2008年12月16日 (火)

にわかにホット

dankogai氏の所とか はてブ界隈とかで、血液型性格判断関連の話題がちょこちょこ出てますね。

で、眺めていて思ったのが、これはこうなのかも、と思ったのをコメントとかで書いているけど、その先を考えていないのがあるなあ、と。

□型はどういう性格で……という知識を持っていたらそういう性格に近づくかもしれない、的な推測とかですね。

実際、心理学者は物凄く調べている訳ですよね。ちょっとググれば、WEBでも結構情報が手に入る。多分その疑問への答えは既に出ているよ、というような疑問が見られました。

私自身は、kikulogの「血液型と性格」シリーズを追っていたら、いつの間にか色々な知識を得ていたようです(それまでにも色々考えてはいましたが)。あそこは、約一名(たまにゲストが登場)による凄まじいノイズがあるけれども、血液型性格判断にまつわる様々な論に関して議論がされているので、一見の価値はあると思います。

上に書いた、多分その疑問への答えは云々、というのは、きくちさんが書かれている事でもある訳ですが。

ああ、やっぱり、血液型―性格 の連関はどのくらいか、というのと、血液型性格判断を分けて考えられていない方も散見されますね。これは非常に重要な論点なんだけどなあ。

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2008年12月15日 (月)

ノート:心理学研究法(7)

第III部 量的調査の方法

○第6章 量的調査による仮説検証(南風原朝和)

§1 量的調査の特徴

▼データ

量的調査の「量的」――基本的に、データの性質をあらわす。

量的データ――知能検査の得点や性格検査における外向性、協調性などの得点のように、数値の大小によって個人の特徴をあらわすデータ。

※どの政党を支持するか、といった本来質的なデータも、集計して数量に(政党支持率など)まとめられるので、「研究法の文脈では」量的データに分類される。統計学では、性別や政党支持などのデータは、質的データと呼ばれる。尺度水準の話。性別や政党支持などのデータは、名義尺度であり、従って質的変数という事です。量的/質的 研究法の文脈ではひっくるめて「量的データ」と分類する、という意味。質的研究法との対比。

変数――個人ごとに特定の値(あるいはカテゴリ)をとるもの。あらかじめどの変数についてデータを収集するかを決めた上で調査に取り掛かる。

量的データは、データの量の多さでは無く、数量によって個人や集団の特徴をあらわすという性質を意味する言葉。場合によっては一人の被験者だけを対象にしてデータを採る。定量的に測れる、と言っても良いかも知れません。

▼研究の目的

主に、あらかじめ設定された仮説を検証する目的で実施。探索的な研究のために実施される場合もある。多くは仮説検証型の研究で用いられるという事。

▼データの分析

通常、2つ以上の(場合によって100を超える)変数について、多くの被験者に関するデータを収集。

主として変数間の関係という観点から分析。例:

  • 「家庭にある本の数が多いほど、その家の子どもの言語能力は高い」という関係をあらわす仮説が成り立つかどうかを調べる。本の数も言語能力も量的データとして数量化されます。本の数はシンプルですが、言語能力については、先行研究などが参照されて、適切な尺度(各種テスト等)が用いられるという事。

統計的方法を用いて分析される。

量的調査を実施して結果をまとめるためには、統計学に関する基礎的な知識が不可欠。絶対必要

§2 量的調査で検証される仮説とその検証

▼相関仮説

今挙げた仮説(「家庭にある本の数」云々)を統計的に捉える→ある集団において、一方の変数の値が大きいほど他方の変数の値も大きいという正の相関関係を表現したもの。※一方の変数の値が大きいほど他方の変数の値は小さいという関係――負の相関関係次回、散布図とか出てきます。

集団における相関関係を仮説としたもの――相関仮説

例:

  • 「現実の自己に関する評価と理想とする自己のあり方とのギャップ(←変数)が大きい人ほど、向上心(←変数)が強い」 現実自己と理想自己とのギャップという変数と向上心という変数についての相関仮説。ギャップも向上心も、各種心理測定尺度を用いて測定したりして数量化。そして、相関関係を数学的に表す(相関係数)。次回出てきます。

▼共変仮説

「現実自己と理想自己のギャップが大きいほど、向上心が強い」(仮説A)――相関仮説→集団を前提。ある一時点における関係(静的な関係)を表現。ある人がギャップと向上心という2つの変数を持つと考えて、集団の傾向を見る。そして、2つの変数に相関関係があるか調べる。

「人」を「時」に替える。

「現実自己と理想自己のギャップが大きいほど、向上心が強い」(仮説B)――共変仮説――一人ひとりの個人に対して適用出来る。時間の経過の中での変数間の個人内の共変関係をあらわす。

共変関係の直接的な検証――同一の個人について、時間をおいて繰り返しデータを収集する必要がある。1回限りの調査では原理的に検証不可能(相関仮説は可能)。時間的な変化を縦断的に見なくてはならないから、一時点を切って検証は出来ない、という事ですね。集団的な関係を見る相関仮説の場合は、横断的に時間を切るから、一回の研究で確かめる事が可能。

▼因果仮説

「現実自己と理想自己のギャップが大きい人ほど、向上心が強い」(仮説A)

「人ほど」→「から」 表現を少し変える。

→「向上心が強いとしたら、それは現実自己と理想自己のギャップが大きいからである」(仮説C)

現実自己と理想自己のギャップの大きさ(原因)→向上心の強い弱いが決まる(結果)――因果関係を意味――因果仮説

因果仮説の直接的に検証するのは極めて困難。かりに仮説Aと仮説Bがデータによって支持されたとしても、それだけでは仮説Cの因果関係が示されたとは言えない(逆向きの因果関係でも説明出来るから)。因果関係をどう証明するかは、科学の根本の問題なのだと思います。科学哲学にも絡んでくるのでしょう。疫学の方法も参考になるでしょう。

仮説Cと正反対の因果仮説(例:向上心が強い時に、それが原因となって理想自己を押し上げる)のような、主張したい因果関係以外の説明や解釈が成り立つ可能性を論理的に、あるいは何らかのデータに基づいて弱められれば、その程度に応じて、主張したい因果関係が支持される事になる。逆向きの因果関係を否定して、そもそも検証したい因果関係を支持していく、という論理ですね。

相関仮説や共変仮説の検証――因果関係が正しいための必要条件のチェックという意味がある※因果仮説が正しくても、データの妥当性が低いなどで相関関係や共変関係が確認出来ない場合もあり、厳密な意味での必要条件のチェックにはならない。妥当性や信頼性については、後で出てきます。

次回へ続く。

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2008年12月14日 (日)

昔書いた事:ゲーム編

子どもを拘束してしまうのは、社会だ。正しい身体運動を、体でも心でも全く認識していない者が、間違った拘束的な認識に従って、教育を施してしまうのである。そして恐ろしいことに、教育者は、自分が間違ったことを教えてしまっている等とは夢にも思っていないのだ。否それどころか、彼彼女は、自分達が手塩にかけてガチガチに固め造り上げてきた「作品」を眺め、その見事な完成度に満足さえしているのである。

どこから見ても、「わが流派の最高師範」が口癖の人が書いた文章ですが、実はこれ、自分が書いたものです。

先日、poohさんの所で、自分がゲームを嫌っていた事、それを愛好する人を見下していた事、を書きました。ここでも何度か話題には出しましたが、自分がゲームについて以前どういう事を考えていたか、というのを、覚書から引っ張ってこようと思います。

25年前からゲームをやってきた人間が、何故それを嫌悪するようになったか。それは個人史的な問題なので詳しく書く事はしませんが、ゲームについてどう思っていたかを書いてみるのは、それなりに意味があるかも知れません。

なお、ここに引用するものは、ゲーム嫌悪が完全に解消された後のものですが(なので、嫌悪していた内容はほとんど無いかも)、文献や先行研究を無視した思い込みの激しい考え、という事で、載せてみます。引用の順序は時系列に従わないので、ご了承下さい。

「ゲーム脳の恐怖」という本を読んだ。非科学的な人間が科学者になれるのだ、と思った。

強烈ですね。本当の所は、よく知らない分野について手を出したら大変な事をしでかしてしまった、という感じなのかも知れません。

TVゲームの問題点

非身体運動的であるという点。記号管理的文化の最たるもの。

ゲームとは

文化として見ると、様々な文化を(記号的)部分的に包含する。TVゲームを、人間とTV画面と操作系の三項関係と見ることが出来る。この「操作」という概念が重要(必要条件といえるだろう)。

記号管理的というのは高岡英夫氏の概念ですね。両方について、もうちょっと洗練させたかたちでここに書いていますね。初期のエントリーで。ゲームの論理構造の記述としては、さほど間違ってはいないと思います。

高度な身体運動を体現することがないと、絶対にクリアできない様なTVゲーム(たとえば、フリーフルクラムが出来た時だけ先に進める)というものは、論理的には考えることができる。しかし、技術的にも経済的にも(少なくとも現在においては)不可能。

TVゲームの宿命的問題点

働きかける対象が、「TV画面」であるということ。視覚的・聴覚的存在であって、絶対に体性感覚的存在では有り得ない。操作系は部分的には身体意識的。

この頃は、Wiiやバランスボードが出るなどとは夢想だにしておりませんでしたよ。前者は、ここでもたまに書きますね。と言うか、バランスボードが出る前に書いてた訳ですけど。後者は分析が荒い。自分でも、「存在」をどういう意味で使っているか不明確。まあ、身体に触れられたりするような情報は無い、という事で、基本的にはゲームの特性として見ても構わないとは思います。

実際に、TVゲームを通して、(「物語性」という部分を持っているから)「命の大切さ」や「思いやり」を持つこと、学ぶことはできるのである。当たり前だ。絵本を読んだり小説を読む、あるいは良い映画を見ること等と、同じことなのだから。

従って、なすべきことは、当該文化に内在する有益性・問題点を分析解明し、それを正確に記述することなのだ。特に、その文化に固有の特性を見出すこと。それが非常に重要なのである。

なんか、めちゃくちゃいい事書いてるじゃないか(笑) まあ、ここら辺が、このブログを書く動機に繋がってきている訳ですな。このスタンスは今も保っているつもりです。

「リセットして人生が初めからやり直せる」という認識について。

責任の押しつけ――正常に生活していれば、その様な価値観が形成されないという可能性。

昔の子供はその様な考えを持たなかったか?――言葉が違うだけで、同じ様なことを思っていたかもしれない。

前者はちょっと解りにくいですが、ようするに、色々な経験をして、生活の時間配分等に無理が生じていなければ、文字通りに「リセット」して云々という認識には至らないのではないか、という推察です。後者は、ゲームが無い昔の人も、人生をやり直す的な認識を持つ事はあったかもよ、という話。

ここまで、2002年頃に書いたもの。

っと、ここで、2003年に面白い事を書いているので、ちょっと番外編。

「頭の良い人」≒「メタ」な認識を持っている人。

メタを装う人→メタであると思い込もうとする。実は非常に排他的。学問的認識を中途半端に持っていたりするのでたちが悪い。

めちゃめちゃ吹いた。今も結構言ってる事じゃないか。

メタはスタート地点ね。

ここから、2005年頃に書いたもの。ブログを作るちょっと前かな。

TVゲームに影響されて殺人を犯したのだ、という主張。

それはそうなのかも知れない、と考える。しかし、「だから?」とも考える。

人は、あらゆる環境に様々な影響を受けるのだ。

例えば、バイオハザードをプレイして暴力衝動が喚起され、人を殺めたとする。←これはとても個人的なことである。この様なことがあったからといって、では販売規制をするか、というと、それは待て、と思う。

基本的には今と同じ、なのかな? ちょっと荒い気もするけど。

川島隆太さんへ

あなたの実証実験に不備は有りませんか。極く少数の実験結果を、一般化し過ぎでは有りませんか。具体的な機序は解明されたのですが。コンピュータゲームに関して研究されましたか。社会科学の勉強をされましたか。

強烈に恥ずかしい。多分これ、脳トレの本で、ゲームやっている時のPETの画像かなんかが載っていて、それについての解釈を読んで怒った、というのだったと思います。川島氏のゲーム理解が怪しいと思うのは今もそうだけど、科学に関しては理解不足だなあ。

また番外編。これはマジで面白い。

実験科学的方法を順守しようとするならば、フロイトも、ユングも、高岡も、全て疑似科学のカテゴリーに押しこめられてしまう。

これはなんというニセ科学批判批判風。もちろん、ニセ科学という概念を知らない頃です。

やばい、これも面白い。今、はてな辺りで書いたら、ブクマつきまくる事必至。2002年初めの頃。

反証もできないのに、「非科学的」という評価を下す者は、自身が最も非科学的なものの見方をしているのだということに気付いていないのである。

甘いぜ、自分…。

と、こんな所か。うーん、そもそも武術系の覚書なんで、ゲームについて書いているのは少ないのは当たり前ですけど、もうちょいネガティブな事も書いてたような気がするんだけどなあ。

まあ、自分の科学についての認識の変遷も発掘出来たので、よしとしましょうか。

ゲームを嫌悪していたと言いましたが、具体的には、ゲームによって凶悪犯罪に走る奴もいるだろうな、とか、ゲームがコミュニケーションを断絶するツールになるだろうな、とか、大人になってゲームをやる奴は幼稚だ、とか、そういう感じでした。なんか、書いてて頭が痛くなりますが…。覚書をつけ始めるより前なので、やっぱり記録はしていないみたいです。振り返って書いたものがあったかもな、と思ったのですが、ありませんでした。

認識が凝り固まっていた訳ですね。色んなもののせいにしたり、直感を一般化したり。おぞましいものですよ、そういうのって。

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もうちょい続く

もうちょっと続くみたい。一応、finalventさんは、追記を進めているようです。

さすがに関心が持続している方は少ないのかも知れませんが、エントリーを作ります。コメントがあればこちらへどうぞ。

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