樽の聖者 ディオゲネス

 

1 樽の聖者 2005,5,13
2 天下の住人 2005,5,14
3 光をわけて下さい 2005,5,15
4 贋金作り 2005,5,16
5 奴隷から自由人へ 2005,5,17
6 ディオゲネスの弟子たち 2005,5,18
7 デイオゲネスの師 2005,5,19
8 個の中の宇宙 2005,5,20
9 死者たちと交わるたのしみ 2005,5,21
10 ストア哲学と自然法 2005,5,21
11 ストア哲学の淵源 2005,5,22
12 ストア哲学と縁起説 2005,5,23
13 ヘラクイレトスの火 2005,5,24

1.樽の聖者

 高校時代に英語の教科書で「ディオゲネス」というギリシャの哲人のことを知った。以来、この風変わりなギリシャの哲人は私の心の中に住み続けている。これまでもディオゲネスについては何度も書いているのだが、すぐにまた書いてみたくなる。それだけ好きだと言うことだろう。

 ディオゲネス(BC410〜BC323))はアテネ郊外に住んでいた。樽の中に住んでいて、その樽を転がして好きな場所に移動した。樽の他に彼はこれという持ち物は何もなかった。いわばシンプルライフ、スローライフの先駆者のような存在である。

 彼は「美しい人」と呼ばれた。外貌ではなく「魂において美しい人」という意味である。彼はただ樽の中に住んでいただけで、何事かを為したわけではない。天気のよい日は樽から抜け出して、河原でひなたぼっこをしていたという。

 まったくの無為徒食である。説教をするでもない。著作をするでもない。書物はひとつも残さなかったが、しかし彼ほど多くの逸話を後世に残したの人はいない。それだけ彼は当時の人々からも一目置かれ、尊敬されていたということだろう。

 説教はしなかったが、彼は自分の生き方を通して、人々に大きな感化を与えた。そして二千数百年を経た現在でも、彼の名前はその数々の逸話とともに伝えられ、デオゲネスは「哲学者」の代名詞のようにさえなっている。それでは彼の逸話をいくつか紹介しよう。

 ある晴れた気持のよい日に、彼が貧しい農夫からもらったキャベツをいとおしむように河原で洗っていると、アテネに住む友人の哲学者が近くを通りかかって、「君も私のように金持ちの友人とつきあいたまえ。そうすればもっとすばらしい邸宅に招待され、もっとおいしいご馳走がもらえるよ」と忠告をした。その友人に対して、ディオゲネスはこう答えたという。

「私にはこのキャベツが最高のごちそうなのさ。なぜなら、このキャベツは私にこれをくれた人の善意で味付けされているからね。君の金持ちの友人の食卓のどんな調味料よりもこれがおいしいんだよ。君もここへきてキャベツを洗ってごらん。川でひなたぼっこをしながらキャベツを食べるのが、どんなに楽しいことかわかれば、金持ちの友人なんか必要でなくなるだろうよ。そしてご機嫌取りの退屈な会話からも解放されるわけだ」

 いくらシンプルライフだとはいえ、「食べる」ことはしなければならない。良寛に「焚くほどは風が持てくる落ち葉かな」という句があるが、おそらく彼もそのように人の善意にすがって、最低限の食料を得ていたのだろう。そして、彼にとってはそうして得た野菜の切れ端こそが、どんな贅沢な食事にも勝る最高のごちそうだったわけだ。

2.天下の住人

 ディオゲネスが住んでいた樽は、半分壊れてもうだれも使わなくなったような代物だった。そこに彼は野良犬のように棲みついていたので、彼は「犬の哲学者」と呼ばれ、彼の一派は「犬儒派」と呼ばれた。

 彼と同時代の哲学者にはプラトンやアリストテレスがいる。すこし時代が下がればストア派のゼノンや快楽主義のエピキュロスがいる。いずれも大勢の門人をかかえていた。おなじ禁欲主義のゼノンでさえ、それなりの家に暮らして、世の尊敬を受けていた。

 そうした権勢のある哲学者とその門人から見れば、ディオゲネスは「犬の哲学者」と呼ぶに相応しかったのだろう。彼は自分がそう呼ばれるのをいやがらず、すすんで自分を「野良犬」と自称さえしていた。

 彼は樽の中にランプと水を入れる革袋を持っていた。彼は真昼からランプに灯をともして、アテネの町を歩いたことがある。アテネの人々がいぶかしがって声をかけると、「私はイヌと呼ばれている。そうかもしれない。それでは人間はどこにいるのか。私は人間をさがしているのだよ」と答え、相手の方にランプをかざし、じっと見つめるので、相手はうろたえて逃げ出した。

 デオゲネスは「アテネに人がいなくなった」と言っていた。ディオゲネスにすればプラトンでさえ「人間」ではなかった。ましてや「哲学者」ではなかった。彼はソクラテスを尊敬していたが、プラトンの小説の中に出てくるソクラテスは嫌いだった。

 ディオゲネスが尊敬するソクラテスは貧しい家に住み、誰彼となく議論を吹っかけて人々から嫌われていたソクラテスだった。ソクラテスはその辛辣な皮肉で人を刺した。そして名声を求めず、独り毅然として生きていた。ディオゲネスはそんなソクラテスが好きだった。しかし、アテネにはもはやソクラテスのような人間はいなかった。

 ディオゲネスのランプは現在では「賢者の象徴」とされ、アテネ大学の徽章にもなっているという。しかし、当時のアテネのお上品な人々には、ディオゲネスが理解できなかった。犬儒派のことをシニシズムというが、辛辣なという意味のシニカルという言葉はここから来ている。ディオゲネスに弟子や門人はいなかったが、彼の辛辣な皮肉は、人を遠ざけるためにかなり有効だったようだ。

 彼はランプの他に持っていたものといえば水を入れる革袋だが、彼は後にこれを捨てた。ディオゲネスはある日、子供が素手で水を掬っているのを見て、「おれは何という馬鹿者だったことか。おれは子供に大切なことを教えられた」と天を仰いだ。そして水袋をその場で捨てたのだという。

 ディオゲネスはアテネの近郊に住んでいたが、アテネの住民という訳ではなかった。彼は「あなたはどこの国の人ですか」と人に訊かれるたびに、「太陽はいくつありますか」と逆に聞き返した。相手が「一つです」と答えると、ディオゲネスは嬉しそうに破顔一笑して、いつもこう答えていた。

「そうです。太陽は一つしかありません。そして私たちはだれもこの一つの太陽をいただいて暮らしているのです。私に祖国などありません。私はただ、この天の下で暮らしているのです。私は天下の住人です」

 当時ギリシャは争乱の時代だった。アテネやスパルタがギリシャ半島の覇権を競って争っていた。ディオゲネスはそうした争乱を冷ややかな目で見ていた。ディオゲネスはどうして戦争が起こるのか知っていた。

 地上に災いをもたらすものは、人間のあくなき所有欲である。愛国心の正体も、彼の目にはこの所有欲のお化けでしかなかった。それはいずれ国を滅ぼすだろう。そのことをディオゲネスは知っていた。

3.光をわけて下さい

 BC338年にギリシャ連合軍はマケドニアに負けている。その後も反乱を起こしたが、結局はアレキサンダー大王に力でねじ伏せられてしまった。このときディオゲネスは70歳を過ぎた老人だった。

 アレキサンダー大王(BC356〜BC323)はアテネを征服したが、これを焼き滅ぼそうとはしなかった。いつの場合でも、恭順の意を示した人々には彼は寛容だった。ギリシャ人はたちまちアレキサンダーを自分たちの偉大な王として迎え入れた。これまでさんざん悪口を言って敵対していた政治家や哲学者も、こぞって彼を賛美しはじめた。

 そうした中で、ディオゲネスはあいかわらず樽の中で我関せずの気儘な生活を楽しんでいた。アレキサンダーはこの風変わりで高名な哲学者が自分に会いに来るのを楽しみにしていたが、部下を何度さしむけても「わしは昼寝で忙しい」と言って動こうとしない。仕方がないので、自分から会いに行くことにした。

 ディオゲネスは樽の近くでひなたぼっこをしていた。軍勢を引き連れてやってきたアレキサンダーを見ても、寝そべったまま居ずまいをただそうともしない。以下、二人の会話を再現してみよう。

「私はアレキサンダーです。ギリシャはいま完全に私の手の中にあります。アテネの人々は私の姿を見ただけで震え上がります。あなたは私が怖くはないのですか」

「君は善い人かね。それとも悪人かね」

「私は善人です。私は父からたくましく生きることを学びました。そして師アリストテレスから、善く生きることをを学んだのです」

「私は善人を恐れない。君が善人だとしたら、君を恐れる理由はないだろう」

 アレキサンダーは老哲学者の言葉に感心した。ディオゲネスは相変わらず寝そべったままだったが、それをもはや無礼とも感じなかった。

「あなたのような智者に会えたことを嬉しく思います。つきましてはお礼をさせてください。何をお望みでしょうか。私に出来ることなら、何でもさせていただきましょう」

「それではひとつ頼み事をしよう。わしの前に立たないでほしい。君はわしから大きな楽しみを奪っている。わしの望みは日差しと昼寝だ。日の光を私に分けてくれないかね」

「これは失礼をしました。それにしても、無欲な方ですね。あなたは私がアテネで出会った尊敬できるただ一人の人です。それでは昼寝の前に、ひとつだけ質問させて下さい。あなたは私のことをどう見ていますか。本当に私は善人なのでしょうか」

「わしは人物をいつも行動で評価している。君は多くの人を殺して、そのあげくギリシャを征服した。このあと、何をするつもりだね。まだ人を殺し続けるつもりかね。君は人殺しをつぐなう以上の善行がこの世にあると考えているのかね」

「私がギリシャを征服したのは、ギリシャに平和をもたらすためです。さらに私は世界を征服するでしょう。地の果てまでも軍隊を進め、世界に平和をもたらします。それが私に与えられた使命だと思っています」

「君は平和のために戦うという。しかし、戦いは戦いを生むだけだ。アテネはそうして滅びた。このままでは、君もいずれ滅びるだろう。平和ならここにあるよ。何もしないこと、それが平和だ。どうだい、君もその鎧を脱いで、私と一緒にひなたぼっこをしてみないかね。一緒にキャベツを川で洗って食べてみないかね」

 アレキサンダーはディオゲネスの言葉をしばらく考えた。ディオゲネスとならんで毎日はだかでひなたぼっこをするのも悪くはないなと思った。平和は心の中に実現するものであって、戦争によってはもたらされないという思想は、師アリストテレスからも聞いていた。

「私は王としてこの世に生まれました。これが神々が私に与えた私の運命なのです。しかし、生まれ変われるものなら、私は哲学者に生まれ変わりたいものです。そうすれば、ディオゲネスよ、私もきっとあなたのように長寿を全うし、平和でやすらかな生き方ができるでしょう」

 アレキサンダーは淋しく笑ってディオゲネスを見つめた。ディオゲネスはもうなにも言わず、だまって目を閉じた。そうすると急に眠くなった。ディオゲネスが目を覚ましたとき、もうアレキサンダーの姿はなかった。

 言い伝えでは、ディオゲネスはアレキサンダーと同じ日に死んだという。そのときディオゲネスは90歳を超えた老人だったが、アレキサンダーはまだ32歳の青年だった。冥界でなかよく並んでひなたぼっこをしている老人と青年をみかけたら、この二人かも知れない。

4.贋金作り

 ディオゲネスはBC410年頃に、黒海沿岸のシノペという町(現在はトルコ領)に、裕福な両替商の息子として生まれている。彼はあるとき、「国に広く流通しているものを変えるのがおまえの使命である」という神託を受けた。

 「国に広く流通しているもの(ポリティコン・ノミスマ)」とは何か。彼はそれを「貨幣」だと考えた。宗教・思想や習慣など、いろいろ考えられるが、彼があえて「貨幣」に着目したのは、それなりに理由があってのことだった。

 それは「貨幣」は人間が作りだしたものでありながら、実は人間を支配している元凶だと考えたからだ。デイオゲネスの時代は、すでに宗教は力を失っていた。プロタゴラスは「万物の尺度は人間である」と宣言していた。神ではなく、人間が主役である時代が到来していた。

 しかし、その主役の筈の人間もじつは貨幣に支配されていた。自由人を自称するポリスの市民も例外ではなかった。両替商の息子として生まれたディオゲネスは「貨幣の魔力」についてよく知っていた。彼の目には貨幣こそ現代の悪しき神のように見えた。

 しかし、この現代の神である「貨幣」の正体は何だろう。金持ちはいかにして金持ちになるか。それは奴隷をしぼりあげることによってだった。貨幣とは何か。それは搾取された労働ではないのか。

 マルクスはのちに「労働の疎外」という言葉を使ったが、こうした世のなかの仕組みを古代の奴隷制社会に生きていたデイオゲネスはよく理解していたようだ。たとえば、彼は金持ちの家に招待されて、「盗人、この門を入るべからず」という看板を見て、「それではこの家の者はどこから中にはいったらよいのか」と辛辣な言葉を吐いている。

 さらに、「家の中では痰を吐かないで下さい」と言われて、彼はその金持ちの主人の顔に痰を吐き付けた。「痰を吐いてよさそうないちばん汚いところを探したところ、君の顔がそこにあったものでね」というのがディオゲネスの言いぐさだった。

 神殿を管理する役人が、あるとき賽銭を盗もうとした男を捕まえて連行しようとしたところ、ディオゲネスは「大泥棒がこそ泥を捕まえたぞ」とはやしたてた。こうした逸話からもわかるように、ディオゲネスの社会を見る目はとても深かったことがわかる。彼は単なる悟り澄ました乞食の哲学者ではなかった。この時代には珍しい冷徹な経済学者でもあったわけだ。

 ディオゲネスは贋金を作ることで、「貨幣」というものの信用をなくし、その人間に対する支配力をそぎ落とそうとした。しかし、そんな大それた社会革命がディオゲネス一人の手でできるわけはない。彼は捕らえられ、財産を没収された上で、ふるさとのシノペから追放されることになった。

 彼はこうしてシノベをあとにし、異国に渡る船上の人になったわけだが、今度は思わぬ運命が彼をさらなる窮地に陥れた。彼を乗せた船が海賊に襲われたのだ。デイオゲネスは海賊に捉えられ、奴隷商人の手に委ねられた。彼はこうして自由の身分を剥奪され、奴隷の身分にたたき落されてしまった。

5.奴隷から自由人へ

 海賊に襲われ、クレタ島に連れていかれたディオゲネスはそこで奴隷として売り出された。そのとき、奴隷商人が、「おまえは何ができるか」と質問すると、彼は胸を張って、「私は神々のように人を支配することができる」と答えた。

 奴隷商人は驚いて、その真意を問いただした。ディオゲネスがいうには、人間はだれも何者かの奴隷になっている。とくに自分の欲望の奴隷になっている。欲望こそが人間の主人なのだ。欲望にあやつられて動く人間は、みんな奴隷である。

 私もまた欲望を持っているが、欲望に支配されることはない。どうしてかといえば、私は欲望よりももっとすばらしいもの、もっと強力でよろこばしいもの、すなわち真理に従って生きる道を知っているからである。真理に従っているかぎり、私は私の主人である。そして私は神々のように幸福である。

 真理こそはすべての支配者である。しかし、人々はその存在すら知ろうとしない。したがって、真理の存在を知っている私は自分自身の主人である。そして真理を知っていることで、他人をも支配することができる。なぜなら、自分を支配することができる人間だけが、他人から自由であり、他人をも自由にできるからである。

 こんな生意気な奴隷を誰も買うはずはないと思われたが、デイオゲネスの演説にじっと耳を傾けていた男がいた。クセニアデスという富豪である。クセニアデスは「私にはあなたのような主人が必要だ」と冗談をいい、彼を買ってくれた。

 ディオゲネスもクセニアデスが好きになった。そこでディオゲネスは、家庭教師として彼の息子を立派な男に鍛え上げた。そればかりか、経理の才を生かして、クセニアデスの商売を助けてやった。クセニアデスは大いに喜んで、ディオゲネスを奴隷の身分から解放してくれた。

 こうしてディオゲネスは自由の身になってアテネにやってきた。そしてそこで、ソクラテスの弟子のアンティステネスという哲学者に出会った。この出会いがデイオゲネスの人生を変えることになった。

 アンティステネスがソクラテスから学んだことは、「物欲にふりまわされていけない。そうしたものを捨て去り、精神を鍛えて、魂のためにだけ生きなければいけない」ということだった。アンティステネスはこのソクラテスの教えを実践することこそが哲学者の正しいあり方だと考えた。

 アンティステネスの偉いところは、ただそう考えただけではなく、そうした生活を自ら実践してみせたことである。彼は財産を捨て、粗末な身なりをして街に現れ、人々にそうした簡素な生き方のすばらしさを説いた。ディオゲネスはアンティステネスのなかに真の哲学者のあるべき姿を見た。そして彼も又アンティステネスのような生活をはじめたわけだ。

 ディオゲネスはこうして野良犬のような生活をしながら、アテネの市民たちが所有する奴隷の数で他人を評価し、お互いの富を競い合うのを皮肉な目で見ていた。祭壇に生け贄を捧げ、その後に御馳走をたらふく食べて健康を害しているのを愚かなことだと思った。

 「健康を祈って生け贄をささげておきながら、健康を害するほどの御馳走を食べている。人間が生きていくための糧は神々から容易に授けられているのに、そのことが見えなくなってしまったのは、人々が蜂蜜入りの菓子だとか、香油だとか、その他そういった類のものをほしがるからだ」

「競争の際には、隣の人を肘で突いたりして互いに競い合うのに、立派な善い人間になることについては、誰ひとり競い合おうとする者はいない」

 デイオゲネスはこのように、堕落したアテネの市民を批判し、自らを「天下の住人」と称していたが、そのころアテネで人気のあったプラトンもまた別の視点からアテネ市民を批判していた。彼はソクラテスを抹殺したアテネの民主政治を嫌っていた。彼はその著「法律」のなかで、ソクラテスの口を借りて、為政者や議員、陪審員を「くじ」で選ぶことの愚かさを痛烈に批判している。

<あなたが家を建てるときどんな大工に仕事を頼むか? 大工を集めてくじを引かせて当たった大工に頼むか、それとも最も腕の良い大工に頼むか? 腕の良い大工に頼むであろう。ならばなぜ、われわれアテネ人は政治を行う者をクジで選ぶのか>

 プラトンは国民を哲人王が支配すれば、国民は王の言うことをよくきいて素晴らしい国になると考えた。アテネのように何でも議論をしていてははじまらない。エジプト人のように、王、ファラオを神の化身としてあがめていたほうがましだとさえ考えていた。

 デイオゲネスはこうしたプラトンの国家主義や貴族主義を嫌っていた。プラトンの家にいったとき、そこに敷いてあった絨毯を踏みつけて、 「俺はプラトンの虚飾を踏み付けているのだ」といった。プラトンもデイオゲネスを嫌っていた。そして彼を「狂ったソクラテス」と呼んだ。

 プラトンは目の前に見えているこの世界を真実と考えなかった。現実を超えた別の世界に理念的な存在の実在を考え、これを「イデア」と呼んだ。デイオゲネスはプラトンの「イデア」も認めていなかった。

 デイオゲネスにとって、目の前にある世界がすべてであり、この世界をいかに善く生きるかが問題だった。のちにアリストテレスがこの点で師プラトンを痛烈に批判している。アリストテレスはさらにプラトンの説く哲人王を批判し、民主主義こそ大切な政治形態だと考えた。この点で、アリストテレスはディオゲネスに親近感をもっていたのではないだろうか。

 ディオゲネスはそのシニカルで辛辣な傍若無人ぶりにもかかわらず、多くの人に愛されたようだ。晩年には彼の名声はギリシャ中に鳴り響いていたが、彼はその名声をなんとも思っていなかった。自分の墓を作ることを許さず、「どんな野獣の餌食にしてもいいし、そのへんに投げ捨てておいてもいい、杭の中に押し込んでわずかの土をその上に盛っておけばそれでいい」と語って死んだという。

 ディオゲネスについて、他に多くの逸話が「ギリシャ哲学者列伝」(ディオゲネス・ラエルティオス著、岩波文庫)に書かれている。その中から、彼の言葉をいくつか引用しておこう。

<われわれ乞食にも、あなたのお腹のものを少し分けていただけませんか。そうすれば、あなた自身は身体が軽くなるだろうし、我々に恩恵を与えることになりましょうから>

<哲学から何が得られたかって。それはたとえどんな運命に対しても心構えができているということだろうね>

<汚らしいところに足を踏み入れても平気だよ。太陽だって便所の中に入り込むが、汚されはしないからね。>

<哲学に向いていないだと。立派に生きるつもりがないのなら、なぜ君は生きているのだね。君は理性をそなえるか、それとも首をくくるための縄を用意しておくしかないのだよ>

<世の中で最もすばらしいものは、何でも言えること(言論の自由、パールレーシア)だね>

<高貴な生まれとか、名声とか、すべてそのようなものは、悪徳を目立たせる飾りだよ>

<人生においては何事も、鍛錬なしにはうまく行かないものだ。人は無用な労苦ではなしに、自然に適った労苦を選んで、幸福に生きるようにすべきだね>

 小石に躓いて倒れたディオゲネスは死期を悟って、その場で息をつめて窒息死したらしい。いかにもこの人らしい最期である。彼を追放した故国の人々も、彼を称えて青銅の像をつくり、そこに次のような詩句を刻んだという。

<青銅も年月経てば老いるもの。
 されど、汝が誉れは、
 永久に朽ちることなからん・・・>

 ラファエロの筆になる有名な大作「アテネの学堂」には、数十人の、古代ギリシアの哲学者や数学者などが一堂に会するさまが描かれている。中央の2人は左がプラトン、右がアリストテレス。プラトンが天上を指差し、アリストテレスは手のひらを地上に向けている。

 ソクラテスは黄褐色の衣を着てプラトンの左にいる。そして、画面中央の石段に座り込んでいるのが我らのディオゲネスである。彼の右側でコンパスを持っているのが数学者・ユークリッド。そのほか、ヘラクレトス、アルキメデスやターレスなど、今さらながら、ギリシャ哲学の豪華絢爛ぶりがしのばれる。

6.ディオゲネスの弟子たち

 デイオゲネスには崇拝者がたくさんいた。例えばギリシャに留学しにきた異国の青年がたちまちデイオゲネスのとりこになった。これを心配した父親が彼の兄を様子を見に送り出したところ、彼も又たちまちデイオゲネスのとりこになって「犬のような生活」を始めたという。

 財産家の中にもデイオゲネスに心酔するものがいた。クラテスはディオゲネスの聖者のような生き方に惹かれ、自分も彼のような簡素な生き方をして魂の修練をつみ、真実の幸福を得たいと考えた。そこで、すべての財産を人々に与えて無一物になった。

 彼はだれの家であろうとかまわず上がり込んで、毎日が休日であるかのように冗談を言ってすごした。人々は彼のやさしい人柄を愛し、彼の訪問をおおいに喜んだという。そうした彼のやさしさを伝える逸話がいろいろと残っている。

  大事な演説の途中におならをしてしまい、面目を失った男がいた。クラテスはその男を励まそうと、豆をたらふく食べてから彼を訪問し、思い切り放屁しながら、「おならを我慢していたら、きっと身体を壊すことになっていたかもしれないから、出してよかったのだよ」と彼を慰めたのだという。

 彼は又、多くの女から愛された。ヒッパルキアという貴婦人は、すでに立派な婚約者がいるのに、クラテスに夢中になり、結婚してくれなければ自殺をするとまでいいだした。クラテスは何とか彼女を思いとどまらせようとした。

 彼は彼女の前で素っ裸になり、 自分の貧弱な体を見せながら、「こんな肉体以外何も持たない自分と結婚したら、やはりあなたも裸同然で、他人の施しを受けながら犬のような生活をしなければならないんですよ。それでもいいのですか?」と言った。

 ところが、彼女も又衣装をすべて脱いでみせた。「私が愛したのはあなた自身です。あなたが裸だからと言って、愛が減るわけはありません。私もこれから裸同然で生きて行くつもりです。あなたも裸の私を愛して下さると思います」と譲らない彼女を見て、クラテスは彼女の愛を受け入れたのだという。
 
 結婚した後、ヒッパルキアは夫のいくところにはどこでもついていった。二人は犬のような無一物の生活をしながら、とても仲むつまじかった。二人のそうした姿を見て、人々は心をなごませ、二人を祝福したという。そしてヒッパルキアもまた、女性哲学者として歴史に名前を残すことになった。

 このクラテスの弟子がゼノン(BC336〜BC269)である。ストア派を開いたゼノンもまたデイオゲネスほど過激ではなかったが、簡素な生活を実践した。そして、天然自然の理に従った生活のなかに、真実の魂の平安と喜びがあることを示した。

 ストア派の実践哲学は市民にも受け入れられる穏健なものだったので、瞬く間に多くの人々の間に広がった。それはキケロやマルクス・アウレリウスといった著名な思想家を輩出し、ローマ時代から現代に至るまで、もっとも魅力的な哲学として生き残り、時代をこえて支持され実践されることになった。

7.デイオゲネスの師

 デイオゲネスの弟子について書いたので、師のアンティスネスについて、少し補足しておこう。彼はアテネに生まれたが、生粋のアテネ人ではなかった。母親が自由民でなかったようだ。

 彼はそのことを指摘されると、「私はボクシングの心得のある親から生まれたわけではないが、私はボクシングの心得があるからね」と、暗に生まれで人を差別することを批判したという。またアテネに拘る人には、「神々の母親だってブリュギア人だよ」と応じたという。

 彼はソクラテスから学んだことは、「幸福になるには徳だけで足りる」ということだった。彼はそのために困苦に堪え、ソクラテス的な克己心を鍛えた。杖と頭陀袋の他は持たず、上着を二重に折って下着の兼用としたという。

 彼自身はあまり弟子をもたなかった。彼の生き方があまりに厳しかったからだ。なぜ弟子に厳しくするのかと聞かれて、「医者だって患者にはそうしているよ」と答えた。彼はデイオゲネスにも下着を許さなかった。

 弟子があるときノートをなくして困っていると、アンティスネスは「紙の上にではなく、心の中に書きとめておくべきだったね」と言ったという。他に多くの逸話が「ギリシャ哲学者列伝」に書かれている。彼の言葉をいくつか引用しておこう。

<ロゴスとは、ものごとが何であったか、あるいは何であるかを明らかにするものである>

<鉄は錆によって腐食されるが、嫉妬深い人は、自分自身の性格によって蝕まれる>

<国家が滅びるのは、劣悪な人々をすぐれた人々から区別することができなくなるときだ>

<哲学から得られるものは、自分自身と交際する能力だ>

<悪人から誉められても嬉しくはない。多くの人から誉められたりすると、私も何か悪いことをしたのではないかと心配になる>

<敵から学ぶがよい。なぜなら彼らはこちらの欠点について真っ先に気付かせてくれるからだ>

<いろいろ学ぶのもよいが、学んだことを忘れないことが大切だ>

<徳は奪い取られることがない武器である>

<徳は実践のなかにあるのであって、多くの言葉も学問も必要としない>

 ところで、これらの逸話や言葉が後世に伝わったのは、ひとえに「ギリシャ哲学者列伝」という書物のおかげである。この書を書いたディオゲネス・ラエルティオスというのはどういう人かわかっていない。ただこの書を書いたと言うだけで名前が残っている。おそらく3世紀くらいに生きていた人ではないかと言われている。

 「ギリシャ哲学者列伝」は350冊もの書物からからの引用で成り立っている。しかし、それらの書物はほとんど今日伝わっていないという。とくにストア派関係の書物は多く失われた。その理由はキリスト教がこれを異教として迫害したからだ。

 ストア派はこうして抹殺されたが、ディオゲネス・ラエルティオスのこの書物が残ったことでこうして後世に多くのエピソードが伝えられた。私がデイオゲネスなる人物を知ることができたのも、ひとえにこの書のおかげだ。ストア派びいきの私にはとてもありがたいことである。

8.個の中の宇宙

 人間は弱い存在である。家族や身近な共同体がなければ生きてはいけない。そうした身近な共同体が崩壊したらどうなるのか。人は拠り所をうしなって不安になるだろう。そうした孤独な人々が最終的に求めるのは、自分たちを庇護してくれる強力な国家である。

 しかし、ここにもう一つの解決法がある。それはストア派の哲学者がとった方法だ。たとえ家族を失い、国家が崩壊したとしても、それに依存しないような強固な自己をつくればよい。彼らはこう考えて、思想的にも肉体的にも自己を鍛えた。

 こうしたストア派の哲学の淵源は、ソクラテスにまでさかのぼる。ソクラテスという山から流れ出した流れは、アンティスネス、デイオゲネス、クラテスと受け継がれ、ゼノンに至った。彼らは、自らの幸福の根拠を国家や社会は求めず、個人の鍛錬のなかに求めた。

 おなじソクラテスをいただきながら、プラトンやアリストテレスはまた別の道をたどった。彼らの本質は「国家主義」である。プラトンはアテネの民主政治を攻撃したし、アリストテレスは「人間はポリス的存在である」という有名な言葉を残している。

 たしかに個人は国家や社会があっての個人である。ある意味でこれは正論なのだが、これが進むと、国家や社会のために個人は存在するという全体主義になる。そして個人が脆弱な社会では、どうしてもこうした専制へ向かう傾向がある。

 ストア派の人々は、デイオゲネスの「天下の住人」の発言からも分かるように、その発想はポリスという狭苦しい枠を超えている。デイオゲネスは国家などというものが存在するから争いが絶えないのだと考えていた。

 とはいえ、ストア派の人々は社会や政治そのものの必要性を否定したわけではない。個人の魂のありかたを問題にしたうえで、社会の問題を考えた。それは彼らの著作目録をみればわかる。たとえば「ギリシャ哲学者列伝」によると、犬儒派の始祖であるアンティスネスにはこうした様々な問題をテーマにした10巻もの著作があったという。

 たとえば第3巻には「法について、あるいは国家について」という論文が収められていた。そのほか、自然について、教育について、言語について、歴史について、とその内容は森羅万象に及んでいる。

 彼らは個人の魂のありかたを問題したが、社会のありかたについても深く考えていた。一説によれば、デイオゲネスにも「国家」についての著作があったという。「ギリシャ哲学者列伝」によれば、彼はそこで「世界国家」の必要性を主張していたらしい。

 アレキサンダー大王がディオゲネスを訪れて教えを請うたのは有名な逸話だし、アレキサンダーはアテネではクラテスの家で寝起きをしていた。さらに彼の父のピリッポス王が逗留したのはクラテスの妻の家だったらしい。

 アレキサンダーの死後、マケドニアの王となったアンティゴノスはアテネに出かけるたびにゼノンの講義を聞き、マケドニアに来るように要請した。アンティゴノス王がゼノンにあてた手紙の一部を「ギリシャ哲学者列伝」から引用してみよう。

<貴殿は何としても小生と交わりを結ぶように務めていただきたい。そうしてもらえるなら、貴殿は、たんに小生ひとりの教師となられるだけではなく、マケドニア人全員をひっくるめての教師となられるだろうから、ということを充分に賢察された上で。と言いますのも、マケドニアの支配者を教育して、徳にかなったことへと導いてくれる人は誰であろうと、その臣下たちをもよき人間に仕上げてくれる者であることは明らかなのですから>

 ゼノンは高齢を理由にこれをことわったが、かわりに二人の弟子をマケドニアに派遣している。このように他国の王からその徳を慕われたゼノンだったが、アテネ市民の彼にたいする尊敬も絶大だった。アテネの民会はゼノンにたいして「感謝決議文」を採択している。

 その決議文には、国費で彼の墓を作ること、黄金の冠を授けること、決議文を刻む二本の柱をたてることなどが記されてある。ゼノンはこうしたアテネ市民の好意を条件付きで受け入れたらしいが、小さなパンと蜂蜜と、よい香りのする葡萄酒を毎日の食事にしていたというこの清貧の哲学者にとって、これはありがた迷惑なことだったのかもしれない。

 ゼノンが死んだとき、アンティゴノス王は「何というすばらしい観客を失ったことか」と嘆いたという。このようにストア派はアテネの市民からも異国の人々からも受け入れられた。それはそのすぐれてコスモポリタン的な普遍性をもっていたからだろう。

 ゼノンは「国家」をはじめ、多くの書物を著した。「宇宙万象について」「詩学講義」「倫理学」「法について」「ギリシャ人の教育について」「自然に即した生活について」など。その厖大な著作はほとんど失われているが、彼の思想はその後継者達によってさらに磨きをかけられ、現代にも生きている。

 それではストア派の哲学の精髄はなにか。それは個人を宇宙の中に位置づけるとともに、個人のなかに宇宙を見たことだろう。「人間も一つの宇宙である」という発見は、考えてみれば実に恐るべき発見であった。こうした考えがソクラテスから始まり、ゼノンに至ってはっきりと自覚されたわけだ。

 ディオゲネスは自分は「天下の住人」だと言った。しかし、同時に、その天下を自分の心に中に発見していた。だからこそ彼は無一物でイヌのように樽の中に暮らしながら、どんな金持ちよりも満たされた生活が送れたのである。そしてその自由で悠々とした生き方はアレキサンダーをもうらやましがらせた。

 この「人間そのものがコスモスだ」という考えは、その後の西洋思想の基盤になっている。これはキリスト教にも影響したし、ライプニッツやスピノザ、そしてカントに決定的な影響をあたえた。また、ゲーテなど多くの西洋文学の基盤でもある。

 ストア派の哲学は、東洋の思想とも相性がよい。日本の戦国大名はこぞって仏教に帰依し、高僧の下で精神修行をした。また、政治上のことでも多くの助言を求めたが、これもマケドニアの王がストア派の哲学者を尊重し、助言を求めた事例を彷彿とさせる。

 さいごに、私がストア派の思想を見事にあらわしていると考えている詩を紹介しよう。それは金子みすゞの「はちと神さま」という詩である。金子みすゞは実に、はちの中にさえ宇宙を見ている。短い詩だが、とても内容の深い、美しい詩ではなかろうか。

 はちと神さま

 はちはお花のなかに、
 お花はお庭のなかに、
 お庭は土べいのなかに、
 土べいは町のなかに、
 町は日本のなかに、
 日本は世界のなかに、
 世界は神さまのなかに。

 そうして、そうして、神さまは、
 小ちゃなはちのなかに。

9.死者たちと交わるたのしみ

 古代ギリシャの人々は若いときに身を清めて神殿に出向き、「最善の生を送るのに何をしたらよいか」と神に問う習慣があった。これによってソクラテスは「汝自身を知れ」という有名な神託を得た。ディオゲネスのそれは「世の中に流通しているものを変えよ」ということだった。

 フェニキアの商人だったゼノン(BC333〜BC261)が受けた神託は、「死者たちとまじわるように」ということだった。ゼノンはこれを「古人の書物から学べ」と解釈したのだという。そしてクセノポンの「ソクラテスの思い出」という書物にであった。

 こうして哲学に興味を持ったゼノンは、船が難破してたどりついたアテネで、本屋の主人にすすめられるままクラテスの弟子になった。彼はのちに「船が難破したのは、今になってみると、私にはよい航海だったのだ」と語り、運命に感謝したという。

 仏教に「逆縁」という言葉がある。私の場合も哲学書など読み始めたのは、県立高校の受験に失敗し、仏教系のミッション・スクールに入学したことがきっかけだった。1年生の仏教の授業で、この「逆縁」という言葉を教えられた。

 県下一の進学校だった県立高校に合格していたら、私の人生はまた別のものになっていただろう。高校時代からデイオゲネスに惹かれ、カントやショーペンハウエルなどの哲学を読みあさり、現在もまたこうした文章を書いていることはなかったかもしれない。(自伝「少年時代」参照)

 デオゲネスは神託に従って贋金をつくり、故郷を追放された。しかし、これがきっかけでアテネにきて哲学者になった。このように、哲学者の多くは何かの不幸な出来事を経験し、これをきっかけに哲学という異次元の空間に飛び込んでいる。

 ゼノンはアテネのアゴラ(広場)を囲む柱廊(ストア)を歩きながら哲学の講義をしたという。このため彼の一派は「ストア学派」とよばれるようになった。ゼノンに限らず歩きながら思索をするというのは古代の哲学者のスタイルだったようだ。アリストテレスも学園を散歩しながら講義をしたので、彼の場合は「逍遥学派」と呼ばれた。

 ゼノンは弟子たちに「哲学」というものを理解させるために、まず左手を広げたまま突き出し、そして握ってみせたという。私たちはまず、生きるためにこうして世界を掴む(認識する)わけだ。ゼノンによればこれが通常の知ということだった。

 つぎに、ゼノンは右手を伸ばし、これで左手の拳を包み込むようにして握った。これによってゼノンは世間に生きるために忙しく動いている私たちの思考活動そのものを、もう一段高いレベルから思索し把握するという高度な知の存在を示そうとした。

 ただ生きることにあくせくするのではなく、そもそも「生きるということはどういうことか」を考えてみる。こうしたメタ思考がすなわち「哲学」の本質であることを、ゼノンは両手を使ってわかりやすく説明したわけだ。

 こうしたメタ思考によって、私たちは自分の人生をあたらしい次元からとらえなおすことができる。それはまた、この世のただ中に生きる自分を、もう一段高いレベル、あえて言えば、宇宙の一点から見下ろし、把握し直すということだ。

 そのとき、おそらく、人生の様子が大きく変わって見える。何気ない日常の景色が、あたらしい光りの下で、まるで別物のように甦ってくる。アリストテレスはこうした体験を「存在驚愕」(タウマゼイン)と呼んだ。

 プラトンは哲学をすることの意味は、「だれもが持っていながら眠らせている心の中の器官や能力を、向け変える(ペリアゴーゲ)ことだ」と、「国家」の中で述べている。いくら知識を身につけて、博識の学者になっても、ペリアゴーゲを体験せず、「この世をみる見方の学び直し」ができていない人には、人生の美しい実相はみえてこない。人生の美しい実相とは何か。それはたとえばこのような世界である。

<ユリアヌスの眼には、青空も、雲も、木漏れ日も、葉のそよぎも、溢れる泉も、そこに、そうしたものがあるということだけで、何とも説明のできない不思議なことのように見えた。空の青さの何という不思議さであろう。木漏れ日の恵みに似た明るさは、また何という不思議さであろう。なぜそよ吹く風があり、自然を輝かしく育てる太陽の光があるのか。>(辻邦生著「背教者ユリアヌス」より)

 メルロ・ポンティは「ほんとうの哲学とは、この世をみる見方を学び直すこと」(知覚の現象学)と書いているが、東洋流に言えば、「空」の世界に入り、そこから地上に帰ってくるわけだ。こうして人の魂があらたな世界へと向け変えられる。そのとき、あたりの何でもない風景が見違えるように美しく詩的に感じられるわけだ。

 「空」の世界を知らない私たちは、地上のさまざまなものに囚われて、執着の人生を送っている。そうした私たちも「逆縁」によって、永遠の知恵やいのちにふれるあう可能性はのこされている。「汝自身を知れ」「死者たちと交われ」という神託は、こうしたすばらしい叡智の世界へと私たちの魂を誘う促しであろう。

10.ストア哲学と自然法

 ストア派の哲学がもたらした果実はたくさんある。後代への影響を考えると、なかでも大きいのは「自然法思想」であろう。たとえば「生まれながらにして人間は平等である」という考え方が正しいのは、それが自然の理法にかなっているからだというのが、この思想である。

 こうした「自然法思想」の淵源をたどれば、へレニズムのストア派にいきつく。彼らはコスモポリタリズム(世界市民主義)という思想を背景にして、奴隷をも含む人間の平等を主張した。これは奴隷制を支持したプラトンや容認したアリストテレスとは大きく違っている。

 ストア派によれば、すべての法律は、自然を支配するロゴス(神)の意志を体現するものでなければならない。オランダのグロチウスは、国際法を主張するにあたって、ストア派の自然法から神という言葉を取り去って、全世界の国家が無条件で従うべき普遍的な法が存在すると主張したわけだ。

 そもそもストア派はこの世界を生成発展するものと考えている。そしてこの生成発展する世界の本質を「ピュシス」と呼んだ。ピュシスこそが自然の本性であり、そして自然の一部である人間の本性だと考えた。

 この自然の本性に従って生きることが自由であり、そしてまた最高の正義であり善であるという。そして社会の掟である法(ノモス)もこうした「自然の道理」に従わなければならないと考えた。ノモスがこのような自然法に近づいたとき、私たちは理想の社会生活をいとなむことができるわけだ。

 ストア派を代表するローマの哲学者キケロは「各人に各人のものを分配すること、これが要するに最高の正義なり」といっている。またセネカは、「人間は人間にとって神聖だ」と言った。ストア派の哲学によれば宇宙そのものが神であり、人間のみならず植物も含めたすべての存在が神の分身として神聖な存在だということになる。

 ストア哲学は人間に内在するピュシスは、宇宙に内在するピュシスと同じものだと考えた。そして宇宙はロゴス的な調和と崇高さにみちている。この豊かな宇宙のピュシスを自己の内部として実現することが、すなわちストア的な「悟り」である。そして、宇宙にゆきわたっているロゴスは、すべての人間にも平等に与えられている。

 人間はこの内在するロゴス(理性)にしたがって、その社会をつくらなければならない。こう考えてくると、たとえば今日の日本国憲法の説く「平和主義」や「基本的人権」の考え方が、そのままストア派の「自然法思想」の豊かな果実だということがわかるだろう。 これに対し、「愛国心」や「国家権力」による規律の強制をとくのは、ロゴスなきノモス、ピュシスなきノモスを重視する立場だということができる。

 そうした一派は昔から世界に存在した。ギリシャにもローマにも、その後の世界にも存在した。それはたんに政治的立場の相違ということではなく、もう少し立ち入って考えてみれば、この世界と人間をどう捉えるかという哲学の相違だともいえる。したがってストア派の哲学を学び直すことは、現代を生きる私たちにとっても有意義なことだろう。

11.ストア哲学の淵源

 ストア哲学の倫理思想はソクラテスを受け継いだ犬儒派の克己主義を受け継いでいる。今日、ストイックと言えば、こうした禁欲的な生き方を指す。しかし、ストア哲学はたんに克己的なだけの人生哲学ではない。

 それは論理学でもあり、また自然哲学でもあった。そしてストア哲学の倫理思想は、その自然哲学や論理学と深く結びついている。たとえばストア哲学に傾倒したキケロは、この哲学の体系的な見事さをカトーの言葉を引いて次のように書きとめている。

<この体系の驚くべき整合性と、主題の信じがたい秩序とが、わたしをして長々と語らせてしまった。不死なる神々に誓って、きみはこれに驚嘆しないのか。一文字でもきみが動かすならすべてのものが崩れ落ちてしまうほどに他のものと緊密に結びついている>(キケロ「善と悪の究極について」)

 ストア哲学の見事さは、こうしたギリシャ的な論理性の明晰性や普遍性に支えられている。キリスト教がストア哲学を異端として駆逐する以前は、帝政ローマにおいても、それ以前のローマにおいても、ローマの人々がまず帰依したのは、プラトンでもアリストテレスでもなく、まさにストア哲学だった。

 それでは、ストア哲学のこのように壮大な自然観、人間観はどこに由来するのだろうか。その源流を訪ねていくと、私たちは古代ギリシャの一人の哲学者、ヘラクレイトス(BC540〜BC480)にたどりつく。

彼はミレトス派の世界観にみられる生成変化の思想を発展させ、「万物は流転する」と説いたことで有名である。彼は又火を万物の原理とし、火が万物へ、万物は火へ転化するという思想を持っていた。これはストア派の哲学に受け継がれている。

 さらに、彼は生成変化する世界の中に、変わらないものがあると考えた。生成変化を支配する永遠の理法を、かれはロゴスとよんだ。彼は「世界は神々や人間によってつくられたのではなく、ロゴスによって燃え、ロゴスによって消えながら、永遠に生きる火であったし、あるし、あるであろう」と述べている。

 ロゴスは対立し生成変化する世界を統一し、そしてそれは人間の内部にも生きて働いている。ロゴスは万人によって共有され、それゆえに万人に共有される「真理」の存在が可能である。ストア派はこの「ロゴス」の概念をヘラクレイトスから受け継いだ。

<宇宙の自然は、自発的な運動と試みと衝動をもち、魂と感覚によって動かされるわれわれ自身と同じように、それらと合致する行為を示す>(キケロ「神々の本性について」)

 こうしたヘラクレイトス的な発想は、ストア派のみに受け継がれているわけではない。それはギリシャ哲学が一般的にもつ特質でもある。しかし、ストア派はこの気宇壮大な思想を、きわめて精緻なものに築きあげた。そして何よりも重要なことは、それを人間一人一人の日常の中に生かそうとしたことである。それは最早神話ではなく、人々がそれによって日々の生活を営むべき実践的指針になった。

 ストア派の哲学は、インドのウパニシャッド哲学と強い近親性をもっている。これについては二つの見地から説明できるのではないかと思っている。その一つは「真理の普遍性」ということである。この立場に立てば、ギリシャにヘラクレイトスが生まれたように、インドにまた別のヘラクレイトスが生まれるのが自然である。ヘラクレイトスは日本に生まれても不思議ではない。事実、日本の古神道もまたきわめてヘラクレイトス的なものをもっている。

 もう一つは「真理の伝搬性」ということである。当時シルクロードを通して、ギリシャ世界はアジア世界と活発な交流があった。とくに重要なのは、アレキサンダーの東征である。これによってギリシャ思想はインドにまでもたらされた。ヘレニズムの影響によって生まれたウパニシャッド哲学や仏教との類縁性はこうした立場からも説明される。 

 最後に、ストア哲学の「死生観」についても触れておこう。この世に存在するのものは物質であり、これを支配する唯一のロゴスの存在しか認めないストア哲学は、独立した魂の存在を認めない。若干の例外はあるようだが、これがストア派の人々の基本的な考え方である。

 つまり、私たちはロゴスに従って、宇宙の塵から生まれ、ロゴスに従って成長し、そしてロゴスに従って死ぬ。死ねばその肉体は解体し、宇宙の塵に還るわけだ。宇宙は本来一つの生命体であり、われわれもまたその一部として生成消滅するというストア派の死生観は、プラトンが説いている「魂の不滅」とは対照的である。また天国や地獄の存在を前提にするキリスト教の死生観ともまったく相容れない。

 キリスト教の支配する時代にあって、プラトンやアリストテレスが生き残り、ストア派の哲学書が異端として嫌われ、その原典がほとんど失われたのは、こうした事情によるところが大きいと考えられる。しかし、ストア派の思想が真実であるならば、それは何度でも甦り、そしてその思想は多くの人々によって受け継がれていくだろう。

12.ストア哲学と縁起説

 ストア派の哲学者は、プラトンの中心学説である「イデア」の存在を認めなかった。これはアリストテレスもそうだったが、この点でストア派はさらに徹底している。それでは何故、彼らはイデアを実在しない虚妄とみなしたのだろう。

 それは彼らがこの世のあらゆる出来事はお互いに関連して生起しているという縁起説を採用したからだ。そしてお互いがお互いに依存している相互依存の世界では、プラトンやアリストテレスが言うような実体というものは存在しない。

<最初の出来事は、その出来事の原因であり、すべての物事はそうした仕方で相互に結合しているから、宇宙の内で生じる物事で、何か他のものが必ずやそれに随伴しそのものを原因としてそれに接合している。すべて生成するものには、何か別のものが、それを原因として必然的にそれに依存するという仕方で随伴するのである>(フォン・アルニム「初期ストア哲学資料集」)

 縁起説は仏教の根本学説でもある。釈迦は菩提樹のもとでこのことを悟った。そしてすべての存在は実体を持たないのに、これを実体だと考えることから人間の奴隷状態が生じていると考えた。釈迦はこうした幻想から自由になり、奴隷状態から解脱することで新しい人生が開かれると考えたわけだ。これはプラトンのイデア論を批判したストア哲学の立場とほとんど変わらない。

 ソクラテスは「無知の知」を主張し、相手との対話によって、社会に通用し、相手が真理だと信じているものが虚妄に過ぎないことを明らかにした。ストア派はこうしたソクラテスの精神をうけついでいる。ソクラテスがその巧みな弁論を用いて攻撃したものを、ストア派の哲学者は「縁起論」を用いて攻撃している。そしてこれはまさしく釈迦が用いた方法でもある。

 ゼノンなきあと、この人なくしてストア哲学なしと言われたクリュシポスは、車が回転するためには二つの原因がなければならないと考えた。一つはその車を押す外力である。しかし、この外力だけでは車は回転しない。もっと本質的なことは車が丸い形をしているために車が持っている「回転能力」である。

 クリュシポスはこうした例をつかって、物事が生じるには外的な「補助要因」と、そのもに由来する「主要な要因」が必要であり、こうした二種類の原因が働き合って様々な現象が生起することを説明している。

 仏教の「縁起説」の場合も、そのものに内在する「因」に外的な原因である「助縁」もしくは「縁」が働くことで、ものごとが生起すると説いている。この点でも、ストア哲学の縁起説は、仏教のそれとよく似ている。

 ストア哲学の自然観は、現代科学とも相性がよい。彼らはヘラクレトスに従って「万物の根源は火である」と考えたが、これは「万物の根源はエネルギーである」とする現代物理学の理論を先取りするものだった。

 さらに彼らは水面を伝わる波の運動を研究し、「音」もまた空気を振動させて伝わる3次元の波動であることを正しく洞察している。こうした洞察が生まれる背景には、「自然は物質からなりたち、それらの物質はおたがに相互作用してあらゆる運動をつくり出す」という彼らの合理的な自然観が根底にあったからだろう。

 物事にはすべて原因があるということ。そしてこの世で起きることはすべて、この原因と結果の複雑にからまった長い連鎖であるということ。このことを正しく認識すれば、我々は我々の将来をも予測することできる。ストア派の哲学者はさらにこうして世界が無限に創造されると考えた。そしてその根本にある第一原因(神)を「創造する理性」とよんだ。

<われわれストア派は、第一の一般的な原因を求める。われわれは、この原因は何かと尋ねる。答えは「創造する理性」、すなわち神である>(セネカ「書簡」)

<宇宙よ、あなたにとってよき調和をなすものは、すべてわたしにとっても調和あるものです>(マルクス・アウレリウス「自省録」)

 ストア派はこの宇宙を変化し創造されるものとして捉えている。そしてプラトンやアリストテレスのように天上界と地上界をわけなかった。宇宙は単一の原理(ロゴス)の産物であり、「創造する理性」の産物である。そして人間をはじめ生きとし生けるものも又、これによってこの世に生み出され、やがて宇宙の塵に還っていく聖なる存在だと見なされた。この宇宙の調和にしたがうことが、「善き生」だとされたのである。

13.ヘラクイレトスの火

 アリストテレスによれば、哲学はミレトスの商人であったタレス(BC624〜BC546)から始まった。タレスは「万物の根源は水である」と述べたという。世界は生成変化し、流転する。こうした生き生きとした世界の本質を、タレスは自在に変化する「水」のなかに見た。

 タレスは「同じ川に人は二度と入ることはできない」「太陽は日々に新たである」などと述べている。世界を変化の相の下にとらえ、しかもその根底を貫いて変わらないものが存在することに、人々の目を向けさせた。

 タレス以来、「万物の根源は何か」という問が始まった。アナクシマンドロスは「空気」だといい、ヘラクレイトスは「火」だと考えた。しかし大切なのは、その「答え」ではない。こうした「○○とは何か」という「問」が存在することに気付いたことである。

 その意味で、タレスこそ最初の哲学者だった。タレスはまた、すべての三角形の内角の和が直線(180度)に等しいことを最初に「証明」した。「真実は人間の理性によってあきらかにされる」ことを最初に自覚した人でもある。こうしたことからも、タレスは数学や哲学の祖とよばれるのにふさわしいだろう。

 タレス以後、自然や宇宙についての探求が続いた。アナクサゴラスは天を指さして、「あれがわが祖国だ」と言ったという。こういう感情を私も中学生の頃味わったことがある。毎晩のように公園にでかけて星を眺めていた。そしてSF小説を読みふけったものだった。

 人類の歴史に戻ろう。自然哲学とよばれるこうした宇宙中心の知の流れを変えたのはソフィストとよばれる人々である。彼らの視線は自然や宇宙から人間世界へと向けられた。大切なのはこの社会であり、そこで人間が如何に幸福に生きるかが問題になった。

 たとえば黄金期のアテネで活躍したプロタゴラス(BC490〜BC420)は「人間は万物の尺度である」と人間中心主義の思想を高らかに謳い上げた。もはや人間は神に従属する存在ではない。自己の理性によって、世界を創造していくことができる。彼のこうした自信の背景には、ペルシャという大国をうち破り、民主制を実現したアテネの繁栄がある。

 民主的な議会制を発案し、人民主権による近代的民主国家の基礎を築いた理論家はイギリスのジョン・ロックである。プロタゴラスはこのロックに比肩されるギリシャの思想家と言える。古東哲明さんの「現代思想としてのギリシャ哲学」(ちくま学芸文庫)から引用しておこう。

<プロタゴラスは、伝統や習俗にもとづく国家ではなく、明晰な議論と、開かれた言説と、整備されたノモス(法律・規範)や発達したテキネー(技術)による、あたらしい共同体の確立の方向性を与えた。そして、民主制や社会の進歩発展の正当性を根拠づける思想を展開する。

 アテネの黄金時代の思想的ベースをつくったのは、かれである、といっても過言ではない。アテネを中心とした国家プロジェクトである植民都市トゥリオイ建国にあたり、その基本法(憲法)制定の任を委嘱されたのも、そのためである。明敏で雄々しく、民主的で革新的な、じつに立派な思想家である>

 しかし、プロタゴラスの「人間中心主義」はある種の理論的脆弱性を持っていた。真理の根拠が人間の中に存在するとすると、真理も又人間の数だけ存在することになる。神を否定し、人間たちのコンセンサスで真理を決めるというのは、よほど人間に対する信頼がなければ成り立たないシステムである。げんにアテネの繁栄はやがて人々を慢心させ、堕落させた。そして人々の心にニヒリズムが忍び寄ってきた。

 そうしたとき現れたのがソクラテス(BC469〜BC399)だった。ソクラテスは人々の関心を人間から、さらにその内面に向けさせた。彼は社会的成功や繁栄に酔いしれている人々を批判し、大切なのは「魂への配慮」であるといい、「よりよく生きるとはどういうことか」という倫理的な問いをその独特な対話術によって鋭く人々に投げ与えた。

 こうして哲学はまったく新しい次元を迎えた。自然哲学から人間・社会哲学へ、そしてついに、人間の内面世界の発見・探求へと向かい、この傾向はプラトンにひきつがれる。それではプラトンは真理の根拠をどこに求めたのか。

 プラトンは真理はすでに「イデア」として存在していると考えた。それは人間が議論して到達するものではなく、あらかじめ人間から超越して存在するものである。人間はイデアに背を向けるのではなく、努力してこのイデアに至らなければならない。そしてこのイデアに精通した少数の哲学者が政治を行うことで、理想的な社会が到来する。これがプラトンが考えたことである。

 アリストテレスはプラトンについて学んだが、彼の「イデア説」はとらなかった。アリストテレスは真理はあらかじめ超越的に存在するものではなく、人間がその知性によって経験的に獲得していくものだと考えたからだ。そして、「哲学」はそのために必要な道具だとした。

 彼にとって真理とは彼岸的ものではなく、あくまで現実の世界に根ざしたものでなければならなかった。そのために彼は「論理学」とともに、「観察」を重視した。とくに生物に興味をもち、標本の収集に精力を使ったりしている。

 こうしてアリストテレスによって、ふたたび自然哲学が甦った。人々の関心がふたたび自然へと向けられ始めた。この流れをさらに押し進めたのがストア派の人々である。彼らは自然と人間を独特な方法で和解させた。つまり、人間の中に自然を発見したのである。

 ストア哲学において、外部の自然は内部の自然と響きあい、内部の自然は外部の自然と響きあっている。そして彼らは真理の根拠をこの外部であり内部であるところの「自然」に委ねた。こうして生き生きと生成するヘラクレイトスの「火」は人間の内部に明かりを灯し、タレスの「水」は人間の心を潤す清冽な生命の泉となった。

(参考文献・サイト)

「ギリシャ哲学者列伝」(ディオゲネス・ラエルティオス著、岩波文庫)
「ヘレニズム哲学」(A・A・ロング著、京都大学学術出版会)
「現代思想としてのギリシャ哲学」(古東哲明著、ちくま学芸文庫)
http://www.geocities.jp/timeway/kougi-12.html
http://www.interq.or.jp/sun/rev-1/D04-4.htm
http://www8.plala.or.jp/StudiaPatristica/philosophia12.htm
http://saiton.net/ethics/09.htm

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