勝負所を間違えちゃいかん。

 あるいはね、こういうこともあった。
 三輪中の時は弁当でした。今はPTAが署名運動して給食室ができよります。なぜなら学校が落ち着いてきたから給食でいいわけですよ。学校が荒れてるときには、給食ちゅうたらしちゃかちゃですね。ワカメとキャベツの酢の物はね、どこも好かんからいっぱい余っとる。強制的についでやったって食べん。もとの食缶のなかにぼんぼん戻しとる。自分たちが嫌いなときには余ってる。あるいは、ミカンが学級別に三十何個ずつ入れてあったら、1箱ぐるみ紛失する。なんと筑紫野市の中学校はそれでパトカー呼んだんですから。徹底的に調べるちゅうて。
 給食というのはね、ほんとうにやっぱしいろんな教育課題があって、それが克服できる状況をつくらにゃいかん。事件・問題起こったっちゃいい。1ヶ月後、2ヶ月後、3ヶ月後にはそんな課題が解決されていて、ほんとうに楽しい給食ができる。そうならんといかん。三輪中学は、それが克服できんと職員会で判断して弁当。

 ところが、いつもきれいな真っ赤なそぼろがついとったり、卵焼きがきれいにまかれてて、そして、4種類か5種類のおかずが入っとったI男の弁当が実はその日、ソーセージを真ん中からぶつんと切って半分ずつ2本入っとるだけ。マヨネーズがたらされとるだけ。
 その弁当のおかずを見た女の子がもう下向いてしまう。「今までI男くんのあんな弁当見たことがない。何か起こっちょる。」て。でも聞けない。本人は黙って、やっぱしおいしそうにその弁当を食べて、昼休み運動場に出かけていった。放課後2人残って、どうしようか迷ったあげく、残りのI男以外の2人の男の子が部活に行っているのを連れて来る。そして、4人で話し合う。I男を呼ぶことになる。
 I男に「ぼくたちが信頼できるなら言うて。何か起こったっちゃろう。」て。I男がそれまで張りつめてた気持ちがもうゆるんでしまって泣きじゃくる。そして、「4日前にお母さんが蒸発した。ぼく宛だけに書き置きがあった。」
 「Iちゃん、お母さんは限界が来た。これ以上我慢してたらもう死んでしまう。どこからかあなたの成長を見てる、励ましてると思ってて。絶対にさがさないでください。」毎日毎日酒を飲んで荒れ狂う父親。2人の兄ちゃんももう何度傷つけられたかわからん。酔狂もいいとこ。そして、お母さんがそうして蒸発したことを話す。
 2人の女の子は結局最後に私を呼びに来る。職員会があってたけど、「先生、ちょっと問題起こりました。」ちゅうたから、すぐ行ってみたらその会議中。
 そして結局次の日からどうしたかちゅうたら、「I男くん、ジャーにご飯だけはあろう、いつも。」「うん、ある。」「それをご飯だけ持って来んね。」言うて、2人の女の子がおかずを少しよけいに持ってくるようになる。最初は「いいじゃん、いいじゃん。何かぼくがつくってくるじゃん。」て言いよるけど、最後には「ありがとう。」ちゅうて食べるようになる。そしたら、残りの2人の男の子も、「ぼくたちも手作りのおかずつくってくる。」ちゅうてオムレツつくったり、ポテトフライをつくったりして、そして、みんな真ん中においとる。そして、6人でそれをいっしょに食べる。
 彼らは一人一人が自分の進路をきちんと言いましたね。「ぼくは、母さんがあんなになって県立行かにゃいかん。県立はあっちこっちにゃ通りきらん。岡部先生も助言しなった。『高校選びは点数じゃなかぞ。その学校でどう生きるかだぞ。』ぼくはこの高校選んだけど、ここでがんばる。見よって。」
これがね、ほんとうにくらしをになった集団づくりですよ。つまずきなんか言えるはずですよ。
 自分の人間のこれだけの歴史、70年間とか80年間とかの歴史の中でつまずきというのは、どこに位置するべきか、がっちり学習しますからね。子どもたちと。

 そして、もう一つとっても大事なことは。
 私の授業見に来られた先生、この中におられるかもしれない。いきいきしてるでしょう。あれはいつもなんですよ。意地の悪い大分県の教師がね、私が出張ということを調べて、岡部さんがおらん時の子どもたちはあんなにはいきいきしとらんが、言うて、意地悪く見に来とるわけですよ。もうそれは勝手ですよ。いつおいでになってもいい。そしたら私がおらん学活は別のことを何かしたらしいんですよ。学級人権委員が4人出て、いっちょん変わらんわけですよ。どんどん発言するしね。「そらいかん。それおかしいやん。」て言いだしたりね。そらあたりまえですよ。
 なぜなら、もうあの子たちが入学してきて次の日に教科書を配る。ただの教科書を。その時、「授業は命だ。」てしっかり学習する。その燃えかすはずっと燃えよる。卒業するまで。授業は命だ、て。
 なぜならいろんな問題・事象が授業について、授業の態度について、授業の構えについて起こったときにいつも問題にしていく。みんなで課題考える。
 例えば、音楽の授業の時にはいつも乱れてるという学級。それが音楽班によって問題にされたときは、この音楽班は5人が腹かいて学級みんなとけんかする。対立する。一歩も引かん。「音楽の授業についてはぼくたちが責任持ちます。」日頃言いよるから。もう学級全部がたじたじ。ほんとうに音楽の授業の時は態度が悪くなる。それを許さんて言いよるわけ。そして、なぜ先生ゆえに授業の値打ちが変わっていくのか、それを討論する。
 あの「教科書をただにしてほしい。憲法はただになってるはず。」ちゅうて、市役所に座り込んで、国家乞食だと言われながらも、ただにしていった、長浜の父ちゃん母ちゃん、被差別部落の父ちゃん母ちゃんたちの闘いは何なのか。もう1年に一遍か二遍、そんな問題を自分たちで解決して、また新たな歩みをしていく。
 そしたらね、入学式の次の日にあっとった授業をおぼえているんじゃない。その事件・問題が起こったたんびに自分たちが燃料をもらいよる。そして、それをまた燃やし始める。
 だから、3年生になったっちゃ、いっちょん授業態度変わらん。ましてやね、学校全部の先生で、発言・受言を大切にしていこうという約束があるから、生徒の意見をほんとうに活かしてくれる。授業してる先生が生徒の授業だと思ってる。俺の授業とは思ってない。自分は助言者だ、自分は支えびとだと思ってる。だから、子どもたちに授業を返そう。子どもたちからできるだけ。
 ただし、とっても急がにゃいかん時がある。その時は、今日はプリントを配ったから家でそれをよく調べてほしい。今日は私が中心で授業をしたい。これはときどきある。

 さて、いちばん最後です。中学校4年生でM子という子が転校してきた。中学4年生というのはとても珍しいでしょう。ところがね、うちで5校目なんです。三輪中学の時です。その前の年に私が転勤してきて、そして、荒れ果てた学校で、3年生の教室は3分の1ぐらいは破られてガラスが入ってない。そして、段ボールみたいなのを貼りつけとる。
 すぐ警察に調べに来てもらう学校があるようだけど、うちはそれだけはしませんからね。学校長が110番にすぐ電話しようとするのを、いつも止めるのは私。
 悪性の香港B型の風邪がはやってきて、そして強力な薬は飲ませるは、注射はするは、それでようなしとったって、一時的にようなったみたいで、ところがまた同じ型の、ちがう型の風邪がはやってきたら、またやられとる。それと同じや。
 あくまでも子どもたちに考えさせよう。教師と子どもで問題点を考えよう。

 でも、ひとの痛みのわかる子を育てる、言うて、杷木中学でもう10年間実践してきた私が、自分の学級育てきらんで、生徒会を自分が担当してるからといって、生徒会の会長、副会長、書記たちに、こんな学校がすばらしいんじゃと言うたっていって、それは会長、副会長ぴんときませんよ。
 十幾つかの委員会に分かれて委員会をした。そしたら、2年3組の委員はみんな発言する。質問する。「それじゃいかんでしょうが。」言うて、食い下がる。集約してみたら、2年3組が活躍して、努力点が決まってる。そして、初めて、生徒会役員が、三役が、「2年3組がどんな学活をやってるんだろう。どんな帰りの会をやってるんだろう。見せてください。」と言うてくる。
 あたりまえのことです。だから、自分の学級を育てよう。そして、職員会でも言おう。いかんことはいかんと言おう。子どもたちにも言おう。
 そして、歩いてきて「がんばるようになったなあ。ようし、来年はこの子たちが3年になる。1年間で三輪中学が一歩前進するぞ。」いうときに、M子が転校してきたんです。
 春休みに、私が部活しよったら放送で呼ばれたから、校長室に行ったら、向こうの学校の教頭先生がもう書類持ってきてあるんです。そういう転校の仕方はおかしいちゅうことは先生方、わかるでしょう。実際には、うちの学校から、「おたくに在籍してた生徒が、転校してきました。必要書類を送ってください。」ていう連絡をこちらの事務室から向こうの事務室にして、向こうの担任が相談して送ってくれるんです。だから、だいたい一月以内くらいにその手続きがすむ。それが普通です。それなのに向こうの教頭さんがじきじきに春休みに書類を持って来られてる。教頭さんと私は顔見知りだったから、「何ごとな。」ちゅうたら、「先生、とてもきつい生徒をお願いすることになりました。」「それで私がマイクで呼ばれたとね。」と言うて私も座った。教頭さんは「じゃあ、よろしくお願いします。」て、あいさつして帰った。
 そしたら、先生たちが5、6人おって、校長さんやらと、「もう、健ちゃん、あたが受け持ってくれにゃ、手におえんばい。ちょっとこれ見て。」ちゅうて、指導要録写しを見せてもろうた。教科のところを見たら、全部1。所見のところを見たら、「うそつきで、何にでも飽きっぽい。」て、書いてある。
 「そしてな、健ちゃん、この子はだいたい今年の3月卒業しとかにゃいかんと。一級上。ところが、2年3年はほとんど学校に行ってない。だから、今年こそ卒業させたい、て、お父さんもお母さんも思っちょるらしい。」「わかりました。」 私が頭に浮かぶのはうちの学級の子どもたちのことですから、あの子たちにあずけたら、あの子たちはいっしょに歩いていってくれるだろうと思う。

 それで、学級を召集した。春休みだったけど、部活に出て来よるし、電話連絡して、学級全部次の日に集めた。そして、「実は、M子という子が転校してくる。」何も予備知識与えないで、「どこの班に入れるか。初めての学校だから、この学校の取り組みはなかなかわからんぞ。みんなが守っていってくれる、そんな班に彼女を入れてほしい。」言うて、「どの班に決まったか、後から教えてほしい。」ちゅうて、私は職員室に帰った。
 そしたら、いろいろ話おうて「5班に決まりました。」5班というのはH子の班。「え、大丈夫なの。」私は頭の中で、もしそんな矛盾持った子が入るとしたら、N子の班かなあ、K子の班かなあと思うでしょう。教師の予断と偏見ですよね。
 子どもたちはそうは見てないんですよ。確かに、N子もK子も前期と後期の生徒会の副会長なんです。でも、全然違うH子の班にしてる。しかし、これは2ヶ月くらいで私がまちがってたとわかるんです。やっぱし、H子しかおらんだったんです。

 そして、当日、いわゆる始業式の日に、母親と一緒に8時半に校長室に来てくれるように、そして、学校として受付をして、学級に連れていきます、ということになった。8時半に5班の子どもたちは全部玄関で待った。30分待っても来もなんもせん。
 「ああ、重いなあ。」と思いながら、大掃除が終わって始業式が始まる。「始業式にみんな行きなさい。私だけが待っとく。」ちゅうて、それでみんな始業式に出た。私が待っとった。そしたら、タクシーが来た。タクシーが玄関に横付けされて、降りてきた子、上から下まで見てびっくりした。
 パーマ、金髪。口紅。アイシャドー、ピアス。そして、ネックレス。マニキュア銀色。銀色のマニキュアが好きでね、そして、真っ赤な靴下。セーラー服を短くして10センチくらい真っ赤なスリップを出してる。靴の後ろはびっしゃいでしもうてる。 そして、私の顔をちらっとタクシーから降りて見たけど、すぐ振り向いて大きい声で言うた言葉。「何をぼやぼやしてるの。くそ婆。」自分の母親。お母さんはハンドバッグを持って、おろおろして、「はい、ごめんなさい。」ちゅうて降りてきた。

 校長室に入った。しばらく話しよったら、始業式が終わって校長さんが来られた。そして、校長さんが、「ああ、この人がM子さんですか。」校長さんは内心びっくりしてると、それ見て。本人見て。ところが、あわてないふりをして、さすがは校長。「よう来たね。」ちゅうてね。ところがもう途中から校長さんがかりかり来よるのがわかるわけ。だいたいかんしゃく持ちの校長ですから。何を言うても質問しても無視。校長さんがこっち座っとったらわざと横向くと。
 私が質問して言わんとやったらいい。今までいろんな子どもを受け持ってきたから。けれど、校長さんがあんなに優しく言うてくれよる。うったたこうかと思うた。けれど、うったたいたら、また明日から来ん。そげん思うたからね。で、「校長先生、友だちになってください。明日からまだ時間があるから。よし、なら教室に行こう。」ちゅうて連れて行った。

 始業式が終わって、教室は待っちょる。黒板に「M子さん。よく来たね。いっしょにがんばりましょう。」て書いて、花を飾ってる。そして、セレモニーが始まった。私とM子は前に2人立っちょる。そしたら、黒板に持たれかかって腕組みで知らんふりしてる。司会は前に立っておろおろしてる。私が歓迎の言葉を言ったでしょう。学級も何人かで歓迎の言葉言うて、そして、「最後に、M子さん、一言あいさつをお願いします。」
 司会はもういらいらしよるとですよ。それなのに優しく言うたら、M子はどうしたかちゅうたら、それまでやや前を向いていたのを、司会が向こうから言うたらそっぽ向いたんですよ。もう男の子やらいらいらしよる。でも、私が「M子、いいかな。この学級はね、ほんとにあんたみたいに言いたくないときは言わんでいいと。言いたいときは言って。」言うたら、初めて最後に私の方見てうなずいた。それだけがその日示した反応。どれくらい学校で傷ついてるかわかるでしょう。その態度。
 それで、「じゃあ、これで終わろうか。」ちゅうたら、みんな何か不完全燃焼なんですよ。しぶしぶ立ちよるわけですよ。でも、「終わろう。」ちゅうて「明日は教科書配布があるからな、ちゃんとかばん持ってきなさい。バッグ持ってきなさい。」ちゅうて帰した。そしたら、M子はもう速いこと。あっちゅうまにおらんごとなる。
 そして、案の定次の日欠席。そして、私は11時から職員会がある。1年間の体育行事の提案せにゃいかんから、プリントをつくって準備しとった。そして、先生方みんな集まってきて、さあ、職員会が始まるかな、と思いよったら、職員室にうちの学級の子たちが十何人ぞろぞろ入ってきた。そして、入り口のところで何人か私をにらみつけよる。

 「ああ、来たなあ。それでこそ3年3組じゃ。」待っていた。そしたら、案の定、今神主さんしよるK男という子が、「先生、あのM子さんの態度は何ですか。結局、岡部先生、あんなむちゃくちゃな格好で、頭のてっぺんから足のつま先まで違反だらけで、よく転校を認めましたね。なぜ、最初にきちんとさせんのですか。どれだけそういう荒れた状態で、三輪中学が苦しんできましたか。今年の3年生からがんばろうと、あれだけ言うて来たじゃないですか。それをM子さんにどうして言いきらんのですか。」
 もうとにかく2年生の後期の生徒会長した子でべらべら言う。私は言われっぱなし。
 「でもね、ちょっと私はお前たちに話したいことがあるから、職員室出ろう。理科室に行け。」で、「先生方、私がおらんけど、やってください。」同じ体育の教員に「これ、提案しとって。」て、プリントを渡して、理科室に行った。
 「みんな、座れ。」ちゅうたら、十何人じゃった子が33人。もう全部、部活の許可を受けて、勢揃いしてる。「みんな、座れ。私が話したかったこと、話そう。」て言うたら、今度は先生方がノートを持って、ぞろぞろ後ろに並ぶ。職員会は中止。
 私と子どもたちがしょっちゅうそんなことをやってたから、そのたんび、先生たちはメモ帳持ってきて、何か自分の勉強に来よったから。

 で、先生たちがそろったところで、私が「あのな。あの違反だらけのセーラー服の中にたくさんの傷があったな。化膿した膿をもった傷。古い傷。血がまだしたたり流れてる新しい傷。セーラー服のあの内側のあの傷が見えたか。」ちゅうたら、「えっ。」ちゅうて私の顔を見る。
 まだ、この子たちその程度じゃと思うたけど、「その傷が見えんようじゃ、まだ、三輪中学をほんとうに優しい学校に復活させようという、そんな3年生にはなれんぞ。私には見えた。そして、その一つ一つの傷や傷の歴史を知りたかった。きっと彼女はみんなを信頼し始め、岡部を信頼し始めたころ、この傷はあのとき受けた傷、上級生から取り囲まれてたたかれた時の傷。お父さんとお母さんが私のことでけんかして、そして、お母さんが泣いて里に帰ったときの傷。そんな傷の物語をね、話してくれるようになるぞ。それがこの学級の値打ちだろう。初めての学校、それがこの学校。」
 今まで4校、中学校だけで4校、転校してる。どこも追い出された。前の中学では担任の女の先生をほうきの柄で後ろからたたいて、けがさせてる。そして、おられんごとなって、教頭さんが書類持ってきた。これが事実なんです。
 「初めての学校はこの学校じゃないのか。初めての友だちにお前たちがならにゃいかんのじゃないのか。私は、あの子にとって初めての担任になろう。お前たちは、小学校の時もたくさんのいい先生に巡り会ってる。いい友だちもいた。でも、中学校に来たらみんなが荒れたから、みんな荒れのまねをし始めたじゃないか。それがおかしいんじゃろう。」
 そしたら、いちばん先に泣き出したのは、後期の生徒副会長をしてたN子という女の子。これが泣き出しました。「先生、ごめんなさい。そこまで考えきりませんでした。M子さんの表面だけを見て腹を立ててました。」て言うたら、今度は他の子たちも、その神主さんをしよるK男という子が、「俺たちみたいな『同和』教育を勉強したっちゃ浅い考えの人間がM子さんをまじめな方に変えるちゅうたっちゃそれは無理ばい。もっと勉強しよう。」て言うた。そしたら、「うん、わかった。」みんな言うて、ぞろぞろ出ていった。
 H子が5班でどうしてるか。そしたら、H子はずっと泣きながら、大事なことを下向いてメモ取りよる。涙もふかんでね。

 それから、さまざまなことが起こっていきます。もう省略しますけれどね。たとえば、高校生が学校に来て、「先生、えらいもんが転入して来たげななあ。俺に見せない。」ちゅうてきた高校生がおったりね。それから廊下を1人で図書室の方から来よったら、同級生の3年生の男子のいわゆる突っ張った連中から、取り囲まれるようにして、からかわれる。それで、M子がパニックみたいになって荒れ狂って、靴を履かないまんま、泣いて帰ったことがある。
 中学2年生の時に高校やめた青年と同棲し始めてます。どれくらい生活がすさんでるか、ものごとの価値観がばらばらになってたかがおわかりでしょう。
 結局私がアパートに訪ねて行ってその青年と対決するんですよ。それで、「別れてほしい。ほんとにあの子を今年卒業させんでどうするか。今のままだったらまた学校に来んようになるぞ。今は学校に来んでも帳簿をごまかせば卒業させられる。しかし、それだけはさせたくない。ほんとうに学校に来て、いろんなことを学んで卒業させたい。」
 そしたら、だんだん真顔になって、とうとう最後には正座して私の話を聞いたんです。そして、両手ついて「先生、わかりました。お願いします。卒業するまで会いません。」そう言ってくれました。そして、私もアパートを出たんです。
 そしたら、次の日、小型トラックに荷物を全部乗せて、M子の家に「もうM子、再びあのアパートに来ちゃいかん。」ちゅうて、送ってきた。
 高校中退して結婚したのはその青年と結婚したんです。M子は高校に行ったんです。そして、2年生で中退するんです。それは結婚のために。

 いろんなことがあって、変わっていきましたね。いちばん最初にとれたのは、ピアスと銀色のマニキュアでした。口紅がその次にとれて、そして、いちばん最後にパーマしとった金髪がストレートになる。それが11月。4月に転校してきて11月。9月に一遍黒に染めるちゅうたけど、美容室がその頭の中見てびっくりしてあるんです。もうかさだらけなんです。ずっと染色しよったら、皮膚の弱い子はだめだそうですね。だから、くされたようになってるわけです。だから、「先生、もうしばらく待とう。まず皮膚科にやんなさい。皮膚科に行ってこのかさをよくなしてください。」そして、皮膚科に通い始めて、11月末にやっと黒の普通のおかっぱの姿になった。 PTA会長と副会長は二度お見えになりました。一度などは「もう岡部んやつぁ、もうなんちゅうた生徒を自分で引き受けちょるのか。」て、文句を言いに来とんなる。校長室で2人で構えとんなる。で、私が「おう、会長さん、副会長さん、何ごとですか。」言うたら、「ちょっと座ってください。聞きたいことがあります。」もう顔がつりあがっとる。話し聞いたら、「何で三輪中は今よくなりよるのに、あなたの組の転校生だけあんな格好しとるとか。」
 そいけん私は言いました。親の前でたたいて、そして、髪の毛を押さえつけてでも染めて、そうしたら、一時的にはよくなるかもしれん。しかし、それは何も教育課題ではない。「その方法だけはとるまい。」て、うちの学級、生徒と私の約束です。ほんとうに自分が女性として生きていく。自分がここに中学4年生として転校してきて、周りに学んでいく。自分が人間として認められていく。そして、自分の課題を知る。自分もこんな生き方せにゃいかんて見つけだす。それに気づくのが、ひょっとして1年間でまにあわんかもしれない。それでもやってみろう。それがうちの33人の生徒と私の約束です。
 そしたら、だんだん穏やかな顔になって、「わかりました。じゃあ、先生まかせます。」ちゅうて帰られた。

 下級生がみんな見てましたね。そうでしょう。3年3組に、あのばんばん活動していく学級に、1人そんな子が転校して来ちょる。しかも、にらみつけなる。M子はよくがんつけてましたからね。廊下に何人かでおるでしょう。そしたら、向こうの方から通る子の目をじっと見るんですよ。「もう、それだけはやめろ。」ちゅうけどね、
「先生、これはくせじゃん。」ちゅうわけですよ。下級生がみんな怖がるわけですよ。でも、見てましたね。どんどんとれていくでしょう。そして、素直な1人の女学生になっていく。それを見事に評価してくれましたね。やっぱ子どもは嘘つきません。そして、「M子さんもすごいけど、学級がすごい。」てあの卒業式の前の予餞会には各学級どんどん言ってくれましたね。

 そして、最後です。あの卒業式の日。前の日に「私はもう2年間みんなにいろんなことを教えてきた。明日、何も格好つけて、お前たちのお父さんお母さんが来るからといって、卒業式の後の最後の学活で言うことはない。あの学活ではこの中学での3年間のいろんな学んだこと、あるいはうらみに思ったこと、悲しかったこと、つらかったことを話してほしい。岡部が嫌いなら、岡部が嫌いやった、と言うてほしい。」
 そしたら、生徒たちがみんな「やった。言うぞ。言うぞ。」て言いよりました。で、「期待しとくぞ。」ちゅうて別れた。
 卒業式が終わってみんな教室に入りました。もうM子はずっと最初から朝から泣きよる。そいで、始まりました。司会が「さあ、今日は岡部先生に、みんなどんどん言うぞ。お互いもお礼も言おうし、うらみつらみも言うぞ。」て言うたら、みんな「うん、うん。」て言いよった。そして、どんどん入れ替わり立ち替わり言い始めた。もう後ろの方のお父さんお母さんたちはどっと笑うたり、涙拭いたり、もうそんな言葉が飛び交うからですね。
 そして、30分以上過ぎて放送があった。「もう見送りのみなさんは整列してるから、3年生のみなさんも卒業証書を手に持って、そして、体育館の横に並んでください。」そしたら、終わろうかなあて、私と司会は目で合図しおうた。
 そしたら、H子がすっと立った。今までずっと泣いてたH子が。そして、みんなの方をこう向いて。お父さんお母さんたちずらっとおる。お母さんはすぐそばにおる。お母さんはもう最初から泣きよった。
 「あのね、お父さん、お母さん、みんな聞いて。ここに座っているM子ちゃんが転校してきたとき、お父さんお母さんたちはどう言うた。うちのお母さんもね、『何でその人と同じ班になったとね。あんたが不良になんなさんな。』て言われた。町の中では不良みたいなのが中学校に通いよる、評判になったろうが。それは全部お父さんお母さんたちが言うったっちゃろうが。」
 にらみつけるように言う。お父さんお母さんたちはね、どっと笑うたり、涙拭いたりしよったお父さんお母さんたちがだんだん下向いてしもうた。H子からおごられよる。もうその闘いがね。
 ほんとにもうH子は、何度も私はこの子がやっぱ同じ班におってくれてよかったなと思うことがあった。今まだ三輪中の生徒会で伝えられてる、そんな実践をつくっていった子。
 それが「私の家はみんな知ってるように、スーパーの中に野菜を出してる。二度も倒産したとよ。」倒産のことも知ってる。進路の公開の時に話したから。イトーヨーカ堂か、寿屋か何か大きいスーパーが1キロも行かんところにできたもんだから、お客さんはもう5分の1くらいに減っとる。そして、そのスーパーがつぶれたもんだから、中に魚屋さんとか野菜屋さんとか出とるでしょう。それも全部一遍やめた。そのことを言いよる。
 「朝、もう4時か4時半には、お父さんとお母さんは市場によって、スーパーを開けるから、家にはおらん。弟の朝御飯を、みそ汁を温めて、私がついでやったらね、さみしいちゅうて泣く。その弟を叱って、私も泣きよった。私はひとの痛みは自分がいちばん知っとるて思いよった。ところがM子ちゃんが転校してきて、これくらい傷ついた人を初めて見た。自分の父さん母さんすら信頼してない。私たちがおったからM子は普通の子に変わったんじゃない。変えられたのは私たちよ。それを親たちはみんなわかって。私が優しくなれたのは、うわべだけじゃなくて、表面だけじゃなくて、優しくなれたのは、M子のおかげやった。M子、ありがとう。」ちゅうて、わあっと泣いた。
 もう親たちはころっと変わってみんな泣き始める。そしたら、もう終わろうかと思うたら、すっとM子が立った。そして、みんなの方を向いて、ハンカチをあてたまんまみんなに四遍「みんな、ありがとう。ありがとう。ありがとう。ありがとう。」ちゅうて、泣き崩れた。それが最後の別れじゃった。

 ほんとそうですよ。私が教師としてのエネルギーを継ぎ足してもらった。それもM子とあの子たちやった。あの子たちもそうじゃ。「三輪中学のごたる荒れ果てたぼろ学校に誰が行くか。」ちゅうて、よその学校に去って行った友だちがおった。しかし、あの3年生はみんなこの学校でよかった。その中心にやっぱM子がおったと思う。ほんとうに反差別の集団づくり、その値打ちを問うていった学級だったと思う。

 ところが、去年の夏、またびっくりしたことが起こったんです。去年の夏言うたらM子25歳、他の子が24歳。M子の家は小さな果物屋をしよるんです。お父さんとお母さんが離婚して、お母さんが。それでスイカ買いに行った。親戚がお盆前に帰って来るから、果物を用意しとこうと思うて。そして、スイカを2つ買うて、「じゃあ、お母さん、安うしてくれてありがとう。」ちゅうて、車に乗ろうと思うたら、後ろからお母さんが「先生、ちょっと。」ちゅうて、私を呼び止めて、「何ね。」ちゅうたら、「来年の3月でやっとM子が高校を卒業します。」「えっ。」まだ通信教育が続きよるて私は知らんだった。
 どういうことかおわかりでしょう。1級上で中学を卒業しとる年なのに、中学3年生を1年したでしょう。そして、「高校行かん。」て言いよったのを、学級全部で励まされて、そして、高校に行ったでしょう。そしたら、「もう待てない。結婚してほしい。」て、仲人さんを立てて申し込まれた。だから高校2年生で中退して結婚した。
 それから1年たって、中学校に私を訪ねてきた。その時は背中に赤ん坊がおった。「何ごとで来たとや。」ちゅうたら、「先生、この子が大きくなって『お前のお母さんは高校も出とらんとか。』て言われたら、私恥ずかしい。申し訳がない。だから、通信教育で高校だけは出ようと思とるけん、卒業証明書を書いてください。」「はあ、そうか。ありがとう。また、お前に負けた。」ちゅうて卒業証明書を書いてやった。それからずっと通信教育が続きよる。レポート書いて出す。問題が送ってきたら、問題を解いてまた封をして送り返す。それを続けながら。

 そして、それだけならまだびっくりせんやったけど、16歳であの子は卒業して、そして、1年半高校に行って、それから5年ずっと高校の通信教育を受けて、その間中、火曜日と金曜日に、K子が家庭教師に来てる。これも全然知りませんでした。 だから、25歳までK子は、自分が高校に通いながら、さらには大学に行って、そして、火曜日と金曜日はM子と他の学級で高校中退した2人の子と勉強会してる。3人とも通信教育受けてる。それも途中でやめた子に電話して、「ぜひ高校だけは出ろうや。」て言うてる。そして、その家庭教師をK子が来てやる。
 見事な集団づくりですね。ひとの痛みがわかる、それで手をつなげる子どもたち。

 実は、一昨日M子から手紙が来たんです。
 「岡部先生、お元気ですか。このたび、3月2日に修猷館高校定時制を卒業することが決まりました。三輪中学を卒業して高校2年生で結婚のためにやめてしまいました。自分にはくやしい気持ちが残っていました。でも、あの人は私にとって大切な人でした。
 高校にもう一度チャレンジしたい。そして、通信教育を受け始めました。K子さんが週に2日家庭教師に来てくれてました。家族の応援もありがたかったです。けれど、とりわけ、母のおかげだと思っています。」「くそ婆、死ね。」て言いよったあのお母さん。「修猷館高校の定時制では『持続が力なり。』と教えていただき、私の目標語となりました。これからの人生、心の中で持ち続けていきます。
 私といっしょにUさん、Oさんもいっしょに卒業します。お互いこれからの進路を決めて、進み続けます。先生もいつまでもお元気でいてください。」

 オリンピックが開かれる年の1月4日、私の学級は必ずあるところに集まるようにしてます。27、8人来ますね。33人のうち。アトランタが去年でしたか。去年の1月4日にはやっぱし二十何人集まりました。「1人の進路はみんなの進路、みんなの進路は1人の進路」て、よくみんなで言うてきた。K子はほんとに教科のつまずきなんか全然なくていつも平均点が95点以上。そんな子が、小学校の算数からわかってない友だちの家庭教師をずっとして、家庭教師言うたら、上下関係があるみたいだけど、班学習、つまずき学習としていってる。そのことにね、私はほんとに子どもたちから学ぶというのはこんなことだなあて思います。
 帰ったらすぐ返事を書こうと思ってます。これで終わります。



                    編集 城南町部落解放研究会

 岡部 健(おかべ たけし)さん
 1960年から福岡県朝倉郡の中学校に勤務され、1995年3月、朝倉町立比良松中学校を最後に退職。1970年過ぎから、部落問題との出会いをきっかけに「反差別の集団づくり」への取り組みを始められ、その実践は全同教大会や各地の研究集会などで広く知られています。退職後も各地への講演などに出かけられています。
 むらの子、「障害」のある子、不登校の子を学級の宝として、ともに生きる、ともに高まり合っていく班を中心とした集団づくりの取り組みや、その中で解かれて育っていく子どもたちの姿は、私たちにとって大きな目標であり、励ましです。

前のページへ戻る ホームページへ戻る