世の中の右と左そしてうしろ 暗がりで笑う人をみたときや 銀行のATMで現金を取り忘れたときに なんとなく読むブログ
誰にでも触れられたくない過去というものはあるだろうが、そんな意に反して周囲はその過去を褒め称え、絶賛する。そうなってくると、過去を背負った当人はどんどんその過去が疎ましくなり、ろくでもないものとして封印したくなってきてしまう。
Organisationのこのアルバムは、まさにそんな過去の一つ。これがクラフトワークの前身だと知っている人がはたして何人いるのだろうか?
しかし、埋もれていた筈のこのアルバムを引っ張り出したのはクラフトワークファンであり、メンバー当人らは失敗作とみなしているにも関わらず、オリジナル盤が高額な値で出回ったり、いまだにブートが出たりしているのである。
このような現象を逆手にとって、まったくの失敗作を伝説的な作品にまで押し上げる方法というのをいろいろ考えてみたのであるが、結局はクラフトワーク並みの知名度が無ければそれは不可能なんだなぁと思い至り、馬鹿なことを考えていた数分の過去を僕は封印したくなったのであった。
SACDというものがある。これは、スーパーオーディオコンパクトディスクの略なのだが、従来のCDとはまったく別物と考えてもよいメディアだ。
このSACDはアナログレコードが40kHzであるのに対して、100kHzをカバーする再生周波数範囲と可聴帯域内120dB以上のダイナミックレンジを実現しているとのことで、確かに抜群の高音質を誇っている。
しかし、これとアナログレコードを聴き比べたとき、どちらの音が「良いか」というのは単純に好みの問題になってくる。おそらく、ずば抜けて音質のいいSACDと、従来ののアナログレコードを並べ、同じ音源をかけ、10人の人に聞き比べてもらったら評価は真っ二つに分かれると思うのだ。
これは音を好きになる基準が「音質」であるならばSACDを選ぶが、それ以外の質感を求める者はアナログを選ぶということだと思う。
では、音質的には優れていないアナログレコードの方を選んだ人は、どんな理由でそうしたのかといえば、「ただ慣れ親しんだ音であるから」ということであろう。
アナログレコードやカセットテープに慣れ親しんでいた人々の前にCDが登場したときも、アナログ派は存在していた。「アナログの方が音がいい」と言う人もいた。
たしかに、PILの「メタルボックス」なんかはオリジナル12インチ盤の凄まじい音圧を体験してしまったらCD盤なんて買えないだろうし、聞き比べても「アナログ盤の方がかっこいい」という意見が多いことと思われる。
アナログの性質とCDの性質は別物であるし、出る音そのものがやはり違うのだ。
だからアナログ盤の音に慣れ親しんでいた者にとって、SACDの音はまったく違ったものに聞こえると思う。逆に、今のCDしか知らない世代がアナログ盤を聴いて感動する、ということもあり得る。そんなとき、彼らの耳に聞こえているものというのは、自分の意識の中で理想としている音なのだろう。
高音質という概念が人によって違うんじゃないかと気づいたのは、かつてMDが発売されたときだった。
カセットテープを越えるかなりの高音質として売り出されたMDであったが、僕はカセットテープを愛用し続けた。いまだにハイポジションのカセットテープを使ったりしている。
なので、どちらが優れているかという話しになると、僕は答えかねるのだ。
音質がいいのはSACD、たしかに聴いても良い音質だと思う。だが、どちらが好きか? と聞かれたらやはりアナログレコードと答えてしまうわけだ。
僕は別にアナログマニアなわけじゃないし、細かい音響のことは分からないが、SACDの音よりもアナログ盤の音の方がしっくりくる。
案外、僕のような人間が多いせいで新しいオーディオメディアが受け入れられにくくなっているのかもしれないなと思うと、すこしだけ申し訳ない気分になったりもして…。
やはり続けようかと…。
コメント機能は完全に破壊されましたが(というより自分でいろいろいじって壊した)、本文のアップだけはまだできるようですね。
個人でやってるこんな小さなブログなのに、スパムの数は異常という。。
ちゃんと書きます。
音楽レビューばかり書いてるのにも飽きたんで、しばらくは別のコラムでも書いてみます。
例えば、毎朝見かける老人がいつもはジャージなのに今日はスーツだったとか、そういう日常のちょっとしたことを書く場所にしようかな、なんてね。
でも、僕の言うことは嘘かもしれないから気をつけて。
リュウジさんはビトウシャやココバットにもいたけど、ここで聴ける演奏がベストだと思う。
ADKからのソノシートということで、皆大好きなあの音。まさにハードコア。音がとにかくカッコイイ。
ザラザラしたノイジーな感触がいいのかな。センスも最高。
カセットの「LICENSE TO KILL」は聴いたことないが、このバンドの良さはもっと評価されるべきかもしれない。
「脳天ファイラ」という曲名を見て、聴いて、全国のパンクスは何を思っただろう。
この曲名を口に出すたびに、「ところでファイラって何語?」と決まって聞かれるのでここで回答しておこうと思う。
ファイラとはずばり中国語である。ちなみに「壊了」と書く。
脳天がぶっ壊れてお釈迦ですよ~、という意味を短縮すると「脳天ファイラ」なわけ。
脳天ファイラをそのまま中国語にすると「脳袋壊了」で通じます。
Sha-Londonを聴く上での豆知識。
ところで肝心の内容は…、まぁ、カッコイイので聴いてみましょう。
久しぶりにこのブログ書きます。
で、何を取り上げたらいいのか分からなかったのでひとまず王道なパンク・ハードコアで行こうと思いまして…、でまずは第4にしました。
一時期中古屋でよく見たこの盤も、今では高値の花となっていますね。1万越えるとか越えないとか…。で、内容はどうなのかというと、これがかなり良い(私的な好みの問題ですけど)のです。
ちょっと緩めで、マスベ風でもあったりするけどすかすかした感じが心地良く、変なパンクとしてではなくこれこそ正統派として聴かれるべきなのかも、と思うぐらいに重要な一枚です。
B面(正確にはA´面)の最後の曲とかは、よく暇なときにギターで弾いて遊んだりしました。
実はけっこう思い入れあるレコードなのかもしれません…。久々に聴きたいけどテープに落としたやつしかないのでそれで我慢。
ロイド・コールのポジションについては、このデビュー作を聴くとよくわかる。
ギターポップの重要作の一枚でありながら、あまり語られることの無いこの「Rattlesnakes」であるが、ロイド・コールという一人のミュージシャンを肯定するには充分な内容になっている。
美しさや演奏の強度ではなく、存在感としてのロイド・コールこそが最も語られるべき事柄のような気がするのは私だけだろうか?
このデビュー作は最近デラックス・エディションの2枚組でも発売され、DISC2には貴重な音源も収録されており、かなりの好内容。ソロになってからの彼もいいが、一枚選ぶとしたらやはりこの「Rattlesnakes」ということになるだろう。
80年代のギターポップ、という一言で終わらせてしまうにはもったいない一枚だと思うのだが、かといって最高なアルバムだ!! と言うのもなんだか憚られる。
ロイド・コールに触れたことが無ければ、まずはここからだが、これだけがロイド・コールでは無いので、後のソロ作品もぜひ聴いて判断するのがベストだと思う。
ぱっと見、ジャケが非常階段の「蔵六の奇病」と似ている。
どうでもいいけどね。
なにはともあれ、聴き所は4曲目のマイ・ファニー・ヴァレンタインだろう。
リッキー・リー・ジョーンズの一番作りたかったアルバムって多分これだろうな、と思えるくらいに自由奔放に空気が流れている。
眠れない夜にはこれ。もっと眠れなくなるけど、それでも聴いてしまう叙情性は良いものだと思う。
どこか垢抜けきれていない感じのヒリヒリしたうたがまた心地良かったりもする名盤。
ヒップホップのビートがここまでヒップホップ的でなくなることも感動だが、エレクトロニカと言われてもピンとこないぐらいに自然に聴かせる展開が絶妙。
人懐こいメロディがあったと思えば、深く抉るような音も飛び出すし、やはり名盤と言われてきただけのことはある一枚だと思う。
あと、ジャケが怖すぎる。表情の無くなった人間がここまで不気味なものだとは思わなかった。ものすごく不安な気分にさせられるので、怖くて夜は直視できないジャケである。
だが、これを聴くとよく眠れるので、ここ最近は寝る前によく聴いてたりする。ジャケを見ないように気をつけながら…。
68年、ファズの鳴り響くヘヴィなサイケ。
どことなく情緒を感じる。アシッドだけでなく、わりとひりひりしたブルース風の展開もキマッている好盤だが、あまり人気は無いみたいで、すぐさまCDショップから姿を消した一枚。
今でも海外の通販とかでは買えるらしいので、こういうファズの効いたハードロックが好きで好きでたまらないという人にはぜひオススメしたい。
こういうアルバムはまともなレビューとか書けないなぁ…。
地下鉄で歌う=アンダーグラウンド歌姫、という安直かつ偽りの無い図式を実際に完成させたのがこの人だった。オルタナ全盛の当時、この飾らないポップさがそこそこ世間に受け入れられたことを考えると、やはり偉大なSSWの一人として意識してしまう。
Mary Lou Lordは日本での知名度こそ低いものの、その素晴らしいソングライティングのセンスには当時誰もがやられた。最初のミニアルバムでのアコギ一本にやたら可愛い声のアプローチが最高だったのだけれど、このアルバムではより一層ポップにまとめあげられていて、かなりの完成度。
街中でMary Lou Lordが歌う風景のナチュラルさに気をとられ、地下鉄に乗り遅れることは一つの幸福なのかもしれない。
日本のパワーポップ名盤の、五本の指に入るであろうシングル。
このデビューシングルの時点ではまだ横浜銀蝿の妹分的な位置にあったためか、楽曲もTAKUによるロックンロールベースのポップスでノリノリ。当時14歳ということもあって、甘すぎるリアルロリータボイスも衝撃的である。しかも何気に歌は上手い方。
何せ14歳で武道館を満員にしたのはこの岩井小百合だけだし、いまだにパワーポップマニアの間では伝説の存在になっている(と、思うけど私だけ??)。
最近になって突如岩井小百合ボックスなんていうとんでもなく素晴らしいモノが発売され、私は即買ったわけだが、後期の楽曲も良く、「アウトバーンより愛をこめて」とか「ときめきの海」も泣ける。
ボックスには伝説の武道館ライブの映像も収まっているので、岩井小百合ファンならこれは何がなんでも買うべきだと思う。
かつて、このシングルを聞きまくった夏、私はパンクに目覚めた。そのせいで「ドリーム・ドリーム・ドリーム」の振り付けを完コピしてたなんて誰にも言えない。
82年になぜこんなスタイルの音楽をやっていたのかはまったく謎だが、とにかく極上のアシッドフォーク。
この人間離れした、年齢や性別など一切感じさせない歌声は一体何なのだろうか?
色んな意味で怪盤である。
彼にとって、音楽とはなんだったのか? また、サイケデリックムーブメントに10年以上遅れて登場してしまったことをまったく気にしていないその孤立感はいったい何を根拠にしているのか。
謎に包まれたBOBB TRIMBLEであるが、アルバムタイトルの通り、夢の収穫のようなサウンドが全ての解答であるのかもしれない。
ひたすら透明な、向こう側の歌である。
謎に包まれた一枚。
奇怪なニューウェイヴ・パンクだろうか? 日本のゼルダに近い雰囲気もある。
なんか農場の納屋で練習したとか書いてあったけど、もっと都会的な香りもしなくもない。
完全に歴史に埋没してしまっているバンドであるが、そのまま放っておくのももったいない魅力があるので、どこかで彼らの音源に触れることがあったら聴いてみてほしい。
決して絶賛できるようなものでもないし、かといって見過ごすにはもったいない、なんとも不思議な音楽である。
79年ぐらいのパンクの薄暗さを求めているならば、これは一つのテキストとしてもってこいのアイテムであるかもしれない。
SRBのボックスが発売されたが、その六枚よりも激しいのはこの「Strikes Like Lighting」。
ボックスを凌駕するブート盤なんてこれぐらいのものだろう。
オリジナルは私も持ってないので、ダビングしてもらった「CITY SLANG」が途中で切れる音源でしか聞くことができないが、それでもこれは最高である。
SRBの激しさは多分この一枚に全て入っているし、割れた音質とややピッチの違う感じも荒々しくて気持ちがいい。こんなにカッコいいロックアルバムは滅多に無いと思う。
フレッド・スミスのギターがバキバキに鳴るこの音楽を聴いてなんとも思わない、という人とは友達になれそうもない。それぐらい桁違いのロックンロール。
ブログECHOES2007のTKさんも書いていた通り、ロックの本質が見えてきて、ジャンルやら音楽性なんてどうでもよくなる。これは紛れもない、本物のロックだと思う。
また、とげとげしい危険な肌触りがクールでもある。SRBというバンドの不良の香りみたいな雰囲気はさすがデトロイトだなぁ、とは思うんだけど、それ以前にロックって本来こういうものだったよね! という久しぶりの感動みたいなものが襲ってくる演奏が心を躍らせてくれる。
ボックスも出たのだから、このブートもまたCD化されてもいいんじゃないかと思う。
すべてのロック好き、ロックンローラー、ロックマニアは必ず聴くべきバンドである。
衝動を詰め込んだ音。
加速していくことの純粋なかっこよさは不滅である。
選挙ポスターに落書きをして楽しむ小学生のような、無意識でストレートなアナーキズムが充満している大傑作。
考えずに、やれ。ということだったんだと思う。
ひたすら突っ走るボストンの狂気的なファストコア。この時代にこの音!! と驚くもよし、純粋に加速に身を任せるもよしの素晴らしい一枚である。
最近再発されたらしいので、比較的簡単に接することが出来るというのもまたいい。
エリオット・スミスは2003年に、胸に刃物をつきたてて亡くなった。
死に理由を求めるのはよくないことだが、彼の死はショッキングであった。
恐ろしいぐらいに美しいソングライティングのセンスは、エリオット・スミスのアルバムをどれか一枚聴いてみればすぐに体験できる。特にこのアルバムはまとまっており、私は繰り返し何度も聴いた。あれは2000年のことだ。
アビーロードスタジオでの録音ということもあり、ポール・マッカートニーを思わせるメロディも随所に見受けられるが、エリオットのメロウな感覚はやはりオリジナルである。
暗くてドラッギーな世界を描いていたエリオットであるが、それらは全て身近な要素だけで構成されており、自らの内面からずるずると引きずり出される。
近年稀に見る存在感のsswだっただけに、やはりその死は喪失であった。
最近になって、またエリオットの未発表曲集『New Moon』が発売されるらしいが、なんだか聴くのが躊躇われる。
彼もまた、伝説になってしまうのだろうか?
ヒリヒリする感じ。摩擦感。
ゆっくりと沈む空気の中でそれがやってくる。
言葉の出し方が独自のステージからのものなので、従来のロック感覚を求めてしまうと不意打ちを食らう一枚。
ものすごく特異な場所に到達してしまっている。
山本研二のソロは更に深く突き進んでいるので、先に聴くならここからだと思う。
何も言うことはない。
音楽が好きな人が作った音楽がここまで心地良いと、感動を通り越した何かを感じる。
雰囲気やインパクトではなく、落ち着いた安心のようなものを提供するのもまた優れた創作なのかもしれない。
ここには、スウェルマップス時代の奇抜さはなく、ただひたすら真摯なバラード風の作品が並んでいる。若いリスナーには受け入れられないかもしれないが、エピック・サウンドトラックスという一人のミュージシャンの優れた才能は充分に籠もった一枚だと思う。
何か安心して聴ける一枚を探しているなら、このアルバムがオススメである。
久しぶりにハードコアが聴きたくなるときもある。が、そんなときに限って何を聴こうか迷ったりする。
レコード棚からあれこれ引っ張り出して、ジャケを眺めたりした後、結局聴くのはこういった元祖ハードコアだったりするわけだ。
TOUCH & GOの看板バンドでもあるFIXの、これは編集盤。無難な選択として自分がよく聴くのはこれである。
80年代のミシガン州には、こんなバンドがいた。それだけで充分だと思う。
このアルバムの良さは、何も思い浮かばないときになぜか手が伸びて、聴いてみるとスカッとした気分になれるところであろうか。
USコアファンなら皆聴いているであろう一枚だが、あえてこういうアルバムを聴きなおすというのもまた再発見なんかもあっていいかもしれない。
Morning Dewが流れると、暖房もつけていない冬の部屋が、途端に春めいてくる。
暖かみというのは、こういった雰囲気からでも感じることができるのだとわかったとき、BONNIE DOBSONは途端に消滅したりもする。
本作あたりから、バラエティに富んだ味付けが増してきており、これの次にリリースされた「Good Morning Rain」ではフォークロックのポップ性をさらに拡大することに成功している。
フレッド・ニールのEverybody's Talkin' や、ディノ・バレンテのLet's Get Togetherもカバーしているが、自作曲の空気作りが抜群なので、まとまった印象のサイケ・フォークアルバムといった感じである。
本作はいわばまったくヒットしなかったBONNIE DOBSONの再起作というか、ようやく陽の目を見たシンガーソングライターが全力で作ったアルバム、と言えるかもしれない。
Morning Dewはデッドもカバーしていたけれど、やはりオリジナルは純度の高い名曲である。
おれは、あんたのひまつぶしかい?
このときの宮沢正一は、まだフォークシンガーとしての味を持っている。後の人中間で聴けるような闇の世界も、ラビッツのふっ切れたような勢いもほとんど無く、ただただ、日常のスキマから滲み出した茶色い染みを指で擦るかのような渋みと、薄暗い叙情性をオーソドックスなサウンドで聴かせる。
キリスト~、のような薄暗くも美しい世界の構築もここではまだ行われてはいないが、ラストの「音をたてて出ていったものたちへのさいごのうた 」では後の宮沢正一に通じる暗黒面がしっかりと確認できる。宮沢正一という人物の遍歴を知るには重要なレコードの一つであるが、再発の予定は無いという。
この、一聴したところ友部正人をも彷彿とさせるカスレ声のフォークアルバムは、プライベート盤らしいというか、どこかこじんまりとした印象をもってひっそりと横たわっている。
晴耕雨読なスタイルでの臨死体験か。
やわらかいファンタジーの装飾があったとしても、根底ではまったく作為的ではないものの影響が大きく表出している気がする。
マーク・フライの名がアシッド・フォークやドリーミー・サイケ好きの間で騒がれていたのは、何度も色々な形で出されるブートでも分かるとおりだが、正式に再発された今もなお、その良質な音楽が評価され続けているというのは、やはりここにある世界が本当に良いモノだからだろう。
不思議なノスタルジーと心地良い音色を期待して聴くと、意外にバキバキ弾くギターの音のかっこよさに少し戸惑う。だが、そこがまた良い。
このアルバムはある種の理想であると思う。ソロでアルバムを作るならば、誰しもがこんなアルバムを作ってみたいと思うのではないだろうか。
断片的に挟まる曲、DREAMING WITH ALICEの滑らかな感触がこのアルバムをここまでの名作にまで昇華させている気がする。
The Red Crayolaに衝撃を受けた後に本作を聴き、Mayo Thompsonの世界にどっぷりとハマッた。
なんとも不思議によれよれした状態で漂ううたがなにしろ強烈。牧歌的ではあるかもしれないが、不思議と酩酊するような毒がしっかりと混入されている。
ここまで美しくもひねくれた演奏というのはなかなか聴けるものではない。まさに歴史的な名作だと思う。
フォーク的なサウンドではあるけれども、The Red Crayolaでのメイヨとまったく違うというわけでもなく、同じような精神性は確実に存在している。
これが苦手だという人がよくいるけど、たぶんカッチリした演奏とか、しっかりした構成の楽曲じゃないと聴けないタイプの人なんだと思う。聴き手も、もっと自由に聴いた方が楽しめるのに、と思ったりもするのだが…。
現役保母さんシンガーとして二枚のアルバムと三枚のシングルを残して突如消えたチャッピーこと中島世津子さんは、今は何をやっているのだろうか?
とにかく、このファーストで聴ける珠玉のメルヘンポップは絶品である。
谷山浩子にも通じる部分はあるものの、一曲目「fall in love」の痛快なR&Bパワーポップに乗るエコーの効いたチャッピーの声は間違いなくアイドル的であった。
とにかく情報が無いわけだが、音のメルヘン屋のプロデュースで限られた枚数のみプレスされたことだけはたしかである。チャッピーがどんな音楽に触発されていたのか、どんなプロフィールなのか、知っている人はぜひとも教えてほしい。
日本の自主盤やかつてのパンク・ハードコアの名盤がガンガン再発されている昨今、こういった自主ポップにも目を向けてみては、と思うのは私だけだろうか?
そこいらのB級アイドルは絶対にチャッピーのような深みを持ち得ないであろうし、ここまでドリーミーサイケに近づいた歌謡曲というのも珍しいと思う。
未発表曲やデモ音源があれば聴いてみたいが、たぶん無いだろう…。
私の中ではすでに殿堂入りの名盤である。
純粋であることを選択したとき、そこにはある種の速度が生まれる。ひたすら美しい情景を突き詰めていく姿勢は、ものすごく速い。
鈴木一記の声は独特のトーンであり、男性なのか女性なのか、子どもなのか老人なのかも判別できないような超越感がある。人間離れした、とはまさにこういうものを喩える時に使用される言い回しなのかもしれない。
1976年に自主盤としてごく少数流通した本作は、30年の月日を経て突如CD化された。熱烈なファンの青年が鈴木一記の遺族を訪ね、CD化の承諾を得たのだという。
私はこのCDを出した人物を知らないが、彼の姿勢と行動力に感謝の気持ちでいっぱいだ。この作品は多くの人に聴かれるべきものだとは思わないが、熱烈に聴きたいと思っている者が聴けないという負の状況を打開したという意味で、素晴らしいリリースだと思う。
本作の繊細すぎる世界は、まさに天才の遺した芸術品であるかもしれない。ただ、我々がこれに接したとき、我々は純粋にこの世界に打ち震え、心を揺さぶられることこそが、鈴木一記という存在をきちんとしたカタチで伝説化する手段だろう。
故人である天才的人物を伝説化することは決して悪いことではない。ただ、そこに誤解や曲解が混入してしまうと、伝説ではなく虚構の肥大となって、作品に触れたことのない人々の好奇心を間違って刺激してしまう恐れがある。
このCDはごく少数の流通ルートしか通していない。私はそれが逆に正しいやり方だと思う。オープンにし過ぎてこんなに素晴らしい音盤が「商品」として気軽に扱われてしまうのは、なんだかもったいないような、そんな気がするし、やはり聴きたいと思った人が手に入れることができる環境さえあれば、この作品が埋もれてしまう、という最悪の事態だけは防ぐことができるのだ。だから、今回のリリースはまさに理想的な再発のあり方だったと私は思う。ブランコレーベルの方は偉大だ。
鈴木一記の世界は美しく、純粋なものであったまま凍結されている。我々はそれを覗き見て、その素晴らしさに感動しさえすればそれでいいのだ。
余計な詮索や批評などを行ってしまったら、せっかくここまで繊細なガラス細工のように佇んでいる世界を破壊してしまいかねない。だから、ただ耳をすまして、彼のうたを聴けば良いのである。
優しさと儚さ、冷たさと暖かさに満ちた音楽。
私は一曲目ですでに鳥肌が立った。
ホンモノのうたというのは、そういうものだから。
このアルバムの突き抜けたマイペースさ、それまでの実験精神すら放棄したかのようなほのぼの具合はきわめて霊的である。
一曲目、「Parties in the U.S.A.」からいきなりのんびりした情景が飛び出し、隠れた名曲「You Can't Talk to the Dude」なんかも痺れるロック具合。ロックが本来あるべき素の状態をそのままポン、と出している。
名曲も多く、聴けば聴くほどに味の出る好盤であるものの、あまり話題に出ない一枚なのは、ジョナサンリッチマンの本質部分が本当はどこにも無いんじゃないのか、という恐怖が無意識に働くからであって、決してそのロックンロールが虚像だからではない。
ジョナサンの曲が底抜けに「ジョナサン・リッチマンの曲」であらんとするようなインパクトを保持しているように聴こえるのは、しっかりとした芯のような本質が存在しているからであって、一見奔放に放出されているようなサウンドも、しっかりとジョナサンの精神を孕んでいるものだということを認識してから聴きたい。
ここで聴けるジョナサンの歌はあまりにも剥き出しで、時に恐怖すら覚えるが、そうでなくてはロックンロールなんて意味が無いのかもしれない。
ホンモノのレア盤としてよく話題に上がる本作。現物は見たこともないが、あったとしたら信じがたい値段がつくそうな…。
某海外レーベルより半分ブートみたいな感じでちゃっかり再発されていたが、それももうほとんど売り切れらしく、結局また聴きたいけど聴けない、という人が出てきそうな予感がする。
内容はかなり良質なサイケデリック。わりかしドラマティックかつやわらかめな質感。何度聴いても美しい音楽だと思う。
Tomoaki Kamijoという人がミュージシャン気質な人物だったのかどうかは知らないが、かなり完成度の高い楽曲が並んでいる。ボーカルも味があり、翳りのあるメロディがなんとも渋い。ファズのかかったギターも鳴るが、全然うるさくなく、統一された静かな風景がより一層クリアに見える仕掛けには「はっ」とさせられたり。
これものんびり家でごろごろしながら聴きたい一枚である。 が、朝から聴くと、まったりし過ぎて家から出られなくなるので注意。
日本のロック史上にうっすらと輝く名盤。
ルイ・フィリップの一枚目は、あまりにも美しいアコースティックな直感で紡がれている。
後の鋭くなっていくポップセンスもいいが、この時点での限りなく静かで、色彩を封じ込めるような音の発せられ方にやはり惹かれてしまう。
とびきり優雅でありながらも、かつての60年代のポップミュージックから得られたエッセンスはきちんと消化していることがよくわかるこのアルバムは、革命的な衝撃というよりは、アイディアの素晴らしさを感じられる好盤といった趣である。
今の季節、部屋でゆっくり紅茶でも飲みながら聴くには、これほど最適なアルバムもない。
最近になって紙ジャケ再発されたCDには、ボーナスで大人気曲「YOU MARY YOU」が入っているが、個人的にはボーナスは無くても好きな一枚である。
YOU MARY YOUは名曲だけど、あれだけがルイ・フィリップというわけではないので、できればフルで聴いてほしいミュージシャンである。
King of Luxembourgことサイモン・フイッシャー・ターナーの持ち味としては、自分の趣味を全開にして一つの世界観を構築するところがずば抜けて優れている点が挙げられる。
趣味の良い60年代ポップスの再構築。
ただそれだけのことなのかもしれないが、彼の技術とセンスはとてつもなく研ぎ澄まされていた。
このアルバムをはじめて聴いたとき、あまりの密度の濃さと、その恐るべき統一感に感服した。まるで何かのボックスセットでも聴いたような、濃厚で大量の情報がぎっしり詰まった音楽。
彼の才能はしかし、ほとんど日本でのみの評価らしく、海外ではかなりマイナーな扱いになっているというのが信じられない。これほどまでに完成度の高いポップスが一過性のブームとして片付けられてしまうことが最も切なく、悲しいことだ。
と、思っていたら昨年本タイトルを含むelレーベルの作品群が紙ジャケ再発され、値段は高いものの、誰でもすぐに買えるような流通になったことが素晴らしい。
まだ未聴で、こういった音楽をこれから聴いてみようと思っている方には絶好のチャンスであると思う。
また、探せばアナログ盤も安い値段で売られているので、私のように金銭的にキツイという方には根気良く中古盤の棚を漁ることをオススメする。
ヴェルヴェット・クラッシュの前身ということで有名な一枚だが、ヴェルクラよりもいい意味で軽くポップな感触が爽快な編集盤。
これは好きで、なぜか再発盤LP(ジャケ違い)とCDと両方持っているくらい個人的にハマッた一枚だったりする。
サブウェイというレーベルにおいて、まずこのアルバムを思い出すという人も多い筈だ。
キラキラしたポップな音楽。ギターポップの理想型の一つだと思う。
こういったどこか壊れそうな繊細さと、それをおかまいなしに突っ走る無茶さが同居した音楽はとても清々しい。
こういうのを青臭いとか子どもっぽいと思うなら聴かなくたっていい。ただ、こういった音楽を今聴くということで、それがなんらかの前進となるならば、ずっと聴いていたっていいと思う。
廃盤だが掛け値なしの、最高のポップミュージック。
East Village、この前突如再発されました。
もちろん買ったわけですが、オリジナルで聴いたことがなかったのでかなり新鮮に楽しむことができ、そのクオリティの高さにびっくりしました。ただ、ちょっと値段は高かったですが…。
内容について言うと、完璧なセンスなのに、わざと地味な方へ突き進んでいくような、変なおもしろさがあるギターポップです。
ジャケから連想するようなストレートにポップな感覚は求めない方がいいでしょう。ちょっと上級者向けですので、試聴してからご購入をオススメします。
音自体はかなり良いですし、アイディアも豊富でゆったりしたサウンドなのですが、一人でゆっくり聴くのがベストです。あまり批評できそうな内容でもないので、ひとまず聴いてみて欲しい一枚です。
こういう地味路線狙いみたいな音楽は大好きなんですが、なかなか共感してもらえないもので、こういう場でないと好きだということを表明できずに困ってしまいます。
まぁ、一人でこそこそ楽しめば良いんですけどね…。
以前「牛若丸~」について書いたけど、こっちについて書いてなかったので書いてみる。
結局私は「牛若丸~」を貧困のために下北沢ディスクユニオンに売り飛ばしたわけであるが、こちらの方もだれか知人に貸したまま行方不明だったりする。
ただ、死ぬほど聴いたアルバムであるし、思い入れは半端じゃない。
よく言われる「ポップすぎる」「音が歌謡曲みたいだ」などという意見はどうだっていいと思う。北田氏のギターに町蔵の声が乗っかればそれでINUなのだから、不平をもらしてはいけないだろう。
北田昌宏氏のギターは本当にかっこいい。かなり影響を受けたし、ライヴのときはしょっちゅうチューニングを直すという部分も好きだ。あんな弾き方していたらそりゃぁチューニング狂うだろうけど…。
ここには入っていない「ハンバーガー」や「金魚」など、後期は名曲もあっただけに、それらをきちんとしたサウンドでスタジオ録音しておいて欲しかった、という思いは誰しもが抱いたことであろう。
しかし、それでいい。不満を言ってはいけないのだ。
INUというのはそういう音楽であり、バンドだった。
一切の意見を力任せにねじ伏せるのではなく、理解不能なパワーによって無効化させるような、不思議な状態を生成していたと思うし、演奏が始まったらあの尋常じゃないテンションなのだから、我々がどう思おうとINUへ与える影響など皆無なのである。
北田ギターの真似をしたパンクスのギター少年たちは一体どれほどの数いるのだろうか?
自分はもうどっぷりはまって毎日耳コピに勤しんでいたわけであるが、表題曲『メシ喰うな』なんかはどうやったってあんなのコピーできる筈もなく、かなり苦しんだ。まぁ、近い音を出せるまでには成長したが、音感が無いので完コピは今でも不可能だしする必要もない。
ともかく、北田ギターはすごい。そして、そのわりにギター少年たちは彼の存在を知らなかったりして残念である。連続射殺魔の和田氏、スラッヂの片岡氏と並んで、私の中で北田氏は日本のギターヒーローだったりする。ちなみに他にはガセネタの浜野氏、ラリーズの水谷氏など。
本作ではライブのときのような荒々しさや、INU本来の狂気に満ちたグルーヴは無いのであるが、それでもかなり重要な一枚であるといまだに思っている。
町蔵のボーカルはこの後の方が研ぎ澄まされてくるのであるが、それはまた別の日にでも。
遅ればせながら明けましておめでとうございます。
今年もゆっくりやっていこうと思っています。
現在、オークションで1万円以上するという本作も、数年前は下北あたりで中古盤が500~1000円で買えた。今でも、ブックオフあたりなら間違えて安売りされている可能性もありそうだが…。
発売当時、すでにいろいろと評判を聞いていたし1000円でお釣りがくる金額だったために買ってみたけれど、どういうわけか全然聴かずにそのまま奥底へしまいこんでしまっていた。
今回、とある方から本作のことを書いてほしいとリクエストをいただいたので、久しぶりに引っ張り出し、改めてプレイヤーにセットした。
デジタルな音で行われるサイケデリックな演奏。と書くと誤解されそうだが、当初の印象はそんな感じであった。極めて現代的な、2000年代のポップ・プログレかな、なんて軽く考えていたわけだ。だからこそろくに聴かずに実家の奥底へ封印されてしまっていたのだけれども…。
ところが、今回聴き直してみてびっくり。深いし、はじめて聴いたときのデジタルなイメージはまったく無かった。どうやら数年前の自分は耳やアタマがおかしかったようだ。
BOaTというバンドについては、ここに経歴やらメンバーに関してを書くのはやめておく。余計なデータは知らないまま、音に接した方が私のように妙な印象を抱いたまま封印するようなことは回避できるだろうから。
本作の緻密な音の動きは、同時にポップなメロディも抱き込んでおり、サイケデリックに似たゆったりした酩酊感を提供している。
黒、と来たらすぐに緑を。赤、ときたら黄を。という具合に、識別した瞬間に別の回答が投げられるような感覚が延々と続いていて、なおかつリラックスできるような仕組みである。
忙しいのにゆったりできる。一見矛盾しているようだが、心地良いスポーツのあとのような感じを想像してもらえば伝わるかもしれない。この音楽は、未来的でも無ければ、古のサイケデリックでもない。ただひたすら現代的であり続けることの美しさを、演奏として残している大傑作であるのだ。
できればライブを見てみたかったというのはあるが、これ一枚あればもう自分は満足だ。
かつてのフリージャズ、かつてのロックンロール、かつてのサイケ、それらの名演と同じ位置に立てるだけの存在感を今出すには、徹底的に現在の音楽、演奏であることを誇示すれば良いのである。過去の模倣や真似ごとではなく、現代的であることを選択した彼らに、私は拍手を送りたい。
ただ、私は気づくのが遅かったわけだが…。
どこにカテゴライズしていいのか分からないのは、このアルバムでのコウジロウ氏のギターがハードロックテイストだったりするからで、エレキブランというバンドの幅広さを思う存分体験できる大傑作。
前作のトマトのやつもいいんだけど、やっぱり一枚選ぶとしたら本作だろう。
やたらと上手いギター、ポップな感触、少しねじまがった歌詞。
エレキブランは特殊でセンスのいいバンドだったと思う。
Lovely morning and I love youのような、テープにしか入っていない曲もCD化してほしかったものだが、あまりにも突然の解散でびっくりした記憶がある。特に、メジャーの最後の方は方向性も変わってきて、次にどんなアルバムが来るのか気になっていた時期でもあった。あと一枚、アルバムを出して欲しかったというのが正直な気持ちである。
末永く続けていて欲しいバンドというのはすぐになくなってしまう。エレキブランもそんなバンドの一つだった。
ビクターからデビューせずに、ずっと自主でつづけていたら。。
そんなことを考えたファンもたくさんいることだろう。エレキブランの曲を聴くと、やっぱり切なさを感じてしまうし、ギターが弾きたい気分になる。
たまに、中古で安くエレキブランのCDが売られているのを見かけると、持っているのに手にとって眺めてしまったりする。
それは一体何の未練だと言うのだろうか?
有名なレコードほど書く気力を失うものもない。
たとえこんな個人のブログであろうと、読み手を意識してしまうとどうにも気取ってしまい、まともな文章やカッコイイことを書かなくては!! などと意気込んでしまうため、結局くだらない感想文に終わってしまう。
このレコードだって、もう売ってないだろうし、ソフトロックブームの時にはちやほやされたけど、今は中古ですら見かけなくなった。
ブーム当時、かつての名盤ということで、このレコードは大絶賛された。
あの時「アソシエイションすげーって」とか言ってオシャレぶっていたフリッパーズもどきみたいな奴らは、今何を聴いているんだろう? ちなみに私は今でもこれを余裕で聴く。聴いてもすぐ忘れるという能力のおかげで、何万回もこれを楽しめるし、聴くたびに「アソシエイションいいな~」などとにこにこ笑顔だ。
結局、こういうポップで素晴らしいレコードは一度名盤とされてしまうと誰も聴かなくなるのかもしれない。
今の10代でロック好きな若者は果たしてこれを聴くだろうか?
そして、聴いたとして心の底から名盤だと思い、自分でソフトロックを演奏するのだろうか?
私の知っている限り、現在の若者バンドでアソシエイションの影響を受けているものはほとんど無い。プライマル・スクリームやニルヴァーナが好きな若者はいても、アソシエイションやフリーデザインでロックを始める者は極マレなのである。
だからこそ、そういう方向から新しいものが発生してほしいな、とは思うのだが、どうだろう?
言葉がいらない状況とは、ここにあるような饒舌な静謐さのことを指すのだと思う。
無意識的な知覚を刺激していく工程の中で、必要となるであろう要素の断片が静かにゆっくりと浸透してくるような、一種の自己啓発空間を演出することもできる音だ。
Andrew Chalkの「East of the Sun」は、三種類あり、一つはオリジナルカセット、もう一つはそのカセットの完全復刻として最近リリースされたCD、そしてこの画像の少し特殊なカタチでリリースされたCDである。
三種の中で、僕はこのアルバムに最も強い思い入れがある。
まず、ジャケットに惹かれた。この森と空のコントラストの美しさ。思わず手にとって購入したのが7年ほど前のこと。そして、再生した時に聞こえてきたあの期待を遥かに上回る信じられないぐらい繊細でダイナミックな音。
Andrew Chalkを音響・ドローン系のアーティストの一人だなんて僕は思わない。ここにある呼吸のような感触のダイナミズムと、光と闇を交互に編みこんでいくようにスケッチされた風景こそが、彼の世界の本質なんだと思っている。
しみったれた叙情性を確実に破壊せしめる怨念形のパンクである。土着的なデカダンスを前面に押し出したとき、たいていの三流バンドならばただの「湿ったパンク」で終わってしまうところを、あざらしはサウンドの持つ深さと鋭さを身につけることによって簡単にクリアしてしまっている。
中途半端なコンセプトは笑いに転化しかねないという危険性を帯びているが、あざらしには徹底したある種の職人意識というか、しっかりとしたイメージの固定が貫徹されているめがゆえに、純粋にカッコイイバンドとして体験することができるようになっている。
本作では以前に比べてテクニックの向上がみられ、世界観をより一層広げることに成功している。東京は高円寺20000Vで行われたライヴも、パンクバンドとしての勢いを充分に感じさせる見事なステージングであった。
いつかメグ子嬢には和風ドローンノイズサウンドをバックにポエトリー・リーディングスタイルでソロ作品を発表してもらいたい、というのが私の夢だったりする。初期のカレント93の和風版のような感じで。そのときには私が機材かついで北海道まで行ってもいいかな、なんて思っている。それくらい作ってみたい。
今後が楽しみなバンドである。
また、本作「アザラシイズム」は作品として完成度の高いものであるし、数量も限られているので未聴の方はぜひ早めの入手をオススメしたい。
今もっとも再発が望まれているバンド、RAP。
シティロッカー(ドグマ)リリースゆえに再発が困難というのはなんとも歯がゆい感じだ。
一つの提案としては、未発表の録音、ライブ、スタジオ別テイクなどをまとめて、新譜として出してしまうというのもアリだと思うが、やはりファンとしてはオリジナルのリマスタリングという形でCDになってほしいものである。
さて、本作HYSTERIAは、それまでのRAPよりも音質が向上したように聞こえる。それもそのはずで、シングル3枚は8トラックレコーダーでの録音だったのに対し、本作は16トラックでの録音になっているため、音の幅は広がっている。
楽曲もそれまでのRAPのイメージを変えることなく、コンセプチュアルにまとめあげられており、何度聴いても傑作であるとしか言いようのない完成度だと思う。これがラストになってしまったのが本当に惜しい。
サウンド的な面では、RAP特有の曇り空のようなファンタジーに加え、ソリッドなロックの勢いも加速しており、各楽器の音もタイトに聞こえる。理想的なロックアルバムだろう。
個人的にROUGEさんのファンだからかもしれないけど(すげー好き)、ROUGEさんってヴォーカリストとしてものすごく華やかさのある人だと思う。詩も独特の味のあるメッセージを持っているし、注目されて然るべき存在だと思うのだが、まだまだメディアの力が弱くて、RAPがどんなバンドだったか、を広く伝えようという音楽雑誌などが存在していないのが残念で仕方ない。
ただ、ここ最近になって熱心なファンの方々がブログやサイトを立ち上げ、RAPの良さを伝達しようというムーブメントが起きている。私はそういう声を無駄にしてはいけないと思うし、どんな形であろうとそれを行う意志というのは美しいと思う。良い音でRAPの曲を聴いて、今の若い世代にもその凄さを伝えたい、という気持ちって、リスナーという立場において最も純粋なものだしね。痛いほどよく分かる。
最後にROUGEさんに教わったベストなRAPの曲順というのを紹介しておきたい。実際私もこれで聴いてみてすごく良かったので、皆さんにもオススメします。
再発されたらこの順がいいなぁ。
「ロックマガジン」
「アクシデンツ」
「飾り窓」
「空間のあなた」
「迷宮」
「直情径行」
「NOT FOR SALL」
「RAPOUT」
「レジェンド」
「輪廻」
「ランドスケイプ」
「ヒステリア」
「マタニティブルー」
「麻酔/魔睡」
ラストに「麻酔/魔睡」 が来るのがポイントです。できれば歌詞カード見ながら聴いてください。RAPの世界観がよく分かります。
本当に、再発が望ましいバンドなので、私も陰ながら応援させていただきます。
NWWなどの入ったコンピ。
なかなか見かけなくなったレコードですが、個人的に思い出の一枚。ここにある病的な音に、10代の頃は本当に驚き、興奮した。こういうやり方もアリなんだ、こういう音をレコードにしてもいいんだ、という可能性の広がり、もしくはフリーという幅の大きさを思い知った。
ノイズは苦手という人の90パーセントが、きちんと作品と対峙していない、言わば聴かず嫌いな方だというのは私の勝手な妄想だけれど、事実そんな気がする。
優れた作品が何なのか? 最低な作品が何なのか?
それらを判断する能力は、やはり音そのものに触れていかなければ獲得しえないものだと思う。
こういったレコードを聴いて、自分なりの考えを持てたなら、それが賞賛であれ批判であれ、素晴らしい結果なんではないだろうか。
義務教育にぜひ導入すべき一枚。
レアフォーク。ところどころにサイケな香りあり。67年録音、68年発売のカナダの名盤。
いきなりボブ・ディランのBaby Blueのカバーから始まるものの、声が気だるい感じで実にゆったりと聴かせてくれるアレンジになっている。
レナード・コーエンのカバーもさらっとした質感でやってのけるし、レア盤にしておくのはもったいないぐらい聴きやすいサウンドである。
何年か前にCDで再発されていたので、今も探せば見つかると思う。オリジナル盤はまず見たことありませんが、あったとしても高価なのでCDで入手することをオススメしたい。
と、こういう普通のレビューを書いていると「前みたいな批評っぽい感じで書け!」というリクエストなんかもあったりして、最近はブログ更新が遅れまくっている。
現在、音楽レビューはただ上記のようにレコードの紹介をするもの、個人的な感想を書くもの、そして批評するものの三つに分かれていると思う。特にこういう個人のブログでやっているようなディスクレビューというのはたいていが紹介や感想であって、批評は行われていない。
音楽を批評することにはそれなりの意義はあると思うのだが、それを選択して、一円にもならない個人のブログ内で展開していく、という人は見たことがない。
きっと、現代では音楽批評はできないんじゃないかと思う。
それは、個々のリスナーが充分な批評を自己完結的にできてしまうからではなく、ただ単に情報の氾濫と、山のように毎日どこかで発売されている音源の量があまりにも多すぎて、聞き手の認識から批評というものが抜け落ちてしまっているからだと思う。
いま間章のような書き手がいたとしても、音楽出版社はその批評家を無視すると思う。そして、代わりに情報だけを抽出して紹介できるライターを量産していくのだ。
今たとえば、浜崎あゆみの新譜とこのJEREMY DORMOUSEが同時に並んでいるとして、同じ人物が両方のレビューを書かなければならないという状況のとき、浜崎とJEREMYを均一化してまとまりのある文を書くためにはやはり「紹介」というスタイルを読み手も書き手も編集者も選択してしまう。ここでちょっと先鋭的な批評家が両者をガチで論じたところで、読者は読まず、編集者は勝手に文を改竄し、批評という文化は廃退していくのである。
それは何か寂しい気がするが、世間はJEREMY DORMOUSEのレコードにいかなる霊性が在るか? ということよりも、それが何年にどこの国から出て、どんな曲が入っているのか? という方に興味があり、メディアはじゃあその知りたい部分だけをご紹介しますよ~、という姿勢で読者のニーズに合わせたスタイルを作ろうとする。
私は根性が捻じ曲がっているので、そういう姿勢には疑問を持つ。なぜ情報の送受信だけで人々は満足しているのだろうか?
そしてそれは、音楽というものを情報ツールとしか扱えなくなってしまっている若い世代に多い。いまではテープやレコードでなく、MP3のような音楽ファイルで情報を得るような世の中であり、高い金を払ってでかいレコードを買い、じっくりA面B面を儀式のように正座して聞くなんていうやつはごく少数なのである。ただ、そういった儀式的な空気がなければ、音楽の楽しさや奥深さを完全に満喫することなどできないと私は思うのだが、ただ単に私が古い考えの人間なのだろうか?
せっかく聴くなら、とことん深くまでいってみようという、一種の探究心が、現代人には足りていないと、私は思う。
この人が重要なのは、ドラッグの香りを死ぬまで纏っていたから。
そして幸薄そうな佇まいとあの声が、薄暗いホンモノのドラッグ・カルチャーをしっかりと伝えてくれる。
VUもののブートが続々流出していく中、NICOのブートもそろそろ決定版が出されるのではないかと期待しているのだが、どうだろう? 時期的に出そうな感じはあるんですけどね。。
ひとまず、この名盤を聴いてないという人は、家にあるほかのレコードを売り飛ばして買いましょう。
それぐらい良い一枚です。
NICOについては書きたいことが多すぎるので、あえて書きません。
このレコード一枚にどれだけどっぷりはまったことか。。。
罪作りな一枚です。
80年代のロック界において、最後のカルトアイドルになっていた、ザ・スラッヂ。
なぜか音源が出ない。中古レコードは売っていない。活動は20年近くストップ。
そんな状況の中、突然のCD発売がなされた。
まさかここまで音源が残っているとは思わなかったし、CDが出るなんて夢にも思っていなかった。
それがこうして目の前に形になってみると、なんだか不思議な気分だ。
後期(1985-1987年)の未発表ライブ音源がこのCDには80分近く収録されている。
皆が期待しているあのギターの音や、捩れた迫力のボーカル、図太くうねるベース、タイトで通好みのドラムがたっぷり聴けるのである。
ロックであることのオリジナリティは充分すぎるほど発揮していたバンドだけに、まとめて聴くと重度のめまいがする。一般のロックファンが通過してしまっても、そのうちの何人かは確実に立ち止まって耳を傾ける魅力が、ここにある演奏には満ちているのだ。
このアルバムは決して再発ではない。
すべて未発表の音源だけを集めた、いわば新譜なのである。だからこそ、新しい耳で、今の音楽好きが聴いて思う存分に影響を受けて欲しいと思う。
また、当時を思い出して聴くのも再発見に繋がる良いきっかけとなるだろう。ここにある音は20年前の演奏だけれど、時代に取り込まれなかった異分子なのである。だからこそ、ここまで新鮮に響くのだと思う。
まだ流通のルートが限られているようだが、もっと多くの人に届けられれば、確実に意義のあるリリースになると私は思っている。
根底にあるロックのグルーブ感、踊りだしたくなる強烈な演奏。ザ・スラッヂはまだまだ転がり続けているのである。
10年ほど前、異様な高値で売られていたオリジナル盤を、なんとかゲットし、しばらく聴きまくっていたのだが、2年前に突如CD化され、ついそれも買ってしまった。それぐらい好きなアルバム。
ネオアコの名盤といったら必ず挙げられる一枚ですね。きらきらしたポップな楽曲が最高です。かなり純度の高いポップ・ミュージックなので、ネオアコってまず何を聴いたらいいの? と質問されたら私はまずこれを推薦します。今でもたまに聴きますが、やはりオシャレで気持ちのいい音楽ですね。
今日は風邪なのでまともなレビュー書けません。。
JERRY KELLERという、サークルの「TURN DOWN DAY」を書いた人がプロデュースしているので、たしかにサークルっぽい音作り。上質のソフトロックですが、謎につつまれた一枚です。
クオリティの高いポップ・サイケを探しているならオススメだが、まったくどんな活動をしていたのか、どのようなグループだったのかを伺い知る資料が何も残っていないので、バックグラウンドが気になる人にはオススメできません。夜気になって眠れなくなります。
アルバムとして完成度の高いものなので、ハズレを引きたくないときはこれを買ってみてください。
心地良いソフト・ロック・サウンドです。
ピーター・ペレットの声は、ドラッグ漬けのあの感覚を思い起こさせる。だが、それと同時にポップで普遍的なメロディがしっかりと鳴り響き、まるでルー・リードのようなペレットの歌唱も独特の憂いを纏いながら上昇していく。
ペレットは一時ドラッグで再起不能だとか、廃人になっているとか、死亡説までながれていたが、突如復活を遂げ、ライヴを行い、ライヴ盤のリリースも行っている。そこからまたドラッグへ、という話もあるが、ペレットの音楽がドラッグの影響無く鳴り響いていたことが、あの復活の演奏からは感じられる。
「Out There In The Night」の日常風景がゆったりとただ流れていくような美しさや、「Another Girl,Another Planet」のドラッグソングでありながら現実に根付いたロマンティシズムを展開させる手法はあまりにも眩しく、ペレットのソングライティングの良さには脱帽する。
画像はオンリー・ワンズ時代の、ベスト盤で、安価かつ入門には良い内容なのでこれからペレットの世界を覗く人にはオススメしたい。
オンリーワンズを全て聴き終わったら、今度はペレットのライヴ盤を聴いてほしい。魂の美しさがひねくれた性質をも明るく照らしてくれる。
71年、トラッド。
これを正面から聴く気になったのは、キーフのジャケだから、という理由だけで、何の情報もしらないままレジへ持っていった記憶がある。
ジャケ買いというのはよくやったもので、月に一枚はジャケだけで買いものをしていた時期もあった。
そんな中の一枚だが、あらためて聴いてみるとトラッドのツボを押さえた実にクオリティの高い世界がぐるぐる回っている。
屈折した何かを求めていたときには、ここにある優雅な空気は理解できなかったのだが、今になってこういうゆったりとした音を求める気持ちが芽生え始めているような気がする。
ダンドゥ・シャフト。知名度が低いわりに、今検索してみたらなぜか紙ジャケでリイシューされているようなので、これからトラッドを掘り下げたい人たちにとっては良いタイミングなのかもしれない。
この盤の凄さはやっぱりタイガーKさんのパワーにあると思う。
いっけん企画ものっぽい印象を持ちそうだが、中身は不思議なロッキンパンクでおもしろい。
がちがちのハードコアを期待して買わなければ、かなり楽しめる名盤だろう。
ゲストコーラスも何気に豪華面子で、ジャジャ、マサミ、ヒロト、グレイトリッチーズなんかが参加している。愉快な7インチだ。
パステルおばさんは名曲だと思う。
本作ではニッキーではなく、ケイゴが唄っていますが、それがかなりかっこいいです。
一説によるとドラムはケイゴではなく、タツヤが叩いていたという話もありますが、どうなんでしょう?
ニッキーもこのEPにクレジットだけされていますが、正式な加入時期は謎です。
そんなレコードですが、やっぱり直球ロックンロールですごくかっこいいわけです。
ケイゴさんのボーカルはいい雰囲気が出ているし、ニッキー加入前のロード ・ ウォリアーズがバンドとして良いものを持っていたということを実感できます。
これもそんなに高い値段はついておらず、中古屋で500円くらいで売ってますので、見かけたら手にとってほしい一品です。
店によっては5000円くらいするかもしれませんが、安く見つかるとおもうので、諦めずに根気よく探してみてください。
cLOUDDEADのファンならば、本作も聴いておいて損は無い。
自由奔放な、ヒップホップの名を借りたエクスペリメンタル精神と遊び心の詰まった大作であると思う。ゲストも豪華で、Jel, Boom Bip, Sole, Odd Nosdam, Mr Dibbs, Circus, Nobody, Slugといった面子が参加している。
1999年にリリースされた本作だが、最近になって再販しているようなので、気になっていた方はこの機会にぜひ手にとってみてほしい。
アヴァンギャルドの中に無邪気なポップさを持ち込むことが、ヒップホップという形でも可能なのだということを見せ付けた歴史的一枚だと思う。
また、いわゆる現代音楽やノイズ・コラージュからの派生ではなく、純粋にヒップホップで遊ぶことを突き詰めているという姿勢も評価したいと思う。
サウンド自体が持っている魅力も相当なものなので、おもしろい音楽を求めているならばここを通っておくのは正解だろう。
強烈な7インチ!! これは何度も聴いたし、聴くたびに熱くなれる最高のシングル。
スタイリッシュな暴れ方というか、どこかシャープな輪郭があると思う。
MINK OILはやっぱりセンスもいいし、音の完成度も高いハードコアだ。スケーターの少年とかにもぜひぜひ聴いてもらいたい直球疾走コア。
マイナースレットあたりの音が好きなら問答無用でオススメしておきたい一枚。
ここまでかっこいいのに音源が少ないのだけが非常に残念である。
成田弥宇氏は、自らの立ち位置をしっかりと把握し、実直な姿勢でLIBIDOという一つのシステムを動かしていたのだと思う。生きていることのリアリティ、音楽表現ということへの可能性。成田氏の地を引きずるような陰鬱なサウンドは、表面的には暗黒が広がっているように見えるかもしれないが、奥底でしっかりとそれらを纏っているものが確実な「生」のリアリズムだったことが、リビドーの世界を支持する者がいまだに多いということの解答なのかもしれない。
本作「RYU-SA」もまた、リビドーというバンドの美しさを知るには良い一枚である。
例によって、何にも似ていない、独自の音楽がリビドーのサウンドとして息づいている。ファーストよりも演奏、音質ともにまとまりがあるため、作品としてクオリティの高いアルバムである。
ロック、サイケ、ポジパン、プログレ、民族音楽などのエッセンスは多分に吸い込んではいるが、それらを外に出す際に成田弥宇という呪術師のフィルターがかけられている。そして、それは確固たるリビドーのオトなのであり、何かと比較することは明らかに無駄な行為でしかなりえなくなる。
29歳の若さで亡くなった成田氏であるが、いまだにその魅力に触発されて「リビドーのような音」に憧れるバンドは多数存在している。それだけ、あの輝きは絶大だったのだ。
原点。
何も言うことはない。
ここから全てが始まって、それはいまだに動き続けている。
ハードコアパンクの精神が日本で独自に開花したことを証明する、加速した存在の切れ味が鋭すぎるソノシート。
いまだに再発されず、何万もの値がつく本作が伝説になるのは仕方がないとしても、このカッコイイサウンドと初期衝動の興奮が、変なプレミア値のせいで遠くへ行ってしまうのはなんだか悔しい。
タムのギターも、ここでは初期衝動的なパンクの勢いをしっかりと放出しているし、スターリンは聴けるのにチフスが手に入らないという現状は、なんだかタムのファンにとっては切ないような気がする。
このチフス、あとミドルクラス、ハロウィン、変態クラブあたりの音源が正規に発売されるならば、かつてのファンからこれからのパンクスまで、幅広い層にとって嬉しい時代になるのでは? と思うと、夜も眠れないのはとらぬ狸のなんとやら。
でもそんな時代になってほしいものだ。
ニューロックの夜明けシリーズの後半に紙ジャケ再発でリリースされた極上のフォークアルバム。
オリジナルはビクターからの発売だったにも関らず、ほとんど無名という状況であったのだが、再発にて本盤を手にし、その素晴らしい世界に打ち震えたという人は多いと思う。
あまりに優しく、とろけるような怠惰と紙一重の日常が軽やかに歌われる。
「こんないい日は久しぶり」などは休日の昼下がりにのんびりと聴きたい名曲であるし、ここまでの日本のアシッドフォークの名盤が埋もれていたままではもったいないので、最近よく聴いている。
精神的に、しっかりと日常と向き合うのではなく、生活の中で生まれた心象風景を日記のような感覚でうたい上げてしまうところが、武部行正という人の魅力であり、この盤ではそれを最大限に盛り上げるべく、西岡たかしを筆頭とする豪華メンバーがバックアップしている。
最近ではCD盤も見なくなってしまったが、見かけたらぜひ手にとってほしい一枚だ。
一曲目、All along the watchtowerのカバーが最高なバーバラ・キースのセカンドアルバム。
98年に夫と息子がメンバーという凄まじいバンド、Stone Coyotesにて復帰したが、ここにあるような世界ではなくハードロック系の土臭いサウンドで、このアルバムのファンからはあまり評価されていない。Stone Coyotesのサウンドはそれでも、なかなかに味わい深いモノであるので、興味がある方は別物として聴いてみるのもいいかもしれない。
本作は長い間、いわゆるレア盤であり、最近になってCD化され、日本盤も出ているようだ。日本ではAll along the watchtowerのグルーヴ感が人気を呼び、一時はクラブヒットしたぐらい知名度はある。
たまに家でかけると、気分が高揚するので個人的に重宝している一枚。
初めて訪れた街で、なにやら古びた喫茶店を発見し、店内へ入ると唐突にこのような音楽が聞こえてくる瞬間の図式こそが郷愁なのだと思う。
落ち着いたフォークソングを聴きながら、濃いコーヒーを飲むのはしかし、ハードコアパンクで踊り狂いながら酒を浴びるように飲む感覚とどこかで通じていて、その連絡通路の間に座り込んでいるものこそが、我々が求めてやまない本質なのだと思う。
BRIDGET ST.JOHNのハスキーな声には、沈みこみながらその場所一点を見つめ続けるような感覚があり、その視線の先がゆっくりと焼け焦げていくさまを眺めるのが、僕らの休日の過ごし方になっているのかもしれない。
シューゲイザー大名盤。にもかかわらずずっと廃盤だった本作が、最近いきなり再発されていてついつい買ってしまった。
内容はいいですし、ボーナストラックまで入っているので、当時シューゲに夢中だった皆には聴いてほしい再発アルバム。
マイブラ(初期)がノイジーなアノラックサウンド、ライドがソリッドな発展系ニューウェイヴ、スロウダイヴがドリーミーサイケの拡大であったのに対し、このチャプターハウスはマンチェサウンドのシューゲイザー化であったような印象が深い。
ただ、改めて聴いてみると、むしろシューゲイザー的な展開が根本にあったところへ、マンチェの風を送り込んだような仕上がりになっている。
時代を代表する名盤や奇抜な作品ではないけれど、良質な音楽が聴ける一枚として推薦したくなるアルバムだ。
ヴェルヴェット風味と言われればそうかもしれないけれど、VUと同時代にこのサウンドという事実が興味深いのであって、ここにVUと同じ深淵を覗こうと思って大金を支払うのはやめておいた方がいい。
60年代のデトロイトにこのような音楽が! という驚きを感じないという人にはまったくオススメできないけれど、当時のサイケデリックを掘り下げようとしている方には必ず聴いておいて欲しい一枚だと思う。
エコーのかかり具合が何ともいえない美しさで、遠方の駅の改札まで来て切符を落としたことに気づくような絶望もややあり。
ポップなエッセンスもあるので、マニア以外の人にぜひ聴いてもらいたいアルバムである。
オーストラリア人、Paul Adolphusがなぜか京都に住み着き、東山の卑弥呼レコーズ(オクノ修のファーストなどをリリース)から出したというレア過ぎる一枚。この度350枚限定で復刻したが、あまりの情報の少なさに売れ行きは芳しくないようで、いまだ在庫はたくさんある。
内容は美しすぎるアシッドフォークで、日本のフォークシンガーよりもジャパニーズテイストを感じさせてくれる素晴らしいアルバムになっている。書道教室の一室で録音されたらしいが、まさにそんな京都の美しさ、素晴らしさを凝縮したステキな音楽であることは一聴すると良く分かる。
再発盤はジャケや盤も丁寧に復刻されていて、コレクターでなくとも一枚所有したくなる良い仕上がり。太陽+釈迦というジャケデザインのセンスも抜群である。
こういったレコードをコレクターの手だけに収めておくのももったいないので、若いミュージシャン志望の子たちにできるだけ聴いてほしい。音楽の美しさや楽しさ、日本で音楽をやることで見えてくるものを実感できる大名盤だと思う。
Paul Adolphusという人の心象風景は、使い古されたヒッピー文化やジャパニーズ幻想とは違ったピースフル・サイケの形をしている。70年代の京都にこんな音楽があったことを、驚くのも楽しむのも、現在になってこれが再発されたという事実を前提に行うのだから、やはりレア盤の復刻に私個人としては賛成である。
ps.Mrエレクト様、本作のことをお教えいただきありがとうございます。これはすごい。。
USフォーク。ニール・ヤングが一曲参加している。
花が咲くようなゆったりした時間経過を味わいつつも、懐かしい匂いを孕んでいるので飽きることも無くリピートできる。
強烈な個性は無いけれど、フォークの自由で朗らかな雰囲気を堪能するには申し分無い。
極めて情報の少ない一枚だが、こういう音楽をコレクターの手から解放させ、偏見なく聴ける時代がもうすぐ近くまでやってきているような気がする。
妄想だと言われても、それでいい。
螺旋階段は渦を巻いたような形状の階段であるが、一部分だけを切り取れば、それはただの階段にしか見えない。全体を把握して初めてそれが螺旋階段であるという判断に至れるわけだ。
この螺旋階段が後に非常階段へと発展し、音楽性がノイズ・インプロヴィゼーションに変化した背景には、おそらくそれほど大きな転換は無かったのではないかと思える。
ここで聴けるサイケデリックなロックは、既に音楽としての位置づけを拒んでいるかのような見事な跳躍で真っ白な空へ飛び去っていった。
あとに残された群衆の顔には、夏の日焼け痕を思わせるような黒い染みが、いつまでも残った。
真実としての演奏ではなく、演奏が真実であるならば釈明は必要とされない。
螺旋階段の中で立ち止まり、捩れているものが自分だと気づくまでの、一瞬の空白がたまらなく好きだ。
Bread Love And Dreamsの一枚目は、まだ後のサイケな広がりを見せる前で、非常に美しくまとまった素朴な一枚である。
フォーク・サイケの上品な感じは確かにあるかもしれないが、それ以上にシンプルな空気が非常に心地よい。
一般的な評価が集中しているのは3作目であるけれども、本作のブリティッシュ・フォークの鑑のような演奏はやはり個別に賞賛したい。
UKのSSWやフォークが一時再評価されていたが、それらは一過性のものだったようで、今では再び細分化され、なかなか浮上できないような環境になってしまった。
もし、こういった作品を聴いて、なんらかのインスピレーションを得られたなら、個人的にどんどん古い新しいに限らず、開拓していくというのは大切な作業だと思う。
シンプルに作るということは、無駄なものを削除していくというだけではない。
最初から限られたパーツのみで構築し、贅肉を生成させないことによって完成するものもある。
この72年のボストン宅録風フォークミュージックは、そのあまりのナチュラルな完成度に驚きを隠せないぐらいシンプルだ。
うたとアコースティックギター。それだけで世界が作られている。
たとえば、毎日通勤途中に見かけていた老人がある日を境に姿を見せなくなるとする。その場合、まず脳裏に浮かぶのは老人にのっぴきならぬ事態が訪れたのだろうか、ということである。ひょっして亡くなったのか、それとも体調を崩しているのだろうか? そんなことを想ってみても、すぐに老人と毎朝出会っていたという記憶は風化していってしまう。なぜなら、日常のリズムが浸透し、老人のいた風景がその規則性の層に埋没してしまうからだ。
PRENTICE & TUTTLEは、その埋没した日常を掘り起こすような作業を淡々と行う。それは、ときに残酷なことのようにも思える。
もともと、Judy Henskeはジャジーなシンガーとして活躍しており、夫のJerry Yesterはラヴィン・スプーンフルにも在籍していた。
この夫婦が共作で作り出したアルバムが、ど真ん中のサイケデリックであったことがまず驚きである。
この後に別名義で出した2ndではフォーク風になるのだが、ここではJerry Yesterの手腕が大いに発揮され、バラエティに富んだポップな世界が展開されている。
オリジナルはザッパのレーベルから出ていたが、入手困難。最近CD化され、安価で購入できるようになったのが嬉しい。
どこかでこのアルバムがスラップハッピーのようだと書かれていたが、私はそうは思わない。スラップ・ハッピーの捩れたまま生まれてしまったような必然のサイケデリックとは違い、このアルバムは夫婦のほのぼのとした、日常を拡大した際の装飾品としてサイケデリックが選択されているのだ。
だから、表ジャケットがサイケな色をしているのに、裏ジャケットはほのぼのとした普通の写真が使われているという「日常の副産物」を感じさせるイメージが表出している。
かといって、中身は平凡なサウンド、というわけではない。この夫婦の共同作業によって作られた音楽は、カラフルで非常にクオリティの高いポップ・サイケである。ただ、酩酊するだけのトリップ感を誘発するサイケよりも、こういった日常的な遊び心の拡大によって零れ落ちたサイケの方が、休日にゆったりと鑑賞するにはちょうどいい。
ブリティッシュ・サイケ・フォーク。
ジャケは青、赤、水色の三種類があり、どれもオリジナル盤は高くなっている。
ストローブス関係なので、そういう音を想像していたが、内容はソフトサイケ風味のフォークといった感じで、聴きやすくポップ。
なぜかラストの方に入っている、「Mother Mother Mother」がかなりノリのいいサイケ・ロックサウンドなのもおもしろい。普通に聴けるアルバムだと思う。
こういった隠れ名盤がどんどんメディアで紹介されるようになって、それまで独り占め気分を味わっていたコレクターの方にとっては嬉しくないかもしれないが、僕のような一般的な音楽ファンにはとても喜ばしい状況になってきたと言える。
これからも、こういったアルバムをどんどんCD化し、手軽に購入できるような世の中になってほしい。
たしかに、マイナーなレコードのCD化なんて金にならない商売かもしれない。ただ、その結果としてそれなりの喜びや新しい発見を与えることができるのだから、軽視するべきではないと思う。
そろそろブログ復活、って何回言ってるんだろう。。
覗いてくれている皆様、すいません。まじめにやります。
ポップ!!
中古レコード屋で5万ぐらいしていたこの名盤が、昨日近所のCD屋で普通に紙ジャケ復刻されていて即買いした!!!
これは素晴らしい。ポップがなんであるかを如実に物語ってます。
きらきらしたサウンド、にぎやかなアレンジ、不細工めなルックス。更にボーナスで伝説の名曲「Cold, Cold Winter」まで収録されていて感動した。
このシリーズすごい。偉い。
ピクシーズ・スリーは63年~65年ぐらいに活動していた女子高生トリオ。ただ恐ろしくマイナーな存在なので、知っているという人はとても少ない。けれども、ここにある楽曲のポップさは密かに支持され続けていたらしく、今回めでたく復刻にまでこぎつけたようだ。
この紙ジャケシリーズを見ていたら、なんとあのテディ・ベアーズのアルバムまで復刻されている!!
当分散財してしまいそうだ。。。
ハードコア紹介しようと思ったけど、ちょっと路線変更してしまいました。すいません。。。
当時のエクスタシーレコード周辺はポイズンのリリースもあったし、かなり重要だったと思う。このVIRUSは何が素晴らしいってこのデモのジャケがインパクト大だからである。
ボーカルが下手だとかなんとか酷いことを言われていたが、私は大好きなスタイルで、本作収録の「発狂」なんかは充分カッコイイと思う。
ジャンルだとメタルになるのかもしれないが、勢いが良く、荒めの演奏がハードコアにも通じる匂いを持っている。
この時期はすごいが、後期VIRUSはまったく別のバンドになってしまい、この時期のファンには辛いサウンドになっている。が、全部聴いてみて、それぞれ好きな曲を発見してみよう、という姿勢が重要なので、食わず嫌いだけはしないほうがいい。
スラッシュメタルが好きな人にはこのテープはオススメです。
そろそろ始めないと、せっかく覗きに来ていただいている皆様に申し訳ないので、少しづつ復活したいと思います。
広島ハードコアの自我は、GASと並んで当時のシーンを代表するバンドであると思う。
自我に関してはこの3曲入りソノシートと自殺レーベルのオムニバスでしか音源を聞いたことはないのであるが、他にも何か出しているのだろうか?
GASがこの前再発していたが、私は自我も大好きなので、できればこちらも出して欲しかった。もし誰も出さないなら出しちゃいたいけど、ご本人たちはその予定は無いのだろうか?
GASの再発も、後期の音源が入ってなかったし、あれはもっとライヴ音源も増やして二枚組みなんかで出して欲しかったなぁ、と贅沢な要望もさりげなく言っておく。
自我はライヴもけっこうこなしていたので、音源は捜せばもっと出てくるんじゃないかと睨んでいる。
なんにせよ、こういった良質なバンドの音を誰かに教えたくなるというのは、私の昔からのクセなので、更新も滞りつつも続けていこうと思う。
自我の壁!!!!!
こういうやり方、好きだなぁ。
出ていないアルバムの復刻なんて、おしゃれなことをしてくれる。
一応ジョン・カーターが絡んでいるので、サウンド的にも文句無しの出来。
一枚目、二枚目とサウンドの色が違うのもなかなか凝っている。
ライナーが妄想大爆発でおもしろいので、ぜひとも読んで欲しいものである。
で、実際にはこんなレコードは出ていないので、だまされてオリジナル盤を探したりはしないようにしましょう。日本語で書いてないから、けっこう信じちゃう人もいそうですね。。。
モッズサウンドの神様的存在ですが、やっぱりこの荒削りな衝動がなんともいえない快感である。
アグレッシブに攻めるロックンロールが、このようなスタイルでストレートに鳴り響くと本当にカッコイイ。
無条件で踊りだしたくなる、まさにマスターピース。
Small Facesはやはりこの一枚目が最初に聴くにはベストだと思う。
彼らのパンキッシュな演奏を聴けば、嫌なことや辛いことは大概忘れられる。
ロックンロールは、負のエネルギーを寄せ付けないことも出来るのである。
名の知れた名盤である。
でも、この変なジャケットのせいでまだ聴いていないという人も多いと思う。
かなりポップで、聴きやすいソフトサイケだが、果たしてこれをビートルズフォロワーの一言で片付けてしまってもいいものなのだろうか? たしかに名づけ親がジョン・レノンであり、アップルと契約までしたものの、ビートルズの付属品として語られるだけではあまりにももったいないバンドである。
フォー・シーズンズのカバーである「C'mon Marianne」以外はすべてオリジナル曲なので、やはりバンドとして素晴らしいグループだったことを再認識させられる一枚である。曲のクオリティがとんでもなく高いので、B級だのなんだのと言うのはこれときちんと向かい合っていないリスナーの妄言であろう。
極上のポップサイケに触れたければ、まずはここから。オススメです。。。
荒々しいロックナンバーから始まるこのアルバムであるが、本質は深く沈んでいくアシッドフォーク的な肌触りにこそある。
普通に「かっこいいロックアルバム」なのではないだろうか?
ファズギターの暴力的な音が描き出す風景が、ここまでモノクロームだというのも異様である。薄暗い世界をこういったアプローチで構築したという事実だけで100点だ。
サイケというよりアシッドガレージ、かな? そんな音です。
サイケどっぷりというより、前夜、といった感じか。
メロディも構成も文句無しに高いクオリティであるが、レアな一枚になってしまっている。
一応CD復刻され、簡単に入手できるようにはなっているが、知名度が恐ろしく低いゆえにたぶん誰も買おうとは思わないだろう。
この時代のロックを聞いてみよう、と思ってから、人はまず何から聞くのであろうか?
ビートルズ、もしくはストーンズの「サタニック~」あたりなのだろうか?
もしあなたが今「サイケなロックをとりあえず一枚聞いてみたい」と思っているなら、こういったかつての埋もれた佳作を手にとってみることをおすすめしたい。
B級だのなんだのと言っても、それは後から他人が評価したことに過ぎない。やはり自分の耳で、好きな音楽を純粋に探していくという行為は、それだけで素晴らしいことだと最近思ったりする。。
美しい風景の、ダイジェスト版ではなく、そのものの一部分を提供。
目を閉じて一人で聴きたい音楽である。
あまりに繊細で、自然体を誇示することなく、本物のナチュラルな感覚を出していることが特筆すべきポイントであるが、そのあまりの繊細さがゆえに埋もれてしまった一枚。
オリジナル盤は何十万もするが、いつか、死ぬまでにはオリジナル盤で聴きたいと思っている。この音楽が私は本当に好きだし、いろんな意味で何度も救われたからだ。
はっきりいうと、この場で紹介するのも躊躇したぐらい、このアルバムがお気に入りなのである。
この美しい音が、うたが、忘れられるようなことがあるならば、私は音楽なんて聴きたくない。
民族音楽だのトラッドフォークだのとジャンル分けして済ませてしまうようなことも私はしたくない。
ヴァシュティの声を聴くと、もうすべての感情が入り交ざったような、複雑な気分になる。
ノイズでなくとも、そういう表現は可能なのだということを、私はヴァシュティから学んだ。
これは凄い。とにかくポップサイケの良質な部分が凝縮されている大名作。
紙ジャケでリリースされていたので、ちょっと高かったが購入して正解だった。
内容はビートルズの影響大のサイケデリックポップ。で、ドリーミーな効果音や激しいファズギターも聴ける充実の一枚である。
こういった埋もれた名盤を今聴きなおす感覚というのは、懐古的な感覚ではなく、素直に新譜として受け入れるような姿勢でのぞみたいものだ。新しい音楽として知ることができれば、それはその音楽本来の価値観を見つめることが出来るだろう。
サイケに関しては、特に聴き手のそういった心構えが重要になってくると思う。
これ、レアでマイナーなサイケだったんだけど、この前CD屋で普通に紙ジャケ再発されててびっくり。
こんなものまで出るんだ~、と呆れたような感心したような。
化け猫ロックって、邦題もアレだけど、中身はもっと凄いことになってて、これはぜひサイケ好きは聴いておくべき一枚だろう。
私の持っているやつは輸入盤だけど、国内版の紙ジャケのやつはたぶんリマスタリングされてていい感じだと思うので、そちらをオススメ。
最近またこういうサイケの名盤(?)を集めたくなってきたので、ブログの更新も滞っていることだし、サイケ特集をやっていこうと思う。
まだまだこのジャンルは開拓しがいのある分野ですし。。
パワーで押し通すスタイルが多く見られる日本ノイズ群の中で、オウブはその繊細さや質的な輝かしさの拡大を行っていたという点で異色である。
精神の奥ゆかしさに圧倒されることなく、その末端へと神経を行き届かせるような緻密かつ膨大な内容の作業を、ここまでの完成度でやってのけてしまうのには驚愕せざるをえない。
顕微鏡を覗いた先は現実の拡大ではなく、まったく異なる次元の風景であると思い込ませるようなトリックが、このデビューアルバムには満ちている。
決してフェティシズムの主張やノイズであることの固執は感じさせず、ただひたすらに美しさを感じさせる粒子的な雑音が配列されたように規則正しく、ある種のミニマリズムをもって広がっているこの世界は、当時我々のようなノイズファンの目に、とてつもなく斬新で偉大なものに映った。
その感覚は今聴いても同じである。
このアルバム、先日間違えてシャッフル機能をオンにしたまま聴いたらかなり印象が不気味だった。
曲順によってこうも変わるのか、とちょっとした発見はあったが、それ以上の感想は特に無い。
なんせ、かなり聴き込んだアルバムだし、これを曲解した昨今の日本のポップな歌謡パンク(青春ロック?)バンド達がたどる悲しい運命を思うとなんだか憂鬱だからだ。
拓郎のコード進行だけを真似したり、あの暴力的な日本語の乗せ方にパンクを感じることは間違ってはいないが、もっと独特な感覚があることをつかんで欲しい。
その感覚をつかむための一番の近道は、やはりシャッフル機能、これしかない。
普段はクソの役にも立たないと思っていたシャッフル機能がここまで素敵な魔法になるアルバムはこれぐらいのものだろう。
配置された楽曲の結界をシャッフル機能で破壊することによって、吉田拓郎の本来の魅力がつかめるはずである。
暇なときは試してみてください。
更新が滞ってしまった。。。
最近は本業が異様に忙しい。
あぶらだこのような音楽は心にゆとりの無いときには聴けない。
だからこそ、今日はこの一枚を紹介しておく。
あぶらだこに悲劇性はまったくなく、かといってパラノイアックなギミックにばかり気をとられていると、音楽としての面白味を逃してしまうような、そんな世界である。
変拍子であろうが、ロックであろうが、一枚の塩化ビニールにパッケージングされた時点でそれは音楽メディアに転化する。
どんなに濃厚なものをやっても、薄っぺらな企画モノのCDと同列に扱われてしまう。だが、それは裏返してみればある種の理想的な環境なのであって、決して忌むべき性質のものでは無い気がする。
メディアという単位での平均化、均一化が行われれば、メジャー・マイナーなどという余計な区分は死滅し、新しい形での音楽文化が展開されることに期待できる。
そうなってくれれば、聴き手から見てすべてのレコードが同じスタートラインに立つことができ、奇妙な差別は発生する余地などなくなるわけである。
明るい未来のためにも、あぶらだことスーパーで流すBGMのCDなんかを一緒に購入することをオススメする。あなたの行動一つが、音楽を変えるのである。
懐かしい。というかもう誰も覚えてないんじゃないかと思われるスパイリアXのデビュー盤。
プライマルのジムが好きだった人以外にとって、このアルバムを今さら聴くというのはちょっと辛いかもしれない。が、極上のギターポップ(あの時代の)であることだけは確かなので、気になる方は探してみてほしい。
ジムのプライマル時代の美しい12弦ギターの音が忘れられず、セカンド以降のプライマルは聴いてないなんていう頑固なファンにとって、これほどまでにすばらしいアルバムもないだろう。
いまさらだが、プライマル・スクリームの一枚目は最高だった。
なぜならジムがいたからである。
初期プライマルのあの煌びやかなサウンドは、ジムなくしては作れなかったと私はいまだに思っている。12インチの「クリスタルクレセント」が好きで好きでたまらなかった我々にとって、ジムがスパイリアXで復活したことは嬉しいことだったが、やはり初期プライマルでのジムが忘れられない。
現在のプライマルにジムが参加したら、とんでもないものが出来そうな気もするが、それはおそらく私のただの妄想だろう…。
亡霊が重なって見えるのは、反復の作用が視覚に訴えているからであり、亡霊そのものが多重構造なわけではない。そのため、ここにある音がもともとこのようなリズム感覚なのかといえばそうではなく、やはり聴き手の方でダブ感覚を増幅しているのだろうと思う。
ここでタックヘッドの経歴や音楽性を語っても仕方がないので、気になった人はまず本作を聴くことをおすすめする。ヒップホップの原点だとか、新時代のダブと言われていた時代はもう過ぎ去っているが、単純にこの気持ちいい世界を覗いてみることは間違いではないと思う。
9作目。地味だが、明るくクールな演奏が最高なケヴィン・エアーズの隠れた名作。
この裏ジャケットの虹がすごく好きだ。
歌詞も素直で良いし、なんだか聴いていて気持ちのいい一枚である。
表のジャケットもなかなか味があり、ジャケだけ知ってる、という人も多いのではないだろうか?
スラップハッピーのアンソニームーアがプロデュースなので、スラップハッピーファンにも聴いてほしい一枚である。
このアルバムが出た78年、パンク・ニューウェーヴの真っ盛りにこのゆったりとしたAOR風のサウンドが評価されなかったのは当然なのかもしれない。
自宅でゆったりと聞くにはちょうどいいアルバムだと思う。お気に入りのワインなんかを飲みながら…。
うたが自立している風景を見ることができるなら、ここにある場所が心地よい。
なんとなく買った一枚であるが、とても素晴らしかった。
なんというか、久し振りにいい買い物をした。
うたうという行為を徹底的にただそれだけの行為として表面へ浮き上がらせることは、思った以上に難しい作業であり、それをここまで完璧にこなしてしまう北村早樹子という才能には脱帽である。
日本語であることや、うたであることに拘りすぎてダメになってしまう歌い手が多い中で、この素直さは本当に素晴らしいと思う。一枚目にして大傑作だ。
音楽に思想や文化的な意味合いを持ち込むことは間違ってはいないが、ここにあるような透明な世界を描くためには無駄な装飾などいらないのであり、彼女が優れた作家であることを窺わせる出所の隠蔽された詩世界もまた秀逸だ。
一体どのようなバックグラウンドを持った人なのか非常に気になるところであるが、ここにあるうただけを切り取ってみても、良質なものであるということは判断できる。
表現の可能性とか、文化的な位置づけなんてものは本来どうでもいいことなのである。
ゆったりとした時間に、じっくり聴いていたい一枚。
後にいろんなことをやって、ことごとく中途半端な仕上がりになっていた彼らの初期作品。ここではかなりの暴力的なハーシュノイズになっている。
でも、この路線で突き進むよりはヘンなエレボデやデスメタみたいなことをやっている彼らの方が好感が持てるし、姿勢としておもしろいと思う。
純粋にノイズが好きな人にとってはこれが一番なのかもしれないけれど、CBの魅力は他の情けない部分にこそあると思うので、あまりみの盤をもてはやすことはここではしないでおく。
まずはCBの音に触れてみて、それを受け入れるか拒絶するかを聴き手が選ぶことが重要だと思うので、未体験ならば一度触れてみてください。
初期ジャクソン・ブラウンの良さは歌詞にあるとよく言われているが、本当は三作目までのあの霊的なアコースティック・サウンドがそれを引き立てていたことはあまり語られないでいる。
一枚目ではもっともストレートな形でジャクソン・ブラウンという男の世界が表現されているが、あの質感の完璧さや、生活感の溢れる空気を社会的なステージを意識させる歌詞を前にすると、思わずため息が漏れる。
やはり彼の世界は地に足の着いた理想を引き寄せるような、広く一般的すぎる努力の過程をドラマティックに構成しているようにも思える。
ここで薄汚い政治性を持ち出さなかったのは、やはり彼が詩人であり、フィクションの中での作業を望んでいたからだと思うし、あの不思議な土の匂いが混ざったサウンドを耳にすると、その心地よい世界にしばらく滞在したくなる欲求にも駆られる。
後の彼はバンドサウンドを強化してしまい、初期の頃にあったような美しい風景は描かなくなってしまった。それはLate For The Skyで涙した我々にとっては大きな喪失である。
久し振りに彼の一枚目を聴きなおすと、忘れていた風景がふいに思い起こされたりして、なんだか切なくなる。
メンバーは大江、花田、井上、池畑の4人、まさに初期ルースターズの復活盤とも言える究極の一枚である。
ここまで完全な、理想的ともいえる復活を遂げるとは、UNの時点ではまったく思いもしなかった。
楽曲は参加メンバーから分かるように、ルースターズ初期の「あの」感じである。懐かしくもあるが、極めて現代的とも言えるこのアルバムは、あまりにも素直であるが故にその素直さの絶対性を定義づけてしまっている。
というわけで、ルースターズを知らない者にとってはここにある素直さ、ストレートさが異様なものとして映る可能性も否定できない。なるべくなら、大江慎也という人物の過去の音源や経歴を踏まえてから本作を聴いたほうが、妙な誤解は抱かなくて済むと思う。
まずはPVでの動き回る大江を見てもらえれば、このアルバムへの気合いがいかなるものかがよく理解できると思う。
本物のロックンロールが、また楽しめるのである。
霊的なもの。
彼らの歌を呪詛であるという人間がいないのは、彼らの歌が疑問ではなく解答であるからだ。
はじめから解答しか出されていないものに対して、誰も疑問を抱く者はいない。
そして、絶えず変化していく周囲があるからこそ、サイモンとガーファンクルは「呪術的ではないありふれたもの」として存在しているのである。もし仮に彼らの歌が変化し続けているとするなら、それ以外の存在に彼らが含有されることは無かったであろう。
いろいろな意味で、現実を見つめさせられる一枚であるが、人によっては「すこぶるありふれたもの」として聴かれてしまうのであろう。それがアーティストとしての死に繋がらないのは、ポピュラリティーという威力の絶大さを物語っているようにも見える。
ティム・バックリィの悲痛な感覚はまだここでは表立ってはいない。
彼がただのシンガーソングライターの一人として語られないのは、その世界の深さが底なしに広がっているからであり、サイケデリックが局所的に訪れていた季節ではなかったことを思い知らされる。
ファンタジックな広がりではなく、わりと人間的な臭みを含んでいる部分も良心的と言えるかもしれない。ティム・バックリィのサウンドや詩は確かな手ごたえのようなものを聴き手に与える。
ジャケからカントリー風の演奏をイメージするかもしれないが、ここにあるのは紛れも無いアシッド漬けの心象風景である。
聴くにはそれなりの覚悟が必要だが、深いダメージを受けるような歌ではないのがせめてもの救いであろう。
歴史的傑作。
捻れたような日常内の白昼夢をイメージしがちであるが、このCD盤でのアプローチはアナログの時よりも真摯で美しい狂気に彩られている。片岡氏の中に息を潜めて存在していた現実離れした現実が、よりキレイな形で表出している。
ラストの「埒開かずの海」での混沌は特に深い。中途半端な飾り物の狂気が多い中で、こうした純度の高い本物の狂気を目の当たりにすると、思わず駆け出したくなるような恐怖におそわれる。
日本の音楽史を見渡しても、ここまで異質な感覚を保有したものは他に無い。
もちろん、ジャンルや時代性で語られるべき性質のものではないし、何かと比較できるものでもない。これはあまりにもストレートに歪曲しているからだ。
狂気的なものと毅然とした態度で向き合うというのはかなり辛いことであるが、具体的なものを普遍化しようとするような昨今の歌謡曲の悪辣さに比べたら、ここにある狂気は何事にもたじろがない強い意志に基づいて構築されているために偉大であると感じられる。
このCDを聴くと、思考することの無力さを徹底的に突きつけられたような気がする。考えを放棄させるのではなく、考えること自体を封じ込められてしまう。
このCDはジャケットも素晴らしいし、内容もアナログ盤とは違う録音なので、片岡氏の狂気に惚れ込んでしまった者ならば一度は聴いておきたいものだ。入手は困難であると思うが、再発希望の声があれば何とかして出してみたいものである。
ここにあるスラッヂのあのギター音とはまた違った狂い方の楽曲が、片岡氏の本質部分を覗き見ることができるものなのかどうかは不明であるが…。
一言でいうなら、恐ろしいまでの傑作である。
静寂の中で蠢くメロディは、はっとするぐらい美しい瞬間がある。
コールドプレイのこのアルバムは、異常なまでの緊張感と神経すべてが麻痺するような美しさに満ちている。さすがに冬場は体温を奪われそうでそんなに聴かなかったのだが、気候が春めいてきたので久し振りにプレイヤーにセットしてみた。
「Speed Of Sound」の繊細さと沈み込むような感覚は異様である。ここまでのものはそうそう出てくる音ではないし、コールドプレイが頭一つ抜けたセンスを持っていることはこの楽曲を聴いたことのあるものならば理解できると思う。
ただ、明らかに癒しの音楽ではないので、病床に伏しているときなんかは聴かない方がいい。取り殺される危険性もまた魅力だと言えるのかもしれないが…。
2000年以降の音楽に極端に弱い私も、たまには新譜を購入するわけです。
で、久し振りに買ったのがこのベルセバ。今年で10周年とのことで、ただならぬ気合いを感じてついつい購入してしまいました。
中の音はもうグラスゴー特有のネオアコ・ギターポップですね。先日ユージニアスを紹介しましたが、グラスゴーというのは本当に独特のバンドが多い地域です。
ひたすらポップにまとめられたベルセバの新作ですが、肩の力を抜いてわりとリラックスして作られているような感触がすでに大物の貫禄を感じさせます。
輸入盤にはボーナスでDVDもついているそうですが、私は間違えて国内盤を購入してしまったが故に映像は拝めませんでした…。
今日はベルセバの内容があまりに誠実な感じがしたので、レビューもマジメに書きます。
斬新なアイディアも今回は盛り込まれているのですが、それを意識させないストレートなポップ・ミュージックとしての良さが素晴らしく、彼らのアルバムの中でもかなりの傑作なのではないかと思います。
全曲しっかりしたポップミュージックなので、なるべくならアルバム一枚通しで聴いてほしい作品です。グラスゴーのシーンは今後も注目していきたいと思います。
ユージン・ケリーの才能の豊かさは特筆すべきものがある。
ヴァセリンズ時代から常に独特のセンスを見せていた彼が、このユージニアスにおいて築いたある種の究極ともいえる地点は、模倣する者は後を絶たないが、決して自力で辿り着けるような場所ではない。
限りなく純粋な狂気がポップな演奏で楽しめるというだけでなく、強烈に異質な何かが感じられるのはユージンの持つ闇の力の作用なのかもしれない。
グラスゴーの一人の天才が作り出した、いつまでも輝きを失わない闇がこれである。
よく言われる「名盤」といった感じの華やかさよりも、しっかりとした表現の力強さを感じる良作だと思う。ピンクスもいいが、たまにはこっちも聴くとバランスがとれ、思わぬ袋小路へ迷い込むというような失敗は免れられるだろう。
こういった有名なレコードは、まずジャケットのイメージが広く伝播し、次に中の音を聴いてショックを受けた者たちが、まるで神秘体験でも語るかのように口伝していくものである。
キツネでも憑いたかのような目つきで、熱っぽくこういった音楽を語ろうとも、本質的な部分でそれが相手に伝わることは少ない。だから、こういったものを紹介したいのならば、まずはその音を実際に体験してもらう必要がある。
だが、大抵の音楽ファンはそこまでして他人のオススメするレコードを聴こうとはしない。なぜなら、説明の最中に彼らは「この音楽については認識できない」と判断してしまうからであり、無意識のうちに拒絶してしまっているからだ。つまり、理解の及ばぬ不可解なものに貴重な人生を消費したくない、と数学的に計算してしまうからなのである。
ここで重要なのは、音楽の情報を得たとき、または得るときは、なるべく余計な雑念を打ち消しておくべきだということだ。邪念が入ってしまうと、根拠の無い未聴作品への否定が始まり、結局死ぬまでその音楽を聴かずに過ごすことになってしまう。それではあまりにももったいない。
トゥインクのような音楽は、決して万人が称賛するようなものではないが、それでも、まったく聴きもしないで軽蔑しているようなら、一度購入してじっくり聴いてみることを勧めたい。きっとあたらしい風景のうちの一つにはひっかかるだろうから…。
かつて一世を風靡したギャルバン、伝説の一枚。
なんだかんだいって結構好きでした。
誰にも言わずにこっそり聴いてました。
そんな甘酸っぱい思い出のEP。もう10年近く経つのか…。
内容は90年代の女の子バンドを象徴するものですね。あの頃のギャルバンの魅力が全部詰まってる。ボーカルスタイルも演奏のポップさも、いまだにフォロワーを生み続けているぐらいの影響力で、ジェリベリを知らないという人も多いものの、知っている人は熱狂的に支持しているというバンドであった。
メンバーは解散後もそれぞれ活動を続けているが、やっぱりこのバンドが一番甘酸っぱくて好きだ。
90年代のあの気の抜けたような雰囲気の中、一瞬で駆け抜けたこの演奏は、ポップでありつつも、何かしらの強い信念は貫徹していたように思える。
毎度のことながら、このEPも現在は入手困難なので、デモ音源やコンピの音源も入れてCD化を希望したい。
たまにはこういうのもいいですね。
ムーディーブルースの最高傑作とされている本作だが、改めて聴くとその異様な雰囲気にびっくりする。一体何が彼らをここまでにさせたかは不明だが、私もなぜか買った記憶は無いのにアナログとCDを一枚づつ持っている。
わりと重い音楽だが、壮大なストーリーを描こうとして拡大ではなく逸脱に向かってしまったのがよくわかる仕組みになっており、当時のプログレブームに一石を投じるどころか全身で身投げしてしまっているような捨て鉢さも感じる意欲作である。
メンバーの気合いだけは尋常ではないので、作り手の強い意志や創作への熱い思いに触れたいときはこのアルバムを聴くといいかもしれない。
カクタスの一枚目はとんでもない。
もう針を落として数秒後には爆音でふっ飛ばされそうになる。
この一曲目ほど強烈なハードロックも無いだろう。とにかく気合いのこもった本物の「ハードロック」演奏が炸裂しているすごい曲である。
ただ、一曲目のインパクトが強烈過ぎるがゆえに、後半の楽曲は霞んでしまっているような気がしてならない(客観的すぎる意見で申し訳在りません)。
この一曲目の尋常じゃない勢いを未体験ならば是非一聴することをオススメしたい。いままで持っていたハードロックの認識が大きく覆されることは確実である。
カーマイン・アピスの暴れまくるようなドラミングは何にしても必聴。
とことんまで饒舌な風景であるが、それが押し付けがましくないのが良心であろう。
アニマルコレクティブの7作目は神経質に細部まで作りこまれているのにも拘わらず、壮大なイメージを洪水のように湧き起こさせる神秘の領域である。
新世代のこういったバンドが奏でるポップミュージックは、実験的であるが皮肉は一切感じさせないという爽やかな姿勢が素晴らしい。
かつての造語であるアヴァンポップという概念に、ようやく追いつき、そして大きく差をつけて抜きされるようなバンドが現れたのだという事実に、ひとまずは盛大な拍手を。
不気味な、不可解なもののイメージを、決してコミカルにすることなく「違和感を違和感として」楽しませることの出来るイメージとして生成していたのがこのバンドである。
なんとも不思議としかいいようのない、不気味でポップなニューウェイヴサウンド。まさに隠れた名盤の名に相応しい出来である。
最初からコンセプトを背負って出てきたバンドよりも、こういう他者から見て理解の及ばぬようなオリジナリティを持っているバンドの方が印象的だ。アヴァンギャルドとポップを繋いでいるものがここにあるような得体のしれない存在なのだということを、音楽好きは見過ごしがちである。
「かごめ」という日本の土着的な言葉の発音が結果的にここにある世界の入り口としては分かりやすいヒントとなって転がっているが、そのカギを拾ってしまうと、もう後戻りは出来なくなっているというのも素敵な要素の一つである。
南浩二のロックスターぶりには誰もかなわない。後に大江によってあそこまで完成されたバンドになったルースターズであるが、この人間クラブの時点では南のアクの強さが前面に出ており、当時の北九州にこんなバンドがあった、という事実以上のインパクトをこの残された音源から感じ取れる。
南のヴォーカルスタイルはサンハウスの菊にそっくりであるが、やはりロックンロールしているという点では誰も否定できるものではない。
楽曲は村八分などのパクリっぽいものであるが、これは大江が村八分ファンであったからであり、盗作なんかではなく愛のこもったオマージュといった感じだ。サンハウスの「レモンティー」もそうだが、九州のバンドは好きなミュージシャンの曲をストレートなカバーではなく、原曲よりも魅力的にアレンジして自分のものにしてしまう傾向があるように思える。
先日、久し振りに本作を聴きなおしたのであるが、とてつもなく純粋なロックがバッチリ演奏されていてちょっと感動してしまった。「サタデーナイト」や「どうしようもない恋の唄」を聴くと、やっぱりいいな、と思ってしまう。
しかし、ちょろっと検索してみたら、かなりの高額になっていることが判明!! これじゃ若きルースターズファンもつらいだろう…。他の音源も追加して再発を希望したい。
大好きな加害妄想レコード。ジャケはソフトな感じだが、中身はハードなジギャク節。藤井氏のセンスはいつも最高だ。
愚鈍やバスタードに比べると、活動期間の短さもあってかあまり語られないバンドだが、このEPの気合いは物凄い。というより加害妄想はいいレーベルだったと実感できます。
愚鈍のカセット「腐臭」のピアノの音とノイズまみれのハードコアを聴いて以来、ずっと愚鈍周辺は何か特別な感触があったのであるが、やはりその斬新な空気を作り出していたのは藤井氏であったと思う。ここでのプレイはそこまで極端なものではないが、初期愚鈍で聴けるものと共通の凄みは持ち合わせていると思う。天才藤井氏が残したジャパニーズ・ハードコアの佳作である。
日本特有のデカダンス(任侠、寺山、ザ・スターリン)などの世界を極端に凝縮して、パンクサウンドで拡大してみせたのがあざらしである。
ここ最近のバンドの中ではその潔い姿勢が目だち、かなり気に入っている。
ボーカルのメグ子嬢はJ.A.シーザーやナゴム関連などもバッチリ聴き込んでいるそうで、今後の活躍が楽しみな逸材だ。
初期の頃はスターリンのカバーをやったりして直球のハードパンクだったのだが、最近リリースされたカセットに収められた『夜の底』なんかを聴くとその幅の広さとテクニックの向上に驚かざるをえない。ついにあざらしもここまできたか~、などと嬉しくなってしまう。
活動を再開したので、そろそろフルアルバムも出して欲しいのだが、メグ子嬢もライヴなどで忙しいらしいので、レコーディングはじっくり腰をすえて頑張ってもらいたいものである。
再びハードコア特集。
ボーンズです。これまた不思議な感じのコーラスとかもバッチリ入っている名作。
プレス枚数が少ないのか、あまり中古で見かけませんが、やっぱりプレミアついてるんでしょうか?
この時代の関西のハードコアは本当に面白く、もっと知名度があっても良いものなのだが、紹介するメディアが存在していないが故にどんどん埋没していっているような気がしてならない。できれば積極的にサルベージしたいのだが、私もどれをどこにしまったのか、売却したのか誰かに貸しているのかすら分からないという杜撰な管理をしているがために、このような遅々としたペースでの紹介になってしまっているのである(いいわけ)。
今現在の耳で突然こういった音源を聴くと、人によってはかなり奇妙に聴こえるかもしれない。ただ、その違和感こそが「味」なのであり、こういった過去のパンクが持っている良さというのはそういう部分にこそ内在している。
できればガイドブックみたいなものをきちんとどこかの出版社が作成し、こういった盤もしっかり紹介&再発して欲しいものだが、やはり世の中金にならないことには皆積極的にならないもので、かつてのヒット作や話題作は持ち出しても、こういったレコードは素通りしてしまっているというのが現状なのである。
そしてそれがただ単に紹介されていないというだけで「誰も知らない音楽=つまらない音楽」というくだらない図式を一般層へ組み立ててしまう危険性すら秘めている。
妙な誤解や誤った認識をこれから音楽へ興味を持つ世代へ持たせないためにも、ここで断言しておきたい。
この世につまらない音楽など無い。
いわゆる何も考えてないようなコメントはつまらないので全部削除します。
外人業者・荒らしの類はすべて削除していますが、もっと面白いことしてください。面白ければ削除しませんので。。。
というわけでフリーダムを持ち出したのは、最近日本のハードコアが少ねぇじゃねえか、という苦情(苦笑)があったからであり、もっとみんな自由にやってもいいんじゃないかな? という思いが強くなってきたからである。ただでさえ規制が多い世の中で、更に自ら必要も無い足かせを嵌めて自虐的に笑うというのはどうかと思う。
表現ぐらいは自由にした方がいい。それは他者によって気にくわない類のものであるならば、そういう人はシャットアウトするだろうし、発信する側が自主規制するような腰の引けた状態であっては、先へ進む道が見えることなどないからだ。
ここに入っている音は大変ユニークである。ハードコアというのは一本調子な性質のものでは決して無い。こういった不可思議な音がレコードとして記録されているという事実が既に自由なのである。
残念なことに、入手においては自由度は低く、けっこうなレア盤となってしまっている。だが、私にはこういった趣のあるハードコアパンクが正等に評価されるフリーダムな時代がすぐにでも来るような、そんな気がしてならない。
ポストパンク、ノーウェーヴ系の再発が盛んだが、この盤について誰も触れていないというのはどういうことなのだろう。
METABOLISTは最高に重苦しい思考の絞りカスのようなものが、鼓膜から脳へ侵入してしばらくまとわりついているような音楽である。いわばウィルス式のポストモダニズムなのであろう。
この時期にしかできなかった、究極的な演奏。これをちょっとした遊び心、もしくはロックカルチャーの寄り道だなどと軽視していると、いつのまにかこちらがメインストリームとして機能していたりするかもしれない。
このレコードが再発されないのは、意識的な絶望の回避ではなく、ただ単に知名度が低いだけだと思っておきたいものである。
不登校の子供のいる一家には必ず一枚欲しい大名作。
ここにある音を聴いて、音楽を拒絶しているかのように感じるならば、それはまったくの誤認である。
ディス・ヒートの感覚の根にあるものは一種の偏執的な変質だ。徹底的に突き詰めた上で周囲の状況や聴いた者の感覚を変化させていく。
そんな演奏が、まるで呼吸を止めて体温を奪うかのような作用を聴き手に及ぼしたとき、ディス・ヒートの本音のようなものがようやく伝達される。その瞬間に聴き手が「今音楽を聴いている」という自覚を完全に捨て去ってしまう状態になることが、このレコードの恐ろしいところだ。
呪術的であるが数学的な様式も見え隠れしているこの音は、しばらくの間廃盤が続いており、熱心なファンに歯がゆい思いをさせていたのであるが、先日突如として紙ジャケット使用で再発された。私はアナログ盤と以前出されたCDを一枚づつ持っていたので、まだ今回のものは買っていないが、いずれは購入してみたいと思う。
この次のシングル、Health & Efficiencyでは少し分かりやすいアプローチに変化しつつも、このファーストにあったディス・ヒートの魅力を発展させていたことに驚いたし、更にセカンドDeceitにおいては、60年代のロックが保有していたサイケデリックのグロテスクな部分を拡大して身に纏ってすらいた。このバンドについて下手な説明はまったく必要が無いし、彼らの音はそれを望んでいない。
ここで書けることは、ディス・ヒートというものが存在している、ということだけに留めておこうと思う。
あとはそれぞれが体験すればよいことなのだから…。
私が愛してやまない一枚。
あれだけ騒がれたネオアコも、もはや過去のムーブメントのような扱いをされてしまっている感じを受ける。いま再びこういった盤を聴きなおしてみて分かるのは、ひたすらポップで聴きやすい音楽であるということ以外には何も無いのだが、その究極的にポップであり続けるということはなかなか難しいことなのであり、このブリリアントコーナーズは当時のネオアコ勢の中でも、かなり良質なクオリティの高い楽曲で話題になったバンドである。
現在、こういったバンドが、例えば米国のニルヴァーナのように間違った伝説化(商品としての曲解されたイメージ)をされていないことは救いであるが、逆に知名度が低くなりつつあるのはもったいない。
こんなに良いものなんだから、後世に語り継いでいってもいいのではないか? と思うのだが、すでにこの名作アルバムにもプレミアがつき、CD再発も行われている様子はない(カナダかどこかだけでは売ってるらしい)。
良いレコードを忘れてしまうというのは本当にもったいないことであるし、それは過去に固執することとはまったく別のことだと思う。良いものはいつまでも良いものとして受け継がれていくべきだと、こういったレコードを聴く度に主張してしまいたくなるのは、やはり音楽の魔力なんだろうか?
五番目の「NO NEW YORK」として伝説となっているTheoretical Girls。
突然こんな編集盤が出ていたので思わず手を伸ばしてしまったのだが、グレン・ブランカのバンド時代の録音が聴けるという意味でも非常に貴重なアルバムだと思う。
やみくもに音を出すのではなく、ある種の信条、思惑などがしっかりと環境として根付いているからこそできる壮絶な演奏がバッチリ収められている。
曲はノイズそのものな実験精神に溢れたものから、直球のパンク、現代音楽のイディオムを利用したものなど様々であり、どれも確かな手ごたえを感じさせる良質な音源集だ。
まぁ、NO NEW YORKのバンドが好きなヒトには一瞬ツメの甘いバンドだと思われてしまうかもしれないのだが、よく聴けばここにある冷徹なまでの実験精神が異常なものだというのが理解できるだろう。一聴しただけでは「よくあるニューウェーヴ」でしかないが、この楽曲と演奏者の間にある不思議な距離感覚が絶妙なのである。
純粋にNO NEW YORKのバンドやソニック・ユースが好き、というだけならば、このバンドには触れなくても大丈夫。ただ、得体の知れないこのバンドのエクスペリメンタルな姿勢を垣間見たいならば、何が何でも聴くべき一枚である。
私個人としては大名盤だと思う。
中東は燃え続ける。
こんなに真摯なメッセージが、当時のハードコアにしては珍しい高音質で、バンと提示される。
このEPの魅力は計り知れない。
クレイはオムニバス以外ではこのEPしか出していないのだが、いまだにその強烈な存在感を支持する者は後を絶たない。
いわゆる型にはまったパンクではなく、全力で叩きつける演奏が新鮮だった。そんな日本のハードコアを語る上で絶対に外せないのがこのシングルである。
残念なことに、ドグマリリースということもあってか、再発はされていない。よくオークションで馬鹿みたいな高値がついているが、たま~に輸入盤のパンクコーナーで間違えて200円とかで売られていることがあるので、そんなときは絶対に買った方がいい。
巨大の音の塊とポリティカルなメッセージがボコボコ殴りかかってくる壮絶なバンドである。
大人になれば チョコレートたべて いろんな事を考えるものさ 『大人になれば』
一億人の妹、二代目コメットさん、衝撃のヌードなど、大場久美子に対するイメージは色々とあると思うが、その歌手活動の側面はあまり語られないままになっている。
つい最近、Arctic Monkeysというのが良いらしいと聞いてレコード店へ行ったのだが、間違えて大場久美子のファーストアルバム『春のささやき』を買ってしまった。
それまで、私はデビュー曲の「あこがれ」ぐらいしか知らなかったのだが、アルバム一枚を通して聴いてみて初めてこの良さに気がついた。
サウンド的には職人気質の作曲家たちによるソフトロックの歌謡曲的解釈なのであるが、作曲者の意図を全て破壊せんばかりに自由闊達な久美子のボーカルが炸裂しているため、まったく別の音楽として機能してしまっている。
彼女の歌こそ模範的な本来のアイドル歌謡曲であり、革新的なまでの斬新なスタイルであったと思う。
とにかく私的に詩的に深く入り込んでくる曲間のナレーションが秀逸であるが、もともとの楽曲そのものがクオリティの高いものであることが、さらに彼女の素晴らしい歌唱を後押ししている。
ラストの「電話ください」の歌いだしが森田童子ばりのサイケデリック空間へ突入しているのは、大場久美子の歌唱がもともと歌謡曲という使い古されたフォーマットにそぐわない成分を含んでいるからであり、革命的な歌手としてもっと認識されるべきだと思った。
全国のサイケデリック・スピード・フリークスは何も言わずにこれを聴いた方がいい。あと近年の希薄な歌謡曲にうんざりしている方にもオススメしたい。これをプレイヤーにセットすれば、それまで信じていた歌謡曲のヴィジョンが痛快なまでに破壊されていく光景を見ることになるだろう。そこからがあなたのパンクムーブメントの夜明けである。
何も信じなくてもいい、ここにあるナチュラルな日常の裏側を受け止めればそれで何かが変質するのであるから、その感覚だけを抱いて落ちて行けば良いのである。
ナムジュンパイクが亡くなった。
彼の創作センスは好きだったので、ショックは大きい。
フルクサスを知り、彼やジョン・ケージの音楽・表現への姿勢に影響を受けた者にとって、今回の死はあまりにも切なく、悲しい。
ナムジュンパイクの無意識的なセンスから創造される音楽や映像は、そこに「在るかもしれない」ではなく、「在ってもよい」である。曖昧な無意識ではなく、受け手の許可的性質によって存在の定義が固められるものだ。
だから、ある人間にとってはめくるめくサイケ映像も、別の者にとってはただの画像の連続に過ぎないというありふれた事実を強調して反映してしまうという、恐るべき性質を内包している。
フルクサスの残党というだけでなく、現在進行形でインパクトのある作品を発表していただけに、本当に今回の死は悔やまれてならない。
心から冥福を祈りたいと思う。
ついにこのシリーズも六回目。さすがに記述ばかりで音源のリリースはまだか! と熱心なスラッヂファンから怒られてしまいそうなので、ややスローペースにしてみました。
まだまだ書くことはたくさんあるのです。
今回はスラッヂ関連の作品の中でも、最もその存在が知られていないEPを紹介したい。
これはもうスラッヂ云々ではなく、ひとつのニューウェーブとして聴いてもらいたい音源である。スガワラ氏が女の子二人を連れてきてスラッヂの「夜光少年」などを録音しているのだが、今現在にこそ聴かれるべき種類のテクノポップであると思う。
手作り感覚に溢れたジャケット、女の子の素直な歌、そして不可思議なアレンジ。
当時のシーンにおいても、これをカテゴライズするなどというのは愚かしい行為であろう。まったく何にも似ていない極私的な音楽だ。突然変異というよりは、別の現実に在り続ける感覚である。
楽曲の打ち込みのリズムは、一聴するところ、TR808あたりのキック音に聴こえなくもないが、実はドクターリズム一台で長時間を費やしてシーケンスを組んだものだという。これは昨今の何でもデジタルで簡単に編集をしているテクノ系ミュージシャンにはマネのできない偉業である。ローランドのリズムマシンを使った者なら分かると思うが、あれを別のシーケンサーに同機させるというのは相当な労力を要する。せっかく組んでも微妙にずれていたり、不可思議な効果によってスネアの音が消えてしまったりと、幾たびのハプニングに見舞われるのである。
そんな大変な作業で、大抵は出来上がってもしょぼいだけのテクノポップ止まりというのがオチなのであるが、このシングルはあのキック音のチープさが逆に良い方向へ作用していて、苦労が実っているように私には思える。
もともとの曲がカッコイイというのはあるが、アレンジにおける執念といった視点からも、私はこのシングルを評価したい。素晴らしいニューウェーヴサウンドである。
スラッヂといえばスガワラ氏の迫力のある捻れたボーカルというイメージがあるが、ここでは女の子ボーカルの起用によって完全にポップな別の曲として「夜光少年」も生まれ変わっている。スラッヂの音楽が好き、というヒトが聴いたら「?」と思うかもしれないが、私は別モノとしてこれは良質なレコードだと思う。
興味深いのは、現在音響系ヒップホップと呼ばれている音楽に質感が似ていることだ。敢えてこのようなビートを持ってくるヒップホップ系の人たちは多いし、ポップな楽曲も新しさがある。似ているヒップホップアーティストは…、アンチコン周辺のWhy?あたりだろうか。ロックのスタイルをヒップホップのビートで、なおかつポップで奇怪な装飾もつけて提供しているというのは、なかなか凄いことであると思うのだが…。
補足すると、このシングルは、当時18歳の専門学校生であった島田春美さんと14歳の女子中学生の子が歌い(スガワラさんも後ろで歌っているが)、スラッヂとは違う質感でありながら、どこかが共通したあの狂った感じを堪能できるというレコードである。プレス数は500枚ぐらいで、そのうち何枚売れたのかは不明である。
できればこれも再発したいなぁ…。とは思うのだけれど、一刻も早くスラッヂ本体の方を世に送り出したいので、ひとまずは紹介だけさせていただきました。でも、いずれはこれも正式に出したいです。
この前、実家に帰ったら親がプロジェクトXのビデオか何かを観ていて、部屋に田口トモロヲの声が響き渡っていた。
というわけでばちかぶり。
スラッヂの資料やスガワラ氏の話からすると、対バンでよく出ていたのがばちかぶりだったようだ。
この時期のばちかぶりは音はパンクなんだけど、色んな方向から考えるような姿勢が良い。ただひねくれ過ぎな感じはありますが…。オンリーユーにしても、ひねくれ過ぎてストレートなパンクに逆戻りした感じだし、この時期は実は迷走期なのでは? と思う。
個人的には以降のファンク路線が大好きだ。こんなに演奏上手かった? というぐらいまとまったオシャレなアルバム「白人黒人黄色人種」をベストに挙げたい。
じゃがたらの影響は強いが、これはこれでオリジナルな黄色人種向けファンク。CD化の時に「ワーストオブばちかぶり」になっていたが、こっちのがいいんじゃないかなぁ。
ゲストがやたら豪華だったファーストと、この「一流」はひねくれパンクな、一般的なイメージでのばちかぶりが聴けるが、できれば「白人黒人~」も聴いてほしい。
なぜナゴムからリリースしたのかは分からないが、ある意味すごくナゴムらしいバンドだったんじゃないかと思う。結果論かもしれないけれど…。
いま過去のエントリーをずっと眺めていて、FRICTIONについて書いていないことに気づいた。忘れていたのではなく、もう既に書いたつもりになっていたのが原因である。
さて、このフリクションのライヴ盤は「軋轢」発売前に録音されたもので、正式にリリースされている音源の中では一番本来のフリクションらしい音が聴ける良質なアルバムである。最近になって突如CDで発表されたわけなのだが、聴きなおしてみるとけっこう荒削りな感じで「軋轢」より全然かっこいい。
以前恒松さんに聞いた話によると、レック氏があの再発では全て指揮していたらしく、もともと音質の悪かった音源をなんとかあそこまでの状態にまでしたらしい。
まさに完璧な一枚であるが、セットでついてきたDVDの方は…、まぁ資料的には貴重なんだけど。
やはりナマで当時のフリクションを見てみたかったなぁ、というのはあるが、現在CDという記録媒体のおかげで、こうして当時の演奏を好きなときに聴けるのだから、文明の進歩には感謝したいと思う。
※以下はフリクションを未聴だという方のために書くので、既に知っている、またはもう疲れたという人は読まなくても大丈夫です。
軋轢が始まると、周囲の景色が変貌してしまう。
それまでの日常が、常識が、自分のPositionが、明らかに狂っていく。
人間の軋轢、精神の軋轢、現象の軋轢。
どんな軋轢にしろ、結末はいつもアレだ。
激しく衝突したまま、ゆっくりと落下していくイメージ。
金属的なものから、天災のような惨事までが同時多発的に侵入してくる。
パンクでもロックでも何でもよかった。方法論に縛られてしまうことは不幸だからだ。
ただ一度のミスもせずに軋轢を知ることができる者は、今後絶対に軋轢を知ることはできないだろう。
だから、誤りが正解に近づくのだ。
もう、暗い部屋で一人血を流しているだけじゃ、時代は変わらなくなってしまったのである。
三田寛子の魅力を文章で表すなどというのは無駄な努力であろう。GOROか何かに載った彼女の水着写真のインパクトたるや、人種や世代を超えた影響力をもってして現在まで息づいている。
彼女の楽曲はやはりあの初々しい歌声によって信じられないような劇的効果を発揮している。
デビュー曲「駆けてきた処女」は井上陽水という天然サイケな作曲者の手によるものであるが、実際に楽曲へ命を吹き込んでいるのは三田寛子のボーカルだ。でなければ、あの曲があそこまでの魔力を保有しえたとは考えられない。
そして、三田寛子といえばスラッヂの片岡理氏である。
片岡氏は熱心な三田寛子ファンで、あるときテレキャスターに三田寛子のステッカーを貼り付けてライヴへ登場し、他メンバーを唖然とさせたというエピソードもある。ちょうど、スラッヂが骨太ロックをコンセプトとして活動していた頃だったため、三田寛子のパブリックイメージからするとバンドにとっては異質な空気だった筈である。
その後、片岡氏は三田寛子に捧げる曲コンテストのようなイベントで見事優勝!! 「握手した手は洗わない」と断言するほどの嬉しさを見せていたという。
片岡氏のソロにおけるフリークアウトさや、スラッヂでのあの屈折しまくったテレキャスの金属的な音を知っている者ならば、このエピソードは意外に思えるかもしれない。だが、よくよく聴いてみれば、片岡氏の根底にあるものが歌謡曲と骨太ロックがぐちゃぐちゃに入り交ざった不定形な物質であることに気づかされる。
テレキャスというのは、もともと図太い音を出すギターではなく、カントリー系のミュージシャンに愛用されていたギターである。それをあれほどまでに強烈に切り込んでいくかのような音で弾いたのは私は片岡氏以外には知らない。
サウンド面で、片岡氏の使っていたエフェクターというのは、某楽器店で3000円程度で売られていたファズをスガワラ氏がプレゼントしたものをずっと使っていただけだという。それ以外にエフェクターは使用していなかったらしい。
そのエフェクトペダルは、金属製のいかにも鉄板といった感じの筐体で、中身も電池ボックスのスペースと基盤一枚といったシンプルな作りであった。そのエフェクターは繋げておくだけですでに異音を発し、踏むと爆発したようなフィードバック音が鳴り響く凄まじい一品だったという。
しかしながら、テレキャスとそのエフェクターがあったところで、そこいらのギタリストにはあの強烈な演奏はできないだろうと思う。片岡氏の演奏は『何かが狂って』いた。この世のものとも思えないような、背筋の凍る残忍さを感じることもあれば、限りなく優しい温かみを感じるときもある。まったく別の次元から発せられているようで、確実に現実を切り刻んでいるような、なんとも形容し難い性質の演奏であるが、それは片岡氏以外にはできないものなのだ。
たしかにコンセプトは骨太のロックだったかもしれない。ただ、片岡氏の演奏から窺える自由さというのは、ロックのフォーマットを突き破って無効化するほどの驚異であったことだけは確かである。
ついに片山氏ともお会いして、スラッヂファンとしては恐縮する一面、どんどん色々なエピソードを聞かせていただいて狂喜してしまいました。菅原氏と片山氏の話から得た情報をそのまま文章にしたら本が一冊できてしまいそうな濃い情報が盛りだくさんで、ここにはちょっと書けないようなこと(例えば灰野敬二が…××)もこっそり教えていただいたりして、もう何とお礼を言っていいか分からない状態です。
そんなわけでスラッヂと当時のその周辺に関しての膨大な情報を得てしまったのであるが、それを一度に書くことはもったいないと思い、まずは順を追ってセカンド・シングルの紹介をしたい。もちろん、少しづつスガワラさんや片山さんにお聞きした内容も混ぜていくので、このスラッヂについてシリーズは今後もかなりの長期に渡って書き続けていこうと思っている。
全国のスラッヂファンは今こそその思いをここでコメントしてほしい。
このセカンドでは前作よりもサウンドがソリッドさを増し、当時のスラッヂのスローガンであった『骨太ロック』によりいっそう近づいたものとなっている。
ジャケットはスガワラさんの手によるもので、前作同様素晴らしいアートワークである。ちなみに裏ジャケは片岡さんが担当。スラッヂのジャケットセンスの良さはもっと注目されるべきものだと思う。
『工事現場でまた見つかった死体』は、前回よりもフリークさが増している演奏で、歌詞も違う。歌詞が違うと言っても、スラッヂの場合は演奏する度に菅原さんの歌詞が違うものなので、どれが正しい歌詞とは誰も断言できないようになっている。菅原さんはその場で思いついたフレーズなどをバッとマイクに向けて歌うのであるが、あとで気に入った箇所はノートに書き写すなどしていたらしい。一応後に残すつもりはあった、と菅原さんは語っていた。
『窓辺のアルルカン』はスラッヂの中でもかなりノリのいい曲で、ライヴの音源でも凄まじい勢いの演奏を聴ける。けっこうこの曲をベストに挙げるファンも多かったのではないだろうか? あと、この曲に関しては「おもしろい客」のエピソードがあるのだが、それは次回にまとめて紹介したいと思う。スラッヂ周辺にはどういうわけか面白い人物や変わった人々が多く登場するのである。
『生』は美しい曲だと思う。スラッヂの演奏はギターという楽器をとにかくフリーキーに鳴らしていた。後の凡百のギターロックバンド勢には無い、ある種のオリジナルな狂気を持ってして構成されているのだから、当然の結果なのかもしれないが、実際に音を聴くと度肝を抜かれる。スラッヂとはそういうバンドなのだ。
このセカンド、世に出ているスラッヂの音源の中では最も優れた内容であると思う。聴きやすいのに物凄く深く、そして純粋にカッコイイ『ロック』であるという点で、これはスラッヂ入門には最適な一枚かもしれない。
いったい何の影響を受けたらこんな世界になるのだろうか? と思っていたら、菅原さんからたいへん興味深いことを聞いたのでその言葉で締めたいと思う。
「影響を受けたのは…、湊マサコだね。あれは凄い影響を受けた」
本当に、底知れないバンドである。
スラッヂの一枚目を改めて聴いてみて思うのは、やはりその独特の世界があまりにも特異かつ洗練されたものだったということだろう。
まず、ジャケットが素晴らしい。黄色は注意を促す色であるが、ここでの効果的な使用法には恐れ入る。箱男の文字も懲りまくった書体だ。
内容は更に謎を深める。『工事現場で見つかった死体』という曲では既にタイトル通りの「工事現場で見つかった死体」以外の意味を最初からかなぐり捨てている。これをシュールレアリスムというだけで片付けてしまうのは早とちりというものであろう。ここでの『工事現場』を高次の現場として比喩してみても良いし、なぜ死体が見つからなければならなかったのか、なぜ死体がそこにあるのか? といった疑問を聴き手側で生成してみるのも面白い。スラッヂの世界には主体的な決定権が不在になっているからだ。
二曲目『夜光少年』では「硬い光の中じゃ目も見えない」という一文が現れる。光の硬度について言及するロマンティシズムの鋭さはやはり文学的な質感を感じてしまうが、それと同様に「黒い家具」や「受話器のベル」といった象徴的なモノが配置されている限り、それはやはりスラッヂの一部分なのだろう。
表題曲『箱男』は一曲目から、物語の開始の意味を持って始まっている。ここではダンボールの箱の中で生きる男が描かれているが、そこでの絶望感は無い。全てをシャットアウトしてしまうような拒絶ではなく、ある程度外部の侵食を許した上での拒絶に見えるのは、ダダイズムに内在するコミカルな一面なのかもしれない。
三曲目の異色作『恋するギャルソン』はおそらく少女の狂気をダイレクトに一人称で表現したものである。ここで少女という定型を持たない精神状態のシンボルを挿入することによって、スラッヂの物語性が大幅に狂気を帯びる。しかしながら、客観的に楽しめる類の異質さであるからこそ、ここでの物語は聴き手に突き放されないのだ。むしろ、愛着を感じるような迷路である。
駆け足で全曲紹介してしまったが、サウンド面での解説をしなかったのはやはり自分自身の手でスラッヂの世界を覗き見て欲しいからであり、文章での音楽説明ほど事実を歪めてしまうものもないと思ったからである。
それにしても、とんでもないレコードだ…。
よく言われる歌詞のドラマ性やサウンドの親しみやすさを抜きにしても、太田裕美が素晴らしいと断言できるのはその歌唱がとてもよく『鳴っている』からだと思う。
無の状態から何かを作り出すような、クリエイティブに満ち溢れた性質の歌では無く、それに接触したものすべてと共振するような伝達機能の優れた歌だ。
だからこそ、そこで歌われている事柄が『涙拭く木綿のハンカチーフください~』であったとしても、実際に木綿のハンカチーフを欲しているわけでもないし、涙が流れているわけでもない。それらはすべて歌を効率よく伝達していくための潤滑剤のような役割しか担っていないのである。
だからといって、作詞者や作曲者の存在を殺害しているわけではない。『さらばシベリア鉄道』を一聴すれば分かると思うが、楽曲自体の魅力が太田裕美の歌の魅力を更に強化する形でうまくまとまっている。作為的な部分もあるにせよ、ここまでうまくこなせるというのは明らかに天賦の才能であろう。
また、太田裕美の声質が多分に呪術めいたテイストを含んでいるように感じられるのは、その球形のような声が絶えず回転しながら、多角的に聴き手を魅了しているからだと考えられる。つまり、A地点から発せられた『恋人よ~僕は旅立つ~』が、B地点から『東へと向かう列車で』の時点でまだ聴き手の内部で鳴っているのであり、更にそれがまた別の顔を持ってして訪ねてくるようなカラクリが随時展開されているのだ。Aの場所からの声がBの地点では最初の『衝撃』に加えて別の感情を更に聴き手に突きつけ、Cの場所に到達するとまた違った側面からのアプローチが開始される、といった具合である。
そして注意したいのは、Aの地点で鳴っている瞬間にも、Zの地点からの歌が存在しているということであり、その同時多発的な性質こそが、太田裕美を魔術的に演出しているのではないかと思うのだが、木綿のハンカチーフを冷静に聴くと、そんなことはどうでもよくなってしまう。
素晴らしい表現であるならば、やはりそれはそのままの姿で受け入れるべきなのだろう。そんなことを、私は太田裕美から学んだのである。
顔の無い人間がいたとする。その人物が泣いているのか、笑っているのか、怒っているのかは客観的には分からない仕組みだ。しかし、それが確実に「生きている」のだということだけはハッキリと分かる場合がある。
スラッヂはまさにその状態だと思う。
情報のほとんどが得られにくい状況で、音源も入手困難。たまにその名は出されるものの、伝説として、自分ではない他人の曖昧な記憶から語られる言葉から、一体何が引き出されるというのだろう。
この状態はTHE SLUDGEの音楽にとっても、それを好む者にとっても歯がゆいものだ。あんなに素晴らしいものが、それを欲する者に届かないという現状を何とかして好転させるには、スラッヂの演奏記録をまとめて世に送り出すしかない。
THE SLUDGEは死んでいない。
ここ数日の間、スラッヂの音源を聴き続けた。
「RED CROSS」には本当に感動して、久し振りにギターで弾いてみたりもした。
この音源を出さなかったら絶対に後悔する…。そんな気持ちがどんどん強まっていった。そして、スラッヂの音楽がまだしっかりと生きていることに気がついた。涙が出そうだった。
スラッヂの演奏からはサイケデリックなニオイがすることがときどきあって、それは絶対に片岡さんが発しているものだと思っていたのだが、実はそれが菅原さんのものであったというのも新しい発見であった。
特に『窓辺のアルルカン』はずっと片岡さんのギターだと思っていたものが、実は菅原さんが弾いていると聞いて驚いた。
スラッヂの独特の酩酊感は片岡さんのナチュラルに歪んだ資質と、菅原さんの持つ深い混沌とした世界がうまく解け合わさって生まれているように思える。
菅原さんが大学のとある部に入部したとき、隣の部室からまるでフリクションのようなとてつもない演奏が聞こえてきて、覗いてみたらそれが片岡さんの演奏であったというTHE SLUDGE結成以前のエピソードを聞いたとき、片岡さんのソリッドな音はフリクションにも通じるものであったことに気がついた。
そして菅原さんの悪夢のようなあの詞こそが、スラッヂにサイケな香りを与えていたのだという気がしてきたのである。
スラッジの演奏には今聴いても時代背景を一切感じさせないスタイリッシュさがある。大抵の音楽は時代の空気を余分に吸い込んでしまいがちであるのだが、スラッジに関しては周囲の空気を拒絶でもしているかのように、THE SLUDGEそのものであり続けている。
そしてそんな性質の演奏であるからこそ、もっと世に伝播させたいと思うのだ。
THE SLUDGEは本物のロック・バンドである。
私がTHE SLUDGEに初めて触れたのは、曖昧な記憶なのだが確かライヴカセットであったように思う。ものすごい不思議な質感の楽曲と他の何にも似ていない世界観、そして圧倒的なギターの音。THE SLUDGEというバンドのイメージに私は心酔していた。
その後、シングル二枚と片岡氏のソロなどを入手し、更に深みへハマって行った。もう海外のどんなバンドよりもスラッジの音にやられた。
あるときブラッディ・バタフライのオムニバスでdip the flagがスラッジの名曲「RED CROSS」をカヴァーしていたのを聴き、THE SLUDGEのオリジナルのスタジオ録音での「RED CROSS」が聴いてみたくなった。しかし、どうやら「RED CROSS」のスタジオ録音盤というのは世に出ていないようで、いくら探してもTHE SLUDGEの演奏する「RED CROSS」は聴けないままだった。
何年も経って、スラッジのことを思い出すきっかけになったのは自分のこのブログだった。スラッジの一枚目である「箱男」と同名の小説を紹介したときに、Yさんからコメントを頂いて徐々に記憶が蘇ってきたのである。
急いで実家のレコード棚を探してみると、片岡さんのソロ作二枚がでてきた。スラッジの二枚はどこか奥の方へ入っているのか、見つけることができなかったのであるが、久し振りに聴きなおした片岡さんの楽曲にはとんでもない衝撃を受けた。
それからしばらく経って、ついに先日、ふとしたきっかけからなんと、THE SLUDGEのボーカルであるスガワラさんにお会いできた。
上野の喫茶店で、スラッジのことや当時の貴重なお話を色々と聞かせてもらえ、更にTHE SLUDGEの未発表音源、ライヴ音源などが詰まった素晴らしいCDまで頂いた。もう感無量である。
私の失礼な質問にもいろいろと答えていただき、その上未発売の音源まで聞かせてもらって、本当にスガワラさんとTHE SLUDGEの皆さんには感謝しきれない。
スガワラさんからは色々と興味深いエピソードを聞かせていただいた。
当時の片岡さんがゴム長と作業着でライヴに来たりしたこと、永寿日朗が青山に開いていた伝説的なスペース「発狂の夜」のライヴの様子、ヤマジさんとTHE SLUDGEのメンバーが一緒にスタジオへ入ったら、ヤマジさんがスラッジの楽曲をすべて完璧に弾いたこと、スガワラさんが片岡さんと初めて出会ったときのことなど、とてもここには書ききれないほどたくさんのエピソードを語ってもらえた。
本当はインタヴュー形式で掲載しようかと思ったのだけれど、それはまたの機会にきっちりとまとめたいのでひとまずはこういった形で書いておきたい。
昨日は家で一人、スガワラさんから頂いたCD-Rを聴き続けた。特に、大好きだった「RED CROSS」は何度も聴いた。未発売のスタジオ録音、そしてライヴ音源。どちらもこのまま埋もれてしまうのはもったいない魅力に満ち溢れているし、THE SLUDGEという素晴らしいバンドがあったことをもっと知ってもらいたいと思った。
そして実は、THE SLUDGEの音源をまとめて再発しようという話が持ち上がっている。
これは絶対に再発されるべきであるし、ネット上でTHE SLUDGEを検索してもまったくヒットしない現状を考えたら早急に対処すべきだと思う。THE SLUDGEの演奏が忘れられてしまっては文化的に重大な喪失であるからだ。
だから、私もTHE SLUDGEの再発に携わることに決めた。
いろいろと権利関係の問題もあると思うので、さすがに私が勝手にプレスしたりすることはできないが、THE SLUDGEのメンバー、関係者の方々と話し合って何とか今年中には店頭に並ぶように進めたいと思う。できる限りのことはしていきたい。
ここまで入れ込んだバンドはTHE SLUDGEが初めてであるし、それほどにまでRED CROSSでの片岡さんが弾くテレキャスの音が強烈であったのである。
どういう形で関っていくかは未定だが、私は何らかの形でTHE SLUDGEには恩返しがしたいのだ。
タイトルに「その1」とあるように、THE SLUDGEに関してはこれからも何回かに分けてじっくりと紹介していきたいと思うし、いずれは皆さんへ素晴らしい音源そのものを届けたいと思う。
最後に、忙しい中わざわざ私のような一ファンのために時間を割いてくれたスガワラさんと、THE SLUDGEのメンバー皆さんに感謝します。本当にありがとうございました。
今後ともTHE SLUDGE再発に向けてよろしくお願いします!
デスメタルとかグラインドコアの最初の頃にやってた人でオススメありますか?
そんな質問があったなら(無いけど)まずはこれをオススメしたい。
リパルジョン。本当におそろしい演奏をしていた人達です。
確か日本盤も出ていたはずなので、今でも探せばあると思う。
ここには全てのへヴィでラウドでハードな音が詰まっているし、現行バンドと比べてもダントツにイカした演奏なのでぜひとも聴いてもらいたい。
こういった音楽に偏見を持っている人にこそ、この純粋なパワーを体感してもらいたいです。大名盤。
あけましておめでとうございます。
今年の一発目は何にしようかと考えたのですが、やはりこれですかね。
もう何の説明もできません。私が考える中で最高のロックンロールレコードです。
この前まだフジヤマに在庫残ってるかな、と思って尋ねてみたら売り切れとのこと。残念です。
この素晴らしいレコードを持っている人は今一度聴きなおしてみて下さい。新年に相応しい怒涛のロックンロールが聴けますので。
それでは、今年も皆さんよろしくお願いいたします。
子供の頃の友人が下北沢の街を守ろうという署名運動をやっている、と伝え聞いた。いわゆる下北の街をぶっ潰して道路を作ろうという計画への反対運動らしい。
そういったデモをする姿勢というのはとても潔く、好感の持てる態度であるが、私はいくら彼に署名を求められたとしてもそれに応ずることはできないだろう。
私はずっと下北沢で暮らしてきた。いまも下北沢に住んでいるし、毎日小田急線で出社している。
でも、それは道路建設計画への反対意志を表明する理由としては余りにも弱すぎるし、私個人には反対する理由は一つも無い。
「いままでの下北の街が無くなるからそれを防ぎたい」という意見は、一見文化を守る正しい姿勢に見えなくもないが、「そろそろ60年前にあった道路建設計画を実行したい」という行政側の意見と並べると、どちらも大して強い理由からの問題提起ではないように思えてならない。
別に私は道路を作るなとも、デモをするなとも言わない。ただ、もう少しよく考えて行動した方がいいんじゃないかと思う。
いままでの下北沢が本当に重要なのか? そんなにいい街なのか? 道路は必要なのか? 誰が得をするのか?
そういった疑問に対する解答が用意されていないまま、下手な運動を私はすることもないし、参加もしたくない。
そして、私にとって下北沢はそんなに良い街にも見えない。昼間っから若者がカツアゲしたりされたり、中高生がホテルで援交していたり、夜は酔っ払いの会社員やバンドマンが殴りあうような、そんな街の何を守ろうと言うのだろうか?
いい街だったら、それは思い出の中だけで充分だ。万人にとってのいい街など存在しないし、外観の保存が文化の保存に繋がるという短絡的な考え方もまた同意しにくい性質である。
いろいろ考えた結果から言えば、道路は通してもいいんじゃないかと思う。今更60年前の案を持ってきたということは行政にものっぴきならぬこと(金の話)があったのだろうし、今の下北の街が無くなって同時に滅ぶような希薄な文化なら、もともと守る必要のないものなのではないだろうか。
ちょっと前にECDが雑誌で「道路を通した上で新しい文化を作ればいい」というようなもっともな意見を言っていたが、デモに関係している人達にはそういう建設的な思考は無いのだろうか?
きっと、反対運動をする人の中にある「下北沢」の幻影はいつまでも美しく、理想的なものなのであろう。ただ、それに気をとられていると、まわりの物事が見えなくなってしまうという事にも気づいてほしい。
これから署名しようと考えている方は、物理的な街の死が、文化的、存在的な死ではないということをもう一度よく考えて署名した方が良い。安易な気持ちでの運動への参加は、危険な事態を招くことになるだろうから。
久し振りに新譜でも。駅前旅館のセカンド、ついに発売です。
前作のカオスが更に深まって、もはやあれこれ批評できるレベルではありません。歌詞カード見ながら聴いていても突然不意打ちのように面白い日本語がばっと切り込んでくるので、電車の中で聴いていたらふと吹き出してしまいそうになる危険性に満ち溢れています。
肉弾時代よりも文谷氏の狂気が固まっているような気がするのは、やはりその歌詞の優れた点からでしょう。こんな変態的な歌と演奏、まず他に出来る人はいません。
肉弾が大好きだった、という人でもしこれを未聴ならばすぐにでも聴いてみてください。今年最後に買ったアルバムですが、今年の新譜部門のベストだと思います。
工藤さんの三日間連続講演が昨日、今日、明日とあるそうですが、仕事で一日も行けず…。
ひとまず、最近になって突如再発されたこの「アトランティックシティ」を聴いて我慢するしかないだろう。
工藤さんの絶妙なうたと、瞬間瞬間を生きる演奏がとても気持ちいい。
ここでは後のマヘルでの開放感とは違ったオープンな印象があり、それはもしかしたら窒息するような苦しみなのかもしれないけれど、工藤さんは閉塞感を一切感じさせない。
自由な表現、という言葉を耳、もしくは眼にすると、工藤さんの曲をいつも思い出す。
マヘルの曲「エヴァとマリアとジュリエット」が印象的なので引用してみたい。
とあるモーテルのさみしい家具の中に デスバレーの思い出を捨ててきたのだ
命の道か死の道か
エヴァかマリアかジュリエット 誰のために
一度外した足枷をまた着けるのか
今も同じ竜と闘って…
この「とあるモーテルのさみしい家具の中に」というフレーズがどういうわけか忘れられない。ことあるごとに頭の中にこの曲と工藤さんの声が響き渡る。なんという中毒性であろうか。
工藤冬里という巨大な才能が三日間連続で目の前で見れるというのに、私はチャンスを逃してしまった…。まだ、今夜と明日の公演は間に合う、誰か私の代わりにあの素晴らしいうたを聴いてきてほしい。今夜はクリスマス・イヴだ。こんなにぴったりのシチュエーションは、もうないかもしれない。
どちらかというとモブス派なんですが、こっちも実はかなり好きだったりします。
AAから出てたと思ったら実はADKリリース! エンジニアはタムです。
全パンクス必聴のソノシートですが、あまり見かけないですね。やはり再発が待たれる一枚です。
バウズ、モブス、モホークスの音源をまとめて『モホークスベスト』みたいなの出してくれる勇気のあるレーベル大募集(笑)。もちろん寿町のフリーギグをきれいな画質でDVD化してくれると最高です。
にしても年末ということで、皆さん忙しい上にこの寒さなので、体調を崩さないようにしてくださいね!
再発についていろいろ考えていて、僕が個人的に最も再発して欲しいのは何かを考えたときに一番最初に浮かんだのがこのジャンキー。
正統派な音ですね。めちゃくちゃカッコイイハードコア。
たしか横浜のバンドで、ホールドアップからのリリースです。
こういった優れたバンドの音源が再発されずに、腐るほど在庫の余っている商業音楽が再発されるような現状には異を唱えます。再発そのものの活性化は嬉しいけど、大ヒットして中古盤が安価でごろごろしているようなものを金目的でなんとなく再発するメジャーレーベルは、一つこのジャンキーでもリリースして汚名返上してみては? と思う。
それと、こういったレア盤に偏った神格化、伝説化を行うことも危険ですね。そんなにいいものなら何故再発されない? という疑問から、音楽業界が大して聴き手の意見を汲んでいないことが浮き彫りになってしまいますから。
つまり、金と力のあるレーベルは一刻も早く再発を活性化させていくべきです。超メジャーな歌謡曲レーベルからジャンキーが出たって、喜ぶ人はいても失望する人間はいないでしょう。だからこそ、やってみるべきだと思います。
何万枚も毒にも薬にもならないCDを製作して、音楽を知らない子供たちを騙して売りつけるようなマネをするなら、100枚でも200枚でもいいから価値あるリリースをしてほしい。本当に消費されるべき音楽っていうのはそういうことなんじゃないかな?
というわけで、今一番再発して欲しいものをここにコメントしてください!!
レーベルや関係者の方はリリースの参考にしていただけると嬉しいです。
いろいろ書いてみてください、同じ作品がいくつ挙がっても構いませんので!!
ひとまず画像はトラッシュにしておきました。
それではよろしくどうぞ~。
こんなのまで再発される良い世の中です(笑)。
聴き所としてはNO-CUTですね。メロディもしっかりしててカッコイイ演奏です。
白(kuro)、アグレッシブドッグス、GAI、GESS、GEDONと、面子も素晴らしく聴きやすい一枚。
NO-CUTはノイズコア中心だと思われていた当時のあのシーンの中で最も聴きやすくカッチリした演奏をかましてくれたバンドですが、後半はポップ過ぎてちょっと苦手だったりします。
ここでのアグレッシブドッグスは初期ですね。
ゲスはリディア・キャッツの前身バンドで、まだパンクロック全開な感じ。
白に関してはアルバムが再発されたばかりなので近いうちにそちらで紹介します。
GEDONもよく愚鈍と間違われていますが、違う人達です。パンク精神に満ち溢れた演奏ですね。
そしてGAIもスワンキーズへの流れを感じさせる直球な感じで、とてもカッコイイのです。
この前のスワンキーズライヴを見逃して後悔しまくっている私のような人間はぜひともこれを聴いて自室で盛り上がってください。
もうここ最近の再発ラッシュで久し振りに新譜を買いまくってます。財布が…。
このスターリンも、ブートで出回ってたモノよりも全然音質がイイ!! 内容は大体知ってたけど、あらためてCDで聴くとカッコイイですね。特に達也のドラムが気持ちいいぐらい暴れてます。良次雄のギターはちょっといつものパワーがないかな? と思ったんですが、聴き込んで行くと「ああ、なるほど」というような感想も持てるようになり、もうOKです。
スターリンの歴代ギタリストの中では個人的には金子あつしが一番好きなんですが、タムにしても良次雄にしても、独特の「音」を持っているというのが素晴らしいと思いました。
ところで、何でこれを買ったかというと、ユニオンで買うと特製のスターリンマグカップなるものが貰えたからで、これは今毎日職場で愛用しています。真っ黒なボディにスターリンのロゴが入った実用的な一品です。マグカップだけでもう満足。
そんなわけで、年末の日本80sパンク・ハードコア祭り&再発祈願特集がこのブログでも始まりましたが、そろそろ再発してほしいものを書くコーナーなども設けていこうと思うので、末永くおつきあいください。欲しかったものが手に入ったときの喜びは、やはり皆で分かち合いたいものですからね!
カセット「ちょっと、たりないチンピラ」に「GET DOWN VALIS」を合わせてさらにライヴDVDまでついた完璧な再発!! 待ってました。
もちろん早速買ったわけですが、聴いてみて驚いたのはカセットのときとは音質がまるで違うということ。あのもこもこした感じが無くなって、実に迫力あるものになっています。
これはどうやら中村達也の家にあったオリジナルマスターから起こしたものらしく、ある意味リミックスまで行っている素晴らしい逸品です。そのため、良次雄のあのカッコイイギター(UKロックっぽいこともあればハードなブルース調であったりもする天才的な職人芸)がバッチリ鼓膜を直撃します。
DVDも実に興味深い映像ですので、GOD(原爆オキシドールの意味でしたっけ?)ファンは絶対に買ってみてください。オリジナルを持っている人も、これは別物として優れているのでオススメです!!
再発されて本当に良かったと思います。
ADKから出た看護婦モノ(こう書くといやらしいですね)。ギターはガスタンクのタツ氏で、ドラムがエクスキュートのユーロさんといういかした面子になったセカンド。
ヴォーカルの声質が苦手な人も多いと思うけど、私は大好きなんでこうして紹介してみました。
一時期ギターがタム氏、ドラムがピルさんという強烈なヘルプが入ったときがありましたが、音源は…あるのかな? まぁ、そういった謎の音源を発掘して再発してもらおう、というのがこのブログのテーマになったので、ナースもぜひリマスターして再発希望です!!
いつでもっ、どこでもっ、あなたのっ、ナーーース!!
もう立ち直れません…。
これはもう批評できるブツじゃないですね。
音はハードコアというよりはサタニックっぽい感じです。しかし後のダンマカでのデビロックとはまったくの別物。ここではチェリーさんの凶悪なドスの効いたヴォーカルが最高に攻撃的ですので、正座して聴くべき一枚。
おっかないイメージが強いゾウオですが、やっぱりかっこいい音楽としてもっと聴かれるべきですね。数年前出たブートもちょっと音質悪い感じだし、やはり正式な再発が望まれる作品です。
全てのモヒカンパンクスはまずこれを聴きましょう。カッコ良過ぎて死にます!!
ハードコア史上究極のアンサー。入手困難な初期音源をまとめた最強の一枚である。
この奇怪なドラム(もたついているのかわざとなのか不明)や、突っ走るヤケクソな勢いには今聴いても頭が下がる。
本気でカッコイイ演奏。文句なしに盛り上がれる熱狂的な空気が気持ちいい。
エクスキュートはやはり初期の直球ハードコアが一番なのですが、このリーズナブルだったアルバムにもプレミアがつき、オリジナルのソノシートなんてオークションで5万ぐらいするという異常なものなので、どんどん伝説として語り継がれるだけの存在になってしまいまったが、そろそろ正式に再発してもいい頃じゃないかと思う。
クリミナルフラワー以降の独特なポジパン風の曲も嫌いじゃない。が、やはりエクスキュートといえば初期のあのイメージが強烈なので、未聴の方にはできれば最初に初期音源を聴いてほしい。
このレコードが入門編としては最適だったのであるが、残念なことに入手困難であるという現状から、当分エクスキュートが再び解放される日は訪れないだろう。
なんとももったいない話である。
こりゃマズイでしょ、人権擁護法案。
明らかに国民の意見がまるで反映されていない法案だし、こんなもんが可決されたら僕のような人間はあちこちから攻撃されて獄中で孤独な死を遂げるということになりかねないでしょうね。
この法案の内容は、ちょっとした差別的な言葉や表現を徹底的に吊るし上げてやろうっていう『表現の自由の殺害』そのものとしか言えないものです。
というか何を考えたらこんな危険思想が育まれるんでしょうね。
公○党によるファシズムの布石にしか見えないんですけど、あいつらが守ろうとしているものが本当に人権なのか? アンケートをとったら全員がNOと答えるでしょうね。
しかし、もっとマスコミで騒がないとこの法案可決されちゃうよ。ホントに。
いまこそデモを起こすべきだと思うんだけど、世間の若者たちはまだホワイトバンドとか着けてるし、ダメそうな感じだよね。あー、ムカつく。
だいたい党員の意見しか尊重されないっていう体制が嫌だ。虫唾が走る。
あいつらは僕らに何をしてくれた? 金をくれたか? 自由をくれたか? 愛をくれたか?
こういうときだけしゃしゃり出て、善意の仮面を被って自分に都合のいいファシズムを展開しようとする、その腐った根性が許せない。
もしここを読んだあなたが「オレには関係ねぇ」と思ったなら、もう一度よく考えて下さい。
ひとまず、具体的な例を挙げます。
あなたの大好きなハードコアパンクを演奏しているバンドが突然差別的な歌詞を歌ったとします。そしてそれを聴いた誰かがそれを差別的なものとして受け止めたとします。そうしたらそのバンドには即、令状も無しに家宅捜査や資料押収、出頭要求が出されます。しかも拒否した場合は犯罪者として処罰されるのです。
どうです? ファシズムとしか思えない国家になると思いませんか?
この危険な法律は関係無いと思われていたハードコア兄ちゃんや絵描きの人、貧乏監督などをも生殺しにしてしまいます。表現が殺されるわけですから、世の中の表現は全て味気の無い偽りのメッセージソングや風刺漫画、偽りのドキュメント映像などになってしまうわけです。
反対運動も色々な場所で持ち上がっていますが、まだまだ生ぬるいです。可決されたら日本の文化が壊滅するのですから、悪しきカルト教団である××(公○党)が中心となって提案したこの呪われた法案を、我々は絶対に粉砕しなくてはなりません。
だいたい、こんな法案に賛成するような奴は××の信者くらいしかいないでしょうしね!
このままだとかなりの確率でこの法案が可決されるという危険な状況にあることを、皆さん一人一人が自覚してください。
この人権擁護という名の人権侵害を、皆さんはどうお考えですか?
まさに仙台の最強面子!
B まあがれっと じゅん(責任転嫁)
Vo りゅうぢ(DISARRAY)
Dr ひでき(REBEL)
そしてギターはブラッドベリーのヒロミさん。
ここでもりゅうぢ氏のボーカルはカッコよく、素晴らしいハードコアソノシートである。
「気弱そうに施しを受けたら賢者を背後から殴り倒す」
いったいこの世界観は何なのだろうか? 純粋な悪を描くにしてはいささか狂気的に思える。そしてあの渋いハードコアサウンドが状況を盛り上げ、混沌は拡大したまま幕を下ろす。
仙台には行ったことがないが、とんでもないところなんだろうな、と思わせてくれたのが責任転嫁とこのビトウシャであった。
ギターの音が真正面から迫ってくる、まさにジャパニーズ・ハードコアなのだが、私はヒロミさんのブラッドベリーの方のライヴ音源などは聴いたことが無い。おそらくG-ZETのCDに入っていたあのスタイルなのだろう。
もっと他にも聴いてみたいが、そんなに音源の残っている人達でもないし、未発表モノの再発を待つことくらいしか私に出来ることは無い。ただ、とにかく興味が尽きない魅力を持っていることは確かである。
それがどんな見解にしろ、真理かどうかという判断は最終的には聴き手に委ねられる。だから、ここでの見解はあくまでも提示、もしくは問題提起としての見解であって、回答では無い。
激しい音が詰まっていればそれでいいとする風潮もあるのだろうが、結局は個人の意見が最終的には尊重される。世間の流れや風説などは認識する側で如何様にも料理可能なのだ。
ここにある音は、すべて新鮮であるし、あながち間違った見解であるとは思えない。ただ、どこに落とし穴があるかはまったく予想できないのが、この手のコンピの恐いところでもある。
スワンキーズの影響丸出しの彼ら。けっこう楽しめるCDです。前作はレアですけど、こっちのCDは比較的入手しやすい。
サザエさんのカバーとか意味わかりませんが、ポップパンクという意味では軽くていい具合なのではないでしょうか?
という知ってる人、詳しい活動内容について教えてください。わりと人気あったみたいなんで、ライヴの様子とかも知りたいです。
ヴォーカルの人が作る曲はポップなロッキンパンクなのに、ギターの人が作るとハードコアっぽくなる不思議なバンドでした。
ロックンロールは悪魔の音楽だった。ストーンズにしろブラック・サバスにしろ、彼らが黒魔術的な方法の一つとしてロックを選択した若者たちであったことは旧知の事柄である。
海外のサタニズムのニオイがするロック・カルチャーは、ミック・ジャガーがケネス・アンガーの映画にあのようにして関ったことからも推測できるように、ドラッグ漬けの悪魔崇拝から成り立っているものである。それは土着的な習慣や信仰へのカウンターとして機能していたものであるため、日本での効果は現地のそれと比べるとイマイチな感じがしないでもなかった。
では、日本にそのような悪魔の音楽をやるバンドがいなかったのか? と問うならば、いたのである。しかもとんでもないバケモノバンドとして今も伝説化されて語り継がれているバンドだ。
そのバンドこそがこの村八分である。
チャー坊の歌詞は日本特有のカウンターであり、サタニズムに代わる武器として吐き出された。ドラッグの影響丸出しのメンバー写真、冨士夫のとにかくかっこいいギターフレーズ、インパクトのありすぎるステージ、そしてその強烈なバンド名などで、あまり表にだされることはなかったバンドであるが、影響力は凄まじいものであった。
いままでは主にこの二枚組みライブだけが入手しやすい音源であったわけだが、先日ついにボックスセットが発売され(しかもDVD付き!)、封印が解かれたこの村八分。日本で最も凶悪で危険なロックをやっていた彼らの演奏を改めて聴いてみると、やはり魔術的な印象はあるものの、その日本でしか成し得なかったであろうサタニズムに代替する迫力がしっかりと息づいており、本物のロックの恐ろしさを思い知った。
それにしても、チャー坊と冨士夫のルックスは本当に恐い。学生時代、街でこんなのに絡まれたら嫌だなぁ、というどうでもいいことをよく考えた。本物の不良の持つ迫力が、村八分の存在に更に拍車をかけていたことは事実であろう。
これから村八分を聴いてみよう、という方にはぜひあのボックスをオススメしたい。内容がいいボックスセットなんて滅多にないが、アレは買って損はないと思う。未発表音源やDVDだけでなく、この『ライブ』もリマスタリングされて完全復刻で入っている。
「本物のロック」という言葉を幻想で片付ける前に、この演奏だけは聴いてもらいたい。
間違いなく、これはロックである。
ついに村八分のボックスが発売され、その充実した内容に感動したわけなんですが、よく考えたら山口冨士夫のソロに関しては書いていなかったので改めてここで紹介。
まずはプライベートカセット。これがおそらく冨士夫音源の中で最も素晴らしく、サイケデリックな質感も伴った異色ともいえる一枚だと思う。再発されて本当によかった。
特にラストの『STONE』はラリーズを経由した冨士夫が独自のサイケデリックを打ち出した決定的な一曲であると思うし、他の弾き語りもすべて純粋な歪み方をしている。
村八分でのストーンズ風の楽曲が好きという人にも、ここにある純粋なロックを聴いてもらいたい。ジャケットもクスリの香りがぷんぷんする風景であるが、ここにある音との相性は最高だ。日本のロックを代表する一枚として、村八分以外の冨士夫作品を一枚選べと言われたら私は絶対にこれを挙げる。
二曲目の『Just Friend of Mind』の「サングラスかけたまま泣いてた」とか、聴いてるこっちが泣きそうになるフレーズも最高にクール。『捨てきれっこないさ』とか、本当にしみじみとするいい歌が詰まっている。
つまらない誤解から責任を他人になすりつける、という技がある村には伝えられているとする。そしてそれを黒魔術の研究家が目撃したとしたらどう思うだろうか?
おそらくそれは悪しき魔法として認識されるだろう。オカルトに小道具は必要無いのである。だからこそ、責任転嫁は呪われた呪術としての側面を捨て去ることが出来ない。
もし、動物の死骸や人間の体液を用いる儀式を間に介在させてしまったら、それはもはや責任転嫁では無くなってしまうだろう。小道具を使うリアリティ重視の黒魔術には魅力などないのである。
そしてついにこのアルバムが再発された。
仙台のパンク、と聞いて私は真っ先にこのバンドを思い浮かべる。「アルカリ液」や「IN THE SHADOWS」は何年経っても素晴らしい名曲であるし、レアアイテム化して一般層が聴けなかったという状況を打破したという意味でも今回のリリースは快挙である。
このバンドが持っていた不思議な魅力は、今もなお強烈に鳴り響いている。
恒松さんがギター一本でアコースティックな感じのライヴをやるときいて、詩人のイズミさんの協力の元に「青い部屋」へ行って来た。イズミさんどうもありがとうございます!
そしてあつかましくも恒松さんにちょっとしたインタヴューをしてきましたので、ここに掲載しようと思います。テープレコーダーを忘れたので思い出しながら書きます。すいません。
森本 「すいません、サイン下さい」
恒松 「ああ、いいですよ」
差し出した上の写真のジャケを見て恒松氏苦笑。
森本 「ありがとうございます! 少しだけインタヴューさせていただいてもよろしいですか?」
恒松 「ええ」
森本 「今日はギター一本で弾き語りのようなスタイルでやると聞いたのですが…」
恒松 「そうだね、僕は弾き語りって言葉が好きじゃなくて、なんていうのかな、弾きがなりみたいな感じかな、そういう形でやろうと思って」
森本 「弾きがなりですか! ちなみに曲目はどういうものを?」
恒松 「うん、今日は僕が昔聴いてた、好きだった曲をね。国内外のGSとか、あっ、これセットリストです」
森本 「ああ、いきなり一曲目がジャックスの『時計をとめて』ですか!」
恒松 「こういうの好きだったんだよ、高校の頃とかずっと聴いてて」
森本 「ちなみに早川義夫さんはどう思われます?」
恒松 「(笑)どうって言われてもなぁ。うーん、ああいうのはちょっと苦手だな。でもね、この『時計を~』は早川義夫の曲じゃないんだよね」
森本 「あっ、確かそうですね、作曲違いましたよね」
恒松 「うん。あとはカップスの本牧ブルースとかも今日やりますよ」
森本 「こういったGSで一番好きなグループって何ですか?」
恒松 「一番は難しいなぁ。カップスも好きだし、スパイダースの最初の頃とかも凄く好きだね」
森本 「ちょっと意外な感じですね、でもスパイダースはかっこいいですよね」
恒松 「かっこいい。こういうのを好きで聴いてたから、最近は好きだった曲のカバーもどんどんやっていこうかと思ってて…」
森本 「そういえば最近になってフリクションのライヴ盤が再発されましたけど、あれは恒松さんは関ってるんですか? マスタリングとか」
恒松 「ううん。ノータッチだね。あれはレックに任せてあるし、中身は聴いてないけどレックを信頼してるから」
森本 「なるほど。最近フリクションのメンバーとは会ってますか?」
恒松 「連絡とってるよ。本当、僕にとってフリクションって大切だった。だってメンバー全員が解散した後もこうして現役で活動してるバンドってそんなにないと思うんだよね、レックにしろチコヒゲにしろいまだにやってるからね」
森本 「凄いバンドですよね。若い世代にもフリクションって絶大な位置にあるんですよ。もう別格というか、神様みたいになってる部分もあって」
恒松 「自分でも誇りというか、フリクションにいてよかったと思ってる。それは最近でもよく思うよ」
森本 「再発もそうですけど、新譜は出される予定とかありますか? あの、今日やるカバー曲だけで一枚作ったりとか」
恒松 「それはあるよ。まだ正確には決まってないけど、いつかは出そうと思ってる。自分の好きな曲のカバーアルバムっていうコンセプトでね。どうなるかはわからないけど」
森本 「楽しみです。皆再発もいいけど、やっぱり新譜が聴きたいんですよ」
恒松 「そうだよね、新譜は出したい」
森本 「EDPSのジャケットなどでもそうですが、恒松さんの絵を見て思うのは何時間ぐらいかけて描いてるのかっていうことなんですけど、実際絵の制作期間というのはどれぐらいなんですか?」
恒松 「多分みんなそうだとおもうけど、一つのものを完成させるまでやるんじゃなくて、途中で置いておいて別の絵を描き始めたりとかするんだよね」
森本 「同時に平行してやるんですか?」
恒松 「というより、一枚描いてる途中で保留にして、もう一枚を描いてるときにまた思い出して最初の絵を完成させたりだとか、何年も放っておいたのを突然完成させたりとか、そういうことだよね。これは僕以外にもみんなよくやる方法だと思うけど」
森本 「あの絵はそうして描かれていたんですね」
恒松 「うん、ずっと置いておいたのを思い出して完成したっていうのもけっこうあるよ」
森本 「話は変わりますが、恒松さんにとってニューヨークってどういうところですか?」
恒松 「ああ、NYにはちょっと前に行ったよ。もうほとんど観光なんだけどね。いろんな名所をまわって、いいところだと思った(笑)。ド田舎だよね、いい意味で」
森本 「以前何かの雑誌でレックさんが『ニューヨークから日本へ戻ってきたらすごく鬱になってニューヨークへ戻りたくなった』とおっしゃってたんですが、恒松さんはどうでした?」
恒松 「僕は最近行ったし、観光だったからね(笑)。レックはやっぱり年が違うし、あの当時だったからだと思うよ。僕は旅行は好きなんだけど、チケット取ったりとかそういうのが面倒でね、全然行かないんですよ」
森本 「なるほど。では恒松さんにとって『ロック』ってなんですか?」
恒松 「うわ、難しいなぁ。うーん、とくにそういうのは考えないね。考えないで演奏してるよ」
森本 「ものすごくカッコイイので、何かロックへ対しての姿勢みたいなものがあるかと思ったんですが」
恒松 「ううん。とにかく深く考えないようにやってるよ」
森本 「あっ、そろそろ時間ですね。ステージあとで観させてもらいます。よろしくお願いします!」
恒松 「うん」
森本 「では、ありがとうございました!」
というわけで何とも中途半端なインタヴュー内容になってしまったのは私の準備不足のせいです。申し訳ないです。
恒松さんは本当にクールでかっこいい方でした。ライヴも物凄く洗練されているというか、無駄の無いステージで、その研ぎ澄まされた佇まいにはただただ尊敬するしかありません。
お忙しい中インタヴューに応じてくれた恒松さん、本当にありがとうございました。あと、サインは家宝にします(笑)。
出た!!
何がってこの二枚組みです。June Bridesの決定的なアルバムですね。
これまでギターポップ好きの間で幻のグループとまで言われていたあのJune Bridesの音源がついに再発。しかも二枚組みで値段もリーズナブル。これを出したチェリーレッドは本当にえらい。
音はやはりあの時代の音で、ギターポップ好きにとってはたまらない作品となっています。
個人的には二枚目のラストに収録されているベルベッツのカバーでとどめを刺されましたが、トータルでクオリティの高い作品だと思います。
ちゃんと音源を聴いたのは初めてでしたが、かなり重要なグループだということは確実です。
タワレコあたりで入手できますが、枚数が少なそうなので欲しい場合はお早めにお求めください。
久し振りにヒットしました。
この冷めた感覚が、後に多大な影響力を持って語り継がれようとは、この時点の彼らは気づいていなかったと思う。
ワイアーはパンクという思想をこのアルバムの中で見事に突き詰め、解体した。ここまでストレートな音になったということが奇跡なのではなく、努力と才能の結果であることは一聴すればよくわかる。
音楽と向き合う姿勢として、ワイアーは優れている。
実直で硬質ながらも、幅広い選択を可能とした柔軟性こそが、ワイアーの素晴らしいサウンドであると思う。
イギリスよりもアメリカや日本で根強い支持を得ている彼らだが、先駆的であったという事実を抜いても尊敬できるバンドであると思う。
しばらく放置してしまった。
エスプレンドール・ゲオメトリコの金属ビートが、静かに鳴り響いている。
後半は随分とポップになってしまったが、このカセットのころの重苦しい雰囲気がゲオメトリコの魅力であった。
よくテクノイズの原点だとか言われて一部ではもてはやされているが、ちゃんと聴けば分かるとおりこれはただの雑音であって、曲解したイメージで接すると思わぬ落とし穴にはまりかねない。ノイズはノイズなんだと分からないままこういった音楽を闇雲に絶賛したり、中途半端な知識でテクノとの関連性を説いたりするのはやはり危険である。
まずはゆっくりと聴き、理解した上で、言論は行われるべきだと思うのだが…。
メディアが信じられないのはそのあたりの偽りの情報に踊らされている人があまりにも多いからであり、ゲオメトリコのような存在が誤解されたままの情報で認知されていくという状況はちょっと辛い。
本当は「スペインのノイズの人達」という、たったそれだけの情報で良いのである。実際に音を聴くまでのきっかけとなるのであれば、それは情報として活かされたことになるからだ。そこに余計な装飾は必要ない。ことにゲオメトリコのような音楽は、実際に金を払って聴いた時点で理解できる性質のものなのだから、聴いてみないことには何の意味ももたない。
知識を蓄えることはいい。ただ、体験することの方が何倍も重要だということを忘れないでほしい。
聴く価値も無い、などと批判されて、それがプラスのイメージに転化されるのはこのプッシーガロアぐらいなものだろう。ジョン・スペンサーはブルースエクスプロージョンよりもこの時代の狂った音の方が好きだ。ここにある剥き出しのどうしようもなさこそが、ロック・ミュージックの一番素直な形である。
ジョンスペがブルース・エクスプロージョンにおいて、自身の音楽の根底にあるものがブルースであるという一種の告白を行ってしまってからというもの、プッシー・ガロアをなんとか正統的な音楽として理解しようという運動(?)が広まったものだが、結局ここにあるゴミのようなロックに鼓膜を馬鹿にされてしまい、トラッシュイズビューティフル的な誤解を招いてしまったのが残念でならない。
プッシーガロアの酷い演奏を聴いて、そのあまりに下手でうるさくてゴミに等しい楽曲を、それそのものとして受け入れた上で絶賛できるならば、私はあなた方の音楽観を信じることもできる。ただ、やみくもに情報だけの「ジョンスペ」を聞いて判断しているならば、あなた方は私の敵である。
このようなものを『ローファイ』などと勝手に呼びつけてもてはやすような奴らは人間じゃない。これは限りなくゴミに近いロックであり、それ以上でもそれ以下でもない。判断はきちんと金を払って、何の情報も無いままこのようなゴミ盤を購入し、プレイヤーに乗せて出てきた音を聴いた上で行えるのだ。
前々から思っていたことだが、音楽の増殖によって聴き手のモラルや判断能力が著しく低下している気がしてならない。もしあなたが不安ならば、かつて子供の頃にレコード(若い子はCD)を買ったときのことを思い出してほしい。少ない小遣いで、本当に聴いてみたい音楽を買い、それこそ盤面が擦り切れるほど繰り返しリピートした筈である。あの頃の音楽に対する姿勢さえ取り戻せば、全ての音楽が輝かしく、そして生々しくリアルにあなたの前へその全貌を露出する筈である。
そこで料理方法を考える時間こそが、リスナーにとって最も幸せな時間なのである。
ちなみに私、ジョン・スペンサー&ブルースエクスプロージョンも大好きです。
遠まわしな青春だって、わりと爽やかに過ぎ去っていくものだ。
ネオン街のあの酒臭く、ドブ臭く、人間の体臭と料理店の裏のアブラ臭さが混ざったあのニオイだって青春なのかもしれないし、ミステリーサークルはちっともミステリーではない。
結局認識の度合いによって決まってしまうのが青春だ。
郷愁やかつての恋愛感情だけに青春を背負わせることは過酷である。コップの中にも火葬場にも青春はあるのだ。
だからここにある音が青臭いものであったとして、我々にそれを否定する権利も青春的判断力も無いのである。
赤いゴムまりが転がっていく先があのようなポルノ映画だったとしても、僕たちの青春は循環し続けることができる。
まだゾンビーズで引っ張ります。
これはゾンビーズのコリン・ブランストーンのソロで、驚くほど繊細な情景が描かれている名盤です。
しかし、これまた評価がイマイチで、なんだか不遇な感じがします。
内容はゾンビーズ時代には使っていなかったストリングスサウンドを全面に使用した美しすぎる楽曲が並んでおり、この人の才能の豊かさに驚かされます。わりとぼんやりした輪郭の歌声なのですが、それが魅力でもありますね。
ゾンビーズ時代のサウンドを期待するとまったく違うので違和感を感じるかもしれませんが、これはこれで奇跡的な名作なので、ゾンビーズとは別物として聴いてみてください。
というわけでブリティッシュのゾンビーズ。
ソフト・サイケの大名盤ですが、「好きさ好きさ好きさ」が入っていないのでこちらのアルバムを最初に買う人というのは少ないですね。みんなベスト盤や編集盤を買おうとしますが、そんなことせずにまずこれを聴いてほしいです。
とにかくアルバム一枚通して素晴らしくポップだが、当時のイギリスでのゾンビーズの扱いは酷く、あまりパッとしないまま解散してしまったのである。当時はどちらかというと、どっぷりクスリに漬けたようなドロドロのへヴィサイケが登場してきた時代であり、このようなポップなソフトロックは飽きられてしまっていたらしい。
だが、ゾンビーズの影響を受けたバンドも多い筈で、このスタイルの無名ソフトサイケバンドはしばらく増殖していく。やはり捨てがたい魅力があったのだろう。
現在ではリマスターされ、ステレオ、モノラル、そしてボーナスまで入った紙ジャケのCDが再発されており、容易に入手可能である。
未体験ならばぜひ、このフラワーサイケに浸ってみてください。
海外のあのバンドではなく、日本の80年代初頭に活動していた人達。
とにかく素晴らしいので勢いあまって紹介してしまったが、果たしてこれを知っている人がどれほどいるのだろうか?
まずA面の「ファイナル・ソング」における工藤冬里のピアノが美しすぎる。工藤氏のピアノはあまり聴ける音源が少ないのだが、ジャズを基調とした素晴らしいものであることだけは言っておきたい。
ヴォーカルはややポジパン風味というか、当時のあの系統のオルタナティブ・デカダン歌唱なのだが、ドラム・ベースはしっかりしたリズムをキープし、ギターも適度な暴れ具合で聴きやすい。ここまでのクオリティで他の作品が残っていないことが悔やまれる。
ひょっとしてこれ以外にも彼らの音源ってあるんでしょうか? 知っている方がいたらコメントお待ちしております。
見え透いたパロディなど御免だ。私たちの欲しかったものは確かにリアリズムに裏打ちされたパロディだが、あからさまに「パロディです」と言っているものに対しては冷ややかな視線を送らざるを得ない。
そういった贋物でしかないパロディに対し、コモンはパロディであることを表現の幅をもってして隠蔽せしめた偉人である。
「ヒップホップって他人の曲使ってるような低俗な音楽でしょ」
などとしたり顔で語るお前のその発言、および思想は本当に自分のオリジナルなのか?
どんな発言をしようとも、それをパロディだと思われてしまったなら意味性は虚脱する。無効化といってもいい。とどのつまりは発言したという行為そのものの存在自体が危うくなる。
だが、コモンの素晴らしいところは自らがパロディだということを全く匂わせずにパロディであることの利益をフルに活用してみせた点である。
ここにある奇怪なギミックのすべてがそのために作用していると考えると、やはり才能によってヒップホップというものは見事に変質するものなのだということを、目の前に突きつけられたような、そんな気持ちになる。
いわゆるブリティッシュ・ハードロック・プログレ・サイケなんですが、いったい何のジャンルにしたらいいか分からなかったのでプログレということで。
このアルバムを購入した動機は、ただキーフのジャケが好きだったからで、中身の音に関してはまったく分からないままレジへ持っていった。
実際に聴いてみると、かなり重厚なメロディが美しいプログレ・サイケといった感じだった。悪くない、どころかすごくいい。そう思った。
こういったアルバムが再評価され続けているわりに、世間でのいわゆる「最新型」の音楽への影響が少ないのが気になる。たとえばこのアルバムに憧れてメロトロンを3台ぐらい使うバンドが出てくるとか、キーフのようなジャケ(いわゆる写真着色)を専門にデザインするレーベルだとか、そういうものがヒットチャートを作っていった方が遥かにおもしろいと思う。
今のヒットチャートに欠けているのは面白味である。別に音楽性の高いものや表現が素晴らしい音楽が売れているわけじゃないのなら、せめて面白味は欲しい。
たとえば、子供の頃、仮面ライダーの怪人図鑑や海などに住む奇怪な生き物の写真を見て抱いたあの興奮を、流行音楽で味わえたらなぁ、と思うのである。
得体の知れない魅力、というのが、子供の頃見た仮面ライダーの怪人図鑑にはあった。本来ヒーローである筈の仮面ライダーよりも、毒々しい外見の怪人の方が、見ていて面白味を感じることができたのである。
つまり、音楽のヒットチャートをエンターテイメントの一部に引きずり降ろしたのならば、そこに面白さが無ければそれはただの儲かっている人ランキング以外の何物でもないというわけだ。
面白さというのは、音楽性で表現してもいいし、アーティストのパフォーマンスでも、その双方の複合でもいい。どんな方向でもいいから他のモノとの差別化から面白味は生まれるのだ。
だから普通のコミックバンドをやって笑いをとっても、それはここでの面白味とはまた話が別である。かつてない、他では見ることのできない、感じることのできない体験をさせてくれるような何かが無ければ、ヒットチャートなど必要無い。
はたして、日本の音楽チャートは仮面ライダー怪人図鑑になれるのだろうか?
「ピンクのブタが飛んでてさぁ…」
中学のとき、ヒッピー風の男がそんなことを電車内でしゃべっているのを耳にした。そのとき、こいつは頭がおかしいのか? と思った。私は素直な少年だった。
しかしながら、ピンクのブタが飛んでいる、という言葉がその日以来頭から離れなくなってしまった。
毎日毎日「ピンクのブタが飛んでいる」ことばかりを考え続けた。時期的には周りが高校受験という単語を口にし始めた頃だった。
ある日、何も知らなさそうなクラスの女の子に「ピンクのブタが飛んでいるのって見たことある?」と聞いてみた。ところが、その子は顔を赤くして「何言ってんの?」と切り捨てたのである。まるで私が卑猥なことでも言ったようだった。
もうピンクのブタ幻想が私の頭の中で破裂しかけた頃、その謎は氷解した。
レコード店でこのジャケを見つけたのである。
私はすぐさまありったけの小遣いを使用して本作を購入。そしてしばらくは音を聴かないままジャケットだけを眺め続けたのだった。
しかし、あまりにも刺激が強すぎたため、私はしばらくこのレコードのことを忘れてしまう。
その後、なんとなく高校に入って、特に何もすることがなかったので古い音楽をいろいろと聴くようになった。特にサイケデリックのもやもやした感じが当時は妙に耳に馴染む気がして、聴き続けているうちにそういったレコードの知識が自然と身についていった。
トゥインクというのを知ったのはそんなときで、当然トゥインクからピンクフェアリーズのことを思い出し、本作は再びターンテーブルへ乗ることとなったのである。
そのとき聴きなおしたこのアルバムの破壊力は、いまでも鮮明に覚えている。とにかくハードでストレートな楽曲が、ジャケのイメージとは無関係に炸裂する。トゥインク在籍時の一枚目にあったようなどろっとした感じは無く、どちらかというとソリッドな質感であった。
ピンクフェアリーズに対する私のエピソードはそんなところだ。
それ以外、特にこのバンドと密接な関係を持っていたことは無い。しかしながらジャケットのイメージだけは妙に強く残っているのが不思議である。
チェスタートンの作品に見られる諧謔精神は風刺的なジョークではない。あるべくしてあった、もしくは動かすことの出来ない存在として埋め込まれていたものである。
そこでは狂気と道徳が同じ地平の上で成り立っている。線引きはなされていないのでは無く、区分けする必要性がないから行われていないのだ。
彼の作品を「探偵小説」として捉えることに抵抗を覚えるのは当然である。何せ一人の人間を殺すために戦争を始めるなんていう「通常ならば間違っている筈の理論」がまかり通っている上に、そこを基準として物語が構築されているのだから、常人なら戸惑わずにはいられないだろう。
また、彼の詩的なセンスも見逃せない。見方によっては狂気ととられても仕方が無いような表現が、作中で乱れ飛んでいる。登場人物が全員狂人(もちろん一般読者の基準から見て)なのだから、そのセリフのすべてが倒錯に満ちた退廃的な魅力を伴っているとしても不思議ではないのだが、それをここまで見事に「探偵小説」として表現しきっている作家は他にいない。
チェスタトーン作品の歪みを体感したくば、その著作を手に取る他道は無いだろう。初心者にはあまりにも衝撃が強いので、まずはブラウン神父シリーズから入門するとよい。奇妙な味のする「探偵小説」として創作された物語は、今も書店の片隅に並んでいる。チェスタトーンの作品が容易に入手できる環境の方が狂気的だとは思うが、とにかく体験しておいて損は無い作家である。
おそらくミルフォードは「ミルフォード・グレイブスとゆかいな仲間たち」なアルバムにしたかったのだろう。しかしながら、当時の日本のフリー・ジャズ界にそんなコンセプトに合わせてくれる素直な人間などいなかったわけであり、結果として殺し合いのような様相を呈してしまったというのがこのアルバム。
とりわけ安部薫は当時の来日の際、ミルフォードのドラムセットの前に立ちはだかってアルトを吹きまくり、演奏を止めなかったそうで、「次からはあいつを外してくれ!」とミルフォードげんなり。安部は「おれの勝ちだ!」などと意味不明な勝利を確信していたらしく、他のメンバーもわりと好き勝手にやっていたというのは有名な話。
そんなミルフォードと日本の変人による奇跡のセッションなのであるが、やっぱり安部のアルトが吹き荒れており、それを全力で潰そうとするミルフォードのプレイが他のアルバムより生々しい。
フリージャズ史の中でも重要な一枚ですね。
思えば十代の頃、某ソフトロック取り扱いレコード店ですでに異常なプレミアがついており、めちゃくちゃ聴いてみたいのに聴けなかったこの盤がいつの間にかCD再発されていた!!
というわけで早速購入してみる。
そして湧き起こる期待の中、再生スウィッチを押して聴こえてきたのは極上のポップ・チューン。これは素晴らしい。まさにソフトロックの大名盤である。
裏ジャケで水色の衣装に身を包んだ彼らが妙にポップ(というより奇妙なポップ)だし、音はレベルの高いソフトロックなので1500円くらいで輸入盤を買っても全然損しません。
グリーン・タンバリン(レモン・バイパーズの名曲)とかも演ってるし、いままで国内盤が出ていないのが不思議です。
ファンキーなうねりを出来るだけスタイリッシュに。
スタイル・カウンシルは呪術から始まる最新機械の取り扱い説明書だ。
つまり土着的科学。宇宙の塵からはじまるエトセトラである。
だから都市部で人気。若い子から音楽オタクまで、皆スタカンのトリコ。
というわけでいまさらこのアルバムについて何か書くこと自体抵抗あります。素晴らしいし大好きなアルバムなので、今日は控えめのエントリーで。
それにしても忙しい最近、空腹と眠気で発狂まであとわずかです。
毎年寒くなってくると腰痛になるのですが、今年もまたあの苦しみを味わうと思うと…。
…ちなみにカフェ・ブリュも最高です。
ハードコアだと思って買ったら、スローなホラーパンクだった。
多分大阪のバンドで、リリースはスケルトンレコード。
いったいこのバンドは何の影響でこんなサウンドになったのだろう? ミスフィッツにしては勢いが無いし、ポストパンクにしては荒削り過ぎる。
特に異様なのはB面一曲目。何を考えたらこんな気味の悪いコーラスを入れられるんだろうか?
とにかくあらゆる意味で不可解な一枚。こういうのを聴くと、本当にジャンルとか時代背景とかどうでもよくなりますね。最高です。
ちなみにこのキマイラというバンドの曲はここでしか聴いたことが無いのですが、他にも作品があるなら知っている人教えてください。
理由ではなく、原因が闇(病み)に包まれている。
エイソップ・ロックの登場はヒップホップシーンにおいて、その根源的な部分を闇に隠したまま、強烈なインパクトをもっていた。彼のラップがダークな色彩のみで構成されている原因は、疲労の表現を音と言葉で行ったが故の結果がダイレクトに繁栄されているからである。
突き詰めた疲労。エイソップのサウンドから滲み出る重さには、倦怠感ではなく、とてつもない疲れが感じられるのだ。
このアルバムの30分ほどの短い時間は、全てモノクロームの精神的苦痛に支配されており、通常のアッパー系ヒップホップを聴き慣れた者にとっては非常に辛い体験になるかもしれない。だが、本当の意味で生活→政治までの表現を展開するならば、ここにある手法こそが有効なヒップホップだと思う。
社会における個人の、その各々が病根なのだというイメージを、エイソップは常に抱きかかえているのである。
今最も売れているお手軽避妊薬『ネオサンプーンループ錠』。
※殺精子剤メンフェゴールを有効成分とした避妊用膣薬です。有効成分メンフェゴールは、天然のテルペン油(植物油)からつくられた非イオン型界面活性剤の一種で、膣内で溶けて殺精子効果を発揮します。
『やっぱり男はナマが一番!! 亀頭さんも大喜び!!
じかにエキサイトピストン!!!!
死ね死ね精子! 死んでまえ!
金玉が空になるまで生ハメしたことありますか?
ピストン中毒無制限再起不能超絶射肉祭が今始まる!!』
というラジオのコマーシャル放送を耳にするようになってから、私の中での種の起源幻想は粉砕され、ダーウィンの死に顔が原人に見えて仕方が無いという豆腐屋の主人の箪笥の中にはいつだって対精子用最終兵器『ネオサンプーンループ錠』が尊形鎮座ましまして證誠殿とあがめしかば、貴賎心を傾け遠近歩を運び、神慮を仰がざるはなかりきというわけなのです。
だからこその殺精子という状況、背景、55分の車窓から。われわれが飛び立つための儀式としてそれがしめやかに行われるならば、背徳的行為としての性交渉そのものの共犯幻想すらをも地獄へ叩きつける結果となるわけなのです。
避妊が栄誉ある浪費として認識されるような文化的位置づけをなされるならば、このクスリは喪失することの自由を追求するものにとっては必要不可欠であるのかもしれない。
ジャケットに大きく「HARD ROCK」などと書かれているが、実態はガレージ系のファズ・サイケ。多分本人たちもハードロックの意味とか演奏法とかよくわからなかったんだと思います。ムチャな感じのファズギターがジャージャー鳴って、下手めの演奏が炸裂します。
ただ、オリジナル盤が異様に高いために知名度はそこそこあるバンドです。誤ってハードロックコーナーで激安販売されていたら即買いましょう。
一応CD化され、私もこうして聴いているわけですが、一体何人の人間が真剣にこのバンドをフェイバリットとして挙げるか、と考えると寂しい気持ちでいっぱいです。
下手にプレミアがついてしまっているレコードほど、CD再発されたときにあまり評価されていない気がしますが、どうなんでしょう…。
本作は71年作なのですが、音だけ聴くと60年代から抜け出せていないのが丸分かりで、更に奇怪なゴスペル風のコーラスがガンガンに絡むために正体不明の怪しさを醸し出しています。それでも、けっこう聴き続けていると耳に馴染んできてしまうのが恐ろしいです。
これがドリーミーサイケの代表格なのは、アルバム一枚通して同じ空気が流れているから。
GANDALFはNYのメロウなソフト・サイケだが、リリースはこの一枚のみ。それでもサイケを語る上で絶対に外すことの出来ないアルバムである。
とにかくオリジナル曲もカバー曲も、GANDALF特有のドリーミーサイケとして昇華されている。この独特のサウンド作りは異色であり、とにかく聴いて判断してもらいたいのだが、常軌を逸した変態サイケの世界がたっぷりと詰っている。
奇妙な空気感覚はサイケムーブメントの影響もあるのだろうが、それよりもこのバンドの先天的な変態性が素晴らしいのである。
本質的にはサイケだが、極めてナチュラルな酩酊感が他のバンドとの格差を生んでいるために、このアルバムは特殊なドリーミー・サイケの名盤として君臨している。
68年Massachusetts産サイケデリアの傑作。
ジャケット裏にヴェルベット・アンダーグラウンド風味、みたいに書いてありますが、サウンド的には(というかボーカルの声質が)ジョン・レノンです。精神的な面ではヴェルベッツが保有していたサイケ感覚を持ち合わせているようでいて、表面ではポップ・サイケな香りがするという、いるようでいないタイプのグループです。
注目なのはCDのボーナスで収録されているアンプラグド音源で、ここでの演奏はサイケデリックと呼ぶに相応しい酩酊感に包まれていますね。
虚脱感に包まれた中で放たれるジョン・レノン風のボーカルがクセになるので、しばらくは封印しますが、薄暗い部屋で一人聴くにはぴったりの一枚です。
GAIの記念すべき一枚目。もうすでにこの時点でノイズコアとしてのサウンドは完成させているし、ラストのBLOOD SPIT NIGHTでは後のスワンキーズ・サウンドとの共通点も見られる。
これとは別に1981~1985というカセットが出ているのだが、そちらの方はCD化されていない模様。でもほとんどの音源はまだCDで入手可能(ただし定価が妙に高い)なので、どうしても欲しいという人は買ってみてください。スワンキーズもガイもとにかくカッコイイです。
パンクという意識がここまでストレートに打ち出されると、やはり嬉しくなりますね。聴いているだけで気分が高揚してくる凄い一枚です。
一本の筒を常識と喩え、その真ん中を切断し、断面から覗いたものが抑圧された本能であったならば、人間の道徳などただの空虚な装飾に過ぎない。
ハードコアがその切断面を露出するための刃物として機能するなら、我々にとってもっとも有効な道標、もしくはワクチンに代替すべき存在なのかもしれない。
リップに吹き飛ばされ、システマに切り刻まれ、ガーゼに消毒され、オウトに嘔吐するといった一連の浄化の流れで理解するものは、やはり実存であるのだろう。存在の中に込められた何者かの意思など無いのであるから、自意識の位置と形態にこそ解きほぐすカギは隠されているはずだ。
この一枚さえあれば、現実世界を生きることに何らかの指標を打ち立てることが可能である。それは逃げ道であるかもしれないし、突破口かもしれない。ただ、良い方向へ向かいたいならば、これを聴かない手は無いだろう。
4バンドの新録EPを集めて一枚に、というコンセプトは、無意識のうちにとんでもない装置に変貌していたのである。まさに究極の一枚。
ハードロックという言葉と実際のサウンドが見事に一致するのは、このアルバムの一曲目に針を落とした瞬間だと思う。まさにハードなロックが飛び出し、後にヴァン・ヘイレンに加入するサミー・ヘイガーのグラマラスなシャウトが聞こえた時、一つの完成形としてのハードロックが見事に姿を現すのである。
後にハートに加入するデニー・カーマッシも、このアルバムでは異常なテンションでドラムを叩きまくっており、メンバー全員の一番旬な時期を収めたアルバムと思っても間違いでは無いだろう。
ハードロックという言葉の田舎くささやぬるい感じは一切ここには無い。殺人的なまでにハードなロックミュージックを、モントローズは一曲目「ロック・ザ・ネイション」で完成させてしまったからである。
当時のアメリカン・ハードロックの中で、このアルバムは最も殺傷能力の高い一枚である。ただ、そのために後の彼らのサウンドには首をかしげることになるわけだが…。
73年、サイケの空気が去った後にやってきた強烈な爆弾がこれである。
元モブスのシンさんがヴォーカルの超強力ロックンロールハードコア!!
このアルバムはメンバーチェンジを経て、過去の名曲も収録した集大成的一枚。とにかくシンさんのワイルドなヴォーカルが危ない魅力たっぷりなんですが、うねりまくる元ボーンズのFUNNYARA氏のベースも素晴らしく、更にギターにオウトのカツミ氏、ドラムに元モブスのトシ氏が加入したため物凄い迫力になっています。これは関西ハードコア史から見てもかなり重要な面子ですね。
名曲揃いなので一枚通してカッコイイわけですが、何よりもラストの「MAD SISTER」が終わった後に、もう一度再生スイッチを押してしまう衝動に駆られるのがこの盤の凄いところ。
何度聴いてもカッコイイです。ロックンロールコアならシティ・インディアン。本当に凄いバンドでした…。
ついに買ったこのセカンド!! 素晴らしいです。
一枚目も良かったのですが、この二作目は段違いの傑作で、もはや彼らは職人の域に達しています。
リズムがものすごくしっかりしているので、ノレる曲調だし、歌詞もいいです。
とんでもない人達がでてきたものですね。グラスゴーというのはすごい土地です。
80年代のポップスやニューウェーブを通過したTレックスといった感じでしょうか? なかなか一言じゃ表現できないニューサウンドです。
ひょっとしたら個人的に今年のベストになるかもしれません。クオリティ高過ぎ。もう何も言えません。とにかく素晴らしい新譜です。と、何か薄っぺらな感想で申し訳ありません…。あまりにも良いのでなかなか上手く書けないんです。とにかく名作!!
ソフトロックの人気が下降しているらしい。どうやらあの熱病のように流行した「ソフトロックブーム」は既に冷めており、本盤のような優秀なアルバムも最近ではあまり見かけなくなった。
渋谷系、あるいはフリッパーズ・ギターの影響などで、大きく取り扱われていたこれらのソフトロックの名盤は、今再び聴かれることを待ち望んでいるに違いない。
という勝手な思い込みで、今回はこのアルバムを推薦したい。
一曲目からいきなりどキャッチー。続いてぐんぐん引き込まれる甘いソフトロックの世界が待っている。
こういったアルバムの再評価が一時的なもので終わらないためにも、我々はソフトロックなんていうジャンルをあえて認識しない姿勢で臨みたい。下手なジャンル分けが音楽の命を削り取ることになるのは、もう分かっている筈だ。これ以上無駄な音楽の死を作り出さないためにも、白紙の状態で過去の音楽に接していきたいものである。
もう10年近くたつんですね…。思えばブッチャーズやビヨンズやDMBQが出てきたあの頃が一番カテゴライズし難い音楽シーンだったのかも知れないです。
ハードコアでも無く、グランジという訳でも無い、そんなオルタネイティブなバンドがこぞって出てきた中でも、ブラッドサースティー・ブッチャーズは硬派な感じで気にはなっていたんですが、なぜかライヴもそんなに観ていないし、アルバムは一枚も持っていなかったのです。
そしてこのアルバムが出たとき、ジャケットのビッグマフがカッコよくてついつい買ってしまい、中身の音が更に真っ直ぐな感じで、とても好感を覚えました。
その後、どうやら初回盤のこのジャケットの裏に映っていたスヌーピーが問題になって回収されたとか、どうでもいい話題がありましたが、中身の音の素晴らしさはそんなことに関係ないくらいに輝いていました。あまりに良かったので、僕の中のブッチャーズはこれ一枚で完結してしまいました。
最近、元ナンバーガールの人が加入したとか、いろんなウワサを耳にしましたが、結局のところ僕の知っているブッチャーズはこのアルバムなので、それでもう良いのです。
ロックバンドが恥ずかしい集団だと思っている人は、このアルバムを聴いてください。まともにぶつかってくる音塊が想像以上に神々しく、90年代の日本のロックを代表するアルバムの一枚として推薦しておきます。
今日は物凄く普通のレヴューですが、それだけこのアルバムの姿勢が真っ直ぐだということです。こんな言い訳ですいません…。
最近巷で白いイカリングのようなものを腕に巻きつけている若者を見る。あれは何なのだろう? と疑問に思っていたら、先日テレビか何かで特集が組まれており、その異常性と脅威的な内容に背筋が凍りついた。それと同時に、まだこんなやり方が通用するのか、と世の中の馬鹿らしさを呪いたくなった。
そもそも、私は餓死まではいかなくとも、貧困な人間である。金銭的にも人間的にもだ。そんな人間がこういったものを見てどう思うか、この団体は計算していなかったらしい。
私のような貧困な人間からしたら、こんなものは危険思想を生み出しかねない凶悪な共同幻想としてのアイテムにしか見えない。
よく調べてみると、どうやらこの運動は決して募金活動のような性質では無く、ただ単に世界の貧困を救いたいという意思表示のためにあのイカリングを装着して悦に入るというものらしい。つまり、金持ちの自己満足が肥大化して形成されたものがあのホワイトバンドなのである。
お前らはメシも食えないぐらい貧しいけど、俺たちはお前らを救ってやりたいと思えるぐらいに心にゆとりのある素晴らしい人間だ、ということを口に出さずとも他人に伝達できる便利な腕輪というわけである。
そう考えると、なんとも不愉快な運動だ。
更に、このイカリングは300円もするらしい(これは日本だけで、他国の三倍近い値段らしい)。いくら何でも高すぎる。そんな金と本当に貧困を救いたい気持ちがあるなら素直に募金すればいいのに…と思う。
で、このバンドの収益の一部は団体の人たちの酒代などに変化するらしく、さらに買う気を失せさせる。もし純粋にボランティア精神に溢れた若者ならば、こんなものは買わず、すぐさま300円を募金箱に突っ込む筈である。つまり、イカサマすれすれの怪しげな新興宗教のキャンペーンとまったく同じ部類にこのリングは位置しているのだ。
そして驚くべきことに、明らかに収入など得ていないはずの小中学生すらこのバンドをつけているのである。さすがにその光景を見た時は吐き気がした。私のような貧乏人と同じラインに立っていた筈の無収入小学生たちですら、恐喝や売春で金を稼いでイカリングを購入しているのである。これはある側面から見たら低年齢の犯罪促進にも繋がりかねない状況とも言えるだろう。
このイカリングを装着したい、という人を私は制止するつもりはない。ただ、その一見ボランティア行為に基づいているはずの運動が、実はいつファシズムに転化してもおかしくはない危険性を秘めているということを自覚している者が少ないことが問題なのである。何も考えずにこのような政治的・宗教的な運動に安易に参加してしまうことの恐ろしさというものを、日本人はあまり理解していないようである。
ホワイトバンドをつける、という行為がファッション的な意味として動き始めている現在、その思想性が共同幻想化され、偏ったナショナリズムの方向へ転んだときが命取りである。イカリングを着けている者と着けていない者の間に亀裂が生じ、ヒエラルキーが生まれ、戦争に発展し、国家は崩壊するのである。
なんと恐ろしいことか。300円の白い腕輪のせいで救う筈の命の何倍もの犠牲者が出てしまう。そんな運動は今すぐ潰さなければ大変なことになる。
そこで、現在巷にくすぶっている無職の若者たちは「ホワイトバンド狩り」を行うといい。3~4人でグループを組んで幸せそうにしているホワイトバンドどもを金属バットで滅多打ちにするのだ。そうでもしない限り、この悪しき極左的運動は粉砕できないだろう。
収益のうち、一円も寄付はされず、更に収益の使い道が曖昧にされており、いままでの支援活動などをことごとく無効化しかねないという、この悪夢のようなホワイトバンドをあなたはどう思いますか?
ぶっかけろ!!
ガーゼは初期の音源から最近のライヴまで全てカッコイイ。
あの突っ走る重さはどこから来るのだろう? 逃げ道を塞がれてもなお走り続ける切迫感と、あらゆるものを破壊する殺傷能力も兼ね備えた、日本が誇るべき最強のハードコアである。
歌詞もよく聴くと真摯なもので、あの吐き捨てるようなヴォーカルスタイルで迫られたらもう腰が抜ける。現在まで一貫してハードコアな姿勢を保っていることにも注目だが、その音楽スタイルの堅実さこそがガーゼの魅力だと思う。
伝えるというより、叩きつけるといった風情のメッセージが、あのサウンドでやってくる。どう考えてみても唯一無比のバンドであろう。純粋さにおいては右に出るものはない。
ガーゼの楽曲をただの直接的表現として敬遠しているようならば、一度彼らのライヴに足を運んでみるといい。そこで展開されているのは決して直進するだけのエネルギーではなく、内部に入り込んで複雑に作用する消毒液なのである。
もはや限界はどこにも無い。
透明な灰色が描きだす「ぼくたち」の風景は、感情の交流を拒絶している訳ではない。むしろ積極的にこちらへ手を差し伸べてくる断絶とでも言ったらよいのだろうか。うたの隙間からこぼれ出す不安や挫折は、全て偶発的な性質ではなく、意図的に作り出した感情であることが窺えるのだ。
自らが突き放した時代性を、感傷的ともいえる詩とあのアルペジオの旋律でくっきりと映し出す森田童子という象徴は決して失われるべきではない。ましてやテレビドラマの主題歌になど…と思ったのは私だけでは無い筈である。森田童子は神聖な場所として機能すべきだからだ。
ただし、森田童子は死を克服しているわけではない。死という最大の喪失に対して取るべき態度は一人の傍観者としてしっかりと見据えることだと彼女のうたは告げているように聴こえる。
これを聴いて青春のセンチメンタリズムだけを受け止めるのもいいかもしれない。だが、本質は喪失への断絶である。希望に似ているかもしれないが、どちらかというと希望のための諦念といった道のりが見えてくると思う。だからこそ彼女のうたは断じてニヒリズムの範疇に収まるべきものではないのである。ネガティブなイメージと空虚な気持ちを抱いたまま、それでも生き続けるという全ての人間の存在を、森田童子ははっきりと描写していたのだから。
初めから無かったのか、それとも本当は有機的なカラクリで活動していたのか。ニューヨークの地下で蠢いていたものが、ここにあるような灰色の希望であったならば、天国はわりと近くにあるのかもしれない。
モダニズムを逆から透かして見る技法を身に付けたければ、まずはここから。驚くほど純粋な素朴さが逆に存在を犠牲にしてまで立ち上がろうとしている。
そもそも、孤立と消滅は違う。DNAの孤立は決して消滅ではなかったが、存在の自殺は経ていたのだろう。亡霊のような印象が蓄積されていくなか、目に見えて立ち現れるのはまごうことなき死という幻想なのである。
ここにある音は今後絶対に消費されることはない。そして喜劇的にデフォルメされることも許されない。DNAは墜落したミュージックを別の次元から嘲笑しているのだ。
頽廃が罪悪ならば、あらゆる文化は炎につつまれ、そして消えてしまえば良いのである。
ここ数日、わけのわからない海外からのスパム・コメントが鬼のように投稿されてくるのでムカついてます。こういうことをするから私が海外を恐れ、日本から抜け出せなくなるのです。
というわけでコメント制限をかけましたので、しばらくの間は、コメントを投稿してから一度保留の状態になりますのでご注意ください。
と、嫌な気分を払拭するためにこのコンピを聴いて元気になります。
「まつじ」とか陽気でいいですね。ポイズンアーツもカッコイイし、落ち込んでいるときはハードコアが一番です。
新譜を聴かない生活が長かったせいで、このアルバムを買うのにもかなりの勇気と時間を費やしてしまいました…。
タワレコで彷徨うこと二時間、閉店時間までねばって買ったこのナインブラックアルプス(NBA)はマンチェスターのバンドですが、ギターポップではありません。シューゲイザーっぽいという評判だったのでライドみたいなのを想像していたのですが、聴いてみればバキバキのグランジ風味でした。
いろいろなレヴューなどを見る限りでは、ニルヴァーナっぽいと書かれていますが、ただのニルヴァーナクローンではここまでのアルバムは作れないでしょう。たしかに初期ニルヴァーナっぽいうねりはありますが、僕の一番好きな「Not Everyone」ではソニック・ユースを彷彿とさせるギターがカッコよく、このバンドのメンバーが過去のロックをいろいろと聴き込んでいるのが分かりました。
久しぶりに買った新人さんのCDがここまでカッコイイとうれしくなりますね。マンチェ出身なのにグランジっぽいというのも高ポイント。最近のシーンに触れたければ絶対オススメです。
音楽の激しさや荒々しさといった暴力的なイメージを、全てぶち込んだ歴史的名作がこれだった。
「Kick Out the Jams! Mother Fucker!!!!」
もう何も言うことはない。
ぐしゃぐしゃに丸められたロックンロールという言い訳が散乱し、人々はそれを踏みつけ、メチャクチャなステップで踊りはじめる。
デトロイトの工業都市は、この一発で吹き飛んでしまった。
パンク以前の音楽的反骨精神はここでレッドゾーンへ突入していたのである。
ストーン・ローゼスがあの時代のアイコンだったなどと誤認してしまうと、大切なサウンドを下水に流し込むのと同様の喪失に襲われる。
実存が悲劇的性質を孕んでいるならば、位置を曖昧なままに本質部分だけを摘出してみればよいのである。ただ、イメージとしてのストーン・ローゼスが必ずしも本質的な部分と相似しているとは限らず、そこの行き違いがまた新たにストーン・ローゼスという伝説めいた空想を生み出してしまうならば、それほど皮肉なものはないだろう。
表向きの「ストーン・ローゼスという情報」が広く伝播されるにつれ、そこに付随する形で生成されたイメージが含む意味は初めから隠蔽されたまま表出してきてしまう。覆面をつけたストーン・ローゼスのイメージは、正体不明のまま文化的な記号として定着してしまったのである。
だから、ストーン・ローゼスについて語ることは困難なのである。根拠の無い説明を延々と繰り返すほか、彼らを歴史的背景で語る術は残されていない。
しかし、今年のサマー・ソニックでのイアン・ブラウンを見た人達に聞くと、刹那的に捉えうる性質の音楽には成りえないという宿命がなんとなく理解できたように思える。
ストーン・ローゼスは言わばダイアルアップ回線でインターネットをしている状況のまま、突然の停電で接続が切断されてしまったバンドである。可能性が顔を出す前に、全てが隠されてしまったのだから仕方が無い。
今後、このバンドについての憶測はさらに溢れていくと思うが、そのどれをとっても、まったく輝いていないというのは、イメージが拘束されてしまった故の結果であり、ローゼス側にも我々の側にも責任は無いのである。
だからこそ、もう一度あの音を聴いて、伝達されたイメージを改めて構築してみることをおすすめしたい。ストーン・ローゼスの良さがこれ以上曇ってしまわぬように。
脅迫的な幻想はエンターテイメントとして機能するべきなのか? そもそも、サイケデリックという異常事態の中で何かを思考するなど馬鹿げている。本来ならば取るに足らない出来事であったとしても、そこに理論を持ち込もうとするならば、サイケデリック・ロリポップというフィールドでは無効なのである。
例に出すならば、戦争体験談だろうか。
戦争という非・日常を、現在において戦争を知らない世代へ語り継ぐということが効果的とされているのは、戦争が絶対的な悲劇であり、「二度と繰り返してはならない」ということを学習するプロセスとして語りが選択されているからである。これは戦争が異常な事態であるという認識がなければ成立しないが、実際に戦争を体験していない者ならば、それは未知の非日常であり、経験した者からしても二度と経験したくない異常な体験であったのだから、両者の間にその語りが伝達されるということは、非常事態についての情報伝達であって、現実の非常事態下に両者がさらされている真っ只中ではないのだから、論理の介入が許されているのである。
しかし、これが仮に戦火の中であったとしたら話は別になってくる。両者が非日常に身を置いていた場合、そこでの論理はすべて「異常事態」の土台から枝分かれしたものであり、非日常的な性質で構築されたものにしかならない筈だ。
誰しも、論理という名の靴を履いて出かけるときは、いつもの道しか通れないという経験をしていると思うが、そこへ異常なものを取り込むならば、一度このブルース・マグースの一枚目を聴いてみてほしい。サイケデリック・ロリポップに平穏な日常が見えるならば、それでいいじゃないか。
衝撃X!! あのミラーズの未発表音源集というとんでもないアルバム。よくここまで貴重なライヴ音源を集めたものである。
東京ロッカーズの中でも、このミラーズは破壊的な魅力があった。フリクションのようにNY的なサウンドでもなく、リザードのようなニューウェーヴでも無い。どちらかと言えば直球の芯のあるロックンロールである。当時のシーンでもゴジラレコードを立ち上げ、中心的な役割を担っていたヒゴ・ヒロシは、自身のバンドであるこのミラーズにおいて、あまりにも画期的なパンクとしての姿勢を築き上げたのであるが、このアルバムではそれを最もダイレクトに感じ取ることが可能だ。
未発表曲も、なぜ今まで世に出なかったのかが不思議なぐらいにクオリティの高いもので、この一枚を買って損するようなことはまず無い。
キャプテントリップからということもあって、スピードのときと一緒だったら嫌だなぁ、などと思っていたのだが、そんな不安も一気に消し飛ぶほど強烈な音が詰っていたのでかなり嬉しかった。
今日はそんなところで。
ps、ちょっとブログの調子がおかしいですが、すぐに復旧しますのでお待ち下さい。申し訳ありません。
日活ロマンポルノの名作が来月一斉にDVD発売されるらしい。
で、そのラインナップを眺めていると、ああ、こんなのあったなぁ…と感傷的な気分に浸ることが出来て、DVDを買わずとも満足のいく時間を過ごせた。
日活はやっぱりちゃんと作られた映画が多く、テレビドラマを見るより遥かに充実した内容なので、高校生の頃は夢中になった。アンモニアのニオイが立ち込める荒れ果てた映画館で、500円程度を支払えば一日中ロマンポルノを鑑賞できるのだから(3本立てとか)、貧乏学生としては普通の洒落た映画館に行くぐらいならピンク映画を観る、という図式が当然のように出来上がってしまっていたからだ。
この「ピンクカット~」もそんな頃観た一本である。
監督の森田芳光の作品は、先に「の・ようなもの」を観ていたのだが、僕は「の・ようなもの」にはあまり感銘を受けなかった(というより森田監督独特の感性が苦手に思えた)ので、この作品も観る直前まで森田作品だとは思っていなかったし、特に興味も無かった。
映画を観終わっても、「ふーん」という感想しか持てず、すでに次の映画に突入していたため、ものすごく希薄な印象でしか僕の記憶には残らなかったのである。
で、数年前のこと。ビデオでなぜか出ていたので、なんとなくレンタルしてみた。
確かに軽いタッチで、他のロマンポルノのようなドロッとした感じが無く、80年代のセンスに満ち溢れた映画であったのだが、舞台が僕の地元であり、今では無くなってしまった下北沢や梅ヶ丘の町並みを楽しむことができる。その再発見があったおかげで、この映画の印象はアップしたのだが、他の点ではどうにも評価しづらいのでここでは書きません。
ちなみに、この映画の舞台となった床屋、現在でも存在している。そこを通る度にこの映画のことを思い出してしまうのは、おそらく現実と映画の中の風景が重なったときの「曖昧な感じ」に僕が惹かれるからだろう。フィクションと現実が記憶の中で曖昧になっているあのもやもやした感じが、映画鑑賞を一過的な娯楽に留めないためのきっかけになりうると思うのだが…。
ノー・ウェイヴの荒廃した地平を歩き疲れたとき、電柱の陰からデボラ・ハリー(通称デビー)が現れて私たちのためにキュートな歌声を聴かせてくれる。
ニューヨークの町が途端に美しい光彩を放ちはじめ、CBGBの中はかつてないほどのポップ感覚が充満した。
しかし、それを私は見たわけではない。決して見たわけではない。
だから、ノー・ニューヨークを尻目にブロンディーのライヴだけを見ていたパンクスは潔癖症ではないのである。彼らの瞳に映っていたものは、デビーではなく、自己克服のための偶像だったからだ。
デビーのステージのキュートさ、ポップさは、退廃美から目を背けることへの背徳を払拭するための強力なポップ・アイコンであった。DNAとブロンディーを立て続けに聴いて何が悪い? という開き直りが可能になるためのイニシエーションを、デビーはポップ要素とニューウェーヴ的装飾の中で見事に確立してしまったのである。
ブロンディーの存在があって、初めてあのノー・ウェーヴの荒廃感覚がモダンな輝きを見せていたのだと思うし、パンクが自己喪失へ向かわないためのストッパーとしての機能も果たしていたと思う。
色々な意味でブロンディーは重要な位置にあると思うので、比較的簡単に入手できるこのベスト盤を今日はオススメしたい。
くすんだ色の熱気球が落下していく様子を見ながら、彼女はハンバーガーを頬張る。
ベンチの下には得体の知れない乞食の子供が潜んでいるが、別に何かを狙っている訳ではなかった。獲物を狙うならば、このような公園ではなく、山や森林、そして都会へ赴けばよい。獣や植物や人間を獲って食らえば、彼らが低年齢のまま死んでいくなんていう現実は起こらないからだ。
断絶の風景が時として彼女の瞳には緑色に見える。
モダニズム×ダダイズムだと思うと、そのような視覚の変容も日常的に繰り返される。
「ANOTHER GREEN WORLDはここでしょうか?」
口から胃袋を吐き出しているようなグロテスクな老人が彼女に尋ねる。けれども、彼女はイーノが既に死体にしか興味を持っていないことを知っていたので、老人に対しては無言で押し通す。
この時代のイーノはまだ別世界を信じていたし、生きた音楽を知っていた。カラフルなのに落ち着いた色調。イーノは音楽を生かしておく術も心得ていたのだろうと彼女は考える。
しかし、「NO NEWYORK」のあの時間が彼を殺してしまった。
いや、正確に言えば彼が音楽を殺す術を身につけてしまったと言えるだろう。
音楽の死骸から流れ出す血液を、イーノは無慈悲に洗い流し、新しいイメージとして作り変えてしまう。本質が死臭漂うモルグのような暗澹たる雰囲気の地平から生まれたなどとは、イーノの音楽を聴くものには届かない。
「だからイーノは表面的には変わっていないように見えるのです」
彼女はいつの間にか声に出してそう言っていた。
崩れ落ちた老人の死骸を、ブライアン・フェリーの引くリアカーが回収する。
それからというもの、彼女はANOTHER GREEN WORLDのことを考えると、いつも腐った肉のニオイがするようになったのである。
くだんと言えばもう「件」という字のごとく、半人半牛なわけですが、あまりモダンではありません(別に韻を踏んでるわけでもありません)。
で、頭が牛と言ったら牛頭天王を思い出したわけです。
牛頭天王はもともとインドのゴーズ神というのが元になっているようなのですが、正体は不明です。八坂神社などで祀られておりますが、いろんな神が習合してしまったために皆から忌み嫌われる存在となっていたりします。
で、明治政府が政策の中で神仏を分離せよ、というようなことをやったわけです。いろいろくっついてちゃ訳がわからねぇからです。
牛頭天王というのはスサノオと同一と考えられる神でもあったので、それまで牛頭天王を祀っていた神社は全て「スサノオ神」を祀るというように変更し、いろいろくっついてお得という十徳ナイフのような牛頭天王など必要なかったのです。
ところが、「件」というのが人々のウワサの中で生まれ育ちまして、私は真っ先に牛頭天王を思い出しました。私は牛頭天王が大好きだからです。
思うに、内田百閒やこの小松左京の「くだん」、海外では「ミノタウロス」なんかに姿を変え、牛頭天王は人々の生活の中に息づいていたんでは無いかと推測できるわけです。
人々の伝聞や習慣には何らかの根拠、および発端が存在しています。「くだん」がただの「奇怪なバケモノ」として扱われないのは、もともとが神様であったからであり、信仰の対象と成りえるものであったからだと考えられます。
で、再びこの本を読むと…。うーん、プロフェシーかぁ。と、ラストのオチ(ネタバレ御免)で再び謎が残ってしまいます。そうです、未来を言い当てるとなると、時間軸が絡んでくるわけです。
時間が絡む→天体へと視点を向けるという安直なプロセスを経て、夜空に「かんむり座」を見つけたらあとは話が早い。かんむり座とはあのアリアドネの冠のことなんですね。
面倒なので短縮して書きますと、アリアドネというクレタ王の娘が、ミノタウロスに生贄にされるテセウスという青年に一目惚れするわけです。で、テセウスに迷路で迷わないための糸を渡してですね、結果的にテセウスはミノタウロスを殺害して無事に生還するわけです。で、二人でハッピーエンドかとおもわせといてサプライズなラストが待っているわけです。そうです、テセウスはアリアドネが好みじゃなかったのかなんか知りませんが、夢の中でアテネの女神が出てきて「アリアドネを置いて帰れ!」と言われたからという口実で一人国へ帰ってしまうわけです。で、絶望のアリアドネは海へ身投げ…。
と、そこに登場するのがディオニュソス!! アリアドネを助け、彼は彼女の冠を天高く放り投げました。その冠があの「かんむり座」なのだよ…、って長くてすいません。
ここで問題視すべきはやはり「ディオニュソス」です。彼は海外版「スサノオ」であり、外見的なものがミノタウロスであるならば、内面的な部分ではディオニュソスが牛頭天王としての役割を担っているのではないか、と間抜けな顔で考えてみました。
つまり、遠くギリシャでも牛頭天王は絶大なものを人々に残していたのでは? とちょっと夢が膨らんでいったわけです。ディオニュソスはたしか「東方で絶大な威力を振るって信者を獲得していた神」ではなかっただろうか、と。
ちょっと長くなりすぎたんでひとまず妄想はストップしますが、ひきつづき「くだんの件」については考えていきたいので、また書きます。
あ、小松左京について何も書いてないや。ま、いっか。
おそらく誰も知らないのではないだろうか?
山神水神は「おそらく」宮沢正人という人の一人ユニットである。ただ、あまりにも情報が少ない(というより無い)ので、いままで誰もこのドーナツ盤を評価しようとしていない。
内容は弾き語りで、A面のボーカルは早回しでフォークルの「帰ってきたヨッパライ」風の作品になっているし、実際71年に録音されたからか、ビートルズの解散記者会見をパロディ化したライナーがまた独自のユーモアセンスで評価しにくいものなので、これに出会っても皆記憶の奥底に封印し、レコードは押入れの奥底に封印し、結果山神水神なんていうレコードはなかったことになるのだろう。
本盤のように、誰も知らないレコードをサルベージしてみるというのも、このブログの活用法としては良いのかもしれない。
誰か、このレコードについて少しでも知っていることがあったらコメントください。あまりにも謎が多すぎてちょっと怖いです。山神水神こと宮沢正人という方の消息を知っているという人も大募集。
多分自主盤ですので、プレス数も異常なぐらい少ないと思われますし、再発もしようと思う人間がいなそうなので望めません。本当に、何か知っていたら教えてください。他に音源があるのかどうかも分かりませんので。
実は変名で誰もが知っている有名ミュージシャンだった、なんてこと無いですよね…。
たしか大阪のバンド。
このソノシートは二曲目の「チンピラ」という曲がカッコよかった記憶はあるんですが、細かいことは既に忘却しました。
SLASH THE THRASH 1987と書いてあるとおり、スラッシュなサウンドで、コーラスもばっちり決まっているとても律儀な一枚。スラッシュメタルにしては荒削りな感じなのでやはりハードコアなんでしょうかねぇ。まぁジャンルなんてどうだっていいんですが。
もうちょっと音源があればいいんですが、生憎これしか聴いたことありません。他にも出ているんですかねぇ。
ノリのいい演奏なので、ライヴとかでは盛り上がっていそうですね。見てみたかったなぁ…。
幻想で遊ぶことの面白さを知ってしまうと、ここにあるような総天然色のおもちゃが自然に出来上がる。明るく楽しく、健全なクスリ遊びの世界だ。ただ、他人がおおはしゃぎで遊んでいる様を見せつけられているようで少し不快になるという人にはオススメできない。
磁石の感覚、照りつける日差し、60年代サイケデリックの影。
本質が風景的であるが故に、SEは対して効果的に響いていないが、何も無いよりはあった方がいい、という考えで入れられているような感じである。そのおもちゃ感覚がポップサイケにとっては重要なものなのだが、40年近い歳月を隔ててしまうとそれが不気味に変質し、理解不能の「ヘンな音」になってしまう。
今現在、このような60年代のサイケを聴いて楽しめるのは、時間経過による我々の感受性の変化があったからだ。もし我々の感性が60年代のままなら、この盤を聴いても「当たり前の音楽」としか映らないのであり、古い時代の良さみたいなものを闇雲に模索したところで、それははかない幻想に過ぎなくなってしまう。
機材、時代、そして人間の考え方も僅かながら変わったのである。あまり音楽を時代の背景として捉えた発言はしたくないのだが、全ての再発盤を新譜として、買ったそのときがその音楽の最も旬な時期と認識して聴くという姿勢がなければ、あらぬ誤解を誘発したり、音楽そのものを無駄死にさせかねない。
そうならないためにも、私は「現在」を設定せず、再発盤も新譜として聴いている。そう、音楽には鮮度があって、せっかくイキのいいサイケでも「68年のアルバムだ」などという余計な予備知識があったせいで腐ったニオイを放つことだってあるのだ。それは受け手側のエゴなのだが、少しだけ聴き方を変えてやるだけで、全ての旧譜が「新しい音楽」へと生まれ変わるのだから、一度は試してもらいたい方法である。
音楽を一切知らない人にバッハを聴かせ、これがロックなんだと説明すれば、その人にとってのロックはバッハが基準点となる。つまり、最初の段階で「何も持たなければ」全ての音楽が新鮮な姿で甦るのである。
これほどまでにリーズナブルかつ単純な方法で、音楽鑑賞をより一層楽しむことができるのだ。一度聴いた音楽だって「忘れてしまえば」いい。そうすればCD一枚で一生楽しめるし、無駄な金を使わなくてもよくなるのである。
貧しい音楽好きはまず、いままで聴いた音楽を記憶から抹消すべきだ。
自由の怪物である。が、しかし道徳を敵にまわしているわけでもない。そこにはきわめて魔術的なプロセスが横たわっており、ときおり美しい色彩を放つのである。そして我々はその美しさに引き寄せられ、前作「Fire And Water」と比べると幾分か地味な雰囲気であるこちらのアルバムを知らず知らずのうちに聴き込んでいるのだ。
それを簡単に洗脳だなんだと騒ぎ立てているようなら、このアルバムを聴く意味は無い。科学的な洗脳であるならば、フリーの持つ魔術的な要素は介入する隙がないからである。
自由であることが有害だなどと思っているなら、このアルバムの美しさに溺れるべきだろう。今まで培ってきた「世界」が無残に崩れ落ちてもいいという覚悟があるならの話だが…。
狼なんかよりもジャケの石野真子が怖い。今あらためて見るとけっこうヤバイ写真だね、コレ。
こういうレコードを聴いていると、世間から疎外されているような気分になるが、実際は世間から疎外されているのではなく、自己の存在が世間そのものに同化していくのである。
まぁ、レコードを聴いている、っていう密室での出来事をいきなり社会単位でのテリトリーで認識しようとするのも暴挙なわけだが、それを滑稽な姿勢だと笑い飛ばす方がどうかしている。あらゆる思考の挑戦は建設的であることが好ましいのだ。
そこで考えてみたいのは「狼なんか怖くない」とは、狼という対象など自分にとって恐怖に値しないというだけの意味なのか、それとも「狼なんか怖くない、しかし○○は怖い」という文章の頭の部分であるのか、もしくは「狼なんか怖くない」と本心では恐れているが、精一杯の虚勢を張って強がっている姿勢なのか、という問題である。
これについては他にも様々な説が考えられるのだが、結果としては「手続き」としての計算された一文であったのではないかという説を私は支持する。
「手続き」としての「狼なんか怖くない」って何? と今あなたはぽかんと口を空けたはずである。手続きとしての「怖くはない」とは、表面的な意味では打ち消しの作用をまず働かせなくてはいけない。「怖くはない」の打ち消しは「怖い」と「どちらでもない」に道が延びる。つまり、相手を惑わすための虚偽の発言として「狼なんか怖くない」という一文が表れたというのが「手続き説」である。
虚偽の発言をするということは、誰かを欺く必要性があるからで、その手続きに使用するツールとして「狼なんか怖くない」という言葉が発せられたというわけだ。
と、朝っぱらからこのように気が狂ったようなことを延々と書いているのだが、なぜ私がこんなことを書いているのかと言えば、それは石野真子の狂気性をいかにして、文章を「読む」という形で体験してもらおうかと考えた結果の苦肉の策に他ならない。
石野真子は狂気なんです。わかって!! などと書くより、こうした方がよっぽどいいでしょ? というわけであとはハンターの投売りコーナーとかでこのレコードを100円で買って聴いてみてください。そうすれば私の言わんとしていたことがよく分かるだろうから…。
トランソニックから出た企画盤。
初めて目撃されたUFOがなぜ円盤であったのか? とユングに訊かなくとも人間の考えることのパターンぐらいは分かるというもので、幻視・幻覚としての「内面から飛行してくるUFO」を考えたとき、最もそれに近い解答を提示しているのがこのアルバムである。
人は見なくてもいいものを見てしまう時もあれば、見なければならないものを通過していくこともある。すべては個人の経験・性質的な問題なのだが、それを堕落したシステムだと決め付けるというのも身勝手な意見であるし、かといって妄信的に幻影を追い続ける(矢追病)というのも、その枠から一歩出たときに支払われる代償を考えたら回避しておきたいパターンである。
もし、あなたが上空に空飛ぶ円盤を見たとしたら、一体何を思考するだろう。おそらく、その状況をそのまま写実的に解釈するか、何らかの精神的疾患が要因となって引き起こされているものではないかと疑うかの二通りだと思う。つまり肯定と否定の二者択一である。
そのような場合、一度思考を停止してこのアルバムを聴くといい。きっと先ほど見えたものがどうしようもなく馬鹿馬鹿しいもののような気がしてきて、二択の問題であったものがたちまち「過去のヘンな体験」として記憶される筈だ。そうなればもう悩む必要は無い。問題は過ぎ去った経験に変質しているのだから、あなたは再びいつもの生活に戻ればよいのである。
そういった意味で、本作は一種のリセットボタンとして機能する。
使い方は自由なのだが…。
なかなかに実直な音であった。自己への贈与ではなく、他者への提案として純粋に機能しているレコードなんて、今はあまり見かけなくなっている。
テレグラフレコードのことが好きなのは、その純粋な製作姿勢があるからで、当時の自主レーベルの中でもかなりマジメな印象を受けるのだ。
そんなテレグラフから出た、堅実そうなニューウェイヴバンドがこのあけぼの印。
スタイリッシュさが足を引っ張らないのは、それがあけぼの印というグループの核であったからだと思うし、実際に演奏もしっかりしている。
こういう真っ直ぐな姿勢の音楽が最近少なくなっている気がしてならないのは、ただ単に私の視野が狭まったからであろうか?
世間の流れというものが、妙に早く感じられる。
関西シーンの得体の知れなさを感じるフロストの84年作ソノシート。このほかにも一枚レコード出てた筈ですが、確かな記憶ではありません。花電車のヒラさんがやってました。
花電車が轟音へヴィサイケだったのに対し、フロストはモノクロームなサイケデリックで、静かに背後から襲い掛かってくるような気配を感じます。
これが今後、花電車ほどの評価を得られるかどうかは分かりませんが、私はフロストの薄暗い感覚が大好きなので、ぜひとも再発してほしいものです。
質感としてはジョイ・ディヴィジョン的な密室サイケですが、それが関西という土壌でヒラさんの手によって作られているわけですから、当然一筋縄にはいきません。
当時の関西はホントに何でもありですね。凄いです。
2ヶ月くらいまえに、Google moonという月面を探索できるサービスがGoogleから公開された。
確かに月がPCのモニターで確認できて大変面白いのであるが、この装置のせいでまた一つ月の神秘性が剥奪されてしまったような気がするのは私だけであろうか?
もともと、月の霊性が失墜しなかったのは、物理的に届かぬが見ることは出来るという性質があったからであり、さらに科学的にも人類にあらゆる影響を与え続けていることが立証されているからである。
それをだれもが画面上で擬似的に所有できるとなると、ドラマ的ではあるが神秘性は薄れてしまう気がする。
しかし、これまで人類へ文化的、精神的に深い影響を及ぼしてきた月が、そう簡単に落城する筈はない。いつまでも月は魔であり脅威であり続けなければならないのだ。
だからこそ、我々はこのGoogle moonで思い切り月世界をもて遊んでみれば良いのだし、Google moonは更に細かく月面を観測できるようになればいいのである。
ひょっとしたら稲垣足穂の「ニッケルメッキの月」がそこにあるかもしれないし、ルネ・マグリットの「帽子の中の月」が見えるかもしれない。
月はまだまだ魔的な色彩を帯びているのである。
つい最近までスピードと言えば、ケンゴのボーカルがカッコいい東京ロッカーズ時代のパンクバンドを指して言っていたものであるが、90年代後半には女児が歌って踊る薄気味の悪いユニットが登場し、そちらの方が市民権を得てしまったが故に、名盤「KISS OFF」の評価はイマイチである。
まぁ、どちらがパンクかと言われたら子供が歌い踊る方なんだが、「KISS OFF」のクールな感じをできれば多くの人に体験してもらいたい。
ちょっと前に発売された「KISS ON」は「KISS OFF」と一曲も重なっていないという未発表曲集なのだが、あまりにも本来のSPEEDの魅力が失せてしまっているために、逆に「KISS OFF」の真価を曇らせてしまい、「KISS ON」の方ではじめてスピードの曲に触れたという人はかなりの誤解を生んでしまったのかもしれない。
かといって「KISS OFF」はあのシティ・ロッカーからの発売だったということで、まず再発は無理だろう。これはスピードにとっては本当に迷惑な話だが、曲解されたまま不安定な伝説であり続けるしか、今の現状では考えられないようである。
その一方、もう一つのスピードはガンガンCDを売りさばき、もう解散したらしいけど未だに編集盤とかが売れまくっているらしい。
全ての音楽は等価であるが、それと同時に全ての音楽は流通の側面においても等しく聴かれるべきであると思う。
この二枚のジャケットが同時にレコード屋に並ぶ日を夢見て、私はボロボロになった「KISS OFF」に針を落とす。
そして、鋭いパンクサウンドが勢い良くスピーカーから飛び出すと、思わず泣きたいような気持ちに襲われるのだ。
眼球が回転する。彼は夢見心地だが、私は彼を知らない。私は彼を知りません。I don't know him。行方不明のアトミックボム、そしてその後の結果へと道は続いている。
悪夢背負って生まれたのは、ヒロシマが持っている宿命だ。
しかし、GASの荒廃した土地に残された憤りのような感情は、ヒロシマという土地の呪縛だけであったのだろうか?
起爆力は原子の力を応用しなくとも、個人の中に各々存在している。GASの根本にあるモノはそのドロドロとした得体の知れない怒りなのかもしれないし、まったく関係の無いエネルギーによるものかもしれない。
ここにあるサウンドは因縁や怨恨から来る怒りではなく、かといって社会的な反骨精神でも無いような気がする。本当のことを知っているのはGASだけであるが、呪われた部分の摘出は今もなお行われてはいないのだ。
真相を見たければ2100円を支払って本盤を購入してみればよい。そこにはあなただけの解決が待っているだろうから。
エレクトロニカには精神的、もしくは霊的な直感によって導かれる演奏がその音楽の生死を別つことになるのだが、トム・ジェンキンソンのそれは極めて素直に湧き出ているものだったということが、本盤においてようやく確認できた。
まず圧巻なのが3曲目『Iambic 9 Poetry』だろう。美しい旋律に、あの乾いた音のスネアが響くとき、一見整然としている楽曲が魔的なまでの魅力を纏って視覚的に広がってくる。我々の体温は奪われ、モダンな感覚は冷却された食肉のように無機質になる。しかし、そのあまりに美しい『殺伐』に、我々は陶酔するのだ。
いままで彼の作品で聴くことのできた「スクエアプッシャーなベース」はすっかり鳴りを潜め、代わりに無駄な贅肉を全て削ぎ落としたサウンドが全面に押し出されている。
かつてのスクエアプッシャーしか知らないなら、過去のアルバムを全て売り払ってでもこの一枚を買うべきである。もはやトム・ジェンキンソンはエレクトロニカなんていう古ぼけた場所にはいないのだから…。
改革を起こすことがどれだけ困難かを考えてみると、改革を始めようとする初期衝動すらも萎縮してしまう。面倒なこと、リスクを負うこと、多大な時間と労力を費やすことを、我々は無意識的に回避してきたはずだ。だから「日本でのパンクムーブメント? そんなもんねぇよ」ということになってしまい、ここにあるような優秀なハードコアパンクが一部の好事家たちのおもちゃにされてしまうのである。
その現状を打破するとなると、それはもうその時点でパンクムーブメントをもう一度起こすことと同じなので、再び最初の疑問へと立ち返ることになる。つまり、面倒なので中止。だ。
このアルバムがここまでの勢いを保持しているのは、『新しい何か』を全員が目指していたからであり、ハードコアがナチュラルに改革の作用を備えていたからである。
ギズム、エクスキュート、アブラダコ、ラフィンノーズ、クレイ、G-ZET。彼らの音を聴いて何かを始めた人間もいるし、何かを終わらせた人間もいるだろう。どちらにせよ、停止しなかった、という事実がハードコアの証明であり、動き続けるという運動で考えた場合の改革が、このレコードで聴けるグレートパンクである。
めんどくせぇ、と言う前にこれを聴いてほしい。そして既に自分が改革の一部として機能しているんだとうまく錯覚しさえすれば、たった今から周りはパンク・ムーブメントなのである。これほど便利な社会参加ツールも他に無いだろう。
久しぶりにクリムゾンでも聴こうと思い、レコード店で新譜を探した。で、コレを見つけたのでひとまず購入してみたのである。
クリムゾンは私にとって青春であり、中学生の時に1stに出会ってからというもの、ロバート・フリップの圧倒的な狂気に魅了され、リリースされた順番に買っていったのだが、最近の作品はどうも買う気にならず、しばらく離れていたのである。
というわけで久しぶりのクリムゾン。
どんな進化を遂げているのかと期待に胸を膨らませながら再生すると…。
何コレ!?
かつての雰囲気は無くなっているわけではないのだが、圧倒的に違う。何がって、音圧が。
クリムゾンはここにきてへヴィ・ロックすら飲み込んでしまったのだ。
私は脱帽しつつも、ロバート・フリップがなぜこのような方向へ行ったのかを考えてみた。
もともと、ロバート・フリップは神秘思想の人である。彼のソロ及びクリムゾン全般に共通しているのは、その並外れたオカルト的直感に基づいた音構築であり、今回のへヴィネスさについてもそのようなきっかけがどこかにあってのことなのだろう。
桁外れの勘違いへヴィメタルと化したクリムゾン。ところどころ変拍子や奇怪なギターも入るが、今までに無いラウド&へヴィな世界を構築しているため、かつてのファンは確実に腰を抜かす筈である。
ただ、これを聴いて思ったのは、若手のミュージシャンたちがやっているいわゆる「へヴィ」とされている音楽が、極めて外見的なものであって、内側から滲み出す類のものでは無かったということだ。クリムゾンのへヴィは本当に重い。存在の根本から重く深く設置されているため、音質だけメタルゾーンとかのエフェクターで重くしている奴らとは明らかに別格である。
ロバート・フリップの「重さ」への着眼が、今後いかにして変質していくかに注目したい。
重い。
メルヴィンズと言えば重くて遅い。
それだけである。
一聴して充分に呪術的な印象を受けるのであるから、これを受け入れるか拒否するかは聴き手の自由。限りなく窒息感に溢れた美しい音楽である。
暫定の中で満足もできるし、未知の不可解に怯えることもできる。
許容範囲内にメルヴィンズを収めるか、それとも外すか。二者択一で違う結果が用意されているわけだが、どちらにしろ頭痛の時は聴かない方が身のためだ。
メルヴィンズを聴いて船酔いのような気分になれば、きっと未知の体験ができると思う。いわば90年代のサイケデリック。知覚の扉を開けるためのステップだと思えば、初めて聴いた時の苦痛など耐えられる筈だ。まぁ、私のようにはじめからこの音が好きな人間もいるわけだが…。
こういったストーナー系のロックを聴くならまずここから入るといい。わりと聴きやすい部分もあるし、メルヴィンズの色もよく分かるので、かなりオススメである。
息苦しい解放を求めるなら、このジャケを持ってレジへ。
駅のホームに着いた。ゴミ箱の『その他のゴミ』の中に堕胎児がギチギチになって詰め込まれているのを承知の上で、宇多田は使い終えた乾電池を口からぺっと吐き出す。
中央線快速に引きずられる看護婦の死体には、これといって便利な生活の知恵を生み出すためのきっかけは見当たらない。手さぐりな日常が一日でもあるとするなら、人生は悪意の海に溺れていくことに等しい。
労働の側面には金銭への欲望がピーナッツバターのように張り付いてやがるんだ…。
宇多田はポケットから見たことも無いような古びたコインを取り出すと、痴漢防止ポスターの下に転がっている浮浪者に投げつけた。
それで処理できる問題など皆無だったのである。
辛辣な批評、何も考えていないクセにやたらと自分の音楽を絶賛するガキども。
憎い気持ちはある。だが、宇多田は全てを呪おうとはしない。転覆させるには、きっかけと地盤が必要だからである。
ある日、宇多田はインタビュアーをゴミでも見るかのような目つきで、適当に相槌を打っていた。インタビュアーの質問、「あなたはスネアの音にボーカルが被らないように歌っていますが、アレは意図的にやっているのですか?」 宇多田は紫煙を吐きつつ、その馬鹿馬鹿しい質問に答える。「全ての行動は意図的であると言えます。もし偶発的な要因での行動であったとしても、私の意識化での出来事ですから、それは意図的であったと言えるのです」
相手は大きな欠伸をした。
宇多田は殺意の赴くままに、そのインタビュアーの大きく開かれた口へ手を突っ込む。
右手、そして左手。両手がインタビュアーに飲み込まれると、その口の中から闇が広がっていく。
部屋が漆黒に塗り込められ、怨念と情念と、そして常識の皮を被った俗悪が宇多田の全ての毛穴から侵入してくるのが分かった。
引き裂かれて顎から上がぶらぶらと皮一枚で繋がっているインタビュアーに、宇多田は深く一礼すると、すぐさま次の取材へと向かった。ミュージシャンである、という認識が崩れ去らない限り、宇多田は歌うことをやめないつもりなのだろう。
自動的(オートマ)とはそういうことだ。
球体の中心を範囲の概念を無視して定めるのならば、それは点となるのかそれとも球体となるのか。
どちらにしろ生活的ではない、もしくは日常との関連性が無いという理由で我々が関心を持たない問題は多々存在している。
例えばA地点からB地点へ行く時、A→Bを直線で結ぶと、その線には無限の点があるため、Aを出発した人は永遠にBにはたどり着けないということになる。ところが、AとBを「自宅」「駅」などに入れ替えて考えると、常識的にはおかしなことになってくる。我々は常にそのA→Bへの移動を行っている訳であり、それが「不可能」だなどといわれる筋合いも根拠も無いのだ。
というような、思考の途中(この場合A→Bの移動の問題)であからさまにおかしいという猜疑の気持ちが芽生えてしまうと、次にやってくるのは「どうでもいい」という放棄・諦念である。そしてこの放棄のパワーというものが絶大なのだ。
高柳昌行のギターは大音量で全ての聴き手の思考を放棄させてしまう。爆撃のような演奏が開始され、それがまったく通常の音楽ではないと聴き手が判断したと同時に、その思考を根こそぎ刈り取ってしまうのである。
まさに観念の芝刈り機のような彼の演奏は、今もなお絶大な影響力を持って我々の音楽に対する思考を初期化させてくれる。下手な理念や思考を開始する前に、高柳のギターは概念の核爆弾のように脳内で爆発し、すべてをストップ、無効化してしまうのである。
驚くべきその演奏は、数々の作品で聴くことが出来るが、本作でのわりと聴きやすくライヴということもあって効果的なギターこそ、まず最初に聞かれるべき演奏であると思う。
朽ち果てたメタルやパンクなど必要ない。
ここにあるのはまったく新しいモノ。ランディ内田はやはり天才ギタリストだった。
というのもここ数日の間、本作収録の「ナイトメア」をコピーしまくっているからであって、実際に弾いてみて初めてわかるランディ内田の「凄み」みたいなものを痛感したからである。
まず、リフの間に挿入される奇怪なハーモニクス。これがまた難しい。通常の音楽ではあり得ない筈の構造がいきなり最初のリフで飛び出すのだからその時点でかなりの驚きだが、ソロに突入すると更に複雑怪奇な動きを行わなければならず、ランディ内田はこんなのをよく弾いていたなぁ、などと間抜けな顔で感心しっぱなしだ。
ソロに入ってからはまず速弾きのピッキングでごまかし、ランディ内田氏特有の小指多用スケールをかました後、謎のトリルを挟んで、鬼のようなチョーキングにまたトリル。キメはいつもハーモ二クスかアームでびよびよやればなんとかなるのだが、通しでソロを弾くのは至難の技である。
で、うまくソロをキメたとしても、その後にまたあのリフのハーモニクスが待ち構えている。ここで多くのギター・キッズが命を落とした筈である。実際聴いてみても分かるとおり、ランディ内田氏自身も、ソロ後のハーモニクスは少々暴れ気味でヤケクソ感が伝わってくる。これは中途半端な意気込みじゃ弾けない曲だ。
で、聴けば聴くほど、ランディ内田氏のプレイはランディ・ローズのプレイを曲解してアレンジしたものであるというのが良く理解できた。ランディ・ローズのトリルやハーモニクスを、ランディ内田氏は独自のアレンジ(リフの間にハーモニクスなどの変則使用)として消化しているのであり、そこに横山サケビ氏のボーカル(咆哮?)が絡むのだから『早過ぎたメロディック・デス・メタル』といわれても不思議ではない。
実際、ここまで面白いギターを弾くハードコアのミュージシャンを私は他に知らないし、彼のギターを「メタル」の一言で片付けてしまうようなことはしたくない。
全国のギター・キッズ(この呼称も80年代メタルっぽくてなんか抵抗あります)は、今こそフライングVを買ってランディ内田先生のプレイをコピーしてみよう! きっとその奇怪なプレイに脱帽するだろうから。
まぁ、それで二度とギターを弾かなくなってもいいし、ギズムのコピーバンドを始めたっていい。ランディ内田という素晴らしいギタリストがいたことを、今後絶対に忘れてはいけないということだけ伝えておきたかった。
ランディ内田氏が亡くなり、もうだいぶ経つが、彼のギターに憬れたハードコア少年たちはまだたくさんいるし、私もその一人である。
ギズムの曲はメタルもパンクも関係なく、ただ純粋に「カッコイイ曲」だった。だから私は初めてギズムを聴いた時の新鮮な気持ちを大切にしたい。ジャンルもクソも関係なく、ひたすら強度のある音楽を私は好きでいたいのである。
ちなみに、ジャケをスキャンしたら反射しまくって黒っぽくなってしまいました。皆さんどうやってこのジャケを取り込んでいるんでしょう? 謎です。
久生十蘭といえば「黒い手帳」。
探偵小説の概念をすべて粉砕し再構築した凶悪な作品である。
魅力はその物語としての構造、及び「探偵小説である」というカテゴリを見事に破壊したことにあり、今でもこの短編は新鮮な衝撃を伴って我々の前にある。
これからこういった古典作品が正当に評価されないならば、探偵小説の復権などありえないし、かつての熱いマグマのようなどろっとした興奮は二度と甦らないだろう。
若手作家は今一度「黒い手帳」を読んで、ミステリに夢中になった「あの頃」を思い出して欲しい。すべてが魅力的だったアンダーグラウンドなあの香りにもう一度浸って、面白い小説について一度考え直してみれば、娯楽としての文学が新しく発展していくことができると思う。
まぁ、『攻略法などない』わけだが…。
トレント・レズナーはどこに行こうとしているのか?
冷たい感触、痛々しいまでのボーカル。そしてあの衝撃音。
かつて「フラジャイル」を出した頃に「ギターは弦が六本もあるからおもしろい」というようなことを語っていた。同時に発せられる音数が多いという利点を、果たして彼はどのように活用したのか?
すべての答えはここにある。一曲目、いきなりボーカルが裏返りそうになるところがあるが、その不安定さもナインインチネイルズを構成している重要なファクターの一つなのである。
ナインインチネイルズのロックは、音響的な意味での重みではなく、かつてのシド・バレットにも通じる表現者の内面にある重みなのではないだろうか?
そう考えたとき、ここにある透明さと暗さ、そして重さの根源となる風景を垣間見ることができる。ナインインチネイルズとはトレント・レズナーの心の内部の情景を映し出す鏡なのであって、同時に外部へとそれを伝達する装置としても機能しているのだ。
恐るべきもののように思えるかもしれないが、そうではない。これは治療であり、癒しの音楽だ。トレントの内面が浄化されるために、彼はこうして作品を発表しているのであるし、我々はここにあるものを聴き、トレント・レズナーという闇を理解しなくてはならない。
ロックが受け手だけのエンターテイメントとして機能した時代は、既に終わっている。
ガールズパンク・パワーポップ系の金字塔的作品。パンクスの女の子たちはみんなこれを聴いてコピーしたりしたんでしょうね。
今でも人気の高い一枚ですが、ルックスは…なので、まだまだ一般層には認知されていないようです。ただ、これだけクオリティの高いポップ・パンクなのだから、普段女性ボーカルのポップスとか聴いている人にはオススメしたいです。
楽曲はとにかくポップなロックンロールです。シンプルでキャッチー。王道で誰にでも分かるタイプの音楽だと思います。
こういうパワーポップ系のパンクは評価されにくいみたいですが、ここ数年わりと再発などが続いていて、密かに盛り上がっています。この時期にぜひ、当時の若者の演奏に触れてみてはいかがでしょう。いろんなバンドがあってけっこう面白いです。
05年4月、イギリス南部の海岸をずぶ濡れになって歩いている男が発見され保護される。彼は一言も喋らず、紙とペンを渡すとグランドピアノの絵を描き、実際に保護した社会福祉士がピアノの前まで連れて行くと、物凄い勢いで突如ピアノを弾き始めたという。
彼の演奏力は驚異的なもので、その場に居合わせた全員が息をのんだ。
数々のクラシックの名曲が、礼拝堂のピアノから奏でられた。
このことは全世界に報道され、彼は謎の「ピアノマン」と呼ばれるようになった。
しかし、05年8月22日、英国のデイリー・ミラー・タブロイド紙にピアノマンの正体が判明したという記事が掲載された。全世界は天才ピアニストの正体に注目し、既に4ヶ月もの間その真実が伝えられるのを待っていたのである。そしてその結果はとんでもないものであった。
ピアノマンの正体はピアノなどまったく弾けないドイツ人だったのである。
彼はパリで職を失い、海岸で自殺しようとしたところを保護されたのだという。そして、もともと精神病棟で働いていた関係上、精神病患者のフリをし、医師たちを見事に騙し、ピアノも実際には弾いていないものの、周りが勝手に「素晴らしい演奏だった」とウワサし、今回の騒動にまで発展したというわけである。
ピアノマンは芝居だった。
その衝撃は、謎の天才ピアニストが発見された! という第一報よりも大きかった。なぜなら、魅力的だった筈の謎が、反則的なまでの『真相』によって一瞬にして無効化されたからだ。いままで作り上げたピアノマンという存在自体が、砂の城のようにあっけなく崩れ去ってしまう。その幻想の発端であった「物凄いピアノを海岸で保護された謎の男が演奏した」という事実そのものが「無かった」のであるから、話そのものがすべて解体されてしまったのである。
根本を失った幻想は、いまではただの現実のなんともない出来事のうちの一つとして、今後誰の興味もひくことはないだろう。ピアノマンはいなかった。その事実だけで充分に刺激的なのだから、ニュースに飢えている我々にとっては調度いいのかもしれない。
メタル界の北島三郎ことロニー・ジェームズ・ディオの傑作1st。
一曲目の疾走感がたまらない。鼻の穴もたまらない。
いくらハイトーンでも顔面がサブちゃんなのでなんとも言えません。が、やはりヴィヴィアン・キャンベルのギタープレイが好きなので、メタルキッズたちにとってもわりと高い人気を誇っているようです。
ディオといえばレインボー、エルフ、ブラック・サバスなどでの活躍にも注目ですが、どのバンドにいても歌唱法が一緒なのでイッパツでディオだと分かる便利な人ですね。ここまでスタイルの変わらない人も珍しいです。
とにかく一曲目「Stand up and shout」のヴィヴィアンのリフとソロを聴いてみてください。疾走感と破壊力に満ちているので、メタルファン以外の方でも楽しめると思います。
樋口康雄ことピコ、19歳の素晴らし過ぎる1stデビューアルバム。日本最高のソフトロックであり、今もなお根強い人気を誇っている名曲「I Love You」も収録されている大傑作。一時期クラブで流れまくったので聴けば「ああ」と思う人も多い筈。
こんな傑作が72年の日本で生まれていたということにも驚くが、ここにある楽曲はほぼ一日で作ったというのだから更に恐れ入る。ピコの才能は当時の日本ではズバ抜けているとしか言えない。
「I Love You」は部屋で一人で聴くのもいいが、クラブの暗がりでときたま照明を浴びながら踊る子たちを見ながら聴いたり、自ら踊ったりするのが一番いい。最高にキュートでポップ。恥ずかしいぐらいにいい曲が詰まっているジャパニーズ・ソフトロックの最高峰である。
長らく廃盤になっていたが、クラブでの人気も手伝って何年か前にCD再発。そして今度はアナログでも再発されたそうである。やはり良い音楽はこうして語り継がれていくべきなんじゃないかなぁ。
金目当てのリバイバルや商品としての再発にはウンザリだけど、聴きたい人が聴きたいモノを手にすることができるという意味での再発なら大歓迎だ。ピコのこのアルバムも、CD化すると聞いたときは腰を抜かすほど嬉しかったし、もちろんすぐに買ったわけなのだが、いまだに一切遜色無く聴くことができるので重宝している。
一曲目「あのとき」を聴いた時点で、ほぼ全てのソフトロックファンはノックアウトだろうし、僕もまた再生して10秒で魂をもっていかれた。ピコの美しい音楽はこれからも語り継がれていくし、多くのリスナーを魅了していくのだろう。
日曜日…。みなさん、今日はピコの曲を聴きながら、何か楽しいことを思い描いてみてはどうでしょう。美しい風景、思い出、恋愛、未来など、ピコの音楽は全てをやさしく切り取ってみせてくれる。
コンピレーション。ヤン富田やカトラ・トゥラーナ、ハネムーンズなんかが参加しており、とても深いところの音楽で全体的に薄暗い感触。
商業的なテクノポップが道化的感覚を保有していたのに対し、ここにあるようなニューウェーヴは退廃美から生まれる新しい感覚を求めていたように思える。
クールではなく、シュール。しかしそこからファニーな感覚を取り除いているがため、奇怪な造形が露出している。
日本という島国で生まれる異質な音楽は、他のフィールドから見てもやはり特異なのであろうか。海外でもこういったレコードは人気があるらしく、日本にはこのような盤が溢れかえっていると思われていそうだが、実際日本に住んでいる我々でさえ見たことの無いようなレコードが海外で取り引きされているのを見ると、そこに異論など唱えられるはずもなく、どうにも複雑な気分である。
せっかく日本にいるのだから、母国の音楽くらいは知っておこうかな、と思ってから様々なレコードを買い集めるようになってしまった。これはその内の一枚である。
電子音の漂白は何も生み出さない。ただそこへ引き寄せられた魂が動作するだけである。
70年代に鳴り響く電子音の何と豊かなことだろう。
このハルモニアと題された音楽は、クラスターやノイとは別の視点からサイケデリックを見せてくれる。
戸棚にしまってあるクッキーの缶の中には、果てしない闇がつづいているんだということを幼い僕に教えてくれたのがこの音楽だった。
教会の風景、電子音が作り出す大自然。そして極彩色の闇。
絶望することに慣れていないならば、明るく終末を迎えればよいのである。
クラスターの二人にノイのミヒャエル・ローターが加わったこのハルモニアというユニットは、常に終末を感じさせるのに明るい解放感を含有した音を構築する。それがニューウェイヴの根本にあるものだと言われても、僕らはそれを疑ってやる。なぜなら、解放感を伴った終末など、絶望のプロセスには含まれないのであるし、それを望んでいる人間もこの世にはいないからだ。
人はみな終末を無意識に回避している。それを思わぬ方向から気づかせてくれるのが、ローターのギターであり、クラスターの電子音なのである。
ハルモニアの一枚目。奇妙でぎこちない、極上の音楽がここにある。
新譜を買わなきゃ! と思い、悩んだ挙句に購入したのがこのミチロウさんの新譜。
弾き語りになってからのミチロウさんは年々凄みを増してきて、ここではもう完成されたスタイルでの味わい深い弾き語りが聴ける。スターリン時代しか知らないという人にこそ、ここにあるシンプルな歌を聴いて欲しいし、スターリン時代を知らないという人にもオススメできる。まさに遠藤ミチロウな歌詞をあの声で歌うのだから、絶対に感動します。
ミチロウさんの弾き語りライヴでは、みんな真剣な表情でミチロウさんを呆然と眺めており、中には感動のあまり泣いている人もいたりしました。私も何度も観たわけではありませんが、スターリンとは別の魅力が、彼の弾き語りのステージにはあるように感じられました。
初めて聴くなら二枚組みベスト「アイパ」がジャケもオシャレでオススメですが、本作での「蛹化の女」は戸川純ファンでなくとも必聴です。ミチロウさんといえば「カノン」なわけですが、今回は戸川純の歌詞でカバーしています。後半やたら盛り上がって、シャウトするミチロウさんが素晴らしくカッコイイ。これは意外な組み合わせだったわけですが、聴いてみてなるほど、と感心かつ感動しました。
何か新譜でも買おうかな、と思っている人にこれはオススメの一枚です。
スラッシュの王道!! ジャパニーズ・スラッシュといえばこの人達です。
カスバ、一時期再結成(オリジナルメンバーはハトリさんだけ)してましたけど、やっぱりこの時期の鬼のようなスラッシュが好きです。
以前 METAL-CAT! 氏がライヴを観たときに「世界一速い曲やるぜぇ~」と言ってこのロシアン・ルーレットをぶちかましたらしいです。ちなみにその後「お前らの知らない曲やるぜぇ~」と言ってアイアン・メイデンのカバーをやったらしく、その音源はもし残っているなら聴いてみたいです。カスバのアイアン・メイデンって…。おそろしい。
やはりスラッシュはこうでないといけませんね。殺人的なスピードで突っ走るカスバの演奏は、彼ら自身が言うとおり世界一速いスラッシュ・メタルだったのであるし、現在聴いてもまったく古さを感じさせないかっこよさに満ち溢れている。
投影された甘い音楽は、限りなく立体的になって目の前まで迫ってくるが、色彩は淡く半透明に近い。もしも、極彩色のサイケデリックをあなたが求めているのならば、本作はオススメできない。しかし、モノクロームの甘い世界に浸りたいならば、彼らのポップ・ソングが最適だろう。
ほぼフリッパーズ・ギターで再録されているが、ロリポップ・ソニック時代の方がよりダイレクトにポップミュージックを構築している。
個人的には再録はおろか公式なリリースもされていない「GO!」や「自転車疾走シーン」といった楽曲にこそ彼らの真価があると思う。「GO!」は思いっきりアノラックサウンドで、リズムボックスのバージョンはグルービー・リトル・ナンバーズを彷彿とさせる。「自転車疾走シーン」は小沢君のボーカルがもっとも生かされている楽曲である。
ロリポップソニックの音源はとにかく音質が最悪だが、楽曲そのものは良質なのであまり苦にはならない。ただ、もうちょっと良い音質で残っていたらなぁ、と思うと残念でならない。
ニルヴァーナのヒット後、いかにして第二のニルヴァーナを探すか、というのが当時の音楽業界での命題であったように思う。そこでその候補として囁かれていたのがこのスーパーチャンク。
ただ、グランジというよりはシューゲイザー寄りの音楽性であったが故に、「砂糖の多いマッド・ハニー」などとメチャクチャな位置づけをされてしまった不幸な人達である。
現在彼らのデビュー盤である本作を聴くと、ポップかつノイジーという80年代~90年代半ばまで続いたギター・ロックバンドの暗黙の了解をここまで素直に体現できていることにまず驚く。
スーパーチャンクはこの後も的確なアプローチで独自の地位を築いていくのだが、このデビュー作ではとにかく衝動的な「ポップでノイジー」が詰まっているため、初めて彼らの音に接するならここからをオススメしたい。無邪気に音を出している彼らが、後にあそこまで職人的に成長していくのだというプロセスを追うために、アルバムを発表順に聴いていくのも面白いだろう。
三枚目とかは売ってしまったのですが、この二枚は物置に封印されていました。
やはりこの時期の関西のハードコアはおっかなくてカッコイイです。
モブスといえばモホークスなんですが、モホークスの音源は残念ながら持ってません。以前とある経路でライヴテープを入手し、聴いていたのですが、そのテープも何度目かの引越しの際に紛失してしまいました。あとはメマイという物凄くカッコイイ人達がいたのですが、これまた音源や資料はナシ。ナシといえば「ナシ」という人達もありましたっけ? この周辺はまだまだ深いです。
もともとモホークスのメンバーがこのモブスと、バウズというバンドに分かれたのですが、個人的にモブスはメチャクチャ好きだったので、バウズの方はあまり聴いてないのです。
この二枚で聴ける危険な香りのハードコアはとんでもなく凄まじく、ゾウオとかメマイ、ギズムなんかが好きなら確実にオススメです。って、そこら辺聴いていたらこれも聴いてますよね。
割と体育会系というか、ドスの効いたボーカルや重みのある演奏のため、おっかない感じが滲み出ていますが、ライヴはもっと怖かったそうです。ちなみに私は見てません。多分怖くて今でも行けないかも。
一時期(モブスの時代から10年後ぐらい)お化粧バンドが流行りましたが、モブスの化粧は他のバンドのようになよなよした感じではなく、逆に怖くて最高でした。あんな怖いメンバー写真は他ではあまり見ないですね。個人的に大好きなバンドです。
明朗闊達な表現であれば、どのようなバンドでも評価されると思ったら大間違い。根本にあるべく表現に対する思想の質・量・輝きが、少しでも曇っていたり軽々しく設置されているならば、そんなものはゴミに等しいのである。
カムズは圧倒的な音とイメージ、方向性で我々を魅了した。当時としては珍しい女性ボーカリストのチトセが放つ強烈な歌詞と、本物のハードコアサウンドが提示したものは、聴き手を巻き込んで爆発するようなタイプの『運動』であったのではないか。
84年に解散するまで、カムズ単独での作品はこの12インチしか出ていない。ライヴでしか聴けなかった名曲「悪徳事務所」など、未発表曲も数多いのでコンプリートで再発を望みたいところだが、やはりドグマから出ていたせいか、一向に再発の気配は無い。
このままカムズというバンドが忘れられてしまうようならば、日本でのハードコアなど無意味だ。この時代にこの音を出していたという事実がある限り、ハードコアは輝かしく存在しているし、次世代へと思想的な伝達もなされる。
日本のハードコアの記念碑であり、現在でも充分な威力を保持しているこのレコードは、私にとって最高の宝物であって、なおかつ教科書でもある。
本日二発目のHCコンピ。
これも強烈です。8インチでポスターになるジャケも手作り感覚が溢れていて嬉しい一枚。
参加面子はシステマ、グール、クレイ、ガスタンクの4バンド。
何がいいって、ここでのテイクはどのバンドもカッコイイんですよ。王道のシステマから始まって、グールも妙にカッチリした演奏で燃えるし、クレイはもともと音源少ないから嬉しいし、ガスタンクもこの時期はかなり初期だからハードコア的な切れ味があって面白いんです。
たしか84年作なんだけど、この時期の最先端HCといった感じで興味深いレコード。現在聴いても充分破壊力あります。
ハードコア史上に燦然と輝く大名盤です。
強烈なコンピです。Gism、Comes、Laughin Nose、Gauze、Masturbation、Full X、Route 66、Madam Edwarda と参加面子だけで、どんな内容かは分かると思います。
針を落とすといきなりギズムのA面ばかり聴いていたのですが、先日久しぶりにマスベの方のサイドを聴いたら意外とカッコよく、Full XやRoute 66といったストレートなパンク・バンドも埋もれさせてしまうにはもったいない魅力があり、このレコードの凄さを再認識しました。
この時点で物凄い貫禄とインパクトのギズム、「なんでもいいから金をくれ!」というチトセのシャウトが頭から離れなくなるカムズ、まだ荒削りなサウンドのラフィン、有無を言わさないカッコよさで圧倒する帝王ガーゼ、熱病にうなされているような悪夢サウンドのマスベ、直球なフルX、ロックンロールなルート66、そして奇怪なオルタネイティブバンドのマダムと、これだけ個性豊かなバンドが集まっているだけでも重要な一枚です。
シティロッカー(ドグマ)が再リリースしないため、大変なプレミアがついていますが、聴く機会があったら絶対に接して欲しい一枚です。82年の日本のハードコアがここまで凄いものだったという事実を、なるべく多くのハードコア好きに知ってもらいたいのですが、再発はないのかなぁ…。
権利の問題にもめげずに再発してやるという気骨のあるレーベル・オーナーの方、ぜひこのアルバムをマスタリングして再発してください!! と一応言っておきます。
デビュー40周年。凄いですねぇ。こんなベストも出たし、そろそろジェファーソン・エアプレインも一般的に支持されてもいいんじゃないかと思うが、スペンサー・ドライデンが亡くなったというニュースがほとんど日本で騒がれていない現状を見ると、まだまだ鎖国的な性質が我が国にはあるのか、などと思ってしまう。
以前デッドのジェリー・ガルシアが急逝したときもそうだったのだが、ロックの偉人が死んだところで、俺たちには関係無い、というような態度を日本のメディアはとっているような気がする。何かの雑誌で故・隅田川乱一氏も指摘していたが、このままの状態だと、日本のロック界で死者がでても、報道機関はいっさい騒がないんだろうな、という不安を強く感じる。たとえば水谷孝や山口フジオが死んだところで、誰もその死を報道しようとしないだろう。本当は絶対的に報道すべき内容だと我々は考えるが、メディアの判断基準というものは曖昧かつ適当なものであるということを、スペンサー・ドライデンの死と、それを大々的に報道したアメリカのマスメディアは浮き彫りにしたのである。
ワイパーズやブルー・チアー、ブラック・サバスにブラック・フラッグを混ぜた感じのサウンドでなぜか大ブレイクしたこの人達。
シアトルから生まれた涅槃はしかし、このアルバムよりも初期の汚らしい音質の曲の方がより彼ららしい狂気を生み出していると思うのだが、スメルズ~の大ヒットによって世界的に認知されたという事実によって、わりとキャッチーなイメージで括られている。
本質はもっと荒削りでジャンクな感覚が核にある筈なのだが、驚異的な売り上げのこのアルバムのイメージがあるため、巷ではポピュラーなロックバンドといった位置で語られている。
でもまぁ、ボーナスに入っていた「エンドレス・ネームレス」を聴けば、クスリのニオイがツンと鼻を刺激するのであるから、きちんと聴き込めばそれなりに違った世界が見えてくる。
ブートなどで聴ける『ブリーチ』以前の音源や、自宅で録音されたようなカートの弾き語り(?)音源を聴いてほしい。そこではカート・コバーンという一人のロック好きの青年のストレートな一面が窺えるだろう。彼はザ・ナックやビートルズが好きで、レッド・ツェッペリンやエアロ・スミスを通過し、ワイパーズやメルヴィンズに心酔していた、よくいるロック好きの一人だということを認識した上で、このバンドを聴きなおしてほしい。田舎町の青年の遊び心が、ここまで見事に表現されている例を私は他に知らない。
バーバンク・サウンド。バーバンクというのはちなみに地名です。
いま再びこの名盤を聴くと、スタジオ作業における魔法の仕組み方というものの基本が全てここに凝縮されていることに驚く。まさにキャッチー&ドリーミー。夢の世界の入り口である。
しかしながら、冷静にその夢の世界を凝視してみると、実は極端に捻じ曲げられた狂気の道化であったことに気づかされる。
ポップ性の裏側に潜む狂気の重さというものが、このアルバムの意味を強く持ち上げて支え続けているのではないだろうか。
心地よい夢が、悪夢へと切り替わる瞬間のカタルシスが、ハーパース・ビザールのサウンドが我々に仕掛けた魔法なのであって、その魔法はこうして現在も作用しているのだからやはり偉大なグループであったと思う。
…やっと!! 本当にやっと発売されたLSD。
期待どおり充実のライヴ音源(音質は微妙)が最高で、DVDももちろん良い。
何度聴いてもカッコイイ名曲の数々。前から疑問だったのだが、「憎悪戦争」は「ぞうあく」と発音しているのだが、これは意図的なものなんだろうか。どちらにしろ言語的に物凄い破壊力である。
ハードコアの概念がどのようなものだったとしても、「JAST LAST」における岡田有希子ジャケのインパクトはその枠外に飛び出してしまい、凶悪な忌まわしいイメージだけでこのバンドが語られてしまう危険性を孕んでいた。しかしながら、LSDという存在が現在まで軽視されなかったのは、一種の呪いであったと解釈しても良いだろう。彼らの音、特にこのアルバムを通して聴けば、ただならぬ気迫とハードコアとしてのレーゾンデートルが鼓膜から直に脳へ伝達されていくのを感じ取れる筈だ。その感覚を今後育っていく世代の子供たちに伝えて欲しい。我々の時代で知りえた素晴らしいことや凄まじいことを、そっくりそのまま未来へ送り届けられるなら、それほど報われるものもないだろう。
だからこそ、こういった再発盤には意味がある。
日本で唯一の、本物のポリティカルパンク。
「愛のかけら」や連作ソノシートに続いてリリースされた本作は、さらに演奏にまとまりも出てリアルというバンドの凄みが増している。まさに職人芸というか、洗練された世界が見事なまでに構築されているし、このバンドが最初から根本的に信念を曲げていないこともよく分かる。
ここまでの本格的なポリティカル・パンクが日本という土壌でポピュラリティを得ないのは、ぬるま湯のような偽りの平和に国民が安心しきっているからであり、その腐敗した魂にリアルは噛み付く。
システムに惑わされず、偽善を憎み、本当の平和を追求する。リアルの一貫した姿勢は神々しくもあり、この時点で結成から10年以上という相当なキャリアを持っているバンドなのに、初期衝動的な気持ちがまったく衰えていないことに驚愕せざるをえない。
メロディアスなギター、的確なリズム、そしてポリティカルな歌詞を鋭い発声で聞かせるヴォーカルは、まさに日本の誇るべきパンクのあり方だと思う。
初期の頃はハードコア系のギグに参加し、ADKからリリースもしていたリアルだが、ここにきてその理由がなんとなく分かった気がする。彼らは精神的にハードコアの先を見据えていたのだろうし、パンクという形で表現できる自分たちの意志を強固に確信していたのだろう。だからこそ、当時のハードコア勢とともにライヴをやり、周りを圧倒するような強烈なオリジナリティを発していたのだろうと考えられる。
リアルほど真摯なポリティカル・パンクは今後出現することはないだろう。
PS.資料提供で協力していただいた吉澤様に感謝いたします。ありがとうございました!!
天国が間近にあった場合、幻想がそこに付随することはないだろう。へヴンリーの天国は距離感がどうのという前に、現実そのものを至福に導く。そのため、リアル~ファンタジー間の垣根は崩壊し、発生するのはオシャレでポップな音というわけだ。
今でもここにあるメロディは夢を生成している。聴き手が絶えない限り、へヴンリーの位置というものは不動であるし、その効力も変質、失効などはしない。時間の経過によって損なわれるような紛い物のポップミュージックなど、へヴンリーと同じ土俵に上がれないのである。
メンバーが自殺してしまったが、それによってへヴンリーの持っている魅力が殺がれたというようなことは決してない。永遠の青春がここに封じ込められているし、この宝石箱はいつだって開けることができるのだから、僕らは思う存分楽しめば良いのである。
スティーヴンのよれよれした「うた」が好きだ。本人は真剣なのに、どこか情けなく響いてしまう彼のうたはとても素晴らしい。最近、彼はあまり歌わなくなってしまったのだが、パステルズの空気はいつも新鮮である。
私はパステルズのよれ具合は、我らが工藤冬里の楽曲と似通った部分があると考えていたので、ジオグラフィックがマヘルのアルバムを出すと聞いたとき、妙に納得してしまったものだ。スティーブンと工藤氏の交流も、パステルズの新作のライナーで工藤氏自身が少し書いていたので、気になるという方はそちらをご覧ください。
で、これはそんなパステルズのもっとも聴きやすいアルバム。ギター音も以前と比べるとやや轟音気味に鳴り響いているし、全体的にもポップにまとまっている。まさに黄金のギターポップ。きらびやかで美しく、そして下手なのにドラマチック。まさに理想の一枚である。
もう一度、この時代のパステルズを聴いてみたいのだが、彼らはもうそんな場所にはいないんだろうなぁ、と思うと少し切ない。やはり感傷的になってしまうのは、これからもパステルズを聴く度に続くのだろう。失敗という概念がないのだから、彼らは常に成功者なのである。
よくみると全然似てないのに、雰囲気やちょっとした色合いが記憶の中で交錯し、どっちがどっちだったかわからなくなるジャケットが存在する。
そんな混同ジャケシリーズとしては、やはりこの「はっぴいえんど」と「Jガイルズ・バンド」が僕の中でよく間違えるジャケの代表格だ。
よく見比べるとまったく違うのに、ニュアンスが似通っているというだけでどっちがどっちだか分からなくなる。タイトル文字を隠されたら、かなりの確率で間違えるだろう。まぁ、僕だけかもしれないけど。
一度はっぴいえんどのこのアルバムを聴こうとしたら思いっきりJガイルズで、しかもしばらく気づかなかったなんていう事故も発生。人間の記憶というのはかなりいい加減なんだなぁ、と改めて実感した瞬間でした。以上。
最近になってリザードや紅蜥蜴の音源が再発しているみたいですが、あまり買う気になれないのはなぜなのでしょう。「黒い人形使い」とか結構好きなんですけどね。
モモヨのキャラとかが原因なのかなぁ。あんまり影響受けませんでした。
リザードのセカンドとかは結構好きで、一時期聞きまくっていたんだけど、やっぱり後に残らないというか、一時的なものとして通過してしまった気がします。
あらためてこのアルバムを聴いてみたんですが、シティーロッカー盤よりこちらのCD盤の方がジャケが安っぽくて好きです。ブックレット裏の写真もギターポップみたいだし、なんだか不思議な一枚。で、内容はやっぱり紅蜥蜴で、リザードのデモといった雰囲気です。
ロッククリティック(後の浅草ロック)とか、わりとノリのいい曲もあったりしてけっこう楽しめたし、別に悪いアルバムじゃないんだけど、あんまし人気無いですよね。
私はかなり楽しめたのですが、万人にオススメはしないでおきます。
Like A Hurricaneを、へろへろなバージョンでカバーしたら、ようやくこの人のナチュラルな幻覚風景が見えてきた。ニール・ヤングはドラッグだ。それはとても深く覚醒するためのスタッフである。
アルバム「ハーヴェスト」や「アフター~」もいいが、最近作での洗練されたロックもいい。すべてがニール・ヤングという規律の中で不気味に配置されているが、このベスト盤ではそれが無くなるのではないか? と往年のファンたちに危惧されたものの、出来上がってみれば素晴らしい選曲で、やっぱりニール・ヤングはいつの時代も変わってなどいないのである。
選曲がいいというより、曲ひとつひとつが輝いている。そのためどれをどう並べても、ニールヤングという宇宙が完成する仕組みになっているのだろう。
マスベは以前にも書いたけど、今回はOKレコードの編集盤について。
最初に言っておくと、盤起こしなのかとにかく音質が悪いです。オリジナル盤の方が音はいいですが、ボーナストラックのライヴ音源が聴きたくて買いました。
それにしてもカッコイイですね、卑龍氏のボーカル。うめき声系のボーカルってありそうで無いんですよね。で、あのどろどろのサウンドなので最高です。
主に一枚目の曲がいいんですけど、久しぶりにきいたら「闇の中の子供達」とかもカッコよかったです。闇の中~は最初のベースラインでもうノックアウトでした。素晴らしすぎるバンドです。
最近のハードコアの人にはあんまり人気無いけど、ここでの重苦しいサウンドこそが、昭和のハードパンクなのです。ジャパニーズHCクラシックとして、とても重要な一枚。
最近なんかこういうのばっか観てる気がする。そういう時期なんですかね…。
これもキューブとか好きな人向けの映画だが、せっかく舞台設定などにこだわっているのに、これだけのストーリーでおしまいというのはもったいない気がする。
まぁたった18日で撮影したのだから仕方がない、というか凄いのだけれど、せっかくのネタなのだから、もっと時間をかければよかったのに、と思ってしまう。
予想外の展開、と予告かなんかで言っていたのだけど、すぐに大体の流れは予想できてしまうし、地味といえば地味な作品。でも今はこういうのが流行っているんでしょうね。
物足りなさを感じない人にとっては極上のスリラーでしょう。あまり内容に触れるとそれだけでネタバレになるので言及しませんが、脚本自体は優れていると思います。
うーん、何て書いたらいいかわかんないですね。
とにかく観て、それぞれ感想を持ってください。損はしませんから。
このキック音の連打が時代を変えた。まさに革命的な一曲である。
現在のテクノやダンスミュージックは少なからず、この一曲を前提として作られていると言っても過言ではないし、いまだにクラブなどで根強い支持を得ていることからも、ニューオーダーといえばこの一曲であり、テクノ・ミュージックといえばこのキック音という訳だ。
今夜また「ニューオーダー・ナイト」というイベントがあるそうですが、私は仕事でいけません。行った人レポートよろしくです。
まぁ、イアン・カーティスの魅力が大きかったせいで、ジョイ・ディヴィジョンにのめり込み、ニューオーダーの方は深く聴いていない私ですが、たまにこの曲や「パーフェクト・キス」を聴いて小躍りします。ニューオーダーってあまり激しく踊れない曲のように思えるのですが、クラブとかでかかると不思議なくらい盛り上がるんですよね。最強のダンス・クラシックです。
ADK時代からのコンプリート。奇形児はやはりヤスさんのボーカルの勢いが素晴らしいですね。きちんと歌詞が聴き取れるのもいいです。ヒロシさんのギターもメタリックですし、演奏能力の高いバンドだったと思います。
で、これまたOKレコードからの編集盤なのですが、ドラムのヒロシマさんがこのレーベルやってるんですね。たしか高田馬場のエリアで物凄い動員数のライヴイベント(ヒロシマさん主催のマサミ追悼かな?)やったときがあって、そんときに過去のバンドの元気な姿が見れてうれしかった記憶があります。
ヒロシマさん、いま新宿で焼鳥屋やってるってきいたけど、OKの方ももっとリリースしてほしいなぁ。こういう重みのあるリリースは大歓迎だし、すでにこれだけ凄いモノ出してるんだから、突っ走ってほしいんだけど…。
奇形児の話に戻すと、とにかく初期の音源が強烈。音質もADKからのやつだけ妙にカッコイイ。路線的には一緒なんだけど、ADK特有のミックスがやっぱり良く聞こえてしまいます。そういえばADKってもともと「江戸っ子」って意味だったっけ…。なんか凄いです。
最近働かない(就業という形で社会参加しない)若者が増えており、彼らはニートという呼称がつけられている。で、このニートというのは英語らしく、僕は学が無いので意味はよくわかりません。
というわけでこのアルバム。地獄に堕ちたニートにぜひ聴いてもらいたい一曲目「ニート! ニート! ニート!」から、全編通して激しいパンクロックが迸っている大傑作。
SGの音、叫び散らすボーカル、ドタドタと暴れるドラム、そしてうねり過ぎのベース。ダムドは当時の他のどんなバンドよりもパンクで、素晴らしい勢いを備えていた。現在、ピストルズやクラッシュは聴いたけどダムドは知らねぇ、という若きバンクスが多いが、ここにあるアグレッシブな楽曲を聴かずにパンクを素通りするのはもったいなさすぎる。だから「70年代の初期パンクってまず何を聴いたらいいの?」と聴かれたら、僕はこの一枚をぜったいに推薦する。
ここまでストレートにパンクなら、初めてでも何の問題もないでしょう。もともと音楽できる人達だし、演奏もわりと上手かったりするのが微笑ましい。
ダムドを未体験ならば、ぜひレンタルでもして聴いてみてください。そうすれば知らず知らずにニートから抜け出しているはず!!
プレミアの活躍には感嘆せざるをえない。魔術が科学の力を借りて何が悪い? 彼の魔術は機材を通して増幅する。驚くべき音や、聴いたことの無いようなリズムが、いとも簡単に彼の手にかかれば出現してしまう。
この音をヒップホップと定義してしまうことに戸惑いをおぼえたなら、それはプレミアの魔術にハマっている証拠だ。あまりにも深く、幅の広いサウンドであるため、単純にヒップホップの呼称ですませてしまうにはもったいない。
強烈なオリジナリティが指し示している先には、まだ見ぬヒップホップの可能性が広がっている。
BIG MEのプロモの白痴っぷりが凄かった彼ら。最近新譜出したみたいですね。
多分このバンドを語るとき、皆の脳裏にはニルヴァーナの影がチラチラするんだろうけど、実際はニルヴァーナ的な展開はしてません。音を聴いてもらえば分かるとおり、かなりポップで聴きやすい80年代風ロックなのです。
デイブも、もともとは80年代の音楽を愛する青年だし、やりたいことが出来ているのだから素晴らしいと思います。パンクもハードロックもメタルもファンクも、全てを聴いて育った世代のロックなのだから、音に含まれている情報量はおびただしく、一枚でかなり楽しめる作品。
と、なんだかんだで新譜聴きたくなってきたので、今度余裕が出来たら聴いてみようかと思います。Foo Fighters、まだまだ勢いを失ってません。
サイエンス・フィクションに思いを馳せるあまりに、ヒップホップでそういった世界を描いてしまった究極の作品がこれ。radioinactiveことカマルは、幼いころからこういった世界、とりわけ宇宙人に興味を持っていたという。radioinactiveという名も、少年時代に母からもらった本にちなんでのネーミングだとのことだ。
このアルバムのスピリチュアルでノスタルジックな感触は、カマルという人物が培ってきたサイエンス・フィクションへの幻想そのものなのだろう。ショッキングな描写は無いが、充分に新鮮でクオリティの高い世界を構築しているため、音響的にも注目すべき一枚である。
ブラジリアン・ハードコアはどのバンドも素晴らしい。このロボトミアも、そんなブラジル特有のハードコアだ。なぜか日本盤が発売されていたが、もう売り切れ。ブラジリアン・コアがそんなに人気あるなんて知らなかった。
音としてはメタリック・クラスト・コアと帯の文句にあるとおり、こもった音質の荒削りなハードコア。ただ音量がちょっと低いので、なるべくボリュームを上げて聴いて欲しい。
歌詞もブラジル特有の環境が生み出した苛立ちが爆発したポリティカルなものなので、語学に明るくない人には日本盤の対訳を読むことをオススメします。
DIP THE FLAGの中ではこれが一番聴き応えのある作品だと思う。
やっぱり後のDIPとは全く違う音で、サイケデリック感覚はこちらの方が断然上。DIPになってからの轟音ギター的なアプローチも嫌いではないが、やはりこの時期の不可思議な感覚がDIP THE FLAGの持ち味としても最高峰だろう。
この路線でもっと作品を発表してもらいたかったのだが、本盤も既に廃盤となっており、DIP THE FLAG自体に触れることが難しい環境になってしまっているのが残念だ。
ライヴ盤の方もいいが、よりDIP THE FLAGらしさが出ているのはスタジオ録音の本作。整えられた音が歪んで聞こえるのは、彼らの狂気がダイレクトに封じ込められているからに違いない。
重要なバンドだと思うのだが、DIPより評価されていないような気がする。もっと取り上げられるべき魅力はあると思うのだが、なぜだろう?
タムのギターは重くて独特で、何といっても泣ける音だ。
人それぞれ感じ方は違うかもしれないが、G-ZETのインスト曲は僕にとって物凄く切ない。よくメタルなどでは「泣きのメロディ」というような言い回しを用いることがあるが、僕にとってはタムのギターはそれに当たる。とても心に響く、あのこもったディストーションギターのリフは、日本におけるハードコア・パンクというものを全て表している。
すべてをぶっ壊し、ずっしりと重く切りかかってくるタムのギターは、このG-ZETで完成しているのだが、突如失踪してしまったというのが気がかりでならない。理由はいろいろあったと思うが、もう出てきてもいいんじゃないかと思う。誰も彼のことを憎んでなどいないし、このようなCDが出るほどに、彼が残した功績というのは大きいのである。
もしタムが戻ってきて、またあのギターを弾いてくれたら…、と何度も思った。多分日本中のハードコアファンが一度は願ったことだろう。 G-ZETが復活しないか、タムが戻ってきてくれないか、と。
結局、タムは戻らなかったが、このCDはいまだに売れ続けている。後世へ彼のギターの音が伝わっていけば、ファンとしてはそれだけで充分満足だ。みんながこのアルバムを聴いて、カッコイイギターを体験することが、タムにとっても嬉しいことなんじゃないかと思う。
日本では珍しいモーターヘッドタイプのメタル。とにかくベースがヤバく、ぼこぼこに突っ走る破壊力満載な音がひたすら気持ちいい。
で、このベースの人、諸田コウといいます。そうです、DOOMの諸田さんです。
こんなカッコイイバンドやってたんですね。個人的にはDOOMより好きかもしれません。モーターヘッド直系のワイルドなロックが好きなら、このソノシートを聴いて損は無いハズ。
諸田さんも亡くなってしまいましたが、彼のフレットレスベースの音と人柄を愛している人達はまだたくさんいます。ドゥームもいいですが、このザドキエルの瞬発力に僕は軍配をあげてしまいます。
日本のメタルシーンというのは結構奥が深いんだなぁ、と単純に感心してしまう僕ですが、このような傑作がまだまだたくさん世の中には存在しているので、これからも掘り下げていきたいと思います。
空を眺め続けると、ぽっかりと四角く切り取られる部分がある。
そこはいつのまにか真っ黒になり、何も無い空間のように見える。
ゆっくりと自殺し始めた水道の蛇口は、群れをなして時間を忘れた。
み空。
見てはいけないし、そのことを他人に話してはならない。
そんな空もあるようで、私は諦念の前に勘違いをする。
土着的な要素などいらない。そこで習慣を切り離すためのステップを考案してみてはどうか?
あるいは、罪の背負い方を変えてしまえばいいのでは?
くだらない発想は全て実現した。
時にまかせて、我々はただ発案し続ければいいし、また我々はそれぐらいしか意味を持っていない。
つまり、反省しなくとも良いのだ。
この曲はあまりにも霊的であり、サイケデリックをもう一層深く掘り下げた地点で、今も不気味に揺れ続けている。マーク・ボランというシャーマンがいかに本物であったかを語ったならばキリがないが、この曲を一曲だけ聴けば全て了解できるだろう。
宇宙は不定形だが、そこへ溶け込む我々は定形なのである。アルバム「電気の武者」が僕らに与えてくれた宇宙を、ゆっくりと傍観し、そしてその中へ泳いでいけば問題は無いのだ。
僕は古びたインチキメーカーのギターで、この曲を何度となく弾いた。意識しなくとも、自然とリバーブがかかったように聞こえ、アンプもエフェクターも通していない音が、極めて美しく転がっていくヴィジョンに何度も驚かされた。そこがマーク・ボランの墓場であり、誕生の瞬間でもあるという事を考慮しても、やはり楽曲そのものの霊性がこのサイケ感覚の根源なのだろう。
最近になって、T-REXのライヴ盤が出ていたが、どうにも聴く気になれないのは、かつてのアイドルを神棚の裏に隠蔽したくなるような庶民的な習慣が僕の身体に染み付いてしまっているからだ。まったく迷惑な慣性である。もう貧乏クサイことは言わないようにしていたのに…。
振り向くと、押入れに隠していた筈のマーク・ボランが、ゆっくりと笑っていた。
どうやら、初めから僕らは踊っていたようである。
…素晴らしすぎる。
最近見た映画の中ではダントツに面白い。
黒沢清監督の映画は以前から大好きで毎回チェックしていたのだけれど、この映画のことはまったく知らず、先日たまたまレンタル店に入ったら置いてあったので、なんとなく借りてみたというわけだ。
で、最初は地味な映画なのかと思ったのだが、黒沢清監督に限ってそんなことはしないだろう、という期待を遥かに凌駕する出来で、もう大満足。特に後半の流れは映画的なおもしろさが凝縮されていて、本作をただのサスペンスホラーだと思っていると度肝を抜かれる。
こういう作品はあまり内容を書くと危険なのだが、ラストの方での柄本明や、ユースケサンタマリアと古びたミラーボールのシーンなどがもう最高に優れたものであることだけは言っておきたい。
こういった映画が評価されないなら、そんな映画界は無くなってしまえばいい。この「ドッペルゲンガー」はずば抜けて面白く、優れた作品であるということを、もっと多くの人に知ってもらいたい。言いたいことはそれだけである。本当に良質な作品と出会うと、こういう素直な気持ちになれるのだ。
「日本の映画はつまらなくなった」なんて知った顔をしている映画研究会の大学生みたいなヤツは、本作を見て絶望してしまえばいいし、二度と映画など観なければよい。確かに毒にも薬にもならないようなくだらない作品も多い。しかし、本当に面白い映画もこうして存在しているんだということを忘れないでほしい。
ちなみに本作は黒沢清監督作品の中でもかなりの大名作である。個人的には「カリスマ」が一番好きだったのだが、「CURE」や「回路」も初めて見るならオススメ。その後に「ドレミファ娘の血は騒ぐ」あたりを観たりするのもいいかもしれない。とにかく、黒沢清という監督は素晴らしい作品を撮るんだ、と声を大にして言っている人間がここにいたこと覚えておいて欲しい。
「ドッペルゲンガー」、純粋に好きです。
美しさを重さ(音響的にも精神的にも)で表現することにおいて、ここに一つの理想形が見える。TOOLのメイナードらが開始したこのバンドは、エモーショナルなへヴィ・ロックを新しいステージに持ち上げたように思える。
TOOLが凄まじいへヴィネスを作り出していたため、A Perfect Circleも同じノリの音楽だと思われがちだが、こちらはTOOLのような絶望的へヴィネスでは無く、モダンな感覚をも備えたエモーショナルなロックである。ただ、どちらも圧倒的なまでの衝撃を兼ね備えているので、どちらが良いとか悪いとか言うのは好みの問題。
本作は前作に比べて緊張感が増している。それはあまりにも悪夢的な窒息感なので、金縛りに良く合うという体質の人は聴かない方がいい。寝る前に聴くのもヤバい。なるべく脳が覚醒しているときに触れるべきだ。A Perfect Circleはオシャレだが、常用すると危険であり、依存性も高い性質の音楽である。
メイナードという人の狂気は、ちょっとの接触ならこざっぱりとした印象を受けるが、そういうものほど強い毒を持っているということを決して忘れてはならない。
James Chance & The Contortions、初来日!
これは行くしかねぇ、と思ったのですが、当日5500円(ドリンク別)は高い! しかも3日とも思いっきり仕事あるし…。
だいたい高すぎるよ、5500円も持ってないし、ノー・ニューヨークなのにそんなに高いのは何か間違ってる。こんなのパンクじゃねぇ、そんなコントーションズなら見なくていいや…。などと自分を誤魔化してものすごく虚しい気分を解消してみるのだが、結局のところJames Chance & The Contortionsが好きで好きで仕方のない僕としては、この「BUY」や「ノーニューヨーク」を聴いて我慢する他に道らしきものは残されていないのだ。
James Chanceの暴れっぷりがよくわかる当時のライヴ写真などを観ると、あの時代のニューヨークを体験できた現地のパンクスたちが羨ましくてしかたない。パンクなのにJames Chanceはサックスを首から提げて叫び散らし、でたらめなサックスを吹きまくる。そのスタイルが妙にカッコよく、高校の頃はずっとコントーションズみたいな音を出すバンドをいつか組みたいと思っていた。フリクションはもちろんのこと、スターリンのミチロウなんかもJames Chance & The Contortionsから多大な影響を受けたと何かの雑誌で語っていた。そんなパンクの教科書であるJames Chance & The Contortionsが初来日するのである。これほどの大事件があるのに、金が無くて行けないという虚しさを、またコントーションズを聴いて紛らわすという、もうどうしようもない悪循環。まさに泥沼である。
誰か観に行った人は詳細を教えてください。よろしくです。
もう記憶の奥底に埋没していたため、この狂気に満ちた世界を再び垣間見るのは少し怖かったのだが、聴いてみればなるほど、そういうことだったのかと根拠の無い納得をさせられた。
「寒いおでんは背中から」と「東京の新聞。」の二枚は、片岡理という異能を如実に語っている。
音としては歪みまくったテクノポップだろうか? 奇怪な電子音と片岡氏の独特なボーカルが当時の自主盤の中でも群を抜いて異質。なんでこの音楽のことを忘れていたのだろう? としばし疑問に思いつつも、あまりに狂気に満ちたこの盤をターンテーブルに乗せた以上、もう逃げ道は無いのである。
追記 ソノシートだと思ってたら、ちゃんとしたEPでした。
やっぱりこの人達はカッコイイ! たしか千葉のバンドだったかな?
ハードコアだけどポップで独特の味を持ったバンドです。
これはライヴ盤だけど、最初のソノシートも必聴。
P.C.Gの音源、まとめて再発してくれるというウツワのでかい人募集。というかソノシート二枚しか出してないので、他の音源があったら聴いてみたいです。
「VIOLENCE ARMY」や「偽りだらけのリアリティ」といった名曲を聴くと、このバンドの音源が少ないことが悔やまれて仕方ない。本気で再発してほしいです。
ブレードランナーの原作だから、ディック作品の中でもわりと知られている本作。いまさら何を語ろうというわけでもないので、今日は羊について。
最近羊がアツイ! もちろん個人的にですが。
あの形や生き物としての存在がとにかく面白いのである。なんであんなにフワフワした毛なのだろうか? このままでは羊マニアになりかねない。
で、さらに興味をひくこんなニュースもあって、ますます羊の不可解なイメージに翻弄されてしまう。
眠れないときは羊を数えるという儀式も各国に存在している。
羊が一匹、羊が二匹、…と、なぜ羊なのだろうか? まさかsheepとsleepをかけただけです、なんていう言い訳じゃ気がすまない。今こそ羊の霊性に注目しなければならないときなのではないだろうか?
このひとたちのアルバムはあまり聴いていないのですが、なぜかこのメジャー3枚目は好きです。というより「僕の右手」を聴くと、グールの故マサミさんのステージングを思い出してしまうという、ハードコアファンにとってはとても切ないアルバムなので大推薦です。
音自体も格段に進化していて、タイトル曲は真島さん作なんですが、他のメンバーも全体的にまとまりのある感じになっている時期だと思えます。
オリジナル盤を手放してしまった私も「青空」と「僕の右手」を聴く為だけに、つい三年くらい前にツタヤでレンタルしてみたんですが、やっぱり切ないアルバムでした。暗い気分の時は聴けないです。
最初の頃のクラッシュみたいな感じも嫌いじゃないですけど、私は中期を支持します。結構一枚選ぶのに悩みましたが、聴き込むとあまり青春パンクっぽさは感じられなくなるのが不思議です。マーシーのブルース調の曲が心地よく、そこいらの青春パンクバンドとはまったく別モノだったことに気がつけたというのが、今回は良い発見だったと思います。
殺人級のナンバーがずらりと並ぶおニャン子クラブの1stアルバム。うなりまくるベースに全てを破壊するボーカル。発禁になった1stシングル『セーラー服を脱がさないで』ももちろん収録されている。
今あらためてメンバー写真をながめてみると、けっこうヤバいルックスの子(名前は伏せておきます)も何人かいて、あのヒットは何だったのだろう? と考えさせられる。
ただ、楽曲のセンスはやはり良く、この名盤が理解されないようなら日本でのパワーポップなんて意味を持たない。独特のメロディーとサウンドは今でも多くのフォロワーを生み出しているが、追従者と異なっているのは、やはりその適当な姿勢だったように思う。
おニャン子の暴力性は狂気的ともいえるぐらいの「適当な姿勢」にある。素人の集まりが今までうたったことのないうたを歌うのだから、そこから幻想的に高められたアナーキズムが発生しても何ら不思議なことではないのである。ただ、そのアナーキズムの威力が絶大であったがゆえに、今日におけるアイドルソングという名の反社会的な音楽は、この一枚に収束されるのだ。
日本という島国で勃発したもう一つのパンクムーブメントの、これは開始のキック・オフなのである。
不可解な闇の存在であるスワンズ。このアルバムは彼らの二枚組み初期音源集なのだが、とんでもなく重いインダストリアルナンバーが詰まっていて、CD二枚通して聴くと確実に圧死する。
音質としては80年代とは思えないほどの重量であり、へヴィロックなんていう言葉はスワンズのためにあるようなものだ。位置づけとしては、昨今のラウド系のバンドと、かつてのノー・ウェーヴの間を埋める重要な存在であると思う。
ニューヨークの暗部にこのようなバンドが蠢いていたという事実は、決して軽視してはならないものである。彼らの音は明らかに新しかったし、当時の誰にも真似できない危険な香りを放っていたのだ。スワンズを無視するようなロック史は、天皇のいない日本史と同じなのである。
詳しく知りたい人は彼らのオフィシャルサイトへ。
何回聴いたかわからない。おそらくタコ(山崎春美)の影響が無ければ、私は音楽など聴き続けていなかったかもしれない。本作とセカンド12インチは何回か手放したが、何回も買い戻した。音飛びしまくって売り飛ばした後に、ものすごく状態の良い盤を入手したので、現在持っている盤が私の墓まで連れて行くレコードとなるだろう。ブートのCDは聴いていない。
最初に山崎春美という人物を知ったのは『ヘブン』だったか。限りなく分裂症に近い文体は、簡単に狂気と呼ぶにはもったいない魅力に満ち溢れていた。その後『遊』の「は組」という特集で彼の才能が本物であることを改めて痛感。そして『宝島』誌上での「反渋谷陽一キャンペーン」によって、私の中での山崎春美は神格化されてしまった。
ガセネタのアルバムもいいが、本作での山崎春美のイメージの豊かさは特筆すべきものがある。参加しているゲストも、坂本教授、町蔵、佐藤薫、ロリ順、工藤冬里、スターリン、宮沢正一、香山リカ、篠田昌巳、大里俊晴、成田宗弘などと豪華過ぎる面子。ジャケは花輪和一、曲間の怪しいアナウンスは細川周平で、発音があきらかに間違っているのはご愛嬌。
これだけの豪華面子を山崎春美という天才がまとめているのだから、アルバムの完成度は聴かずともわかるであろう。音楽的にはセカンドの方が抜きん出ているが、山崎春美初体験ならば本作から聴くことをおすすめする。ただ、オリジナル盤もブートCDも今は異常に高いので、どうしても欲しい、という場合以外は手をださない方がいい。
タコの持っていた感覚は、分裂症気味のシャーマニズムである。サイケデリックな要因は単純に薬物による作用なのだが、本質の部分では古代の儀式的背景が横たわっているように思える。そこに山崎氏のピュアな狂気が土足で踏み込んでくるために、景色はつんのめって七色になる。音楽表現として極北なのではなく、新しい感覚としてのカルチャーだからこそ、タコの音楽は現在でも生々しく聴こえるのだ。
箱とは何なのか。
外部と内部を作り出すためだけの装置ならば、別に箱にこだわらなくとも良いのだし、このような奇怪な物語が展開されることもなかっただろう。
安部公房はヒーローだった。みんな『壁』や『燃え尽きた地図』を読んで、その世界に震撼した。
僕もそんな読者の一人だった。
本書や『S.カルマ氏の犯罪』のように、暴力的に匿名化された主人公の存在は、よく比較されるカフカとはまったく別の性質を孕んでいる。そこが安部公房という作家の魅力だ。
象徴としての主人公。シンボライズされ過ぎた物語の中心的視点は、ただ冷ややかに状況を観察し、作者によって転がされる。あたかもモノのように、実在するフィクションのように、である。
芽吹いた感覚は麻痺に似たリアリティの質感であり、箱男やカルマ氏は幻想の内部でリアリティに接触する。つまりは虚構の行き過ぎた混沌である。抗えるものは安部公房ただ一人の独裁政治が顔を覗かせている。
本書は、ロマンに溢れた物語というのは、このような構造をもってしても可能なのだということをいまさらながらに実感できる良書である。小学生には夏休みにぜひ読んでもらいたい一冊だ。
読後はもう、どうやって逃げたらいいのかが、よく分かるようになってるはず。
小人の魅せる深淵の風景は、現実的な要因での絶望や希望とはかけ離れている。ピグミーは幻想の中で生き続けるために、結界に似た呪術的防御網で自らの存在を守っているのだ。
頭士奈生樹という素晴らしい音楽家がいる。これは彼の1stアルバムであるが、以前にも最初期の非常階段やハレルヤズなどに参加していた。
そんな、アンダーグラウンドの世界では割と知られた存在のミュージシャンであるが、本作はアナログ限定500枚であったため、まだ聴いたことの無いという人たちの方が圧倒的に多いと思う。そんな中、つい最近になって突然彼の3枚目のアルバムが発表され、本作も同時にCDで再発された。私はオリジナル盤を持っていたが、もちろんCDも買った。そして最近は毎日聴いている。
頭士奈生樹の宇宙は限りなく幻想的であるし、彼のうたは限りなくやわらかい。深いギターサウンドが描き出す風景は、懐かしく美しい、見たことの無い場所なのである。
本盤のような秀作が理解されないならば、サイケデリックはもうおしまい。でも、ここにあるような素直な楽曲ほど、評価されにくいものなのかもしれない。純度の高い物質ほど、周りに与える影響は多大なのだから。
初期の頃のサンプリング多用なギターポップサウンドが好きだったんだけど、いつのまにか曽我部氏の趣味丸出し60~70年代フォークサウンドに急変したこの「東京」。特にはっぴいえんどの影響が色濃いのですが、ここまで好きなことをやれるというのは一種の才能ですね。
このアルバムの後も若松孝二的な世界や、URC的アングラフォーク世界に触発された曽我部氏の独自の音楽観は深まっていく。よっぽど好きなんでしょうね、こういうの。僕も嫌いじゃないです。
ソロになってからは全然聴いてないんですが、まだこの路線なのでしょうか? だとしたらある種偉大ともいえますね。
このアルバムと「若者たち」はわりと聴いたのですが、未聴ならばこのアルバムから聴いてみてください。曽我部氏の趣向がよくわかると思いますので。
決定までのプロセスに特定の意思が介入してしまうと、それは本当の意味で決定などしていないと言える。意思は介入しただけであるが、こういう場合においては本質となる。
キリストがどこで生まれ、どこで死んだか。
それは、その問題を考える人間の数だけの解答が用意されているのだ。
だから、竹内文書と戸来村の関係およびキリストが日本で死んでいたという説を目の前に提示されたところで「へぇ」とか「ふーん」としか答えられない。竹内巨麿の作り出した妄想だ、といって糾弾してもいいし、キリストの墓参りに青森県へ旅立つのも不正解ではないだろう。
宮沢正一のうたは、メルヘンと現実を同質のものとして溶解させてしまう。このソノシートのA面「キリストは馬小屋で生まれた」にしろ、「ぼく」というのはどういう人物なのか? ということに関しての余計な説明は一切していない。この隠蔽の技術によって、奇妙な恐怖に似た感覚が聴き手を襲う。
アシッドフォーク、と一言で済ませてしまうには、あまりにも深すぎる内容なので、機会があれば一聴してほしい。再発されたCDも現在では廃盤なのだが、根気良く中古店をまわったとしてもこれは聴くべき、そして聴かれるべき一枚である。
打ち込みなので、ネオアコではないのだけれど、なぜかネオアコの棚にずっとおかれていた本作。
結構聴きました。しかもかなり好き。
ただジャケットの女性が何者なのかはいまだにわかりません。誰?
知ってる人募集。
この時代の打ち込みにありがちな感じですが、オシャレできれいなポップスです。さっきまでSICを紹介していた私が言うのもなんですが、これは癒されます。
立て続けにハードコアを聴いた後や、ポップな気分に浸りたいときはいつもこれ。
定番です。
日米混合バンドで、音はジャパニーズスラッシュ+外人シャウト。とにかく強力だったこのバンドについていた形容詞は「スプラッターコア」だった(かな?)。
スケーター系のスラッシュサウンドだけど、ジャップな香りと海外っぽい勢いが混ざっているから独特の緊張感を保っている。
つい最近、突然このコンプリートアルバムが出た。ちょっと高かったけど、思い切って買ってみた。そしてじっくりと聴いたところ、やっぱりハードコアはカッコイイなぁとしか思えず、虫歯ごときで憂鬱になっている自分が情けなく思えてくる。
これ聴いて夏は乗り越えます。
ところでLSDの再発がまた延期してるというのはどういうことだ!
まぁ出るならいくらでも待つけどね。
それまではこのアルバムでぶっ飛ばしていきたいです。
最近虫歯に苦しめられている。
親知らずが激痛で仕事もままならない。
何度か治療に通っているのだが、いまだに完治しないので毎日地獄のようだ。
5Xはそういうときにこそ聴きたくなる一枚だ。カルメンマキのボーカルは歯科医を思い出させるような何かを秘めていると思うのは、多分僕だけでしょうけど。
虫歯の時は5X。今後はそんなことをつぶやきながら頑張ります。
奥歯痛ぇ。
これまた謎のニューウェイヴ。すごくポップですが、多分誰も知りませんね。
女性ボーカルのキッチュなテクノポップで、僕は好きです。特にB面。
埋もれてしまうテクノポップというのはものすごく切ないものです。せっかくこのような場を設けているので積極的にこれらの名盤をこれからも取り上げていきたいと思います。
80年代の、このような特殊な文化こそ、もう少し研究されるべきだと思うのですが、世間ではいわゆる『知名度のあるアンダーグラウンド』というよくわからないものばかり取り上げて、これらの忘れ去られたマニア盤は評価すらしてもらえないような現状を作り出してしまっているように思う。
だから、その体質を変えたい。スターリンやじゃがたらだけがアンダーグラウンドじゃないし、RCやボウイだけがメジャーではないのです。
広い視点で、というより大きな心で、こういうレコードを受け入れたいと思います。
フレディ・マーキュリーが死ぬ直前の録音。最近クイーンがなぜか流行っていたので、それに便乗して今回はクイーンで。
ふつうなら3枚目とか『オペラ座~』とかをベストにするんでしょうけど、ここにある独特の音楽がもっともクイーン的だと思いますので、これを推薦します。90年代のクイーン作品ですが、トータルでクイーン史上に残る傑作だと思いますし、評価が低いのは往年の煌びやかなイメージが無いからという理由だけでしょう。この雑多なミクスチャー感覚こそクイーンの真価であり、必ず書いてあった「シンセは使っていない」の表記がいつのまにかなくなり、大々的にシンセで誤魔化すサウンド構築方法を打ち出してから、クイーンは更なる迷宮へ迷い込んでいる。
この路線であと三枚アルバムを作っていたら…、と思うと残念で仕方ない。
10年ぐらい前、何気なく買ってみた本書であるが、ここまで面白いと思った科学読み物は他にない。
左と右を科学的に、自然界という観点から解剖してみせた画期的すぎる一冊。
それまで科学なんてまるで興味はなかったが、本書での思わず引き込まれそうになる解説によって、科学へ対する考え方が明らかに変わった。そんな個人的には忘れられない一冊。
誰もが疑問に思った鏡に関する左と右、排水溝の渦の左と右など、すべての疑問が丁寧かつ驚くほどの手際のよさで語られていく。
これは科学モノが苦手な人にも、ぜひ読んでもらいたい一冊です。
87年作ソノシート。しかもステッカー付き。たぶん、今現在活動しているCRAZEとはまったく別のバンドでしょうね。メンバー全員違うし。ただ、A面の名曲『レジスタンス』だけは妙にカッコイイ新時代の音で、聞き流すことのできない傑作。カテゴリとしてはパンクだけど、ポップな感触もありなかなか侮れない。
前にD-SHADEっていう5~6年くらい前に売れてたヴィジュアル系バンドでギター弾いてたKENくんと遊んだとき「CRAZEに影響受けてたから~」というようなことを言ってて、このソノシートを聴くと必ず彼のことを思い出す。彼はいまも元気かなぁ…。
果たして彼が影響を受けたのはどの時期のCRAZEなのかは不明だが、KENくんの作る曲はいつもこのソノシートの空気を含んでいた。彼が影響受けたのって、ひょっとして、これ?
誰かこの謎のソノシートに関して詳しい方いたら教えてください。現在活動しているCRAZEとの関係や、このカッコイイ曲を演奏していたメンバーの消息、当時のライヴの様子など、知っていたらぜひコメントしてください。
今回はスキャナが死んでデジカメで撮ったため、画像が死んでます。ご了承ください。
十代の頃、女の子と遊びに行く前に必ず聴いたのがこれ。
まさかソニックス聴いてデートに行くような奴はいないだろう、と思われるかもしれないが、これかストゥージズの3rdをなぜかデート前に爆音で聴いてから家を出ていた。
今考えると、あれは僕なりの儀式みたいなものだったのかもしれない。ソニックスを爆音で聴くことによって、一種の照れ隠しみたいなことをしていたのだろう。
さんざん盛り上がって、最高のテンションで家を飛び出すわけだが、どういうわけかデート中はどうでもよくなってしまい、勝手に自分の好きなレコードを買ったり映画を観たりして、常にデートは失敗に終わっていた。苦い青春である。
いまでもソニックスを聴くと、無条件で盛り上がるが、この勢いをデートに利用しようなどという姑息な手段を思いついた若き日の僕が目の前に現れて、なんとも切なくなる。
そんな、個人的に忘れられないガレージパンクの名盤。もちろん彼らのセカンドも最高である。
とにかく勢い良く、荒々しいロックがスピーカーから思いっきり飛び出す。
このかっこよさは格別だろう。
ブレイカーズのテープにカビが生えて捨てざるを得なくなった。
当時、僕の住んでいた部屋はやたらと湿度が高く、畳も箪笥の表面にすらも、うっすらとカビが発生していた。そのせいでずいぶんとたくさんのビデオテープやカセットテープ、機材が使い物にならなくなってしまったのだ。被害は深刻で、カビの力って恐ろしいなぁ、などと言ってられるほど穏やかな状況でもなかったのである。
真島昌利といえばザ・ブレイカーズ。最高にカッコいい、イカシたビートバンド。そんなブレイカーズのテープがダメになって、僕はそれ以来マーシーの曲を聴いていなかった。
本作「夏のぬけがら」はブレイカーズ時代の名曲「アンダルシアに憧れて」も収録されていることで有名だが、真島昌利という人の優れた作曲センスにまず驚かされる。ゆったりとしたサイケデリックな楽曲と、マーシーの枯れた歌声は絶品であり、ブルーハーツともブレイカーズとも違う景色を描いている。
面白いのは、友部正人の曲をマーシーが歌って、ここまでピッタリと合った雰囲気を作り出していることだろう。
この「夏のぬけがら」はゆったりとした郷愁感覚と、真島昌利本来の音楽性が剥き出しになった傑作である。ブルーハーツよりも、僕はここでの彼が好きだ。とびきり素直でそのままの楽曲に、彼の飾らないボーカルが乗っかることによって、ブルーハーツとは違う青春が顔を出している。
どさくさに紛れてこのような王道の名盤を紹介してみるのもたまにはいいでしょう。
ポリスはよく聴くとヘンなんです。
この盤に収録されているデビュー曲『ロクサーヌ』も、繰り返し聴くとかなり奇妙。
中学のときテレビの音を消して、ポリスを一日中流すのが日課だった。
勉強もできない、友達が多いわけでもない、更にまったくモテないという当時の空気を、スティングの線の細いボーカルとアンディ・サマーズのテレキャスターは、恥ずかしいぐらいくっきりと映し出す。
だから、しばらくポリスは聴いていない。
たまに町でポリスの曲を耳にすると、中学の頃の行き詰った虚無感を思い出し、吐き気がするほどロマンチックになる。
日曜日の朝、ポップスは驚くほど多種多様の表情をしてみせる。
発見に追随した驚異ではなく、自然に受動される興味。
年代や国籍ではなく、決定打は新鮮なインスピレーションにあるということを、
本作は痛いまでに感じさせてくれる。
彼女の歌の中には、温かいストーリーや、美しい言葉が含まれているかもしれない。
ただ、それは曇りガラス越しに見た風景のうちの一つにすぎないのである。
雰囲気を楽しむことが音楽ならば、これはまさに音楽そのものだ。
マーゴ・ガーヤンが窓の外を眺めると、世界は自由に変形する。
85年リリースの伝説的カセットオムニバスがついにCD化! って十年くらい前の話ですいません。
でもこのCDいまだに売ってますよね。人気はある筈なんだけど、在庫が多いのだろうか?
内容はGAI、GEDON、NO-CUT、コンフューズ、CRAPS、GESSといったバンドのノイズコアがたっぷり詰まった最強コンピ。九州パンクのファンなら絶対必聴。
ガイとコンフューズが入ってるだけで凄いのに、他のバンドのオリジナリティも強烈で、この時代のノイズコアの勢いを充分に体験できる一枚。
カオスUKの影響バリバリのギターの音だけで、好きな人はブッ倒れるでしょう。本盤を知っていれば、『蝉が鳴いているようなギター』、という表現はもう必要ない。『GAIやコンフューズのような』、という形容でばっちり伝わるはずだから。
ヴァイオレント・パーティー。伝説的な作品である。
もう誰が何のバンドにいたかなんて書かなくていいよね!
先にライヴで観てて、これが出たときに三茶のフジヤマで「最近のハードコアでオススメありますか?」と店長の渡辺さんに尋ねたらこれを教えてくれた。「ライヴよりいい」という渡辺さんの言葉どおり、聴いてみるとかなり熱いハードコアサウンドで、日本語詞とサックスもうなりまくる大名盤だった。
他のアルバムもいいが、本作を聴いたときの衝撃が大きかったので、あえてこれを推したい。
ツボをきちんとおさえた極上のハードコアと真摯なメッセージは、いやがおうにも気分が高揚するように仕組まれている。未体験ならばぜひ。
廣木隆一かなんかのピンク映画をせっせと見に行った高校生のとき、薄汚れたポルノ映画館の汚いスピーカーから流れたのがこの印象的な音楽。いったいこのポップでアンニュイでオルタネイティブな音楽は何? と映画の内容などろくすっぽ頭に入らずに、上映中ずっと曲のことを考え続けた。クレジットか何かに「D-DAY」と書いてあって映画館を飛び出してすぐにD-DAYという人達のレコードを探しまくった。
で、中古ラックに300円で売られていたのがこれ。
間違って買ったかも、とおそるおそる針を落とすと、まさにあの音が流れ出したので思わずガッツポーズ。その後、僕はこれを何度も聴き続けた。
当時ゼルダとよく比較されていたみたいだけど、全然別物。こっちの方が個人的には好みだし、雰囲気が薄暗くて良いです。カワキタさんのボーカルは線が細くて音と妙にマッチしているし、曲そのもののセンスも抜群。ただ、このバンドを知りえたのがピンク映画だったことで、これを聴くたびに映画館の暗闇とあのすえたニオイを思い出してしまうのが難ではあるが。
マヘルの、NOISEの、あの工藤礼子さんのソロ2発目。
これを聴いて「マヘルと一緒じゃん」とか言う人間とは口をききたくない。
とにかく純度の高い楽曲に礼子さんの声が被さり、この世のモノとは思えない美しさ。これが真のうたであり、サイケデリックの本質であることは間違いない。
冬里さんの声もちょろっとコーラスで入るので、ほぼマヘルの曲としても楽しめるが、やっぱり別物としてとらえたいですね。工藤冬里は日本で一番好きなミュージシャンなので、これからも彼らの音源は一枚づつ紹介していきたいと思います。
時間軸とリズム感を完全に忘れ去った「うた」ほど、美しく響くものは無い。
魂ぬかれる。
これ、意外に思われるかもしれないけど、DIPの中で一番好きなアルバムだったりする。もちろんディップ・ザ・フラッグとヤマジカズヒデのソロは別物としてだけど。
スーパー・ラヴァーズ・イン・ザ・サンの、あの歌謡メロディと歪んだギターの調和は素晴らしい発見であると同時に、太古より脈々と流れてきたロックのスピリッツをきちんと踏襲している。DIPもついにここまで来たかぁ、と随分納得したものである。
この少し乾いた感覚のアルバムの後に『WEEKENDER』でまた深い混沌のサイケサウンドを打ち出すわけなのだが、個人的にはここでのポップかつソリッドな演奏がベスト。
最近のDIPも好きだけど、この中期の雑多な感じは、見過ごすにはもったいない魅力を秘めている。
轟音ギター盤として話題に上る事の多い本作だが、DIPの魅力は曲作りそのものにあるので、轟音だけのために本作を聴くのはあまりにももったいなさ過ぎる。
と、さっきからもったいないもったいないと繰り返しているが、DIPの楽曲にはおびただしい量の情報が含まれているので、もったいなさを感じる人間にとってもかなり満足できる仕上がりになっている。
1枚で5枚分は楽しめる充実盤。
ジャケット通りのカラフルパンクです。パワーポップ好きな人はみんな聴いてる筈。最近になって突如ブートLPと公式CDが立て続けに発売されましたが、ボーナス入ってる公式CDの方がオススメです。
ポップってこういうことなのかぁ、と納得させられること間違いなしの楽曲が並ぶ最強の一枚。メロディックの何たるかを知りたければ、まずこれを聴いてください。
過剰過ぎず、かといってスカスカでも無い、適度にシェイプアップされたポップナンバーが心地よいです。
サワキカスミ率いる右翼バンド。このシングルではいままでよりも更に演奏がグレードアップし、曲も素晴らしく練られたアレンジになっている。
「在日外国人指紋押捺大反対」や「愛国者の真実の叫び」といった曲に込められたサワキ氏の魂は、単なる右翼バンドでは無く、真に国を愛するということだけをひたすら考え続けた末の産物であるように思える。憂国の念が、サワキ氏の意外にストレートで細めなボーカルで歌われたとき、ここにあるような美しい世界が姿を現し、何かを訴えるための道具ではなく、訴えるということそのものの姿として歌がそこに正座しているのが感じ取れるだろう。
日本のパンクという枠組みに最も適したバンドであると同時に、最も日本でのパンクを意識していたバンドだと思う。
伊藤耕と川田良の最強ロックコンビが組んだこのSYZE。「T.V.EASY」や「無力のかけら」など、SEX時代の名曲もアレンジ違いでここに再録。そんな最高のレコードなのに、知名度はいまひとつ。変形10インチ(くらいかな)という大きさのせいなのか、それともみんなフールズやSEXだけで満足しているのかは不明であるが、あの二人のファンであるなら絶対に聴く価値のある一枚。
本物のロックを演奏できる数少ないミュージシャンが伊藤耕と川田良であり、その二人の音源なのだからハズレなわけがない。そんな気持ちでこの盤に接すれば、絶対に後悔はしない筈であるし、根気よく中古盤屋の棚を漁る行為も報われるだろう。
ガチガチのロックンロールが好きだという人には、ぜひこのレコードを聴いてほしい。勢いのある音圧がロックとは何なのか? という初歩的な疑問を払拭してくれるであろうから。
ニューヨークパンク風の音作りで、リズムボックスの上に乾いたギターなどが被さり、
歌詞も「金属バットでなぐって やっと痛みに気がついた」
などと独特。浅野幸彦という人物を中心に活動していたようだが、詳細は不明。クラゲイルからライヴ盤CD-Rもでていた筈。
とにかく冷たい感触のパンク。冷めた視線の先にあるものが「金属バット」や「粗大ゴミ」として表現されていることに注意を奪われていると、肝心の中身を見失ってしまう。このソノシートが持っている感触は、今でも充分にドキッとさせられるような魅力に満ちている。
カオティックハードコアとはこの盤で聴けるサウンドを指して使われる言葉である。
重量級の暴力性がパンパンに張り詰めた緊張とともに圧し掛かってくる90年代ハードコアの、まさに聖典ともいえる彼らのセカンドアルバム。それまで荒々しさとスピード感を主に売りにしていたハードコアは、ここにきて圧倒的な重さを全面に打ち出すことに成功した。これ以降、様々なバンドが音圧にこだわり始めたことを考えると、それは一種の転換期であったのかもしれない。
HIS HERO IS GONEのような、と形容されることを彼らは嫌がるかもしれない。だが、HIS HERO IS GONEは明らかに新時代のハードコアサウンドを開拓してみせたのだという事実は曲げられない歴史の一つなのである。
想像を絶する緊迫した空気が、この中には詰まっている。
元なんとかのベース、とか、そういう言い方はこのバンドに対して失礼に値するので、メンバーの情報についてはあえて語らないでおく。
イギリスの、とても美しい曇り空系のパンク。後のギターポップにも影響を与えた名作だが、意外に中身の音を聴いたという人は稀。なぜかは知らないが過小評価されている。
改めて音を聴いてみると、パワーポップである。この時代、ここまで完成度の高いポップパンクを演奏していた事実だけでも、このバンドの才能の豊かさが分かる。グレンのソングライティングのセンスは極めて良質だ。キャッチーでタイト。もはやこのジャンルにおいて敵は無いでしょう。
「Young Girls」
この一曲だけでいいから聴いてほしい。特に青春パンクとか好きな人、これが本物の青春パンクです。イギリスの当時を知るならグレンの元バンドの方を聴けばOKだが、リアルに薄暗い若者の心情を理解したければ、本盤に勝るものはないだろう。
まさに毒。一枚目が見つからなかったけど、METAL-CAT氏の資料提供のおかげで久しぶりにホット・ロッドをステレオで聴けました。感謝!!
チェルシーの作る曲はドラマティックなのに無駄がなくて好きです。ポイズン時代はヒラオカ氏も歌い方が荒くてワイルド。カッコ良すぎるメタリックハードコアです。
最近メタルコアという括り自体が消滅してしまいましたが、それでも彼らがいたことは伝説として語り継がれています。ギズムにはじまり、ポイズンやデスサイドを生み出した『へヴィメタルタイプのハードコア』は、形は違えど、現在のバンドたちにも多大な影響を及ぼしている筈です。
ポイズンの楽曲は現在入手困難かもしれませんが、根気よく探せば安く出てくると思いますので、見つけたら聴いてみてください。ちなみにポイズンアーツのCDはよくブックオフで激安販売されていますので、500円以下なら絶対に買いです。
ギズムのランディ内田率いるRUG(ランディ内田グループ)のレコード。
とにかくボーカルの外しっぷりが凶悪。ランディのプレイはいつもどおりだけど、このボーカルがとにかくすごい。普通、一般的にメタルといえばテクニカルなイメージなのに、このバンドに限っては何か別の次元に到達してしまっているため、演奏技術レベルは測定不能。
不可解な歌詞を無理やりなハイトーンボイスで持続するため、常に肉体の極限を表現してしまっているこのボーカルは、無意識のうちにヘヴィメタルという概念を粉砕し、自分だけのものとして消化している。
まさにワン&オンリー。偉大すぎる盤である。
たまに古本屋などで激安販売されているので、見つけたら絶対買った方がいい。三枚あったら三枚とも買うぐらいの気合いで挑まなければ、この盤に食われてしまうだろう。
これはメタルの名を借りた、異界へのパスポートである。
今ではすっかりお笑いバンド扱いされてしまい、誤解されたまま神格化され解散したXであるが、この時代のアグレッシブなハイスピードスラッシュは誰にも語られぬまま闇に葬られようとしている。
まず、ジャケットが死体。この時点で小泉純一郎は絶対に彼らのファンでないことが分かるだろうし、逆にこの一枚を知っていて、なおかつファンというような人間が政権を掌握しているなら、そんな国はおしまいである。
いまでも海外のコレクターは、このジャケを見て「クレイジー・ジャップ・コア!!」と大喜びなんだろうけど、バンドの末路を知っている国民にとってこれは喜んで受け入れられない類の代物であろう。太鼓担当ハヤシヨシキ氏も当時はグールのマサミなんかとも交流のある「ちょっとヘンなパンクス」の一人だったのに、今ではポップロックのヒーローである。それを踏まえたうえで、現在この盤に針を落とすのはとても切なく、いたたまれない気持ちになる。
速くてうるさくて、ちょっと下手だけど勢いのある曲。そんな若さの思い出が、この死体写真に包まれた一枚の塩化ビニールにたっぷり充填されている。
これを聴いて泣けてくるのは、僕だけだろうか?
(ちなみに、ジャケ資料提供はMETAL-CAT氏です。サンクス!!)
ししょうこと北嶋建也氏率いる関西の最重要バンド(?)のソノシート。
この謎の感覚こそ、関西の地下シーンの根底に流れているものだと断言しておきたい。
何にも似ていない、突然変異の演奏。北嶋氏は最近のアルケミーからのソロアルバムでも独自のソングライティングセンスを発揮しているので、合わせて必聴です。
ここまで純粋に自分の世界を構築できる人は稀少だし、日本のロック史に彼の名前が刻まれないのは間違っている。ブックレットも分厚く豪華なので、ここから入ってオルタネイティブな日本の音楽の深さを知るというのも、今年の夏の過ごし方としてはいいかもしれない。
KICK ROCK!!
強烈なメタルコアですが、この時代でしか味わえない独特の感触が素晴らしいです。
メロディなんかも当時のメタル特有の感じで、演奏はばっちりハードコアというまさにメタルコアな音の最高峰ですね。
前身のポイズンの頃からこのバンドはかっこ良かったんですが、ポイズン時代の音源がどこかへいってしまい、スキャンできなかったので今回はこれで。
メタルもパンクもハードコアも関係なく、カッコイイものはカッコイイという姿勢を見せつけてくれた最高のバンドです。必殺の名曲「KICK ROCK」でぶっ飛んでください。
ジュラシックのセカンド(だったっけ?)EP。
この人達いまだに活動しているようでびっくりです。
前作収録の「鏡よ鏡」もいいんですが、このEPからは演奏(もしかしたらミキシングなのかも)がしっかりしててかっこよさ倍増。
ジャパメタの中でもヒズミのボーカルは極悪で、スラッシュ好きにはたまらないサウンドをバックにがなる彼女はまさに鬼。
聞いた話によると、ヒズミはかなり酒癖の悪いおばちゃんだとのことです。
この時代の日本のメタルは面白いので、これからもたまに紹介したいと思います。
ニューウェーブの香りのする本作は、スマート・ルッキンからの81年作ソノシート。
でも、多分誰も知らないよね。
一応、ひねくれたテクノポップとか好きな人にはオススメな内容。
ネットで検索してみたけどまったく反応せず、僕もべつにこのバンドに関しては何も知らない。ただ、こうして一枚のソノシートをせっかく聴く機会に恵まれ、ターンテーブルにのせて、それがなかなか良い内容だったのだから紹介してもバチはあたらないでしょう。もう僕はこのソノシートに対しての礼儀は果たしたので、あとは見つけた人が聴いて判断してください。
一言でいうと女性ボーカルのニューウェーブ。好き嫌いはあるだろうけど僕は好き。ただそれだけ。
脱力系などと勝手なレッテルを貼る人間は、このフリッパーの前では知識の無さを露呈する羽目になるだろう。まったくもって凶暴な、パンクという形態の中で最も危険な状態を作り出しているのがこのアルバム。スピードも強度も無い。ただ世の中に中指を突き立てる意味は心得ている。そんな彼らの元祖ストーナー的演奏はスラッジ感覚に満ちており、客を退屈させるには充分な倦怠ぶりである。
このだらだらした感じを新しいと感じるか、つまらないと受け取るか、それは個人の自由に基づいているわけだが、ここまで凶悪な音を無視するような態度はとりたくないものである。
誤解を恐れずに言えば、歴史的名盤である。
記念すべきワイパーズのファースト。「リターン・オブ・ザ・ラット」をはじめて聴いたときの衝撃は忘れられない。とんでもなく殺傷能力の高いグルーヴは、とても80年代初頭とは思えない破壊力である。
独特なポップ感覚も持ち合わせているし、当時の他のパンクとはまったく根を別にしたサイケデリックなグルーヴ感覚がなにしろ斬新で、グランジ勢が夢中になってカバーしまくったのも頷ける。
ささくれだったパンクの感触と、へヴィサイケの持つ重さを最初から保持していたのは、グレッグ・セイジという天才だけだったのである。
アメリカのロック史を語る上で、グレッグ・セイジの名は外せないだろう。
今回紹介した初期の三枚はセットで売られているので、比較的安価かつ簡単に入手可能であるため、未聴の方はぜひ聴いてみてほしい。素晴らしい体験を保障します。
ひたすらダークに沈み込む狂気のへヴィネスを体験できる奇跡のアルバム。
ここにある音こそ、後のグランジ勢がこぞって目標とし、現在のロック・シーンに多大な影響を与えた、重くうねる究極のダークネス・ロックである。
闇の中を激しくのたうちまわる狂気は、ワイパーズの持ち味であったわけだが、このセカンドに来て、彼らのその側面のみが拡大→凝縮され、最強のへヴィロックが姿を現したのである。
正直、この時代にこの音楽は早すぎだろう。グレッグ・セイジの才能には感服である。
激しいロック、というキャッチコピーで売られているほとんどの音楽は贋物である。実際に針を落としてみると、たいした激しさではなかったりするレコードがかなりの枚数存在しているのが現状だ。
そういった中で、このワイパーズはホンモノの激しさと、ヘヴィなグループを貫徹していた稀少なバンドである。グランジ好きなら、リターン・オブ・ザ・ラットやD-7といった楽曲をニルヴァーナがカヴァーしていたことや、マッド・ハニー、ダイナソー、ポイズン・イディアなどの後輩バンドに多大な影響を与えたことも知っている筈だ。本作のタイトル曲も、コートニー・ラヴ率いるホールにカヴァーされ、一躍有名になった。
そんなグランジ一派に大人気なワイパーズも、日本ではあまり人気が無いようで、知名度は極端に低い。僕は個人的にワイパーズで育ち、ワイパーズに憬れてバンドをやったりしていたので、そのような境遇が不思議でならない。どうしてこんなに良質なバンドが愛されないのだろう? そんな不満を解消するために、彼らの楽曲をよく演奏した。僕にとってこのバンドは偉大過ぎる。本当に大きな影響を受けたし、今後も若いロックファンに聴き続けていってほしい音楽だと思う。
本作は彼らの三枚目のアルバム。一曲目のタイトル曲「OVER THE EDGE」の重く激しい独特のメロディーは、いまだに色褪せてはいない。現在のラウド・ロックやへヴィ・ロックといわれているバンドの多くは、ワイパーズの模倣に過ぎないと言っても過言ではないだろう。
最高にイカシたバンドなので、是非聴いてほしい。
ヴォーカルに元リップのジャジャが入ったため、強烈な日本語が炸裂するようになったジャッジメントの最高傑作。この前出たばっかなのに、もう廃盤らしいです。
元愚鈍、バスタードのZIGYAKUと、元デスサイドのMUKA-CHINといった豪華面子で結成されたこのバンド、このシングルからジャジャの加入で、緊張感はマックスレベルに達しています。
真摯なハードコアとは、こういうサウンドのことを指して言うのですね。見事です。
一曲目からジャジャの言葉が痛いほど突き刺さってくるし、極められたハードコア演奏の発する熱量は想像を絶する凄まじさ。こんなに命がけな音楽はまず無いでしょう。絶対必聴!!
ガス二枚目のソノシート。一枚目もいいけど、ナルミさんのヴォーカル(というか頭)が好きなんでこっちを。
ハードコアですね、改めて聴くと。これ以降はだんだんポップになって、ナルミさんも歌い方が変わっちゃうんですよね。そういった意味ではここでのGASが一番好きです。もちろん、これ以降の音源もオススメなんですけど、今度まとめて再発するそうなので、聴きたい人はそちらを購入してみてください。
以前リーンカーネーションという中期ベストみたいなアルバムがキャプテン(だっけ?)から出てましたけど、本作や1stソノの音源も今度再発されるCDには収録されているらしいので、楽しみです。マスタリングされた良い音質でGASが聴けるなんて、いい世の中になったものです。
自殺することは一つの決定であり、覚悟の結果である。自らを殺害することの決意はしかし、常時内面のみで完結してしまう。そしてそれが外部に及ぼす影響などたかが知れている。
ここにある自殺は、優れた決意であり、外部へ多大な影響を与えた偉大なる自殺である。
セクシャルの勢い、自我の切れ味、コンフューズの爆発力、そしてエリート集団M-78の知性が織り成す自殺曼荼羅は、輝かしくも不気味にその存在を誇示し続けている。
内面へ向かっていた筈の力は、いつしか世界中へ作用するようになった。20年も前に放たれたその力が、今もこうして作用していることに驚きを隠せない。
ツェッペリンといえばストーナー度マックスの初期とか、フィジカル・グラフィティの寄せ集め感が最高なんだけど、このアルバムの地味さは誰にも評価されていない。
多分人気の無い理由はギターが不必要にチャカついてるからで、本来のジミーペイジのプレイに見られるへヴィなスラッジ感覚が削ぎ落とされてしまっている。そんな本作を支持する者は、ハードロックファンからは後ろ指を指されるのだろう。僕はもちろん好きだけど。
ジャケットもかなり奇妙な違和感を演出しており、ちょっと「ヤバい」感じである。いったい何を考えてこんなアルバムを発表したのか、分かりかねる部分もあるが、ツェッペリンを聴くならまずこれを聴いてほしい、と個人的に思う。
この異質な感覚こそ、来るべき新時代のへヴィロックに必要な要素である。
女性上位なイメージばかりが話題に上るこのバンドも、素直に聴けばかなりオシャレなパンクロック。そこらへんのアイドルまがいのガールズパンクよりは、よっぽどパンク精神を感じる。
かつてカート・コバーンとつきあっていて、スメルズ・ライク・ティーン・スピリットがこのバンドの人にインスパイアされて出来た曲だという事実などどうでもいいし、グランジなんて関係ない。ビキニ・キルはパンクなのだから、世の中に中指を突き立てていれば良いのである。
それにしても、このフェミニストっぷりはちょっと他に無いんじゃないかと思う。フェミニズム・パンクの王道。
今日は雨が降っていたので、一日じゅう頭が重い。
SDSのこの二枚組完全盤を聴いて、少しは楽な気分になったのだが、毎年この季節になると体調が悪くて仕方ない。
このアルバムは海外から出たインチキブートに対抗するため、オフィシャルで彼らの音源を完全収録して発表したもの。発売されてからすぐに売り切れるという人気ぶりで、一時再発したけどそれももう品切れ。そんなにファンいたっけ? と思いましたが、これだけいいものが売れない方がおかしいですよね。
SDSって何? と思った人は、これを何とかして手に入れてみてください。もともとが1500円なので、プレミアがついてても多分そんなに高くないと思います。高かったら店を怨んで下さい。それぐらい名作です。
もうジャケットの雰囲気とタイトルだけでノックアウトされました。
元アーントサリーのビッケ率いるラブジョイの9年ぶりのセカンド。
愛情とかせつなさとか、それらが全部体験できます。
温かい感情が複雑に沸騰しながら、ぼくたちを包み込んでくれる超絶盤。
また、NHKのみんなのうたフリークにもオススメできる完璧なうたもの。
ビッケの歌は個性的ですね。クセがあるわけじゃないけど、妙に力強くていいです。
日本語で歌う、というハードルなど、もうここにはありません。それを飛び越えて、歌によって新しい場所を開拓していく意気込みだけがここにある歌を構築しているのです。
また、生活の隙間にあるちょっとしたヒラメキや不思議なアイディアも存分に盛り込まれているので、これから家庭を持つという主婦志望の方にオススメです。よりよい快適な生活を提供。
イタリアンハードコアの帝王、ロウ・パワーです。
絶妙なメタル具合といきなり入るカウベルが異色。
イタリアと言えばパスタやピザしか思い浮かばないけど、これを聴くと何も食いたくなくなる。
都会的というか、都市の汚れを一身に背負ったような、気迫に満ちた演奏がすばらしい。
イタリアン・ハードコアをまだ未体験ならぜひ聴いて欲しい一枚ですね。
大傑作。
チェルシーのギターはいつもかっこいい。
ポイズンの頃も、デスサイドのときも、常に独自の世界を押し出してきた彼が、
ここにきてとんでもない傑作を生み出した。
それがこのペイントボックス。
どの音源も素晴らしいけど、まずはこの1stフルアルバムから。
日本語が豊かなハードコア・サウンドに絡みつく大傑作。もちろん捨て曲ナシ。
テクニカルなメタル・フレーズから、乾いた大陸系の音まで、バリエーションも様々にチェルシーのギターは鳴り響く。
これを聴くと、日本のハードコアがまだまだ勢いを失ってなどいないことが実感できる。
これからハードコアを聴くなら、絶対に聴いておいて欲しい一枚として強くプッシュしておきます。
REZILLOSは銀紙にくるまれた僕たちの秘密のキャンディーだった。カラフルで、甘くて、ときに不思議な味もする。キラキラしたポップな演奏は、いまもなお極彩色の美しさを保っているのである。
このバンドの「フライング・ソーサー・アタック」は何度も何度も聴いた。ユングの著書「空飛ぶ円盤」を片手に、サイエンス・ノン・フィクションの世界が本当はファンタジックなんだという事実に気がつくまで、このアルバムを聴き続けた。
いまだにベースを手にすると、このREZILLOSのフレーズをぼこぼこ弾いてしまうのは、それだけこのバンドが強力なインパクトを持っていたからだと思う。このアルバムのベースプレイは、僕の基本としてこれからも根強く残るんだろう。墓場までもっていきたい音である。
セクシャルはかなりクオリティの高いハードコア。ヴォーカルはもちろんマディ森本さん。
こんなヤバい音出してるのに、このディスコグラフィーCDはいまだに売れ残ってますね。人気無いんでしょうか? 多分食わず嫌いなハードコア・ファンが手を出してないだけなんだろうけど。
内容的には、スターリンっぽさ丸出しの初期から、ダークで荒削りな昭和のスラッシュまで完全収録している充実盤。これで燃えないというならハードコアはもう聴くんじゃねぇ! と、なぜ一人で熱くなっているのかといえば、やっぱりヴォーカルの人が森本さんだから、という理由のみ。でもいいんです。好きなもんは好きなんだからさ。
グレートすぎるジャパコア必携盤なので、自殺レーベル関係は聴いたことがないという人はぜひここから入ってください。いま(2005年5月)でも普通に売ってますので。
マドコンのCDやっと買えたよ!! ただ金が無かっただけなんだけど。
早速聴いてみたら、ちょっと音量が小さい感じのミックスですが、内容的には未発表ありライヴありで良い感じ。ハードコア・ファンなら必須アイテムでしょうね。
ネルシャツやバンダナ系のハードコアはかなり好きですが、マドコンはヤバい。バンド自体はかなりカッコイイわけなんですが、この音量のしょぼさは何? もったいない。ちゃんとマスタリングしてあったら、今年のベスト1かもしれなかったのに。でも必聴。
ナゴムです。空バカは筋少より好きだった。
独特の音質と、あのエレクトーンのしょぼい音。曲間の寸劇まがいの奇怪な小芝居(このCDには入ってないみたい)。すべてが変。
クリムゾンやYMOをパクリ、エレクトーンをバックに叫び散らすこのユニットでの大槻氏は一番輝いている。筋少のいかにもねらった感じのアングラみたいな空気は苦手だが、このユニットは遊び感覚だけで構成されていて好感触。ナゴム嫌いの人も一度聴いてみてください。
アイラーの死体がイーストリヴァーで発見されたとき、時間は相変わらずモノクロームだった。曇り空、排気ガスの香り、アイラーの悲痛なサックス音。
団地のひび割れた壁を見つめつづけると、血まみれの政治的意識がこちらを覗き返してくる。灰色の静かな昼下がり。暑くも寒くもない。
アイラーの音は苦痛そのものであったのだろうか?
彼の音に、引き金らしい装置は付いていない。もちろん、楽譜やあらかじめ定められたルールも必要としない。彼の音はただ、汚れた川の水面を走る。物凄いスピードで、決してとまらない。
景色は展開されず、未来も開示されない。
しかし自己の魂だけは、美しく耀き続けている。
アイラーの死体は、そのまま処理された。
すべての芸術は窃盗であり、アーティストは倒錯した盗作者である。
芸術が窃盗でないというなら何なのか?
風景画は風景を盗み、彫刻は形状の万引きに過ぎない。そのような文化を芸術として定義してしまうことに、異議を唱えなかった歴史を安倍なつみは徹底的に利用した。
窃盗はイリーガルであり、常識的には許されざる行為であるが、ことに芸術という名目を間に介入させた場合のみ、それが突如として正当な行為としてみなされる。
しかし、安倍なつみの場合はあまりにもアーティストであり、窃盗行為のイデアが芸術的枠組みを破壊してしまったのである。枠組みの無くなったアートは、ただの犯罪行為の物的証拠となり、安倍なつみはアーティストから盗人になった。
しかしながら、私は安倍だけを盗人としておきながら、他の芸術家気取りを告発しないメディアや世の中の常識ラインが気に食わない。阿倍を盗人として告発するならば、現在のオリコンチャートなど窃盗ランキングとして警視庁の管理下におくべきであるし、テレビの音楽番組など本物の犯罪者が登場するような媒体なのだから、厳重に取り締まらなくてはならないと思う。
人々の芸術への関心は、いまもっとも希薄になっている。
以前Yさんに教えていただいたバンドの新譜がいつのまにか出てました!
今回は全部日本語詞で、また不思議な感じのオルタナティブ・ロックです。
こういうバンドって、いるようでなかなかいないタイプですよね。ビキニ・キルミーツプラスチックス(?)な感じでしょうか? 可愛らしい一面もありますが、突如として噛み付いてくるような凶暴さも併せ持った不思議なバンド。いよいよ新時代のロックが分からなくなってまいりました。
本作はシングル扱いで手軽な値段なのも嬉しい。斬新な感覚の良いバンドです。
システマの登場は、シーンにおいて一つの転換期を象徴している。まさかこんなスタイルのハードコアが日本から出てくるとは、当時誰も予想できなかった筈である。
とにかく速い。横浜のライヴハウスではまたたく間に彼らは伝説化され、海外にもその凄まじい演奏は広がっていく。まさに新世代のハードコアと呼ぶにふさわしいバンドであった。
また、独特の感触がソリッドに噛み付いてくる曲構成もすばらしいし、音の強度がそこらへんのバンドとは一線を画している。
これはそんなシステマティック・デスの音源を集めたCD。ハードコアであることを徹底的に体現しているので、避けては通れない道であろう。名盤。
チェリーレッドからのリリースで、久しぶりに僕らを楽しませてくれたバズコックス。その洗練されたパンクはまったく勢いを失っていないことが実感できる。
バズコックスのスマートな、それでいて激しく転がるサウンドは、もはや一つの定型としてパンクを支配している。ポップで激しく、ときにセンチメンタルな空気を伴って、彼らの演奏はやって来るのだ。
だから、窓を開けたまま寝ていると深夜にドブの臭いで目が覚めるし、イギリスの荒れた景色が寝室を覆いはじめる。
侵食のステージは最初から重い。逃れるための手段も押しつぶされてしまうほどであるが、バズコックスの悪夢のような側面は、そこから派生する。
あのサウンドの裏側にへばりついているホンの少しの哀愁のような成分が、きっと僕らをトリコにするんだろう。もちろん、それは灰色の絵画を、できるだけ暴力的に描くためのステップとしての話。
魔術の形式に、概念と道徳の区分けは必要ない。
グルーヴの斬新さ、リズムの心地よさ、メッセージの強度。すべてが渾然一体となり完成するのが上質なヒップホップである。トライブの身軽さは、ヒップホップのステージを高めたのではなく、好きなところに設置できることを証明した歴史的な意味を持っている。だからといって、「Qティップがすげぇ」とかどうでもいい感想は無効だ。彼らにとっての呪術は生活的な習慣と同じ位置で息づいている。
ひたすらシャープに切り込む姿勢は、ときに恐怖を作り出すが、彼らの足跡はいつだって美しくまとまっている。それがずば抜けた才能だなんて言うような奴は、一度死ななければヒップホップどころか生きている感覚さえ解らないだろう。だからこそ、入門的な一枚としては沈み込むセカンドではなく、こっちのアルバムなのである。
クラシック! この気持ちの悪い音作りはいったい何なのだろう?
ジャケも異様な風体だし、チャックDの暴力性はそのダイレクトさのあまりに、基準を大きく逸脱してしまっている。こんなヤバい音はもうこの先出てこないでしょうね。この時代のこいつらだからこそ出来た奇跡の変態サウンドがこれです。
そもそも、ヒップホップとはこういった得体の知れない呪術的サウンドのことを指していたはずなのだが、いつのまにか過去のフリーソウルなんかをオシャレにサンプリングして提示するだけのクズ音楽に成り下がってしまったのが残念。ちなみに本盤ではスレイヤーをサンプリングするなどして、基礎体力の違いを見せつけてくれる。中村とうよう以外の人にとっては名盤。
エレクトロニカの身体性を考えてみても、電子音と人間本来のリズムというのは上手く同調するものである。佐藤薫が何をもってしてこういった世界を築いたかは謎であるが、音楽的な発生の原理としてはまさに王道ともいえる出現パターンであったわけだ。
タコの1stに入っていた人質ファンクの饒舌な回転ぶりにしても、佐藤薫という天才を如実に音が表現している。彼のセンスの良さは、現在においても廃れることなく受け継がれているし、金属バットの少年と、昭和天皇の幻影が付着した時代感覚はすでに遠くへ置き去っているのである。
現代的な音作りであるとか、時代の先を行っていたなどと言うつもりは全く無い。ただ、ここにある音は時間軸を狂わせる、もしくは忘却させる機能を備えており、ミニマルに反復するリズムは常に迷宮を構築していくのである。
提示されていたものが無残な屍骸ではなく、何も無い死という風景であったからこそ、より一層終末の空気を漂わせているのだろう。
それがEP-4という装置である。
ちょっと前に、スマップの木村君かなんかが主演で出てた「ラブジェネレーション」ってドラマがあって、また早川義夫のジャックスにもそういう曲があって、両者ともに「らぶじぇね」と略していたのですが、思えばこの人たちのことは「ぶらじぇね」と略したもんだなぁ、と遠い目をしてかつてのロックンロールを思い出してみます。そう、これは青春モノです。
物凄くダサいことを平気でやってのける人を、人々は尊敬の眼差しで見つめます。このソノシートも、歌詞は青春ど真ん中な50年代風のメッセージが強烈。サウンドも真っ直ぐ過ぎるロックンロールで、正直カッコイイとは言えないパーツで構成されているのに、なぜか「カッコイイんじゃないか?」と思わせてしまう勢いがとても異色。
200円のソノシートでこれだけやってくれるんだから、素晴らしいとしかコメントできません。偉大!
80sガールズパンクといえば、これ。ドグマリリースでプロデュースはモモヨ。
カラフルで見た目もいいし、音楽も暗めのパンクでキレイにまとまっていますが、人気は低いですね。でも私はハマりましたし、B面の曲とかはすごい好きです。
バンド名のせいか、一時期日本語ラップのコーナーに、売れないヒップホップの盤とともに100円で売られていて、物凄く可哀想だった。このように、レコード屋の店員の無知はときに悲劇を生みます。理解力の無いショップには、思い出の詰まったレコードは売らない方が良いということでしょう。
カスレ声系ハイテンションボーカルが強烈な、京都のハードコアバンドWARHEAD!!
再発盤はカラーだったり、海外レーベルからのLP盤は他の音源もプラスされているので、どれを買ってもお得なWARHEAD。僕のはオリジナルCD盤みたいです。
もろ直球なジャパコアサウンドに、あの叫び声ボーカルが乗っかることによって生じるとんでもない破壊力こそがこのバンドの魅力。ライヴ、一回だけ見たけどとんでもなくカッコよく速かった。演奏スピードとは別の意味での疾走感というか、とにかく勢いに満ちたバンドです。
90年代初頭のハードコアを代表する一枚として、推薦。
大好きな映画です。くだらないストーリーに極端な残酷シーン。もう最高。
なんといってもたまらないのが、ときおり流れるアナログシンセのしょぼ過ぎる音色である。ここまで情けないBGMも他にないだろう。内容は別にどうってことないクズホラーなんだけど、一応簡単に書くと、ヒッピー集団が田舎町にやってきて、悪魔崇拝っぽい儀式をやるわけです。で、それを目撃した女性が犯されてしまいます。そのぼろぼろになった女性がゾンビみたいな姿で家へ戻ると、彼女の祖父は怒り狂って、猟銃片手にヒッピーの住処へ殴りこみますが、逆に返り討ちでLSDを食わされてラリってしまうのです。で、今度はその老人の孫が姉と祖父の敵討ちだっていうんで、狂犬の血をパイに混ぜてヒッピー達に食わせるわけです。そのため、ヒッピーたちは口から泡を吹いて凶暴化。みんな狂犬病になって暴れ回るのです。
とまぁくだらないのですが、暇つぶし程度で見るならばだいぶ楽しめるので、レンタル屋でみかけたら借りてみましょう。たぶん次の日はどうでもいい気分で一日寝続けるかもしれませんが。
最近音楽ばっかだったんで、たまには映画紹介でも。
これは悪名高いサムシング・ウィアードから出てた一本で、低予算70年代フィルムの隠れ過ぎた名作です。内容はギャング3人組が男を殺して逃亡。途中スーパーの店員を嬲ったりするどうでもいいような不快シーンを挟んで、到着するのが少女と身体の不自由な老人の住む家。で、結局ギャングたちが少女に惨殺されるのですが、ラストの一人(少女の身内だったのか?)の死に様がけっこうドラマティックで、いまだにそのシーンだけやたらと覚えている。
この映画、けっこういい加減な脚本で、うっかり複線に思えるシーンが実はまったく無意味なままで、ラストを迎えても何の説明もなく終わってしまう。それ以外にも、ひとつひとつのシーンがほぼ説明不足な感じなので、見ていて大分混乱させられるし、全体を通して気味の悪いほどダウナーな雰囲気に包まれているので、この映画特有のいやなイメージを植えつけられる。でも、そのいやな感覚がたまらないのである。
激しい惨殺シーンがある訳でも、ストーリーがいいわけでも、映像が美しいわけでもない。ただ、この独特の雰囲気は評価したいと思う。
愚鈍と並ぶ広島産のハードコア。切れ味鋭いこの2枚組ソノシートは、広島ハードコアを語る上でも極めて重要な作品。いままでCDで発売されないのが不思議なくらいである。
90年代初頭のリリースだったと思うが、このオリジナリティのある楽曲はもっと古い時代の感覚がしてならない。80年代のジャパコアが好きなら絶対ハマるでしょうね。
地方ハードコアの魅力は『ルーツが見えない』という点であり、このカサブタも、いったいどんな音楽背景があってこの音まで辿り着いたのか興味深い限りである。
愚鈍もそうなのだが、得体の知れない場所から突如発生してきたハードコアというのは、ある種独特の凄みみたいなものを持っていて、それこそが、ハードコア本来の魅力に思えてならないのである。
ワイルドでクレイジー! みんなラキムのスキルがどうとかそんなことばっか言ってるけど、このアルバムでの危ない音作りをちゃんと聴いていたらそんな発言はできない筈!
それほどまでに異様で気味の悪いトラックがここには満載なのである。ジャケットもダサいを通り越して得体の知れない『怖さ』を表現してしまっているし、そんな奇怪な装飾の中で、ラキムのラップが冴えまくるというもはや狂気の域に達している名盤。
この時代、ヒップホップを勘違いする若者が多数出現したのは、Eric B. & Rakimやパブリック・エネミーの音作りが原因だったのかもしれない。
後期ビートルズとビーチボーイズが好きなら絶対にハマるこの音。
あの時代の音だ。
懐かしいサイケデリックなポップ・サウンズは、それでも渋谷系扱いされてほしくはない。
ここにあるのは純粋な物語。
コンセプトアルバムとしての完成度も高く、最近発売された新譜も最高にポップ。
何か対象を見つけなければ思考できないという、そんな相対的なあなたに始めて自由を許してくれる音楽になることでしょう。これはそういうアルバムなんです。
どこまでも自由に、言い換えれば正体不明の音楽がぎっちり詰まっています。
どうして?
とにかく疑問しか浮かばない。
徹底した暗く重い楽曲。なぜここまでできるのか?
ここまでして音楽をやる意味などあるのだろうか?
これはもう音楽ではないし、メタルでもない。
彼は獄中で今もなお作品を作り続けているが、その絶望がピークに達したのは3枚目のアルバム。
写真は1stだが、リリース順に聴いていくとBURZUMがどういうものなのかが、少しではあるが見えてくる筈である。
輝かしいまでの絶望は、彼の作品でしか味わえない。
81年ぐらいのミルウォーキーのバンド。
とはいえ、音楽性は60sガレージ風味で音もショボイ。でも曲自体はポップでかっこいいので、パワー・ポップコーナーにひっそりと置かれている亡霊みたいな一枚。
ジャケットとかも写真が糊で貼ってあって、なんか手作り感溢れる感じです。しかもCD-Rだし。
こういった田舎のパンクバンドは面白い音を出すので、今後も色々と発掘していきたいのですが、情報も極端に少ないので入り口が分からず。
このアルバムは後半の流れが結構好きで、ヘンなライブっぽい曲もかっこいいと思います。ミルウォーキーの青春の一ページ、田舎の若者たちの、やり場の無い悶々とした感じが伝わってくるリアルな盤です。
僕は朝っぱらから会社で何をやっているのだろう?
こんな古いレコードのジャケットスキャンして、しかも休日だというのに。
ダンスそうじき♪ などと鼻歌を歌ったところで未来は絶望だ。
でなければ某ゲイ雑誌用の原稿をこんな朝っぱらから書くようなマネは常人にゃあ無理だべ。
まぁ、締め切り忘れた僕が悪いのですが…。
まさか連休中に締め切りなんて、不意打ちもいいところですね。
さて、この喝!タルイバンド、いまだに活動しているというのだから恐れ入る。
僕も少しは彼らを見習い、物事を継続したり、最後までやり抜くような、
そんな立派な姿勢を保てるようになりたいものである。
千葉のおっかないハードコアです。おそらく千葉最強。
とにかく激しく、音圧の凄まじい怒号ボーカル系のハードコア。
ファンも根強く、いまだに大人気ですし、後のシーンに与えた影響もかなり大きいと思います。
ワイルドすぎるので、軟派な奴は聴かないでください。死にます。
このシングルでも、もの凄いハードコアですが、きちんとフックの効いた曲構成になっているのがジャップのいいところ。メンバーの何人かはいまだに活動しているようです。
とにかくかっこよく、初心者なら確実にブッ飛びますので、ぜひ御一聴を。
ADKのラストリリース。元奇形児の人とかがやってたバンドです。
ラストということもあって、あんまりパッとしない作りですが、渋くて味のあるレコードです。
こういうのは中々繰り返し聴く気になれないのですが、音質はいつものADK(タムのミックス)なので、あの籠もった重い音が好きな人にはオススメ。
悪い指。パワー・ポップっていうのはこれが元祖なわけですが、ビートルズの弟分というだけで片付けられているのが現状。
彼らの中ではこのアルバムが一番完成度高く、特に5、6曲目の流れは完璧にポップ。いろんな人がカバーして有名なわりに、原曲を知っているという人は稀。
なぜここまで評価が低いのかといえば、それは値段が高すぎるから。
アップルレコードは中古でも2000円以上するので、この人たちも高いまま。最近出た紙ジャケの国内盤も2800円ぐらいする。
もっと手軽な価格にすれば、彼らの評価も変わると思うのだが、東芝EMIは今後も価格を下げることはしないんでしょうね。可哀想なバンドです。
青春です。ちょっと恥ずかしいけど、昔聴きまくっていたんです。
この前17年ぶりに新作が出たけど、聴いたら泣きそうなのでまだ買っていない。でもコンピレーションで入ってるベストみたいなのは買って、I wanna be yourself が流れた時点で泣きそうになった。
このバンドを聴いていたせいで、後のリンドバーグやジュディ&何某とかがでてきたときは、粗末なコピーにしか見えなかったし、女性ボーカルのポップ・パンクといったら真っ先にウォーリアーズが思い浮かぶ。
Born to RideやFeel Good、全曲カッコイイ。ウォーリアーズの演奏も本物のロックンロールだし、ニッキーは永遠のパンクアイドルです。
全国のニッキーファンの人、今日は押入れからウォーリアーズを引っ張り出して聴いてください。そして懐かしいあの頃を思い出してください。
永遠に不滅のバンドです。
ギズムとはまた違った形でメタルを取り入れたのがこのデスサイド。初めて聴いたときは、なんて重たいハードコアなんだ! と大興奮したもんですが、最近こういう音のバンド多いですよね。そういう意味では元祖メタルコアとして、とても重要な人たち。
海外でも評価は高いです。私は高校の時コピーしようとしたけどあまりに高水準なメタルテクニックに追いつけず、結局普通のハードコアしか演奏できなかったという悲しい思い出アリ。というか今でもこんなギター弾けないし。このアルバムでは方向性も定まってかなり洗練されたオリジナルなスタイルで、ジャパコアを聴くなら絶対押さえるべき一枚だと思います。
あ、あとこの人たちモヒカンがやたらすごいんで、写真はなんとかして見て欲しいです。デスサイドのモヒカンに燃えたというハードコア野郎はけっこう多い筈。
九州ハードコアの代表! とか言われてるけど、ホントは下関のバンドです。
ライブ音源の爆竹音を聴くと、血が騒ぎますね。「オマエダ!」とか。
CDで再発されてるので、入手は簡単ですが、やっぱりライヴで見たかったバンドです。
個人的に、ハードコアはやっぱり懐かしい感じがして、涙腺が緩んでしまいます。とくにこういう音質の悪いやつは大感動。完璧です。
高円寺駅の手前で、中央線は緊急停止した。
飛び込み自殺だった。
飛び込んだ男は、バラバラになっていて、鉄道警察は彼の破片をビニール袋に入れて回収していた。
彼の首は数メートル先までふっ飛んでいて、持つところが無いので耳を持って回収した。
両耳を掴まれ、運搬される彼の首は、
沈黙していた。
彼の目は、生涯行ったことの無かった湘南の海で遊んでいるサーファーが溺れ死ぬ瞬間だけを、
見つめ続けて、
そして暗くなって、
世界が裏返された。
ジョン・ゾーンのサックスが、
高円寺のホームに鳴り響いた。
島根の小さなレーベルからひっそりと出ていて、なんとなく買ったらものすごく良かった。
あれから何年か経ち、もうこのアルバムを聴くこともめっきり少なくなったが、最近では普通に売れているらしく、テレビなんかでも見るようになった。
思えば雨の降る日に、朝から何もせず、ずっとこのアルバムを聴いていた時期もあった。
吉祥寺のスターパインズ(記憶があやふやなので定かではないが)でやったライヴも印象に残っているし、決して忘れ去るような音楽ではないのだが、私は意図的に、彼女の歌を避けているのかもしれない。深く落ち込むような暗さではないが、無機質な、気だるい雰囲気のジャズ・ピアノが聞こえたら、もう私はダメになってしまう。
私にとってはもの凄い一枚だが、世間ではただの『うたもの』としての評価しかされていないのが残念だ。あのピアノの旋律に、あの声が被さった瞬間の魔法は、いまだに私の恐怖を呼び起こすのである。
千葉のハードコアです。初期とはちょろっとメンバー違うけど、これはこれでカッコイイ。
ヴォーカルにはエフェクトかかってるし、ドラムはハイとローを強調したミキシングなので、ぐちゃぐちゃしたのが嫌いな人にはダメかもしれませんが、私は好きです。人気無いけどね。
でも、ヴォーカルの人死んじゃって、ちょっと前に追悼ライヴやってましたね。だけど伝説化されたりしないのが狂人病らしいというか、なんとももったいない人たちです。
マキオズです。このアルバム、中学の頃大好きだったんですよ。
春日氏のギターは「日本のジミヘン」とまで呼ばれるぐらいエモーショナルに咆哮していたし、マキのボーカルは孤高の存在だった。
マキのソロよりも、マキオズの重いサウンドがよかった。
まるでブラック・サバスミーツ昭和歌謡な、独特の世界が浮上してくる、あのドゥーム度満点の重いイントロとマキの歌が立ち上がる瞬間のかっこよさ。
もう、パーフェクトでしょう。
カテドラルとか好きな人はぜひ聴いてみてください。ハマリます。
ハイテクの事実上ラスト盤。しかもプロデュースはよっちゃん。
「コックサッカーブルースリー(NYバージョン)」はイントロのよっちゃんギターもカッコ良過ぎて笑える名曲ですが、それ以上にトータルでハードコアな勢いが素晴らしい。
クレイジーSKBのシャウトはやっぱりカッコイイですね。QPクレイジーになってからも密かに追ってますが、QPの新作「タンク山の動物園」は素晴らしい出来。特に「死村二丁目」はメロディック・デスメタルなリフとNYHCな勢いが合わさった傑作だが、タワレコなどの一部のレコード店では既に取り扱い禁止。音楽的水準がここまで高いのに、いまだにイロモノ扱いされているのは彼らだけじゃないですかね。そういう意味でも殺害塩化ビニールって特異なレーベルですね。素晴らしい。
三多摩地区最強のグラムロックバンド!!
今でも伝説だけど、音源が少なすぎて残念。
これよりもキャプテントリップから出たライブ盤の方がカッコイイですが、入門編はこっち。
ニューヨークドールズの影響バリバリな感じはありますが、日本のグラムロックではトップクラス。ルージュと紅蜥蜴は避けて通れない道でしょう。何度聴いてもやっぱりカッコイイです。
「白い冬」のジャパニーズ・サイケっぷりはもはや伝説ですが、他の曲も聴いてください。これはマジにクレイジーです。
ふきのとう、というグループはいわゆる「軟派なフォーク」として当時の硬派な人たちには忌み嫌われていましたが、今現在ここに詰め込まれた音と真剣に対峙してみると、そのあまりにも純度の高い楽曲に驚き慄くはずです。やたら透明な声とシンプルな演奏は、サイケデリックの構造を無意識に構築してしまっているのです。
まったく畏怖すべき名盤ですが、この前ちょっと欲しくなってタワレコを探したけど、一枚も置いてませんでした。合掌。
直球ピストルズ系パンク! 元ガイ(ノイズコアっぽい音)のメンバーなのでノイジーな部分もあったスワンキーズが完全にストレートなパンクロックをブチかました名作。
これはちょっとケタ外れのカッコ良さなんで、ピストルズ好きならオススメ。こんな硬派なパンクを聴いたらあとは何もいらないぐらいです。
これでぐっときたら、未発表曲「TOKYO」も併せて聴いてください。「売女のあのコはFrom東京!」と歌う傑作です。たしかシングルコレクションみたいなアルバムに入ってます。
スワンキーズのレコードってなんか高いんですけど、もう少し安くならないのでしょうか? 20分くらいのCDで2800円は高い! 金の無いパンクス達にこそ聴いて欲しいスワンキーズのアルバムが高値なんて絶対におかしいし、金持ちには聴かせたくないアルバムなのだから、もう少し安くして再発してください。そしたらもう一枚買います。
アメリカ大陸産のウニ頭たち。まさかイギリス以外の土地でこんなにもディスチャージ・スタイルでなおかつカッコイイバンドが生まれるとは予想外。
昔のジャパコアファンとかにも絶大な支持を受け、いまだに人気の高い本作は歌詞をよく読むとやたらとポリティカルでカッコイイ。ハードコアでは基本の一枚だけど、いま一度こういうアルバムを聴きなおすと新しい感動があるかもしれない。
泣けます。
スラッシュ! スラッシュ! スラッシュ!
遅くなってからのスレイヤーなんて聴きたくねぇ!
俺達が好きだったのはこのアルバムのスレイヤーなんだ。
何百回も聴いたアナログ盤はぼろぼろになっちまって処分したが、CDで7年くらい前に買いなおしたぜ! このやろう!
とにかくスラッシュしまくり、喚き散らしまくりの名盤なのに、意外と最近のスレイヤーの方が人気あるってのはどういうことだ! 畜生!
これは俺達にとって最高のスラッシュ・アルバムだったし、今だって色あせてない。
殺傷能力マックスレベルの興奮を、今一度あなたに。
れさん、ありがとうございます。
これはスゴイ。ぼっこぼこのハードコアで、半端じゃないカッコよさです。
同じ横浜の方でもシステマとかとはまったく違う感じで、オリジナルなジャパコア。フックが効いてるから聴いた後に深く残りますね。
こんなカッコイイひとたちがいるのに、日本のハードコアを聴こうとしないのはもったいなさすぎるので、これからハードコアを聴こうと思っている若い世代は必聴です。グレートすぎる。
謎のハードコア歌謡バンドまりちゃんズ。
とにかくカッコイイ「ひがみブルース」におけるシャウトには多大な影響を受けたというバンドも多いだろう。
他にもスカトロ、SM、ネクロフィリアなどなんでもアリな変態世界を構築し、独自の音楽性でさらにそれらに謎を与える究極のコミック・バンドである。
10年くらい前、突如彼らのベスト盤が出た。
でも、多分誰も買ってないので、未だに入手可能である。
ぼくたちは、あの「ひがみブルース」のカッコよさを、いまだに追い続けているのかもしれない。
ファーストの青かったジャケが真っ赤になって、ばっちりコンプリートで収録。そんなマイナースレットのこの盤は、もう不変の名作。
ジャケはべつに試合に負けた高校球児ではなく、ストレートエッジの全てを体現した写真だと思いますが、そこらへんどうなんでしょうね。
で、このジャケに影響されて、私も昨日から坊主頭です。
こういう直球のハードコア、今の若い子にはウケないんですかね。皆知らないとか言ってます。まぁ、それでいいんだけどね。
短距離ランナーだった少年は、いつしか世界最高速を目差すようになった。
彼は、肉体の限界へ挑んだ。
陸上部の練習の後、きまって少年は善行をひとつ行うことにしていた。
それは、自分のためでもあり、迷信じみていると分っていながらも習慣のように少年に染み付いていて、その日も彼は道で行き倒れている旅人にパンと水を与え、旅人の命を救った。
しかし、その次の日から、立て続けによくない出来事が少年を襲った。
怪我のため大会には出場できなくなり、親友が自殺し、両親が離婚した。
しまいに彼は怪我の後遺症で二度とレースに出られない身体になってしまう。
少年は自分の運命を恨み、神を恨み、旅人を憎んだ。
少年が絶望の淵に立たされていたそんなある日、彼はたまたま通りがかったコンビニで、例の助けた旅人が週刊誌を立ち読みしているのを発見する。
憤りが爆発した少年は無言で息を殺し、旅人の背後に忍び寄る。
そのとき、少年の心の中には、殺意と憎悪と、やりばのない悲しみが満ち溢れていた。
少年が近づくと、旅人はびっくりしたように少年の方へ向き直り、
突然笑いだした。
その瞬間、コンビニエンスストアにダンプカーが運転を誤って突っ込み、たくさんの買い物客が死んだ。
でも、少年は死ななかったし、旅人はダンプカーに巻き込まれてボロ布のようになっていた。
だから少年はそのまま帰宅し、スピードは加速することをやめた。
全世界の不幸は、スピードメーターの裏側、ニタニタと薄気味の悪い笑みを浮かべている老人達が操作しているんだと、大人になった少年は子供達に語り歩いた。
彼はアルツハイマーらしい。
ジューダス・プリーストといえばもうへヴィメタの帝王なわけですが、この一枚目ではただのブルース・ハードロック。しかし、そこがいいのです。このアルバムは個人的ランキングではペインキラーとかよりも上位ですし、タイトル・ソングの「ロッカ・ローラ」は日常のあらゆる場面でふいに口ずさんでしまう名曲です。
しかし、このアルバム、聴けば聴くほどに奇妙な印象なので、純粋なファンからは評価されないでしょうね。ヘンに薄暗いブルース系ハードロックという視点から見たら最高のアルバムです。
私の隣のデスクに座っている歌舞伎町のメタル・ゴッドこと美神大先生が、
「もっとメタルを!」
と、まるでゲーテのような、そして糸井重里風80年代キャッチコピーのような提案をしてくれたので、ここは一つへヴィメタもこれからはガンガン載せていこうかと思います。
で、そんな記念すべきメタル第一枚目はこいつら!!
そうです。メコンデルタです。
多分ほとんどの健康な人は知らないバンドです。ムソルグスキーの「展覧会の絵」をエマーソン・レイク&パーマーよりも重く暗くカバーしていたことだけしか私も覚えていません。
こういう暗くてぱっとしないへヴィメタルが大好物だなんて知れたら、まともに街を歩けないので、みんな秘密にしておいてください。
重苦しい前作を更に展開してみせたのがこの三枚目。これヤバイでしょ。そこそこ速いナンバーもあるけど、スラッジぶりは健在。このあと未発表レアテイク集みたいなのも出たけど、一番いいのはこれ。
白い空間、黒い空間。どちらも禍々しいのは判断力の欠如のせい。
信仰の否定は他の思想を固定化させる接着剤であり、そこに危険性が無いとは言い切れない。
だからこそ、日曜日の教会へこのバンドのTシャツを着ていくのは困難なのである。
恐るべきハードコア。
三上寛は何をやっても三上寛ですね。一時期ヘンなハードロックっぽいアルバム出してたけど、みんなが好きなのはこれと「BANG!」の二枚でしょ? 最近のも良いけど、URC時代を最良とするのがフォークファンの悲しき習性。個人的にベストなのは「BANG!」の方だけど、三上寛らしさを求めるならばこっちの方が上かも。
これはないだろう。
と、思った最初の曲がこれ。
初期の有頂天の方がバカっぽくて好きなんですよ。土俵王子の頃の方がプリミティブですね。これはちょっと狙い過ぎてて、私には辛かったです。
メジャーに行ってからは「アイスル」みたいな傑作もあるけど、基本的には最初の有頂天がベスト。
でもベジタブルとか、Pモデルっぽい影響バリバリな曲もわりといいと思うし、アルバム単位で嫌いというのは無いですね。でもこのシングルは…。問題作です。
あきれた顔の少年少女の横っ面を、
思いっきり張り倒す。
教育であり、権力を誇示する意味もある。
だから、あいつらはガムをくちゃくちゃ噛み続ける若者が嫌いなのだ。朝から晩まで道徳の基準を探し、工場の床に転がる無数のネジを拾い集めることしかできない。何せ汗と油にまみれての結果が微々たる給料なのだから、彼が失望に満ちた瞳になるのは当然の成行きなのかもしれなかった。
髭剃り跡を左手でこすりながら、何種類かの死を分別する。
彼の一日は、ちっとも美しくない。
歌謡曲だなんだと言われても、これは間違いなく日本最強のパワー・ポップバンドである。甘酸っぱい青春の一枚。CD化して未発表音源なんかも発売されたけど、あのころ聞いたザ・バッヂの曲は、やっぱり特別だったのかもしれない。
こいつらだけじゃなくて、ボストンのほとんどのハードコアバンドに言えるのが、最初はカッコイイのに尻すぼみ現象ってやつで、このバンドも最初のこれは激速ハードコア。だけど後半はだらだらと勢いを失っていき、下手糞にぶっ速く疾走するこの時期の彼らだけが評価されているのが悲しき現状。
最近CDで再発されてたので、興味があれば簡単に(しかも安価で)購入できます。
ボストンの高速ハードコア史に残る名作なので、聴いて損はありません。
不朽の名盤。
レゲエもハードコアも関係無い。とにかくカッコイイ演奏。速く、鋭いだけでなく、ある種の叙情性も持ち合わせていた彼ら。本作の前に出たカセット音源も素晴らしいが、これはこれでベストですね。
バッドブレインズでUSハードコアにはまったという人も多いと思いますが、僕もその手合いです。マジにカッコイイので、よく高校の頃ぶっ続けで聴いてました。
そんな一部の人にとっては青春の一枚であるだろう本作は、最近のUSHCブームでまた再燃してるみたいですね。ぶっ飛ばしていくハードコアナンバーの後のレゲェソングがぐっときたりする構成もいいし、なんだかいいことずくめのバンドです。
あまりにも有名なジャケのインパクトに負けず、中身のヤケクソ気味パンクロックも最高なサモアンズの一枚目。
妙に盛り上がるんですよ。これ。
気分が高揚しまくって止まらない、チャカチャカしたパンクが炸裂する彼らであるが、地元の偉い人(音楽業界の)をおちょくって一時期は変名で活動。そんな情けないパンクバンドは、今では世界中で愛される古典USパンクとしてその地位を確立したが、下手したら誰にも相手にされなかったかも、と考えると恐ろしい。とにかくいいレコードです。
萎縮したジャズの幻影など、このアルバムの冒頭で発射されるサックス音ですべて吹き飛んでしまう。とてつもなくパワフルに構築された演奏は、それでも知的な空気、及び思想性を破棄してはいない。
このマシンガンは、フリージャズでは異例の枚数を売り上げたモンスターアルバムであるが、現在の耳で聴いてもやはり素晴らしい。手放しで絶賛できる数少ない演奏であると言える。
この時代の背景を思い浮かべ、そこで活躍していたヨーロッパのフリージャズシーンを思うと、なぜだかとても感傷的になる。懐かしさではなく、浪漫に満ちた回想もしくは妄想をうながしてくるのは、やはりブレッツマンのヘラクレスの異名をとるサックスなのだろうか?
混沌のティーカップには目に見えないヒビが無数に入っている。
その隙間から覗くのは、眼球に似たうしろめたさ。
だれがどこから来たか。
その経過を明白にすることはそれほど重要なことじゃない。
イルリヒト。
身を任せるのではなく、精神を委ねるための旋律がある。
なんて良心的なゲリラだろう。
海水に浸して、意図的に機材を破壊するような無謀さは微塵もなく、
ビートでもメロディでも無く、演奏しているという状態だけで訴えかける運動。
ジョン・マッケンタイアは絶対的に食事が好きな男だ。
生命維持のための食事ではなく、アトモスフィアを楽しむための会食のようなことを好むはずである。
社交的でシャイ。意味不明だが、そんな人間が音楽を表現するとこうなる。
エフェクターなど、使用機材からしてマニア向けな印象があるが、わりと一般家庭に普及しているみたいですね。いい音してます。
ちょっと休んでいた隙にヘンなジンガイ野郎が俺のブログを荒らしやがった!!
マジにファッキン・コメント・スパムをかまされ、猿のような顔でモニターを見つめた俺の気持ちをお前らは理解できるのか? このクソ毛唐が!!
というわけでしばし怒りに震えたわけですが、勝手にしやがれ、と開き直ることにしました。
ピストルズってあんまし聴いてないんだけどね。
今後怪しいスパム・コメントをしてくる奴は容赦なく削除するのでそのつもりで。
というかこんな弱小ブログをいじめて何が楽しいんだ?
いい加減大人になってほしい。
ロリンズの身体的な勢いを感じさせるボーカルスタイルは、このバンドを一躍ハードコア界のスーパースターへ昇華させた。
本アルバムが身体的に作用するサウンドであるのに対し、次作ではひたすら内面へ沈み込んでいく重量級のハードコアを展開し、精神面でのハードコアを完成させた彼ら。
果たしてブラック・フラッグはどこへ行くのか? そんな思惑も、ひたすらねじ伏せられていく。
破壊行為というのは、対象があってのみ成り立つものでは無く、このように純粋な存在として「破壊」が成り立つ場合もあるという証明になった重要な一枚。
青春パンクという単語を聞くと、なぜかこれを思い出す。
汗臭い体育会系の青春ではなく、文科系の…。
そんなこと書いても仕方ないよね。とにかく青春パンクなんだから。
最近の音楽批評が「これは良い」「あれが悪い」だけで成り立っていることのやるせなさを、
こういう音楽を聴いて嘆いてみたり、遠い目をしてみたり。
だけどパステルズバッヂは捨てられず、こういう時代の空気感にいつまで溺れていては何も始まらない。なんて、反省したフリをするのも、娯楽の一部なんだろうか?
ずらっと並んだ屈強な男達が、手にした金属バットで次々と殴りかかってくる。
逃げても逃げても、やつらは追ってくる。
リップクリームの演奏は緊迫した暴力性で武装していた。日本のハードコアではもはや見本とされる彼らであるが、今ひとたびこのアルバムを聴いてほしい。
まず、曲間のコント(真剣なドラマなのかもしれないが)が異様だし、サウンドも更に磨きがかかったハードコアで、異常な緊張感を他のアルバムよりもより深く感じ取ることができるだろう。なぜ、こんなアルバムになったのか?
リップクリームには、意外と理解不能の側面があるように思う。
ナイトメア、いきなり再発ですね。びっくりした。
ナイトメアの音は思いっきりジャップなハードコアで、信じられないくらいの名作です。たしか大阪のバンドだったっけ。セルフィッシュのオリジナル盤はプレミアついてるから皆手を出さなかったと思うけど、こうしてCDでちゃんと出してくれると本当にありがたい。
いやあ、こういう再発は本当に嬉しいので、ハードコア・レーベルの人たちはどんどん名盤を発掘してCD化すべきである。でも、まさかナイトメアが二枚も出るとは思わなかったよ。快挙ですね。
これは買っても絶対に損しないので、ハードコアマニアでなくとも買うべきCDです。特に普段は青春パンクみたいなだっせぇの聴いてる小僧たちに接してもらいたい。日本のハードコアはここまでカッコイイんだという事実を、ハードコア少年たちは噛み締めて大人になってほしいです。そして、かつてハードコア少年だった我々も、こういう再発モノを聴いて感涙にむせび泣けばよいのである。
ゼロといえばこれですね。
再発・再結成(?)までしてるので、現在は接しやすい音源ですが、
一時期はやたら高くて、僕は近所の古本屋でなぜか500円で売られていたのをたまたま入手したラッキーボーイでした。おそらく持っていた人は死んだか再起不能の病に冒され、遺族に売り飛ばされたというのが真相だと思いますが。
変身キリンといえば「日本のヴェルベッツ」とまで言う人が居たくらいドリーミーな楽曲が多いわけですが、この一枚目はものすごくカッコイイポップサイケ風パンクです。
本田久作は阿木譲のロックマガジンに「宮沢賢治、稲垣足穂、ジェームス・ジョイス、世阿弥のようなRock Band」としてメンバー募集していたらしいですが、まさにそんな感じのバンドになっているので、そういう世界が好きな人はぜひ聴いてください。
ポップセンス、シックスセンス、エログロナンセンスからイノセンスへ。
あと30分でぼくたちの夏休みが終わる。
そんなときにはポケットからグルナンを取り出そう。
グルナンでサイケでポップな「あの音」を思い出して、
木の上には眠り続けた何人かの青春が錆びている。
だからもう、感傷的になるのはおしまい。
誰かさんと誰かさんの、しょうゆの染みがついた恋物語も、
もうおしまい。
工藤冬里、真剣に好きなんですよ。大ファンです。
あのよれよれした調子っ外れな歌や、楽曲の構成を無視したギターとか、やたらにキレイなピアノも全て素晴らしい。
で、これはそんな冬里氏とkinutapan、yumboといったバンドが共演する好盤。聴いてないというなら、まだ普通に売ってるので今のうちに買っておいた方がいい。
一曲目からして凄まじい異世界が口をあけているが、冬里ファンなら「その後のLuo na」で絶対泣きますね、絶対。冬里さんのうたには誰も追いつけません。
以前、友人が井の頭線内で工藤夫妻を目撃し、そのときの冬里氏のスニーカーにはマジックで「レッドクレイオラ」と書かれていたそうな。なんとも心温まるエピソードである。
工藤冬里音源はブートばっかなので、そろそろどこかのレーベルが責任持って正式にリリースした方がいい。ちなみに某氏が出したCD-Rセット「TAPES」は僕のプレイヤー、及びPCでは読み込めないというとんでもない不良品で最悪(しかもなぜかディスク3だけ聴けない)だから買わなくても平気。ブートで買うならクラゲイルのスイートインスピレーションズが一番無難です。
変な、とか、奇妙な、というだけでこのアルバムを片付けてしまうなら、音楽に未来など無い。
フリージャズであっても、ブルースであっても、ビーフハートの発する音はどこまでも純粋な発明であり、理解する為のテキストは一切必要ないのである。
あまりにも偉大過ぎるアルバムであるので、はじめてロックを聴くとか、洋楽ってどんなものなんだろう? などと疑問に思っているような初心者には危険極まりない、死に直結する盤なので不用意に手を出さない方が身の為だ。まぁ、一生聴かなくても人生は送れる。そんな覚悟があるなら、逆にたまたま買ってプレイヤーに乗せてしまっても問題はないでしょう。これはそういうアルバム。
意外と過小評価気味だけど、私はこれに随分とお世話になったので、こうして大推薦しておきます。彼らがいなかったら、今の音楽シーンなど無かったのだから。傑作です。
シェシズの一枚目。永遠の名作。
アルケミーの再発CDだとボーナスで工藤冬里の歌う「星」が収録されていてお得。
向井さんのライヴはいつ見ても無駄がなくて素敵です。シェシズや打鈍も好きだけど、胡弓一本でインプロしてる向井さんが一番鬼気迫る感じで、演奏することの本質的な心構えみたいなものをダイレクトに伝えるような音が胡弓から発せられ、意識の深層をかき乱したり押さえ込んだりするような力が作用しているように思えます。
以前ワークショップに参加したとき、向井さんは婦人用自転車に胡弓を固定してやってきて、「近所なんです」と一言。その不思議な登場からしてインパクト大でしたが、そのあとも設置されていたピアノの弦を直弾きしたり、演奏表現も研ぎ澄まされていました。
胡弓を始めたきっかけは? というだれかの問いに、小杉武久からの影響を語っていましたが、妙に納得してしまったのは僕だけではなかった筈。
筋金入りの表現者の一人として、リスペクトします。
今聴くと結構中途半端な感じしますねコレ。
花粉症で苦しいからこういうのは聴きたくない季節です。
オリジナルと再発だと色違ったりしてますんで、
間違えて高価なオリジナル盤を買わないように。
それにしても花粉です。
今年初めてこんな苦しい思いをしました。煉獄です。
本盤の連続射殺魔と町蔵がやってる「ボリス・ヴィアンの憤り」はここでしか聴けない名曲なので、
どちらかのファンならこの曲のために買っても満足できるでしょう。
そんな感じ。
ゲロ吐きドキュメントの音源が非常にドラマティックな初期非常階段の傑作LP。インプロの持つアナーキズムをここまで拡大できたのは、無邪気な勢いがあったからなのだろうか?
ジャケットの日野マンガもいいが、中身のパワーノイズ(まだこの時期はエレクトロニクス多用ではない)が強烈。当時のライヴ映像を収めたビデオも出てるんで、ぜひ併せてご鑑賞ください。
日本のノイズが今日のように発展したのは、この非常階段の存在があったからに他ならない。ファウストやホークウィンドやスラップハッピーや森田童子を消化してきたジョジョ広重社長の闇が表出するのはしかし、後のソロアルバムでの出来事である。
中学、高校の頃、RCとかそういうロックはダサいみたいな風潮があって、結局非常階段とかそういうのばっかり聴いてた。だからこのアルバムもちゃんと聴いたのは五年くらい前の話です。
偏見はいけないですね。これ、素晴らしく完成度高くて、名曲ばかり詰まってるからフォーク調のRCが苦手な人でも思わず口ずさんでしまうようなポップ感に満ち溢れてます。
キヨシローはバラードを歌った方が、本来の歌唱の良さがよく分かっていいですね。となんか普通のレビューみたいでカッコ悪くなってしまいましたが、それだけいいアルバムなんですよ。よろしく。
本物の不良、山口富士夫の在籍したティアドロップス一枚目。
次の「らくガキ」もいいけど、やっぱこれですね。「ピッカピカダイヤモンド」とかロックの王道ですから。とにかくカッコよくシンプルなロックンロールなので、好きな人は毎日聴けます。
それにしても富士夫ちゃんは何回捕まったんだろうか? 彼の前科リストみたいなのをディスコグラフィーと並べてみたりすると面白いかもしれないですね。
村八分やラリーズの頃より、ソロやここでの富士夫の方が身近で親しみやすいロックンローラーである。併せて「ひまつぶし」もオススメ。
日本の歌謡曲・ポップシーンにおいてのサイケデリック・モンスター。
とにかくエコーとシンプルメロディの調和が異次元の物質。
体験としては効果的なインスピレーションを生まないのかもしれないが、これも一つのアシッド。
オフコースはポップス・ニューミュージックとしての正しさを見誤ったりしない。絶対的な正当性をシンボルとして前進していく。そこから少しづつ零れだしたサイケデリックが、ひ弱な存在だなんて誰にも言わせない。
YES-YES-YES。
真実を虚像として求めるような厚かましいマネはやめた方がいい。
ジャケは最悪だが、へヴィ好きにはたまらない作品。
とにかく好きな人は好きという玄人向けハードロック。
フレッシュブルーベリーパンケーキというような音では無いし、ジャケのようなイメージでもない。
オリジナル盤はテストプレスのみなので、5000ドル以上するとか。
今では簡単にCDで入手できるので、興味があるという渋い人にはおすすめです。
へヴィサイケ・ファン必携の一枚。
孤独なひと。悪いひと。親切なひと。
三人いたら全員死にますね。
そして残るのは恐竜なわけです。
踏み潰された好奇心は前にしか進めません。
重要なのは、時折振り返ること。
つまり反省ってわけですね。
隣家の池の水は思ったより苦いから、
卑屈になればなるほど災いが祓えなくなる。
電気ギターを無邪気に鳴らすだけじゃもったいないということを、
彼らは身をもって教えてくれたわけです。
感謝。
身体がだるい。雨のせいだと思うが、クイックシルバーなんて聴く気になれない日である。
天使の偽者が何人か訪ねてくるので、すかさず天球の位置に目星をつける。
さかさまに吊るされた即物的な死と、現実感の無いセールスマンの鞄に入っている口臭防止スプレーの関係が次第に浮き上がってくる。
橋を渡るときは、なぜだかいつもドキドキする。
死霊のためのラジオ体操も、今日で終わる。
これをアンダーグラウンド扱いするなら、そんな店はさっさと潰れてしまえばいい。
限りなくポップで透明。4曲目の「マイカー炎上」というタイトルだけで気に入り、すぐに買ってしまった本作であったが、聴けば聴くほどに良くなっていき、いまではもはや去年のベストアルバムの位置にある。
マジキックって良質なもの出しますね。マヘルもそうだけど、素直なメロディというのは素直に聴けるからいいです。
忘れていた記憶や、密かに胸に秘めていた懐かしいできごとが甘く、そして切なく込み上げてくる壮絶な大名盤。一過性のポップではなく、後からじわじわ来るタイプのうたです。
ぱっとしないサイケです。ただ、内容はすごくいいんですけどね。聴かないともったいない。
ばらばらに点在するきっかけと、悲しみが行き場無く交差している。
おお、なんとやましい良心であろうか。
類似に敵意を抱くのか、存在の暴力性に怯えるのかは知らない。ただ、匿名の希望として思考されるシステムであるならば、放置しておくに越したことはないのである。
屍の上に家を建てるのか?
最初はポップだったから軽視してたんだけど、やっぱりメロディ・メーカーとして秀逸だよね、ウィラード。90年代の歌謡ロックってここに原点があるのかもしれない。
一時期やたらプレミアがついてて、ここぞとばかりに僕は売却してしまったのであるが、今になってまた聴きたくなったりもするなつかし盤。
ウィラードはメロディがしっかりしていて、ヴォーカルも複式呼吸マスターって感じの張り上げるタイプだから、万人に受ける歌謡パンクバンドにならなかったのが不思議なくらいですね。すごくポップ。
ハードコアとか好きな人にとっては軟派かもしれないが、ウィラードの曲はパンクとしてもそれなりに破壊力のあるものだったということを本作を聴きなおして実感してみてほしい。
サイケデリックは妥協してはならない。
正しい陶酔は秩序だってはならないし、諦念を少しでも感じてしまったらもうアウト。まがい物のレッテルを貼られて無様に漂うだけである。
レッド・クレイオラのこの音楽は、サイケデリックであることを一身に背負い込んだ本物の演奏であり、わずかな隙間から見える真実さえも極彩色に歪めてしまう、マジカルな儀式だと言える。
なぜ民俗学者はこのような音を問題にしないのか?
儀式的なもの、宗教の起源として横たわっている人間の根底にある感覚を無造作につかみ、引っ張り出そうとするのがメイヨ・トンプソンの技法である。だからここにある演奏に飲み込まれてはならない。心地よい陶酔が悪夢へと一変してしまわないように、われわれは細心の注意をはらってコレに接しなければならないのである。
恐怖と驚きと、始まりを形作るための第一歩。
昨年くらいから突如再評価され始めたホリーズ。何でいまさらなのか知らないが、多分CMか何かで流れたんでしょう。
これは彼らの一番サイケな6枚目。ジャケットからしてポップサイケな香りが漂ってますね。
さて、2分30秒の中でどれだけポップでドラマティックな曲を構成できるだろう?
限られた時間軸の中で魔的なからくりを封じ込めていく手法は、このホリーズの専売特許である。限りなくポップでキャッチー。そんな2分30秒平均の曲を連発するバンドだったホリーズが、いままで全然と言っていいほど評価されていなかったのが不思議である。
紙ジャケで日本盤も出ているので、すぐ聴けるようになった感動の名盤。ただモノラルとステレオの同じ曲を一枚のCDで通して聴くのは辛いかもしれないけどね。
こういう雰囲気の映画っていいですね。というかニューヨークのこの時代は本当にうらやましい世界なので、この映画を見てほのぼのと過ごす休日は最高だ。
見所はいっぱいあるけど、やっぱりDNAが凄い演奏シーン。アートリンゼイのギター弾いてる姿はもの凄くカッコイイ。DNAファン以外の人でもプラスチックスのイカレタ感覚を見て満足できる筈なので、未見ならレンタル屋に走っても損はしない。
バスキアの存在感がアートリンゼイに負けてる感じはあるが、記録映画としては満点でしょう。
青春は必ずしも弾けるような若さだけで構成されているのではないという事実を押し付けてくる迷惑な音楽がこのマニア盤。 さわやかなのか薄暗いのかも分からない演奏は、わりとスタンダードで聴きやすいが、ヘンな重みがあるので何回もリピートはしたくない。
灰色に薄汚れたどうでもいい夏の思い出が、イヤと言うほど体験できる名作。
最近は再発CDも見かけないけど、誰もそんなことは気にしてないですね。ただオリジナル盤をいきなり大金出して買うのだけは止めたほうがいいと思います。
平沢進のセンスは素晴らしい。この1枚目はまだニューウェイヴ・テクノポップなのだが、パースペクティブやアナザーゲーム辺りのダークなポスト・ロックから次第に深化していき、「ワンパターン」ぐらいでポップ路線に戻ったと思わせつつ、デジタル機材もガンガン導入し、さらに深いサウンド構築を現在まで行っている。
一枚挙げるとしたら「パースペクティブ」だけど、この一枚目のむき出しテクノポップ感覚には相当やられたので、今回は本作の紹介で。
「美術館で会った人だろ」からいきなりピコピコピロピロ鳴ってるシンセが素晴らしいが、バンド演奏がかっちりしているところがまたたまらない。さすがマンドレイクが前身なだけあるな、と感心。
個人的に好きなのは「偉大なる頭脳」。エクスペリメンタルに行きそうになるのを必死で押さえているメンバーの理性が見え隠れする初期の大名曲である。まぁ、人気は低いけど。
セカンドの「ランドセル」とはまたちょっと違った感覚があって、p-model入門にはうってつけの一枚。これで興味を持ったら「ポプリ」「パースペクティブ」「アナザー・ゲーム」の三枚を買ってヘッドフォンで聴くことをオススメする。特に「パースペクティブ」は一家に一枚の大傑作なので、死ぬまでにぜひ聞くべきニューウェーブの名盤である。
平沢ソロについてはまた別のところで書きたいと思うので、今日はここまで。
ドルフィはソロでも素晴らしいのですが、集団演奏となるとこのレコードが一番好きです。しかもこの二集目のテンションが尋常じゃないので、ドルフィの音源に触れたことの無い人にもオススメです。
60年代のサックス奏者の中で、ドルフィほど評価されていないアーティストもいないだろう。ここまで純粋に、神々しいまでの演奏に対する姿勢は誰にも否定できない。
立ち上がりの、摩擦音のような一撃から、ドルフィの幻想は蔓延し、墓石の眩しさに思わず顔を背けてしまう。ドルフィは全作、全曲いい。だからとにかく聴き、体験することが重要になってくると思う。
まずフゥーという発音でノックアウトなシングル。キッヅの表記も笑えるが、中身の歌声はもっと間抜けな感じで(酔っ払いのカラオケレベル)、とにかくカッコイイガレージ・パンク。大好きな曲です。
ガレージが呪術として確立しないのは、ここにあるポップ感覚があまりにも腰抜けにラリホーなのでお分かりいただけると思うが、フーはやっぱり底なしに暴力的で参ってしまう。無意味に乱暴な若者の音楽。まさにロックですね。最高です。
シーザーの本です。これがヤバイのは付録のCDに入ってる音源が強烈だから。
それにしても「シーザーと悪魔の家」って、北欧のブラックメタルみたいな感じのステージ写真ですね。日本を代表するへヴィ・サイケとしてシーザーの名を出さないのはもったいないし、ここになんとなく入れられた楽曲は音質は悪いがサイケ具合は満点。こういうハードロック調のサイケって日本では珍しいよね。他に似た感触のバンドはマキオズくらいかな。
シーザーの曲って、演奏もうまいし大袈裟にやるもんだから一部ではかなり評判良かったと思う。ただ寺山先生の関係だから、どうしても演劇のワクを外して見ることができなかったんでしょう。当時にきちんと評価されていたら、今の日本のサイケもちょっとは変わってたかもしれませんね。
ダヴ! というよりヒップホップ! 元ポップグループの人がぷっ放す衝撃の一枚。とにかくエフェクトまみれで何がどう鳴ってるのかよくわからない傑作。
闘争もここまでくると過激の垣根を軽く飛び越えて、難解な南海に沈没してしまいます。行き場の無い政治的な憤りとはどういうものなのか? という問いの答えがここには詰まっている。
なぜかこれを聴くと「受験戦争」という言葉が浮かぶのですが、きっと悪戦苦闘している受験生の怨念みたいなものはこういう感じなんだろうな、と僕の方が勉強になりました。ありがとう。
ひとひらの偽善に振り回された男が斜面を登る。
皆が下りてくる斜面を、男はいつまでも登り続ける。
空間に圧搾されるべきか、状況に窒息するべきか。
誰に問うわけでもなく、男は解決策を提案し、壁の中の議長へ爆弾を手渡す。
はじめから壊れていた家畜小屋に似たシステム。
それらがひそひそと相談し、実行する。
死んだ鳥の目がうっとりとする。
冷たいマンホールの蓋が下水で温まるまでの間、狂ったように静かなこの部屋で、選挙権を売り飛ばすことだけを考え続けた。
一日が始まる前に終わっても、そういうこととして片付けるだけの判断力が、人民には不足している。
テクニカルに構築されていく世界というのは、ここまで壮大かつ精密なものなのである。だからチック・コリアの病弱そうな外観など、この一枚で完全にぶっ飛ぶし、ディメオラのギターなんて上手すぎて困るぐらいの見事さ。タイトル通り浪漫の騎士な音である。
島田荘司の「異邦の騎士」でこの作品がかなり大きく取り上げられているので、島田ファンも注目の一枚。というかミステリファンなら誰もが持っている一枚でしょう。ジャズ・フュージョンのコーナーに置かれているけれど、シンフォニックなプログレとか好きな人の方がハマりそうな音です。
メキシカン・ハードコア! うるさくてカッコイイです。
ただ、けっこう演奏技術がまともなので、へたくそなトラッシュ系を期待しない方がいいでしょう。
もっとこういうのをガンガン聴きたいと思う。
もう、くだらないポップスだとかそういうのはどうでもいいよ。こういうハードコアだけを日本のレーベルはリリースすればいいんだ。そして、オリコンチャートを南米あたりのイカレたハードコアが埋め尽くす時代になってほしい。
アトキシコ、皆聴いてください。
反復することに内在する忍耐と、派生する陶酔をくまなく知ることができる。
あからさまな落書き、ではなく綿密な設計図。何も考えていないようで、実は深く考察された結果であったんだと気づくまでの時間を提供しているのだ。
ゲッチングのブルース風ギターは、そんな計算を意図的に隠蔽・混乱させるために錯綜している。都市的であり、密室的であると勘違い、もしくは決め付けを行った直後に背後で獣のような原始の響きがとどろく。郵便受けに爆弾に似た愛情が届けられた際に思わず両手で耳を塞いでしまうような恐怖が、わずかばかり顔を出していた。
郷愁に浸るという行為は悪徳ではない。許された欲望の中にあるものでもないし、他者の許可など得る必要も無いのである。
犠牲的な肉体と、自由闊達な意見を捲くし立てる言語の二元性が、初めから解体された状態で入り口を指し示している。秋の空気が孕んでいる起爆剤のような危険に、あこがれに似た情景を思い描いてしまうのは、他ならぬ聞き手のエゴである。
宇宙人の春がタコのB面最後に入ってて、やたらと掻き毟るようなギターがカッコいいな、などと思っていたら、どこから見つけたのかガセネタの現存する音源を集めたアルバムが出た。
って、何年前の話だろう。いまさらな感じもあるが、ガセネタの音は古くないよ。というよりむしろ今こそ若いサイケデリック・スピード・フリークスな連中はこれを聴いて本物の凄みを味わってほしい。
あ、と思っても遅いし、浜野純のモズライトのギターは闇の中から突然切りつけてくる卑怯で怖いもの。前にだれか(連続射殺魔かな)が「シド・バレットの目をしたブースカ」と浜野を形容していたが、当時のハルミの外見もそんな感じだし、このバンドこそ「シド・バレットの目をしたブースカ」なのかもしれない。
阿部薫。こんな凄まじい音源を聴いてしまったら、もうフリージャズなんてやる気が起きない。
ランボーの詩より速く、そして早く突き刺さるアルトの音。リリシズムを感じさせる部分もあるのに、まったく緩くなどなっていない。無駄な部分は全て削ぎ落とされた完璧な脱エスタブリッシュメント音楽。
日本にはこんな素晴らしいサックス奏者がいたという事実を、これらのアルバムは確実に歴史に刻み込んだという点で、重要な音盤。フリージャズが苦手だという人はまずここから、という荒っぽい入門方法も良いかもしれない。
光り輝く忍耐。阿部薫の音は今でもその忍耐の武装を解いてはいない。アグレッシブなのは演奏者の内面であったということに気づくまでに、あと何度血を流せばよいのであろう?
本物が何か分からなくなったら、この強烈な存在に触れてみるといい。きっとすべてのイデアが喪失されることだろう。
ほがらかに、奔放に、ふわふわと。
ノンの歌からは浮き上がる解放感と、逆に引きずり込まれるような吸引力がある。
水のように叱られたい。霧のように笑われたい。
子供はいつだって大人へ顔を向けているのであり、ノンはそのどちらでもない空間から周囲を眺めるように歌う。そしてベースも転がるように鳴り響く。
ここに収められた宝石のような自由に、希望のような感情を抱けたら、それは幸福な生き方である。
ザ・フーの好きな人ならこれもついでに。そんな勧め方でもうこのバンドは充分。
音の方は正直本家フーよりカッコよかったりする瞬間があって素晴らしい。
ガレージ入門にも最適だし、CD盤も出てるから簡単に入手できるというのも高得点。
こういうストレートなロックバンドってなかなか評価されにくいけど、このレコードは皆が大好きな一枚だと思うし、割とみんな持ってる大ヒットアルバムなのかもね。当たり障りの無い名盤。
「何気なく」というのは、その中の何パーセントかは虚偽で構成されていると疑ってかかったほうがいい。わざとらしさや「無意識に~」、というのも同様の性質を保有しているが、「何気なく」ほど無責任かつ得体の知れない感覚も他に無い。
このSLAPP HAPPYの1枚目も、そんな何気ない空気の恐怖が盛り込んである。ポップで聴きやすい感触に騙されて、ついつい深みにはまってしまうというパターンも多く、中毒者は後を絶たない。
鉄道レールは夏になると熱くて、冬場は冷たい。それは鉄道レール自体の事態ではなく、周りの気温が変化しているからであり、スラップ・ハッピーも聴き手が変化しているだけで、音楽事態は何気なくそこにあり続けるわけだ。
ともかく、厄介なレコードであることに違いはないだろう。要注意。
一曲目の「私は深い海にしずんだ魚」からいきなりアシッド漬けの世界が広がる。叙情性ではなく、幻覚物質の成分が多く含まれており、精神が不安定なときに聴くとバッドトリップの可能性あり。
風船は日本のアシッド・フォークを代表するグループだけど、メロディがキレイでオシャレな曲も多いので、サイケファンには素通りされがちだけど、この「おとぎばなし」は強力なのでぜひ一聴を。怠けることと何もできないことの差異を埋めていく楽曲集。
西岡たかしの闇の部分は、まだまだ隠れている。
頭の中では困惑しているのに笑顔。
ごまかしはそこにあって、ぐるぐると回る土台の上で思考を続けながら現状を維持している。
迷惑な騒音。美しい旋律。吐き気がするような音波。懐かしいフレーズ。
それらすべてがまやかしだったんだ!
うれしくなって北東の窓を開けても、神様はやってこないのであって、徹底的に打ちのめされた夕暮れの空気がゆったりと流れていく。
キラキラと水色に光る、水に関係した映像を欠伸を堪えながら長時間見ているような気だるさ。それが正義であり、常識なのである。
サイケデリックアンダーグラウンド。ここから来て、どこへ行く?
はじめてミュージック・ステーションかなんかで見たときにヴォーカルの人が海賊みたいなカッコしてて、多分コミックバンドなんだろうなぁ、とおもっていたら演奏が始まって、タツヤのドラムは予想していたものの、ヴォーカルの人(名前わかんね)が山田辰夫ばりの蓄膿シャウトでびっくりした。
けっこう過大評価されてるけど、シンプルなロックでいいんじゃないですかね。個人的に一番好きなのはこのセカンドで「冬のセーター」の蓄膿っぷりがマニアにはたまらないです。蓄膿声が好きだという向きにおすすめの一枚。
最近甘い物がやたらと食べたくなる。何かの病気なのだろうか? 風邪も治り、順調に健康管理をしていると思ったのだが、糖分をちょっと取りすぎている気がする。
缶コーヒーを1日に5本ぐらい飲むし、チョコレートやらまんじゅうやらで糖分過多な人間になっている自分に気付き、ここのところは注意して飲食しているのだが、体重は以前と変わらず痩せ気味だ。
今年はちょっと太ってみたいのだが、いくら食べても肉が付かず、体重がついに48㎏になった。このまま体重が無くなって死ぬんじゃないかと考えると、まったく眠れず、結果的に睡眠不足で更にやせ細っていくという悪循環。太っている人が羨ましい。
そんなとき、モノクロームセットを聴くと、さらに痩せていく気がして血の気が引く。なんか痩せそうな音楽なんですよ、モノクロームセットって。
本当にモノクロームといった感じの薄暗いサウンドで、アートスクール系の人たちには大人気。だけどこの痩せそうな感覚は何なのだろう? あんまり聴かない方がいいかも。ダイエットとかしてる人には強烈にオススメしますけどね。
これぞサイケデリック! ジャパニーズ・サイケの重鎮である陽水先生が突如発表したリヴァーブかけまくりの完璧にイッちゃってるシングル。これは誰にも批評できないだろう。
こういう危なっかしい曲を普通にメジャーからシングルで出して、なおかつヒットさせるんだからやはりあのアフロは伊達や酔狂ではなかったのだろう。ピアノもストリングスも、全部リヴァーブが掛かっていて、もはや異次元の楽曲。すげぇよ、これ。
少年時代というタイトルから覗えるノスタルジーは一切無く、ただただ深く酩酊するトリップ感覚に支配されている。陽水はここへ来てまだシャーマンとしての実力を失っていなかったのである。
引きこもりのヒップホップ。というより家にあるレコードを適当にサンプリングしてるだけの怪盤。アヴァンギャルドという前に精神の蝕まれ方が現代的なので、割と若者にウケるかも。
機材も安っぽい感じで、多分ターンテーブルとミキサーとドクターサンプルだけしか使ってない。
このOdd Nosdamがすごいのは、全然狙ってなくて、素の表現としてこういうアルバムを作ってしまうところだろう。まったく作為的なものが見えないのは素晴らしい。アンチコンの中でも、最も奇怪で意図のつかめないトラックを作るこの男は、いったいヒップホップに何を見たのだろう? きっと退屈しのぎの暇つぶし程度の娯楽として音楽があるんだろうなぁ、と感心する一枚。
72年のブリティッシュ・フォーク。サイケな香りというよりは時代の空気が密封されており、白昼夢のようなうすぼんやりトリップ感覚を提供。
かなりクオリティは高いのに知名度は低く、怪しげなレーベルからこっそりとCD化されており、なんでこんな扱いなのかと疑問に思うが、まぁ古いレコードって権利とかいろいろ問題あるんだろうね。
個人的には5曲目の「Mr. Bojangles」の時点で涙腺が緩むので、これは墓場まで持っていきたいほのぼの盤である。クスリ漬けの一夜が終わった後の早朝、といった音が好きなら買いです。
かいつぁーふぁん。連続する流行。拒絶するセンス。
そして少しだけ見えたモードの先に間違えられるイメージの交錯。
もっと素直になれば楽なのにね。ひとまず、部分がイメージとしての全体を思わせ、存在全てを代行しているような状態からは脱却したいですね。そのものの一部しかしらないのに、全てを理解したような顔をするのはよくないよ。ほんと。そういうのを知ったかぶりって言うんですね。
フリー・デザイン。すごくいいんじゃないかな。こういう素直にオシャレなレコードってどうなんでしょう。
もうソフト・ロックとかって流行らないから、置いてる店とかも少ないよね。渋谷系全盛の頃はどこもかしこもソフト・ロックだったのに。ただユ○オンに持っていくと結構高値で引き取ってくれるのは嬉しい。これは売りたくないけどね。
1日に一度はそれを食べないと、身体がおかしくなってしまう。自動的に爆発するならまだしも、数学的な原因を持たずに変形、拡大を続けていくのだから困ったものである。
と、複数の「ヒト・もしくは人」が囁くので、堪り兼ねて落下するというのも気がひける。だから今日のブルースは明日のブルースまで辿り着く前に昨日のブルースとして機能のブルース。有機的だなぁ。
バクーニンを非難する前にマルクスを疑えと枕元で紫の怪人に説教されたような気分になる。そんな工藤冬里の声はどこから響いているのだろう? ヴェルベッツもラリーズも、ここまで純粋にはなれなかったし、それを考えると、マヘル・シャラル・ハッシュ・バズほど呪われた音楽も珍しい。
個人的にマヘルから受けた影響は絶大である。
ファウストのセカンド。
彼らの中ではかなりポップだけど、一番って言ったらやっぱりこれ。
僕はアナログで持ってるんですが、丁寧に曲ごとのイメージ画のようなイラストが一枚ずつ入っていて、結構豪華な作り。
そういえばファウストがライヴで、空き缶か何かをステージに積み上げておいて、演奏のときに倒そうと目論むも、リハーサル中の時点ですでに我慢できずに倒してしまったというエピソードからも、彼らのユーモアが先天的に供わったものであるということが分かる。ファウストは確信犯であると同時に生まれながらのハプナーなのかもしれない。
このセカンドでの彼らは、わりとマトモな演奏も入れつつ、独自のエクスペリメンタルな部分を前作以上に研ぎ澄ましている。初めてファウストに触れるならここからがオススメだが、一枚気に入ったら全部欲しくなるということは覚悟しておいた方がいい。
何年か前にやってた、橋幸夫が「激しい渇きをレスキュ~レスキュゥゥ」と間抜けな感じに歌うCMを思い出してしまう「アクエリアス」というタイトルだが、映画のコレはもっと間抜けだ。
アルジェントの弟子、ミケーレ・ソアビが撮ったサスペンス・ホラーの本作は、確かにフクロウの面などを使用し、独特の個性は感じられた。だが、妙に淡々としていて、どこが山場なのかわからないまま物語が終了してしまうのが残念。一応それなりに盛り上がるパートはあるけれど強烈な一押しが足りず、結局パッとしないままの印象で人々の記憶の片隅にこの映画は残っている。たまには見直してみたりするのもいいが、時間の無駄という意見もちらほら聞こえてきたり。フクロウのかぶりものが好きな人は見てください。
テープ・エコーの音を忠実に再現!! しかも弾いたフレーズをその場で録音してループさせたり、ディレイ機能もとにかく多彩。そんな本機が全くと言っていいほどスルーされてしまったのは、そのルックスのダサさにあると思う。もちろん僕は新品で購入。かなり使用しました。
テープ・エコー・モードでゲルマニウムトランジスタのファズなんかをかければ、すぐにでも裸のラリーズのコピーバンドができてしまいますし、サンプリング・ループさせまくって一人多重演奏で悦に入るのもよいかと思います。ただ、現在では更にパワーアップしたモデルがあるそうなので、買うならそっちかも。
ぐずぐずしていたら脳ミソがとろけ出した。
地下鉄のホームがなぜあんなに臭いのかと考え続けていたら、いつの間にか1日が終わっていて、代わりにピンク色の三輪車が置かれている。
電光掲示板を必死に目で追いながら、隠された暗号を見つけ出そうとするも、結局はなしくずしのセリーヌ的展開。バカを見たのは俺かお前か? 政治の政治が嘘から出た真で、真実の虚像がまた真実だった場合に天皇制におけるポストモダニズムの感覚を摘出できたのは不幸中の幸いであったと思う。
いずれにせよ、プリティシングスのR&Bパンクを聴いて、素直な感動を誰しもが得られるかと言うならそれは間違っている。解体や結合など、姑息な手段を用いなくとも、彼らは最初から剛速球を投げられたのだから。
ノルマントン号事件のことを何故かふと思い出し、タバコを二箱も吸ってしまった。
日本人だけ全員死亡。
ノルマントン号だけには乗りたくないなぁ、などと小学生でも考えないような幼稚な発想しか出来ず、ダイアプレスのTさんに電話したら「その人は何年か前に退社しましたよ。でもトップビデオ誌の方には同じ名前のTという者がおりますが」なんていう意味不明の返答。「じゃ、そのTさんでよろしくどうぞ」などと伝え、保留音の後に登場したのはいつものTさん。
「トップビデオのTさん?」
「いや、どうやら受付が間違えたみたいです。僕はトップビデオなんてやってないです」
「じゃあいつものTさんですね」と、納得したようなしないような気分。
人違いってよくあるなぁ、とペイガンズを聴く度に思ったりする。
昔デパートの屋上にあったアーケードゲーム「魔界村」を思い出すジャケだが、中身はクスリ漬けのマカロニ・ウエスタンといった感じ。一応サイケの名盤ですけど、いままで出てたブートは全て音質が最悪だったり曲数が変だったりするので、サンデイズドから出てるCD以外買わない方がいいです。オリジナル盤なんて何万もの値がついてるし、サイケマニアのせいで良い音楽がどんどん手の届かない場所へ行ってしまうという現状が呪わしい。
サイケのサは差別のサ、サイケのイは異物のイ、そしてケは貶してくださいという自虐の心。みんな悩んで大きくなったと勘違いする野坂の亡霊が見える。
11セント綿、40セント肉。名曲「スローターハウス」を聴くたびに夜の街のニオイを思い出す。懐かしいゲーム喫茶のニオイ。ゼビウスでどれだけ高得点を出せるかチャレンジし、結局開始二分で100円玉を使い果たすニオイがここには充満している。
ところでゼルダをコピーしてたギャルバンてブ×とかデ×ばかりなイメージがあるよね? しかも演奏下手だからゼルダじゃなくてシャッグスになってるという、そんなこの世の終わりみたいにパッとしないコピーバンドをたくさん生み出したと思うよ、ゼルダは。別にゼルダが悪いわけじゃないんだけどさ。
僕自身、ゼルダ自体は好きなんだけど、ゼルダのイメージというか、80年代クサさがとっても嫌。だからゼルダを良く聴いてましたなんて今まで人前で言わなかったし、ゼルダの載ってる宝島も全部売り飛ばした(たしかサヨコが普通に街で買い物をするというだけの記事があって、そのいい加減な企画に爆笑した記憶あり)。
しかしながら、このアルバムだけはどうしても手放せず、いまだによく聴く。そして聴きながら「11セント綿~」などと一緒に口ずさんで過去を振り返っては、イヤな気分を味わって絶望する。そんな名盤。
初期のドロドロな音も好きだけど、一枚選ぶとするならルビコン。
ルビコン川なんて見たことも無いが、きっとカエサルは大喜びで渡ったはず。
そんな世界観で窒息しそうになる本作はジャケットもオシャレなのでぜひアナログ盤で持っていたい一枚。とにかく気持ちいいアンビエント風シンセミュージックである。
拘束された奴隷が見る夢と幻覚の境目からやってくる、別の世界の物語り。常世の国はここにある。
個人的にものすごく好きな使い勝手のいいディストーションです。これに慣れると他のディストーションペダルに違和感すら生まれます。
価格も安く、歪みもストレートで深くキマるので、大変重宝する一台です。しかもBOSSのエフェクターって壊れにくいんですよ。コーラスのやつだけぶっ壊れたけど、あとは全部現役で使える。
ニルヴァーナのカートさんが使っていたので、どんな音が出るかはニルヴァーナのライヴ盤を聴いて理解してみてください。万人にオススメのディストーションです。
気が狂うような音楽や、殺意すら感じるノイズといった類の作品なら簡単に作れる。だが、ここにあるような得体の知れない摩訶不思議な音楽に関しては正体不明と言うほかないだろう。いったい何を考えたらこんな音を詰め込められるのか? 冒頭の童謡・民謡パンクからして目の前にバラバラ死体を転がされたような心境になる奇怪なものだし、「1234」のカウントでドラムを叩きまくって「ストップ」で止めるだけとか、車を運転しながら喋ってるだけとか、さまざまな遊び心が怪異を引き起こしてしまっている問題作。
第五列の音源がアルケミーから出てたけど、このビニール解体工場もそろそろCD化されるべきだと思う。誰か出して。誰も出さないなら僕が出すぞ! 金ないけど。
このビニール解体工場をやってたDEKUさん、及びDEKUさんの知り合いだという方は連絡ほしいです。というよりただ単純にビニ解の他の音源が聴きたいだけなんだけどね。真剣にファンです。
風邪ひいたっぽく、朝から頭痛がキツイ。
午前中は久しぶりにスタジオで「ばんど練習をしているばんどの練習」をする。爆音でストゥージズのカバーとかやって頭がさらに痛い。
で、そのあとM男優の観念絵夢から「もうねぇ、春が近いよ」とか意味の分からない電話がかかってきて、脳みそがトロケはじめる。
パソコンに向かうも一向に仕事が捗らず、結局こうしてブログ遊び。どうしようもなく怠惰です。
そんなときこのジャケを観るとなぜか心が落ち着き、オリビア・ニュートン・ジョンのファンでもないのに「オリビア最高」と叫んだり泣いたり。くだらないロックのレコードとかはもう全部捨てて、オリビアとかだけ棚に飾るっていうのは、やっぱり憧れる生活ですね。
気持ちがいいか悪いかの線引きは、権利としては感覚を受ける人にあるわけで、周囲が勝手に決め付けられるものではない。アンチコンのレコードが楽しく聴けるのは、制約から抜け出しているのではなく、聴き手であるこちら側で好きなルールを決めて聴けるからである。つまり、自由な変形を聴き手で操作でき、様々なジャンルをその音に当て嵌めて納得できるのだ。
しかし、クラウドデッドのこのアルバムはそのような聴き手がイメージしうる音楽の型がいくらあっても足りないような複雑な様式を見せる。自分たちはヒップホップのつもりでやっているらしいが、ヒップホップというよりは昔のナース・ウィズ・ウーンドのような音楽に近いかも知れない。ただ、ナース・ウィズ・ウーンドがフェティッシュな音のコラージュだったのに対し、クラウドデッドはもうコンセプトすら放棄しているため、より複雑に変化する音を提供する。
このアルバムを聴くと、ノイズミュージックショップの片隅でホコリをかぶっている自主制作テープの作品を聴いているような気分になる。ちょっと懐かしい前衛というか、90年代前半のアヴァンギャルドな空気が、その音質の悪いサンプリング音とともにスピーカーからこぼれ出す。
こういう音楽を聴くと、懐かしくて泣きたくなる。
マリファナとか大好きな人達がやるラップは、やっぱりふにゃふにゃと気味の悪い声で、サイプレスヒルはこのセカンドが一番好き。ただ、一枚目の暴力的な感じもいいし、最近のランシドのギターをフィーチャーしてクラッシュの曲をネタにしたりする手口もナイス。
好き嫌いが激しく分かれるだろうけど、こういうレゲェ風味のラップって最近けっこう多いよね? 今こそサイプレスヒルを再評価する時期かもしれないけど、僕はもう二度と聴かないかもしれないのでオススメはしません。本作ではブラック・サバスのネタとか使ってるけどロックな臭いはしないので、安心してヒップ・ホップが好きな人は聴ける筈です。
あー、じゃがたらについては既に書いたつもりになってて一枚もレビューしてなかった。ま、いっか。
で、一応この南蛮渡来ですが、ボーナスで入ってる二曲がすごい好きという以外あまり語れそうもないアルバムです。だってじゃがたらなんて皆聴いてるだろうし、こんな名盤中の名盤について今更何書いていいのか皆目分からないというのが本音。
名曲「タンゴ」や「クニナマシェ」も聴ける最高の一枚で、日本のファンクならこれ以外に考えられないというぐらいのレコード。そんな紹介で皆満足できる? 僕はできません。
アケミのライヴは一度も観たこと無いんですが、「それから」とか「裸の王様」は何回も聴きました。日本人のやる黄色人種向けのファンクってやっぱりカッコイイですね。4年くらい前にばちかぶりの田口トモロヲがラママかどっかでじゃがたらのコピーバンドやったときがあって、それは偶然観てたんだけど、トモロヲさんのじゃがたら愛みたいなのがメチャクチャ感じられるステージングで満足しました。
今じゃ再発されてツタヤでレンタルもできるんだってね、これ。僕が買った頃は探しても中々見つからなかったのに、いい時代になったもんですね。
初めてこれを聴いたときは得体の知れないカッコよさに打ち震えましたが、今冷静に歌詞とか読むと結構ダサかったりする。でも後期じゃがたらの前向きな歌詞は好きだけどね。
そんな感じかな。
近年稀に見るアシッドフォーク。ホープ・サンドヴァルはマジー・スターでおなじみだとして、ワームインベンションズって何? と思った人多いと思います。これはメンバーが曲ごとにバラバラで、全曲やっているのは元(?)マイブラのドラムだけという企画モノ色の強いユニットみたいです。
まぁ、ホープ・サンドヴァルのエコー声が聴ければそれだけで満足な僕などにとっては内容なんて無くてもいいようなものなんですが、クオリティはやたら高いです。何も知らない人に「68年のアシッドフォークだ」と言っても疑わないでしょう。シンプルに美しく、そんなありがちなキャッチコピーで充分語れる普遍的名作。頭がとれたら代わりを探すという屍の気持ちと、死後の世界がありがちなミスで無くなってしまうことのどうしようもなさを的確に指摘する音楽。
世界最強のパンクス、GGアリンが死んでからもう随分経ちましたね。最近やたらと再評価され始めたけど、何かあったんでしょうか。前に買ったGGのビデオを観たら、いつもどおり極小ペニスを露出しながらクソ塗れになって歌う元気なGGがいてなんだか切ない気分。
さて、そんな彼がまだ声変わりする前のラモーンズ風ロックンロールが聴けるのがこのシングル。「デッド・オア・アライヴ」はポップで本当にカッコイイ。この純朴そうな声の持ち主が後に「キル・ザ・チルドレン・セイブ・ザ・フード」とかを地獄のような声で歌うとはまったく予想できないくらい爽やか。
で、後期GGの音源もライヴ音源もシングルコレクションも全部簡単に入手できるので、未聴の人はこの機会にぜひ聴いておくべき傑作です。I'm Gonna Rape You!!!!
銀の林檎は変な音を出すことで有名だった。自分だけの音楽、自分だけの宇宙。そんなものを設置するためだけに、銀の林檎は我を忘れて電子音を発し、歌う。宇宙船が満員になっていることに気付いてなかったのは、彼らが最初から一人としてのスペースしか所有していなかったからだ。だから、誰のせいでもない。
システムを構築することがここまで容易かつ軽はずみな気持ちで可能だということに、賛同するような真似はしたくないし、歴史のような広大な地平から見て彼らを語りたくもない。だから、いつしか銀の林檎は忘れ去られてしまうだろう。そのときに誰かがこの音楽を思い出せば、また空間が幾つもねじれていくのである。
じゃがりこのサラダがやたら美味く、ボリボリと貪っていたら突如このバンドのことを思い出して、食べるスピードが倍速になりました。で、これはヘレシーの初期音源集。元祖ファストコアなわけですが、普通にパンクとか好きな奴が聴いてもOKなカッコイイ音してます。
オリジナルの7インチがバカみたいに高値だったせいか、1500円くらいで売られたこの再発編集盤は即品切れ。ハードコアファンには大人気で、もうほとんど置いてある店はありません。が、まだどこかに売れ残りがあるはずなので、新品で買うなら今がチャンス。でも再プレスするって話もあるようで、あんまり頑張って探して、入手した次の日に再プレス盤が並んでたみたいな悲劇にならないよう注意しましょう。燃えます。
金属ノイズがシャーシャー鳴ってる中、見えてくる風景は川端康成の「雪国」にも似たもの。
「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。」
そんな感覚に手足と脳が麻痺。悪夢と悪夢でコンニチハです。
TNBを動とするなら、オルガナムは静である、と昔から言われてきたことだけれども、改めて聴きなおすと両者ともに感慨深く、意識せず涙が出て来るような傑作であったことに気付く。
オルガナムの編集盤(真っ黒いジャケのやつ)を大音量で聴きながら、その叙情性がいかに優れた性質であったかを思い知って欲しい。そして、現代音楽とか好きな人にもぜひ聴いてみてもらいたい。オルガナムほどセンチメンタルな刺激を与えてくれる音楽もないだろうから。
このボックス出たときはかなり焦って、金が無いのに(二日ぐらいメシ抜き)かなり無理して購入した。にもかかわらず、ちょっと調べてみたら今でも簡単に入手可能っぽくて、なんだか悔しい気分である。あんなに焦って買う必要もなかったなぁ、と虚脱。
しかし、肝心の中身は素晴らしいことこの上無く、まだ買ってないなら全財産使ってでも入手すべき傑作。だってLAFMSの十枚組だぜ!? エアウェイもリック・ポッツもLe Forte Four も入ってるなんて、夢みたいな話じゃないか!
ちなみにスペシャル・エディションで11枚組のバージョンもあるけど、そっちは高いので普通のやつで充分だと思います。
このボックスに詰まった音は、いわゆる形式的なものには当てはまらない。自由に自由に自由に、とにかく出てきてしまった音がめいっぱい収録されている。日本語のアニメかなんかの主題歌をコラージュしていたり、暴力的なノイズが飛び出したり、素朴な単音がアンビエント式に鳴っていたりと、LAFMSの音楽には制約やルールが一切無い。そして、救いまでもが無かったりするのが、この人達が偉大な証拠。とにかく批評できるような品じゃないんで、各自何度も繰り返し聴くべし!
尾崎豊についてはこっちで全部書いてしまったんだけど、音楽的な面で書き忘れたので、追加。
このセカンド、ポップ・ロックだとおもってナメてかかってはいけない。尾崎の持っている歪みきった「青春のイメージ」が聴き手を襲い、情念とはまた別の意味でタガが外れたボーカルが気持ち悪い。かつて湯浅学氏か誰かが「若さのモンスター」と尾崎を位置づけていたが、まさにそのとおりの若さ大爆発盤がこれだ。とにかく聴き手の精神をかき乱すやっかいな騒音である。ラストの「シェリー」のイントロがラ・デュッセルドルフの個人主義に入ってる曲(タイトル失念)に似てると思ったのは僕だけ?
OUTOのベスト盤、絶妙なタイミングで再発されたね! 一時3600円とかプレミアつけてた某大手レコード屋ザマミロ! 僕は発売してすぐ買ったからよかったけど、買い逃した人はぜひ今のうちに。なんせこの「正直者は馬鹿を見る」や初期のAAの音源も入ってるという大変なお得盤だ。
で、一般的に評価が高いのは、ノイジーなパンクから直球のハードコアに変わった「正直者は馬鹿を見る」以降とされているけど、個人的に一番好きなのはハードコア不法集会に入ってた「I LIKE COLA」だったりする。ただただ「ライクライクライク コーラ!」と繰り返す何だかよく分からない勢いに脱帽。これ聴いて暴れまくって、そして嘔吐してください。
ここのところハード・コアばっかだったんで、たまにはポップ・サイケで。
このハレルヤズのアルバムに何度いい気分にさせられたことか。
ぎこちないうた、溶けるようなギター。
サイケってこういう感覚なんですね。もっと評価されてもいいのに、と思っていたらいつの間にか渚にてで柴山氏が復活。それに伴ってこのアルバムも結構売れ、うたものなどという単語で語られるようにまでなったわけです。
肝心なのは高山"Idiot"謙一や頭士奈生樹といった重要人物がゲストとして参加している点。こんな豪華メンバーで、しかも一番デリケートに音が露出する即興に近いスタイルで録音されているのだから、収録曲のクオリティの高さは聴かずともわかるでしょう。
本当に名盤だと思います。これ無しで日本語のうたは語れません。と、断言。
まさかRDPまで出るとは。このデジパックでハードコアの名盤を再発するシリーズは個人的に大好きです。なぜならこんな濃い内容のプレミアつきまくりレコードを1500円なんていうビックリ価格で提供しているから。しかも日本語の解説もかなり濃く、初心者でも安心してこの荒々しいハードコアに接することができます。
この時期のブラジルのハードコアバンドはたしか五バンドくらいしかいなくて、どのバンドも強烈にカッコイイ音を出していたそうです。こういう貴重な音源がなぜここまでカッコイイのかというと、演奏している彼らがマジに怒っているから。そう、最近のブルジョワがやってるファッションパンクなんかでは無く、本物の憤りを叩き付けたヴァイオレンス・ハード・コアなんである。
このRDPの鬼のような高速グラインドコアは、音質は悪く(ジャージャー高音ノイズが混じり、こもった質感なのだが、CD化の際に幾分かクリアになっている)、政治的な本物の怒りを叫び散らすヴォーカルが強烈にハードコア。で、日本のレーベルはこういうのをもっと世の中に紹介していくべきだと思う。くだらないファッションパンクやらなんやらはこのRDPの前ではただの「つまらない音楽」に過ぎない。84年発表の本作が持つ怒りは、現在でも強烈に鳴り響いている。
というわけでハードコア四天王の中で最も恐いのが、このギズムです。ところで四天王ってあとはエクスキュートとガーゼとカムズだっけ? 覚えてません。が、とにかくギズムの新作というか、現時点で最も新しい音源がコレ。
祈ったりとか悟ったりとか、もうそういうのヤメにしようよ。これ聴いてウルトラヴァイオレンスなヴィジョンにとことん洗われたら、もう何も見えない筈。
音楽的にも高水準かつ独自の本気ハードコアなので、聴いてないなんて言わせない。かつてのギズムもいいけど、ここでの完成された形でのギズムを体験していないなら、そいつはハードコアなんかじゃない。本物の凄味を遥かに凌駕した神の領域を垣間見れる一枚。
ちなみに奇怪な老人(多分ホームレス)のぼやきみたいなサンプリングが中盤に入ってるが、そこで話されているカルマに満ちた内容は更にギズムの深淵を浮かび上がらせている。
横山サケビのアグレッシブすぎるおっかないボーカルにランディ内田のメタルリフがザクザクと絡むサウンドは、日本のハードコアを変えた、というより創り出したといってもいい。残念なのは、もうランディ内田のあの強烈なギターを聴けないことである。一ファンとして、心から冥福を祈りたい。
誕生日パーティーでプレゼントにこんなレコード貰ったら絶望です。陰鬱な感じの変態パンクサウンド。ニック・ケイヴはこの後も大活躍だけど、本作一枚さえあれば他のは別にいいと思う。
あまり誕生会というものにこだわりをもったことがないので、このバンド名の元になった劇が何を表現したかったのかさえ今だ知らないし、ニック・ケイヴのファンというわけでもないという中途半端な自分がちょっと嫌です。でも、そういう自己嫌悪な気持ちっていうのは、この時代のこういう音楽に一貫して備わっている感覚なんだと思ってみたり。
午前四時に街をうろついているアブナイひとたちを見ると、ついつい怖くなって電柱の陰に身を隠してしまいますね。そして、そこからじっくりと観察。深夜の人達は何でも溶かしてしまう液体を口内から発射したりして、大変迷惑だったりします。で、それを防ぐために必要なのがこのレコードです。
やたらと金属質なギターにロックなボーカル。一時は灰野敬二がいたらしいけど、その時代の音源は残ってないっぽいです。持ってる人はブートで流せ! と言いたいところですが、このバンド好きな人って何人ぐらいいるんでしょうね。僕はもちろん真剣に好きですけど、もう解散してるわけだし、あんまり過去にすがり付いてばかりいるというのも大人げないね。反省しました。
最近妙に忙しい。別に多忙なサラリーマンのように朝からダッシュですし詰めの電車へ突っ込んでいくような苦労は無いのだが、やることが多いというのは良いことなのか悪いことなのか。
そんな疑問にぶち当たったらこれ。基本的にジェフ・ベックはそんなに好きじゃないし、インテリぶった態度がムカつきもする。ただ、この一枚は色んな意味で考えさせてくれる一枚だ。だからジェフ・ベックは嫌いだけどこのアルバムは評価したい。
ロッドスチュワートのヴォーカルが派手すぎたりしたときに、ギターの音を壊さないような絶妙のタイミングで構成された楽曲は、ギターバンドにとっては模範的すぎる。ここまでタイトにまとめられると、逆に奇怪な感じがしてならない。で、珍しくわりとハードなこともやってるんで、後のジェフベックが嫌いな人でも結構楽しめると思います。
ポール・ウェラーはジャムよりスタカンの方が…。そんなことを言うオシャレなやつには、これを爆音で聴くことをオススメする。決してスタイル・カウンシルとは同じ音楽ではない。スタカンのオシャレな感覚とは別のスタイリッシュさがこの盤の魅力だ。
いきなり飛び出すポール・ウェラーのVOXアンプ直結ギターに後頭部を強打されたような衝撃を受け、立て続けに飛び出してくるモッズサウンドにはもうため息しか出ない。
この渋すぎる直球ロックンロールは、当時の博多ロックシーンで大流行。ロッカーズもルースターズもみんな聴いてたモッズの聖典みたいな一枚だが、個人的にはやっぱりスタカンの方がいいので、もうこのアルバムを聴くこともないかもしれない。でも、たまにはロックンロール! ということで最高です。
言霊が警報のように一定の高さで鳴り響いた時、呼び起こされるのは純朴な心であって、忌まわしい観念は付随してこない。定説とされているものとは明らかに相違する事象に遭遇し、慌てふためくよりも不思議と落ち着いた気持ちになれるというのは、我々が常にゆれつづけるからである。
シーンと静まり返ったライブハウスで、宍戸幸司はゆっくりと歌う。その歌はよく聴くと、物凄く普通の日常的な歌詞なのであるが、うたとして発せられたときに突如として会場がサイケデリックに歪む。
そして、あのギターである。他のサイケバンドのように極端に歪ませたり、リヴァーブをやたらとかけたりといった装飾が、割礼にはまるで無い。飾らないのでは無く、飾れないのだ。割礼の演奏にはまったく無駄が無く、極限までそのままの状態を保持し続ける。
ゆらめくような割礼の、これはメジャーから出したアルバムであるが、個人的には最高傑作としておきたい。ラストの唐突に終わる「ごめんね女の子」を聴くと、日本語サイケの亡骸が浮かび上がってくるのだが、下北沢のライブハウスで見た宍戸幸司の存在感は確実に現在を生きていた。
「下水の臭いを嗅ぐと、宇宙から物凄いスピードで言葉が落ちてくるんです」
田中さんは真剣な顔で語り始めた。
「うーん、なんていうか、啓示みたいなものなんでしょうかね。最近そればっかなんですよ。で、公園の砂場に埋まってるプラスチック製の小さなブルドーザーのおもちゃから「助けてくれ、助けてくれ」ってずーーーーーっと訴えられ続けるんです。だからもう夜中の三時だっていうのに砂場を掘り返して(笑)。で、ついに助け出したんですよ。
えっ? 助けたブルドーザーですか? ここにいますよ」
何も無いテーブルの上に、彼は薄汚いおもちゃをポン、と置いた。
「これが煩くてねぇー、助けた後はおとなしくなったんですが」
ブルドーザーは沈黙していた。しかし、よく見てみると、運転席にGIジョーのような無表情な人形(作業服を着ている)が乗っていて、その人形からは特に魅力みたいなものは一切感じられなかったのであるが、胸の奥につっかかるような妙な感覚がして、しばし見入ってしまった。
と、そのとき、かすかに人の声のようなものが聞こえた。
「タス、、、ケ、テ」
私は驚いてブルドーザーを、そして運転席を更に見つめた。すると、どんどんその声が大きくなっていく。
「助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。」
だんだんと力強くなっていく声に得体の知れない恐怖を感じ、私は後ろへ飛ぶようにして下がった。理解できない状況に混乱しながら、ふと田中さんの方を見ると、
「助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。」
声を出していたのはブルドーザーでも人形でもなく、田中さんだった。
現在、田中宗一郎さんは宇宙で賭け麻雀をやったりして適当に暮らしている。
C86で持っているモノ全てを出しきってしまったと思われがちな彼らですが、このセカンドのポップさはハンパじゃないです。聴いていくうちにそのぎこちない歌がだんだんと耳に馴染んでいき、最初は大して好きでないという人もすぐにBMXの虜。
何をどうやったらこんな奇妙なポップソングが作れるのか謎だが、この時代のグラスゴー周辺のバンドから感じ取れる才能は絶大かつ強力なものである。
無気力に虚脱しても、真剣に向き合ってみても、出て来る音楽は一緒なのだという結論を徹底的に突きつけてくる最後の音楽だ。油断すると食われる。
今日はもうこれ一発です! バッツの最初のシングル。メタルっぽいとかそういうことは言わないで黙って聴いてほしい。このブチキレギターとテンション高いボーカル(気色悪い)を聴いて何も感じなかったらハードコア・インポ! もう二度とこういうのは聴かなくて平気!
バタリオン・オブ・セインツはサンディエゴのバキバキなHCなわけですが、質感としては80年代中頃のジャパコアに近いかもしれません。カバー曲も妙にキマッていて凄いし、ライヴ音源も最高に盛り上がります。最近になって、入手困難だったミスティック(音質は最低)から出てた音源も再発し、ますますバッツに接しやすい世の中になってきました。
今の都会の中学生は、レコード屋に行っても間違えてグレイとか買うような小心者ばかりなので、そういう根性なしこそ、お年玉を全て使い果たしてでも買うべき一枚だと思う。そして死ぬほど後悔して大人になってほしい。
クリーデンス・クリアウォーター・リヴァイバル最高! こんなレコード他に無いですね。
泥臭さがある一定の基準からはみ出してしまうと極めて化学的な物質に変化するという一例。サイケと言われればそうだけど、ロック中のロック。
それにしてもここまで霊的にロックなアルバムは他にジミヘンの「エレクトリックレディランド」くらいしかないだろう。稀に見る奇異な精神世界である。
後期のアルバムも捨てがたいし、「マルディグラ」の奇怪な音も好きだが、やはりCCRと言ったら初期の三枚。特にこれは短くて聴きやすいのに、聴いた後のどんよりした曇り空のような感覚が体験できる不思議なレコードだ。
ただの「アメリカのロック」から、そろそろCCRを解放してあげたいものである。彼らの音楽は他のどんなものよりも純粋に曇っていた。
最初に「ドゥーキー」とか聴いて「だっせぇ」と思った。それでしばらくはグリーンデイなんて聴いて無かったんだけど、このアルバムが出たとき「マイノリティ」がラジオで流れてて、それなりに良かったため、このアルバムを聴いた。
かつてのメロコアスタイルではなく、ポップなロック。しかもかなり真剣、というところに魅力がある。はっきり言って「ドゥーキー」みたいな何も考えてないような馬鹿丸出しサウンドを持続していたら、彼らはただの一発屋以外の何でもなかっただろう。しかし本作を聴いて、グリーンデイがマトモにロックしている姿を見せつけられたら、もう否定できない。僕にとってはどうでもいいバンドだったけど、このアルバムからの彼らはストレートにカッコよく、かなり見直した。誤解を恐れずに言えば名盤である。
剥き出しの青春、やりたいことが一つしかない喜びといったものに接すると、何とも言えない悲しい気持ちになる。本作は僕にとって「泣けるアルバム」なのかもしれない。他人の前向きな姿勢を見ると、深く落ち込むという人にこそ聴いてほしい一枚である。
この人の音楽ってこの1枚目しか知らないんだけど、この後もいろいろ出してるんですね。いわゆる音響系ポップスなのかな? わりと聴いたんですけど、僕のようなお洒落センスゼロの人間には深く理解することができず、そのまま実家のCD棚の奥底へ埋もれてしまいました。
で、さっきヤフーオークションとか何気に見てたらこのアルバムが異常に高い値段で売ってるではありませんか! 写真はその出品のやつからパクリました。このCDにそんな価値があったなんて!
当時音響系のレコードショップとかノイズコーナーとかになぜか置かれていた本盤。あまりの場違いさというか、奇妙な違和感が面白くてなんとなく買ってみたのだが、内容はアヴァンポップ(適当です)でクオリティは高かったと思う。何よりツジコノリコという正体不明のシンガーが非常に強い存在感を持って歌っていることに驚いた。自主製作な香りがプンプンする本作だが、音はメジャー風。音質もアレンジもグッドでした。
ツェッペリンの曲名のパロディであるタイトルだけで相当な馬鹿だが、後にジョン・ポール・ジョーンズをプロデューサーに迎えて作品を発表するとは、恐るべき馬鹿である。
耳に鉛筆ブッ刺してるジャケのやつ(タイトルはジミヘンのパロディ)ぐらいから急激にカッコいいロックバンドになってしまったけど、初期の彼らは本物のハードコア・パンクだったし、この作品あたりから急に音楽的な雰囲気も出し始めた。そんな幅の広いバンドなのである。
ライヴでもかなり間抜けなことをやってたようで、全裸になって股間に性器のイラストを描いた紙を貼って暴れまわるなど、馬鹿丸出しのパフォーマンスが有名だ。
なんとなく、こういうバンドは嫌いになれない。ひねくれてるんだけど、根は素直な感じというか、不良少年の優しさみたいな感覚に、僕は弱かったりする。
デカくて黒い! その名前だけで随分と凶悪な香りのするこの人達。リーダーはスティーヴ・アルビニで、ギターはやっぱりジャージャー鳴ってる。
リズムだけ何故かドラムマシンという変則ユニットの彼らは、後のバンドに与えた影響の大きさを考えたらやはり偉大。アルビニはこの後「レイプマン」というバンドを結成するも、女性団体からの抗議であっけなく解散。
レイプマン時代にアルビニは、名曲「Kim Gordon's Panties」を、こともあろうかソニック・ユースの対バンで演奏してしまい、サーストン・ムーアに半殺しにされたというほのぼのエピソードもあり。現在では他バンドのプロデュースとかミックスとかやってるみたいだけど、レコーディングに立ち会って勝手にミキサーいじったりして周囲を困らせているという。変人は迷惑ですね。
マジにかっこいいベース! テキサスの高速ハードコア、オフェンダーズです。ここまでカッコいいと筋トレとかしなくちゃ、って気になります。
名曲「I Hate Myself」は最狂。なんでこんなに生き急ぐのかと、心配になるぐらい高速でうねるベースラインに惚れた若者も多いハズ。
今日はなんだかパンクな気分なんでこういったアルバムばっかだけど、普段はこういうの聞いてないので誤解しないでください。いつもは山口百恵みたいな普通の歌謡曲しか聴いてないんです! 本当です、信じてください!
冷静になって考えると、ミスフィッツは特異なバンドであることが分かる。当時のニューヨークになぜこういったバンドが出てきたのか大変興味深いが、彼らの曲を聴けばそんなことはどうでもよくなる。
本作はミスフィッツのシングルとかの音源を集めた究極の一枚。もともとブートだったけどプラン9が公式にリリースしてたと思う。
問答無用のハードコアナンバー「Mommy Can I Go Out And Kill Tonight?」を始め、ミスフィッツというバンドはただの色物バンドじゃなく、ハードコアバンドとして優れた逸材だったことを再認識できるだろう。グレン・ダンジグ以外のメンバーで再結成されたが、そんなのはミスフィッツじゃないし、本来の魅力を体験するならこういった過去の音源だけで充分なのである。
大昔に母親が大阪旅行へ行った時に、土産で買ってきたのが何故かミスフィッツのTシャツで、あれからもう10年経つがいまだによく着ている。
フレッシュイーターズのセカンド。やっぱこの時代のLAパンクは凄いね。こんなゴミみたいなバンドがたくさんいたんだから。このバンドもご多分に洩れず、ヘッタクソなパンク(というより味気ないロック)を一生懸命やっていて面白いです。物凄くダメなアルバムなんですが、何回も聴いてると「それなりにいいかも」などという間違った考えに至ったりもするので、深入りしない方が身のためです。
ちなみに1stの方はこれより幾分かはマシなので、初めて買うなら一枚目からがおすすめです。どうせこんなの聴く奴いないだろうけどね。Flesh Eatersで検索すればバンドの素性が分かりますが、日本語のサイトは無いので英語ダメな人にとっては謎のバンドということになります。まぁ、そっちのほうがおもしろいんだけどね。
頽廃的過ぎるニューヨークの空気が哀しい名作。主題歌も泣けるし、見終わった後の憂鬱な気分は一度味わったら忘れられない。
ラストのバスのシーンでマジに泣きそうになった、という人も多いと思いますが、そんな中そ知らぬ顔で化粧し続けるババアのカットがチラッと挿入されるところがまたニクイ。一体何を考えてこのシーンを撮ったのだろうか? 何度となく観ている(けっこう深夜に放送されたりしてた)のだが、未だに何を描いたシーンなのか分からない。
ひたすら不幸で憂鬱なニューヨークの荒んだ生活との対比のつもりで、あのババアのカットがあったとするなら、監督は天才的なセンスの持ち主だ。この映画は感動とかそういう種類のものじゃなく、落ち込む灰色の気分を誘発する。
高校時代、よくこの映画を観た。安定しない日常を送っている者にとっては、この映画は重い。当時将来の自分に意図的に不安になって自虐的な快感を得るために、僕はこのビデオを何度も観たのである。
だから自殺しそうな奴とかは絶対観ない方がいいだろう。こんなのを観た後に自殺の名所に行ったりするのもヤバイ。鑑賞後はおとなしく寝るか、楽しいことを考えたりして憂鬱な気分を晴らさなければ、救われないままという、爆弾みたいな映画である。
インディアンはウソつかない。つまり虚実を許さないのである。それは正義とは少し違い、ただの変人の暴君扱いされても仕方が無い。だからこそこのシングルの凄味は増してくるのである。
歌詞がヤケクソでカッコよく(サソリ砂漠サボテン頭聳え立つぜモヒカン!)、特に「たたかえーじぇろにもっもっもぉぉぉ」のところが好き。他の曲がメタルっぽいガスタンクであるが、このシングルではもはやへヴィなヤケクソロック以外の何でもなくなっている。これ一枚あったらもうガスタンクは大丈夫。燃えます。
ちなみにB面もふっきれたようなポップパンクで「?」な感じです。
とにかくハードなロック。リフとかゴリゴリ過ぎ。で、グランジなわけですけど、後の名曲「ブラックホール・サン」とかもナイスですが、個人的に一番すきなのはやっぱりこれ。敢えて雨の日に傘差さないような庶民的な反骨精神を感じさせるサウンドですね。これを聴けば一週間くらい呪われますが、すぐに立ち直れます。そしたら庭に花の種とか蒔いて、気長に花が咲くのを待ちましょう。花が開けばウルトラメガOK! 枯れたとしてもウルトラメガOK! 意味不明です。
チョコレート・ウォッチ・バンドという変な名前だけで、このレコードを買う価値はあります。A面はスタジオミュージシャンとか別のバンドとかで、ほとんどオリジナルのウォッチバンドは聴けないんですが、B面は必聴。なんせTHE BROGUESの名曲「I Ain't No Miracle Worker」をカヴァーしてる! しかもオリジナルの方よりカッコいいのだからたまりません。ウォッチバンドはサンデイズドから全部再発されてたと思うので、簡単に手に入れることが可能だし、たまにはこういうのを聴くっていうのも新しい発見があっていいんじゃないかな。
ローザのセカンドです。今更だけど、どんとはわりと好きだったんですよ。しかもボガンボスよりローザの方をよく聴いてたんで、今日はこっちで。
とにかくメンバー全員の技術が高く、玉城の分厚いギターに、ベースはうねりまくり、ドラムはテクニカルに叩きまくる中、どんとの特異なボーカルが乗ったらもう無敵。メンバー全員がここまで実力を備えていたバンドも珍しい。
このセカンドでは名曲「橋の下」をはじめ、「さいあいあい」や「フォークの神様」といったローザ特有の不思議な曲を聴くことができる。ラストの「眠る君の足もとで」では民族楽器まで導入して独自の世界観を築き上げており、このバンドの凄さが良く分かる。
どんとが死んだとき、彼の過去の音源が再発されたりしたが、ローザのアルバムが再び入手できるようになったことが有り難い。日常の裏側を散歩するならば、どんとの歌は最高のBGMであろう。
ジョン・フォックスのソロ。ウルトラ・ヴォックスがただのパンクだったのに対し、ソロになってからの彼(というかこのアルバム)はやたらとカッコいいニューウェイヴ・サウンドで、テクノ方面の人にはウルトラ・ヴォックスよりもオススメ。
電気の力を借りたシャーマンがこういった音を出すのだとすれば、バンド形態よりも一人で機材をいじくった方が、霊的に密度は高くなるわけで、本盤のダイレクトな電子音に心打たれて道を間違った人もけっこういたんではないだろうか。傑作です。
最近の音楽は聴いてません! と言い続けて何年もの月日が流れた。もうそろそろ新譜とか買ってもいいんでは? と思いたち、発売後すぐにこのやたら長い名前のバンドのアルバムを買った。
で、このバンドはサンフランシスコ産のロックということで、聴く前はグレイトフルデッドみたいなやつだと思ってたんですが、聴いてみればクリエイションレーベル風味。つまりイギリスの轟音サイケっぽい音作りで感動したわけです。アメリカではこういうのウケなさそうなんで、日本で人気出そうですね。あんまり好みの音では無いけど、カッコいいんじゃないかな(適当)。
怖いガレージである。みんな真っ黒で危険なヤツラ。そんなミュージックマシーンの大傑作アルバムがこれ。意外とポップなんで、入門編としてもいけるかもしれないが、油断は禁物。タバコを吸いすぎて喉が痛くなるような疲労と、友達の誕生日会で主役を食うような暴挙が混合されたピュアな世界がずぶずぶ突き刺さってきて、すぐにでも全身黒ずくめに着替えたくなったらもうアウト。時代の空気は60年代、完璧にぶっ飛べます。ちょっぴりサイケ風味もアリ。
はっきり言って、世間ではクソみたいな評価しかされてないけど、個人的に大好きな映画。すごくこだわって撮ったんだろうなぁ、と思えるようなシーンが結構あって、地味でくだらない映画なんだけど妙に記憶に残っている。昔テレビでやったときに録画しておいたんだけど、今はテープを紛失してしまって見ることができず無念。
たしか釣り人が溶けた人に襲われて、そいつの生首が川を下るというカッコいいシーンが意外と話題になっていたけれど、個人的にはラストの溶けきった溶解人間を掃除人が片付けるシーンが印象深い。さっきまで映画の中では主人公だったモノが、突如ゴミとして扱われるというショッキングな世界を描いているといった点で、この映画は名作なのである。
有名なダッチワイフジャケのこのアルバム、パンクなら避けて通れない一枚である。ボーカルだったメンバーを敢えて外して録音されたアヴァンギャルドな本作は、あまり知られていないがかなりカッコイイ。クラスの思想は過激なだけでまったく影響されなかったが、音楽性にはけっこうやられた。ノイジーなパンクというだけで片付けてしまうのはもったいないし、かといって褒めちぎるようなバンドでもない。
このアルバム以外も、クラスは全て素晴らしい。批評しにくいバンドであるが、「かっこいいパンク」意外の言葉で彼らを説明するというのもしっくりこないので、敢えて言います、最高のパンクバンドです。
いわゆる山崎ハコの怖くて暗いイメージはこのアルバムのせい。B面一曲目の「呪い」はとにかく良い曲だと思うし、怖いというよりはキレイに透き通った感じでサイケデリック。そして1st収録の「気分を変えて」もそうだけど、ハコの唄い方ってリズムが奇妙なんですよね。またそれが巧いというか、日本語の歌い方を良くわかってますよね。傑作です。
それにしても「ちびまる子ちゃん」で「呪い」が流れた時は背筋が凍りついた。あれはテレビ漫画史上に残る奇蹟だと思う。
ハードコア!! とにかく素晴らしいです。以上!!!!
バスタードって検索するとなぜかアニメのバスタードっていうのが先に出てきて凄く不快な気分になるんですよね(ちなみにスレイヤーで検索するとスレイヤーズとかいうアニメが出て来る)。そんなにアニメって良いものなんでしょうか? もう僕はアニメなんて呼ばずに「テレビ漫画」って呼ぶことにたったいま決めた。
テレビ漫画が好きだなんて公の場で言える奴は連続殺人とか起こすに決まってるのだから、もっと日本の警察は取り締まるべきだと思う。そうしなければ、キャラクターのフィギュアとかに埋もれた部屋に住む住人によって、何の罪も無い善良な人々が毎日どこかで嬲られ、犯され、殺され続けることだろう。そうならないためにも、テレビ漫画を厳しく取り締まり、住みやすい世の中を保持していくことこそが、我々現代人に課せられた命題であると思う。
ジャージャー鳴りまくるギターが元祖ノイズコアとされている由縁。まるで全力で鼻をかんでいるような下卑た音だ。こういう音の悪い暴力的な音楽は個人的に大好きなので、ヒマな時はいつも聴いている。
カオスUKの凄さは、ああいう曲しかやらない(というか出来ない)ところで、決して音楽的に優れているからではない。ギターでシャーシャーやるぐらいなら誰でもできるし、何が楽しいのかもよく分からない。彼らの目的は音楽から全く見えてこないのである。そこが、彼らのいいところだし、こういう音楽を聴くということはそれなりの覚悟も必要だということ。つまりはカオス。深い混沌です。
たまほどナチュラルに歪んだバンドもないだろう。このナゴムから出したメジャーデビュー寸前作も、曲目はメジャー盤1stとかぶるものの、内容的にはより畸形的。
まぁ、メジャー盤だけでいいって言うならいいけど、滝本晃司作曲の超サイケな名曲「夏の前日」を聴くためだけにこれを買うというのもいいですね。今はもう廃盤らしいですけど、根気良く探せばまだあるっぽいんで、ぜひ一度試してみては? ちなみに後の「いなくていい人」とかもかなりヤバイ名盤なので、たまは全アルバム押さえておきたいところですね。
このバンドの魅力は石川浩司(ランニングの人)にあると思う。彼の曲のセンスはかなり屈折してるし、歌詞もナチュラルに狂ってる。「学校にまにあわない 」のような奇怪な歌は、たま解散の今となっては孤高の存在である。
ストーナー! これが多分一番ヤバイ。後のアースはちょっとしょぼくなっちゃったけど、このときは重くて遅くて最高です。個人的にサブポップの中で一番好きかもしれません。
最近はめっきり噂を聞かなくなりましたが、一時期死んだとかクスリのやり過ぎで再起不能とかいう噂が広まってて、結局作品もリリースしないから余計亡霊みたいな存在になり、再発もしないので若い人たちは「知らねぇよ」とか言われてしまうのです。ニルヴァーナのボックスも出たことだし、アースのボックスとかも出して欲しい、なんて思ってるのは僕だけでしょうか?
アーント・サリーのライブ音源とかの未発表曲集。フューは坂本教授のプロデュースした歌謡曲みたいなやつのイメージが強くて、こういうパンクなのは凄いけど、ソロ作はあんまし聴いてないです。アーント・サリーはあのコジマ録音のオリジナル盤が結局入手できずに何年も経ってからこれと、ファーストが立て続けに(結構間あったけど)再発されたので、半分忘れかけてた頃にヘソクリを発見、みたいな喜びが相乗効果となって、より素晴らしい音楽に聴こえた。
ファーストの方は意外と重苦しいサウンドで、例の「天才なんて誰でもなれる 鉄道自殺すればいいだけ」という歌詞もキマッている。守安祥太郎のことか、それとも萩尾望都の「トーマの心臓」のようなことなのか、高野悦子『二十歳の原点』という線も考えられる。ともかくその冷めた視線がやたらと鋭く磁場を揺さぶっていく凶悪な音楽に、触れないでおくというのはもったいなさ過ぎるので、僕は再発直後に買ったわけだが、最近めっきり聞いてないのでなんか寂しい。おそらく実家のどこかにあると思うので、今度帰ったときにでも探してみようと思う。
リチャード・リンクレイターがデジタル機材(編集はファイナルカット使用)を駆使して撮った死ぬほど地味な映画。モーテルの一室で男女三人が話しているだけの映画なので、そういうの好きな人にはオススメですね。人間の心理的な葛藤がどうとか言われても、脚本自体は大したことないので、あまりこういうのを褒めたくない。ただ、スクール・オブ・ロックにはちょっと期待してる(未だに観てない)僕としては、リンクレイターがこういうのも撮ったっていうことは一応評価しておきたいと思う。でも、みんなが見たいのはもっと金がかかってて派手な映画なので、もうこういうのは撮らないでほしいというのが本音。
ドル袋のイラストを見ると、昔やけくそになって全財産をコンビニのレジ横にある募金箱へ突っ込んだことを思い出してうんざりする。なんであんなバカげたことをやってしまったのだろうと、このアルバムを聴くたびに思い出す。
ギターポップ世代はみんな持ってるけど、最近の若い子たちにはモー娘。とかの音の方がよほどアグレッシブで甘酸っぱく聴こえるのか、低年齢層には(それ以外の世代にも)まるでウケない「ばんどわごねす君」などというキチガイ沙汰の独り言をぶつぶつとつぶやきたくなる最高のアルバム。
いやぁ、ダイムバック・ダレル死んじゃったね! ステージで射殺されるなんて、パンテラらしいと思った人はあと百回ぐらい本盤を聴いて「悩殺」されてください。ダイムバックは心優しい男で、俺はスライドなんてケチな技は使わねぇ、とか言っておきながらちょこちょこスライドさせたりして、結構適当で大らかな奴だったと思う(会ったことないけど)。そんなダイムバックを死んでカリスマみたいに言う奴はすぐに電機ドリルで頭ぶち抜いて死ね。なんだかんだ言って、パンテラってダサかっこよかったじゃん。
ちなみにダイムバックを撃った男は駆けつけた警官によってすぐさま射殺されてしまった。犯行の動機なんてどうだっていいけど、ダイムバックの新作が聴けないのは少し寂しいですね。ダメージ・プランも意外に好きだったりして。若いやつらはみんなパンテラ聴いて暴れればいいのです。そうすればこんな悲惨な事件は起こらないはず。
昔なんか「ザ・カー」っていう車が暴れるだけの映画があったんだけど、このカーズもそんな勢いを備えたスタイリッシュなバンドである。ポップでカッコイイそのサウンドは、「ザ・カー」というより、ジョン・カーペンターが撮った「クリスティーン」の方に近い世界観かも知れない。
ただ、今更こういうの聴いても仕方がないことぐらい、僕はよく知ってるんで、見つけても絶対買わなくていいと思います。
でも、かなり好きな一枚。
元ホークウィンドのレミーが始めたバンド。とにかく速くてうるさい曲をやったせいで、メタルファンからもパンクファンからも無視。現在では一部の変人にだけ支持されているだけというそんな彼らのこれは代表作。一番聴きやすくて親しみやすいロックンロール・アルバムである。
こういうの聴いて、ライダース着てハーレーなんか乗り回した日には、もう立派な不良です。ホーク・ウィンド時代にキメてばかりいたレミーさんも、ここではマリファナだけになったのか、スペーシーな感覚は皆無です。ワイルド過ぎるヴァイオレンス・ロック!
ランベルト・バーバ監督作品。ろくでもない五人の若者が万引きしたり、パトカーとカー・チェイス(そんな大それたものではない)したりする序盤の雰囲気は最高に盛り上がるが、後半どんどん間抜けな展開になっていくので残念。ラストも主人公風の若者が剣みたいなものでサクッと死神を殺しておしまい(この辺の記憶が曖昧)。で、結局最初に万引きした店の店員の通報で駆けつけた警察に補導され、せっかく苦労して入手した財宝も没収される5人の表情が妙に間抜けだった気がする。
サンゲリア2に出てたベアトリス・リング目当てで借りるならいいが、それ以外の期待をするとがっかりすると思う。ランベルト・バーバはこれだけ豪華なセット(酒場とか)と俳優を使っていながら、ここまでクオリティの低い映画を撮れる天才だと思った。もっとマシな演出できなかったんだろうか?
二、三年ほど前に突如としてこういったユーロ・トラッシュ系映画が大量にDVD化され、今まで一部の人間しか観たことのなかったジャン・ローランの作品などが気軽に入手できるようになったことがまずめでたい。
本作は実際ただのソフトコアポルノとしか思えないような作りだが、ジャン・ローランのちょっとしたこだわりみたいなものが見え隠れしていて興味深い。
内容は、海賊みたいなおっさん連中に2人の少女が海岸でレイプ後に殺害され、その後その少女たちの亡霊が復讐を始めるというもので、これといって盛り上がるパートも無く、だらだらと退屈なことには違いない。映像に拘っていなければ本当の意味でゴミみたいなものであるが、ジャン・ローランの見せ方はかなり巧い。観ようによってはオシャレなミニシアター系ムービーのコーナーに置いてあっても大丈夫そうだ。ただ、こんなの観てるヒマがあったら野球でもしてた方が健康的かもしれないけどね。
人生の中でもかなりヤバイ腹痛に見舞われ、今日は朝から死んでました。何か悪いものでも食べたのかもしれませんね。食中毒ほど怖いものはありません。
さて、話は変わりますが、スマパンです。正直かなりダサいバンドですが、この12インチは結構好きでした。これとセカンドアルバムを持っていればあとは聴かなくてもいいと思います。
このバンドにいたビリー・睾丸さんは、大統領選の投票を拒否して自分の政治性を訴えたりするポリティカルな人ですが、ニューオーダーの大ファンで、フジロックでニューオーダーのサポートやったときはメンバーよりもはっちゃけてギター弾いたりするというお茶目な一面も見せました。最近初のソロアルバムを作ってるらしいのですが、まだ発売されてないみたいです。何か間違えて買いそうなので、気を引き締めていきたいものですね。
今日は某コスチュームショップで一日店長をやった。店のラジカセが死んでて、シーンと静まり返っている中マネキン相手におしゃべりなんぞをしていると、自分のマヌケ具合が手に取るように分かり、大変な苦痛だったりするのだが、たまの来客にハッ、と我に帰ったり。
さてさて、みんなはモグワイとか聴いた? 僕はお洒落っぽい感じがしたからスルーしかけたんだけど、やっぱり形だけはって思って聴きましたよ。このアルバム聴きながらガンガン万引きとかする不良たちが都会には多いようで、僕はそうならなくって良かったなぁ、と痛感したものです。
まだ店にいるのですが、パソコンくらいしか無いので、こうしてブログ書いたりしながら閉店待ち。こんなときモグワイでも聴けたらなあ、と間の抜けた顔で佇んでみたり。
白クズどもの暴動! みんな頭髪が無くて血の気が多い。そんな当時のハードコア・シーンの大ボスがこいつら。とにかくライブ音源が過度にエモーショナルなんで、運動会の前夜には鉢巻締めて聴くべし。
暴力的だなんだと言っても、こういうの聴いて全然人とか殺したくならないのは正常であって、ホントにヤバイのはアニメのサントラとかウタダとか聴いてるヤツラに決まってる。だからハードコアファンを迫害するのはもう止めようじゃないか! ぶっちぎりのバイオレンス・パンクである本作を聴いてるようなヤツは、きっと根は優しくて休日はボランティア活動とかしてる澄んだ心の持ち主さ。花壇にお気に入りの花なんか植えちゃってさ。
ひたすら使いにくい、でも素晴らしい一台。
誤魔化すことのできないもどかしさ。
うまくいかない歯痒さ。
すべてが露呈してしまう恥ずかしさ。
そんなものが詰まった機材である。
DJプレミアが使いこなしているが、今わざわざこれ中古屋で探してこれを使うことは無意味であろう。
この使いにくさを知っている者だけが、このマシンを使えば良いのである。
グールの再発。盤起こしにしてこのクオリティはすごい。レーベルの熱意はとてもよくわかる一品である。マサミが亡くなってからもうずいぶんと経つが、グールの音源をこうして聴きなおせることが嬉しい限りだ。
あまり評判は良くないけど、僕は好きな一枚。
日本のハードコアを聴き直すにはちょうどいい機会になると思います。
ラース監督のヤバさは「ダンサー・イン・ザ・ダーク」で思い知った筈だったのに、またしてもやられた。これ、相当投げやりで狂ってる。
ストーリーは二コール・キッドマンがギャングに追われて「ドッグヴィル」という小さな村に迷い込み、村人たちとの交流を描くわけだが、最初は村に馴染んでいく二コール・キッドマンの様子や村人が彼女を受け入れるか、と悩んだりというありがちな退屈すぎる展開。でも結局二コール・キッドマンが色々と迫害され、鎖に繋がれて毎日村人に犯されたりした段階で、この映画がまともに終わる筈ねぇな、と観客は不安になるわけである。そして、そんな中迎えたラストシーンの最悪なこと! もうこれは観るしかないですね。あんまり書いてもネタバレになるし、僕のような頭の悪い人間には解説できる代物じゃないんで。
ただ、はっきりと言えるのは、今回も万人向けの作品ではないし、かなり狂ってるからなんとなく鑑賞するのだけは避けた方がいいということだけだろう。監督の考えたおとしまえのつけ方がこのような方法であったことだけが、映画的に唯一の救いであるのかもしれない。
DVDのパッケージやCMだけ見ると物凄く地味で退屈な物語に見えるかもしれないが、絶対損はしないと思うのでレンタルしても大丈夫。だけど、一人でこっそり見ないと笑いものにされるかも。
明けましておめでとうこざいます。去年は何一ついいことが無かったので、今年こそは幸せになりたいものですね。
さて、結局正月はだらだら腐った生活を送ってしまい、主にこれ聴いてました。サムライのベスト的内容。と、ただそれだけで何やらただ事じゃないのは分かりますね。何せあのサムライです。僕は昔リューシンのサックスをライブで聴いて相当にビビッたのですが、本盤はまだ彼がベース・ボーカルのパンクをやってたころのサムライというバンドのほぼ全曲集なのです。
久々に聴いてあまりに剥き出しなロックンロールに赤面しつつも、やっぱりこういう真剣な音楽っていいなぁ、などとごろごろ寝転がりながら新年を迎えることができ、再発してくれたいぬん堂さんには一応感謝したいところです。
ある種の高揚感と物語的な進行がうまく比例していた場合、情緒の欠落した表現であってもそれは偉大なる芸術として成立する。人間性や立場は関係ない。フェティシズム的な視点から脱却し、全体から感銘を受けることができる対象を音楽という形態に求めるのならば、このアルバムは避けて通れない門である。
スラッグが詩人だろうとそうでなかろうと、アトモスフィアの開放的な側面というのは変わらずに開示されている。ここには、素晴らしい「雰囲気」が詰まっているし、それを否定することなどできる筈もない。本物のヒップホップを白人がやったって違和感は無い。ライヴでニルヴァーナの曲をカヴァーしてみせたって、スラッグという男の価値観は揺るがないのである。アトモスフィアは束縛されず、いつまでもストレートに保持している感情全てをむき出しにしてマイクに叩きつける。
現在ではなぜかエピタフに移籍するなど奇妙な動きを見せていたが、何をやっていてもスラッグという存在は変わらずそこにある。次は何をしてくれるのか、そんな期待を抱かせてくれるのも、アトモスフィアの良いところで、今年の年越しはこれでも聴きながら過ごそうと思う。
モー娘。のメンバーらがかますガレージソングのVol.4。それにしてもダイナマイツのカバーって…。
とにかく変にガレージを知ってたり知らなかったりして、歌ってるひとたちは全然ガレージじゃないため、純粋なガレージファンは聴かないでしょうね。
若いひとたちがやってるんで、自然とパンクなスピリッツが表面化して、こういう風な暴力的音楽が出来上がったんでしょう。音質だけはナジェッツやバック・フロム・ザ・グレイヴに収録されているバンドより遥かに良いので、イメージだけガレージに浸りたいアイドルファンには良いですね。
今更観た呪怨です。映像のクオリティが高く、ストーリー性があまり無いところがハード・コアだなぁとひたすら感心した。
恐怖の演出というのは、ダイレクトに「びっくり箱」のような形で登場する怪異よりも、この映画のようにチラチラさりげなく画面に映るような手法の方が斬新かつ効果的だ。続編はまだ観てないが、おそらく技術的にも向上し、さらに『怪異の見せ方』が鋭く磨かれているのだろう。この監督の力量には正直恐れいった。サム・ライミもそりゃ絶賛するでしょうね。
映像で人を怖がらせるということにおいて、清水崇監督は天才である。ただ、全身白塗りの子供はアングラ劇団みたいで怖いというより変。なのであのキャラは個人的にはマイナスでした。
よく考えたらクリスマスがいつの間にか過ぎ去っていて愕然。今年も普通に仕事して帰って寝た。
中学生のころ、クリスマスは一人湿った部屋でこのアルバムを聴いて、Suspect Deviceをフルボリュウムで流しながら興奮していた。彼女のいない、ビデオばかり観ている陰気な少年だった僕には、Stiff Little Fingers のようなストレートなパンクロックがやけに刺激的に思えた。
もうしばらくこのアルバムを聴いてない。かつての興奮を思い出して、再び聴こうという気にもなれない。あの頃のモテなくさえない少年だった自分を思い出すのが嫌なわけじゃなく、単純にこういうのを聴くというのが億劫になっているだけだ。もし軽い気持ちで聴いてしまって、過去の興奮を台無しにするのが怖いのかもしれないが、まだ未聴ならば是非聴いておきたいレコードである。それもなるべく若い時期に。
本日のストーナー。カイアスはかなりカッコイイんで、この手の遅くて重い音楽の初心者でもけっこう楽しめる作りになってると思う。やる気なくごろごろ寝て過ごす日には最高のBGMですね。
若人あきらと郷ひろみが交互に出てきてストリップしてるような狂った世界が延々と続き、間違ってリピート設定にしていた日には間違いなく墜落。そして涅槃。そんなカイアスはこのアルバムがやっぱり一番イイですね。 それと、別にこういう音楽ばっかり聴いているわけじゃないんで、誤解しないでください。最近ドゥームメタルとか好きなんですか? という質問が多く辟易したりしなかったり。マスト。
ドゥームロックとかストーナーズ・ロックって流行ったよね。やたら重くて遅くて暗いやつ。こういうの聴いて何が楽しいんだろう。どういうやつが聴くんだろうね、こういうの。ちなみに僕は聴きましたけど。しかも結構好きです。
誰もいない沼でゆっくり沈んでいく感覚プラス、競馬で全財産スッた後のような喪失感がどろどろと押し寄せてくる奇怪なロック。ブラックサバス辺りのバンドがルーツなんだろうけど、最近の若いバンド連中は節度を知らないのでこういうドロドロの遅くて重い極地まで行ってしまったのです。
嫌なことがあったときとかは逆にこういうの聴くといいかも知れない、そんな名盤。
何故だか思い出せないけれど、以前知人が突然宮沢りえの「サンタフェ」をくれた。引越しのどさくさに紛れてそれは紛失してしまったのだけれど、その写真集をなんとなく見ながら、このAMBOY DUKESの1stをよく聴いた。
テッド・ニュージェントのギターが聴きたいのなら、ソロや他のアルバムでもいいが、AMBOY DUKESというガチガチの基本サイケをまず押さえるならここから。とはいえ、サイケというよりもブルース風ハードロックと言った方がイメージし易いかもしれない。
ハードロックのファンって意外と少なく、そのダサさというか、田舎臭さに耐え切れる人間が年々減ってきているような気がする。子供の頃はみんなツェッペリンだとかディープ・パープルだとか言ってるのに、中学へ入った頃から急にメタルだのパンクだのと言ってカッコつけるというのが現代の児童心理。そのまま大人になって、こういうのを聴き直すのもいいが、できれば多感な学生時代に聴いておきたいアルバムである。ちなみにオリジナル盤はバカ高。
落ち着きたいと思ってもなぜか立て続けに用事が重なってしまい、休む暇がどんどん削られていく。それでも休日はのんびりとどこかへ行きたいという現代人にオススメ。
これ、ハワイの女性シンガーのアルバムなんですが、やたらと完成度高いです。質感としてはサイケというよりカントリー。だけど透き通った声とサウンドの裏側にあるものは、万華鏡のように変化し続ける天然サイケデリック模様。いままであんまり評価されてなかったのはただ単に認知度が低かったからか。ちなみに現在ではCDで簡単に入手可能。やすらぎと酩酊をミックスせず、敢えて別々に提示しているような斬新さにため息。
とんでもない映画である。まず、劇場公開時のタイトルが「ファットマン」で、DVD化の際に「セオリー・オブ・マーダー」という意味不明の邦題が勝手に付けられたのだが、原題は「Theory of the Leisure Class,The(有閑階級の理論)」だ。この原題を知らずに、これをサスペンス映画と勘違いして見てしまうと大変ムカつくというか、うんざりすると思う。これはそういう映画なのである。
最初に言っておくと、ストーリーというか、脚本がダサい。こういうのを真正面から捉えてしまうと痛い思いをするが、撮影センスは良いので「そういう映画なんだなぁ」と思って観れば耐えられるだろう。
これはアメリカの田舎町の社会がどれだけ奇怪に歪んでいるかを提出してみせた映画であって、D.リンチみたいな世界を狙って撮ったわけではないと思う。たしかに演出が「ツインピークス」っぽくもあるが、ここで描かれている殺人は物語の主題にはなっていないのである。
登場人物が全員歪んでいるし、彼らの住む世界もまた奇怪に変形している。そんな場所でそんな人間たちが行う歪んだ行動をエンターテイメントとして見せたこの映画は、実はかなりの傑作なのかもしれない。ジョン・ウォーターズやHGルイスの映画と、やろうとしていたことは同じなのではないだろうか? 最悪なものをそのまま最悪だと割り切って主題にしてしまうというのは、なかなかできることではないし、できたとしてもそんな映画は誰からも相手にされない。
本作の魅力は、だらだらと進行する狂った世界の日常であると思う。こういう悪意の詰まった映画が最近は少なくなっているが、この映画を観てちょっとは希望が持てるようになった。忘れていた懐かしい感覚を思い出したような、そんな気持ちにさせてくれてありがとう、ガブリエルNボローニャ。ただ、一言だけ言うと、主演のチューズデイ・ナイトが結構なブスで困った。感想はそれだけです。
ドンキの放火事件のニュースで思い出したのが、なぜかこれ。別に関連性は何一つ無い上に、何年も聴いてなかった一枚である。
シーナはパンクロッカー、などと説明されてもどんな顔をしていいのか分からず、椎名誠や椎名林檎は絶対にパンクではないなぁ、などという、どうでもいいことに思考が傾き、すべてを虚脱させる魔の音楽。
早くて短く簡単。そんな便利そうなキャッチフレーズが付くラモーンズは、本当にパンクロックの基礎を築いたのであろうか? ここにある音は凶暴なまでにいい加減で投げやりなロックンロールでしかないし、ニューヨークで生まれたとは思えないほど田舎クサイ風味に満ち溢れている。ただ、ろくでもない若者が適当にロックを演奏している様子は1stの方が良く伝わってくるので、まずはそっちから入ると攻略できるかも。
ともかく、ラモーンズの音は青春というより、引きこもりのシンナー遊びといった風情である。
ハイテクな感じがするが、機材は今ではもう古いものばかりを使用。しかしここまで完成度の高いポップスも珍しいので、結構聞き込んだ。こういうのも聴いてないと時代の流行に取り残されてしまうのですね。
さて、今現在これを聴きなおしてどう思うかと訊かれても、何とも答えられないというのが正直な意見である。昔、高校の帰りに川崎の工業地帯を意味無く散歩していたときの気分をちょっと思い出すぐらいで、あとはテクノポップだなぁ、という感想しか持てそうも無い。
でも素晴らしいアルバムなんだけどね。うまく伝えられません。ムーンライダーズってポップなんで軽いイメージがどうにも障害になってて、敬遠してしまいがちなのです。
でもたまに間違えて聴いたとき「あっ、いいかも」なんて思えるっていうことは、やっぱり名盤なのかな。しょうゆとソース間違えたけど美味いみたいな気持ちで推薦。
ゲゲゲの鬼太郎に出てくる目玉の親父の存在と、バタイユが醜悪な父親について書いた「眼球譚」の関係について考えてしまうのは、ひとえにこのジャケットのせいであって、決して中身はそこへ接続されていない。
このバンドが凄かったのは、近年大流行したラウド・ロックのプロトタイプとでも言うべきサウンドをいち早く提示していたからであって、そこに秘められた思想性ではまったくない。しかしながら、ここまで簡潔にハードコアともメタルとも違った切り口で、「重さ」を表現する方法を編み出したという点ではかなり評価されるべきバンドだと思う。
で、たまに聴くと意外とまだカッコよく、何回か売り飛ばそうとしたができなかったアルバムが本盤である。へヴィ・ロックが好きだと言うなら一応押さえておいても損は無い一枚。
ピナコテカから出た三角変形ジャケの有名なレコード。で、最近CDで再発されたんだけど、コクシネルってやっぱすごいなぁ、と感動。前衛でもポップでもなく、静かに風景を形作っていく音楽である。
懐かしい景色や、御伽噺のような世界観をぎこちない演奏で構築していくコクシネルの演奏形態は特異であり、いつの時代でも有効なクスリである。
だから、この盤に今から触れても決して遅くないし、聴いて何の感想も持たないというのも有りだと思う。演奏がヘタクソだとか、音質が悪いと言われても、このレコードは個人的に大好きだ。だから、次のボーイズツリーの方も、少し整った音になってしまっていたが、かなり聴き込んだ。
こういう「うた」が素直に響くレコードの良さに世間の注目が集まり始めてから、それに答えるように様々な名盤が再発されたり新譜で出たりといった現象が起きて、こういった音源さえも簡単に聴けるようになった。喜ばしい限りである。
ODBが死んだ。
ウータンの中でも飛びぬけて危ないラップをする天才だったODB。まるで酔っ払いが地下鉄のカベに文句を言っているような、極限のぼやきラップをかましてくれた彼が、つい先月亡くなった。
オール・ダーティ・バスタードが好きだ、というヒップホップファンが少ないのは、彼のラップがあまりにも自然体で、飾りっ気の無い素朴な性質のものであったからだと思う。政治や世の中への不満をぶつけるわけでも無く、愛だの恋だのをわめくでも無く、ODBは自分と対話し、それをマイクを通じて拡大してみせただけだった。
トラックも奇怪だし、ラップが意味不明の呂律が回っていない状態なのだから、一般的な支持を得られなかったのにも頷けるが、個人的にODBの奇妙なスタイルが好きだったし、死んでしまうにはあまりにも早過ぎた感じがしてならない。
これからODBの追悼盤とかがかなり出ると推測されるが、それらは全部まやかしだ。彼のラップは死とともに終わったのであるし、これ以上掘り返してみても新しい発見など期待できないであろう。僕らはもうあの奇妙なラッパーの新作を二度と聴けないのである。それは重大な喪失であったと思う。
たしか高木完のユニットだったと思う。パンクだけどけっこうニューウェーブ寄りで、ゴジラレコードから出してた。
フレッシュみたいなバンドってもう出てこないと思うし、やろうと思う者もいないだろう。当時の東京だからこそ出来た音というのは、東京ロッカーズの他のバンドもそうだけど、現在再現できそうもない一種独特の感触があり、得体の知れないノスタルジーに支配されている。その乾いた感覚の懐かしさというものは意外に心地よく、ぴりぴりとした都会の夜に飲み込まれていく。フレッシュの音は別に斬新ではないし、フリクション等と比べたら強度も無い。ただ、これはこれでオリジナリティのある日本のパンクだったという事実が重要だ。
こういう盤をなんとなく聴くというのもいいし、それはそれでおきまりの午後である。
工事現場の前で突っ立っている時に聞こえてくる騒音と全く同じなので、昔警備員のバイトをしていた頃のことを思い出して陰鬱な気持ちになる一枚。
TNBの騒音は強烈な物音系ノイズである。つまり、ドカッ、バリバリ、ガシャン、ギギギ、バタンというような音が凶悪に連続するキング・オブ・物音なのだ。こういう音楽を聴いてエキサイトするような奴はロクでもない不良ぐらいなもので、金属バットで通行人を手当りしだいに殴りたくなる衝動にかられる迷惑な音楽である。
きわめてストレートなノイズとして、TNBの功績は評価できる。本作も500枚限定であるが、内容が凄まじい轟音なので、見かけたら即買いしても大丈夫。過去の作品も良いが、最近のTNBの方がより激しさを増していて個人的には気に入っている。
63年作、サイケな特撮SFホラーである。
R・G・ワッソンが 『聖なるキノコ ソーマ』の中で、ベニテングダケこそが古代インドのシャーマニズムで神格化されていたソーマではないか、との仮説を打ち立ててから、キノコに宿る霊性が再び注目され始めた。そして巷には例の「マジックマッシュルーム」が流行り、すぐに規制されるも、その幻覚を誘発する神秘的な側面でのイメージだけが膨れ上がり、いつしかキノコというものの存在が特別視されるようになった。
この映画でのサイケ感覚はドラッギーな幻覚を根にしておらず、シャーマニズムからのインスピレーションが強いような印象を受ける。ストーリーがただのサイケムービーで終わらせずに、追い込まれた人間の穢さや醜さをリアルに描ききっていたことからも、その精神的な作用といった点で、シャーマニズムに類似すると考えられるのだ。
マタンゴを僕は昔台風の日に友人とわざわざレイトショーで観に行ったのだが、このあまりに強烈な展開とクオリティの高い映像に深く感銘を受けた。キノコに対してのイメージが変化したのはこの瞬間である。マタンゴは忘れられない思い出だが、同時に僕の中のキノコ観を一変させてしまったのだ。
正直、個人的に最も影響を受けたのがこのユニットである。というより、スティーブン・スティプルトンのセンスや技術には今でも脱帽する。彼がいなかったら現在の音響系とよばれる音楽も無かったのではないだろうか?
ヒップホップより先にナース・ウィズ・ウーンドに出会ってしまったが故に、サンプリングよりもテープ・コラージュに魅力を感じた。そして、ブリジット・フォンテーヌのレコードの意外な使用方法や、DJプレイの何たるかを徹底的に見せ付けられ、少年だった僕はただただスピーカーの前で呆然とするしか無かった。
NWWが構築したのは、極端なフェティシズムと、ドリフのコントばりに破壊的なインパクトをあわせ持った混沌である。ただし、NWWの音楽は自分の気に入った音を、ただ素直にループさせたりカットアップしてるだけ。ただそれだけなのであるが、そこに組み込まれた尋常じゃない情念めいた気配が不気味に作用し、レコードである、又は音楽であるという線引きを不能にしてしまっているのだ。
このような形態の音を言語的に認識して語ったり理解するのはどうかと思う。カテゴリ的にはノイズ・アバンギャルドのコーナーに置かれることが多いが、実のところはノイズでもなんでもない。そんな、ただひたすら不可思議な曼陀羅絵図を描き続けるNWWの世界を、より多くの人々が聴きこむような柔軟な時代になったらいいと思う。純粋にリスペクト。
マコの19歳の頃のデビュー作。自宅録音の可能性が知りたければまず本作をハードリスニングするべきだろう。
ここで描かれている宇宙は誰のものでもなく、マコはその宇宙を自在に切り取って広げることができる天才だ。200種類もの楽器を使いこなし、鍾乳洞で録音したり、奥さんや猫の声を取り入れたりする姿勢は柔軟というより不定形と言った方がいいのかもしれない。マジカルパワーマコが誰で、どこにいて、どんな人間なのかは関係ない。ここに詰め込まれた音楽の素晴らしさは、他のどんな存在も追いつくことのできない性質のものである。
人は音楽を聴くと、まずそのミュージシャンや作品、または音楽を現在聴いているという前提の思考みたいなものが常に先行してイメージされるわけだが、マコの作品に限っては、そのプロセスが始めから破綻した状態で提示される。つまり、音を聴いているという感覚と、それによって引き出される筈のイメージがあらかじめ封印されていて、マコの作り出した宇宙が聴き手のイメージを侵食してしまうのである。
マジカルパワーマコが宗教家や科学者にならなかったのは、自分自身で宇宙を操ったり創造することのできる人間だったからに違いない。灰野がヴォーカルで参加している「空を見上げよう」などを聴けばわかると思うが、マコは複雑な世界を構築するタイプでは無く、ありのままの宇宙を目の前に広げるような手法で、常に聴き手を圧倒してきたのである。
本盤の他、ポリドールからの三枚と、最近の音響風の楽曲、そしてマムンダッドから突如リリースされた未発表音源集と、どれを聴いてもマコという宇宙がぽっかりと口を開けている。そこに飛び込む勇気さえあれば、簡単に世界を変えることが可能なのだ。
へヴィロックな1st花電車。後の宇宙トランスサウンドも好きだが、思い出深いのはやはり本作。
ファズギターとかなりインパクトのあるヴォーカル。まさにロックである。
初期花電車の魅力は、そのへヴィサイケなサウンドにある。関西でなければ生まれなかったであろう特殊なバンドであるが、もっと一般的な評価を得てもよかったのではないかと思う。
イメージの破壊では無く、むりやり引き出された記憶を変形させてしまうことができたすばらしいバンドである。
かつての歌声とは別人の嗄れ声になり、パワーアップ(?)したマリアンヌ・フェイスフルの出世作。
しかし、これほどまでに人生の苦労というか、疲労感覚を身に纏ったレコードも珍しい。場末のバーで飲んだくれる女の心の荒廃をそのヴォーカルが代弁している。
音的にも当時のニューウェイヴ感覚とうまくリンクし、薄暗い世界観がストレートに浮上。かつてミックジャガーに愛された女は、クスリを経由して全く別の魅力を伴い、シーンへ再来した。しかし、その分失ったものも大きかったのではないだろうか?
色んな意味で凄いと思った。何を考えているのか分からないを飛び越えて、何をやってるのかすらも分からない。
わりとキレイな電子音と、タイトなリズムにシャープかつ広がりのあるギター。ノイの頃もいいけど、これと次の「個人主義」は欠かせない。キャプテントリップから突如として大量にクラウス・ディンガー関連の音源が発表されたが、全て聞く気にはなれないし、金も無いのでまず押さえておきたいのはこの辺ということになる。
この時代のジャーマンロックを後のニューウェイヴやテクノの源流としてとらえても良いと思うが、それ以前に存在としてのインパクトが強烈すぎるために、個々の評価を各自が行わなければ、こういった作品は成仏しきれないだろう。つまりは自由研究の課題としては優秀な材料と言える。
メタルボックス。だけど僕の持ってるやつは缶が錆びてしまって赤錆ボックスと化している。
でも肝心の中身は状態よく保存でき、未だ現役で聴ける。
ジョン・ライドンが行き着いたのがこのような地平だったことは、パンクというカテゴリの持っている虚無感覚の肥大が原因である。つまりはやる気がないフリをするフリ。偽りのニヒリズムを飛び越えた本物の虚無感が鋼鉄の入れ物に詰まっている本作は、若いうちに聴いておきたいアルバムベスト10位以内には必ず入れたい名盤だ。
正直、ピストルズなんか聴かなくても何ら問題はないが、こっちは必聴。パンクでいることの意味や、反抗することの果てにあるものが、ゆったりと首をもたげてこちらを見つめている。逃げられない恐怖と底知れない喪失感に脅えるときは、かならずこれがBGM。
ヒッチコックのサイコと同じで、エド・ゲインをネタにしたスプラッタムービーとしてはおそらく最高傑作。ただ、監督のトビー・フーパーはエド・ゲインにインスピレーションを受けたというより、「サイコ」の方からの影響が濃厚に見える。
ヒッチコックが「サイコ」でバーナード・ハーマンを起用し、あのような不協和音の神経を逆撫でするようなスコアを劇中で効果的に流したのに対し、フーパーは自らアナログシンセをいじくり回し、凶暴な電子ノイズを垂れ流した。
それは、今考えるとフーパー流の「サイコへのオマージュ」だったのかもしれない。
なお、フーパーの音楽はスコアに出来ないし、劇中に爆音で鳴り響くチェーンソーのモーター音と区別するのが困難なため、多分誰からも相手にされていない。
それはそれで良い事だし、いまだにこの映画がキングオブホラーの名を欲しいままにしている事実からも、映画そのものの素晴らしさが損なわなけれさえあればそれで万事OKなのである。
さて、この映画でのみどころは沢山あるが、個人的に気に入っているのはテキサスの家屋をリアルに映した風景としての「悪魔のいけにえ」である。ここでの風景の描かれ方は図抜けており、テキサスの一般的な町並みを完璧なまでに描ききっている。こういった場所で「あのような」出来事が起こるのだから、その相反する二つの対象の奇妙な相乗効果で、恐怖を演出するというフーパーの試みは見事に成就しているのである。
傑作であると言わざるをえない。
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