52年路線
池田謝罪790424
▲第1次教義逸脱について仏前で謝罪した池田大作(昭和54年4月24日)(『大白法』H16.2.1)=この謝罪は何だったのか。後の池田発言等をみれば、この謝罪は単なるポーズであり、内心は宗門に対する憎悪と復讐心で満ちていたことが分かる。↓

50周年、敗北の最中だ。裏切られ、たたかれ、私は会長を辞めさせられ、ね。もう宗門から散々やられ(池田大作・H2.11.16/『大日蓮』号外H3.1.25)
十年前は堂々と出来なかった。一言もいえなかった。それで失敗しましたんで、今度は堂々とやっている(森田理事長・H3.3.18・杉並ビクトリー勤行会)




本尊模刻

「山崎・八尋文書」

「北條文書」

「仏教史観を語る」

第1回広布会全国集会

「秋季彼岸法要入場券」

慧光照無量

謗法経本作成



■本尊模刻



[本部常住「大法弘通」の御本尊]
  <「藤本メモ」S49.9.2・9.3
  <模刻本尊の入仏式S50.1.1
  <「藤本メモ」S50.1.10


[勝手に作られた7体の模刻本尊]
  <模刻本尊の写真>
  <「宝物としてお納めくだされば結構」>
  <「模刻はしたけれども偽作はしていません」>
  <藤本総監の証言(対正信会裁判)>

 【賞与御本尊】
  <下付日>
  <模刻の申請>
  <台座の日付>
  <原島証言>

 【御守り御本尊の模刻】


[『祖道の恢復と真の正信確立の為に』]
  <「W師」の発言>
  <「不用意に謹刻」>


[御僧侶が模刻本尊を礼拝!?]
 【関西本部安置の「大法興隆所願成就」の板御本尊】
 【「創価学会常住の板御本尊」ならびに「正本堂記念御本尊」の入仏法要】
 【文化会館常住御本尊の入仏式】
 【日達上人が賞与御本尊に読経】


[赤澤証言]

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[本部常住「大法弘通」の御本尊]
<「藤本メモ」9月2・3日>
「藤本メモ」9月2日
「藤本メモ」9月3日
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9・2
  △后6:50〜8:40 雪山坊 連絡会議
   阿部、吉田、藤本、理事    横山
   会長、北条、森田(康)、星生、八尋、平野
1. 正本堂建立2周年記念行事の件、  ―10月11. 12の2日間
2. 正本堂会計の収束について、  ―9月末日で収束
3. 正本堂会計の土地を学会に譲渡する件、  ―扶桑文化センター等
4. 宗門擁護基金について、  ―とりやめる
5. 記念資料館について、  ―運営主体、富士美術カンに
6. 旧妙國寺建物、土地譲渡の件 ―お願いしたい
7. 本部三階の御本尊の件 ―板御本尊にしたい

※藤本総監の昭和49年9月2日付のメモ(宗門・学会の連絡会議の記録)
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9・3
  [奥]*ゼ8:35〜9:40(阿、吉、藤、理)
  昨夜の連絡会議の件 御報告
1. 正本堂2周年法要の名称 正本堂建立第三年記念大法要
       第1日 世界平和祈願会
       第2日 正本堂建立第三年記念法要
 2の件 ―OK
 3の件 ―OK
 4の件 ―OK
 5の件 ―OK
 6の件 ―OK
 7の件 ―OK

※藤本総監の昭和49年9月3日付のメモ(日達上人と宗務役僧の会議の記録)
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▲「藤本メモ」昭和49年9月2・3日(<謀反のハゲを取り締まる・ポドチョン長官>BBS)=この本部3階の御本尊というのは、64世日昇上人の昭和26年5月19日お認めの「大法弘通慈折広布大願成就」という為書きのある紙幅御本尊であり、この御本尊が、永年、陽が当たって傷んできたので、もったいないから、板御本尊にしたいという、こういう願い出でありました。
 これを翌9月3日、日達上人に御報告申し上げ、日達上人は御承知あそばされたということであります。
 ここで大事なことは、日達上人は、学会の「板御本尊にしたい」という意味は、今までの日昇上人の紙幅御本尊はおしまいして、新たに日達上人に板御本尊の御下附を願い出るものと、このように思われて、そういう意味で御承知であったということでございます。日昇上人の御本尊そのものを板御本尊に模刻することを許可せられたのではないということであり、このことは、先程も出ましたが、菅野慈雲師の『大日蓮』573号に発表されている手記のなかで、日達上人の右言葉として、
●「板本尊にしてほしいという願いはあったが、その後、御本尊下附願いが正式に出てこないので、どうしたのかと思っていたら、既に板本尊に直していたということを後から聞かされた」(同書78頁)
と、こういう仰せからも明らかであります。(総監・藤本日潤『創価学会の偽造本尊義を破す』宗務院発行)



<模刻本尊の入仏式>
本部常住「大法弘通」の模刻本尊の入仏式
本部常住「大法弘通」の模刻本尊の入仏式
1◆入仏式は会長(※池田)の唱導で方便品・自我偈の読経・唱題の声が和するなか、これまでの紙幅の御本尊は北條浩理事長、森田康夫本部事務総長らの手によって収納され、そのあと、板御本尊に参加者はお目通り。これにより「大法弘通慈折広宣流布大願成就」の常住御本尊は、永遠不滅の義を刻みつつ本部にご安置されたわけである。
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▲本部常住「大法弘通」の模刻本尊の入仏式を報じる『聖教新聞』S50.1.4(上=『慧妙』H19.6.1、下=<謀反のハゲを取り締まる・ポドチョン長官>BBS)=実はこの時点で、この板本尊は模刻の許可を宗門からいただいていなかったのである。口頭による願いの後、正式な御本尊御下付願いを出すのが当然であるにもかかわらず、これを無視し、勝手に板本尊を造ってしまったのである。



<「藤本メモ」1月10日>
「藤本メモ」1月10日
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1. 10
 [奥]*ゼ9:10(吉田、藤本)
 1. 昨日の会議の結果 御報告
  (藤本より)
 1. 妙教寺 駐車場用地購入承認書1/10付―印頂戴
 2. 仏心寺 土地贈与(学会へ、会館用地として)承認証―OK
 3. 本証寺 総代・補欠(K)選定届―OK
 4. 妙経寺 総代改選届      ―〃
 5. 興道寺 法ケ講役員改選届   ―〃
 6. 伊藤康二(品川区小山4―14―10)より藤本宛書簡(学会本部で紙幅御本尊を板御本尊に彫刻、入仏式をやったことが聖教新聞に出ている件について質問) 御披露―G)日昇上人御本尊の彫刻については. 前に話しがあったかどうか記憶ない.許可した覚えはない。正月登山の時に。会長から「板御本尊にしました」という報告はあった。個人が受けた御本尊だから、その人又は会の宝物だから。どのように格護しようと他がとやかく云えない。紙幅を板御本尊にするということは。前からも行なわれている。御開眼とか。入仏式とかは。信仰上からは。僧侶にお願いするのが本当だが。しかし。これも個人の自由で、僧侶を呼ばなければいけない。という事でもない

※藤本総監の昭和50年1月10日付のメモ(大奥での日達上人への御報告の議事録)
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▲「藤本メモ」昭和50年1月10日(<謀反のハゲを取り締まる・ポドチョン長官>BBS)

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●日昇上人御本尊の彫刻については、前に話があったかどうか記憶ない、許可した覚えはない。正月登山の時に、会長から「板本尊にしました」という報告はあった(昭和50年1月10日の大奥での日達上人への御報告の議事録)
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以上のことから、日達上人が、いったん板御本尊への願い出を受け許可されていながら、それを失念されていたことは明白である。
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 ですから、次に挙げている4ヵ月後の「藤本メモ」、昭和50年1月10日の日達上人への御報告の記録のなかで、「6、伊藤康二より藤本宛書簡(学会本部で紙幅御本尊を板御本尊に彫刻、入仏式をやったことが聖教新聞に出ている件について質問)」、これを御披露申し上げたところ、日達上人は、
 「日昇上人御本尊の彫刻については、前に話しがあったかどうか記憶ない。許可した覚えはない。正月登山の時に、会長から『板本尊にしました』という報告はあった」
と、こう仰せられている。
 その「記憶ない、許可した覚えはない」という内容は、まさに日昇上人の御本尊そのものを模刻することについては「話も聞いていないし、許可した覚えもない」という意味であって、4ヵ月前の9月の池田の願い出をお忘れになったということでは、けっしてないということであります。(総監・藤本日潤『創価学会の偽造本尊義を破す』宗務院発行)

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●個人が受けた本尊だから、その人又は会の宝物だから、どのように格護しようがとやかく云えない。紙幅を板御本尊にするということは、前からも行われている。御開眼とか、入仏式とかは、信仰上からは、僧侶にお願いするのが本当だが、しかし、これも個人の自由で、僧侶を呼ばなければいけない、という事でもない(昭和50年1月10日の大奥での日達上人への御報告の議事録)
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 昭和50年1月1日、創価学会本部で板御本尊の入仏式が行われ、その模様が同月4日付けの『聖教新聞』1面(※上記1◆)に掲載された。
 この記事を読んだ伊藤某が宗門に問い合わせをし、藤本庶務部長(当時)が細井日達管長に報告。その時の管長の回答が藤本メモ。
 日達上人が、じつは学会による御本尊の彫刻、入仏を認めていたことが明らかである。
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 まず、「紙幅の御本尊を板御本尊になおすということは、以前からも行われていることであり、受けた人の考えによるものであるから、そのこと自体に他の人がとやかく言うことはできない」という仰せでありますが、このことと御法主の許可を頂くという手続きとは別であります。板御本尊にするかどうかは本人の意志によるけれども、そのための手続きとしては御法主上人のお許しが必要であるということは、本宗の信仰の上から当然のことであります。
 しかし、この本部3階の御本尊については、前年の9月に申し出を受けたという経過もあるので、一往与えて、追認という形をとられたわけであります。もし許可の必要が全くないものであれば、他の7体の模刻本尊を総本山へ納めさせる理由も全くなくなるのであります。(中略)
 次に「御開眼とか、入仏式とかは、信仰上からは、僧侶にお願いするのが本当だが、しかし、これも個人の自由で、僧侶を呼ばなければいけない、という事でもない」というお言葉であります。
 これは、学会が、本部3階安置の御本尊を模刻し、昭和50年元旦に入仏式まで行ったという、特殊なけケースに対する御指南であり、しかも、これに不審を懐いた伊藤康二氏に対する内々の御指南である、ということを知らなくてはなりません。すなわち、通常、総本山より正規に下附される御本尊とは一切、関係がない、ということであります。日達上人は、伊藤氏が本宗の信仰に混乱をきたさないよう御配慮されつつ、御法主としての大慈大悲のお立場から最大限に学会を包容あそばされ、追認あそばされた、と理解すべきであります。
 したがって、このを言葉のなかでも「御本尊の御開眼とか入仏式とかは、本来的に僧侶の導師によって行うべきである」ということを仰せでありますが、ここで仰せの「僧侶」とは御法主上人御自身であり、あるいはその御代理の僧侶を意味する、ということは言うまでもありません。しかしまた、既に入仏式まで行ってしまった学会を擁護され、また追認あそばされるという情況の上で、敢えて「僧侶(御自身)なしでもやむをえない」旨をお示しになっているのであります。このため、日達上人は、御法主による御開眼のない模刻御本尊の入仏式を、本来的、また一般的な意味で、まして積極的な意味でお認めになっているのではけっしてない、ということであります。  それを学会は、「彫刻したことも、開眼がなかったことも特に問題ではない」というふうに解釈して、あまつさえ「学会は日達上人を守るために、全く問題のなかった御本尊謹刻の無実の罪をかぶってきたというのが真実だったのです」と強言するに及んでは、何をか言わんやであり、日達上人の御慈悲を踏みにじる無慚無愧、この上ないものと言わなければなりません。(総監・藤本日潤『創価学会の偽造本尊義を破す』宗務院発行)

院達S29.4.16
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院第246号
昭和29年4月16日
宗務院庶務部長 細井精道
宗内寺院教会殿

 今回、宗内に御守本尊と称して、「日蓮大聖人御真蹟」と脚注せる弘安4年3月の御本尊を写真版にしたるものが配布されていることを発見した。
 右は総本山で下付したるものでなく、又法主上人の御允可ありしものでもない。依て本宗の本尊として取り扱うべきではない。故に、現在所持せる者は最寄の寺院教会に納入せられるよう、御取り計らい方を依頼する。

[注意]
もし今後、かゝるものを信徒に本尊として授与することが発見せられた時は、事、本尊に関することであるから、「信仰の改変を企つもの」と見なされるであろう。
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▲院達第246号(<謀反のハゲを取り締まる・ポドチョン長官>BBS061127)=庶務部長時代の日達上人が出された院達である。大聖人の真蹟御本尊を勝手に写真版にして配布されていたことに対し、「総本山で下付したるものでなく、又法主上人の御允可ありしものでもない。依て本宗の本尊として取り扱うべきではない」と示されている。このことからも日達上人の御意は、礼拝すべき本尊には、総本山による下付、法主上人による允可が必要であることが明らかである。

院達S31.12.19
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院第394号
昭和31年12月19日
日蓮正宗々務院
全国寺院教会住職主管者殿

 今般宗務院の許可のない御形木本尊並びに御形木導師本尊を使用する者のあることを聞き及んだが、若し事実ならば由々しき事である。かゝる行為のある時は宗制第259条により処罰されるから違反なきよう注意せられたい。
 尚宗務院の許可のない御形木本尊並びに御形木導師本尊の所持者は速やかに宗務院に納付せられたい。
 又御本尊は宗務院に宗務院へ願出られるよう申し添へます。
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▲院達第394号(<謀反のハゲを取り締まる・ポドチョン長官>BBS061130)=昭和31年といえば、日達上人が庶務部長、日淳上人か総監をなさっておられたときであろう。「宗務院の許可のない御形木本尊」を「使用する者」は「処罰される」とある。



[勝手に作られた7体の模刻本尊]
<模刻本尊>
模刻本尊『慧妙』070601
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 T 賞 本門事戒壇正本堂建立 昭和49年1月2日お認め
 U 創価学会 関西本部 昭和30年12月13日お認め
 V 創価学会 文化会館 昭和42年6月15日お認め
 W 創価学会 会長室 昭和42年5月1日お認め
 X 創価学会 ヨーロッパ本部 昭和39年12月13日お認め
 Y 日蓮正宗 アメリカ本部 昭和43年6月29日お認め
 Z 御守御本尊 昭和26年5月3日お認め
(『慧妙』H19.6.1)
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模刻本尊『慧妙』070601
▲模刻された御本尊(『慧妙』H14.3.1)=未許可ゆえに、宗門に"取り上げ"られた模刻板本尊



<「宝物としてお納めくだされば結構」>
「宝物としてお納めくだされば結構」
◆今まで本部として謹刻させていただいた数体の板御本尊について御指南を仰ぎ、猊下よりすべて学会本部の宝物としてお納めくだされば結構ですとのお話があった
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▲模刻本尊についての日達上人の御指南を報じる『聖教新聞』S53.9.3(<謀反のハゲを取り締まる・ポドチョン長官>BBS)

S53.9.2
●(学会が模刻した8体の内、7体の板本尊の処置について御指南を求めたのに対し)そんなものは人目にさらすな。金庫の中にでもしまっておけ(第66世日達上人・連絡協議会の記録/『創価学会「ニセ本尊」破折100問100答』)
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この御指南を学会は上記のように改竄(かいざん)したのである。



<「模刻はしたけれども偽作はしていません」>
日達上人御指南
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3.大御本尊を偽作した者を完全に処罰出来ぬは謗法行為のなにものでもない」 いつ学会が御本尊を偽作しましたか。偽作というのは、似たような御本尊を書いて出したものが偽作であります。学会は正宗の御本尊を、模刻はしたけれども偽作はしていません。ここを考えなければならないですね。だれかがよく「戒壇の御本尊の正しいのが昔の蓮華寺にあるんだ」と言って歩き回っている人がいますが、そういうふうに新しく作って彫刻して出したのであればそれはそれは偽作であるけれども、正宗の御本尊を写してそのまま彫刻したのですから、これは偽作ではありません。よくみんながいう模刻ですね。そのものをただ写した、写真みたいなものです。だから偽作とは違うのです。よく御本尊を偽作したというけれども、学会は別に偽作はしていません。それを「完全に処罰出来ぬは」といいますが、そのことは、こちらが許可していない分は取り上げて注意をしました。だから、私は別にちっともこちらには落ち度がないと思っております。(第66世日達上人 第21回寺族同心会S54.5.29)
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▲第66世日達上人御指南 第21回寺族同心会S54.5.29(<謀反のハゲを取り締まる・ポドチョン長官>BBS061022)

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日達管長は、「学会は模刻はしたが偽作はしていない」と明確に論難を否定している。(中略)ご本尊の模刻は謗法でもなければ何でもなかったのである。(<謀反のハゲを取り締まる・ポドチョン長官>BBS)
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「学会は模刻はしたが偽作はしていない」この発言については、現在の宗門も異論はないはず。学会は偽作はしなかったが模刻という謗法を犯したのである(笑)。日達上人も、学会による偽作を否定されただけで、謗法ではない、と仰せられた訳ではない。

こちらが許可していない分(の板本尊)は取り上げて、注意をしました(第66世日達上人『大日蓮』S54.7)
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無許可の「模刻」が謗法でないのなら「取り上げて、注意」する必要はない。



<藤本総監の証言(対正信会裁判)>
藤本証言
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〈藤本総監〉謗法にも色々あり教義逸脱がその下にある。
〈正信会側弁護士〉謗法とは具体的にどういうことですか?
〈総監〉祭りに御輿(みこし)を担ぐことなどが入ります。
〈弁護士〉では本尊模刻は謗法に入りますか?
〈総監〉あれは謗法ではなく、手続き上の問題でした。(中略)
〈弁護士〉法主が書写された御本尊様を、例えば今はいい機械ができていますから、コピーをとるとか写真にするということはいかがですか?
〈総監〉それは御法主が許可になればよろしいと思います。
〈弁護士〉それは法主の書写の権限を侵したことにはならないわけですか?
〈総監〉書写ではありませんですから。
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▲山口法興(正信会)の地位保全仮処分の裁判での藤本日潤総監(当時)の証言(<謀反のハゲを取り締まる・ポドチョン長官>BBS061024)=この資料は、正信会の中核坊主の1人・妙真寺住職の山口法興の地位保全仮処分の裁判で証言した藤本日潤総監(当時)の証言です。

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本尊摸刻について「謗法ではない」証言をしています。第1次宗門事件当時、御本尊模刻に疑問を感じて脱会したメンバーが多数いました。学会としては、真実を明らかにしたかったでしょうが、あくまで「僧俗和合」の大義名分の下、臥薪嘗胆の日々を過ごさざるを得ない時期でした。(<謀反のハゲを取り締まる・ポドチョン長官>BBS)
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 これは昭和57年の証言である。藤本総監の真意は、学会が行ったすべての模刻本尊について「謗法ではない」と仰せられたのではない。「あれは」「手続き上の問題でした」と仰せのように、まがりなりにも模刻の打診のあった本部常住の本尊1体についての発言に過ぎない、と考えるべきであろう。
 その証拠に、相手(正信会側)の弁護士の
 「1体のほか、7体の本尊の模刻は事前に猊下の承認を得たのですか」(取意)
との尋問に対しては、藤本総監は
 「7体については知らなかった
とはっきり証言されてるのである。(参照『創価学会「ニセ本尊」破折100問100答』法義研鑽委員会編)



【賞与御本尊】
<下付日>
賞与本尊下付
◆この御本尊は、昨年(昭和49年)、会長の誕生日に当たる1月2日に、日達猊下から特別に下賜されたもので、正本堂建立の重要な意義がとどめられた御本尊である。
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▲「昨年(昭和49年)、会長の誕生日に当たる1月2日に、日達猊下から特別に下賜された」と記載された『聖教新聞』(S50.10.24)(<謀反のハゲを取り締まる・ポドチョン長官>BBS)

昭和48年8月23日御書写の「賞本門事戒壇正本堂建立」という授与書のある御本尊(『慧妙』H13.4.16)
●御本尊裏書の件(S48.8.23正本堂記念の御本尊)学会持参の原稿「此の御本尊は、正本堂が正しく三大秘法抄に御遺命の事の戒壇為ることの証明の本尊也」(「藤本メモ」S49.5.6=裁判で資料提出されたこともある/『正本堂に関する御指南の真義』)
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普通、御本尊に認められる日付は書写された日であろう。しかし、賞与御本尊が書写されたのは昭和48年8月23日であるにも拘らず、御本尊の日付は「昭和四十九年一月二日」となっている。実はこの「一月二日」というのは池田の誕生日である。下付日や書写日とは無関係に、池田が自身の誕生日を認(したた)めて頂いたのであろう。上記『聖教新聞』の報道は、記念すべき池田の誕生日に下付されたとした方が、意義深いと考えて、"御本尊の日付=公式の下付日"として事実とは異なる報道をしたのだろう。4ヵ月以上も前に書写された御本尊を、わざわざ日付どおりに下付する必然性はない(もし、必然性があるならば、下付自体を大々的に機関紙で報道したことであろう)。



<模刻の申請>
連絡会議S49.1.10
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 本年初の「連絡会議」は、元日の初勤行・初登山から滑り出した広布の立体的実践を振り返っての和やかな歓談で始められた。激しく揺れる社会の動静、そのなかにあっても微動だにもせず、広布○○の○○は回る。その幾多の布石を通し、会議はそのあとも、急テンポで更に磐石な未来○○の構想が語り明かされていったのである。
 会議の○案としては、最初に正本堂を荘厳する記念寺院の建設計画を討議。発願主である会長は、○案が煮詰まり、新たな計画が正式に決定するやいなや、ただちにその場で施工○○と折衝するというように、この日の敏速細心の配慮をめぐらせ、会議を進めていた。
 このあと「正本堂記念資料館」と「題目供養塔」の建設についての打ち合わせに移った。ここでは既に完成している設計図をもとにして、建設位置、建設スケジュール等の懸案事項を協議。その結果として、今後も綿密な連携を取りあい、完成までの進展に即応対処していくことを申し合わせた。
 この日の焦点は、日蓮大聖人の○○の地である千葉県天津小湊に建設中の「本仏山蓮生寺」の落慶入仏法要の日程を検討することにあった。このさい、同寺院は順調に仕上げの段階に入っているとの報告があり、これを受けて会議は、落慶入仏法要も大聖人○誕の日を寿(ことほ)ぐ2月16日(土)の午後1時から挙行することで、全委員が了承。併せて、参列者に対する儀式の運営の在り方をめぐって、当日はできる限り盛大な内容を盛り込んでいくとの基本線を確認しあった。
 全国で進められてきた記念寺院も、この「蓮生寺」をもっていよいよ「完結」の○○を迎えるわけだが、晴れの落慶法要の日時も決まったことから宗門の早瀬総監は「立宗宣言がなされた大聖人ゆかりの地に、最後の寺院が建立されることに非常に不思議な瑞相を感じます。民衆救済―立正安国の実現に立たれた宗祖の精神は、今、発願主・池田先生の○○によって、偉大な寺院計画の完成に本末究竟等しているわけで、本当に言葉ではいえないものが込み上げてきます。」と、感無量の思いを語っていた。
 「連絡会議」はこのあと、現在着着と建設が進められている「妙蓮寺・本堂」の落慶入仏法要の日程についても意見を交換。その結果、儀式は最終的に3月2日(土)に営まれることに決まった。このほか会議では「大石寺案内所」(○天府)での業務及び時間帯などが検討されたのをはじめ、小湊の「蓮生寺」の落慶を祝して、由緒ある意義をとどめる千葉県同志の「広布記念碑」ならびに高尚な仙台石で○○される「記念碑」も目下、着々と進められているとの報告がなされた。
 学会と宗門が連動しての新春初の「連絡会議」は、こうして午後3時前に終了したが、会長は、このあとも早瀬総監らの日常の労を温かくねぎらうとともに、学会及び世界の日蓮正宗の夜明けを告げる第2章の平和構想を中心にした話題を広げながら懇談を続けていた。
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▲宗門と学会の連絡会議について報じる『聖教新聞』S49.1.11(<謀反のハゲを取り締まる・ポドチョン長官>BBS)

(※昭和49年)1月10日に学会本部で宗門と学会の連絡会議がおこなわれた際、同御本尊(※賞与御本尊)を板御本尊に謹刻する件について、細井管長の許可を求める申請が宗門側に正規になされた。翌11日、総監・早瀬日慈より、「御本尊に関することは、一応申し上げました」(「記録文書」/北林芳典著『暁闇』
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しかし、上記『聖教新聞』の当該記事を読む限り、賞与御本尊の件については一切話題になっていない。



<台座の日付>
台座の日付
◆昭和四十九年四月 朝陽(ニセ本尊を台座に接合した「ほぞ」の彫刻)
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▲「ほぞ」に刻まれた「昭和四十九年四月 朝陽」の文字=ニセ板本尊の実物調査の結果、本体を台座に接合した「ほぞ」の部分に、彫刻師の名前と彫刻した年月を「◆」と刻んだ板本尊(※賞与本尊の模刻本尊)も発見されています。(『慧妙』H16.8.1)

昭和48年の暮れに池田から模刻を依頼された(模刻作業に携わった赤澤朝陽の社長の証言・取意/『創価学会の偽造本尊義を破す』宗務院発行)
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もし、これが事実ならば学会は、昭和48年には模刻を決定していたことになる。

(※昭和49年)1月10日に学会本部で宗門と学会の連絡会議がおこなわれた際、同御本尊(※賞与御本尊)を板御本尊に謹刻する件について、細井管長の許可を求める申請が宗門側に正規になされた。翌11日、総監・早瀬日慈より、「御本尊に関することは、一応申し上げました」(「記録文書」/北林芳典著『暁闇』
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しかし、実際には申請などなかった。↓仮にこれが事実だとしても、申請のみで認可を待たずに模刻してしまったことになる。

●創価学会の本尊模刻が初めて公式の場で言い出されたのは、昭和49年9月2日の宗門と学会との連絡会議の席上、当時の池田会長より、学会本部の御本尊を板本尊にしたい旨の願い出があった時です。(教学部副部長・水島公正『創価学会の偽造本尊義を破す』宗務院発行)

要するに
学会は、日達上人による正式な認可もなく賞与御本尊を模刻したのである!
とすれば「池田会長から日達管長に『板本尊にしたい』旨の話がなされ、内諾を得た」(S49.1.2赤澤=第2次宗創問題後の証言)とか「許可を求める申請が宗門側に正規になされた」(S49.1.10「記録文書」=第2次宗創問題後に発表)「総監・早瀬日慈より、『御本尊に関することは、一応申し上げました』」(S49.1.11「記録文書」=第2次宗創問題後に発表)とかの主張も、かなり怪しい、と言わざる得ない。



<原島証言>
●(※昭和48年)12月29日第2回御義口伝受講者大会が、学会本部で行われました。その時池田大作は、(中略)実は本門事の戒壇は、正本堂という御本尊(注=賞与御本尊のこと。本門事の戒壇というのはウソ)がある。猊下と私だけの唯仏与仏だ。板御本尊(注=この時点では本尊模刻は、宗門には内緒で行われていた)で、まさしく化儀の広宣流布の8百万は明確に終わった。文化会館の座敷に安置してあるのだ。これは私が直接受けたもの。私が拝ませてあげよう」と発言しました。まさしく池田大作の傍若無人には、今にして驚くことばかりです。(元創価学会教学部長・原島嵩『大白法』H11.7.1)
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この証言どおりだと、池田は昭和48年には賞与御本尊を模刻していたことになる。しかし、それだと、以下の報道や事実と食い違う。これをどう解釈するか("後出し"の赤澤証言と出所不明の「記録文書」は無視する)。

◆この御本尊は、昨年(昭和49年)、会長の誕生日に当たる1月2日に、日達猊下から特別に下賜されたもので、正本堂建立の重要な意義がとどめられた御本尊である。(『聖教新聞』S50.10.24/<謀反のハゲを取り締まる・ポドチョン長官>BBS)

◆昭和四十九年四月 朝陽(ニセ本尊を台座に接合した「ほぞ」の彫刻)
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ニセ板本尊の実物調査の結果、本体を台座に接合した「ほぞ」の部分に、彫刻師の名前と彫刻した年月を「◆」と刻んだ板本尊も発見されています。(『慧妙』H16.8.1)


@猜疑心の強い池田が弟子を試した……赤澤証言によれば、昭和48年の暮れに池田から模刻を依頼されたそうである。しかし、この時点では、宗門への模刻申請はなされていない。とすれば、昭和48年12月29日の第2回御義口伝受講者大会では、既に池田の心の中では模刻は決定事項だったのであろう。まだ模刻の申請も許可も下りていない時点で「板御本尊」を「安置してある」とリークすることによって、それが外(宗門側)に漏洩するかどうか見極めたかったのではないか。猜疑心の強い池田としては、これによって弟子の忠誠心を試したつもりではないか。


A早く自慢したくて……正本堂建立によって「化儀の広宣流布の8百万は明確に終わった」ことにしたかった池田にとっては、「本門事の戒壇は、正本堂という御本尊」を永遠に後世に残すために板本尊にしたかった。また、そのことを弟子に自慢したかった。それでつい、予定のことを既成事実であるかのように言ってしまった。


B原島氏の聞き間違いの可能性も……「板御本尊」の「板」の部分について、別の語を聞き間違えた可能性もある。その場合でも御本尊に認められた「昭和四十九年一月二日」の日付や「1月2日に、日達猊下から特別に下賜された」(『聖教新聞』S50.10.24)という記述と矛盾する。普通、御本尊に認められる日付は書写された日であろう。しかし、賞与御本尊が書写されたのは昭和48年8月23日であるにも拘らず、御本尊の日付は「昭和四十九年一月二日」となっている。実はこの「一月二日」というのは池田の誕生日である。下付日や書写日とは無関係に、池田が自身の誕生日を認(したた)めて頂いたのであろう。下記『聖教新聞』の報道(◆)も記念すべき池田の誕生日に下付されたとした方が、意義深いと考えて、"御本尊の日付=公式の下付日"として事実とは異なる報道をしたのだろう。尚、昭和48年12月29日の時点で安置してあった御本尊について昭和50年10月に再び入仏法要されたのは、裏書をしていただくために総本山に納めたからと思われる。

◆学会本部常住の板御本尊入仏法要に引き続き、創価文化会館に場所を移して「正本堂記念御本尊」の入仏法要が行われた。
 この御本尊は、昨年(昭和49年)、会長の誕生日に当たる1月2日に、日達猊下から特別に下賜されたもので、正本堂建立の重要な意義がとどめられた御本尊である。ここでも会長はじめ代表幹部が出席し、早瀬総監の導師のもと方便品、自我偈の読経・唱題。末法広布への不惜の誓いを新たにしあう厳粛な法要となった。(『聖教新聞』S50.10.24


Cやっぱり模刻されていた……賞与御本尊の日付は「昭和四十九年一月二日」であるが、実際の書写日は昭和48年8月23日である。このことを承知の上で、『慧妙』は原島証言を取り上げているのだ。ということは、御本尊書写から下付までは比較的短期間で行われ、実際の下付日は御本尊の日付とは無関係であることが推測される。
 学会側資料によれば、昭和49年1月10日に「板御本尊に謹刻する件について、細井管長の許可を求める申請が宗門側に正規になされ」翌11日には「総監・早瀬日慈より、『御本尊に関することは、一応申し上げました』」という返事があったそうである。ところが、宗門側はこれを否定している。仮に学会側資料を認めたとしても、日達上人からの正式な認可はなかったことになる。つまり学会は、正式な認可もなく勝手に模刻したのである。とすれば、「許可を求める申請」がなされたというのも怪しくなる。実際には申請などなかったのではないか。なかったが、1月に申請するという予定はあった。予定はあったが、許可がなくても模刻することに決めていた。そして無許可が問題になったときのために、"1月申請、4月模刻"というアリバイ作りのために台座に「昭和四十九年四月」と刻印した。


D複数の模刻本尊があった……模刻した日付が「昭和四十九年四月」という台座の日付どおりだとすると、これ以前にも同様の模刻が行われていた可能性もある。実際、『慧妙』(H9.16)によれば「学会が御本尊模刻を宗門に謝罪した昭和53年11月7日の"お詫び登山"以降も、模刻板本尊の目撃証言は後を絶たなかった」そうである。



【御守御本尊の模刻】
模刻された御守御本尊
http://the49-2.hp.infoseek.co.jp/kouei/11_12.htm
▲池田によって模刻された御守御本尊(『創価学会の光と影』)=池田大作個人に与えられた御本尊で、本来は身に所持すべき御守御本尊を、板に模刻し、東北研修所に安置して、自分の身代わりと称して拝ませようとした。

 これは、池田大作が、第64世日昇上人より賜った御守御本尊であるが、本来、御守御本尊とは奉安礼拝の対象ではなく、したがって模刻し、奉安する必然性もない御本尊である。
 これを拡大して模刻、奉安したのであるから、池田の信仰が、すでに根本的に崩れ去っていたことが分かろう(『慧妙』H12.11.16)

●特にお守御本尊を彫刻したことに対して、(日達上人の)お怒りのお言葉があったことを記憶しております(菅野慈雲御尊師『大日蓮』第573号78頁/『創価学会「ニセ本尊」破折100問100答』法義研鑽委員会編)

学会がどんなにウソをついても言い訳できないのが、御守御本尊を拡大して模刻するという前代未聞の暴挙である。こんなことを日達上人が許可されるはずがない。




[『祖道の恢復と真の正信確立の為に』]
<「W師」の発言>
「W師」の発言
▲「W師」が「御本尊模刻の件については、総監、教学部長、早瀬理事等の証言によれば、会長登山御目通りの刻、御本尊模刻を願い出た所、法主上人自ら黙認されたことを承知している」と発言したとする『祖道の恢復と真の正信確立の為に』(<謀反のハゲを取り締まる・ポドチョン長官>BBS)
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W師53.10.6蓮華寺にて無任所教師10月研修会等の発言、その他池田源立寺活動家会合等の席上での言に曰く、「御本尊模刻の件については、総監、教学部長、早瀬理事等の証言によれば、会長登山御目通りの刻、御本尊模刻を願い出た所、法主上人自ら黙認されたことを承知しているのである。従って今こちら側でこの件を突いてゆけば、それでは事実はこうと聖教で公表するだろう。秋谷副会長はその意向であると言っている。かかる事体になれば法主上人の御徳にきずがつくことは免れない。……(『祖道の恢復と真の正信確立の為に』S55.12/<謀反のハゲを取り締まる・ポドチョン長官>BBS)
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 『フェイク』第349号によれば「W師」とは渡辺広済だそうである。彼は正信会の議長だった者である(昭和55年9月に住職罷免処分)。<正信会>WS(H19.1.20)を見る限り、少なくとも昭和57年〜平成3年12月の間は議長(代表)であった。その渡辺が「総監、教学部長、早瀬理事等の証言」として「御本尊模刻の件については」「法主上人自ら黙認された」「この件を突いてゆけば」「法主上人の御徳にきずがつく」と発言したという。ここでいう「法主上人」とは日達上人であり、正信会も正師と認める方である。もし、渡辺が実際にこのような発言をしたのであれば、彼が率いる正信会としても、模刻事件を追及できなかったであろう。
 しかし実際は、昭和53年以降も正信会は模刻事件を取り上げ学会を糾弾しているのである。
 ということは、渡辺自身は、「総監、教学部長、早瀬理事等の証言」の内容を信じていないのではないか。「総監、教学部長、早瀬理事等」が事を穏便に処理しようとするあまりウソの発言をしたというスタンスで、すなわち宗門幹部を攻撃するために引用したのではないか。とすれば、渡辺が発言内容を捏造した可能性は十分ある。
 さらに当事者である「早瀬日慈」「阿部信雄」「早瀬義孔」の方々は、「W師」の証言を認めていない。それどころか、「阿部信雄」すなわち日顕上人は、学会による模刻が謗法であったことを認めておられる。当然、日達上人の公式の御指南も渡辺発言と矛盾する。

<「不用意に謹刻」>
「不用意に謹刻」
▲「Y弁護士が、活動家の諸師方と密接に協議し、学会にも納得させて」「「不用意に謹刻云々」と言う言辞を入れて発表」したとする『祖道の恢復と真の正信確立の為に』(<謀反のハゲを取り締まる・ポドチョン長官>BBS)
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「辻副会長の『不用意に謹刻』と明言した通り云々○何故本山に回収しなくてはならないのでしょうか」との問は、当時蔭の宗務院で、6.30、11.7等を演出された貴師方の代表が一番よく御存知ではないかと存ずる。学会側に「不用意に謹刻云々」と言う言辞を入れて発表してくれれば、納まると説得したのは誰であったか。週刊誌でY弁護士が、活動家の諸師方と密接に協議し、学会にも納得させて、自分が全部原稿(脚本)を書いたと告白しているではないか。事の真相が明白になった時、やがて手飼いにせんとした檀徒各位に糾弾されるであろう。(『祖道の恢復と真の正信確立の為に』S55.12/<謀反のハゲを取り締まる・ポドチョン長官>BBS)
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 投稿者は「ペテン師山友が学会をワナにはめた」といっているが、このときの山崎氏は、宗門と学会の間に立って、事を丸く納めようとしたのであって、むしろ学会の為にもなると考えたのではないか。そもそも、山崎氏の意図がどうであれ、真実を知っているのは模刻を指示した者(池田)であり、「不用意に謹刻」の語句を機関紙に記載(S53.11.8)することも、池田の同意なくして実現しなかったはずである。
 では何故、山崎氏は「『不用意に謹刻云々』と言う言辞を入れて発表してくれれば、納まる」と考えたのか、それは
@無断で模刻したことが事実だからであり、
A日達上人もそのように思われていたからであり、
B池田自身がその事実を認めていたからである。
だから、山崎氏としては宗門と学会の両者が納得する、主張の中間点(妥協点)を提示したのであろう。"中間点"とは「謗法」(宗門の認識)を「不用意」に、「模刻」(宗門の認識)を「謹刻」に変える、ということである。
 このように考えれば、山崎氏が「不用意に謹刻」云々の語句を入れることを提示したとしても、そのことをもって模刻の事実を否定することはできないのである。

以上の点から考えて、『祖道の恢復と真の正信確立の為に』を利用した学会側の主張は事実無根(邪推)だといえる。



[御僧侶が模刻本尊を礼拝!?]
【関西本部安置の「大法興隆所願成就」の板御本尊】
昭和50年10月20日
「大法興隆所願成就」板御本尊の安置
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"常勝関西"の歴史に、また1つ新たな前進と発展の起点が刻まれた。16日に行われた「関西センター新館」の落成入仏式が、それである。とりわけ、末法万年にわたる「大法興隆所願成就」の板御本尊が安置されるという、記念すべき意義をはらんだこの入仏式によって、常勝の輝かしい伝統の上に限りない未来飛翔をめざそうとする関西は、その原点に一段と深く、強固なクサビを打つことになったといえよう。
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▲「大法興隆所願成就」の板御本尊の安置を報じる『聖教新聞』S50.10?(<謀反のハゲを取り締まる・ポドチョン長官>BBS)

「大法興隆所願成就」の御本尊に読経・唱題
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 関西広布の1ページを飾る大阪・蓮華寺は来る11月6日に、復興再建10周年を迎えるが、この"佳き日"に先立って蓮華寺住職・久保川法章尊師をはじめ大阪12ヵ寺の住職、尊師が20日午前、関西センター新館を公式訪問。同新館の「大法興隆所願成就」の御本尊に読経・唱題し、広布新展開と常勝関西の更なる発展をねんごろに祈念した。
 この日、関西センターでは柳原延行副会長、西口良三をはじめ、各部の代表メンバー約300人が真心で各尊師を出迎え、午前11時から新館での記念勤行会に臨んだ。
 勤行のあと、あいさつに立った柳原副会長は、各尊師の列席をえて、常勝の牙城の入魂の儀式が、厳粛に執り行われたことに対し「会員を代表して心よりお礼申しあげたい」と述べるとともに僧俗一……
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▲「大法興隆所願成就」の御本尊に読経・唱題したと報じる『聖教新聞』S50.10.21(<謀反のハゲを取り締まる・ポドチョン長官>BBS)

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関西本部安置の「大法興隆所願成就」の板御本尊は、昭和50年10月20日、大阪・蓮華寺住職の久保川法章以下11名が出席し、「開眼法要」が営まれた。そのことは、翌21日の『聖教新聞』に報じられている。(『暁闇』)
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 当該新聞を見る限り「開眼」を示す言葉はない。わずかに「入魂の儀式」という意味不明の語句が「開眼」を連想させるが、宗門より公式に認可された御本尊であるならば、日達上人または代理の方による入仏法要が執り行われるはずである。おそらくは、招かれた住職方は「開眼法要」だとは知らされていなかったのではあるまいか。
 記事を読む限り、この「板御本尊」は「入魂の儀式」が行われる以前から当該場所に安置されていたようである。しかし、入仏してから後に、本尊とは直接関係のない行事(大阪・蓮華寺の復興再建10周年)との関連で御僧侶をお迎えして、「入魂の儀式」を実施するなど、常識では考えられないことである。
 このことは、返って当該本尊が正式な認可のないままに模刻されたことを強く推認させる、といえよう。

◆日達上人は私と会うときは、ことが御本尊様の話になるときは、たとえ高僧でも他の人はさがらせますので、このときも大奥の対面所で2人きりの面談でした。(赤澤「陳述書」/『暁闇』)
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この証言が事実であれば、末寺住職方は"まさか、学会が勝手に模刻するはずはない"と思われていたのであろう。これより先の昭和50年1月に学会本部の模刻が発覚したのは、『聖教新聞』に掲載されたからであるが、それも宗門中枢方でなければ、無許可の模刻とは誰も断定できなかったであろう。

【「創価学会常住の板御本尊」ならびに「正本堂記念御本尊」の入仏法要】
昭和50年10月23日
「創価学会常住の板御本尊」ならびに「正本堂記念御本尊」の入仏法要
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「創価学会常住の板御本尊」ならびに「正本堂記念御本尊」の入仏法要が23日午後、東京・信濃町の学会本部と創価文化会館で、それぞれ早瀬日慈総監の導師のもと厳粛に営まれた。この法要には池田会長も北条理事長、各副会長らとともに出席したのをはじめ各部の代表幹部ら約600人が参列、読経・唱題を通し、慈折広布への誓いを新たにした。秋谷副会長、北条理事長のあいさつに続き、池田会長は入仏法要にこめられた意義深いあいさつを述べた。その際会長は、この10月23日が広布史に永久に残る学会の新しい出発の意義を刻む日になったとして、御本尊の右の脇○に認(したた)められている「大法流布慈折広宣流布大願成就」を永遠の根本指標に、末法広布の軌道を潔く前進していくよう指導した。
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▲「創価学会常住の板御本尊」ならびに「正本堂記念御本尊」の入仏法要について報じる『聖教新聞』S50.10.24(<謀反のハゲを取り締まる・ポドチョン長官>BBS)

「正本堂記念御本尊」の入仏法要
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 学会本部常住の板御本尊入仏法要に引き続き、創価文化会館に場所を移して「正本堂記念御本尊」の入仏法要が行われた。
 この御本尊は、昨年(49年)、会長の誕生日にあたる1月2日に、日達猊下から特別に下賜されたもので、正本堂建立の重要な意義がとどめられた御本尊である。ここでも会長はじめ代表幹部が出席し、早瀬総監の導師のもと方便品・自我偈の読経・唱題。末法広布への不惜の誓いを新たにしあう厳粛な法要となった。
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▲「正本堂記念御本尊」の入仏法要を報じる『聖教新聞』S50.10.24(<謀反のハゲを取り締まる・ポドチョン長官>BBS)

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本部3階師弟会館安置の「大法弘通慈折広宣流布大願成就」の板御本尊と「賞与御本尊」の板御本尊の入仏法要は、昭和50年10月23日、総監・早瀬の導師によっておこなわれている。このことは翌24日付の『聖教新聞』に報じられている。(『暁闇』)
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<「創価学会常住の板御本尊」>
昭和50年10月の時点で早瀬総監が当該板本尊を拝んでいたとしても問題はなかろう。何故なら、学会による模刻が発覚し、日達上人の知るところとなったのは昭和50年1月である。そのときには「許可した覚えはない」とは仰せられたものの、先の連絡会議で模刻の打診があったことを酌量されて、結局認可されたのである。

細井管長は昭和50年10月12日に池田会長と話し合った際、「謹刻した御本尊については、僧侶2、3人で拝むようにしてください。それで結構です」(「記録文書」/『暁闇』)
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もし、この記録が事実とすれば本部常住「大法弘通」の御本尊の件についてのことか。


<「正本堂記念御本尊」>
「正本堂記念御本尊」については、以下の理由により、板御本尊ではない。
@「大法流布慈折広宣流布大願成就」の御本尊については「板御本尊」と断っているのに対し「正本堂記念御本尊」については「板御本尊」の表記がない。
A「正本堂記念御本尊」の説明として「昨年(49年)、会長の誕生日にあたる1月2日に、日達猊下から特別に下賜された」とある。「1月2日」に下付されたのは紙幅の御本尊である。模刻本尊は相貌こそ同じだが、これとは別個の本尊であって「1月2日」の下付でもなければ「特別に下賜された」ものでもない。
Bではなぜ、昭和49年1月2日に下付されたとされる紙幅本尊が、昭和50年10月になって入仏されたのか?これは、一旦下付されたあと、日達上人に裏書きしていただくために総本山に納めていたからだと考えられる。↓

●此の御本尊は正本堂が正しく三大秘法抄に御遺命の事の戒壇に準じて建立されたことを証明する本尊也 昭和四十九年九月二十日(第66世日達上人・紙幅の賞与御本尊の裏書/『正本堂に関する御指南の真義』)

【文化会館常住御本尊の入仏式】
昭和50年11月17日
牧口会長の第32回忌法要
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〈※タイトル〉牧口初代会長のお逮夜法要
〈※サブタイトル〉創価文化会館常住御本尊の入仏式
〈※本文〉「創価学会常住の板御本尊」が安置された学会本部で初めて営まれた牧口初代会長の第32回忌法要―。この日の会場には初代会長の遺影(?)がライトに明るく照らし出され、人々の眼前に迫っていた。特に在りし日の初代会長の写真を目のあたりにした「牧口会」のメンバーは、懐かしの情(?)ととも……
〈※写真説明〉早瀬総監の導師を得て厳粛に営まれた牧口初代会長の第32回忌お逮夜法要(学会本部で)
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▲牧口初代会長の第32回忌お逮夜法要について報じる『聖教新聞』S50.11.18?(<謀反のハゲを取り締まる・ポドチョン長官>BBS)

************************************************************ 創価文化会館内・広宣会館の板御本尊については、昭和50年11月17日、学会本部師弟会館において総監・早瀬の導師で「牧口初代会長32回御逮夜法要」がおこなわれた際、総監・早瀬が、広宣会館の板御本尊の入仏法要をおこなっている。(『暁闇』)
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 本文の「創価学会常住の板御本尊」とは創価学会本部3階の「大法弘通慈折広宣流布大願成就」との脇書のある御本尊のことであろう。サブタイトルの「創価文化会館常住御本尊」とは創価学会文化会館に安置されていた昭和42年6月15日お認めの紙幅御本尊を模刻したものであろう。一見すると「創価文化会館常住御本尊の入仏式も」早瀬総監が導師となって行われたように思われるが、当該画像を見る限り、その証拠はない。通常、御法主上人の代理として派遣された御僧侶を導師として行われる入仏は「入仏式」ではなく「入仏法要」と表記しているようである。その意味からすれば、「創価文化会館常住御本尊の入仏式」と早瀬総監は無関係ではないか、と推測される。
 あるいは、「大法弘通慈折広宣流布大願成就」の御本尊が「板御本尊」とわざわざ表記されているのに対して、「創価文化会館常住御本尊」の方は紙幅とも板とも特定されない。これは、「創価文化会館常住御本尊」が紙幅であったことを推測させる。仏壇を代えたか何かの理由で入仏式を行ったのかも知れない。

【日達上人が賞与御本尊に読経】
昭和52年11月9日
創立47周年記念慶祝法要
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創価学会創立47周年を記念する慶祝法要が9日、総本山より御法主日達上人猊下をお迎え申し上げ、信濃町の学会本部で厳粛に営まれた。これには、宗門から、早瀬総監、阿部教学部長、吉田渉外部長、藤本庶務部長、早瀬主任理事、光久理事らの各御尊師方も出席。また、学会からは池田会長、北条理事長をはじめ、副会長、全国幹部の代表が参列した。この日の儀式は御法主日達上人猊下の大導師により、正午前、正本堂記念御本尊への読経・唱題に始まり、そのあと、師弟会館に御安置の学会本部常住御本尊、そして、広宣会館の慶祝法要と続いた。各会場では、いずれも日達猊下の大導師で読経・唱題し、今日の正法興隆への感謝と、ますますの慈折広布への請願を祈りを込めた。このさい、師弟会館の法要では、日達猊下より御説法を賜ったほか、池田会長からもあいさつがあり、法要は47周年の慶祝の喜びに包まれるなか、大法弘通に邁進していくべく深き意義をとどめるものとなった。なお、このあとも千駄ヶ谷の日蓮正宗国際センター、聖教新聞本社でも、それぞれ日達猊下の御出仕を仰ぎ47周年慶祝の儀式が営まれた。
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▲創価学会創立47周年を記念する慶祝法要について報じる『聖教新聞』S52.11.10(<謀反のハゲを取り締まる・ポドチョン長官>BBS)

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昭和52年11月9日には、学会創立47周年慶祝法要のために創価学会本部を訪れた細井管長他6名が、師弟会館安置の板御本尊、「賞与御本尊」の板御本尊、広宣会館の板御本尊の前で、読経唱題をおこなっている。このことは、翌10日付の『聖教新聞』で報じられた。(『暁闇』)
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 「師弟会館に御安置の学会本部常住御本尊」については、日達上人より認可され、その意味から開眼入仏法要がこの日に営まれたのである。
 当該記事には単に「正本堂記念御本尊」とのみ記載されており板御本尊であったかどうかは不明である。広宣会館安置の御本尊も同様である。このときから、わずか2ヵ月後に、「師弟会館に御安置の学会本部常住御本尊」以外の模刻が明るみになって問題化している(下記3●)。この事実から考えても、当該記事の「正本堂記念御本尊」とは紙幅であったことが分かる。

S50.10.23
2◆「創価学会常住の板御本尊」ならびに「正本堂記念御本尊」の入仏法要が23日午後、東京・信濃町の学会本部と創価文化会館で、それぞれ早瀬日慈総監の導師のもと厳粛に営まれた。(『聖教新聞』S50.10.24/<謀反のハゲを取り締まる・ポドチョン長官>BBS)
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「正本堂記念御本尊」とは紙幅の御本尊であろう。昭和49年1月2日に下付された同御本尊は、日達上人に裏書をしていただくために総本山に納められていたのである(上記1●)。

S52.11.7
●結局、この学会本部安置の板御本尊については、当初、あいまいながらも「板御本尊にお願いしたい」との申し出があったことから、昭和52年11月7日、日達上人が正式に御允可(いんか)あそばされ、開眼入仏法要を営まれて、決着をつけられたのである。(『慧妙』H14.3.1)
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「11月7日」というのは「11月9日」の誤りか?それとも7日に允可され9日に開眼入仏法要を営まれたのか。いずれにせよ、上記聖教記事は、日達上人が学会本部安置の板御本尊の模刻を追認された後の行事である。

S53.1.
3●今、赤澤朝陽の社長が年始の挨拶にきて、学会からの依頼で多数の御本尊を板本尊に直したと聞いた。何体彫刻したのか、赤澤に行って調べて来るように(第66世日達上人/菅野慈雲御尊師の手記『大日蓮』第573号77頁)
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これによって、日達上人が本尊模刻の実態を初めて耳にされたのが、昭和53年正月のことであり、これを報告したのが赤澤氏本人であったことがわかります。赤澤氏は、学会が秘密にしてきた本尊模刻を日達上人に報告した張本人なのです。(『創価学会「ニセ本尊」破折100問100答』)



[赤澤証言]
赤澤証言H9.10.17
▲赤澤朝陽の社長の証言を報じる『聖教新聞』H9.10.17(<謀反のハゲを取り締まる・ポドチョン長官>BBS)

 現在、学会では本尊模刻事件に関しては、この赤澤氏の話を唯一の証拠として、「だから日達上人は御本尊模刻を承知していたのだ」と主張しております。しかし、この赤澤氏の話にはいくつか、おかしな点があります。
 その第1は、ただいま読み上げた後半部分に、昭和50年1月10日の大奥での御報告としての記録を挙げておりますが、このなかで日達上人が、
 「日昇上人御本尊の彫刻については、前に話しがあったかどうか記憶ない。許可した覚えはない」
と仰せられた、とあります。もし赤澤氏の話が事実ならば、日達上人は49年の秋ごろに承知していた御本尊彫刻という信仰の大事を、3、4ヵ月後の50年1月にはすっかり忘れていたということになります。日達上人の記憶力が人並み優れておられたことは、おそばに仕えた者ならばだれもが熟知しているところであり、御本尊にかかわる大事を3、4ヵ月で忘れてしまうことなど、考えられないことです。
 第2の点は、日達上人が7体の模刻を昭和49年の段階で承知されていたと言うのは、あとにも先にも赤澤氏1人でありますが、これに対して、ただいま御紹介した昭和50年1月10日の「許可した覚えはない」との記録と同様に、菅野慈雲師のお話によれば、昭和53年正月に至って、本尊模刻の実態を聞かれた日達上人はたいへん驚かれ、
 「とんでもないことだ。誠に無礼なことである」(『大日蓮』H5.11)
と仰せられた、とあります。
 また、この時、大石寺主任理事として日達上人のおそばに仕え、模刻本尊の収納に当たられた妙縁寺住職・光久諦顕師のお話によりますと、この時、日達上人は、
 「このようなことは承知していないし、許可したことはない」
と仰せられ、創価学会に対して、ただただ、あきれ返っておられたとのことであります。
 さらに、昭和53年6月29日には総本山大講堂において全国教師指導会が行われましたが、この席上、日達上人は全国の教師一同に対して、
 「学会の方で板御本尊に直した所があります。それは私が知らなかった」(『大日蓮』S53.8)
と明言されています。たった1人で聞いたという赤澤発言は、疑う余地のないこれらの事実と完全に食い違っています。
 第3は、非常に大事な点ですが、7体のなかに、お守り本尊の模刻があるということです。本宗においては古来、個々に授与される鎮護御本尊は、本人が死亡した場合はお寺に納めることが原則であります。これを、かりそめにも板本尊として彫刻し、他人に拝ませることなど絶対に許されることではありません。宗門において許されざる行為を、山法山規を厳守された日達上人が、これを承認したり黙認されることなど、ありえません。
 これらの3点から見ても、赤澤証言は、極めていかがわしいものです。
 さらに赤澤証言の発生を考えてみますと、創価学会は平成3年以降、模刻事件について宗門からたびたび破折されながら、明確な返答ができない状態が続きました。そして、平成5年の9月に突如として赤澤証言が出てくるのです。これなども、前年の平成4年に菅野慈雲師によって当時の真相がより鮮明に明かされたことで、創価学会が窮余の一策として虚偽の話を作り上げ、赤澤氏に証言させたものと推測できるのであります。いずれにせよ、赤澤証言は全く信用できない、作り話であると断ずるものであります。(教学部副部長・水島公正『創価学会の偽造本尊義を破す』宗務院発行)





■「山崎・八尋文書」

「山崎・八尋文書」1S49.4.12 「山崎・八尋文書」2S49.4.12
「山崎・八尋文書」3S49.4.12 「山崎・八尋文書」4S49.4.12
http://gappo.cool.ne.jp/sinjitu/hitudoku/maeda/04/yamazaki.HTM
▲「今後どのように処理して行くかについて2とおり考えられます。1つは、本山とはいずれ関係を清算せざるを得ないから学会に火の粉がふりかからない範囲で、つまり、向こう3年間の安全確保をはかり、その間、学会との関係ではいつでも清算できるようにしておくという方法であり、いま1つは、長期にわたる本山管理の仕掛けを今やっておいて背後を固めるという方法です。」





■「北條文書」

【北條文書(「本山の件」昭和49年5月10日付)】
・9日の本山お目通りの際、猊下の話は大へんひどいものでした。之が猊下かと疑うほど、また信心そのものを疑いたくなるほどひどいものでした。……広布の上に重大障害となりまた宗門僧侶等の問題の一切の根源がここから出ていると感じました。
・(池田)先生が前々から見抜いておられた本質がさらけ出されたように思いますが、あまりにひどいので、かえすがえす残念です。 広宣流布など全く考えていない。自分達の私財がふえることと、信徒を見下してえばって暮せれば満足、という風にしか考えられません。 学会が生きぬいてゆく為には、相手に信心がないなら、うまく使ってゆくか、徹底的に戦って、学会の旗を守って死んでゆくか、いづれにせよ、先生の最大のご苦心にふれる思いで決意を固めました。
(昭和49年5月10日・北條浩副会長/『フォーラム21』H15.8.1)
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要するに、日蓮正宗を支配するための戦略を、日達上人に拒否され、批判されたことに腹を立て、「信心がない」「ひどい」などと日達上人を非難しているのである。


【北條文書(「宗門の件」昭和49年6月18日付)】
北條文書「宗門の件」S49.6.18
・広布の前途を大きく開いて帰国された先生に、このような報告を申上げることは洵(まこと)に残念なことであり、且つ申訳ない限りでありますが、報告を怠(おこた)って、ご判断をあやまらせては、より以上重大なことと思い、中西、秋谷、山友と相談の上、ご報告申上げます。また、私たちなりに検討しました対策もしたためますので、ご指示賜(たまわ)りたく。その上で、私ども、いかなる事なりとも斗う所存です。かねて先生の仰言っておられた通り、私たちの到底想像することの出来ない、みにくい姿であります。いずれにしても私たちは断固たたかいぬく決心です。
・G(※日達上人を指す)の心理は、一時的なものではない。今こんな発言をしたら、宗門がメチャメチャになってしまうことも考えないのではないか。困るのは学会だと思っているのだろう。 宗門は完全な派閥で、Gと総監とは主導権争いになっているのではないか。 長期的に見れば、うまくわかれる以外にないと思う。 本質は、カソリックとプロテスタントのような違いである。 戦術的には、すぐ決裂状態となることは避けて、早瀬理事とのパイプ(山友、八尋が話し易い関係にあります)を太くするとか、当面、Gの異常心理をしずめ、あたらしい進路を開きたいと考えます。 但し、やる時がきたら、徹底的に戦いたいと思います。
(昭和49年6月18日・北條浩副会長/『慧妙』H16.9.16)
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これは、日達上人が創価学会の池田本仏論などの誤りを破折され始めたことに対し、反発した北條・秋谷ら首脳陣が対策を相談し、池田宛に報告したものです。(『慧妙』H16.9.16)


【「北條副会長(当時)の文書について」】
「北條文書」について
▲「北條文書」の言い訳(『聖教新聞』S54.12.1/<異流儀破折・創価学会>WS)=色々と言い訳しているが、"宗門を利用するか、独立するか"という選択肢を示した「北條文書」の存在自体については、学会も公式に認めたのである。





■「仏教史観を語る」
「仏教史観を語る」
▲池田大作の記念講演『仏教史観を語る』について報じる『聖教新聞』(S52.1.17)=昭和52年、池田はまず、創価学会の元旦勤行の場で、続いて『仏教史観を語る』の中で、「僧侶・寺院不要論」「創価学会至上論」を展開し、事実上の独立宣言をした(『慧妙』H17.12.16)





■第1回広布会全国集会

広布会を報じる聖教新聞
▲第1回広布会全国集会について報じた昭和52年1月21日付『聖教新聞』(『慧妙』H16.7.1)=広布会とは、全国の日蓮正宗寺院で総代をしている学会員を対象に行なわれた会合である。その広布会で池田大作は、御法主上人猊下をはじめ、宗門御僧侶に対する無慚(むざん)きわまりない誹謗(ひぼう)・中傷を、延々と3時間にわたるスピーチによって繰り返したのである。しかし、池田スピーチの内容は1行も紹介されなかった。



▲第1回"広布会全国集会"での池田大作スピーチを全て記録した原稿(『慧妙』H16.8.1)=その原稿用紙には、「聖教新聞社原稿用紙」と印刷されており、タイトル名は「昭和52年1月20日 広布会 関西・白浜」と記され、表紙の頭に"スミ""重"の文字もあるように、かなり重要な内容であることが分かる。





■「秋季彼岸法要入場券」

「秋季彼岸法要入場券」52年路線
▲秋季彼岸法要入場券=会館で、寺院で行なうのと同じような儀式が営まれた。(『妙教』)





■慧光照無量

「秋季彼岸法要入場券」
▲塔婆供養のかわりに、「慧光照無量」として各人が亡くなった人の名簿を提出し、広布基金を御供養として出す。(『妙教』)





■謗法経本作成

謗法経本作成
▲創価学会が第1次教義逸脱問題を起こしたときに作成した謗法経本(『慧妙』H19.10.1)=創価学会は、学会版の経本を作成し、四座の御観念文の間に創価学会の興隆を祈念する文を付け加えたばかりか、五座では牧口・戸田両氏に対して「死身弘法・御報恩謝徳の御為めに」と、追善供養ならぬ御報恩謝徳の文を加えてしまったのです。
 日蓮正宗においては、御歴代上人でないかぎり、たとえ高僧であっても「擬報恩謝徳」という表現に留めていますので、在家信徒に対して「御報恩謝得」などという祈念を行なうことは、増上慢の極(きわ)みであります。
 この、御観念文の改変という謗法行為に対し、日達上人は、創価学会版経本の回収を命じ、それと同数の大石寺版勤行要典を創価学会に寄贈されて
 「向こう(学会版経本)が謗法だから、それをやめさせて、正しいものを渡した。学会が正宗の要品でないものを使っていたから、それをやめさせて、正しい正宗の経本を与えた」(昭和54年5月29日の御指南の趣意)
と、創価学会の経本は謗法である、と断じられたのです。